[憲法・裁判所の組織]法理編 こはるノート。
裁判官にも、任命する人がいます。
任期がある裁判官もいます。
定年だってあります。
けれど。
その仕組みを一つ間違えると、憲法の大事な意味まで取り違えてしまいます。
特に怖いのが、
「十年」
という数字です。
最高裁判所の裁判官にも、十年。
下級裁判所の裁判官にも、十年。
どちらにも登場します。
でも。
同じ十年でも、意味はまったく違うのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
窓から差し込む西日が、机の上の六法全書を赤く染めていました。
私はノートを開きます。
今日の見出しは、
――憲法七十九条・八十条。裁判所の組織。
「……十年」
私は呟きました。
「十年が二つ」
向かいの机で、相馬先輩が新聞をめくっています。
「何をぶつぶつ言ってんだ」
「裁判官の十年です」
「何だそりゃ」
「最高裁判所の裁判官には、十年ごとの国民審査がありますよね」
「ああ」
「下級裁判所の裁判官には、十年の任期がありますよね」
「ああ」
「試験問題で混ぜられたら、絶対に引っかかります」
「お前ならな」
「先輩も昨日、私を引っかけようとしたでしょう!」
「引っかかったのはお前だ」
ぐう。
反論できません。
私は昨日の市役所でのやり取りを思い出しました。
宮田澄江さん。
元小学校教師。
最高裁判所の裁判官の任命と国民審査について、市民会館で勉強会を開こうとしていた女性です。
ところが市役所は、
――司法の権威を傷つける。
――地元の和を乱す。
そんな曖昧な理由で、会館の使用を認めなかった。
私たちは憲法二十一条の集会・表現の自由を中心に、地方自治法二百四十四条、そして憲法七十九条の国民審査制度を踏まえた意見書を提出しました。
結果。
市は不許可を見直し、使用を認めました。
「裁判所の組織なんて」
私はノートを見ました。
「暗記するだけの単元だと思ってたんですけどね」
「違ったか」
「はい」
裁判官を誰が任命するのか。
誰が審査するのか。
何年務めるのか。
その違いには、ちゃんと意味があった。
私は赤ペンを取りました。
「先輩。今日は完璧に整理します」
「勝手にやれ」
「付き合ってください」
「嫌だ」
「所長!」
奥の机で書類を整理していた片桐所長が、顔も上げずに言いました。
「付き合え」
「……はい」
相馬先輩が新聞を畳みました。
強い。
これが裁判所なら、所長は終審裁判所です。
ただし。
この事務所には、上訴制度がありません。
「まず」
私はノートに大きく書きました。
――最高裁判所長官。
「ここ、憲法七十九条だけ読んでいると少し混乱するんですよね」
「なぜだ」
「七十九条には、最高裁判所の長官以外の裁判官は内閣が任命する、とあるからです」
「じゃあ長官は?」
「憲法六条二項です」
私は六法を開きました。
日本国憲法第六条第二項。
天皇は、内閣の指名に基づいて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
「つまり」
私はペンを動かしました。
最高裁判所長官。
内閣が指名。
天皇が任命。
「ここ、超重要です」
「何がだ」
「内閣が任命するんじゃないんです。指名するんです」
相馬先輩が頷きました。
「その違いを聞く問題が出るってことか」
「そうです」
私は続けました。
「じゃあ、長官以外の最高裁判所裁判官は?」
「内閣が任命だろ」
「正解!」
「当たり前だ」
「さらに、天皇が認証します」
最高裁判所の長官以外の裁判官。
内閣が任命。
天皇が認証。
「任命と認証は違うのか?」
相馬先輩が聞きました。
「違います」
私は頷きました。
「任命は、その人をその職に就ける行為。認証は、行われた任命について、天皇が公的に証明する国事行為です」
「つまり」
「認証する人が、任命する人になるわけじゃないんです」
私はノートに大きく書きました。
――任命と認証は別物。
「これを混同すると、最高裁判所の裁判官は全員天皇が任命する、なんて間違いをします」
「お前、昨日やりかけてたな」
「私は長官を内閣任命って答えたんです!」
「もっと悪いじゃねえか」
「そうでした!」
自分で傷口を広げてしまいました。
片桐所長が静かに口を開きます。
「こはる」
「はい」
「天皇が最高裁判所長官を任命する。では、天皇が自由に好きな人物を選べるのか」
「いいえ」
私は即答しました。
「内閣の指名に基づく任命です。天皇に政治的な選択権があるわけではありません」
「そうだ」
天皇の国事行為。
政治的な決定権を持つわけではありません。
誰を最高裁判所長官にするかという実質的な選択は、内閣の指名によって行われる。
「だから」
私は言いました。
「内閣が指名、天皇が任命という役割分担が重要なんですね」
「うん」
「憲法六条と七十九条をセットで見る」
「それを忘れるな」
私は赤ペンで二重丸をつけました。
「次は、最高裁判所の裁判官の任期です」
「十年だろ」
相馬先輩が言いました。
「違います!」
「お、引っかからなかったな」
「今の、わざとですね!」
私はノートに大きく書きました。
――最高裁判所の裁判官には、十年の任期はない。
「じゃあ、いつまで務める」
「法律に定められた定年までです。ただし、罷免などによって退官する場合もあります」
「定年は?」
「七十歳!」
裁判所法第五十条。
最高裁判所の裁判官の定年は七十歳。
これについては昭和六十三年の今も、現代も同じです。
「でも」
私は続けました。
「最高裁判所の裁判官には、国民審査があります」
「そこが昨日の事件だな」
「はい」
私は宮田さんの勉強会の案内をノートに挟みました。
――裁判官は誰が選ぶ? 私たちは何を審査する?
その問いに答える条文。
憲法七十九条第二項です。
「最高裁判所の裁判官は、任命後初めて行われる衆議院議員総選挙の際、国民審査に付されます」
「ああ」
「その後、十年を経過した後初めて行われる衆議院議員総選挙の際、再び審査されます」
「そこに十年が出てくるわけか」
「そうです」
ここ。
非常に大切です。
十年経った日に、必ず審査するわけではありません。
十年を経過した後、最初に行われる衆議院議員総選挙の際です。
そして、その後も同じ仕組みが続く。
「だから」
私は書きました。
最高裁判所の裁判官。
任期十年ではない。
国民審査の周期に十年という数字が登場する。
「じゃあ、十年経ったら自動的に再任されるのか?」
「違います」
「国民審査で信任されたら、新しく十年の任期が始まるのか?」
「それも違います」
私は頷きました。
「国民審査は、任期満了に伴う再任手続ではありません」
「では何だ」
「罷免すべきかどうかを国民が判断する仕組みです」
ここです。
国民が裁判官を直接選ぶ選挙ではありません。
任期を更新する手続でもありません。
すでに任命された最高裁判所の裁判官について、国民が罷免の可否を判断する制度なのです。
「罷免される条件は?」
片桐所長が聞きました。
「投票者の多数が、罷免を可とすることです」
「そうだ」
私はノートに赤線を引きました。
投票者の多数。
これも試験で重要です。
「ちなみに」
私は続けました。
「国民審査の投票では、罷免したい裁判官の欄にバツ印を書きます」
「何も書かなければ?」
「罷免を可としない票として扱われます」
「丸を書いたら?」
「無効になるんですよね」
そう。
少し意外な仕組みです。
罷免したい。
バツを書く。
罷免を求めない。
何も書かない。
丸で積極的に信任を表す方式ではありません。
「宮田さんの勉強会で、ここも説明した方がよさそうですね」
私が言うと、相馬先輩が笑いました。
「お前、すっかり講師気取りだな」
「まだ緊張してます!」
でも。
少しだけ楽しみでもありました。
国民審査について知らない人に、知る機会を届けられる。
昨日まで暗記していた条文が、誰かの判断材料になる。
それは、ちょっと嬉しいことです。
「さて」
私はノートのページをめくりました。
「ここからが八十条です」
「下級裁判所か」
「はい」
憲法第八十条。
下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によって、内閣が任命する。
その裁判官は、任期を十年とし、再任されることができる。
ただし、法律の定める年齢に達したときには退官する。
「……長い」
「この程度で音を上げるな」
「条文は短いんですけど、覚える組み合わせが多いんですよ」
私はノートに書きました。
下級裁判所の裁判官。
最高裁判所が名簿で指名。
内閣が任命。
任期十年。
再任可能。
「まず、最高裁判所が指名して、内閣が任命するんですね」
「そうだ」
「最高裁判所が任命するわけじゃない」
「うん」
「内閣が自由に誰でも任命できるわけでもない」
「そういうことだ」
私は少し考えました。
「これ、面白いですね」
「何がだ」
「最高裁判所は司法機関ですよね」
「ああ」
「内閣は行政機関です」
「そうだな」
「その両方が、裁判官の任命に関わっている」
片桐所長が口を開きました。
「一つ考えてみろ」
「はい」
「下級裁判所の裁判官を、内閣が完全に自由に選べるとしたらどうなる」
「……え?」
「裁判官が、政府にとって都合のいい人物ばかりになる危険がある」
「あっ」
「逆に、任命制度がどうなっているかを知らなければ、司法の独立がどのように守られているかも理解できん」
私は頷きました。
なるほど。
最高裁判所が指名した者の名簿。
内閣による任命。
単なる手続の順番ではない。
裁判官の任命に、司法側が関与する仕組みなのです。
「でも所長」
「何だ」
「名簿に載せる人を最高裁判所が決めるなら、内閣の任命権は意味がないんですか?」
「意味がないわけではない」
「ですよね」
「ただし、内閣の任命権も、最高裁判所による指名という憲法上の枠組みの中で行使される」
ここ、大切です。
裁判官を任命する。
その権限があるからといって、何でも自由にできるわけではない。
権限には、憲法が定めた手続と限界がある。
私はノートに書きました。
――権限があることと、無制限に選べることは違う。
「何か、沢渡課長の話にも似てますね」
私が呟くと、相馬先輩がこちらを見ました。
「どこがだ」
「市に施設管理の権限があっても、好き勝手に不許可にできるわけじゃない」
「ああ」
「内閣に裁判官の任命権があっても、憲法の仕組みを無視して選べるわけじゃない」
所長が頷きました。
「そうだ。権限があるなら、必ずその根拠と限界を確認しろ」
行政書士の仕事にも、つながっていました。
「じゃあ次です」
私は勢いよくページをめくりました。
「下級裁判所の裁判官は、任期十年!」
「さっき聞いた」
「大事なので二回言いました」
「じゃあ三回言っとけ」
「任期十年!」
「うるせえ」
理不尽。
言えと言ったのは先輩です。
私は赤ペンを持ち直しました。
「でも、ここも注意点があります」
「何だ」
「十年経ったら必ず辞めるわけではありません」
「再任できるからな」
「そうです」
憲法八十条は、下級裁判所の裁判官について、再任を認めています。
十年の任期が終わっても、再任されれば引き続き裁判官として務めることができます。
「じゃあ」
相馬先輩が言いました。
「十年務めた裁判官は、必ず再任されるのか」
「いいえ」
「何でだ」
「再任できるという規定と、必ず再任されるという規定は違うからです」
相馬先輩が頷きました。
「そういうことだ」
任期十年。
再任可能。
ただし、自動的に再任されるわけではない。
これが八十条の仕組みです。
「でも」
私は少し眉を寄せました。
「これって、司法の独立との関係で難しくありませんか?」
「どうしてだ」
「裁判官が、政府に不利な判決を出したとしますよね」
「ああ」
「それを理由に再任されない、なんてことがあったら?」
片桐所長が、ゆっくりと帳簿を閉じました。
「いいところに気づいたな」
おお。
褒められました。
相馬先輩。
聞きましたか。
「だからこそ、裁判官の身分保障や司法権の独立という別の憲法上の規定も重要になる」
「憲法七十八条ですね」
「そうだ」
私は思い出しました。
裁判官は、憲法に定められた例外的な場合を除き、その意に反して罷免されない。
行政機関が裁判官の懲戒処分を行うこともできません。
もっとも。
任期満了と再任の問題は、在任中の罷免とは同じではありません。
「つまり」
私は言いました。
「裁判官を任期の途中で辞めさせることと、十年後に再任するかどうかは、区別する必要があるんですね」
「そうだ」
「でも、どちらも司法の独立を考えるうえでは大切」
「そのとおりだ」
私は赤ペンで囲みました。
――下級裁判所の裁判官は十年任期。再任可能。ただし、再任と罷免は別問題。
相馬先輩が私のノートを覗き込みます。
「ずいぶん書いたな」
「これでも短くしたんです」
「一問一答に向かねえな」
「理解してから暗記する派なんです」
「昨日まで間違えてたくせに」
「成長中なんです!」
「続いて定年です」
私はノートに大きく、
――六十五歳と七十歳。
と書きました。
「これも混乱するところですね」
「まず最高裁は?」
「七十歳!」
「高等裁判所は?」
「六十五歳!」
「地方裁判所は?」
「六十五歳!」
「家庭裁判所は?」
「六十五歳!」
「簡易裁判所は?」
「六十五歳!」
「違う」
「……あっ!」
やってしまいました。
勢いで全部同じにしてしまいました。
「簡易裁判所の裁判官は七十歳です!」
「そうだ」
私は頭を抱えました。
「何で簡裁だけ七十歳なんですか!」
「俺に怒るな」
「だって、ここだけ違うんですよ!」
「法律がそう定めている」
「身も蓋もない!」
片桐所長が口を開きました。
「こはる」
「はい」
「定年は憲法に直接、年齢が書かれているのか」
「……いいえ」
「では、どこだ」
「裁判所法第五十条です」
「そうだ」
憲法七十九条と八十条は、法律の定める年齢に達したときに退官する、と規定しています。
具体的に何歳なのか。
その数字を定めているのが、裁判所法です。
「ということは」
私は言いました。
「憲法だけ読んでも、六十五歳とか七十歳って分からないんですね」
「そうだ」
「憲法は定年を法律に委ねている」
「うん」
なるほど。
法律を読むときは、一つの条文だけで完結するとは限らない。
憲法に、
法律で定める。
と書かれていれば、その法律まで確認する必要がある。
「行政書士試験でも、そういう問題が出ますよね」
「ああ」
「憲法上の規定なのか、法律上の規定なのかを混同させる問題」
「そこを見抜け」
私はノートに整理しました。
| 裁判所 | 裁判官の定年 |
| ----- | ------ |
| 最高裁判所 | 70歳 |
| 高等裁判所 | 65歳 |
| 地方裁判所 | 65歳 |
| 家庭裁判所 | 65歳 |
| 簡易裁判所 | 70歳 |
「よし」
私は満足げに頷きました。
「これなら覚えられそうです」
相馬先輩が表を見ました。
「最高裁と簡裁が七十歳か」
「そうです」
「一番上と、身近な簡裁が同じ」
「間の三つが六十五歳」
「覚えやすいじゃねえか」
私は少し考えました。
「最高と簡易は七十。高・地・家は六十五」
「それでいい」
「語呂合わせみたいになりました」
「覚えられりゃ十分だ」
そのとき。
片桐所長が、静かに言いました。
「ただし、一つ忘れるな」
「何です?」
「最高裁判所の裁判官は、七十歳まで必ず務められるという意味ではない」
「あ」
そうでした。
定年までに、退官することもある。
国民審査による罷免。
その他、憲法上認められた罷免など。
そして本人が退官する場合もある。
「定年は、そこまで絶対に身分が保障されるという意味じゃないんですね」
「そうだ」
法律の数字は、覚えれば終わりではありません。
何を意味する数字なのか。
そこまで理解して初めて、使える知識になるのです。
「次は高等裁判所長官です」
私は新しい見出しを書きました。
――高等裁判所長官の認証。
「これ、地味に嫌な論点です」
「何でだ」
「下級裁判所の裁判官の任命方法を覚えたところに、例外みたいなものが出てくるので」
「例外じゃなくて追加の手続だろ」
「あ、そうでした」
相馬先輩。
今日、妙に鋭い。
「下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した名簿によって内閣が任命する」
「ああ」
「そのうち、高等裁判所長官については、天皇の認証も受けます」
「そうだ」
つまり。
高等裁判所長官も、任命するのは内閣。
ただし、任命について天皇の認証がある。
私はそこに赤線を引きました。
「これ、最高裁判所長官と紛らわしいんですよね」
「言ってみろ」
「最高裁判所長官は、天皇が任命します」
「うん」
「高等裁判所長官は、内閣が任命して天皇が認証します」
「そうだ」
「最高裁判所長官も高等裁判所長官も、長官という名前がついているのに、天皇の関わり方が違う」
私は両方を並べました。
最高裁判所長官。
内閣指名 → 天皇任命。
高等裁判所長官。
最高裁判所の指名名簿 → 内閣任命 → 天皇認証。
「うわあ」
「何だ」
「すごく試験問題にされそう」
「実際、大事な違いだ」
片桐所長が言いました。
「言葉を正確に使え」
「はい」
「任命と認証を混同するな。最高裁判所と高等裁判所も混同するな」
「はい」
「条文の制度を、名前の印象で判断するな」
私は大きく頷きました。
法律には、似た名前でも違う制度があります。
むしろ。
似ているからこそ、正確な区別が必要になるのです。
そこまで書いたところで。
私はペンを止めました。
「……所長」
「何だ」
「昨日の事件、少し気になることがあるんです」
「言ってみろ」
「宮田さんの勉強会は、憲法七十九条の国民審査を学ぶ会でしたよね」
「ああ」
「でも、市役所の不許可に対して直接問題になったのは、七十九条じゃなくて二十一条でした」
「そうだ」
私はノートを見つめました。
「じゃあ七十九条は、事件の中でどういう役割だったんでしょう」
片桐所長が、椅子の背もたれに体重を預けました。
「いい質問だ」
おお。
本日二回目。
珍しく褒められる日です。
「七十九条は、最高裁判所の裁判官の任命や国民審査について定めた条文だ」
「はい」
「そこから直ちに、市民会館の使用を請求する権利が生まれるわけではない」
「ですよね」
「今回、集会の自由を直接保障していたのは二十一条だ」
私は頷きました。
憲法二十一条。
集会の自由。
表現の自由。
宮田さんたちが集まって、司法について学び、意見を交換する。
それを守る中心の条文です。
さらに。
地方自治法二百四十四条。
公の施設の利用について、正当な理由のない拒否や不当な差別的取扱いを許さない。
「つまり」
私は整理しました。
「二十一条と地方自治法二百四十四条が、市役所の不許可を争う直接の法的根拠」
「そうだ」
「七十九条は、国民審査について市民が学ぶ意義を示す、憲法上の重要な背景」
「そのとおりだ」
なるほど。
昨日の意見書も、そうなっていました。
七十九条があるから、市民会館を必ず貸せ。
そんな乱暴な話ではありません。
憲法には国民審査という制度がある。
国民がその制度について学び、考え、議論することには、大切な意味がある。
だからこそ、集会の自由に対する制限を、曖昧な理由で正当化することはできない。
そういう論理だったのです。
「それで所長」
「何だ」
「市役所は、公共の福祉を持ち出してきましたよね」
「ああ」
「公共の福祉って、そんなに便利な言葉なんでしょうか」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「便利に使おうとする奴はいるな」
「やっぱり」
「だが、便利だからって何でも通るわけじゃねえ」
そのとおりです。
基本的人権は、無制限ではありません。
他人の権利や公共の利益との調整が必要な場合はあります。
けれど。
公共の福祉。
その五文字を言えば、何でも禁止できる。
そんな仕組みではありません。
片桐所長が言いました。
「こはる。昨日の不許可理由を思い出せ」
「司法への信頼を損なうおそれがある、でした」
「具体的に、何をする集会だった」
「最高裁判所の裁判官の任命制度と国民審査を学ぶ会です」
「危険行為の予定は」
「ありません」
「会館の運営に具体的な支障があるという説明は」
「ありませんでした」
私は顔を上げました。
「だから、不許可という手段が必要だと説明できなかったんですね」
「そうだ」
単に誰かが不快に思っている。
司法を批判する人が出るかもしれない。
それだけで市民の集会を排除するなら、自由な議論は簡単に封じられてしまいます。
「昨日の沢渡課長は」
私は言いました。
「最終的には、それを理解してくれたんですよね」
「理解したというより、法的リスクを正確に計算したんだろうな」
相馬先輩が言いました。
「課長らしいですね」
「あいつは、間違いを認めるのが嫌なんじゃねえ」
「はい」
「根拠のない判断を守るのが嫌なんだよ」
私は少し笑いました。
なるほど。
だから、完璧な意見書を前にすれば、合理的に態度を変える。
それは役所側の人間として、決して悪いことではありません。
むしろ。
法的に問題があると分かったとき、行政が自分の判断を修正できる。
それも、法治国家に必要な姿なのだと思いました。
「そういえば」
私は、ふと思いつきました。
「憲法って、未来でも同じなんですよね」
相馬先輩がこちらを見ました。
「またお前の未来話か」
「はい」
「暇なのか」
「重要なんです!」
日本国憲法。
昭和二十一年公布。
昭和二十二年施行。
そして昭和六十三年。
私が知る現代に至るまで、一度も条文が改正されていません。
「つまり」
私は言いました。
「七十九条も八十条も、未来と同じです」
「へえ」
「最高裁判所長官は内閣が指名して天皇が任命」
「ああ」
「下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名名簿から内閣が任命」
「そうだな」
「国民審査もある」
「うん」
「なのに」
私は少し声を落としました。
「社会の空気は、ずいぶん違うんですよね」
宮田さんが言っていた言葉を思い出します。
――裁判官のことを話して、役所に目をつけられたら困る。
あのとき。
読書会の人たちは、怖がっていました。
裁判官について学ぶこと。
国民審査について議論すること。
それが、まるで国に逆らう行為のように扱われていた。
「でも、憲法は同じなんです」
私は言いました。
「昭和六十三年でも、二十一条はちゃんとある」
「そうだ」
「七十九条の国民審査もある」
「ああ」
「だったら、昭和だから仕方ないって諦める必要はないんですよね」
片桐所長が頷きました。
「法が保障しているものを、世間の空気だけで消してはいけない」
その言葉が、静かに胸に残りました。
もちろん。
昭和の日本で人権保障が何も考えられていなかったわけではありません。
裁判所も、学者も、弁護士も、長い間、表現の自由や司法の独立について議論してきました。
しかし。
法律上の保障があることと、普通の市民がその保障を実感できることは、同じではありません。
条文は変わらなくても。
社会の空気。
行政の運用。
権利への理解。
それらは、時代によって変わっていきます。
「所長」
「何だ」
「私、ちょっと勘違いしていました」
「何をだ」
「憲法って、改正しないと強くならない法律だと思っていました」
所長は黙って聞いています。
「でも、条文が同じでも、その意味を正しく理解して使うことで、人を守れるんですね」
「ああ」
「昨日の宮田さんみたいに」
「そうだ」
私は六法を見ました。
日本国憲法。
文字は、変わっていない。
けれど。
その文字が、誰かの手に渡ることで。
役所の窓口で、一人の市民を守る力になることがある。
それが、少し不思議でした。
「さて!」
私はノートを閉じかけました。
「今日のまとめです」
「ようやく終わりか」
相馬先輩が言います。
「まだです」
「何だよ」
「最終確認テストです」
「俺が出すのか?」
「お願いします」
相馬先輩は面倒くさそうに椅子へ座り直しました。
「じゃあ一問目。最高裁判所長官の任命方法」
「内閣が指名し、天皇が任命!」
「二問目。最高裁判所の長官以外の裁判官」
「内閣が任命し、天皇が認証!」
「三問目。最高裁判所の裁判官の任期」
「十年!」
「……おい」
「あっ!」
私は慌てて口を押さえました。
「違います! 十年の任期はありません!」
相馬先輩が笑いました。
「また引っかかったな」
「反射で答えちゃったんです!」
「それが一番危ねえんだよ」
くっ。
まったくそのとおりです。
「四問目。最高裁判所の裁判官の国民審査はいつだ」
「任命後初めての衆議院議員総選挙のとき! その後は十年を経過した後、初めての総選挙のときです!」
「五問目。国民審査で罷免されるのは?」
「投票者の多数が罷免を可とした場合!」
「六問目。下級裁判所の裁判官は誰が任命する」
「最高裁判所が指名した者の名簿によって、内閣が任命!」
「七問目。高等裁判所長官は?」
「内閣が任命し、さらに天皇が認証!」
「八問目。下級裁判所の裁判官の任期」
「十年! 再任可能!」
「九問目。最高裁判所の裁判官の定年」
「七十歳!」
「十問目。高裁・地裁・家裁の裁判官の定年」
「六十五歳!」
「十一問目。簡易裁判所の裁判官の定年」
「七十歳!」
よし。
今度こそ。
完璧です。
「どうです!」
私は胸を張りました。
相馬先輩は、しばらく黙っていました。
「……三問目」
「はい?」
「間違えただろ」
「訂正しました!」
「本試験で訂正は効かねえぞ」
「厳しい!」
そのとき、片桐所長が言いました。
「こはる」
「はい」
「最後の一問だ」
「まだあるんですか!」
「昨日、なぜ宮田さんの集会を守る必要があった」
私は口を閉じました。
その質問だけは。
さっきまでの暗記問題とは違いました。
私は少し考えました。
「……裁判官について国民が学び、議論する自由があるからです」
「うん」
「最高裁判所の裁判官には国民審査があります。国民が審査するには、制度や裁判官について知り、考えることが大切です」
「そうだ」
「そして、そのための集会や意見交換は、憲法二十一条によって守られています」
所長が頷きました。
「それでいい」
私は、ゆっくりと息を吐きました。
たぶん。
今日、一番大切だったのは、この問題です。
任命。
認証。
任期。
定年。
国民審査。
全部、重要です。
でも。
それらを覚えるだけでは、憲法の意味を理解したことにはならない。
なぜ、その仕組みがあるのか。
それが、どんな権力を制限し、どんな権利につながっているのか。
そこまで考える。
それが、現場で生きる憲法なのだと思いました。
私はノートの最後のページを開きました。
今日の教訓。
一行の覚え書き。
何を書こう。
最高裁判所長官。
内閣指名、天皇任命。
最高裁判所の裁判官。
任期なし、国民審査。
下級裁判所の裁判官。
十年任期、再任可能。
……長い。
これでは一行どころか、三行になります。
「先輩」
「何だ」
「今日の覚え書き、何がいいと思います?」
「俺に聞くな」
「一緒に考えてくださいよ」
「じゃあ、『十年を間違えるな』」
「それだけですか!」
「お前には十分だろ」
「ひどい!」
でも。
確かに、一番混同しやすいところです。
私は少し考えてから、ノートに書きました。
――最高裁は任期なし・国民審査、下級裁は十年任期・再任あり。任命と認証も混同するな。
「どうです?」
「長い」
「一行に収まりました!」
「字を小さくしただけだろ」
「物理的には一行です!」
片桐所長が、静かに笑いました。
私はノートを閉じました。
窓の外では、街灯が一つ、また一つと灯り始めていました。
宮田さんの勉強会は、明日です。
市民会館の一室に、二十人ほどが集まる。
裁判官の任命。
国民審査。
司法の独立。
そんな話をする。
たったそれだけの集会です。
でも。
その集会が開けるようになったことには、意味がある。
誰かが、
「裁判官について市民が議論するのは好ましくない」
と言ったとしても。
憲法は、
「そんなことを理由に、自由を簡単に奪ってはいけない」
と立ちはだかってくれる。
法律は、いつも派手に人を救うわけではありません。
裁判で大勝利することもない。
新聞の一面を飾ることもない。
ただ。
役所の窓口で、一枚の意見書を出す。
それだけで、閉じかけていた扉が開くことがあります。
昨日、宮田さんは笑っていました。
――偉い人たちが、勝手に全部決められないようにする仕組みも、憲法なんですね。
その言葉を、私はたぶん忘れません。
裁判官の任命制度は、単なる人事の決まりではありません。
司法の独立と、民主的な統制。
その両方を考えるための、大切な仕組みなのです。
「こはる」
相馬先輩が立ち上がりました。
「帰るぞ」
「はい!」
「明日の勉強会、遅れるなよ」
「分かってます」
「説明する資料は?」
「作りました」
「質問されたら?」
「答えます!」
「間違えたら?」
「訂正します!」
「よし」
私は荷物をまとめました。
そのとき。
片桐所長が、奥から声をかけました。
「こはる」
「はい?」
「明日、宮田さんの会で最後に一つ伝えてこい」
「何をですか?」
所長は六法を指しました。
「国民審査は、裁判官の人気投票ではない」
「はい」
「裁判官は、世間の顔色を見て判決を出す存在ではない」
「……はい」
「しかし、最高裁判所の裁判官について、国民が罷免の可否を判断する仕組みはある。その両方を伝えろ」
私は頷きました。
「司法の独立と、国民による民主的統制ですね」
「そうだ」
私は微笑みました。
「ちゃんと伝えてきます」
そのとき、相馬先輩が言いました。
「ところで所長」
「何だ」
「うちの見習いにも任期を設けませんか」
「え?」
私は振り返りました。
「十年任期で」
「長いですよ!」
「再任可能」
「行政書士試験に受かるまで十年もかかる前提ですか!」
「定年は七十歳」
「何の制度ですか!」
相馬先輩が笑います。
「片桐事務所裁判官制度」
「私は裁判官じゃありません!」
所長が口を開きました。
「なら、こはるの任命権者は誰だ」
相馬先輩が即答します。
「所長です」
「指名権者は?」
「俺です」
「認証は?」
相馬先輩がこちらを見ました。
「こはる本人」
「本人が認証するんですか!?」
私は呆れました。
「それ、めちゃくちゃじゃないですか!」
片桐所長が静かに言いました。
「だから憲法が要るんだ」
……う。
妙に説得力があります。
私は鞄を抱えました。
「じゃあ、私は国民審査を要求します!」
「何でだ」
「見習いを続けるかどうか、国民に決めてもらいます!」
「誰が投票するんだよ」
「この事務所の全員です!」
「三人しかいねえだろ」
「多数決です!」
相馬先輩がにやりとしました。
「じゃあ俺、罷免にバツ」
「先輩!」
「所長もバツだろ」
「勝手に決めないでください!」
片桐所長が、ぽつりと言いました。
「こはる」
「はい!」
「明日の勉強会で、投票の説明は慎重にしろ」
「……え?」
「国民審査では、罷免したい裁判官にバツをつけるんだ」
私は固まりました。
そして。
「ああああっ!」
事務所に、私の悲鳴が響きました。
「先輩! 今、罷免にバツって言いましたよね!」
「言ったな」
「それじゃ罷免したいって意味じゃないですか!」
「そうだな」
「私を辞めさせたいんですか!?」
「お前が問題を間違えなきゃ考えてやる」
「そんな国民審査、嫌です!」
相馬先輩が大笑いしました。
所長も、ほんの少しだけ口元を緩めています。
私は六法を胸に抱えました。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
どうやら、私の見習い生活には、まだまだ厳しい審査が続きそうです。
ただし。
今日の私は、一つだけ確信していました。
裁判官を任命する仕組みを覚えることは、権力の所在を知ること。
国民審査を学ぶことは、国民に残された判断の機会を知ること。
そして。
その仕組みを自由に学び、語り合える社会を守ること。
それこそが、憲法を知識ではなく、生きた法律にする第一歩なのです。
私はノートの最後に、もう一度だけ書き足しました。
――裁判官の任命は権力の分担、国民審査は民主的統制。司法の独立を守りながら、国民も司法を見つめる。
今度こそ。
今日の、本当の一行の覚え書きです。
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