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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈憲法 配点28点/300点〉 統治

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415/611

[憲法・裁判所の組織]現場編 「裁判官は国が決める。市民は口を出すな」の嘘。最高裁判官の国民審査を封じる役所と、憲法が仕掛けた民主主義の最後の歯止め

挿絵(By みてみん)

 裁判官を選ぶのは、誰でしょう。


 国でしょうか。


 内閣でしょうか。


 天皇陛下でしょうか。


 それとも、私たち国民でしょうか。


 答えは、一つではありません。


 そして。


 その違いを知らないまま、誰かに「黙って従え」と言われたら。


 私たちは、憲法が用意した大切な権利を、自分から手放してしまうかもしれません。



 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


「……裁判官を選ぶ勉強会が、駄目?」


 私は思わず聞き返しました。


 目の前に座っているのは、白髪交じりの女性。


 名前は宮田澄江。


 六十二歳。


 元小学校教師で、現在は町の読書会の世話人をしているそうです。


「はい。市民会館を貸していただけないんです」


「どうしてですか?」


「裁判官について市民が議論するのは、好ましくないと」


「……は?」


 私は首をかしげました。


 裁判官について議論する。


 それの何が問題なのでしょう。


 宮田さんは鞄から一枚の紙を取り出しました。


 市民会館使用申請に関する通知。


 そこには、こう書かれていました。


 ――本件集会は、司法に対する住民の信頼及び地域の秩序に影響を及ぼすおそれがあるため、使用を認めない。


「……地域の秩序?」


 私は紙を二度見しました。


「裁判所の勉強会ですよね?」


「そうです」


「何か、裁判官の悪口を言う会なんですか?」


「違います」


 宮田さんは困ったように笑いました。


「憲法を読む会なんです」


 話を聞くと。


 宮田さんたちは月に一度、市民会館で憲法の勉強会を開いていました。


 これまでは、基本的人権。


 国会。


 内閣。


 地方自治。


 などを取り上げてきたそうです。


 そして次回。


 テーマは裁判所。


 特に、最高裁判所の裁判官がどうやって選ばれるのか。


 国民審査とは何なのか。


 それを住民同士で学ぼうとしていました。


「それで、どうして不許可に?」


 宮田さんは少しためらいました。


「実は、会の案内にこう書いたんです」


 差し出された小さなチラシ。


 そこには大きく、


 ――最高裁判所の裁判官を、あなたは知っていますか?


 とあります。


 その下に、


 ――任命の仕組みと国民審査を学ぶ市民勉強会。


 と書かれていました。


「……普通ですね」


「そうでしょう?」


「むしろ行政書士試験の講義みたいです」


「行政書士試験?」


「いえ、こちらの話です」


 私はチラシをもう一度見ました。


 どこにも特定の裁判官を攻撃する言葉はありません。


 特定の政党を応援する内容もない。


 ただ、制度を学ぶ。


 それだけ。


「でも、市役所の担当者は」


 宮田さんが声を落としました。


「裁判官というのは国が決めるものだ、と」


「はい?」


「市民がその適否を話し合うのは、司法の権威を傷つけると言われました」


 私は固まりました。


 司法の権威。


 地域の秩序。


 市民が議論するのは好ましくない。


 出ました。


 昭和の空気。


 何かにつけて、


 お上に逆らうな。


 偉い人を批判するな。


 波風を立てるな。


 と言われる、あの空気です。


「それで……」


 宮田さんは視線を落としました。


「読書会の人たちも、もうやめようと言い始めているんです」


「どうして?」


「裁判官のことを話して、役所に目をつけられたら困るって」


 その声は、怒りよりも悲しさに近いものでした。


「私たちは、ただ知りたいだけなんです」


 宮田さんは続けます。


「誰が裁判官を任命しているのか。国民には何ができるのか。それくらい、知っていてもいいでしょう?」


 私は答えられませんでした。


 いや。


 答えはあります。


 ありますとも。


 でも。


 この昭和六十三年という時代では。


 正しいことを言うだけで、相手が納得してくれるとは限らない。


 それを私は、何度も思い知らされてきました。



「で?」


 相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。


「市役所は、裁判官の勉強会が気に食わねえと」


「そういうことみたいです」


「馬鹿馬鹿しい」


「先輩、もう少し言葉を選んでください」


「じゃあ、非常に馬鹿馬鹿しい」


「丁寧語をつければいいってものじゃないです」


 片桐所長は、通知書とチラシを並べていました。


「宮田さん」


「はい」


「以前の集会で、騒ぎになったことは?」


「ありません」


「特定の裁判官に対して、脅迫や嫌がらせを呼びかける予定は?」


「そんなことはしません」


「参加人数は?」


「二十人ほどです」


「会館の利用規則に違反する予定は?」


「ありません」


 所長は頷きました。


「分かりました」


 そして私を見ます。


「こはる。何が問題だ」


「表現の自由です」


「それだけか」


「……集会の自由も」


「根拠は」


「憲法二十一条です」


「そうだ」


 憲法二十一条。


 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由。


 市民が憲法を学ぶ。


 裁判所の制度について意見を交換する。


 それは、まさに表現の自由の領域です。


 さらに、市民会館は住民の利用に供される公の施設。


 正当な理由なく利用を拒めるわけではありません。


「だったら」


 私は言いました。


「集会の自由を侵害する不許可だ、と意見書を書けば」


「待て」


 所長が遮りました。


「今回の会のテーマは何だ」


「裁判所の組織です」


「なら、その中身を確認しろ」


「中身?」


「裁判官を誰が選ぶのか。それを正確に説明できなければ、役所の言い分も崩せん」


 私は口を閉じました。


 確かに。


 裁判所について市民が議論できる。


 そう主張するなら。


 裁判官の任命制度について、こちらが間違えていては話になりません。


「こはる」


 相馬先輩がにやりとしました。


「最高裁判所長官は誰が任命する?」


「内閣です!」


「違う」


「……え?」


 しまった。


 反射で答えてしまいました。


「内閣が指名して、天皇が任命します」


「そうだ」


「いや、今のは言い直しただけです」


「一問目で落ちたな」


「本番じゃなくてよかった!」


 相馬先輩が笑います。


 私は慌てて六条を思い出しました。


 最高裁判所長官。


 内閣が指名。


 天皇が任命。


 そして七十九条。


 最高裁判所の長官以外の裁判官。


 内閣が任命。


 天皇が認証。


 この違い。


 試験ではよく問われるところです。


 頭では覚えていたつもりなのに。


 現場で急に質問されると、意外と出てこない。


 資格試験の恐ろしさを、別の意味で感じました。


「じゃあ」


 相馬先輩が続けます。


「最高裁判所の裁判官は、何年任期だ?」


「十年!」


「違う」


「ええっ!」


 またですか。


「十年は下級裁判所の裁判官の任期だ」


「あっ!」


 私は頭を抱えました。


 最高裁判所の裁判官には、下級裁判所の裁判官のような十年の任期はありません。


 法律で定められた定年は七十歳。


 一方、下級裁判所の裁判官は任期十年で、再任も可能。


「では、最高裁判所の裁判官を、国民が直接選挙で選ぶのか」


「選びません」


「じゃあ国民は一切関われねえのか」


「……いいえ」


 私は顔を上げました。


「国民審査があります」


 そこです。


 最高裁判所の裁判官は、任命後初めて行われる衆議院議員総選挙の際に、国民審査に付される。


 その後も、十年を経過した後初めて行われる衆議院議員総選挙の際に審査される。


 国民は。


 その裁判官を罷免すべきかどうか。


 意思を示すことができる。


 投票者の多数が罷免を可とすれば、罷免される。


 そういう制度です。


 その瞬間。


 私の中で、宮田さんの言葉がつながりました。


 ――裁判官というのは国が決めるものだ。


 ――市民がその適否を話し合うのは好ましくない。


「……あれ?」


 私は呟きました。


「おかしくないですか」


「何がだ」


「最高裁判所の裁判官って、国民が審査するんですよね」


「ああ」


「なら、その裁判官がどんな人で、どういう仕事をしているか、国民が調べたり議論したりするのは……」


「当たり前だろ」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「知らねえ裁判官を、どうやって審査するんだよ」


 そう。


 そこです。


 任命するのは国家機関。


 でも。


 最高裁判所の裁判官については、国民による審査という仕組みが憲法に用意されている。


 その制度について学び、意見を交わすことを、役所が曖昧な理由で封じる。


 それでは国民審査の意味が薄れてしまう。


「所長」


 私は顔を上げました。


「今回、憲法七十九条も使えます」


 所長が小さく頷きました。


「ようやく見えたか」



 翌日。


 市役所二階。


 総務課。


「またお越しですか」


 沢渡課長が眼鏡を押し上げました。


「最近、よく会いますね」


「私もそう思います」


「こちらとしては、平穏な一週間を希望しているのですが」


「私たちもです」


「その割には毎回、問題を持ってきますね」


「問題を作っているのは、こちらじゃありません」


 相馬先輩が即答しました。


 今日も始まりました。


 昭和の行政書士事務所と市役所。


 挨拶より先に法的論点が飛び交います。


「宮田澄江さんの、市民会館使用不許可についてです」


 片桐所長が通知書を置きました。


 沢渡課長は目を落としました。


「ああ。憲法勉強会ですね」


「ご存じでしたか」


「担当課から報告を受けています」


「なぜ不許可に?」


「司法に関する集会ですので」


「それが?」


 相馬先輩が言いました。


「司法の独立は、尊重されなければなりません」


 沢渡課長は落ち着いていました。


「裁判官個人への批判が過熱すれば、司法に対する信頼を損なう可能性があります。また、会館周辺には、こうした集会を好ましく思わない方もいらっしゃいます」


「反対している人がいるんですか」


 私は聞きました。


「地元の関係者から懸念は寄せられています」


「具体的には?」


「公的な施設を使って裁判官の適否を議論することに違和感がある、という意見です」


 私は息を飲みました。


 またです。


 地元の意見。


 世間の常識。


 秩序。


 それらが、いつの間にか個人の権利を押しつぶす理由になる。


 沢渡課長が続けました。


「憲法上の権利も無制限ではありません。公共の福祉との調整は必要でしょう」


 来ました。


 公共の福祉。


 便利な言葉です。


 もちろん、本来は重要な概念です。


 他人の権利を侵害したり、公共の安全を具体的に害したりする自由が無制限に認められるわけではありません。


 でも。


「課長」


 私は言いました。


「何が危険なんですか」


「何が、とは?」


「今回の勉強会です」


 私はチラシを置きました。


「二十人ほどが集まって、裁判官の任命制度と国民審査を学ぶだけです」


「それは承知しています」


「暴力を呼びかけるわけでも、裁判を妨害するわけでもありません」


「しかし、司法に対する不信を招く可能性は――」


「不信を招くから、学んではいけないんですか?」


 自分でも、少し声が強くなったと思いました。


 沢渡課長は表情を変えません。


「朝比奈さん。行政には施設管理上の判断があります」


「それは分かります」


「では」


「でも、判断の理由が必要です」


 私は七十九条を開きました。


「最高裁判所の裁判官は、内閣などによる任命の仕組みだけで終わりません」


 沢渡課長が私の手元を見る。


「国民審査ですね」


「はい」


 さすがです。


 この人は、知らないから反対しているわけじゃない。


 むしろ。


 制度を知っているからこそ、争点を見極めようとしている。


「国民審査があることは承知しています」


「なら、課長」


 私は続けました。


「国民は何をもとに、その裁判官を審査するんですか」


「各裁判官についての情報でしょう」


「その情報について、話し合ってはいけないんですか」


「禁止しているわけではありません」


「でも市民会館を使わせない」


「施設管理上の判断です」


「その判断に、具体的な危険の根拠はあるんですか」


 沈黙。


 沢渡課長は少しだけ椅子に深く腰掛けました。


「……現時点では、主として関係者からの懸念です」


 私は頷きました。


「では、資料を見てください」


 机に置いたのは、事前に作成した意見書。


 片桐所長が整えた、余計な感情を一切含まない文書です。


 見出しは、


 ――市民会館使用不許可に関する法的意見書。


 そこには、次のことを整理していました。


 憲法二十一条が保障する集会・表現の自由。


 地方自治法二百四十四条による公の施設の利用。


 そして、憲法七十九条の最高裁判所裁判官国民審査制度。


 私は説明しました。


「今回の集会は、最高裁判所の裁判官の任命と国民審査について、市民が学習するものです」


「ええ」


「国民審査は、憲法が国民に認めた司法に対する民主的な統制の仕組みです」


「それも承知しています」


「その制度を理解するための学習や意見交換を、具体的な支障も確認しないまま制限するのは、集会・表現の自由との関係で重大な問題があります」


 沢渡課長は意見書を読み続けました。


「さらに」


 私は言いました。


「今回、市の判断理由に挙げられているのは、地元関係者の不快感や抽象的な懸念です」


「……」


「会館の管理や他の利用者の権利に、具体的にどのような支障が生じるのか。それが示されていません」


 ここで。


 相馬先輩が口を開きました。


「課長。反対する連中がいるから貸さねえって理屈なら、気に食わねえ集会は反対の声を上げれば全部潰せることになるぜ」


「それは極論です」


「じゃあ、今回は何が違う」


 沢渡課長が黙ります。


 相馬先輩は続けました。


「世間の常識? 地元の和? 俺たちが守ってんのは法律だ」


 室内の空気が少し張り詰めました。


 片桐所長が、静かに口を開きます。


「課長」


「はい」


「司法の独立は大切だ」


「そのとおりです」


「だが、司法の独立とは、市民が裁判所を批判してはいけないという意味ではない」


 沢渡課長の目が、所長に向きました。


「むしろ憲法は、最高裁判所の裁判官を国民審査に付している」


「……ええ」


「それを学ぶ集会を、理由の曖昧なまま排除する」


 所長は意見書の最後の段落を指しました。


「その運用が、憲法二十一条の保障と整合するのか。市として説明できるか」


 沢渡課長は、しばらく何も言いませんでした。


 私は胸の中で、心臓が音を立てるのを感じていました。


 憲法違反。


 その言葉は強い。


 強すぎるくらいです。


 でも。


 私たちは、ただ大声で「違憲だ」と叫んでいるわけではありません。


 行政目的は何か。


 どんな危険があるのか。


 その危険は具体的か。


 不許可という手段が必要なのか。


 より制限的でない方法はないのか。


 そこを一つずつ検討した結果です。


 沢渡課長は書類を閉じました。


「……一点、確認します」


「どうぞ」


「宮田さんの会は、特定の裁判官への嫌がらせを呼びかけるものではないのですね」


「ありません」


「会館の利用規則に反する行為も予定していない」


「はい」


「会の進行について、主催者側で責任を持つ」


「その予定です」


 沢渡課長は頷きました。


「分かりました」


 そして。


「本件の不許可判断について、担当課に再検討を指示します」


「……え?」


 私は思わず聞き返しました。


「再検討、ですか?」


「ええ」


「本当に?」


「朝比奈さん」


「はい」


「私は、法的根拠の弱い不許可処分を守るために仕事をしているわけではありません」


 う。


 言い方が冷たい。


 でも。


 格好いい。


「具体的な危険が確認できず、単に集会の内容に対する不快感が理由なのであれば、不許可を維持することには相応の法的リスクがあります」


 沢渡課長は淡々と続けました。


「公共の福祉という言葉だけでは、そのリスクは解消できません」


 私は思わず相馬先輩を見ました。


 相馬先輩が、わずかに口元を上げます。


「課長。話が早くて助かるぜ」


「できれば、最初から担当課と話を詰めていただきたいものです」


「詰めて駄目だったから来たんだろ」


「……それもそうですね」


 沢渡課長は書類を揃えました。


「ただし、今回の判断は、司法制度についてどのような集会でも無条件に許可するという意味ではありません」


「もちろんです」


 片桐所長が答えました。


「個別の危険や施設管理上の支障があれば、それは別に検討すべきだ」


「その理解でお願いします」


 沢渡課長は眼鏡を直しました。


「憲法上の自由と、施設管理の必要性。どちらも見落とさず判断する。それが行政の仕事です」


 私は小さく息を吐きました。


 この人。


 本当に敵なのか味方なのか、分かりません。


 ただ一つ分かるのは。


 法理で詰めれば、きちんと計算をやり直す。


 そういう人だということです。



 事務所への帰り道。


 私はずっと、あることが気になっていました。


「先輩」


「何だ」


「裁判官って、全員国民審査されるわけじゃないですよね」


「ああ」


「最高裁判所だけ」


「そうだ」


 私は歩きながら考えました。


 最高裁判所の長官。


 内閣が指名し、天皇が任命する。


 最高裁判所の長官以外の裁判官。


 内閣が任命し、天皇が認証する。


 そして、その最高裁判所の裁判官たちに、国民審査がある。


 一方。


 下級裁判所。


 高等裁判所。


 地方裁判所。


 家庭裁判所。


 簡易裁判所。


 その裁判官は、最高裁判所が指名した者の名簿に基づいて内閣が任命する。


 高等裁判所長官には、さらに天皇の認証がある。


 しかし、国民審査の対象にはならない。


「何で違うんでしょう」


 私が聞くと、相馬先輩は肩をすくめました。


「それが制度だからだろ」


「説明が雑です」


「じゃあ、お前が考えろ」


 む。


 投げましたね。


 私は少し考えました。


 最高裁判所は、日本の司法の頂点です。


 憲法判断についても、最終的な判断を行う。


 そこで。


 裁判官が時の政権や世論に振り回されないよう、司法の独立が求められる。


 一方で。


 国民から完全に切り離された存在にもできない。


 だから。


 任命とは別に、国民審査がある。


 そういう構造なのかもしれません。


「先輩」


「何だ」


「裁判官って、国民が直接選ぶわけじゃないけど、最高裁の裁判官には国民が審査する仕組みがあるんですね」


「そうだな」


「司法の独立と、民主的な統制」


「難しい言葉を使うな」


「簡単に言うと」


 私は少し考えてから言いました。


「裁判官は、人気投票で法律を曲げちゃいけない。でも、国民から完全に切り離されてもいけない」


 相馬先輩がこちらを見ました。


「……まあ、そんなところだ」


「褒めました?」


「気のせいだ」


 またそれです。


 この事務所では、褒め言葉はどうやら国家機密らしい。


 三日後。


 宮田さんが、再び事務所を訪れました。


 今度は、少しだけ表情が明るい。


「許可が出ました」


「本当ですか!」


「はい」


 差し出された紙。


 市民会館使用許可書。


 そこには、希望していた日時と部屋が記載されていました。


「市の担当者さんから、連絡がありまして」


 宮田さんは嬉しそうに笑いました。


「今回の内容であれば、通常の会館利用として認められると」


「よかったです」


「ただし、施設の利用規則は守ってください、と」


「それは当然です」


 私は頷きました。


 法律は、何でも好き勝手にしていいという免許ではありません。


 自由には、他人の権利との調整が必要です。


 けれど。


 調整と禁止は違います。


 具体的な危険があるから制限するのと、


 誰かが気に入らないから禁止するのとでは、


 まったく意味が違います。


「それでね」


 宮田さんが鞄から、もう一枚のチラシを取り出しました。


「案内を少し書き直したんです」


 私は受け取りました。


 そこには大きく、


 ――裁判官は誰が選ぶ? 私たちは何を審査する?


 と書いてありました。


「今度は、分かりやすいでしょう?」


「はい」


「最高裁判所の裁判官と、下級裁判所の裁判官の違いも説明する予定なんです」


「それはいいですね」


「あなたたちに教えていただいたことも、少しだけ」


 私は慌てました。


「いえ、私たちは法律上の整理をお手伝いしただけです」


「でも、知らなかったことがたくさんありました」


 宮田さんは言いました。


「最高裁判所の裁判官は、国民が審査できる」


「はい」


「でも、直接選ぶわけではない」


「そうです」


「下級裁判所の裁判官には、任期がある」


「十年ですね。再任もできます」


「最高裁判所の裁判官とは違うんですね」


「はい」


 宮田さんは、しみじみと頷きました。


「不思議ですねえ」


「何がですか?」


「昔、学校で子どもたちに憲法を教えていたんです」


 宮田さんの目が、少し遠くを見ました。


「国民主権とか、基本的人権とか。大切なことだって、何度も話してきました」


「はい」


「でも、裁判官を誰が任命するのかなんて、ほとんど話したことがなかった」


 私は黙って聞いていました。


「憲法って、偉い人たちの決まりだと思っていたのかもしれません」


 宮田さんが笑います。


「でも違うんですね」


「……え?」


「偉い人たちが、勝手に全部決められないようにする仕組みも、憲法なんですね」


 その一言に。


 私は、返す言葉を失いました。


 最高裁判所長官を誰が指名するか。


 誰が任命するか。


 国民審査はいつ行われるか。


 下級裁判所の裁判官の任期は何年か。


 昨日まで。


 私にとっては、全部ただの暗記事項でした。


 行政書士試験。


 憲法。


 統治。


 裁判所の組織。


 覚えれば一点。


 間違えれば失点。


 それだけ。


 でも。


 宮田さんのように、


 裁判所の仕組みを知りたい。


 自分たちにも関わる制度を学びたい。


 そう思う人がいて。


 その人が、市役所から、


 好ましくない。


 と門前払いされた。


 そのとき。


 憲法七十九条は、ただの知識ではなくなった。


 国民審査という仕組みがあるからこそ、


 国民が司法を知り、考え、判断することに意味がある。


 そう主張する根拠になったのです。



 その日の夕方。


 片桐所長が、宮田さんの残していったチラシを読んでいました。


「こはる」


「はい」


「今回、何を学んだ」


 来ました。


 恒例。


 今日の教訓です。


 私は少し考えました。


「憲法七十九条と八十条の違いです」


「それだけか」


「……いえ」


 私は机の上の六法を見ました。


 日本国憲法。


 昭和二十一年公布。


 そして、この昭和六十三年。


 条文は同じ。


 私が生きていた未来とも、まったく同じ。


 でも。


 社会の空気は違う。


 偉い人に逆らうな。


 波風を立てるな。


 国が決めたことに口を出すな。


 そんな言葉が、普通に人を黙らせてしまう。


 私は答えました。


「裁判官の任命制度って、権力を誰に与えるかを決めているだけじゃないんですね」


「続けろ」


「誰か一人に全部の力が集まらないように、役割を分けているんです」


 内閣。


 天皇。


 最高裁判所。


 そして国民。


 それぞれ、憲法に定められた役割がある。


 その仕組みを知ることは、


 単に試験問題を解くためではない。


 権力が、憲法の定める手続によって動いているか。


 それを確かめるためでもある。


「所長」


「何だ」


「私、憲法って、もっと遠い法律だと思っていました」


「遠い?」


「裁判所で違憲判決が出るときだけ、役に立つ法律だって」


 所長は何も言いません。


「でも今日は、裁判をしていません」


「ああ」


「市役所の窓口で、意見書を出しただけです」


「そうだ」


「それで、一つの勉強会が開けるようになった」


 私は小さく笑いました。


「憲法って、意外と身近なんですね」


 片桐所長は、チラシを机に置きました。


「こはる」


「はい」


「憲法を振りかざすだけなら、誰でもできる」


「……はい」


「大事なのは、なぜその権利が保障されているのかを理解することだ」


 私は頷きました。


「今回なら?」


「裁判所の制度について学び、議論する自由を守ること。それが、国民審査という仕組みを実質的なものにすることにもつながる」


 所長は静かに続けました。


「ただし、七十九条があるから集会を何でも許さなければならない、という話ではない。直接の保障は二十一条だ。条文の役割を混同するな」


「はい」


「憲法は、丁寧に使え」


 ……重い。


 でも。


 それが、この人の強さなのだと思いました。


 私はノートの端に、短く書きました。


 ――裁判官を任命するのは国の機関。でも、最高裁の裁判官を審査するのは国民。


 そして、もう一行。


 ――司法の独立は、市民の沈黙を意味しない。


「二行じゃねえか」


 背後から相馬先輩の声。


「いいんです。大事なところなので」


「一行にまとめろ」


「先輩、細かい」


「試験では細かいところが出るんだよ」


 言いながら、先輩が私のノートを覗き込みました。


「じゃあ問題だ」


「え?」


「最高裁判所長官は?」


「内閣が指名、天皇が任命!」


「その他の最高裁判所裁判官は?」


「内閣が任命、天皇が認証!」


「下級裁判所の裁判官は?」


「最高裁判所が指名した者の名簿によって、内閣が任命!」


「高等裁判所長官は?」


「さらに天皇が認証!」


「最高裁判所の裁判官の任期は?」


「ありません! 定年七十歳!」


「下級裁判所は?」


「任期十年、再任可能!」


「定年は?」


「高裁・地裁・家裁の裁判官は六十五歳、簡裁の裁判官は七十歳!」


 よし。


 完璧。


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ最後」


「はい!」


「最高裁判所の裁判官が国民審査に付されるのは?」


「任命後、初めて行われる衆議院議員総選挙のときです!」


「その後は?」


「十年を経過した後、初めて行われる衆議院議員総選挙のとき! その後も同様です!」


「よし」


 私は思わず拳を握りました。


「全問正解!」


「だが」


「……だが?」


「一問目は昨日間違えた」


「昨日のことは水に流してください!」


「裁判官の任命を間違えた奴が、裁判官の勉強会を助けるとはな」


「成長したんです!」


 相馬先輩が笑いました。


 すると奥から、片桐所長が言いました。


「こはる」


「はい」


「もう一問」


「えっ」


 所長は六法を閉じました。


「最高裁判所の裁判官は、国民審査で罷免されることがある」


「はい」


「では、投票者の何人が罷免を可とすれば、罷免される」


「……投票者の多数です!」


「そうだ」


 私は胸を張りました。


「今度こそ完璧ですね!」


 所長は小さく頷きました。


「なら、宮田さんの勉強会で質問されても困らんな」


「……え?」


 私は止まりました。


「ちょっと待ってください」


 相馬先輩が、嫌な笑顔を浮かべています。


「実は宮田さんから頼まれてな」


「何をですか」


「勉強会に、法律の説明をしてくれる人が一人欲しいそうだ」


「……はい?」


「お前、行ってこい」


「えええっ!」


 私は椅子から立ち上がりました。


「む、無理です!」


「さっき全部答えただろ」


「それとこれとは違います!」


「何が違う」


「二十人の前で話すんですよ!?」


「裁判官は国民審査で大勢の目にさらされるんだぞ」


「私は裁判官じゃありません!」


「じゃあ見習い審査だ」


「そんな制度、憲法にありません!」


 片桐所長が、珍しく口元を緩めました。


「安心しろ」


「所長!」


「俺も行く」


「……本当ですか?」


「ああ」


 私は胸をなで下ろしました。


「よかった……」


「ただし、説明するのはお前だ」


「結局そうなるんですか!」


 相馬先輩が大笑いしました。


 窓の外では、夕日が街を赤く染めていました。


 市民会館の前を、自転車に乗った高校生たちが通り過ぎていきます。


 数日後。


 あの建物の一室で、二十人ほどの市民が裁判所について学ぶ。


 最高裁判所長官は誰が任命するのか。


 下級裁判所の裁判官はどう選ばれるのか。


 国民審査とは何なのか。


 そんな、ごく普通の勉強会です。


 でも。


 その普通を守るために、憲法が必要だった。


 私は手元の六法を見つめました。


 日本国憲法。


 昭和二十一年公布。


 昭和六十三年の今も。


 未来の世界でも。


 一字一句、変わらない。


 けれど。


 その言葉が守るものの重さは、人が実際に自由を奪われそうになって、初めて分かることがある。


 裁判官を国が任命する仕組みも。


 最高裁判所の裁判官を国民が審査する仕組みも。


 決して、試験のためだけにあるわけではありません。


 国家権力に関わる制度を、国民が知り、考え、判断できるようにする。


 その自由を守るためにも、憲法は存在しているのです。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「勉強会で間違えたら、どうする?」


「訂正します」


「それでも間違えたら?」


「所長に助けてもらいます」


「じゃあ、所長が間違えたら?」


 私は少し考えました。


 そして。


「……国民審査?」


「所長は最高裁判所の裁判官じゃねえ!」


 事務所に笑い声が響きました。


 どうやら私の理解も、まだまだ再審査が必要そうです。


 ただし。


 所長の定年だけは、七十歳と言って済ませられない気がしました。


 なにしろ、この事務所。


 一番偉い人が、いつまでたっても引退しそうにありませんから。

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