[憲法・司法権の独立]法理編 こはるノート
裁判官が守られているのは、裁判官が偉いからではありません。
裁判官が権力者を恐れずに済むように。
そして。
普通の人が、権力者を恐れずに裁判を起こせるように。
憲法は、裁判官を守っています。
ただし。
その守り方は、驚くほど細かいのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
窓の外では、商店街の街灯が一つ、また一つと灯り始めていました。
机の上には、三冊の六法。
新聞の切り抜き。
市民会館の使用許可書の写し。
そして、私のノート。
今日の見出しは決まっています。
――司法権の独立。
「……重い」
私は呟きました。
「何がだ」
相馬先輩が新聞から顔を上げます。
「テーマです」
「昨日もやっただろ」
「昨日は現場編です。今日はちゃんと整理したいんです」
「また勉強会か」
「はい」
「俺は断る」
「所長」
「付き合え」
奥から片桐所長の声。
即決。
相馬先輩が天井を仰ぎました。
「……うちの所長、独裁者じゃねえのか」
「司法権の独立を学ぶには、ちょうどいい環境ですね」
「お前も大概だな」
私はノートを開きました。
先日の森田修一さんの相談。
駅前再整備をめぐる行政訴訟で、市に不利な判断が示された。
それに対して、一部の市議会議員が裁判官の交代を求める発言をした。
さらに、市民が司法権の独立について勉強会を開こうとしたところ、市民会館の使用を拒否された。
私たちは憲法二十一条などを根拠に意見書を提出し、市は不許可を見直した。
勉強会は無事に開催された。
でも。
私の頭には、一つの疑問が残っていました。
「所長」
「何だ」
「司法権の独立って、どうしてこんなにたくさん条文があるんですか」
片桐所長は帳簿を閉じました。
「一つの条文だけでは守れないからだ」
「……なるほど」
「裁判官に独立しろと言うだけなら簡単だ」
所長は続けました。
「だが、逆らえば辞めさせられる。給料を下げられる。人事で不利益を受ける。そんな仕組みなら、誰が独立できる」
「……できませんね」
「だから、制度が必要になる」
私はペンを握りました。
なるほど。
今日のテーマは、そこです。
「まず、大きく二つに分けろ」
所長が言いました。
私はノートに書きます。
司法権の独立。
一、司法府の独立。
二、裁判官の独立。
「これ、似ていますよね」
「似てるが違う」
相馬先輩が答えます。
「司法府の独立は、裁判所って組織全体の話だ」
「はい」
「裁判官の独立は、裁判官一人ひとりの話だ」
私は頷きました。
司法府の独立。
裁判所という組織が、国会や内閣などから独立して活動できること。
裁判官の独立。
個々の裁判官が、外部から不当な干渉を受けず、独立して職権を行使できること。
「じゃあ先輩、問題です」
「何だよ」
「国会が裁判所に『この事件は必ず市を勝たせろ』と命令するのは?」
「司法権への干渉だな」
「裁判所という組織への介入であると同時に、個々の裁判官の判断への干渉にもなりますね」
「そうだ」
「では、裁判所の上司が担当裁判官に『この事件では市を勝たせろ』と圧力をかけた場合は?」
「裁判官の職権行使の独立を侵す」
「はい!」
ここ。
大事です。
司法権の独立は、政治家や行政機関だけを警戒しているわけではありません。
裁判所の内部から、個々の裁判官に不当な圧力が加わることも問題になる。
「裁判所という組織が独立していても、その中の裁判官が上司の顔色だけで判決を書いていたら意味がない」
私が言うと、片桐所長が頷きました。
「そういうことだ」
私は二つの見出しに、大きな丸をつけました。
――組織の独立と、個人の独立。
両方必要。
「じゃあ、司法府の独立からいきます」
「長くなる予感しかしねえな」
「先輩、今日は試験に出るところです」
「毎回そう言ってるだろ」
「毎回出るんです!」
私は六法を開きました。
まず。
憲法七十七条。
最高裁判所の規則制定権。
「規則……ですか」
私は一瞬、首をかしげました。
「裁判所が規則を作るんですよね」
「そうだ」
「法律を作るのは国会じゃないんですか」
「そこが論点だ」
所長が言いました。
憲法四十一条。
国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。
私はノートに書きました。
――国会中心立法の原則。
原則として、国の法規範を定立する立法は国会を中心に行われる。
でも。
憲法七十七条は、最高裁判所にも一定の規則制定権を認めています。
「例えば」
私は説明しました。
「訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律、それから司法事務処理に関する事項について、最高裁判所が規則を定められます」
「裁判所の仕事を、全部内閣の都合で決められたら困るからな」
「はい」
私は昨日の新聞を思い出しました。
裁判官を替えろ。
市の政策を理解しろ。
政治家が、そんな言葉を口にする。
もし、裁判所の内部規律や司法事務の運営まで、政治部門の気分ひとつで左右できるとしたら。
裁判所は、安心して独立した活動ができない。
「だから、最高裁判所自身が規則を作れるんですね」
「そうだ」
「国会中心立法の原則の例外として説明される」
私は赤ペンで囲みました。
ここは試験で狙われやすいところです。
「でも所長」
「何だ」
「最高裁判所が規則を作れるなら、法律より何でも優先するんですか」
「そう単純ではない」
来ました。
法律あるある。
一つ覚えると、すぐ例外と限界が現れます。
最高裁判所の規則制定権は、憲法で認められた独自の権限。
しかし、規則制定権があるからといって、国会の立法権が消えるわけではありません。
裁判所規則と法律の関係には議論もあります。
そのため、規則なら法律に必ず優先すると覚えてしまうのは危険です。
「つまり」
私はまとめました。
「裁判所が規則を作れるのは、司法府の独立を制度的に支えるため。でも無制限の立法権ではない」
「それでいい」
所長が頷きました。
ちなみに。
七十七条二項では、検察官も最高裁判所の定める規則に従わなければならないとされています。
三項では、最高裁判所が下級裁判所に関する規則制定権を、下級裁判所へ委任できることも定めています。
「裁判所の中のルールまで、ちゃんと憲法が考えてるんですね」
「組織を独立させるってのは、そういうことだ」
相馬先輩が言いました。
「偉そうに独立を宣言するだけじゃ、何も守れねえ」
私は頷きました。
本当に、その通りです。
「次は、憲法八十条一項です」
私はノートに見出しを書きました。
――下級裁判所裁判官の任命。
「先輩、下級裁判所って何ですか」
「最高裁判所以外だろ」
「具体的には?」
「高等裁判所、地方裁判所、家庭裁判所、簡易裁判所」
「正解です!」
「俺を受験生扱いするな」
私は笑いました。
でも。
ここは、受験生が間違えやすいところでもあります。
下級裁判所の裁判官は、誰が任命するのか。
「最高裁判所!」
私は勢いよく答えました。
「違う」
相馬先輩が即答しました。
「……あ」
「ひっかけ問題に自分で引っかかってどうする」
「今のはわざとです!」
「嘘つけ」
正しくは。
最高裁判所が指名した者の名簿によって、内閣が任命します。
指名するのは、最高裁判所。
任命するのは、内閣。
この違いが重要です。
「ここ、絶対に混同しちゃ駄目ですね」
「そうだ」
所長が言いました。
「内閣が任命するからといって、内閣が自由に候補者を選べるわけではない」
「はい」
「最高裁判所が作った名簿が必要になる」
私はノートに矢印を書きました。
最高裁判所が指名。
↓
内閣が任命。
「もし、内閣が好き勝手に裁判官を選べたら?」
相馬先輩が聞きます。
「政権に都合のいい人だけを裁判官にする危険があります」
「だろうな」
「だから、最高裁判所の意思が反映される仕組みにしている」
「そうだ」
ここで、一つ補足。
最高裁判所の裁判官の任命制度は、下級裁判所とは異なります。
最高裁判所長官は、内閣の指名に基づいて天皇が任命する。
その他の最高裁判所裁判官は、内閣が任命する。
つまり、最高裁判所が自分で最高裁判所裁判官全員を選ぶわけではありません。
「最高裁と下級裁判所では、任命の仕組みが違う」
私は赤ペンで書きました。
「これも試験に出そうですね」
「出るだろうな」
相馬先輩が言います。
「お前、さっきから楽しそうだな」
「実際の事件とつながると、条文が面白いんですよ」
市議会議員が裁判官を替えろと言った。
でも。
少なくとも、市議会議員や市長が、裁判官の任命や交代を自由に決められる仕組みではない。
昨日の事件と結びつけると。
制度の意味が、はっきり見えてきます。
「次です」
私は六法をめくりました。
憲法七十八条。
裁判官の身分保障。
「ここが、森田さんの件で一番印象に残りました」
「裁判官を替えろ、って発言か」
「はい」
新聞を机に置きます。
――市政を妨げる判断は看過できない。
――担当裁判官の交代を求めるべきだ。
私は記事を指しました。
「所長。市長や議員が、気に入らない判断をした裁判官を罷免することは?」
「できん」
「行政機関が懲戒処分することは?」
「できん」
私は頷きました。
憲法七十八条。
裁判官は、原則として、公の弾劾によらなければ罷免されない。
ただし、心身の故障のため職務を執ることができないと裁判で決定された場合は別。
さらに同条は、行政機関による裁判官の懲戒処分を禁止しています。
「でも、裁判官が不祥事を起こした場合はどうするんですか」
私が聞くと、相馬先輩が答えました。
「裁判官だから何をやっても許されるってわけじゃねえ」
「そうですよね」
「罷免と懲戒を分けろ」
あ。
そこ、重要です。
罷免。
裁判官の地位を失わせること。
懲戒。
裁判官の規律違反などに対して、法定の制裁を科すこと。
似ているけれど、同じではありません。
私はノートを見直しました。
「裁判官の罷免には、憲法上の厳格な仕組みがある」
「そうだ」
「そして行政機関は、裁判官に懲戒処分をすることもできない」
「そうだ」
所長が言いました。
「懲戒の禁止を軽く見るな」
「はい?」
「裁判官を辞めさせられなくても、行政が戒告や減給を自由にできるならどうなる」
私は考えました。
「……行政に不利な判決を出すたびに、処分されるかもしれません」
「そうだ」
「それなら、裁判官は行政の顔色を見てしまう」
「その危険を断つ」
なるほど。
罷免だけを禁止しても足りない。
行政機関による懲戒も禁止しないと、実質的な圧力が残ってしまう。
「では、裁判官の懲戒は誰が行うんですか」
「司法内部の手続だ」
相馬先輩が答えました。
裁判官の懲戒は、法律に基づき裁判所が行います。
裁判官に対する懲戒と、国会に設けられる弾劾裁判所による罷免は、別の制度です。
裁判官の懲戒には、戒告や過料などの制度があります。
一般の公務員に対する懲戒処分と同じ仕組みで、行政機関が裁判官を停職・減給・免職にできるわけではありません。
「なるほど……」
私は頷きました。
「行政機関が裁判官を懲戒できないこと自体が、司法府の独立を守っているんですね」
「そうだ」
所長が言いました。
「政治部門に対して不利な判断をする裁判官ほど、身分の保障が必要になる」
私は新聞を見ました。
市の政策を妨げる裁判官は替えろ。
もし、その言葉が本当に権力として実行できるなら。
次に担当する裁判官は、どう思うでしょう。
市に不利な判断をしたら、自分も危ない。
そう思ってしまうかもしれない。
だから、独立は必要なのです。
「ここで問題です」
私はペンを持ち直しました。
「裁判官は、絶対に罷免されないでしょうか」
「される場合はある」
相馬先輩が言いました。
「はい」
私はノートに書きました。
裁判官の罷免に関する三つの重要な仕組み。
一つ目。
心身の故障のため、職務を執ることができないと裁判で決定された場合。
二つ目。
裁判官弾劾裁判所による罷免。
三つ目。
最高裁判所裁判官の国民審査による罷免。
「これ、三つ目がひっかけですね」
「どうしてだ」
「国民審査は、最高裁判所の裁判官にだけ適用されるからです」
「そうだ」
所長が頷きます。
最高裁判所の裁判官については、憲法七十九条が国民審査を定めています。
任命後初めて行われる衆議院議員総選挙の際。
その後は、十年を経過した後初めて行われる衆議院議員総選挙の際。
国民による審査を受ける。
投票者の多数が罷免を可とするときは、罷免されます。
「つまり」
私は言いました。
「最高裁判所裁判官の国民審査は、国民が司法に対して民主的な統制を及ぼすための制度でもあります」
「そうだな」
「独立しているからといって、国民から完全に切り離されているわけじゃない」
「その通りだ」
ただし。
下級裁判所の裁判官には、この国民審査制度はありません。
「ここ、大事ですね」
私は赤線を引きました。
――国民審査の対象は、最高裁判所裁判官のみ。
そしてもう一つ。
下級裁判所裁判官には、憲法八十条一項により、十年の任期が定められています。
再任も可能です。
「所長。十年の任期があるなら、十年後に必ず再任されるんですか」
「必ずではない」
「ですよね」
司法権の独立があるからといって、任期制度そのものがなくなるわけではありません。
ただし、任期中に政治権力が気に入らない判断を理由として自由に罷免できるわけでもない。
この違いを押さえておく必要があります。
「次は、報酬です」
私はノートに大きく書きました。
――裁判官の報酬減額禁止。
「給料の話か」
相馬先輩が少し興味を示します。
「急に目が輝きましたね」
「金は大事だろ」
「否定はしません」
憲法七十九条六項。
最高裁判所裁判官の報酬。
憲法八十条二項。
下級裁判所裁判官の報酬。
どちらも、在任中の減額禁止が定められています。
「ここ、最高裁だけじゃないんですよね」
「そうだ」
所長が言います。
「下級裁判所の裁判官にも保障がある」
私は頷きました。
例えば。
ある裁判官が、市に不利な判断を示した。
すると政府が、
あの裁判官の給料を半分にしろ。
と命じる。
そんなことが許されたらどうなるでしょう。
「……裁判官が怖くなりますね」
「そうだ」
「だから報酬を保障している」
「うん」
ここも、司法の独立を経済面から支える仕組みです。
なお、報酬減額禁止の解釈には、裁判官全体を対象とする一般的な減額まで絶対に許されないのかという論点もあります。
ただし、少なくとも政治的な報復として特定の裁判官の報酬を減らすことは、司法権の独立と相容れません。
「これ、国会議員とは違いますね」
私は言いました。
「国会議員の歳費には、憲法上、同じ文言の在任中減額禁止規定はありません」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「つまり、裁判官の報酬保障は、単なる待遇の良さじゃない」
「はい」
「独立のためだ」
私は赤ペンで囲みました。
――報酬保障は、司法権の独立を経済面から守る。
「そして、いよいよ中心です」
私は六法を開き直しました。
憲法七十六条三項。
――すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。
私は声に出して読みました。
「先輩。この『良心』って、どういう意味ですか」
「良心は良心だろ」
「それだと危ないです」
「何がだ」
「例えば裁判官が、『私は個人的にこの人が嫌いだから負けさせる。それが私の良心だ』って言ったら?」
相馬先輩は眉をひそめました。
「そんなもん、許されるわけねえだろ」
「そうです」
私は頷きました。
ここでいう良心は、単なる個人的な好き嫌いや道徳感情ではありません。
裁判官として職務を行う際の、客観的・職業的な良心として理解されます。
裁判官は、自分の政治的好みや私的な感情で自由に結論を出してよいわけではない。
憲法と法律。
そして、裁判で認定された事実。
それらに基づき、独立して判断する。
「つまり」
私は言いました。
「裁判官の独立は、裁判官のわがままを認める制度ではありません」
「そうだ」
「上司や政治家に従わない代わりに、憲法と法律に従う」
「そこだ」
片桐所長が言いました。
「独立とは、何にも拘束されないことではない」
私はペンを止めました。
なるほど。
昨日の私。
裁判官を究極のマイペース職業と呼びました。
……思い出すだけで恥ずかしい。
「それで、昨日の市議会議員の発言に戻るんですけど」
私は新聞を広げました。
「判決が気に入らないという批判は、当然に禁止されるわけではない」
「そうだ」
「でも、裁判官に不当な圧力をかけて、判断を変えさせようとするのは問題」
「その通りだ」
「そして、裁判官は市長や議員の命令ではなく、憲法と法律に従って判断する」
所長が頷きました。
「それが七十六条三項の中心だ」
私はノートに書きました。
――裁判官の良心は、好き嫌いではない。憲法と法律に従うための独立である。
「でも、所長」
私は少し考えました。
「一つ気になるんです」
「何だ」
「裁判官が独立しているなら、最高裁判所の判断にも従わなくていいんですか」
相馬先輩がこちらを見ました。
「また面倒なところを突くな」
「気になるじゃないですか」
裁判官一人ひとりは独立している。
でも。
裁判所には審級制度があります。
地方裁判所。
高等裁判所。
最高裁判所。
上級審の判断が、下級審の裁判に影響することも当然あります。
「上級裁判所の裁判官は、下級裁判所の裁判官に電話して『こういう判決を書け』と命令できるんですか」
「できん」
片桐所長が答えました。
「では、上級審の判断は?」
「法定の手続で効力を持つ」
なるほど。
裁判所内部の上司が、個別事件の結論を恣意的に指図することと。
上訴審が法律に基づいて判断し、その判断が事件の審理を拘束すること。
これは違います。
例えば。
上級審が原判決を破棄し、事件を差し戻した場合。
差戻しを受けた裁判所は、法令の定めるところにより、上級審の判断に拘束されることがあります。
これは違法な干渉ではありません。
審級制度そのものが、法律に基づく裁判の仕組みだからです。
「つまり」
私はまとめました。
「裁判官の独立は、上訴制度を否定するものじゃない」
「そうだ」
「でも、正式な裁判手続を離れて、上司や政治家が結論を指示するのは駄目」
「その区別だ」
片桐所長が頷きました。
私は大きく丸をつけました。
ここ。
かなり重要です。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「お前、昨日の市民会館の件で、司法権の独立を根拠に不許可をひっくり返したと思ってねえか」
「……え?」
私は顔を上げました。
「違うんですか」
「中心になった条文は?」
「憲法二十一条です」
「そうだろ」
あ。
そうでした。
森田さんたちは、司法権の独立について勉強会を開こうとした。
市は、裁判に影響するおそれや地域の混乱を理由に、市民会館の使用を拒否した。
でも。
その使用不許可そのものについて、直接問題になるのは。
集会の自由。
そして、公の施設の利用に関する法令や条例。
「司法権の独立は、勉強会の主題だったんですよね」
「そうだ」
「でも、行政が市民の集会を制限したことを争うなら、憲法二十一条が中心になる」
「そこを混同するな」
私は頷きました。
例えば。
司法権の独立についての勉強会だから、絶対に公共施設を使わせなければならない。
そんな単純な話ではない。
公共施設の管理上、具体的で重大な支障がある場合には、法令に基づく利用制限が認められる余地もあります。
しかし。
裁判所について議論すると地域が揉めるかもしれない。
市の政策に批判的な人が集まるかもしれない。
そんな抽象的な不安だけで、当然に集会を禁止できるわけではありません。
「目的が正当でも、手段が行き過ぎていたら問題になる」
私は呟きました。
「そういうことだ」
所長が答えます。
今回の市民会館使用不許可。
市は、混乱の防止を主張した。
でも。
具体的な妨害予告は確認されていない。
参加人数も施設の定員内。
勉強会の内容は、司法制度について学ぶもの。
裁判官への威圧を目的とするものでもない。
その事情を整理したことで、市は不許可を再検討した。
「……やっぱり憲法って、強いですね」
私は言いました。
「使い方を間違えなければな」
片桐所長が答えました。
「憲法違反だと叫ぶだけなら誰でもできる」
「はい」
「だが、どの権利が、どの行為によって、どう制約されているのか。そこまで示さなければ、実務では通用しない」
私は頷きました。
これが、片桐所長の憲法の使い方です。
感情で振り回さない。
条文を飾りにしない。
事実を積み上げる。
法令と条例を確認する。
行政判断の根拠を検討する。
そのうえで、行政が越えてはいけない線を示す。
だからこそ。
最高法規が、最後の一押しになるのです。
「ここで、昭和と現代の話です」
私はノートのページをめくりました。
「また未来の話か」
相馬先輩が嫌そうな顔をします。
「今回は、法律が変わっていないので安心してください」
「何だそりゃ」
「日本国憲法は、昭和二十一年の公布以来、一度も改正されていないんです」
「今は昭和六十三年だぞ」
「そうでした」
危ない。
未来人の知識が、また口から出てしまいました。
でも。
今回のテーマでは、それがとても大事です。
私はノートに二つの言葉を書きました。
――条文は同じ。
――社会の空気は違う。
「昨日の森田さんの件を見て、思ったんです」
「何を」
「現代でも政治家が裁判所を批判することはあります。でも、この昭和の町では、地元の和とか、偉い人への遠慮とか、そういうものがすごく強い」
「まあな」
「裁判官だって、地域の空気に逆らうのは大変だと思うんです」
相馬先輩は煙草を取り出しかけ、やめました。
「時代がどうだろうと、裁判官は人間だからな」
「はい」
「圧力を感じることはあるだろう」
所長が静かに言いました。
「だから、制度で守る」
私は頷きました。
昭和六十三年も。
現代も。
憲法七十六条三項の文章は同じです。
ただし、人権をめぐる判例や社会の議論は積み重ねられていく。
司法権の独立についても、政治部門からの干渉だけでなく、裁判所内部の人事や個々の裁判官の判断の自由など、多面的に考える必要がある。
そして。
政治家が裁判所の判断を批判することと、司法権の独立を侵すことの線引きは、単純ではありません。
裁判所の判断も、社会的な批判や学問的な検証の対象になります。
それ自体は民主主義社会に必要です。
でも。
批判を口実に、裁判官の身分を脅かす。
政治権力が人事や懲戒を使って、特定の事件の結論を左右しようとする。
それは別の問題です。
「憲法は、裁判所を批判から守る盾じゃない」
私は言いました。
「裁判官の判断を、不当な権力の介入から守る盾なんですね」
所長が頷きました。
「そうだ」
私は最後のまとめに入りました。
司法権の独立。
その中心となるのは、二つの独立。
司法府の独立。
裁判官の独立。
司法府の独立を支える制度として。
最高裁判所の規則制定権。
最高裁判所による下級裁判所裁判官の指名。
行政機関による裁判官の懲戒禁止。
そして、裁判官の独立を支える制度として。
憲法七十六条三項の職権行使の独立。
罷免事由の制限。
報酬保障。
私は書いたものを、ゆっくり読み返しました。
「……多いですね」
「これでも整理した方だろ」
相馬先輩が言います。
「そうなんですけど」
私は机に突っ伏しかけました。
すると。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「森田さんは、何を怖がっていた」
私は顔を上げました。
「裁判官が、偉い人の圧力で辞めさせられることです」
「なぜ怖い」
「裁判官が市の顔色を見るようになったら、普通の市民が市を相手に公平な裁判を受けられなくなるから」
「そうだ」
所長は続けました。
「なら、今まとめた制度は全部、そこにつながる」
私はノートを見ました。
規則制定権。
裁判所の運営を政治権力に完全に握らせないため。
裁判官の指名権。
裁判所側の意思を人事に反映させるため。
行政機関による懲戒禁止。
行政が裁判官に制裁を加えて圧力をかけることを防ぐため。
罷免事由の制限。
気に入らない判決を理由に簡単に辞めさせないため。
報酬保障。
経済的不利益を使って裁判官を従わせないため。
そして。
七十六条三項。
すべて裁判官が、その良心に従い独立して職権を行使し、憲法と法律にのみ拘束されるため。
「……つながりました」
私は呟きました。
昨日までは、バラバラの暗記事項でした。
でも今は違う。
全部が、一つの目的に向かっている。
裁判官が権力者の顔色を見ずに判断できること。
そして。
普通の人が、権力者を相手にしても公平な裁判を求められること。
「だから、こんなに細かく守っているんですね」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
「最後に確認するぞ」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「司法権の独立は何種類だ」
「司法府の独立と、裁判官の独立です」
「裁判官が従うのは?」
「憲法と法律です」
「良心ってのは?」
「個人的な好き嫌いではなく、裁判官としての職業的・客観的な良心です」
「下級裁判所の裁判官を指名するのは?」
「最高裁判所です」
「任命するのは?」
「内閣です」
「裁判官の懲戒を行政機関ができるか」
「できません」
「国民審査の対象は?」
「最高裁判所裁判官だけです」
「報酬保障は最高裁だけか」
「いいえ。下級裁判所の裁判官にもあります」
相馬先輩が頷きました。
「よし」
「やった!」
「じゃあ最後の問題」
「はい!」
「裁判官が独立しているなら、上級審の判断を無視してもいいのか」
「駄目です。正式な上訴審の判断には、法律に基づく効力があります。独立は、法定の審級制度を無視していいという意味ではありません」
相馬先輩が黙りました。
「……何です?」
「いや」
「間違えました?」
「合ってる」
「褒めてくださいよ!」
「調子に乗るな」
私は笑いました。
でも、嬉しかったのです。
条文を覚えるだけではなく。
なぜその制度が必要なのか。
どんな危険から守るためなのか。
それが、ようやく分かってきたから。
私はノートの最後のページを開きました。
今日の一行の覚え書き。
少し考えます。
司法府の独立。
裁判官の独立。
政治権力からの干渉。
身分保障。
報酬保障。
全部を一行にするのは、なかなか難しい。
「また長くなるぞ」
相馬先輩が言いました。
「分かってます」
「お前の一行は信用できねえ」
「今日は短くします!」
私はペンを走らせました。
――司法権の独立は、裁判所を権力から守り、裁判官を身分と報酬で守り、国民の公正な裁判を守る。
「……長い」
相馬先輩が言いました。
「まだ一行です!」
「字が小さすぎる」
「内容が大事です!」
私は少し考え直しました。
そして。
その下に、もう一度書きました。
――司法の独立は、裁判官の特権ではなく、国民の公正な裁判を守る盾。
相馬先輩が、しばらく黙っていました。
「……それだな」
「え?」
「そっちにしろ」
「褒めました?」
「気のせいだ」
またです。
この事務所、誰も素直に褒めてくれません。
私は笑いながら、ノートを閉じました。
窓の外では、すっかり日が落ちていました。
駅前再整備の工事看板。
市役所の建物。
遠くには、裁判所へ続く道。
森田さんたちの勉強会は、無事に終わりました。
けれど、訴訟はまだ続いています。
市が勝つかもしれない。
住民が勝つかもしれない。
私には分かりません。
そして。
どちらが勝つべきかを、私たちが裁判官に命令することもできません。
大切なのは。
誰が勝つかではなく。
誰が判断するか。
何に従って判断するか。
そこなのです。
市長でもない。
議員でもない。
世間でもない。
憲法と法律に基づいて、独立した裁判官が判断する。
だからこそ。
行政が間違えたとき。
政治家が間違えたとき。
普通の人が最後に訴える場所が残される。
それが司法権の独立。
昭和六十三年。
世間の目が重い時代。
地元の和が、個人の自由より優先されがちな時代。
そんな時代だからこそ。
憲法の条文は、強く光るのかもしれません。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「明日、裁判所へ行くぞ」
「え?」
私は顔を上げました。
「裁判所ですか?」
「ああ。別件の記録を確認する」
「私も?」
「見習いだろ」
「……はい!」
私は思わず立ち上がりました。
裁判所。
あの、司法権の独立が守られている場所。
憲法七十六条三項の世界。
何だか、少し緊張します。
「所長」
「何だ」
「裁判所へ行ったら、裁判官に会えますか?」
「用件による」
「司法権の独立について、質問してみたいです!」
相馬先輩が吹き出しました。
「やめろ!」
「え?」
「裁判官は、お前の勉強相手じゃねえ!」
「でも!」
「裁判所は学校じゃねえんだぞ!」
私は少し考えました。
「じゃあ、傍聴席で勉強します」
「それならいい」
所長が頷きました。
よし。
明日は裁判所見学。
……ではなく、業務です。
私は慌ててノートを鞄にしまいました。
そのとき。
「こはる」
所長がもう一度呼びました。
「はい」
「明日は八時集合だ」
「……早いですね」
「記録確認の前に準備がある」
「分かりました」
「遅刻するな」
「はい」
そこで私は、ふと思いました。
裁判官には、職権行使の独立がある。
でも。
行政書士見習いの私には、独立がないのでしょうか。
「所長」
「何だ」
「見習いにも、職権行使の独立ってありませんか」
相馬先輩が机を叩いて笑いました。
「まだ言ってんのか!」
「だって、憲法で保障されてるんですよ!」
「裁判官の話だ!」
「でも私だって、良心に従って――」
「明日、遅刻しないように早く寝ろ!」
正論。
またしても正論です。
私は肩を落としました。
どうやら。
司法権の独立は、裁判官を政治権力から守ってくれますが。
行政書士見習いを、所長の業務命令から守ってくれるわけではないようです。
……残念。
でも。
鞄の中のノートには、今日覚えた大切な一行があります。
――司法の独立は、裁判官の特権ではなく、国民の公正な裁判を守る盾。
私は、それをもう一度心の中で読みました。
そして、少しだけ胸を張りました。
明日、裁判所へ行ったら。
きっと、今までとは違う目で法廷を見られる気がします。
法律は、机の上で覚えるだけでは分からない。
誰かが困っている現場に立って。
初めて、その強さが分かる。
今日の私は、また一つ。
憲法が好きになりました。
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