[憲法・司法権の独立]現場編 「市長に逆らう裁判官は替えてもらう」の罠。政治家も役所も口を出せない、法廷を守る憲法の防波堤
裁判官は、誰の顔色を見て判決を書くのでしょうか。
市長でしょうか。
国会議員でしょうか。
それとも、世間の声でしょうか。
もし、偉い人に逆らう判決を書いた裁判官が、翌日には職を失うとしたら。
そんな裁判所で、普通の人が国や役所を相手に勝てるでしょうか。
答えは、たぶん簡単です。
だからこそ。
憲法は、裁判官に少し変わった命令をしています。
――誰の顔色も見るな。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「……裁判官を替えろ、ですか?」
私は思わず聞き返しました。
向かいに座っている男性が、苦々しい顔で頷きます。
「そう書いてあるんです」
相談者は、森田修一さん。
五十二歳。
市内で小さな製材所を営む男性でした。
手には、折り目だらけの地方新聞。
見出しが大きく印刷されています。
――市議会有志、駅前再整備訴訟の担当裁判官に疑問。
――「市政を妨げる判断は看過できない」
「……穏やかじゃないですね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞を取り上げました。
「穏やかどころじゃねえな」
記事には、こうありました。
市が進めている駅前再整備事業。
その一部をめぐって、土地所有者らが市の処分を争い、行政訴訟を起こしていた。
そして先日。
裁判所が、市側の主張を退ける内容の判断を示した。
ただし、それは訴訟の途中で下された判断であり、本案の最終判決ではない。
市側にも、まだ争う余地はある。
ところが。
その判断に腹を立てた一部の市議会議員が、記者会見を開いた。
問題は、その発言でした。
『地元の事情を理解しない裁判官に、公正な判断ができるのか』
『市民生活に重大な影響を与える以上、裁判官の交代を求めるべきだ』
『必要なら関係機関に働きかける』
「……これ、本当に言ったんですか」
「新聞に載るくらいですから」
森田さんはため息をつきました。
「私は、その裁判を起こした人たちと昔から付き合いがあるんです」
「原告の方と?」
「ええ。市が悪いのか、土地の持ち主が悪いのか、まだ私には分かりません。ただ……」
森田さんは新聞を握り直しました。
「裁判で市に不利な判断が出たら、裁判官を替えろって。そんなことが許されるなら、裁判なんて何のためにあるんですか」
私は言葉を失いました。
まったく、その通りです。
ただし。
法律の世界では、怒りが正しくても、それだけでは答えになりません。
「森田さんは、その発言について何か行動を?」
「市民で勉強会を開こうと思ったんです」
「勉強会?」
「司法の独立についてです」
おお。
ずいぶん真面目なテーマです。
行政書士試験の憲法でも、眠くなりやすいところ。
司法権の独立。
裁判官の独立。
最高裁判所の規則制定権。
裁判官の身分保障。
受験生だった頃の私は、正直こう思っていました。
――裁判官の内部事情なんて、行政書士の仕事と関係なくない?
今、その考えを全力で訂正したい。
「市民会館の小会議室を借りようとしたんです」
森田さんが続けます。
「ところが、断られまして」
「……断られた?」
「はい」
森田さんがもう一枚の紙を取り出しました。
市民会館使用不許可通知。
理由欄には、こうあります。
――現在係争中の事件に関連し、地域社会の秩序及び公共の福祉に影響を及ぼすおそれがあるため。
私は三回読みました。
一回目。
意味を考えました。
二回目。
理由を探しました。
三回目。
腹が立ちました。
「公共の福祉……」
便利ですね。
本当に便利です。
役所が困ったときに出す、万能の魔法の言葉みたいです。
「勉強会では、何をする予定だったんですか」
「憲法の話を聞くんです。法律に詳しい元教師の方にお願いしています。裁判官を攻撃する会ではありません」
「裁判の結論について賛否を採るとか?」
「しません」
「裁判官の自宅へ押しかけるとか?」
「まさか!」
「署名を集めて担当裁判官を辞めさせようとか?」
「そんなことをしないための勉強会です!」
ですよね。
森田さんは、少し身を乗り出しました。
「裁判官だって人間でしょう。偉い人から替えろ替えろと言われたら、次は怖くなるんじゃないですか」
「……はい」
「だから、どういう仕組みで守られているのか、みんなで知りたいんです」
私は通知書を見直しました。
裁判官を政治的圧力から守ろうとする勉強会が。
司法の独立を理由に。
市民会館から締め出される。
……何でしょう。
この、法律が自分の尻尾を噛んでいるような状況は。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「何が問題だ」
「市民会館の使用不許可です」
「それだけか」
「……それだけではありません」
私は新聞を見ました。
「裁判官に対する政治的圧力です」
所長が頷きました。
「ただし、分けて考えろ」
「はい?」
「市議会議員の発言そのものと、市の使用不許可処分は別だ」
あ。
確かに。
政治家だって、裁判所の判断を批判する自由はあります。
判決に納得できないと言うことまで、憲法が禁じているわけではありません。
問題は。
批判を超えて、人事や懲戒をちらつかせ、裁判官の判断を左右しようとすること。
そして。
それとは別に、市が市民の勉強会を妨げていること。
「まず、私たちが直接扱うのは使用不許可の方ですね」
「そうだ」
「市民会館の条例と、不許可理由を確認します」
相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。
「それから、憲法だ」
「はい」
「司法権の独立ってのは、役所の気分で使える言葉じゃねえぞ」
私は頷きました。
でも。
一つ、気になることがありました。
「所長。そもそも、裁判官の独立って、憲法のどこでしたっけ」
相馬先輩がこちらを見ます。
「お前、受験生だろ」
「確認です!」
「何条だ」
「……七十六条三項」
「知ってるじゃねえか」
「条文番号は覚えてます。でも、現場で使うのは初めてなので」
私は六法を開きました。
日本国憲法。
第七十六条第三項。
――すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。
そこを読んだ瞬間。
私は少し笑ってしまいました。
「……同じだ」
「何がだ」
相馬先輩が聞きます。
「条文です」
「そりゃ同じだろ」
そう。
昭和六十三年。
日本国憲法の条文は、現代とまったく同じです。
行政不服審査法みたいに、制度改正を警戒しなくていい。
行政事件訴訟法みたいに、出訴期間や被告適格の違いで頭を抱えなくていい。
憲法の条文は、ずっと変わっていない。
でも。
私は新聞を見ました。
市政に逆らう裁判官は替えろ。
地元の事情を理解しろ。
市民の和を乱すな。
そんな空気が、当たり前のように漂っている。
「……条文は同じなのに」
私は呟きました。
「空気が重すぎます」
片桐所長が静かに答えました。
「だから憲法が要る」
短い言葉でした。
でも。
なぜか、胸に残りました。
市役所二階。
総務課。
「また片桐先生ですか」
沢渡課長は、私たちを見るなり眼鏡を直しました。
「今日は何でしょう」
「市民会館の使用不許可について」
片桐所長が通知書を置きます。
沢渡課長は一瞥しました。
「ああ。森田さんの件ですね」
「理由を確認したい」
「記載の通りです」
出た。
役所の鉄板回答。
記載の通り。
私は身を乗り出しました。
「司法の独立について勉強する会ですよね」
「承知しています」
「それが、なぜ公共の福祉に反するんですか」
沢渡課長は、落ち着いた声で答えました。
「現在、市と住民の間で訴訟が続いています」
「はい」
「市議会議員の発言もあり、地域では相当に感情的な対立が生じています」
「それは分かります」
「市民会館は公共施設です。そこで係争中の事件を題材に集会を開けば、裁判所への圧力と受け取られるおそれもあります」
なるほど。
一応、筋は通っています。
裁判官への不当な圧力を避けたい。
公共施設の管理者として紛争を防ぎたい。
目的自体は理解できる。
でも。
「課長」
私は言いました。
「森田さんたちは、裁判官に特定の判決を要求していません」
「現時点では、そう聞いています」
「裁判官の罷免を求める集会でもありません」
「ええ」
「では、具体的に何をすることが問題なんですか」
「社会的な影響です」
「具体的には?」
「対立の激化です」
「会議室で憲法について話すだけでも?」
沢渡課長は少し黙りました。
そして言いました。
「朝比奈さん。物事は法律論だけでは動きません」
「……はい?」
「地元の人間関係があります。商店会もあります。再整備に賛成する方、反対する方、それぞれの生活があります」
「それはそうです」
「市としては、不要な混乱を避けたいのです」
私は息を吸いました。
分かる。
気持ちは分かります。
市役所は裁判の当事者でもある。
地元の対立は深刻。
市民会館で集会が開かれ、騒ぎになったら面倒でしょう。
でも。
それは。
「課長」
「何でしょう」
「面倒だから、憲法の勉強会をさせないということですか」
沢渡課長の眉が少し動きました。
「そうは申し上げていません」
「では、具体的な危険を示してください」
「危険が起きてからでは遅い場合もあります」
「もちろんです。でも、危険があると言うだけで何でも禁止できるなら……」
私はそこで止まりました。
頭の中に、昭和の空気が押し寄せます。
地元の和。
世間の目。
役所への遠慮。
裁判官だって、そういう空気の中で暮らしている。
政治家も、役所も、新聞も。
みんなが裁判官の判断に口を出す。
そして、普通の市民が司法の独立について話そうとすると。
今度は、騒ぎになるからやめろ。
何ですか、それ。
まるで。
偉い人が騒ぐのは仕方ない。
普通の人が疑問を口にするのは迷惑。
そう言われているみたいです。
私は拳を握りました。
そのとき。
「朝比奈」
相馬先輩が言いました。
「腹を立てるな」
「……はい」
「条文を出せ」
私は顔を上げました。
「ここは感情で押す場所じゃねえ」
相馬先輩が沢渡課長を見ます。
「世間の常識? 俺たちが守ってんのは法律だ」
そして。
「課長。裁判官が誰の言うことを聞くか、分かるよな」
沢渡課長は表情を変えませんでした。
「憲法及び法律です」
「そうだ」
相馬先輩が六法を開きました。
「憲法七十六条三項だ」
私は続けました。
「すべて裁判官は、その良心に従って独立して職権を行使し、憲法と法律にのみ拘束されます」
「承知しています」
「では、市長は裁判官に命令できますか」
「できません」
「市議会議員は?」
「できません」
「市に不利な判断をしたという理由で、裁判官を辞めさせられますか」
「できません」
沢渡課長は即答しました。
さすがです。
この人は、知らないふりをして法律を踏み倒すような相手ではありません。
だからこそ。
ここからが勝負でした。
「では、課長」
私は一歩踏み込みました。
「森田さんの勉強会は、司法権の独立を侵害する行為ですか」
「そのように断定したわけではありません」
「なのに、市民会館を使わせない?」
「公共施設の管理上、混乱の予防も考慮する必要があります」
「はい。でも、その判断にも憲法上の限界があります」
沢渡課長の目が、わずかに細くなりました。
私は続けました。
「森田さんたちには、憲法二十一条の集会の自由があります」
会議室で集まり、憲法について話す。
行政裁判について議論する。
政治家の発言を検証する。
それは、民主主義社会にとって重要な活動です。
「公共施設だから、どんな集会でも無条件に使わせなければならないとは言いません」
「その通りです」
「でも、集会の内容が市にとって都合が悪いとか、反対する人がいるというだけで拒否することはできません」
私は通知書を指しました。
「森田さんたちが、具体的に施設の管理へどんな支障を生じさせるのか。その根拠がありません」
沢渡課長は答えません。
「司法権の独立を守るという目的なら、裁判官への不当な働きかけを防ぐべきです。司法権の独立について市民が学ぶことまで禁止するのは、目的と手段がかみ合っていません」
そして。
私は新聞を置きました。
「そもそも、市議会議員が裁判官の交代を求める発言をしている。そのこと自体が、司法の独立を考える必要性を示しています」
部屋が静かになりました。
沢渡課長は新聞に目を落としました。
「……朝比奈さん」
「はい」
「政治家が裁判所の判断を批判する自由もありますよ」
「もちろんです」
「司法権の独立は、裁判所を批判してはならないという意味ではありません」
「分かっています」
私は頷きました。
「でも、批判することと、裁判官の人事や身分に圧力をかけて判断を変えさせようとすることは違います」
沢渡課長が、ゆっくりと顔を上げました。
「……その区別は必要ですね」
事務所へ戻った私は、さっそく法的意見書の起案に取りかかりました。
ところが。
「所長」
「何だ」
「司法権の独立って、七十六条三項だけでいいですか」
片桐所長は首を横に振りました。
「足りん」
「ですよね」
「制度全体を見ろ」
私は六法をめくりました。
司法権の独立。
それは大きく二つ。
司法府そのものの独立。
そして、裁判官一人ひとりの独立。
裁判所という組織が政治権力から独立していること。
裁判官個人が、外からの圧力を受けずに判断できること。
この二つが揃わなければ、意味がありません。
「例えば」
相馬先輩が言いました。
「裁判官が役所に不利な判決を出したら、役所が懲戒処分できるとしたらどうなる」
「……裁判官、怖くて役所に逆らえません」
「そうだろ」
私は憲法七十八条を開きました。
裁判官の懲戒処分は、行政機関が行うことはできない。
明確です。
ものすごく明確です。
「市長が裁判官を減給したり、戒告したりすることはできない」
「そういうことだ」
「そもそも罷免も、憲法上の厳格な仕組みがある」
「ああ」
裁判官は、気に入らない判決を書いたからといって、政治家や行政機関に簡単に辞めさせられる存在ではありません。
「下級裁判所の裁判官の任命は?」
所長が聞きました。
「憲法八十条一項です」
私は答えました。
「最高裁判所が指名した者の名簿によって、内閣が任命します」
「内閣が勝手に好きな人間を選べるか」
「その名簿を無視して任命することはできません」
「そうだ」
なるほど。
裁判官の任命には内閣が関わる。
けれど、裁判所側の意思を反映させる仕組みがある。
最高裁判所が名簿を作る。
内閣はその名簿から任命する。
司法府の独立を守るための制度です。
「それから、七十七条」
私はページをめくりました。
最高裁判所の規則制定権。
訴訟手続や裁判所内部の規律などについて、最高裁判所自身が規則を定められる。
「裁判所の仕事の仕方まで、全部政府が自由に決められるわけじゃないんですね」
「そうだ」
所長が言いました。
「司法の独立は、気合いで守るものじゃない」
「……気合い?」
「制度で守る」
私はペンを止めました。
ああ。
そういうことか。
裁判官に向かって、
勇気を出せ。
政治家に逆らえ。
良心に従え。
そう励ますだけでは足りない。
逆らったらクビになるなら、勇気なんて続きません。
給料を下げられるなら、生活が壊れます。
人事を握られているなら、将来が怖くなります。
だから憲法は。
裁判官の独立を精神論に任せていない。
任命。
身分。
懲戒。
報酬。
規則制定。
そういう具体的な制度で、外からの圧力を防いでいる。
「……すごいですね」
私は呟きました。
「何がだ」
相馬先輩が聞きます。
「司法権の独立って、裁判官が偉いから守られているわけじゃないんですね」
「当たり前だ」
「普通の人が、偉い人を相手に裁判できるようにするためなんだ」
片桐所長が、静かに頷きました。
「そうだ」
私は意見書の表題を書きました。
――市民会館使用不許可処分に関する法的意見書。
その下に、憲法二十一条、七十六条三項、七十八条などの条文を書き込みました。
ただし。
司法権の独立を侵害しているから直ちに使用不許可が違憲だ、という単純な書き方はしません。
司法権の独立は、今回の集会で扱う主題。
使用不許可そのものを審査する中心は、集会の自由と公の施設の適正な利用です。
条例上の不許可要件。
具体的な危険の有無。
施設管理上の必要性。
より制限的でない対応の可能性。
それらを整理していく。
そして最後に。
今回の集会は、司法権の独立を侵害する活動ではなく、司法制度について市民が理解を深めるための活動である。
したがって、抽象的な混乱のおそれのみを理由とする使用不許可は、憲法二十一条に照らして重大な疑義がある。
――そう結びました。
「所長」
「何だ」
「できました」
片桐所長が受け取ります。
読みます。
一枚。
二枚。
三枚。
「……長い」
「すみません」
「だが、論点は外していない」
お。
褒められた。
「相馬」
「はいよ」
「条例と施設利用基準をもう一度確認しろ。過去の使用許可例も調べておけ」
「了解」
「こはる」
「はい」
「この意見書に、勉強会の具体的な実施計画を添えろ」
「実施計画?」
「参加予定人数、内容、警備上の配慮、会場の使用方法」
あ。
なるほど。
抽象的に憲法を振りかざすだけじゃない。
市が懸念している危険が現実に存在しないことを、事実で示す。
私は頷きました。
「分かりました」
所長は意見書を机に置きました。
「憲法を抜くのは最後だ」
「はい」
「だが、抜くなら確実に抜け」
その声が、いつもより少しだけ低く聞こえました。
二日後。
市役所総務課。
沢渡課長の机の上に、私たちの意見書が置かれました。
添付資料。
勉強会の進行表。
講師の略歴。
参加予定者数。
会場管理計画。
条例と使用基準の該当部分。
そして、類似する講演会に対する過去の使用許可例。
沢渡課長は、すべてに目を通しました。
「……ずいぶん調べましたね」
「仕事ですから」
相馬先輩が答えます。
「こちらとしても、混乱を防ぐ必要があります」
沢渡課長は言いました。
「その点は理解しています」
私は頷きました。
「だから、勉強会では個別訴訟の結論について決議をしません」
「ええ」
「裁判官の罷免を求める署名活動もしません」
「確認しています」
「予定人数も三十人です。施設の定員内です」
「そうですね」
「会場を使用することで、具体的に管理上の支障が生じるという資料はありますか」
沢渡課長は、書類を一枚めくりました。
「担当部署からは、地域の対立が激しくなる可能性について報告を受けています」
「その報告に、妨害予告や暴力のおそれなどの具体的な事情はありますか」
「……そこまでは確認されていません」
私は一度、息を吸いました。
「課長」
「はい」
「司法権の独立という言葉は、裁判所を外からの圧力から守るためにあるんですよね」
「その通りです」
「それを理由に、市民が憲法について学ぶことを止めるのは、おかしくありませんか」
沢渡課長は黙りました。
私は続けました。
「誰かが裁判の内容を批判することと、裁判官を政治的に従わせようとすることは違います」
「ええ」
「司法権の独立について勉強することと、裁判官に圧力をかけることも違います」
「……そうですね」
「違うものを、全部『裁判に影響するおそれ』で一緒にしないでください」
沈黙。
長い沈黙でした。
やがて。
片桐所長が口を開きました。
「課長。市が訴訟の当事者であることは承知している」
「はい」
「だが、市民会館の利用について、市に不都合な意見を扱う集会だからという理由で差をつけることはできない」
「承知しています」
「今回の不許可を維持するなら、条例上の根拠と、具体的な事実を示してもらいたい」
沢渡課長は、意見書の最後のページを見つめました。
そして。
「……再検討します」
私は顔を上げました。
「本当ですか」
「朝比奈さん」
「はい」
「私は、裁判に負けたくないから判断を変えるわけではありません」
「……はい」
「施設管理の判断として、根拠が不足している可能性があるからです」
なるほど。
そこは譲らないんですね。
でも。
沢渡課長は続けました。
「公共の福祉という言葉を使えば、具体的な説明を省略できるわけではありません」
私は思わず笑いそうになりました。
この人。
本当に手強い。
法理で納得すると、こちらの主張を自分の言葉で整理してしまう。
「一点だけ」
沢渡課長が言いました。
「森田さんの集会には、今後も係争中の事件に関係する方が参加される可能性があります」
「はい」
「その場合でも、裁判官への脅迫や、施設管理に重大な支障を生じさせる行為があれば、別途対応が必要になります」
「もちろんです」
「そのことと、通常の学習会の開催は分けて判断します」
私は頷きました。
それでいい。
何でも自由。
何でも禁止。
その二択ではありません。
具体的な危険があるなら、具体的に対応する。
危険がないなら、抽象的な不安だけで自由を奪わない。
法律とは、そういうもののはずです。
翌週。
市民会館の使用不許可は、再検討の結果、撤回されました。
改めて、森田さんに使用許可が出されます。
ただし。
裁判官を替えろと発言した市議会議員が、謝罪したわけではありません。
駅前再整備の訴訟が終わったわけでもありません。
市と住民の争いは、まだ続いています。
それでも。
「使えるんですか、本当に」
森田さんは、許可書を両手で持っていました。
「はい」
私が答えます。
「勉強会、開けます」
「……よかった」
森田さんは、しばらく紙を見つめていました。
「私、裁判のことなんて何にも知らないんです」
「はい」
「裁判官の名前だって、新聞で初めて見ました」
「そうだったんですね」
「でも、怖かったんです」
森田さんは言いました。
「役所に逆らう裁判官は替えろなんて言われたら、私らみたいな人間は、誰を頼ればいいんだろうって」
私は頷きました。
裁判所。
最後に法律で争う場所。
そこまで政治家や役所の顔色を見ていたら。
普通の人は、本当に行き場がなくなってしまう。
「森田さん」
「はい」
「裁判官が独立しているのは、裁判官だけのためじゃないんです」
「……え?」
「私たちのためでもあるんです」
少し照れくさかったですが。
言いたかったのです。
「市長が間違えることもあります」
「ええ」
「議会が間違えることもあります」
「そうでしょうね」
「役所だって、間違えることがあります」
「……はい」
「だから、最後に、そういう人たちから独立して法律を判断できる場所が必要なんです」
森田さんは黙って聞いていました。
「裁判官が偉いから守られているんじゃありません」
私は続けました。
「誰が相手でも、憲法と法律に従って判断できるように、守られているんです」
森田さんは、ゆっくり頷きました。
「……そういうことなんですね」
勉強会当日。
私は相馬先輩と一緒に、市民会館へ向かいました。
入口には、手書きの案内板。
――市民憲法勉強会。
――司法権の独立とは何か。
参加者は、三十人ほど。
商店街の店主。
農家の夫婦。
退職した会社員。
子どもを連れた若い母親。
誰も、特別な人ではありません。
普通の市民です。
講師を務める元教師が、黒板に大きく書きました。
司法権の独立。
そして、その下に二つ。
司法府の独立。
裁判官の独立。
「みなさん」
講師が言いました。
「裁判官が、市長に逆らったらクビになるとしたら、どうでしょう」
会場から、小さな笑いが起きました。
「そんなの裁判にならんわ」
前列の老人が言いました。
「そうですね」
講師が頷きます。
「だから憲法は、裁判官を簡単に辞めさせられないようにしています」
また別の参加者が手を挙げました。
「でも、裁判官だって間違えることはあるでしょう?」
「もちろんです」
「それなら、誰も辞めさせられないのは困るんじゃないですか」
講師が笑いました。
「いい質問ですね」
私は思わず前のめりになりました。
そう。
ここが大事です。
司法権の独立は、裁判官が何をしても許されるという意味ではありません。
憲法は、必要な場合に裁判官を罷免する仕組みも定めています。
弾劾裁判。
心身の故障による職務執行不能の裁判。
そして最高裁判所裁判官については、国民審査。
ちゃんと責任を問う制度がある。
ただし。
それは、市長や議員が気に入らない判決を理由に、勝手に辞めさせられるという話ではない。
講師の説明を聞きながら、私は心の中で頷きました。
この違い。
試験でも重要です。
でも。
今日ここにいる人たちには、もっと大きな意味があります。
法律の専門家ではない人が。
自分たちの権利を守る仕組みを知る。
それ自体が、きっと大切なことです。
休憩時間。
森田さんが私たちのところへやってきました。
「朝比奈さん、相馬さん」
「はい」
「ありがとうございます」
森田さんは深く頭を下げました。
「まだ訴訟は続きますが、これで少し安心しました」
「安心?」
私が聞くと、森田さんは笑いました。
「裁判官は、ちゃんと法律で守られているんですね」
「ええ」
「だったら、あとは裁判所に任せられます」
相馬先輩が腕を組みました。
「判決が気に入らなかったら、上訴って道もある」
「そうですね」
「裁判官を脅して替えようとするんじゃねえ。法律の手続で争えってこった」
森田さんが頷きました。
そのとき。
会場の後ろから、小さな拍手が起きました。
勉強会が再開したようです。
私は入口の案内板を振り返りました。
司法権の独立。
受験生だった頃。
私はこの言葉を、裁判所の組織に関する暗記問題だと思っていました。
七十六条。
七十七条。
七十八条。
七十九条。
八十条。
条文番号と制度名を組み合わせるだけ。
でも、違った。
あの新聞記事を見て。
森田さんの不安を聞いて。
市役所で沢渡課長と向き合って。
ようやく分かりました。
司法権の独立とは。
裁判官の特権ではありません。
偉い人に逆らう判決を出しても、裁判官がその判断だけを理由に政治権力から報復されない。
だからこそ。
普通の人が、偉い人を相手に裁判を起こせる。
それを守るための仕組みなのです。
夕方。
片桐行政書士事務所。
「……疲れました」
私は椅子に沈み込みました。
「座って話を聞いてただけだろ」
相馬先輩が言います。
「精神的に疲れたんです」
「便利な疲れ方だな」
「先輩だって、途中で居眠りしてたでしょう」
「してねえ」
「目、閉じてましたよ」
「司法権の独立について深く考えてた」
「寝てたんですね」
相馬先輩が新聞を丸めました。
「口の減らねえ奴だ」
奥では片桐所長が、書類を整理しています。
「こはる」
「はい」
「今日、何を学んだ」
来ました。
所長の抜き打ち復習。
私は少し考えました。
「裁判官は、憲法と法律にのみ拘束される」
「それだけか」
「……違います」
私は窓の外を見ました。
駅前再整備の工事看板。
市役所の建物。
遠くには裁判所へ向かう道。
「政治家にも、役所にも、裁判官へ命令する権限はない」
「うん」
「でも、それを本当に守るためには、裁判官の身分や人事、報酬を守る仕組みが必要になる」
「そうだ」
「そして、その独立は、市民の権利を守るためにある」
片桐所長が頷きました。
「忘れるな」
「はい」
「司法権の独立は、裁判官だけの問題じゃない」
その言葉を聞いて、私は小さく笑いました。
「所長」
「何だ」
「私、憲法って実務ではあんまり使わないと思ってました」
「そうか」
「今日、完全に考えが変わりました」
「なら、よかったな」
相馬先輩が、横から口を挟みます。
「お前、今まで何のために勉強してたんだ」
「試験に受かるためです!」
「堂々と言うな」
「でも、今日からは違います」
「何がだ」
「司法権の独立、絶対に忘れません」
「ほう」
「裁判官は、偉い人の顔色を見なくていい」
「そうだな」
「市長が怒っても、議員が騒いでも、憲法と法律に従って判断する」
「その通りだ」
「つまり」
私は少し得意になって言いました。
「裁判官は、究極のマイペース職業です!」
沈黙。
相馬先輩が額を押さえました。
「……台無しだ」
「ええ?」
「真面目な話を最後の最後で壊すな」
「だって、独立しているんですよね」
「勝手気ままと独立は違う!」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「裁判官は、自分の好き嫌いで判断していいわけではない」
「はい」
「良心に従い、憲法と法律に拘束される」
「……はい」
「独立とは、無責任のことではない」
私は背筋を伸ばしました。
「分かりました」
そう。
誰にも従わない、ということではありません。
従うべきものが決まっている。
政治家でもない。
役所でもない。
世間の空気でもない。
憲法と法律。
そこが、いちばん重要でした。
私はノートを開いて、一行だけ書きました。
――司法権の独立とは、権力者の顔色ではなく、憲法と法律で裁くための盾。
「……よし」
自分で頷きます。
すると。
「こはる」
所長が言いました。
「はい」
「茶を淹れろ」
「……え?」
「三人分」
「今、司法権の独立について学んだばっかりですよね?」
「そうだ」
「私の職権行使の独立は?」
相馬先輩が吹き出しました。
「お前に何の職権があるんだよ!」
「見習いの職権です!」
「そんなもんねえ!」
「所長!」
片桐所長は、平然と答えました。
「茶を淹れるかどうかは、良心に従って判断しろ」
「えっ、いいんですか?」
「ただし」
所長が続けます。
「茶が出なければ、俺は自分で淹れる」
「……はい」
「相馬の分もだ」
相馬先輩が顔を上げました。
「俺の分も?」
「そうだ」
「じゃあ、こはる。頼む」
「急に態度変えましたね!」
「茶は飲みてえからな」
私はため息をつきながら立ち上がりました。
どうやら片桐行政書士事務所では。
司法権の独立を学んだからといって、見習いの雑用が減るわけではないらしい。
でも。
湯呑みを三つ並べながら、私は少しだけ嬉しくなりました。
昭和六十三年。
世間の目は重い。
地元の和も、役所の顔色も、簡単には消えません。
それでも。
この国には、変わらない条文がある。
誰かが権力に逆らったとき。
最後に、政治家でも役所でもない誰かが、法律だけを見て判断できるように。
憲法は、裁判官の独立を守っている。
それは決して、裁判官だけを守るためではない。
小さな製材所の主人も。
駅前の花売りのおばあさんも。
市役所に不服を持つ普通の住民も。
みんなが、いつか公平な裁判を受けられるように。
そのための防波堤なのです。
「こはる」
「はい」
「茶、まだか」
相馬先輩の声が飛んできます。
「今です!」
私は急須を持ち上げました。
そして、ちょっとだけ言い返しました。
「先輩。私の独立を尊重してください!」
「茶を淹れるのに独立はいらねえ!」
「憲法七十六条三項!」
「お前は裁判官じゃねえ!」
……正論でした。
今日の教訓。
――司法権の独立は、裁判官を権力から守り、私たちが権力と対等に争う道を守る。
ただし。
見習いの雑用までは、守ってくれないようです。
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