[憲法・司法権]法理編 こはるノート
正しいことを言っているのに、裁判で負けることがあります。
証拠が足りないから。
法律の解釈を間違えたから。
相手の主張が正しかったから。
そういう理由なら、まだ分かります。
でも。
そもそも裁判所が判断できる問題ではありません。
そう言われたら?
どちらが正しいかを決めてもらう前に、裁判そのものが終わってしまう。
それが、司法権の限界です。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
窓の外では、商店街の街灯が一つずつ点き始めていました。
机の上には、三枝美佐子さんの市民文化会館使用許可書の控え。
先日まで不許可だったものです。
市政について批判的な講座を開く。
ただそれだけで、地元の和を乱すと言われた。
公共の秩序に反すると言われた。
でも、具体的な妨害予告もなかった。
施設管理上の危険を示す資料もなかった。
私たちは意見書を提出しました。
市は再検討し、使用を許可した。
めでたし、めでたし。
……なのですが。
「相馬先輩」
「何だ」
「今回、私たちが実際に裁判をしたわけじゃないですよね」
「ああ」
「なのに、司法権の勉強になりました」
「そりゃそうだろ」
「どうしてです?」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「裁判になったら何を争えるか。それを分かってなきゃ、役所にまともな意見書なんざ出せねえからだ」
「……なるほど」
確かに。
市役所で沢渡課長が態度を変えたのは、単に私たちが「憲法違反だ!」と叫んだからではありません。
三枝さんという特定の市民がいる。
実際に会館の使用を申請した。
その申請が不許可になった。
だから、具体的な処分の適法性が問題になる。
そこまで整理したからです。
私はノートを開きました。
大きく書きます。
――憲法第七十六条 司法権の範囲と限界。
「今日はこれです」
「また勉強会か」
「はい」
「俺は参加しねえぞ」
奥から片桐所長の声がしました。
「相馬」
「はい」
「付き合え」
「……はい」
強い。
憲法七十六条三項は裁判官の独立を保障していますが、片桐事務所の先輩には独立性がありません。
「こはる」
所長が言いました。
「余計なことを考えてないで始めろ」
「心を読まれた!?」
「まず、司法権とは何か」
私はノートに書きました。
司法権とは、具体的な争訟について、法を適用し、その判断を示すことによって争訟を裁定する国家の作用。
「……長いですね」
「法律用語なんざそんなもんだ」
「もっと簡単にすると」
私は考えました。
具体的な事件について、法律を使って決着をつける権限。
「これなら分かります」
「最初からそう書け」
「試験では正確な定義も大事なんです!」
憲法七十六条一項。
すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
つまり。
立法権は国会。
行政権は内閣。
司法権は裁判所。
三権分立の基本です。
「じゃあ市役所の沢渡課長は、司法権を行使できますか?」
私は相馬先輩に聞きました。
「できるわけねえだろ」
「ですよね」
「自分で不許可を出して、自分で最終的に合法だと裁判して、それで終わりだったらどうする」
「怖すぎます」
憲法七十六条二項。
特別裁判所は設置できない。
行政機関は、終審として裁判を行うことができない。
「ここ、二つの禁止があるんですよね」
「ああ」
「特別裁判所の禁止と、行政機関による終審裁判の禁止」
ただし。
行政機関が、争いについて一切判断できないという意味ではありません。
例えば、行政不服審査。
行政庁自身が処分を見直す制度があります。
「川瀬さんの花売り台の事件でやりました」
「そうだな」
「行政機関が不服申立てについて判断すること自体は認められる。でも、その行政判断を司法審査から完全に閉ざして、最終的な裁判として終わらせることはできない」
「そこだ」
所長が頷きました。
私は二項に丸を付けます。
さらに三項。
すべて裁判官は、その良心に従い独立して職権を行い、憲法及び法律にのみ拘束される。
「裁判官の独立ですね」
「そうだ」
「市長が怒っても?」
「関係ねえ」
「大臣が怒っても?」
「関係ねえ」
「地元の有力者が怒っても?」
「関係ねえ」
私は思わず笑いました。
今回の事件では、地元の団体が嫌がるからという理由で、市の施設利用が拒まれました。
でも。
裁判官は、そのような圧力に従って判断する存在ではありません。
「裁判官を拘束するのは、憲法と法律なんですね」
「ああ」
私はノートに書きました。
――司法権の独立は、権力者や世間の圧力から法律による判断を守る仕組み。
そこで所長が言いました。
「ただし、こはる」
「はい」
「裁判官が独立しているからといって、何でも判断できるわけではない」
「……来ましたね」
今日の本題。
司法権の範囲です。
「では問題だ」
相馬先輩が突然言いました。
「はい?」
「俺がお前に百万円貸した」
「貸してません」
「例え話だ」
「びっくりしました」
「返済期限が過ぎても返さねえ。裁判できるか?」
「できます」
「なぜだ」
「貸金返還請求権について争いがあるからです」
「法律で決着がつくか?」
「民法を適用して解決できます」
「そういうことだ」
私はノートに書きました。
法律上の争訟。
要件は二つ。
一つ目。
当事者間の具体的な権利義務、または法律関係の存否についての紛争であること。
二つ目。
法律を適用することによって、終局的に解決できること。
「これ、二つとも必要なんですよね」
「そうだ」
私は丸で囲みました。
①具体的な権利義務・法律関係の争い。
②法令によって終局的に解決可能。
「三枝さんの事件なら?」
所長に聞かれました。
「市民文化会館の使用申請が不許可になりました」
「うん」
「申請者本人の具体的な法律関係に関する紛争があります」
「うん」
「そして、不許可処分の適法性は、条例や地方自治法、憲法などを適用して判断できます」
「そうだ」
もっとも、実際に訴訟を起こすなら、処分性や原告適格、出訴期間などの訴訟要件も確認しなければなりません。
でも。
少なくとも、抽象的な議論だけではない。
ここが大事です。
「じゃあ、先輩」
「何だ」
「『この世から理不尽な役所の決まりを全部なくしてください』という訴えは?」
「裁判所は神様じゃねえ」
「ですよね」
どんなに立派な目的でも。
具体的な法律上の争訟でなければ、通常の裁判にはなりません。
「これ、あの判例ですね」
私は判例集を開きました。
昭和二十七年十月八日。
警察予備隊違憲訴訟。
警察予備隊の設置などが憲法九条に違反するとして、その無効確認を求めた事件です。
「名前は覚えています」
「中身は?」
相馬先輩が聞きます。
「最高裁判所は、具体的な争訟事件がないのに、抽象的に法律や国家行為の合憲性を判断する権限はない、としました」
「それで?」
「訴えは却下です」
私はノートに大きく書きました。
――日本の違憲審査は、原則として付随的違憲審査制。
「付随的?」
相馬先輩が聞き返します。
「具体的な事件を解決するために必要な場合、その中で憲法適合性を審査するということです」
「憲法の問題だけを持って裁判所へ行くんじゃねえと」
「そうです」
日本国憲法八十一条では、最高裁判所が違憲審査権を持つ終審裁判所とされています。
でも。
何でも自由に違憲判決を出せるわけではありません。
「今回の三枝さんは、最初、市の審査要領そのものを違憲だと宣言してもらいたがっていました」
「ああ」
「でも、実際には会館使用不許可という具体的な問題があった」
「そこを使ったわけだ」
「はい」
私は少し考えました。
「憲法違反かどうかという問題が同じでも、争い方によって裁判所の入口に立てるかが違うんですね」
片桐所長が静かに頷きました。
「裁判所は抽象的な正義の宣言所ではない」
短い。
でも、分かりやすい。
「じゃあ次」
私はページをめくりました。
「具体的な争いがあれば、必ず裁判できるんですか?」
「違う」
相馬先輩が即答しました。
「ですよね」
「何でだ?」
「法律で解決できない場合があるからです」
ここで登場するのが、昭和四十一年二月八日の技術士国家試験事件です。
国家試験の合否判定について争われた事件。
最高裁判所は、学問・技術上の知識や能力の優劣、当否に関する判断は、原則として試験実施機関の最終判断に委ねられるという考え方を示しました。
「つまり」
私は言いました。
「自分はこの答案で合格点を取れるはずだ、と裁判所に専門的な採点そのものをやり直してもらうことは、原則としてできない」
「試験官の代わりに裁判官が採点するわけじゃねえからな」
「そうです」
もちろん、試験に関係すれば何でも司法審査の対象外になる、という意味ではありません。
差別的な受験資格制限など、法律問題として解決できる紛争なら別の検討が必要です。
「ここ、丸暗記だと危ないですね」
「何がだ」
「『国家試験は裁判できない』って覚えると、全部駄目みたいになる」
「そうだな」
「正確には、専門的・学術的な合否判定そのものの当否を、裁判所が法律によって判断できるかが問題なんです」
私は赤線を引きました。
――技術士国家試験事件。専門的な合否判定の当否は、原則として司法審査の対象にならない。
次。
昭和五十六年四月七日。
板まんだら事件。
「……板まんだら?」
相馬先輩が首を傾げました。
「宗教団体への寄付金返還が争われた事件です」
宗教施設の建築のために寄付をした人が、信仰の対象に関する認識が違っていたとして、寄付金の返還を求めました。
「お金を返してほしいんだから、普通の民事裁判じゃないのか?」
「そこが罠なんです」
形式的には、寄付金返還という具体的な権利義務の争いです。
でも。
返還を認めるかどうか判断するために、信仰の対象が本物かどうか、宗教上の価値を判断することが必要不可欠だった。
「裁判官が宗教的な真偽を決めることになるわけか」
「はい」
裁判所は、宗教上の教義や信仰対象の価値について、法律による最終的な判断を下す機関ではありません。
だから最高裁は、この事件は実質的に法律上の争訟に当たらないと判断しました。
「でも先輩」
「何だ」
「宗教団体にお金を貸して、返してもらえなかった場合は?」
「普通の貸金返還請求なら、法律で判断できるだろ」
「そのとおりです」
大事なのは、宗教団体が関係しているかどうかではない。
争いを解決するのに、宗教上の教義や信仰の価値そのものを判断しなければならないか。
そこです。
私はノートに書きました。
――宗教が関係するだけで裁判不能になるわけではない。教義判断が紛争解決に不可欠かを見る。
「だんだん分かってきました」
「何がだ」
「裁判所の限界って、嫌な問題から逃げているだけじゃないんですね」
相馬先輩は少しだけ頷きました。
「裁判所にも、裁判所の仕事があるってことだ」
私は次の見出しを書きました。
――司法権の限界。
「ここからが、さらにややこしいところです」
「まだあるのか」
「山ほどあります」
「もう帰りてえ」
「付き合ってください」
司法権の限界には、いくつかの種類があります。
まず。
憲法が、ほかの機関に判断を委ねている場合。
「例えば憲法五十五条」
私は読み上げました。
両議院は、各々その議員の資格に関する争訟を裁判する。
「議員の資格について、各議院が判断するんですね」
「ああ」
「そして憲法六十四条」
国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける。
「普通の民事裁判や刑事裁判と、仕組みが違います」
「憲法が特別に決めてるからな」
「そうです」
さらに国際法上の裁判権免除。
外交官の裁判権免除などもあります。
「外交官なら何をしても許されるんですか?」
「そんなわけねえだろ」
「ですよね。裁判権免除と行為が合法になることは別です」
派遣国による免除放棄などの問題もあります。
裁判できないことと、何をしてもいいことは違う。
ここも重要です。
「次は、憲法解釈上の限界」
私はページをめくりました。
議院の自律権。
統治行為。
部分社会の法理。
そして裁量の問題。
「いよいよ判例の山ですね」
「遭難するなよ」
「努力します」
「まず議院の自律権です」
私は判例集を開きました。
昭和三十七年三月七日。
警察法改正無効事件。
国会で法律を成立させる過程の議事手続が争われた事件です。
最高裁は、両院で議決され、適法な手続で公布されたとされる法律について、裁判所が議院内部の議事手続の事実を審理して有効無効を判断すべきではないとしました。
「国会の中でどう議事を進めるかは、基本的に国会自身の自律性を尊重するわけですね」
「そうだ」
これは、司法が国会の内部運営へ安易に踏み込まないという考え方です。
「じゃあ、地方議会の懲罰も全部裁判できないんですか?」
「どう思う?」
私は判例集を開きました。
昭和三十五年十月十九日。
地方議会議員懲罰事件。
「ここは処分の種類で違います」
私は答えました。
「当時の判例では、議員の出席停止は議会内部の規律として、司法審査の対象外とされました」
「除名は?」
「司法審査の対象になります」
「なぜだ?」
「議員の身分そのものを失わせる重大な処分だからです」
内部規律にとどまる問題か。
それとも、一般市民法秩序に直接関わる問題か。
そこが一つの境界線になります。
ただし。
私は心の中で、現代の記憶を呼び起こしました。
――令和二年十一月二十五日。
未来の最高裁大法廷判決。
地方議会議員の出席停止についても、司法審査の対象となると判断し、昭和三十五年の判例を変更します。
「……うわあ」
思わず声が出ました。
「何だ」
相馬先輩が聞きました。
「いえ。条文は同じなのに、判例が変わることもあるんだなって」
「当たり前だろ」
「そうなんですけど」
昭和六十三年の私は、まだその未来の判決を使えません。
今の現場で適用されるのは、当時の判例です。
でも、現代の行政書士試験なら話が違う。
令和二年の判例変更を押さえておく必要があります。
「憲法は変わらなくても、解釈は変わる」
私は呟きました。
片桐所長が顔を上げます。
「そうだ」
「社会や制度の変化を踏まえて、裁判所が考え方を改めることもあるんですね」
「だから、昔の判例を知っているだけでは足りん」
……重い。
時代をまたいで受験する身には、特に重い。
私はノートの端に書きました。
――昭和六十三年当時:出席停止は原則審査対象外、除名は対象。
――現代:出席停止も審査対象。令和二年判例変更。
未来の試験対策を昭和のノートに書いていることは、絶対に秘密です。
「次は統治行為です」
私は判例集のページをめくりました。
「これ、名前が難しそうですね」
「中身も難しいぞ」
相馬先輩が言います。
統治行為。
国家統治の基本に関わる高度に政治的な行為について、裁判所がその審査を控え、政治部門の判断を尊重するという考え方。
「例えば衆議院の解散です」
「政治の大問題だな」
「はい」
昭和三十五年六月八日。
苫米地事件。
衆議院の解散の有効性が争われた事件です。
最高裁は、衆議院の解散は極めて政治性の高い国家統治の基本に関する行為であり、その法律上の有効無効の審査は司法裁判所の権限の外にあると判断しました。
「つまり、裁判所が政治のすべてを決めるわけじゃない」
「そうだ」
「でも、政治的な問題なら全部司法審査されないわけでもないですよね」
「そこが重要だ」
昭和三十四年十二月十六日。
砂川事件。
日米安全保障条約の合憲性が争われた事件です。
最高裁は、条約には高度の政治性があり、原則として司法審査になじまない性質があるとしました。
ただし。
「一見極めて明白に違憲無効であると認められる場合は、別なんですよね」
「ああ」
「つまり、絶対に審査できないと言い切ったわけではない」
私はノートに線を引きました。
――高度な政治性があるというだけで、すべての法律問題が司法審査から消えるわけではない。
ここは危険です。
試験問題で、
「高度の政治性を持つ国家行為については、いかなる場合も司法審査が及ばない」
と書かれていたら。
「……バツですね」
私は呟きました。
「何がだ」
「いえ、未来の試験問題です」
「また変なこと言ってやがる」
私は慌てて判例集を閉じました。
「では次は、部分社会の法理です」
「変な名前だな」
相馬先輩が言いました。
「私も最初、そう思いました」
部分社会。
大学。
政党。
議会。
その他、自律的な規範を持つ団体。
その内部で起きる問題について、一般市民法秩序と直接関係しない限り、団体の自主的な判断に委ねるという考え方です。
「これ、三枝さんの事件と似ている気がします」
私は言いました。
「市も、施設内部の管理判断だって言ってました」
「だからどうした」
「内部の問題なら裁判所が手を出せない、と言いたかったのかもしれません」
片桐所長が首を横に振りました。
「市の公共施設の使用不許可と、大学内部の単位認定を同じにするな」
「……はい」
そうです。
内部という言葉だけで、司法審査の有無が決まるわけではありません。
私は判例集を開きました。
昭和五十二年三月十五日。
富山大学事件。
大学の教授の授業を受けた学生に対して、大学が単位を認定しなかった事件です。
「学生からしたら大問題ですよね」
「そりゃそうだ」
「単位がもらえないんですから」
しかし最高裁は、単位認定行為は特段の事情のない限り、大学内部の問題として自主的・自律的な判断に委ねられるべきで、司法審査の対象にはならないとしました。
「……厳しいですね」
「大学には大学の専門的な判断があるからな」
「でも、一般市民法秩序と直接関係する場合は?」
「司法審査の対象となる余地がある」
「そうです」
例えば、学生の身分そのものに関わる重大な処分などでは、別の検討が必要になります。
私はノートに書きました。
――大学内部の単位認定は原則として自主的判断を尊重。ただし一般市民法秩序と直接関係する問題は別。
「ここも単純じゃありませんね」
「法律は単純に覚えようとすると、すぐ罠が出てくるからな」
「本当にそうです」
それから私は、もう一つ考えました。
政党内部の規律。
団体からの除名。
これも団体の自律性と、個人の権利との関係が問題になります。
昭和六十三年の年末には、共産党員の除名をめぐる最高裁判決が示されることになります。
でも、今の私がいる秋の時点では、まだ未来の話です。
だから。
私は、今ある判例と法理を丁寧に整理することにしました。
「所長」
「何だ」
「部分社会の法理って、団体を守るためだけの考え方なんですか?」
「違う」
「では?」
「裁判所が判断すべき問題と、団体自身に委ねるべき問題を分けるための考え方だ」
なるほど。
大学の単位認定。
政党の内部規律。
議会の懲罰。
それぞれ内部的な自治を尊重すべき理由はあります。
でも。
その自治を盾に、一般の法秩序に直接関わる権利侵害まで何でも免責されるわけではありません。
「自律性も大事。でも個人の権利も大事」
「そうだ」
「だから境界線を考える」
私は丸を付けました。
「最後に、裁量です」
私はノートに書きました。
行政には、一定の裁量が認められる場合があります。
例えば、公共施設の管理。
許可や不許可の判断。
政策上の選択。
「沢渡課長も言ってました」
「行政には裁量がある、ってな」
「はい」
でも。
裁量があることと、何をしてもいいことは違います。
法律が認めた裁量の範囲内なら、裁判所は行政の判断を簡単に置き換えません。
しかし、裁量権を逸脱したり、濫用したりした場合には、違法となり得ます。
「今回の事件がそうですね」
私は言いました。
「施設の管理について市に判断余地はある。でも、市政批判をする団体だけ、具体的危険もなく不許可にするなら問題になる」
「そうだ」
「行政の裁量を尊重することと、行政の言いなりになることは違う」
相馬先輩が頷きました。
「いいこと言うじゃねえか」
「褒めました?」
「気のせいだ」
またそれです。
私は書きました。
――裁量の当否は原則として行政の判断を尊重。ただし裁量権の逸脱・濫用は司法審査の対象。
ここも、司法権の限界を学ぶうえで重要です。
裁判所は行政の代わりに、あらゆる政策の優劣を決める機関ではありません。
でも。
行政が法律の限界を越えたとき。
裁判所は、その違法性を審査できる。
「……やっぱり」
私は呟きました。
「司法権の限界って、行政が自由に逃げるための抜け道じゃないんですね」
所長が頷きました。
「そうだ」
「司法と行政、それぞれの役割を守るための境界線なんですね」
「そこが分かればいい」
気づけば、窓の外はすっかり暗くなっていました。
私はノートを見返しました。
司法権の範囲。
法律上の争訟。
具体的な権利義務の争い。
法律による終局的解決の可能性。
警察予備隊違憲訴訟。
技術士国家試験事件。
板まんだら事件。
議院の自律権。
統治行為。
部分社会の法理。
裁量権の逸脱・濫用。
「……多い」
思わず呟きました。
「何がだ」
相馬先輩が聞きます。
「覚えることです」
「行政書士試験なんだから当たり前だろ」
「でも、全部つながってますね」
「ほう」
私はノートを指しました。
「最初に見るのは、法律上の争訟かどうか」
「うん」
「具体的な権利義務の争いがあって、法律で解決できるか」
「うん」
「それを満たしても、憲法上の制度や団体の自律性、高度な政治性などの理由で、司法審査が制約されることがある」
「そうだな」
「でも、司法権の限界があるからって、個人の権利救済が全部閉ざされるわけじゃない」
私は三枝さんの使用許可書を見ました。
あのとき。
市役所は、地元の和を乱すと言いました。
公共の秩序を守るためだと言いました。
施設管理上の判断だと言いました。
でも。
私たちは、抽象的な憲法論争をするのではなく、三枝さん自身が受けた不許可に焦点を当てました。
その処分には、どんな法的根拠があるのか。
具体的な危険は存在したのか。
表現内容によって不合理な差別をしていないか。
そして。
実際に司法審査を受けることになった場合、法的に何が争点となるのか。
「だから、役所も無視できなかった」
私は言いました。
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
「憲法を振り回すだけなら、相手は抽象論として受け流せる」
「はい」
「だが、具体的な処分の違法性を示せば、行政はその判断を説明しなければならん」
「……なるほど」
「我々の仕事は、そこまで整えることだ」
裁判を起こすのは、私たち行政書士の役割ではありません。
訴訟代理は弁護士の仕事です。
でも。
法律関係を整理する。
行政への意見書を作成する。
違法性の疑いを指摘する。
必要な証拠をそろえる。
そして、訴訟が必要になれば弁護士に引き継ぐ。
その前段階でできることは、決して少なくありません。
「憲法って」
私は小さく言いました。
「実務では使わないと思ってました」
相馬先輩が笑いました。
「そりゃ、お前が試験の条文としてしか見てなかったからだ」
「……はい」
「憲法は飾りじゃねえぞ」
「そうですね」
「役所が法律の限界を越えたとき、最後に立ち返る場所だ」
私は頷きました。
もう一つ。
今回の事件で、私には気になっていたことがありました。
「所長」
「何だ」
「憲法の条文って、昭和六十三年も現代も全く同じなんですよね」
「当然だ。公布以来、改正されていない」
「でも、人権感覚は変わりますよね」
「変わる」
「昭和では、地元の和を乱すとか、世間が許さないとか。そういう理由が、今よりずっと重い気がします」
所長は少し考えました。
「昔から、役所は地域との調整を重視する」
「はい」
「それ自体は悪いことではない」
「そうですね」
「問題は、その調整のために、誰のどんな権利を制限するかだ」
私は頷きました。
公共の福祉。
憲法には、個人の権利と他者の権利、社会全体の利益との調整が必要であるという考え方があります。
でも。
公共の福祉と書けば、何でも許されるわけではありません。
守ろうとする利益は何か。
制限の目的は正当か。
その目的のために、どんな手段を使うのか。
必要以上に自由を制限していないか。
「三枝さんの事件では」
私は言いました。
「地元が反対しているという事情だけで、表現や集会の自由を制限しようとした」
「そうだ」
「でも、反対する人がいるというだけで不許可にできるなら、批判的な意見ほど排除されやすくなる」
「そのとおりだ」
所長が静かに言いました。
「法律が守る自由というのは、周囲が気に入る意見だけの自由ではない」
私は、その言葉をノートの余白に書きました。
周囲が気に入る意見だけの自由ではない。
……これは、忘れたくありません。
昭和六十三年。
地域の協調が強く求められる時代。
でも。
誰か一人が違う意見を持ったというだけで、役所がその人の集まる場所を奪ってよいわけではない。
そして司法権は。
そうした権利侵害が具体的な法律上の紛争となったとき、法律によって判断する仕組みです。
何でも裁く万能の権力ではない。
でも。
権力の行使が法律に従っているかを判断する、大切な役割を持つ。
だからこそ、裁判官の独立も必要になる。
司法権の範囲と限界。
最初は難しい単元だと思っていました。
でも今は。
裁判所が何を守り、何をほかの機関に委ねるべきなのか。
その役割分担を考える単元なのだと分かります。
私は最後に、ノートをもう一度開きました。
今日の一行の覚え書き。
何と書こう。
少し迷いました。
司法権は具体的な法律上の争訟を裁く。
抽象的な違憲審査は原則としてできない。
団体内部の問題や統治行為には限界がある。
うーん。
全部書いたら一行では終わりません。
「相馬先輩」
「何だ」
「一行にまとめるなら、どうします?」
「知らねえよ」
「助けてください」
「自分で考えろ」
「厳しい」
そこで所長が言いました。
「裁判所に何を持っていく」
「……具体的な事件です」
「何で解決する」
「法律です」
「なら、それを書け」
私は頷きました。
そしてノートの最後に、大きく書きました。
――司法権は、具体的な権利の争いを法律で裁く。抽象論と自律の領域には限界がある。
「……どうです?」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、いいんじゃねえか」
「褒めました?」
「気のせいだ」
またそれです。
でも、今回は満足です。
私はノートを閉じました。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『あ、三枝です』
「三枝さん!」
『先日はありがとうございました。講座の準備が進んでいます』
「それはよかったです!」
『それで、ちょっと相談がありまして』
「はい?」
『今度の講座で、司法権についても話したいんです』
「……おお」
『裁判所って、何でも判断できるわけじゃないんですよね?』
私は思わず笑いました。
「そうなんです」
『それなら、参加者にも分かるような例が欲しくて』
「例えば、百万円を貸したのに返してもらえない場合は法律上の争訟です」
『なるほど』
「でも、法律や規則が憲法違反だという抽象的な主張だけでは、原則として裁判所に判断してもらえません」
『なるほど!』
「それに、大学内部の単位認定のように、自主的判断が尊重される問題もあります」
『へえ!』
電話の向こうから、鉛筆を走らせる音がしました。
『朝比奈さん、詳しいですね!』
「いえいえ、それほどでも」
ちょっと嬉しい。
かなり嬉しい。
『では、講座で朝比奈さんにも少し説明していただけませんか?』
「……え?」
『五分くらいでいいので』
「ご、五分?」
『司法権の範囲と限界について』
私は固まりました。
五分。
たった五分。
でも。
司法権の範囲。
法律上の争訟。
付随的違憲審査制。
統治行為。
部分社会の法理。
これ全部を五分で?
無理です。
絶対無理です。
相馬先輩が横から言いました。
「引き受けろよ」
「先輩!?」
「さっきから偉そうに説明してただろ」
「勉強会と公開講座は違います!」
「五分なら簡単だろ」
「簡単じゃありません!」
所長が静かに言いました。
「引き受けていい」
「所長まで!?」
「ただし、講師として法的判断を請け負うのではなく、一般的な制度の説明にとどめろ」
「……はい」
正論。
相馬先輩が笑っています。
「よかったな、こはる」
「何がです?」
「お前の表現の自由が保障されたぞ」
「ありがたいですけど!」
「市民文化会館で自由に喋れる」
「五分間だけです!」
私は受話器を握り直しました。
「三枝さん」
『はい』
「分かりました。五分だけなら、お手伝いします」
『ありがとうございます!』
電話が切れました。
私は机に突っ伏しました。
「……司法権の限界より、私の説明能力の限界が先に来そうです」
相馬先輩が大笑いしました。
「裁判所に助けてもらえよ」
「無理ですよ!」
「何でだ?」
「具体的な権利義務の紛争じゃないし、法律で解決する問題でもないからです!」
「よくできました」
「褒められても嬉しくない!」
片桐所長が、帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「講座の準備は、仕事を片付けてからにしろ」
私は机を見ました。
書類の山。
相変わらず減っていません。
「……所長」
「何だ」
「私にも司法的救済が必要です」
「何についてだ」
「この書類の山についてです」
「法律上の争訟か?」
「……いえ」
「法律で解決できるか?」
「……たぶん無理です」
「なら、片付けろ」
「司法権の限界がこんなところにも!」
相馬先輩が腹を抱えて笑います。
私はため息をつきながら、書類の一枚目を手に取りました。
窓の外には、昭和六十三年の町。
昔からの慣習が残り、世間の目が重く、誰かが違う意見を言えば波風が立つ。
そんな時代です。
でも。
市民文化会館では、来月、憲法についての勉強会が開かれます。
市政を批判してもいい。
行政の判断を疑ってもいい。
そして。
具体的な権利を侵害されたなら、法律に基づいて救済を求める道がある。
裁判所は何でもできるわけではありません。
けれど。
裁判所にしかできないことがあります。
世間の空気ではなく、憲法と法律に従って判断すること。
それが、司法権の大切な役割なのです。
私はノートの最後の一行を、もう一度見ました。
――司法権は、具体的な権利の争いを法律で裁く。抽象論と自律の領域には限界がある。
よし。
これは忘れません。
「こはる」
「はい」
「手が止まってるぞ」
相馬先輩の声です。
「今、憲法について考えてたんです!」
「その前に書類を片付けろ」
「先輩、表現の自由を尊重してください!」
「喋る自由は認める」
「本当ですか!」
「手を動かしながらな」
「労働の自由は!?」
「まず仕事しろ!」
……どうやら。
昭和六十三年の片桐行政書士事務所では。
司法権の限界を学ぶより先に。
見習い行政書士の休憩時間の限界について。
真剣な法的検討が必要なようでした。
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