[憲法・司法権]現場編 「裁判所に持ち込めば、何でも解決する」の罠。憲法違反を叫ぶだけでは裁判にならない――昭和の役所を動かす「具体的な権利」という切り札
裁判所は、正義の味方ではありません。
悪いことをした人を懲らしめる。
理不尽な決まりをなくす。
憲法違反を見つけたら、すぐに正してくれる。
そんな場所だと思っていると。
思わぬところで、扉を閉められます。
なぜなら。
裁判所には、できることと、できないことがあるからです。
そして、その境界線は。
声の大きさでも。
怒りの強さでも。
正義の美しさでも決まりません。
――具体的に、誰の、どんな権利が争われているのか。
そこが、すべての始まりなのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「最高裁判所に訴えたいんです!」
その日の相談者は、扉を開けるなりそう叫びました。
私は思わず、持っていた湯呑みを落としかけました。
「……いきなり最高裁ですか?」
「はい!」
「地方裁判所とかではなく?」
「最高裁です!」
すごい。
訴訟の階段を一気に最上階まで駆け上がるつもりらしい。
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「おい、こはる」
「はい」
「最高裁は直通電話で予約する場所じゃねえぞ」
「分かってます!」
相談者は、二十代後半の女性でした。
名前は、三枝美佐子。
地元の印刷会社に勤めながら、市民向けの勉強会を開いているそうです。
手には、分厚い封筒。
中には市役所からの通知書と、手書きの資料が入っていました。
「市が、憲法に違反しているんです」
「具体的には?」
私が尋ねると、三枝さんは一枚の紙を差し出しました。
そこには、こう書かれていました。
――市民文化会館使用不許可通知書。
申請者 三枝美佐子。
使用目的 市民公開講座「私たちの町と憲法」。
使用不許可理由。
――公共の秩序及び施設の適正な管理に支障が生じるおそれがあるため。
「……また、この言い方ですか」
私は呟きました。
公共の秩序。
適正な管理。
支障が生じるおそれ。
役所の通知に登場すると、途端に相手を黙らせる三点セットです。
「何を話す予定だったんですか?」
「市民の権利です」
「権利?」
「市の公共施設の使い方とか、住民の意見を市政に反映させる方法とか。憲法と地方自治について、みんなで勉強しようと思って」
「それで不許可?」
「はい」
三枝さんは唇を噛みました。
「市役所の人に言われたんです。『行政に批判的な講座は、地元の和を乱す』って」
「……は?」
私の声が裏返りました。
地元の和。
また出ました。
昭和の万能呪文。
近所付き合い。
町内会。
昔からの慣習。
波風を立てるな。
みんな仲良く。
もちろん、地域の協調は大切です。
でも。
役所の方針について勉強するだけで、公共施設を使わせない?
「ほかの団体は使えているんですか?」
「料理教室も、囲碁の会も、歴史研究会も使っています」
「では、講座のどこに問題が?」
「市を批判するかもしれないから、だそうです」
私は額を押さえました。
市を批判するかもしれない。
だから使わせない。
それが通るなら、行政について自由に議論する場所は、どんどんなくなってしまいます。
「憲法二十一条……」
思わず口にしました。
表現の自由。
集会の自由。
そして、憲法十四条の平等原則。
市の公共施設を利用できる条件について、思想や意見の内容を理由に不合理な差別をしてよいはずがありません。
ところが。
三枝さんの話は、ここで終わりませんでした。
「それに、もっと大きな問題があるんです」
「大きな問題?」
「この市には、昔からおかしな運用があるんです」
彼女は封筒から、もう一枚の紙を取り出しました。
市民文化会館利用審査要領。
その中の一文。
――市政に対する反対運動その他地域社会の協調を損なうおそれのある催事については、使用を認めないことができる。
「これです!」
三枝さんが指を突きつけました。
「こんな決まり、憲法違反でしょう!」
「……かなり問題がありますね」
「だから、これを最高裁判所に無効だと判断してもらいたいんです!」
私は頷きかけました。
そして。
途中で止まりました。
あれ?
最高裁に?
要領そのものを?
憲法違反だから無効にしてもらう?
頭の中で、受験勉強の記憶が動き始めます。
司法権。
法律上の争訟。
具体的事件性。
付随的違憲審査制。
……あ。
これ。
別の落とし穴がある。
「三枝さん」
私は慎重に尋ねました。
「裁判所に何を求めたいんですか?」
「市の決まりが憲法違反だという判断です」
「それだけですか?」
「それだけでも十分です。違憲だと分かれば、ほかの人も困らなくなるでしょう?」
気持ちは分かります。
すごく分かります。
悪い決まりがある。
だから裁判所に違憲だと宣言してもらう。
一見、とても合理的です。
でも。
「それだと、裁判としては難しいんです」
「どうして?」
「日本の裁判所は、原則として、具体的な事件と切り離して法律や規則が憲法に合っているかだけを判断する機関ではないからです」
三枝さんは、ぽかんとしました。
「……憲法違反を判断するのが裁判所じゃないんですか?」
「もちろん、判断します。ただし――」
「こはる」
片桐所長の声がしました。
「説明を急ぐな」
「はい」
「まず、依頼人が何を失ったのかを確認しろ」
何を失ったのか。
私は通知書を見ました。
文化会館使用不許可。
そうか。
「三枝さん」
「はい」
「勉強会は、いつ開催する予定でしたか?」
「来月の十五日です」
「参加者は?」
「二十人ほど申し込んでいます」
「ほかの会場は?」
「ありません。参加費を安くするため、市の会館を借りる予定でした」
「使用申請は正式に出していますね?」
「はい」
「そして、市から不許可通知が届いた」
「そうです」
私は通知書を机に置きました。
「だったら、争うべきものがあります」
「え?」
「市の要領が抽象的に憲法違反かどうか、という話だけではありません」
私は不許可通知を指しました。
「三枝さん自身が、会館を使うという具体的な申請を拒否されているんです」
三枝さんの目が少し大きくなりました。
「それなら、裁判所で判断してもらえるんですか?」
「訴訟要件や処分性などの確認は必要ですが、少なくとも具体的な法律上の紛争として検討できます」
「同じ憲法違反なのに?」
「違うんです」
私は言いました。
「『この決まりは違憲だから何とかして』と、『この決まりを使って私の利用申請を拒否した処分は違法だから取り消して』では、裁判所に求めていることが違うんです」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「やっとそこまで来たか」
「先輩、聞いてたんですか」
「聞こえる声で喋ってりゃ聞こえる」
「じゃあ最初から助けてくださいよ」
「自分で気づいたほうが忘れねえだろ」
教育方針が昭和です。
ここだけ妙に時代に合っています。
相馬先輩は三枝さんに向き直りました。
「裁判所は、国民のための法律相談所じゃねえ」
「……はい」
「世の中の決まりを片っ端から調べて、違憲かどうか採点する場所でもねえ」
そして、不許可通知を叩きました。
「だが、あんたの申請は実際に拒否された。ここには具体的な争いがある」
「それが重要なんですか」
「大重要だ」
「そんな言葉あります?」
私の突っ込みは無視されました。
「憲法違反を叫ぶ前に、誰の何が侵害されたかを見ろ。そこが裁判の入口だ」
片桐所長が頷きました。
「裁判の話は、必要なら弁護士に引き継ぐ」
「はい」
「我々は、まず市に不許可判断を再検討させる」
所長は静かに続けました。
「そして、その不許可がなぜ法律上問題なのかを、書面にする」
私は背筋を伸ばしました。
「法的意見書ですね」
「ああ」
所長が通知書を差し出します。
「こはる。相手が逃げられない論点を探せ」
その日の午後。
市役所二階。
総務課。
「また皆さんですか」
沢渡課長は、私たちの顔を見るなりそう言いました。
「常連扱いですね」
「実際、よくお越しになりますので」
「ポイントカードでも作ります?」
「行政相談に景品はありません」
でしょうね。
相馬先輩が机に通知書を置きました。
「三枝美佐子さんの文化会館使用不許可。理由を確認したい」
沢渡課長は一瞥しました。
「担当課から報告を受けています」
「では話が早い」
「市民文化会館の管理運営上、慎重な判断が必要な案件です」
「なぜだ?」
「今回の講座は、市政に対する批判を含むと認識しています」
「市政を批判すると、会館を使えねえのか」
「そう単純な話ではありません」
沢渡課長は落ち着いた口調で続けました。
「地元の複数団体から懸念が示されています。対立が生じれば、会館の円滑な運営に影響します」
「具体的に、何が起こるんですか?」
私が聞くと、課長は資料を開きました。
「市の施設利用審査要領では、地域社会の協調を損なうおそれのある催事について、使用を認めないことができるとしています」
「その要領の根拠は?」
「市民文化会館条例に基づく管理運営上の判断です」
「条例の不許可事由は?」
「公の秩序を害するおそれがある場合や、施設管理に支障がある場合などです」
「では、今回の講座で具体的にどんな危険が予想されるんですか?」
沢渡課長は少し間を置きました。
「反対意見を持つ団体との摩擦が生じる可能性があります」
「反対意見?」
「市政運営を支持する団体です」
「講座に押しかけるという情報があるんですか?」
「現時点で、そのような具体的情報はありません」
「妨害の予告は?」
「ありません」
「施設を破損するおそれは?」
「そのような資料もありません」
「では、何が問題なんです?」
「地域内の対立が深まることです」
私は口を閉じました。
なるほど。
昭和六十三年。
これが、空気の重さか。
誰かが反対する。
町内が揉める。
地元の有力者が嫌がる。
だから、使わせない。
言葉にすると簡単ですが。
この時代の小さな町では、なかなか抗えない理屈です。
市政を批判する。
それだけで、変わり者扱いされるかもしれない。
商売に響くかもしれない。
町内会で居場所がなくなるかもしれない。
でも。
――待って。
私は胸元の手帳を開きました。
憲法。
七十六条。
司法権。
そして二十一条。
表現の自由。
昭和も令和も。
条文は、一字一句同じです。
社会の空気が変わっても。
役所の考え方が変わっても。
憲法が守ろうとする自由は、そこに書かれている。
「課長」
私は顔を上げました。
「今回の不許可は、表現内容を理由にした制限ではありませんか?」
沢渡課長の視線が止まりました。
「施設管理上の判断です」
「でも、同じ二十人規模の料理教室なら許可されるんですよね」
「通常は」
「歴史研究会も?」
「同様です」
「では、市政について批判的に議論する講座だから不許可なんですか?」
「対立が予想されるからです」
「その対立が、施設の秩序を害する具体的な危険につながる資料はない」
「現段階では、そう申し上げています」
私は頷きました。
この人は強い。
不用意なことは言わない。
要領もある。
条例もある。
行政側の裁量もある。
でも。
「地域の人が嫌がる、というだけでは、表現や集会の自由を制限する根拠として足りないのではありませんか?」
沢渡課長の表情が少し変わりました。
「憲法論ですか」
「はい」
「公共の福祉による制約は認められます」
「もちろんです」
私は即答しました。
「無制限に施設を使えるとは思っていません。収容人数を超えるとか、騒音や施設破損の具体的な危険があるなら、利用制限が必要な場合もあるでしょう」
「そのとおりです」
「でも今回は違います」
私は通知書を指しました。
「講座の内容を問題にしている。具体的な妨害の予告もない。施設に危険があるという資料もない。それでも、地元で対立が起こるかもしれないから不許可」
沢渡課長は黙っています。
「それでは、市の方針に賛成する人は施設を使えて、批判する人は使えないことになりませんか?」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「世間の常識? 俺たちが守ってんのは法律だ」
「相馬さん」
沢渡課長が言いました。
「行政には、地域の秩序を守る責任があります」
「あるだろうな」
「対立を未然に防ぐことも、管理上の重要な判断です」
「だったら、対立を起こす奴に対処しろ」
相馬先輩の声が低くなりました。
「平穏に講座を開こうとしている側を黙らせるのが、役所の仕事なのか?」
部屋の空気が張り詰めました。
沢渡課長は、しばらく何も言いませんでした。
そして。
「法的な主張としては理解しました」
と答えました。
さすがです。
この人は、感情的には反撃しません。
「ただし、不許可判断が直ちに違憲となるとは限りません。公の施設の管理権限についても検討が必要です」
「承知しています」
片桐所長が初めて口を開きました。
「だからこそ、事実と根拠を確認しています」
そして、静かに続けました。
「課長。この件で重要なのは、もう一つあります」
「何でしょう」
「市の判断が裁判所で争われた場合、何が審査の対象になるかだ」
私は息を呑みました。
来た。
今日の本題です。
「こはる」
所長が私を見ました。
「裁判所は、この市の利用審査要領を、いつでも抽象的に審査できるか」
「いいえ」
私は答えました。
「具体的な事件と切り離して、要領が憲法違反かどうかだけを判断してもらうことは、原則としてできません」
「根拠は?」
「司法権の性質です」
私は続けました。
「憲法七十六条一項では、司法権は最高裁判所及び法律で設置される下級裁判所に属するとされています」
沢渡課長がこちらを見ました。
「それは承知しています」
「そして、その司法権が扱うのは、原則として法律上の争訟です」
私は通知書を手に取りました。
「今回、三枝さんには具体的な使用不許可があります」
「……ええ」
「市の決定によって、申請していた会館を利用できなくなりました」
「そのとおりです」
「つまり、これは単なる市政批判でも、抽象的な憲法論争でもありません」
私は一呼吸置きました。
「三枝さん自身の具体的な法律関係について争いが生じているんです」
沢渡課長の目が細くなりました。
「使用不許可処分の適法性を争うということですか」
「はい。条例上の使用許可を求めた申請者に対し、どのような理由で不許可にできるのか。行政法や憲法を適用して判断できる問題です」
私は、もう一枚の紙を出しました。
昨夜、所長と確認した判例の控えです。
――昭和二十七年十月八日。
警察予備隊違憲訴訟。
あの事件では。
警察予備隊の設置などが憲法九条に違反するとして、具体的な権利義務の争いから離れて、その無効を確認する訴えが起こされた。
しかし最高裁判所は、具体的な争訟事件がないのに抽象的な憲法判断をする権限はない、という立場を示しました。
「裁判所は、憲法について一般的な意見を出す機関ではないんです」
私は言いました。
「だから、私たちも『市の審査要領は憲法違反だから、裁判所に一般的な無効宣言を出してもらう』とは考えていません」
沢渡課長が頷きます。
「その整理は正しいでしょう」
「ですが」
私は不許可通知を机に置きました。
「今回の不許可判断は別です」
沢渡課長は黙りました。
「特定の市民に対する、具体的な使用不許可です。法令に基づいてその適法性を審査する余地があります。その中で、根拠となった運用が憲法二十一条に適合するのかも問題になる」
私は続けました。
「だから、市は『これは施設内部の管理判断です』と言うだけでは、司法審査から当然に逃れられません」
沢渡課長が背もたれから身体を起こしました。
「……なるほど」
小さな声でした。
でも。
この人がこの言葉を口にするときは、何かを計算しています。
「三枝さんの申請は、実際に拒否されている」
「はい」
「その理由が、会館の管理上の具体的な危険ではなく、講座内容に対する地域の反発だとすれば」
「はい」
「不許可判断の合理性と、憲法上の問題が争点になる」
「そう考えています」
沢渡課長は机の上で指を組みました。
「裁判所に判断を求めるのであれば、具体的な処分を対象にするというわけですね」
片桐所長が頷きました。
「我々が訴訟代理をするわけではありません」
「承知しています」
「必要なら弁護士に引き継ぎます。ただし、そこまで行く前に行政自身が検討すべき問題でしょう」
沈黙。
時計の秒針が鳴りました。
カチ。
カチ。
カチ。
やがて沢渡課長は、資料を閉じました。
「正式な意見書を提出してください」
「分かりました」
「その際、今回の不許可理由と、施設管理上の具体的な支障について論点を整理していただきたい」
「もちろんです」
「担当課には、判断の根拠となった資料を再確認させます」
相馬先輩が腕を組みました。
「見直す気はあるんだな」
「違法性に疑義があるなら、検討するのが行政です」
沢渡課長は淡々と言いました。
「ただし、皆さんの主張が必ず正しいと認めたわけではありません」
「分かってます」
私は答えました。
「だから書面にします」
課長の口元が、ほんの少しだけ動きました。
事務所へ戻ったのは、夕方でした。
「こはる」
相馬先輩が机を指しました。
「意見書、書け」
「はい」
「題名から間違えるなよ」
「題名?」
「『市の憲法違反について』だけじゃ駄目だ」
「……あ」
「何についての意見書か、はっきりさせろ」
私は原稿用紙の一行目を書き直しました。
――市民文化会館使用不許可処分に関する法的意見書。
うん。
具体的です。
そこから、事実関係を整理しました。
三枝美佐子さんが、市民公開講座の開催を目的に会館の使用を申請したこと。
市から使用不許可の通知を受けたこと。
不許可理由には、施設管理上の支障が挙げられていること。
しかし、妨害の予告や施設破損の危険など、具体的な支障を示す資料が確認されていないこと。
他の一般的な講座や団体には使用が認められていること。
問題視されている事情が、市政に対する批判的意見を含むという講座内容に集中していること。
そして。
憲法二十一条。
集会・表現の自由。
憲法十四条。
平等原則。
地方自治法二百四十四条。
公の施設の利用について、正当な理由のない拒否や不当な差別的取扱いを禁じる規定。
「……あれ」
私はペンを止めました。
「所長」
「何だ」
「今回、地方自治法もかなり強いですね」
「当然だ」
「憲法だけで押し切るわけじゃないんですね」
「憲法論を振りかざすだけなら三流だ」
所長は静かに言いました。
「まず、条例を見ろ。法律を見ろ。行政の判断に、どんな根拠が必要なのかを見ろ」
「はい」
「それでも行政が越えてはいけない一線を越えているなら」
所長は私の書いた意見書を指しました。
「そのときに憲法を抜け」
私は頷きました。
憲法は、何にでも振り回せる魔法の剣ではない。
でも。
ほかの法律や条例をどう適用すべきか、その根本にある。
最高法規。
私は最後の段落を書きました。
――本件使用不許可は、施設管理上の具体的支障が明らかでないにもかかわらず、市政に関する批判的表現を含むことを実質的な理由としてなされた疑いがある。
――そのような取扱いは、憲法第二十一条の保障する集会・表現の自由、憲法第十四条の平等原則及び地方自治法第二百四十四条の趣旨との関係で重大な疑義を生じさせる。
――したがって、不許可判断の具体的根拠を明らかにするとともに、当該判断の再検討を求める。
書き終えました。
「できました」
片桐所長が受け取り、黙って読みます。
一分。
二分。
三分。
長い。
採点される答案みたいで胃が痛い。
やがて所長は、赤鉛筆を取りました。
一か所だけ修正。
「ここだ」
「はい」
「『違憲であることは明白』と書いてある」
「あ……」
「言い切るな」
「でも、かなり問題がありますよね?」
「問題があることと、最終的な司法判断が確定したことは違う」
私は頷きました。
正しい。
行政書士が、裁判官の代わりに判決を出すわけではない。
「『違憲の疑いが強い』に直します」
「それでいい」
相馬先輩が横から覗き込みました。
「それにしても、お前」
「何です?」
「最初は裁判所に何でも頼めると思ってただろ」
「……ちょっとだけ」
「ちょっと?」
「かなり」
「正直でよろしい」
悔しい。
でも。
今なら、少し分かります。
司法権というのは、憲法や法律について何でも正解を教えてくれる権限じゃない。
具体的な争いに法律を適用して、解決する権限。
だからこそ。
誰の。
どんな権利義務が。
どのように争われているのか。
それを見つけなければならない。
三日後。
意見書を提出しました。
さらに一週間後。
市役所から連絡が入りました。
「……え?」
電話を取った私は、思わず聞き返しました。
『使用不許可について、再検討を行いました』
沢渡課長でした。
「結果は?」
『不許可を見直し、使用を許可する方針です』
「本当ですか!」
『正式な書面は担当課から通知します』
私は受話器を強く握りました。
「理由を聞いてもいいですか?」
『施設管理上の危険について、改めて確認しました』
「はい」
『今回、具体的な妨害の予告や、施設運営に重大な支障が生じると判断できる事情は確認されませんでした』
「では……」
『一方で、講座の内容を理由とした不許可判断には、法的な問題が生じ得ます』
さすが。
沢渡課長。
最後まで感情では動きません。
『今後は、催事内容に対する賛否と、施設管理上の具体的な危険を区別して審査するよう、担当課に指示しました』
「……ありがとうございます」
『お礼を言われる筋合いはありません』
「え?」
『必要な判断をしただけです』
私は少し笑いました。
「課長らしいですね」
『朝比奈さん』
「はい」
『一つ、申し上げておきます』
「何でしょう」
『今回、皆さんが最初から「市の運用全体が違憲だ」とだけ主張していたら、議論は別の方向へ進んでいたでしょう』
「……はい」
『三枝さんの具体的な不許可判断について、条例の適用と憲法上の問題を整理してきたからこそ、担当課も再検討できました』
私は黙って聞いていました。
『行政も裁判所も、抽象的な正義だけで動くわけではありません』
「そうですね」
『問題を具体化することです』
「……覚えておきます」
電話が切れました。
私はしばらく受話器を見つめました。
敵のようで。
ときどき先生のようで。
やっぱり、よく分からない人です。
翌日。
三枝さんが事務所にやって来ました。
「許可が出ました!」
顔が輝いていました。
手には正式な使用許可書。
「よかったですね!」
「本当にありがとうございます!」
私は首を横に振りました。
「市が、きちんと判断を見直してくれたんです」
「でも、皆さんがいなかったら……」
三枝さんは、そこで少し声を落としました。
「私、勘違いしていました」
「何をですか?」
「裁判所へ行けば、憲法違反を全部直してくれると思っていたんです」
「……はい」
「でも、そうじゃないんですね」
私は頷きました。
「裁判所には、法律で解決できる具体的な争いが必要なんです」
「だから、私の会館の使用不許可が大事だった」
「そうです」
三枝さんは、手元の許可書を見つめました。
「何だか不思議ですね」
「何がです?」
「最初は、町の古い決まりを全部変えたいと思っていました」
「はい」
「でも今は、とりあえず来月、みんなで勉強できる。それが一番嬉しいんです」
私は少し笑いました。
分かります。
世の中を全部変えることより。
来月の予定が守られること。
誰かと集まって、話せること。
自分の考えを口にできること。
その一つ一つが、実は大切なのです。
「ところで」
三枝さんが封筒を取り出しました。
「これ、皆さんに」
「何です?」
「講座の案内です」
そこには大きく書かれていました。
――市民公開講座「私たちの町と憲法」。
講師 三枝美佐子。
参加無料。
「よかったら、皆さんも来てください」
「ぜひ!」
私が答えると、相馬先輩が顔を上げました。
「おい」
「何です?」
「お前、その日仕事だぞ」
「休日ですよ?」
「書類整理がある」
「休日出勤ですか!?」
「見習いだろ」
「労働基準法という法律をご存じですか!」
「口だけ達者になりやがって」
三枝さんが笑いました。
片桐所長も、少しだけ口元を緩めます。
「行ってこい」
「え?」
「勉強になるだろう」
「……所長!」
珍しい。
今日は優しい。
「ただし」
来ました。
「帰ったら感想を書け」
「研修報告書ですか!?」
「そうだ」
「自由を学びに行くのに、自由がない!」
相馬先輩が吹き出しました。
夕方。
三枝さんが帰ったあと、私は机の上に憲法の本を広げていました。
七十六条。
司法権。
最高裁判所。
下級裁判所。
特別裁判所の禁止。
行政機関による終審裁判の禁止。
裁判官の独立。
受験生だったころは、単語として覚えていました。
でも。
今日、ようやく実感したことがあります。
裁判所は万能ではない。
司法権には範囲がある。
そして限界もある。
大学内部の単位認定のように、原則として大学の自主的判断に委ねられる問題もある。
宗教上の教義や信仰の価値そのものについて、裁判所が正しい答えを出せないこともある。
高度な政治性を持つ国家行為について、司法審査が制約される場合もある。
人々が争っていることすべてを、裁判所が解決できるわけではない。
でも。
だからといって。
役所が「内部の判断です」と言えば、何でも許されるわけでもない。
具体的に市民の権利利益が争われ、法令によって解決できる問題なら、司法審査の道が開かれ得る。
「……境界線、か」
私は呟きました。
相馬先輩が顔を上げます。
「何だ」
「司法権って、思ったより難しいですね」
「そりゃそうだ」
「裁判所に持ち込めば全部解決するわけじゃない」
「ああ」
「でも、行政が勝手に裁判所の代わりになることもできない」
「そうだ」
「なのに、裁判所が判断しない領域もある」
「ややこしいだろ」
「ものすごく」
相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。
「だから、事件を見ろ」
「事件?」
「誰が何を争ってるのか。法律で決着がつくのか。まずそれだ」
私は頷きました。
片桐所長が帳簿を閉じます。
「憲法の条文は昔から変わらん」
「はい」
「だが、世間の空気は変わる」
「……そうですね」
「空気に合わせて法律を曲げるな」
所長は短く言いました。
「法律に合わせて、判断を正せ」
私は、机の上の許可書の控えを見ました。
三枝さんは来月、会館で憲法について話せる。
それは、とても小さな出来事かもしれません。
町の制度が全部変わったわけではない。
憲法違反について、裁判所が判決を出したわけでもない。
市の審査要領が、直ちに消えたわけでもない。
でも。
一人の市民が、実際に受けた不許可を問題にした。
その事実を法律に照らして整理した。
結果として、役所が判断を改めた。
最高裁判所まで行かなくても。
憲法は、ちゃんと働くことがある。
それが、少し嬉しかった。
「こはる」
相馬先輩が呼びました。
「はい」
「今日の教訓は?」
私は少し考えました。
そして、ノートの端に書きました。
――司法権は、抽象的な正義を裁く力ではない。具体的な権利の争いを、法律で解決する力だ。
「……長いな」
「内容が大事なんです」
「もっと短くしろ」
「じゃあ」
私は書き直しました。
――憲法違反を叫ぶ前に、誰の何が争われているかを見よ。
相馬先輩が頷きました。
「それだ」
よし。
珍しく一発合格。
ところが。
「先輩」
「何だ」
「私にも具体的な権利侵害があります」
「は?」
「休日に書類整理を命じられています」
「それがどうした」
「休日の自由が侵害されています!」
「……お前な」
「裁判所に訴えたら勝てますか?」
相馬先輩は、しばらく私を見ました。
そして。
「まず雇用関係と勤務条件を確認しろ」
「妙に正確な回答!」
「それから労働法だ。憲法だけで飛びかかるな」
「はい……」
所長が奥から声をかけました。
「こはる」
「はい」
「その日は休んでいい」
「本当ですか!」
「ああ」
「ありがとうございます!」
「代わりに、今日の残りの書類を片付けろ」
私は机の上を見ました。
山。
書類の山。
明らかに、夕方から終わる量ではありません。
「……所長」
「何だ」
「私の労働環境について、法律上の争訟が発生しそうです」
「そうか」
所長は平然と言いました。
「なら、具体的な権利義務を整理しろ」
「今ですか!?」
「法律で解決できるかも考えろ」
「仕事を増やしておいて!?」
相馬先輩が腹を抱えて笑いました。
私は思わず叫びます。
「司法権の限界より、所長の業務命令の限界を知りたいです!」
所長は、まったく動じませんでした。
「まず事実を整理しろ」
「そこからですか!」
「当然だ」
……はい。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
裁判所には、司法権の限界があります。
役所には、行政権の限界があります。
そして。
どうやら、うちの所長にも限界はあるはずなのですが。
その具体的な場所だけは。
まだ誰も、発見できていませんでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




