[憲法・内閣の権能]法理編 こはるノート
国を動かす力と、国民を好き勝手に動かす力は、同じではありません。
法律を執行する。
予算を作る。
外国と条約を結ぶ。
政令を制定する。
どれも、内閣に与えられた重要な権限です。
けれど。
国を動かすための権限が、法律を無視してよい理由になってしまったら。
いったい、誰が行政を止めるのでしょうか。
その答えは、日本国憲法の中にあります。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
窓の外では、駅前の商店街に灯りがともり始めていました。
そして。
「いしやーきいもー」
遠くから、聞き覚えのある声。
森川正治さん。
駅前で十八年間、焼き芋の屋台を営んできた男性です。
先日、市役所から三万円の「罰金相当額」を請求され、営業自粛まで求められました。
理由は、国の地域環境整備施策。
そして、政令。
ところが調べてみれば。
関係する政令に、三万円の罰則など存在しなかったのです。
市の担当課が、任意の協力金を「罰金相当額」と表現し、納付義務があるように見せていた。
私たちは憲法七十三条六号を根拠に意見書を提出しました。
その結果。
三万円の納付要請は撤回。
営業についても、道路関係の必要な手続きを確認したうえで継続できることになりました。
今夜も森川さんは、駅前で焼き芋を売っています。
「……よし」
私はノートを開きました。
今日の見出しは、
――内閣の権能。
「相馬先輩」
「あ?」
「今日は憲法七十三条です」
「昨日もやっただろ」
「昨日は現場です。今日は法理です」
「同じじゃねえか」
「違います!」
私はペンを握りました。
「昨日は、森川さんを救うために条文を使いました」
「うん」
「今日は、その条文を試験で間違えないために整理するんです」
相馬先輩は煙草をくわえたまま、こちらを見ました。
「お前、試験が近いのか」
「……ある意味、常に近いです」
「便利な答えだな」
転生者の事情は、説明が難しい。
現代の行政書士受験生だった私が、昭和六十三年の行政書士事務所で働いている。
しかも。
憲法の条文は未来と一字一句同じ。
ここは助かります。
行政不服審査法のように、時代ごとに制度を読み替える必要はありません。
ただし。
条文が同じでも、判例や社会の受け止め方は変わります。
そして何より。
昭和の役所が持ち出す「国の方針」「地元の和」「公共の福祉」は、現代の感覚以上に重い。
だからこそ。
正確な法律知識が必要なのです。
「まず、憲法七十三条一号です」
私は六法を開きました。
――法律を誠実に執行し、国務を総理すること。
「昨日の事件で、一番印象に残った言葉ですね」
相馬先輩が頷きました。
「法律を誠実に執行する、か」
「はい」
「当たり前の話だろ」
「そうなんです。でも、その当たり前が難しいんです」
法律を作るのは、原則として国会。
憲法四十一条。
国会は、国権の最高機関であり、国の唯一の立法機関です。
一方。
行政権は内閣に属する。
憲法六十五条。
内閣は、国会が制定した法律を誠実に執行する。
「つまり」
私はノートに書きました。
国会。
法律を作る。
内閣。
法律を執行する。
「じゃあ内閣には、法律みたいな決まりを作る権限はねえのか」
相馬先輩が聞きました。
「あります」
「どっちだよ」
「政令です」
私は七十三条六号を指しました。
「内閣は政令を制定できます。でも、法律を超えて何でも決められるわけではありません」
相馬先輩が、昨日の通知書を指で叩きました。
「だから焼き芋屋から三万円取れなかったわけか」
「そうです」
今回、市役所が持ち出したのは、国の施策を進めるための政令と、その下にある事業推進要領でした。
でも。
政令には罰則がない。
法律にも、それを認める根拠が見当たらない。
それなのに、市の担当者は「罰金相当額」を請求した。
「法律を執行するっていうのは」
私は言いました。
「法律に書いてない義務や罰則を、行政が勝手に増やしていいって意味じゃないんです」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「そうだ」
「しかも『国務を総理する』というのは、行政事務全体を統轄することです」
「うん」
「だからといって、内閣が憲法や法律の上に立つわけではありません」
所長が頷きました。
「一号の『誠実に』を忘れるな」
私はペンを止めました。
誠実。
何気ない二文字。
でも。
法律を執行する側が、法律の趣旨をねじ曲げてしまえば、国民は何を信じればいいのでしょう。
私はノートに書きました。
――内閣は法律を作り替えるためではなく、誠実に執行するために行政権を持つ。
「次は外交です」
私はページをめくりました。
憲法七十三条二号。
――外交関係を処理すること。
そして三号。
――条約を締結すること。但し、事前に、時宜によっては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。
「外交は内閣の仕事です」
「そりゃそうだな」
「外国と交渉する。国際関係を処理する。条約を締結する」
相馬先輩が首をかしげました。
「じゃあ、内閣が外国と約束すれば、それで終わりなのか」
「いいえ」
私は即答しました。
「条約には国会の承認が必要です」
「事前にか?」
「原則は事前です。でも、事情によっては事後承認も認められます」
私はノートに二重線を引きました。
条約の締結。
内閣。
条約の承認。
国会。
「これ、よく間違えます」
「何をだ」
「国会が条約を締結する、という問題です」
「違うのか」
「違います。締結するのは内閣です」
私は続けました。
「それから、条約は一般に法律に優位すると解されています」
「ほう」
「国内法との関係でも重要な効力を持つから、国会の承認という民主的な統制が必要になるんです」
相馬先輩が腕を組みました。
「内閣が外国と好き勝手に約束して、国会を無視するわけにはいかねえってことか」
「そうです」
ただし。
すべての国際的な取り決めが、必ず国会承認を要する条約に当たるわけではありません。
条約の実施に関する細かな行政取極など、性質によって区別が必要になります。
「つまり」
私は書きました。
――内閣が条約を締結し、国会が承認する。原則事前、事情により事後。
「短くなったな」
相馬先輩が言いました。
「今日は一行の覚え書きが十五個できそうです」
「一行じゃねえだろ」
「最後にまとめます!」
「四号です」
私は条文を読みました。
――法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。
「……官吏?」
相馬先輩が聞きました。
「国家公務員のことだと考えると分かりやすいです」
「掌理は?」
「取りまとめることです」
つまり。
国家公務員に関する事務を、法律の定める基準に従って取りまとめる。
その法律として重要なのが、国家公務員法です。
「ここでも法律が出てくるんだな」
「そうです」
私は頷きました。
「内閣は公務員人事に関する事務を扱います。でも、その基準は法律によります」
「総理大臣が嫌いな職員を、勝手に首にできるって話じゃねえわけだ」
「そのとおりです」
国務大臣の任免とは違います。
国務大臣については、憲法六十八条で総理大臣に任免権が与えられています。
でも、一般の国家公務員については、法律に基づく制度や手続があります。
「前に総理大臣の権能を勉強しましたよね」
「ああ」
「そのときの国務大臣の罷免権と、今回の国家公務員に関する事務の掌理は別です」
相馬先輩が頷きました。
「大臣と役人じゃ、扱いが違うと」
「はい」
私はノートに書きました。
――国務大臣の任免は総理大臣。国家公務員に関する事務は、法律の基準に従って内閣が掌理。
「五号。予算です」
私は六法を指しました。
――予算を作成して国会に提出すること。
「ここも重要です」
「予算を作るのは内閣だろ」
「はい」
「じゃあ予算を決めるのも内閣か?」
「違います」
私は首を振りました。
「国会の議決が必要です」
予算作成。
内閣。
予算の議決。
国会。
この区別。
昨日、沢渡課長から突然質問されたところです。
「課長、急に聞いてきましたよね」
「お前、固まってたな」
「びっくりしたんです!」
でも。
あの質問は、今日の勉強につながっています。
内閣に予算作成権がある。
だからといって、内閣が独断で国費を好きなだけ使えるわけではない。
憲法八十三条。
財政民主主義。
国の財政を処理する権限は、国会の議決に基づいて行使されます。
「金を使う話だから、国民の代表が関与するんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「税金は行政の財布ではない」
「……なるほど」
私は、その言葉をノートに書き留めました。
税金は行政の財布ではない。
うん。
試験にはそのまま出ないでしょうけれど、忘れにくい。
「そして、六号です」
私は少し姿勢を正しました。
今日の主役。
憲法七十三条六号。
政令制定権。
「先輩」
「何だ」
「昨日、森川さんが困った原因を覚えていますか」
「市が三万円取ろうとした」
「何を根拠に?」
「国の政令だって言ってたな」
「そうです」
私は条文を読みました。
――この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。
そして。
――但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。
「ここです」
私は罰則の部分に二重線を引きました。
「政令には、法律の特別な委任がなければ罰則を設けられません」
相馬先輩が頷きます。
「法律が認めてないのに、内閣が勝手に罰金を作っちゃいけねえ」
「はい」
なぜか。
それは、刑罰が人の自由を重大に制限するからです。
人を処罰するためには、法律上の根拠が必要です。
罪刑法定主義。
憲法三十一条。
そして、国会中心立法の原則。
「だから、内閣が作る政令にも限界があるんです」
私は続けました。
「政令には大きく分けて、執行命令と委任命令があります」
「また難しい言葉が出たな」
「簡単です」
執行命令。
法律を実施するために、必要な細かな事項を定める。
委任命令。
法律から委任された事項について、具体的な内容を定める。
「どっちも法律とのつながりが必要なんだな」
「そうです」
政令は、内閣が制定する命令です。
でも、法律の代わりに何でも自由に決めることはできません。
まして、法律の特別な委任もなく罰則を作ることはできない。
「森川さんの件では」
私は言いました。
「そもそも政令に三万円の罰則がありませんでした」
「ああ」
「市の事業推進要領に、罰金を作る権限があるわけでもありません」
「そうだな」
「だから『政令に基づく罰金相当額』という説明は、法的根拠を欠いていたんです」
ここで、片桐所長が口を開きました。
「こはる」
「はい」
「もう一つ」
「何でしょう」
「罰金と行政上の金銭負担を混同するな」
「……はい」
罰金。
刑罰です。
一方。
行政上の過料や課徴金などは、刑罰とは性質が異なります。
それぞれ法律上の根拠や手続を確認しなければなりません。
名前を「協力金」に変えたからといって、強制的に徴収できるわけでもない。
「今回の三万円は、どれにもきちんと当てはまらなかったんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「だから法的な性質を最初に確認した」
私は思い出しました。
罰金相当額。
納付要請。
任意の協力金。
名前だけを取り繕っても、実際に何をしているのかが問題になります。
人から金を取る。
営業を制限する。
そんな行為には、法的な根拠と適切な手続が必要です。
「……怖いですね」
私は呟きました。
「何がだ」
相馬先輩が聞きます。
「もし私が『政令だから仕方ない』って思ってたら、森川さんは三万円を払ってたかもしれません」
相馬先輩が煙草を消しました。
「だから調べるんだよ」
「はい」
「世間の常識? 俺たちが守ってんのは法律だ」
私は頷きました。
法律を守る。
それは、国民だけの義務ではありません。
法律を執行する行政自身にも、求められることなのです。
「七号です」
私はページをめくりました。
――大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。
「……多いですね」
相馬先輩が顔をしかめました。
「何だそれ」
「恩赦です」
恩赦。
刑事司法によって生じた刑罰などの効果を、一定の制度に基づいて消滅させたり、軽減したりする仕組みです。
「内閣が決めるのか」
「はい」
私は頷きました。
「でも、ここでも役割の区別があるんです」
憲法七十三条七号。
恩赦を決定するのは内閣。
一方。
憲法七条六号。
恩赦を認証するのは天皇の国事行為です。
「決定と認証は違うんですね」
「そうです」
私はノートに書きました。
恩赦の決定。
内閣。
恩赦の認証。
天皇。
そして恩赦には、いくつか種類があります。
大赦。
一定の種類の犯罪について、有罪判決の効力などを消滅させる。
特赦。
特定の者について、有罪判決の効力を失わせる。
減刑。
刑を軽くする。
刑の執行の免除。
刑そのものの言渡しは残しつつ、その執行を免除する。
復権。
刑に伴って失われたり停止されたりした資格を回復させる。
「……覚えることが多いな」
相馬先輩が言いました。
「そうなんです」
私はため息をつきました。
「憲法七十三条七号って、文字数のわりに情報量が多すぎます」
「条文に文句言うな」
「受験生の心の叫びです!」
私は次のページを開きました。
ここからは、憲法七十三条だけでなく、ほかの条文にも散らばっている内閣の権能です。
「先輩」
「何だ」
「今までの七つで終わりだと思ったでしょう」
「思った」
「まだあります」
「……帰っていいか?」
「駄目です!」
私は六法を開きました。
まず、天皇の国事行為。
憲法三条。
天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認が必要です。
そして、内閣が責任を負う。
「これも重要です」
「天皇が勝手に政治を決めるわけじゃねえんだな」
「はい」
天皇は、日本国の象徴。
国政に関する権能を持ちません。
国事行為について、内閣が助言と承認を行い、その責任を負う。
だから。
国事行為として天皇が行うことと、実質的に内閣が決定することを区別する必要があります。
「例えば?」
相馬先輩が聞きました。
「国会の召集です」
私は憲法七条二号を指しました。
国会を召集するのは、天皇の国事行為。
しかし、召集するという実質的な決定は内閣が行う。
「次は?」
「衆議院の解散です」
憲法七条三号。
衆議院の解散も、天皇の国事行為です。
しかし、その実質的な決定は内閣が行います。
「つまり」
私はノートに書きました。
国会の召集。
内閣が実質的に決定。
天皇が国事行為として召集。
衆議院の解散。
内閣が実質的に決定。
天皇が国事行為として解散。
相馬先輩が頷きました。
「決める人と、国事行為をする人が違うんだな」
「そうです」
ここが試験の重要な対比です。
◇
「次は、参議院の緊急集会です」
私は憲法五十四条を開きました。
衆議院が解散されたとき。
参議院も同時に閉会となります。
しかし。
国に緊急の必要がある場合、内閣は参議院の緊急集会を求めることができます。
「衆議院が解散されている間に、緊急事態が起きたら困りますよね」
「そりゃそうだ」
「でも衆議院議員は、解散で議員の身分を失っています」
「うん」
「だから参議院の緊急集会という仕組みがあるんです」
ここで注意。
緊急集会は、普通の国会の会期ではありません。
そのため、天皇による国会の召集とは区別されます。
内閣が緊急集会を求める。
内閣総理大臣が期日と案件を示して参議院議長に請求する。
議長が議員に通知する。
参議院議員が集まる。
「これも国会の召集とは違うんですね」
「そうです」
私は頷きました。
「しかも、緊急集会で取られた措置は、臨時のものです」
次の国会開会後、十日以内に衆議院の同意が得られなければ、将来に向かって効力を失います。
「そこまで決まってるのか」
「決まっています」
緊急事態への対応を認める。
でも、衆議院が戻ってきたら、改めて民主的な統制を受ける。
ここでも。
内閣の権限と、その限界がセットになっています。
「次は裁判官の任命です」
私は六法のページをめくりました。
憲法六条二項。
七十九条一項。
八十条一項。
相馬先輩が、また嫌そうな顔をしました。
「今度は裁判所かよ」
「はい」
「内閣の勉強なのに?」
「内閣には裁判官の任命に関する権限もあるんです」
まず。
最高裁判所長官。
内閣が指名し、天皇が任命する。
次に。
最高裁判所長官以外の最高裁判所裁判官。
内閣が任命する。
そして。
下級裁判所の裁判官。
最高裁判所が指名した者の名簿によって、内閣が任命する。
「……ややこしいな」
相馬先輩が言いました。
「ですよね!」
私は大きく頷きました。
「でも、整理すれば覚えられます」
最高裁長官。
内閣が指名。
天皇が任命。
最高裁のその他の裁判官。
内閣が任命。
下級裁判所の裁判官。
最高裁が名簿で指名。
内閣が任命。
「ここで重要なのは」
私は続けました。
「下級裁判所の裁判官を、内閣が自由に選べるわけではないということです」
最高裁判所が指名した者の名簿。
その中から任命する。
裁判所の自主性を守るための仕組みでもあります。
「内閣が裁判官の人事を全部好き勝手にできたら、裁判所の独立が危うくなりますもんね」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
私はノートに書きました。
――裁判官の任命にも、司法の独立を守るための仕組みがある。
「次は予備費です」
私は憲法八十七条を開きました。
「……焼き芋の話か?」
相馬先輩が言いました。
「違います!」
「昨日、所長が予備費で焼き芋を買うとか言ってただろ」
「それは事務所の予算です!」
私は気を取り直しました。
予備費。
予見し難い予算の不足に充てるために設けられる費用。
国の予算には、こうした仕組みがあります。
憲法八十七条。
国会の議決に基づいて予備費を設ける。
そして、内閣の責任で支出する。
さらに。
すべての予備費の支出について、内閣は事後に国会の承諾を得なければならない。
「つまり」
私は言いました。
「予備費は、内閣が責任を持って使います」
「うん」
「でも、使ったあとに国会の承諾が必要です」
「もし国会が承諾しなかったら?」
「そこが重要です」
私はペンを止めました。
「事後承諾が得られなくても、すでに行われた支出が当然に無効になるわけではありません」
相馬先輩が眉を上げました。
「承諾が必要なのに?」
「はい」
すでに支出されたお金です。
国会が事後に承諾しなかったからといって、その支出が自動的に消滅するわけではありません。
ただし。
内閣は政治的責任を問われることがあります。
「なるほど」
相馬先輩が頷きました。
「支出そのものの効力と、政治責任は別なんだな」
「そうです」
私はノートに書きました。
――予備費は内閣が支出。国会の事後承諾が必要。ただし不承諾でも支出は当然には無効にならない。
「……あれ」
私はふと思いました。
「先輩」
「何だ」
「これ、昨日の三万円と逆ですね」
「何がだ」
「森川さんへの三万円は、そもそも法的根拠がありませんでした」
「そうだな」
「でも予備費は、憲法上の仕組みに従って支出されたものなら、事後承諾が得られなくても、直ちに支出の効力が否定されるわけじゃない」
「うん」
「同じお金の話でも、全然違うんですね」
片桐所長が頷きました。
「何が欠けているかを見ろ」
なるほど。
法的根拠がないのか。
手続に問題があるのか。
事後的な政治責任の問題なのか。
そこを区別することが重要なのです。
「次は決算です」
私は憲法九十条を開きました。
国の収入支出の決算。
これを毎年、会計検査院が検査する。
そして内閣は、次の年度に、その検査報告とともに決算を国会へ提出する。
「予算と決算の違いは分かりますよね?」
私は相馬先輩に聞きました。
「予算は、これから使う金」
「はい」
「決算は、実際に使った金」
「正解です!」
私は頷きました。
予算。
内閣が作成し、国会に提出。
決算。
会計検査院が検査し、内閣が検査報告とともに国会へ提出。
「ここ、会計検査院が重要です」
「何だそれ」
「国の会計を検査する機関です」
「内閣の下にあるのか?」
「いいえ」
私は首を振りました。
「会計検査院は、内閣から独立した地位を持っています」
相馬先輩が頷きました。
「なるほどな」
「もし内閣が自分のお金の使い方を、自分だけで検査して終わりだったら?」
「都合の悪いことを隠すかもしれねえ」
「そうです」
だから、独立した会計検査院が検査する。
内閣は、その検査報告とともに決算を国会に提出する。
ここでも。
行政権に対するチェックの仕組みが用意されています。
「しかも会計検査院は、国家行政組織法上の一般的な行政機関とは区別されます」
「ほう」
「憲法九十条に根拠を持つ、独立性の強い機関なんです」
私はノートに書きました。
――予算は内閣が作る。決算は会計検査院が検査し、内閣が国会へ提出する。
「最後は財政状況の報告です」
私は憲法九十一条を開きました。
――内閣は、国会及び国民に対し、定期に、少くとも毎年一回、国の財政状況について報告しなければならない。
「年一回ですか」
相馬先輩が言いました。
「憲法上は、少なくとも年一回です」
「もっと頻繁でもいいのか?」
「もちろんです」
私は頷きました。
「しかも財政法では、さらに具体的な報告の仕組みが定められています」
予算が成立したときの報告。
国の収入や支出。
国債。
借入金。
国有財産。
さらに、四半期ごとの財政状況の報告。
「ここも国民に対する説明責任ですね」
私は言いました。
国のお金は、国民の暮らしと深く結びついています。
税金。
公共事業。
社会保障。
教育。
防災。
だからこそ。
国がどのようにお金を使っているのか、国民に知らせる必要がある。
「昨日の森川さんの件も」
私は思い出しました。
「国の事業だから、という説明だけでは足りませんでした」
「ああ」
「何を根拠に、何をするのか。誰にどんな負担を求めるのか」
私は六法を閉じました。
「行政は、それを説明しなければならないんですね」
片桐所長が静かに頷きました。
「そうだ」
私はノートを見直しました。
法律の執行。
外交。
条約。
国家公務員に関する事務。
予算。
政令。
恩赦。
天皇の国事行為への助言と承認。
国会召集。
参議院の緊急集会。
衆議院解散。
裁判官の任命。
予備費。
決算。
財政状況の報告。
十五の権能。
「……多い」
私は呟きました。
相馬先輩が笑います。
「やっと気づいたか」
「最初から気づいてました!」
でも。
ただ並べて覚えるより、ずっと分かりやすくなりました。
なぜなら。
それぞれの権限には、必ず意味があるからです。
内閣が国を動かすための権限。
国会による民主的統制。
司法の独立。
財政のチェック。
そして、国民の権利を守るための限界。
「所長」
「何だ」
「今日の勉強で、一番大事なのは何でしょう」
片桐所長は少し考えました。
そして。
「権限と責任だ」
短く答えました。
「権限と責任……」
「内閣には強い権限がある」
「はい」
「だからこそ、その権限を正しく使う責任がある」
私は頷きました。
強い権限。
強い責任。
そして、それを支える憲法。
なるほど。
ただの暗記項目ではありません。
国を動かす仕組みそのものなのです。
私は最後に、ノートの一番下へ書きました。
――内閣は国を動かす。でも、法律を超えて国民を動かすことはできない。
「……よし」
私はペンを置きました。
「終わったか」
相馬先輩が聞きます。
「はい!」
「じゃあ帰るぞ」
「待ってください」
「何だ」
私は机の上の紙袋を指しました。
「昨日の焼き芋、一本残ってますよね」
「ああ」
「誰が食べるか、決めてないですよね」
「そうだな」
私はにやりと笑いました。
「では、内閣として予算を作成し、配分を決めましょう」
「ここは内閣じゃねえ!」
「じゃあ所長が決めるんですか?」
片桐所長が顔を上げました。
「俺が決める」
「独断ですか?」
「そうだ」
「閣議決定は?」
「いらん」
「法律の根拠は?」
「事務所の所長だ」
相馬先輩が笑いました。
「こはる、諦めろ。うちの所長は内閣より強え」
「そんなことありません!」
私は六法を持ち上げました。
「権限には限界があります!」
「じゃあどうするんだよ」
「公平に分けるべきです!」
片桐所長が、紙袋を開けました。
そして。
焼き芋を三つに割りました。
「……え?」
私と相馬先輩は、同時に固まりました。
「三人だろ」
所長が言いました。
「はい」
「三つに分けた」
「……」
私は思わず笑いました。
「所長」
「何だ」
「それが一番合理的ですね」
「最初からそう言え」
相馬先輩が焼き芋を受け取りながら言いました。
「何だよ。憲法まで持ち出して、結局三等分か」
「いいじゃないですか」
私は笑いました。
「強い権限を持つ人が、公平に使ってくれたんですから」
所長は何も言いませんでした。
ただ、少しだけ口元を緩めました。
窓の外では、森川さんの屋台の声が聞こえます。
――いしやーきいもー。
その声が、今日も町に響いている。
憲法七十三条。
内閣の権能。
法律を誠実に執行する。
その言葉は、ただ行政機関の仕事を説明するためだけにあるのではありません。
国民が法律を守るように。
行政自身も、法律を守る。
そして、権限を与えられた者ほど、その限界を知る。
それが、法治国家の基本です。
私は焼き芋を一口食べました。
甘い。
ほくほくしている。
法律の勉強をしたあとに食べる焼き芋は、なぜか少しおいしく感じました。
「先輩」
「何だ」
「今日の教訓、分かりました?」
「ああ」
「言ってみてください」
相馬先輩は、焼き芋を頬張りながら答えました。
「内閣は国を動かす。だが法律は飛び越えられねえ」
私は笑いました。
「正解です!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日もまた一つ。
六法の中の冷たい条文が、町の誰かの暮らしを守る温かい言葉に変わりました。
――内閣は、法律を誠実に執行する。その法律を、行政自身が守るために。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




