↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈憲法 配点28点/300点〉 統治

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
409/610

[憲法・内閣の権能]現場編 「国の政令ですから、罰金を払ってください」の嘘。法律を執行する内閣と、法律を超えてはいけない行政権――最高法規が暴く三万円の罠

挿絵(By みてみん)

 偉い人が作った決まりでも、何でも許されるわけではありません。


 国が決めたから。


 内閣が決めたから。


 政令に書いてあるから。


 そう言われると、普通の人は黙ってしまいます。


 けれど。


 法律を守るための決まりが、法律を飛び越えて人を罰し始めたら。


 それは、いったい誰が止めるのでしょうか。


 答えは、意外と身近なところにあります。


 憲法です。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


「……三万円、払わないといけないそうです」


 その日の相談者は、そう言って一枚の紙を机に置きました。


 私は思わず聞き返しました。


「三万円?」


「はい」


「何のお金です?」


「罰金だそうです」


「……罰金?」


 嫌な予感がしました。


 紙を手に取ります。


 表題。


 ――駅前環境整備事業協力要請に伴う違反措置通知。


 差出人は、市役所商工観光課。


 本文には、こうあります。


『国の地域環境整備施策に基づく駅前美観維持のため、指定区域内における無届の露店販売行為を禁止する』


 そして最後に。


『違反者に対しては、政令に基づき三万円の罰金相当額の納付を求める』


「……ん?」


 私は紙をひっくり返しました。


 裏。


 白紙。


 もう一度、表。


「先輩」


「あ?」


「これ、何かおかしくないですか」


 相馬先輩が煙草をくわえたまま、紙を覗き込みました。


「どこがだ」


「罰金相当額って、何です?」


「罰金みてえな金だろ」


「そこを法律的に!」


「知らねえよ。役所に聞け」


 雑。


 でも、そこが問題なのです。


 罰金。


 相当額。


 納付要請。


 言葉が微妙にずれています。


 罰金なら刑罰です。


 裁判手続など、法律で定められた仕組みが必要になります。


 ところが、この紙は市役所が直接お金を請求している。


「相談者さん、お名前を教えてください」


「森川正治といいます」


 四十八歳。


 駅前で焼き芋の屋台を営んでいる男性でした。


 秋から冬にかけて、夕方になるとリヤカーを引いて駅前へ出る。


 石焼き芋。


 紙袋。


 白い湯気。


 帰宅途中の学生や会社員が買っていく。


「今年で十八年目です」


 森川さんは、膝の上で帽子を握りました。


「ずっと同じ場所ですか?」


「ええ。駅の東側の道です。道路の使用についても、警察には確認して、必要な手続をしてきました」


「市の土地では?」


「ありません。市道の脇ですが、いつも警察の許可で指定された場所を使っています」


 なるほど。


 道路使用許可と道路占用などは別の問題になる場合があります。


 その確認も必要です。


 でも、今の争点はそこだけではなさそうです。


「何があったんです?」


 森川さんが深く息を吐きました。


「今年、市から駅前の美観を守る運動を始めると言われたんです」


「美観?」


「国の方針だそうで。駅前に屋台が並ぶのは古臭い、観光振興の邪魔になるって」


 私は黙りました。


 国の方針。


 駅前再整備。


 観光振興。


 また、この町の得意技です。


「それで、屋台を出すなと?」


「最初は協力してくれ、と。でも私は、生活がかかっていますから」


 森川さんは帽子を握り直しました。


「断ったら、商店街の役員さんにも呼ばれました」


「何て?」


「『みんな協力しているのに、お前だけ勝手なことをするな』と」


 ああ。


 来ました。


 昭和の空気。


 地元の和。


 協調性。


 昔からの付き合い。


 そして、その全部を使って個人を黙らせる仕組み。


「それで、先週」


 森川さんが続けました。


「屋台を出したら、市の職員さんが来て、この通知を渡されたんです」


「三万円を払え、と?」


「はい」


「払わなかったら?」


「今後は屋台を出さないように。従わなければ、さらに厳しい措置を考えると言われました」


 私は紙を見ました。


 政令。


 国の命令。


 内閣。


 たしかに、強そうです。


 でも。


 何かがおかしい。


「所長」


 私は言いました。


「これ、そもそも何の政令なんでしょう」


 片桐所長が顔を上げました。


「そこからだ」



 翌朝。


 市役所二階。


 総務課。


「また片桐先生ですか」


 沢渡課長は、私たちを見るなりそう言いました。


 灰色の背広。


 細い眼鏡。


 今日も相変わらず、感情を窓口で受付していないような顔です。


「今度は何でしょう」


 相馬先輩が通知書を置きました。


「焼き芋屋から三万円取る話だ」


「……ああ」


 沢渡課長は頷きました。


「駅前環境整備の件ですね」


「根拠を聞きたい」


「国の地域環境整備施策に沿った市の取組です」


「それは分かってる。三万円の根拠だ」


 沢渡課長は、手元のファイルを開きました。


「関係省庁から通知されている整備推進要領に基づき、担当課が協力を求めています」


「要領?」


 私は聞きました。


「はい」


「政令ではないんですか?」


「関連する政令もあります」


「その政令の何条に、三万円の罰金が書いてあるんです?」


 沢渡課長が、少しだけ目を細めました。


「朝比奈さん」


「はい」


「通知の表現が不正確な可能性はあります。しかし、まず制度全体を確認しましょう」


 そう言って、資料を差し出しました。


 国の地域環境整備政策。


 関係する法律。


 その施行に必要な事項を定めた政令。


 そして。


 関係省庁が自治体に配布した、事業推進要領。


 さらに市の担当課が作成した、協力依頼文書。


「……なるほど」


 私は資料を並べました。


 国の法律。


 政令。


 省庁の要領。


 市の文書。


 どんどん下へ降りています。


「ここまでは理解しました」


「では」


「でも、課長」


 私は顔を上げました。


「三万円の罰金は、どこから出てきたんですか?」


 沢渡課長が答えます。


「市の担当課では、協力を確保するための措置として説明していたようです」


「法律にあるんですか?」


「確認中です」


「政令には?」


「少なくとも、私が確認した範囲では、そのような罰則はありません」


 相馬先輩が腕を組みました。


「じゃあ、何なんだよ」


「担当課の説明では、任意の協力金という整理のようです」


「任意?」


 私は思わず声を上げました。


「任意の協力金なのに、罰金って書いたんですか?」


「『罰金相当額』という表現ですね」


「それ、普通の人には罰金に見えますよ!」


「その点は問題があると考えています」


 沢渡課長は冷静でした。


 ごまかす気はない。


 でも、市の事業自体を否定する気もない。


「ただし」


 課長が続けました。


「駅前整備には公共性があります。地元商店街からも露店販売の整理を求める声があります」


「地元の和、ですか」


「秩序を保つことも行政の仕事です」


 私は口を閉じました。


 公共性。


 秩序維持。


 公共の福祉。


 正しそうな言葉ばかりです。


 しかも、全部を否定することはできません。


 駅前を整備する必要がある場合もある。


 道路の安全を守る必要もある。


 歩行者の通行を妨げる営業なら、適法な規制の対象にもなる。


 でも。


 だからといって。


 法律にもない罰金を作っていい?


 そんなはずはありません。


「課長」


 片桐所長が口を開きました。


「正式な徴収決定は出ているのか」


「出ていません」


「納付義務を定めた条例は」


「ありません」


「刑罰を定めた法律上の根拠は」


「この案件については、確認できていません」


 所長は静かに頷きました。


「なら、現時点で森川さんに三万円の法的納付義務があるとは説明できないな」


「……そうなります」


 私は息を呑みました。


 そこまで確認できれば、もう十分なのでは。


 そう思った瞬間。


 沢渡課長が続けました。


「ただし、国の政策に沿った行政指導まで否定されるわけではありません」


 う。


 確かに。


 任意の協力を求めることと、強制することは別です。


 この人、やっぱり簡単には崩れません。


「公共の福祉の観点から、駅前環境を保全する必要もあります」


 沢渡課長の声は静かでした。


「行政には、法律を執行し、公共の利益を実現する役割があります」


 私は黙りました。


 法律を執行する。


 国の政策を実現する。


 その言葉に、頭の中で何かが引っかかりました。


 執行。


 内閣。


 政令。


 そして。


 憲法七十三条。



 事務所へ戻った私は、六法を開きました。


「先輩!」


「うるせえな」


「憲法七十三条です!」


「何だ、急に」


「内閣の権能です!」


 相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。


「それがどうした」


「ここに書いてあります」


 私は条文を指しました。


 ――法律を誠実に執行し、国務を総理すること。


「これです!」


「法律を執行する。普通だろ」


「はい。でも、よく見てください」


 私は声を少し落としました。


「法律を作る、とは書いてありません」


 相馬先輩が私を見ました。


「……ほう」


「内閣は、法律を誠実に執行する側なんです」


 国会。


 法律を作る。


 内閣。


 法律を執行する。


 もちろん、内閣にも政令を制定する権限があります。


 でも。


 政令は、法律と同じものではありません。


「先輩」


 私は続けました。


「憲法七十三条六号を見てください」


 そこには、こうあります。


 ――この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。


 そして。


 ――但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。


「……あ」


 相馬先輩が、条文を覗き込みました。


「何だ」


「罰則です」


 私は、指でその部分を押さえました。


「政令で罰則を定めるには、特に法律の委任が必要なんです!」


 そう。


 これです。


 私が探していたもの。


 内閣は、政令を制定できます。


 でも、無制限ではない。


 特に罰則。


 人を処罰する決まり。


 そこには、法律による特別の委任が必要なのです。


「つまり」


 相馬先輩が言いました。


「国が作った政令だからって、好き勝手に罰金を作れるわけじゃねえ」


「そうです!」


「法律に特別な根拠がなきゃ駄目だと」


「はい!」


 私は思わず立ち上がりました。


「しかも今回、もっとひどいんです!」


「何がだ」


「政令にすら三万円の罰則がないんです!」


 相馬先輩が数秒黙りました。


 そして。


「……何だそりゃ」


 低い声。


「国の政令です、って言っておいて」


「はい」


「政令には書いてねえ」


「はい」


「市の要領で、罰金みたいな金を取ろうとしてる」


「そうです!」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「ふざけた話だな」


 そのとき。


 奥から片桐所長が出てきました。


「こはる」


「はい」


「まだ一つ足りん」


「え?」


「三万円を取れない。それだけでは森川さんは屋台を続けられん」


 私は口を閉じました。


 ……そうだ。


 三万円の請求が消えても。


 屋台を出すなという圧力は残る。


 商店街からの反対もある。


 市役所からの協力要請もある。


 森川さんが安心して商売できるとは限りません。


「何を整理する」


 所長が聞きました。


 私は考えました。


 営業の自由。


 憲法二十二条。


 公共の福祉。


 規制目的。


 規制手段。


 そして、法律上の根拠。


「……市が営業を制限する根拠と、その必要性です」


「そうだ」


 私は頷きました。


「道路の安全や歩行者の通行に具体的な支障があるなら、適法な規制はあり得ます」


「うん」


「でも、森川さんの営業場所は、警察が条件を付して認めている場所です」


「それだけで、すべての法的問題が解決するわけではないぞ」


「はい。道路占用など、ほかに必要な手続がないかも確認します」


「それから?」


「市の美観政策のために営業を控えてほしいという要請は、直ちに強制力を持つわけではありません」


 相馬先輩が頷きました。


「任意なら任意だ」


「はい。そして、任意の協力を拒んだ人に、法律上の根拠なく罰金を科したり、不利益をほのめかして従わせたりするのは問題です」


 私は六法を見ました。


 憲法二十二条。


 職業選択の自由。


 そこから保障される営業の自由。


 さらに。


 憲法十三条。


 個人の尊重。


「所長」


 私は言いました。


「国の政策が正しいかどうかと、森川さんの商売を一方的に潰していいかどうかは、別ですね」


 片桐所長が頷きました。


「そうだ」


「公共の福祉は、何でも禁止できる魔法の言葉じゃない」


「うん」


「駅前の美観を守るという目的があっても、なぜ森川さんの屋台を排除する必要があるのか。ほかに方法はないのか。そこまで検討しないといけない」


 所長は、しばらく私を見ていました。


 そして。


「意見書を作れ」


「はい!」


「ただし」


 来ました。


 所長の、ただし。


「憲法違反だと叫ぶだけの紙はいらん」


「はい」


「政令と法律の関係。市の権限。納付要請の法的性質。営業制限の必要性。全部分けろ」


「分かりました!」


 相馬先輩が椅子から立ち上がりました。


「じゃあ俺は現場に行く」


「え?」


「屋台が本当に邪魔なのか、見てくる」


「一人で?」


「お前は紙を書け」


「先輩は?」


「焼き芋食ってくる」


「仕事してください!」


「現場確認だ!」


 ……絶対、半分は食べたいだけです。



 翌日。


 私たちは駅前へ向かいました。


 森川さんの屋台が出ていた場所。


 駅の東側。


 歩道に沿った一角。


 近くには植え込みがあり、その横に広めの空間があります。


 相馬先輩がメジャーを取り出しました。


「こはる、測れ」


「はい」


 歩道の幅。


 屋台が置かれていた位置。


 通行部分との距離。


 車道へのはみ出し。


 近くの横断歩道との位置関係。


 全部、確認します。


「……思ったより広いですね」


「だろ」


「でも、夕方に人が増えると状況が違うかもしれません」


「だから昨日も見た」


「え?」


 相馬先輩が、煙草をくわえたまま言いました。


「午後五時半。六時。六時半。人の流れを見た」


「……本当に仕事してたんですか」


「失礼なやつだな」


「焼き芋食べてるだけかと」


「食ったぞ」


「やっぱり!」


「一本だ」


「本数の問題じゃありません!」


 でも。


 先輩が記録した内容は、きちんとしていました。


 屋台が設置される範囲。


 客が並ぶ位置。


 通行人が避ける必要の有無。


 車椅子や自転車への影響。


 そして、近くに置かれた商店街の宣伝看板。


「あれ」


 私は指しました。


「商店街の看板は残るんですね」


「ああ」


「屋台より大きくないですか?」


「大きいな」


「通行への影響は?」


「位置によるが、確認は必要だ」


 相馬先輩が腕を組みました。


「まあ、看板と屋台じゃ法的な扱いも違うかもしれねえ。そこは一緒くたにできん」


「はい」


 私は頷きました。


 比較対象がある。


 だから即、不平等。


 とは言えません。


 でも。


 市が駅前の美観や通行確保を理由に営業制限を求めるなら。


 何を基準に、どのように判断しているのか。


 そこは確認できます。


「先輩」


「何だ」


「森川さんの屋台が、具体的に何の支障になるのか。そこが必要ですね」


「そうだ」


 私は現場の見取り図に書き込みました。


 規制目的。


 歩行者の安全。


 美観。


 事業推進。


 規制手段。


 営業自粛。


 三万円の納付要請。


 目的と手段の関係。


 必要性。


 合理性。


 ほかの方法。


 私はペンを止めました。


 現代の受験生だった頃。


 こういう言葉は、ただの暗記項目でした。


 でも今は違います。


 焼き芋を売るために、毎日リヤカーを引いている人がいる。


 その人の生活が、この言葉の向こうにあります。



 二日後。


 市役所総務課。


 沢渡課長の机の上に、私たちは意見書を置きました。


 表題。


 ――駅前露店販売に係る納付要請及び営業自粛要請の法的妥当性に関する意見書。


 沢渡課長は、ゆっくり表紙をめくりました。


「……随分、詳しいですね」


「必要なところだけです」


 片桐所長が言いました。


 相馬先輩が腕を組みます。


「まず、三万円だ」


「ええ」


「取れるのか、取れねえのか」


 沢渡課長はすぐには答えませんでした。


「正式な徴収決定はありません。担当課の任意の納付要請という説明です」


「なら、義務があるように書くな」


「その点は検討しています」


 私は書面の一か所を指しました。


「課長。憲法七十三条六号です」


 沢渡課長が目を上げました。


「政令制定権ですね」


「はい」


 私は続けました。


「内閣には、憲法や法律を実施するために政令を制定する権限があります」


「そのとおりです」


「でも、政令に罰則を設けるには、特に法律の委任が必要です」


 沢渡課長が頷きました。


「ええ」


「今回、関係する法律に、駅前の無届販売を一律に処罰するための特別な委任規定は確認できませんでした」


「……」


「さらに、実際の政令にも三万円の罰則はありません」


「その点は確認しています」


「なら、市の担当課が作成した要領や協力依頼文書によって、罰金を科すことはできません」


 私は声を少し強めました。


「国の政令を根拠にしているように見せかけても、法律にない刑罰を作ることはできないんです」


 沢渡課長は黙って書面を見ていました。


「憲法三十一条も関係します」


 私は続けました。


「法律の定める手続によらなければ、刑罰を科されない。刑罰には法律上の根拠と適正な手続が必要です」


「……」


「もし、この文書を法的な罰金の請求として扱うなら、違憲・違法の問題が生じます」


 沢渡課長がペンを置きました。


「朝比奈さん」


「はい」


「今回の三万円は、正式な刑罰として決定されたものではありません」


「承知しています」


「それなら、直ちに違憲な刑罰が科されたとまでは言えませんね」


「はい」


 私は頷きました。


「だから意見書では、実際に刑罰が科されたとは書いていません」


 沢渡課長の視線が、私の書面に戻りました。


「……なるほど」


「問題は、法的義務がないのに、罰金相当額という言葉で納付を迫り、従わなければ営業に不利益が及ぶと受け取らせたことです」


 相馬先輩が口を挟みました。


「任意なら任意だ。罰金なんて看板をぶら下げるな」


 沢渡課長は静かに頷きました。


「その指摘は理解できます」


 私は次のページを開きました。


「それから、営業自粛要請です」


「はい」


「森川さんの営業には、憲法二十二条の保障が及びます」


「もちろんです」


「公共の福祉による合理的な制約はあり得ます。でも、それだけでどんな制限も認められるわけではありません」


 私は現場の見取り図を差し出しました。


「歩道の幅、屋台の位置、客の並ぶ場所を確認しました。夕方の通行状況も調べています」


 沢渡課長が図面を見ました。


「……よく調べましたね」


「現場を見なければ、必要性は判断できませんから」


 私は続けました。


「通行への具体的な支障があるなら、位置の変更や営業時間の調整なども考えられます」


「ええ」


「それなのに、個別事情を十分確認せず、屋台営業そのものをやめるよう求めるのは、必要性や手段の相当性に疑問があります」


 相馬先輩が低い声で言いました。


「国の方針だの地元の和だの言っても、焼き芋屋が一軒消えなきゃならねえ理由にはならんだろ」


 沢渡課長は図面を見つめていました。


 そして。


「……なるほど」


 短く言いました。


 その声には、先ほどまでとは違う慎重さがありました。


「駅前環境整備という目的自体は、適法な行政目的です」


「はい」


「しかし、その目的に向けた協力要請が、任意の範囲を超えて受け取られるような運用になっているとすれば、問題があります」


 私は頷きました。


「そこです」


「また、刑罰でないものを罰金相当額と表現することには、法的な誤認を招く危険があります」


「はい」


 沢渡課長は、一度眼鏡を外しました。


 珍しい。


 この人が眼鏡を外すのは、たぶん頭の中で相当な計算をしているときです。


「仮にこのまま納付を迫り、営業上の不利益まで与えた場合」


 課長は静かに言いました。


「市の行政指導の適法性が争われる可能性がありますね」


「あります」


「国の政策への協力を求めることと、法的義務のない金銭を徴収することは別です」


「そうです」


「……分かりました」


 沢渡課長は眼鏡をかけ直しました。


「三万円の納付要請については、関係課に撤回を求めます」


 私は息を止めました。


「それから、営業自粛要請についても、現場の具体的な支障と法的根拠を改めて確認させます」


「では……」


「現時点では、森川さんに三万円の納付義務があるとは認められません。また、単に市の美観方針に協力しなかったことだけを理由に、営業停止を強制することはできません」


 私は思わず相馬先輩を見ました。


 先輩が、ほんの少しだけ笑いました。


 勝った。


 いや。


 正確には。


 役所が、法律の線まで戻ってきた。


「課長」


 片桐所長が言いました。


「お願いします」


「こちらこそ」


 沢渡課長は意見書を閉じました。


「法的に説明できない措置を維持することは、市にとっても利益になりません」


 そして。


 私を見ました。


「朝比奈さん」


「はい」


「内閣の権能を、よく調べましたね」


「ありがとうございます」


「しかし、一つだけ確認しておきたいことがあります」


「何でしょう」


「内閣は法律を誠実に執行する立場ですが、それだけが権能ではありません」


「……はい」


「予算を作成して国会に提出することも、条約を締結することも、外交関係を処理することもあります」


「はい」


「では、内閣が予算を作成した場合、それだけで国費を自由に支出できますか?」


 ……え?


 私は固まりました。


 またですか。


 また突然、口頭試問ですか!


「……いいえ」


 私は答えました。


「予算は国会の審議と議決が必要です」


「そうですね」


「内閣が作成して提出しますが、予算を議決するのは国会です」


 沢渡課長が頷きました。


「では、条約は?」


「内閣が締結します。でも、事前に、時宜によっては事後に、国会の承認を得る必要があります」


「結構です」


 ……出ました。


 結構です。


 この人、完全に私を受験生だと思っている。


「課長」


「何でしょう」


「もしかして、私の勉強に付き合ってます?」


「いいえ」


「本当ですか?」


「業務の確認です」


 絶対違う。


 でも。


 沢渡課長は、最後にこう言いました。


「内閣に権限があるということと、その権限に制約がないということは別です」


 私は黙りました。


「今回、朝比奈さんが指摘したのも、その点でしょう」


「……はい」


「なら、忘れないことです」


 そう言って、課長は書面を整えました。


「行政に与えられた権限は、行政の都合だけで広げられるものではありません」


 私は深く頷きました。



 一週間後。


 森川さんが事務所へやって来ました。


 両手には、大きな紙袋。


「先生!」


 顔が明るい。


「三万円、払わなくてよくなりました!」


「よかったですね!」


 私は思わず立ち上がりました。


「市役所から正式に連絡がありました。あの通知は撤回するって」


「営業のほうは?」


「必要な道路関係の手続を改めて確認してもらいました。今の場所なら、条件を守って続けられるそうです」


 私は胸をなで下ろしました。


「本当によかった……」


 森川さんは、深々と頭を下げました。


「ありがとうございます」


「いえ、私たちは法律を確認しただけです」


「でも、その法律がなかったら、私は三万円を払って、屋台も畳んでいたかもしれません」


 その一言が、胸に残りました。


 三万円。


 大企業なら、たいした金額ではないでしょう。


 でも、焼き芋を一つずつ売る人にとっては、大きなお金です。


 それ以上に。


 今後、商売を続けられるのか。


 その不安がなくなったことが、大きかった。


「これ、お礼です」


 森川さんが紙袋を差し出しました。


「何です?」


「焼き芋です」


 その瞬間。


 相馬先輩が椅子から立ち上がりました。


「おっ!」


 早い。


 反応が早い。


「先輩!」


「何だ」


「さっきまで新聞読んでたでしょう!」


「焼き芋だぞ」


「知ってます!」


「冷めるだろ」


「まだ開けてもいません!」


 森川さんが笑いました。


「たくさん焼いてきましたから」


 相馬先輩は満足そうに紙袋を受け取りました。


「いやあ、森川さん。今後も頑張ってくれ」


「ありがとうございます」


「法律の話は難しいが、焼き芋は分かりやすい」


「先輩の価値観が食欲中心すぎます!」


 片桐所長は、紙袋の中から一本だけ取りました。


 新聞紙を開く。


 ほくほくと湯気が上がりました。


「……うまそうだな」


 私は思わず見ました。


「所長、焼き芋好きなんですか?」


「嫌いじゃない」


「意外です」


「何がだ」


「もっとこう、法律と帳簿だけで生きてる人かと」


「人間だ」


「それは知ってます!」


 相馬先輩が笑いました。


 森川さんも笑いました。


 そして私も。


 事務所の中に、焼き芋の甘い香りが広がりました。



 夕方。


 森川さんが帰ったあと。


 私は机に向かい、六法を開いていました。


 憲法七十三条。


 内閣の権能。


 そこには、思っていた以上に多くの仕事が書かれています。


 法律の執行。


 外交。


 条約。


 国家公務員に関する事務。


 予算。


 政令。


 恩赦。


 そして、ほかの条文にも。


 国会の召集。


 衆議院の解散。


 参議院の緊急集会。


 裁判官の任命。


 予備費。


 決算。


 財政状況の報告。


「……内閣って、忙しいですね」


 私は呟きました。


 相馬先輩が焼き芋を食べながら答えます。


「国を動かしてんだからな」


「でも、何でも勝手にできるわけじゃない」


「そうだな」


 私は六法を見ました。


 条約を締結できる。


 でも、国会の承認が必要。


 予算を作れる。


 でも、国会の議決が必要。


 政令を作れる。


 でも、法律の委任なく罰則を設けることはできない。


 予備費を使える。


 でも、あとで国会の承諾が必要。


 裁判官を任命する。


 でも、下級裁判所の裁判官は最高裁判所が指名した者の名簿による。


 内閣の権能。


 それは、ただ権力を集めた一覧ではありません。


 何をできるか。


 どこまでできるか。


 誰の関与が必要か。


 その境界線が、丁寧に引かれている。


「所長」


「何だ」


「今日、少し分かった気がします」


「何がだ」


「憲法が、どうして内閣にこんなに多くの権限を与えているのか」


 片桐所長が顔を上げました。


「言ってみろ」


「国を動かすためです」


「うん」


「でも、国を動かすことと、国民を好き勝手に動かすことは違う」


「そうだ」


「内閣には法律を誠実に執行する義務がある。だから、国の政策を進めるためでも、法律を超えちゃいけない」


 所長は静かに頷きました。


「そのとおりだ」


 私はノートの端に、一行書きました。


 ――内閣は法律を動かす側。法律を飛び越えて人を罰する側ではない。


 その瞬間。


 相馬先輩が紙袋を覗き込みました。


「……おい」


「何です?」


「最後の一本、誰が食った」


「え?」


 私は顔を上げました。


 紙袋。


 空。


 さっきまで、確かに一本残っていたはずです。


「所長?」


 片桐所長は帳簿をめくっています。


「何だ」


「焼き芋、食べました?」


「食べた」


 即答。


 相馬先輩が目を見開きました。


「所長! 最後の一本は俺が食うつもりだったんですよ!」


「名前は書いてなかった」


「そういう問題じゃねえでしょう!」


 私は笑いをこらえました。


「先輩」


「何だ!」


「所長に、最後の焼き芋を食べる権限があったかどうか、検討しましょう」


「何?」


「まず、所長の権能を定める根拠規定は?」


「あるか、そんなもん!」


「次に、焼き芋の配分について、事務所内で決定された方針は?」


「決まってねえ!」


「では、所長が独断で焼き芋を食べた行為について――」


「こはる!」


 片桐所長が呼びました。


「はい!」


「焼き芋は、俺が買い足しておく」


 相馬先輩が止まりました。


「……え?」


「明日の朝だ」


 数秒の沈黙。


 そして。


「所長!」


 相馬先輩が笑顔になりました。


「やっぱり、うちの内閣は最高ですね!」


「先輩、態度変わるの早すぎません?」


「政策転換だ!」


「焼き芋一本で!」


 片桐所長は、ほんの少しだけ口元を緩めました。


 私は笑いながら六法を閉じました。


 昭和六十三年。


 駅前では、明日も焼き芋の煙が上がるでしょう。


 国の政策が進んでも。


 町の景色が変わっても。


 その中で、一人ひとりの暮らしを守る線がある。


 行政は、必要です。


 国を運営するために。


 社会を動かすために。


 でも。


 行政が強いからこそ、法律による制限が必要になる。


 法律を誠実に執行する。


 それは、国民にだけ法律を守らせるという意味ではありません。


 行政自身が、法律を守るということです。


 そして。


 その当たり前を支えているのが、憲法なのです。


 私は最後に、今日の教訓を小さく呟きました。


「法律を守らせる人こそ、法律を守らなきゃいけない」


 相馬先輩が頷きました。


「そういうことだ」


 少し間を置いて。


「ところで、こはる」


「はい」


「明日の焼き芋、何本買ってくると思う?」


「知りませんよ」


「内閣の予算案として、五本くらい要求しようぜ」


「事務所の予算を勝手に決めないでください!」


「予算を作るのは内閣の仕事だろ!」


「ここは内閣じゃありません!」


 奥から、片桐所長の声がしました。


「二本だ」


「少ない!」


「予算不足だ」


「予備費を使ってください!」


 相馬先輩が叫びます。


 私は思わず吹き出しました。


 予備費。


 憲法八十七条。


 まさか、焼き芋の本数で出てくるとは。


 でも。


 そうやって笑いながら覚えた条文は、きっと忘れません。


 窓の外では、夕焼けに染まった駅前を、一台のリヤカーがゆっくり通っていきました。


 ――いしやーきいも。


 遠くから聞こえる声。


 昨日まで、消えかけていた商売の声。


 その声が今日も町に響いている。


 それだけで。


 憲法七十三条の「法律を誠実に執行する」という言葉が、少しだけ温かく感じられました。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
さくら司法書士補助者の法務帳 〜 昭和に転生して泥沼の争いを収めたら、実務と試験知識が完全にリンクしました 〜
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜
宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
動画生成AIが作成したイメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。