[憲法・内閣総理大臣の権能]法理編 こはるノート
偉い人ほど、何でもできると思われがちです。
社長。
市長。
大臣。
そして、内閣総理大臣。
けれど法律の世界では、権力の大きさと、自由にできることの多さは同じではありません。
強い権限には、強い根拠が必要です。
そして。
その権限をどう使うかにも、法律の決まりがあります。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
窓の外では、駅前の街灯が一つずつ灯り始めていました。
遠くから、印刷機の規則正しい音が聞こえてきます。
村瀬印刷店。
先日、市役所から圧力を受け、駅前再整備に疑問を投げかける市民集会のチラシを刷れなくなりかけた店です。
あのとき。
市役所が持ち出した言葉は、
――総理大臣の指示。
でした。
でも実際には、国の政策を推進する方針が存在することと、民間業者の印刷業務に干渉してよいことは、まったく別の話だったのです。
市は説明の不適切さを認め、印刷を引き受けたことだけを理由に契約上の不利益を与えないと確認しました。
そして、村瀬さんは再び印刷機を動かしています。
「……よし」
私はノートを開きました。
今日の見出しは、大きく。
――内閣総理大臣の権能。
「先輩」
「あ?」
「今日は総理大臣です」
「お前、とうとう総理大臣になるのか」
「なりませんよ!」
「じゃあ何だ」
「総理大臣に何ができるのか、整理するんです」
相馬先輩は煙草をくわえたまま、面倒くさそうに私を見ました。
「そんなもん、国を動かすんだろ」
「雑すぎます」
「じゃあ、お前が説明しろ」
「そのためのノートです!」
私はペンを構えました。
憲法。
現代の行政書士試験では、統治機構の重要分野。
国会。
内閣。
裁判所。
その中でも、内閣総理大臣の権限は、いくつかの条文に分かれています。
受験生だった頃の私は、これが苦手でした。
六十八条。
七十二条。
七十四条。
七十五条。
六十三条。
覚える数字が多い。
しかも内容が似ている。
でも。
村瀬さんの事件を経験した今なら、少し違います。
条文を間違えると、現実の人が困る。
だから、覚えなければならない。
「まずは六十八条です」
「内閣総理大臣は、国務大臣を任命する」
私は読み上げました。
「ただし、国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばなければならない」
相馬先輩が頷きます。
「つまり、総理大臣が大臣を選ぶ」
「はい」
「全員、国会議員じゃなきゃいけねえのか?」
「いいえ」
私は即答しました。
「過半数です」
「じゃあ、国会議員じゃない人も大臣になれる」
「なれます」
私はノートに線を引きました。
国務大臣の任命権。
総理大臣が任命する。
ただし、過半数は国会議員。
「ここ、試験で引っかけられますね」
「どうやってだ」
「『国務大臣は、全員国会議員でなければならない』」
「誤りだな」
「はい」
もう一つ。
私は六十八条二項を指しました。
――内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる。
「この『任意に』が重要です」
「辞めさせられるってことだろ」
「はい。でも、ここが面白いんです」
私は相馬先輩を見ました。
「国務大臣を罷免するとき、閣議決定は必要ですか?」
「……どうなんだ」
「必要ありません」
相馬先輩が眉を上げました。
「独断でいいのか」
「はい」
総理大臣は、国務大臣を任命できる。
そして、任意に罷免できる。
その任免について、閣議で全員の同意を得る必要はありません。
「どうしてだと思います?」
「大臣全員に聞いてたら、辞めさせたい大臣が反対するだろ」
「……すごく分かりやすいです」
「だろ?」
確かに。
罷免される大臣自身が反対すれば罷免できない。
そんな仕組みでは、内閣の統一性を保てません。
総理大臣を中心として、一体的に政策を進めるためには、大臣の人事を最終的に総理大臣が決められる必要がある。
「つまり」
私はノートに書きました。
――大臣の任免は、総理大臣自身の権限。閣議決定は不要。
そこで、奥から片桐所長の声がしました。
「こはる」
「はい」
「総理大臣自身は、誰が任命する」
「天皇です」
「誰の指名に基づいてだ」
「国会です。憲法六十七条で国会が指名して、六条一項により天皇が任命します」
「では、国務大臣は」
「総理大臣が任命します」
所長が頷きました。
「混同するな」
「はい!」
私はノートの端に書き足しました。
総理大臣。
国会が指名、天皇が任命。
国務大臣。
総理大臣が任命。
名前が似ていても、手続は違う。
受験生を狙う罠が、今日も一つ消えました。
「次は、七十二条です」
私はページをめくりました。
そして。
思わず、昨日の沢渡課長の顔を思い出しました。
――総理大臣には、行政各部を指揮監督する権限があります。
確かに、そのとおりでした。
憲法七十二条。
内閣総理大臣は、内閣を代表して、
議案を国会に提出する。
一般国務及び外交関係について国会に報告する。
行政各部を指揮監督する。
「ここは三つですね」
私は指を折りました。
「議案提出」
「うん」
「国務報告」
「うん」
「行政各部の指揮監督」
「それで?」
「全部、内閣を代表して行う権限です」
相馬先輩が腕を組みました。
「総理大臣個人の気分で何でもやるって話じゃねえわけだ」
「そうです」
内閣は、合議体です。
総理大臣は、その長。
内閣を代表する立場にある。
だから、国会に議案を提出し、政治や外交について報告し、行政各部を指揮監督する。
「ただし」
私はペンを止めました。
「ここからが今日の本題です」
相馬先輩が嫌そうな顔をしました。
「まだ本題じゃなかったのか」
「むしろここからです」
「長えな」
「重要なんです!」
私は内閣法を開きました。
第六条。
――内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する。
「これです」
「昨日も読んでたな」
「はい」
私は大きく丸をつけました。
行政各部への指揮監督は、閣議決定した方針に基づいて行う。
「つまり、総理大臣でも、各省庁に好き勝手な命令は出せない」
「そういうことだな」
「だから、閣議決定がなければ、総理大臣には行政各部に何も言えない」
私はそう言いかけて。
「……あ」
止まりました。
「どうした」
相馬先輩が聞きます。
「いま、危ないことを言いかけました」
「またか」
「またです」
私は深呼吸しました。
そう。
ここには、現代の受験生である私だけが知っている、もう一つの重要な判例があります。
平成七年二月二十二日。
ロッキード事件の最高裁大法廷判決。
この判決で問題になったのは、内閣総理大臣が行政各部に対して行う働きかけの権限です。
正式な指揮監督には、閣議決定した方針が必要。
それは内閣法六条から分かります。
しかし。
閣議決定が存在しないとき、総理大臣は行政各部に一切の働きかけができないのでしょうか。
将来の最高裁は、そうは考えません。
総理大臣は、内閣の明示の意思に反しない限り、行政各部の所掌事務について、一定の方向で処理するよう指導や助言などの指示を与える権限を有する。
そう判断するのです。
「……ややこしい」
私は呟きました。
「何がだ」
「閣議決定が必要なのに、なくても一定の指示はできるんです」
相馬先輩が顔をしかめました。
「どっちなんだよ」
「そこが大事なんです!」
私は慌てて言いました。
「正式な指揮監督と、行政各部に対する指導・助言などを区別するんです」
「ほう」
「内閣法六条に基づく指揮監督は、閣議決定した方針に基づいて行う」
「うん」
「でも、閣議決定がない場合でも、総理大臣という地位と権限から、一定の指導や助言は認められる余地がある」
「ただし、内閣の意思に反しないことが必要」
片桐所長が補足しました。
「はい」
私は頷きました。
この違いです。
総理大臣は、ただの連絡係ではありません。
行政は、日々変化する問題に対応しなければならない。
すべての指導や助言を、事前の閣議決定がなければできないとすれば、内閣の長として機動的に働くことが難しくなる。
だから、一定の範囲で指導や助言が認められる。
しかし、それは総理大臣が何でも独断で命令できるという意味ではない。
「所長」
「何だ」
「これ、村瀬さんの事件でも重要でしたよね」
「そうだ」
私は、あのときの市役所の説明を思い出しました。
総理大臣が各省庁へ、国の政策を進めるよう指示している。
だから、市民集会のチラシは困る。
あの主張には、飛躍がありました。
「総理大臣が各省庁へ政策推進の指導や助言をすること自体は、権限の範囲内かもしれません」
「うん」
「でも、それによって民間の印刷業者が市の政策を批判するチラシを刷れなくなるわけじゃない」
「当然だ」
「総理大臣の権限は、憲法二十一条の表現の自由を消す魔法じゃありません」
相馬先輩が笑いました。
「魔法だったら怖えな」
「本当に」
私はノートに書きました。
――閣議決定した方針に基づく指揮監督と、閣議決定がなくても一定範囲で認められる指導・助言は区別する。
ここで、一つ注意。
私は日付を確認しました。
昭和六十三年。
ロッキード事件の最高裁大法廷判決は、まだ出ていません。
平成七年の判例を、昭和の実務で既存の判例として引用することはできない。
でも、その後の判例が示す区別を頭の中で理解しておけば、現代の行政書士試験にもつながります。
六法の条文は変わっていない。
けれど、裁判所がその意味をどう解き明かしてきたかは、時代によって積み重なっていく。
憲法が難しくて、面白いところです。
「次は七十五条です」
私はノートをめくりました。
「国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されません」
相馬先輩が眉を上げました。
「訴追?」
「刑事裁判にかけるための起訴です」
「大臣は犯罪をやっても捕まらねえのか?」
「違います!」
私は思わず声を上げました。
「ここ、絶対に混同しちゃ駄目なところです」
訴追されない。
それは、犯罪をしても無罪になるという意味ではありません。
逮捕そのものを一律に禁止する規定でもありません。
あくまで、在任中の国務大臣を訴追するには、総理大臣の同意が必要だというルールです。
「なんで、そんな仕組みがあるんだ」
相馬先輩が聞きました。
「内閣の一体性を守るためです」
「犯罪者をかばうためじゃなくて?」
「違います」
国務大臣は、行政を担う重要な立場です。
その大臣が次々と訴追されれば、内閣の運営に大きな影響が出ることがあります。
そのため、在任中の訴追について総理大臣の同意を要求している。
ただし。
「同意がなければ、永久に裁判にかけられないんですか?」
私は自分で質問しました。
「違います」
相馬先輩より先に、自分で答えます。
「在任中の特別な扱いです」
大臣を辞めたあとまで、総理大臣の同意が必要になるわけではありません。
「さらに、七十五条には続きがあります」
私は六法を指しました。
――但し、これがため、訴追の権利は、害されない。
「これ、どういう意味だと思います?」
「……辞めたあとなら訴追できるってことか」
「そうです。さらに重要なのが、公訴時効です」
犯罪には、一定期間が経過すると起訴できなくなるものがあります。
それが公訴時効。
もし総理大臣の同意がないため起訴できない間も、何の調整もなく時効が完成してしまったら。
どうなるでしょう。
「大臣を辞めるまで待ってたら、時効になってた。なんてことが起きる」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「それじゃ、事実上の逃げ得だな」
「だから、訴追の権利を失わせない仕組みが必要になるんです」
この規定の趣旨を受けて、刑事訴訟法には、総理大臣の同意がないため公訴を提起できない期間について、公訴時効の進行を停止する定めがあります。
つまり。
総理大臣の同意が必要。
でも。
同意がなければ犯罪が帳消しになるわけではない。
「……なるほどな」
相馬先輩が頷きました。
「大臣を守るんじゃなくて、内閣の運営を守る制度か」
「そうです」
「で、罪まで消すわけじゃねえと」
「はい」
私はノートに書きました。
――在任中の国務大臣の訴追には総理大臣の同意が必要。ただし、訴追の権利は失われない。
「これも試験に出ますね」
「全部試験に出るんじゃねえか」
「そうなんですよ!」
受験生の苦労を、少しは分かってほしい。
「次は七十四条です」
私は憲法を読み上げました。
――法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする。
「連署?」
相馬先輩が聞きました。
「一緒に署名することです」
「誰と誰が?」
「主任の国務大臣と、内閣総理大臣です」
私はノートに二つの名前を書きました。
主任の国務大臣。
内閣総理大臣。
「まず、主任の国務大臣が署名する」
「うん」
「そして、総理大臣が連署する」
「何のためだ?」
「法律や政令の執行に関する責任を明らかにするためです」
相馬先輩が頷きました。
「誰が責任を持つのか、はっきりさせるってことか」
「はい」
でも。
ここには受験生が引っかかりやすい問題があります。
「先輩」
「何だ」
「もし、総理大臣の連署が欠けていたら、その法律は当然に無効になりますか?」
「必要って書いてあるんだから、無効じゃねえのか?」
「……と思いますよね」
私はペンを置きました。
「でも、そう単純ではないんです」
憲法七十四条は、署名と連署を要求しています。
しかし、連署は法律の内容について新たに承認を与えたり、法律を成立させたりするための行為ではありません。
法律の成立は、国会の議決など、別の仕組みによって決まります。
七十四条の署名・連署は、執行責任を明らかにする形式的な性質のものです。
「だから」
私は続けました。
「署名や連署に欠けるところがあっても、そのことだけで法律の効力が失われるわけではない、と整理されます」
相馬先輩が顔をしかめました。
「必要なのに、欠けても無効じゃねえのか」
「そこが罠なんです」
「ややこしいな」
「ええ。本当に」
私はノートに大きく書きました。
――署名・連署は必要。ただし、欠けたことだけで法律の効力が否定されるわけではない。
「ちなみに」
私は付け加えました。
「法律を成立させるのは、国会です」
「うん」
「総理大臣が署名したから法律になるわけじゃありません」
「そうだな」
「それから、政令は内閣が制定します。総理大臣一人で好き勝手に法律を作るわけでもありません」
片桐所長が静かに頷きました。
「権限を分けて覚えろ」
「はい」
法律を作る。
法律を執行する。
行政を指揮監督する。
それぞれ違う。
だから、国会と内閣と総理大臣の役割を混同してはいけない。
この区別も、村瀬さんの事件と同じでした。
肩書きが大きいから、何でもできる。
そういう仕組みではないのです。
「最後は六十三条です」
私はノートをめくりました。
憲法六十三条。
内閣総理大臣その他の国務大臣は、両議院の一に議席を有すると有しないとにかかわらず、いつでも議案について発言するため議院に出席することができる。
そして。
答弁または説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない。
「ここは分かりやすいですね」
私は言いました。
「総理大臣や国務大臣は、国会議員じゃなくても、議院へ出席して発言できる」
「そうだな」
「しかも、議案について発言するためなら、自ら出席できます」
「呼ばれなくてもか?」
「はい」
私は頷きました。
「ただし、答弁や説明のために出席を求められたら?」
「行かなきゃいけねえ」
「正解です!」
私はノートに書きました。
――発言のための出席は権利。答弁・説明のため求められた出席は義務。
相馬先輩が、ふと首をかしげました。
「なあ」
「はい」
「総理大臣って、国会議員なんじゃねえのか?」
「総理大臣は国会議員の中から指名されます」
「じゃあ、さっきの『議席を有すると有しないとにかかわらず』って何だ」
「そこは、その他の国務大臣も含めた規定だからです」
私は六十八条へ戻りました。
国務大臣の過半数は、国会議員。
逆に言えば、国会議員でない国務大臣も存在し得る。
その大臣も、国会に出席して発言できる。
「なるほど」
相馬先輩が頷きました。
「国会議員じゃない大臣でも、説明しに行けるわけだ」
「はい」
「しかも呼ばれたら行く義務がある」
「そうです」
私は、ここにも制度の意味があることに気づきました。
内閣は行政を担当する。
国会は国政を監督する重要な役割を持つ。
大臣が国会へ出席し、説明する。
それは、政府が国民の代表に対して責任を果たすための仕組みでもある。
「所長」
「何だ」
「総理大臣って、国会に対しても説明する立場なんですね」
「当然だ」
「国を動かすだけじゃなくて、なぜそう動かしたかを説明する」
「そうだ」
なるほど。
権限と責任。
ここでも、つながっています。
私はノートを見直しました。
六十八条。
国務大臣の任免。
七十二条。
議案提出、国務報告、行政各部の指揮監督。
七十五条。
国務大臣の訴追への同意。
七十四条。
法律・政令への連署。
六十三条。
議院への出席と発言。
「これで六つですね」
私は言いました。
相馬先輩が首をかしげます。
「六つ?」
「はい」
「条文は五つだろ」
「七十二条に三つあるんです」
「……ああ」
私は指を折りました。
一つ。
国務大臣の任免。
二つ。
議案提出と国務報告。
三つ。
行政各部への指揮監督。
四つ。
国務大臣の訴追に対する同意。
五つ。
法律・政令への連署。
六つ。
議院への出席と発言。
「これが、内閣総理大臣の代表的な六つの権能です」
「お前、ようやく全部覚えたな」
「まだです」
「何?」
「試験は、ここから引っかけてくるんです」
私はノートに、間違えやすい対比を書き始めました。
国務大臣の罷免。
閣議決定は不要。
行政各部への正式な指揮監督。
閣議決定した方針に基づく。
ただし、閣議決定がなくても、内閣の明示の意思に反しない範囲で、指導・助言などの指示を与える権限が認められる。
国務大臣の訴追。
在任中は総理大臣の同意が必要。
ただし、訴追の権利は失われない。
法律・政令への連署。
必要とされる。
ただし、欠けてもそのことだけで法律の効力は失われない。
議院への出席。
議案について発言するため、自ら出席できる。
答弁・説明を求められた場合は、出席義務がある。
「……」
相馬先輩がしばらく黙っていました。
「先輩?」
「これ、全部『何でもできる』の逆だな」
「え?」
「総理大臣に何ができるか、だけじゃねえ」
相馬先輩がノートを指しました。
「どんな条件でできるか。どこまでできるか。そこまで覚えなきゃいけねえんだろ」
私は思わず顔を上げました。
「……そうです!」
そのとおりでした。
国務大臣を罷免できる。
でも、それは国務大臣に対する任免権です。
行政各部を指揮監督できる。
でも、内閣の方針や法律上の権限関係がある。
法律や政令に連署する。
でも、その署名によって総理大臣が法律を自由に作れるわけではない。
国務大臣の訴追に同意する。
でも、犯罪を無罪にする権限ではない。
議院に出席できる。
でも、国会から説明を求められた場合には、応じる義務がある。
「つまり」
私は言いました。
「総理大臣の権能を覚えるって、権力の強さだけを覚えることじゃないんですね」
片桐所長が頷きました。
「権限の範囲と責任を覚えることだ」
私はノートに大きな丸をつけました。
そこで。
私はふと、村瀬さんの顔を思い出しました。
印刷機。
チラシ。
市役所。
総理大臣の指示。
あの事件で、私は最初、少しだけ気圧されていました。
国のトップが言っている。
各省庁が動いている。
市役所も従っている。
だったら、町の小さな印刷屋さんにはどうにもできない。
そんな気がしていたのです。
でも。
実際には違いました。
「所長」
「何だ」
「今日の事件で分かったことがあります」
「言ってみろ」
「総理大臣には、憲法上の強い権限があります」
「うん」
「でも、その権限は行政を動かすためのものであって、市民の人権を勝手に奪うためのものじゃありません」
「うん」
「市役所が国の方針に協力することと、市民の批判を妨害することは別です」
「そうだ」
「そして」
私は少し考えました。
「権限の根拠を正しく知れば、相手がどれほど偉い人でも、言っていることが法的に正しいかどうか判断できます」
片桐所長が、静かに頷きました。
「そこまで分かればいい」
私は嬉しくなりました。
ただ条文を覚えるだけでは、きっとここまで気づけませんでした。
村瀬さんが困っていた。
市役所が総理大臣を持ち出した。
そこで初めて、憲法七十二条が現実の武器になった。
そして同時に。
憲法二十一条が、市民の自由を守る盾になった。
権力を動かす条文。
権力を制限する条文。
どちらも憲法の中にある。
「不思議ですね」
私は呟きました。
「何がだ」
相馬先輩が聞きました。
「憲法って、国家権力を作っているのに、その国家権力を縛ってもいるんです」
「そりゃそうだろ」
「だからすごいんですよ」
私は笑いました。
「総理大臣を強くするのも憲法。その総理大臣が勝手なことをできないようにするのも憲法」
相馬先輩は、少しだけ口元を緩めました。
「世間の常識? 俺たちが守ってんのは法律だ」
いつもの口癖。
でも、今日は少し違って聞こえました。
私はノートの最後のページを開きました。
今日の一行の覚え書き。
何を書こう。
国務大臣の任免。
議案提出。
国務報告。
行政各部の指揮監督。
訴追への同意。
法律・政令への連署。
議院への出席。
全部入れたい。
でも、それでは一行になりません。
「……うーん」
私は考えました。
そして、最後にこう書きました。
――総理の権能は「大臣を選び、国会に語り、行政を動かす」。ただし、その力も憲法の中。
「長いな」
相馬先輩が言いました。
「またそれですか!」
「もっと短くしろ」
「じゃあ……」
私は一度消して、書き直しました。
――総理は内閣を率いるが、憲法の外には出られない。
「どうです?」
「……まあ、いいんじゃねえか」
「褒めましたね?」
「気のせいだ」
またそれです。
私は笑いながらノートを閉じました。
ちょうどそのとき。
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「相馬」
「はい」
「明日の朝、駅前の現地確認に行く」
「分かりました」
「七時集合だ」
「……七時?」
私は思わず聞き返しました。
「所長、朝七時ですか?」
「そうだ」
「早すぎません?」
「仕事だ」
相馬先輩が笑います。
「所長の指揮監督だな」
私はすかさず反論しました。
「ちょっと待ってください。内閣法六条によれば、行政各部への指揮監督は閣議決定した方針に基づいて――」
「ここは内閣じゃねえ」
相馬先輩が遮りました。
「じゃあ、所長の独断ですか?」
「事務所の業務命令だろ」
「でも、所長が勝手に決めていいんですか?」
すると。
片桐所長が静かに言いました。
「異議があるのか」
「あります!」
「理由は」
「朝七時は眠いです!」
「却下」
「早い!」
相馬先輩が吹き出しました。
「ははっ! 総理大臣より強えな、うちの所長!」
「先輩、笑ってる場合じゃありません!」
「何でだよ」
「先輩も七時集合ですよ!」
相馬先輩の笑顔が消えました。
「……あ」
数秒の沈黙。
そして。
「所長」
「何だ」
「八時じゃ駄目ですか」
「駄目だ」
「……」
私は、にやりと笑いました。
「先輩」
「何だよ」
「総理大臣なら、国務大臣を任意に罷免できますよね」
「それがどうした」
「もし先輩が大臣だったら、いま罷免されてるかもしれませんよ」
「怖えこと言うな!」
そのとき。
片桐所長が、珍しく口元を緩めました。
「安心しろ」
「え?」
相馬先輩が顔を上げます。
「お前たちは国務大臣じゃない」
「……」
「だから罷免もしない」
私は思わず笑いました。
「よかったですね、先輩!」
「何がだ!」
「国務大臣じゃなくて!」
「全然よくねえ!」
事務所に笑い声が響きました。
窓の外では、村瀬印刷店の明かりがまだ灯っています。
今夜も、あの小さな店では紙が刷られているのでしょう。
市の政策に賛成する人もいる。
反対する人もいる。
どちらでもない人もいる。
そして、その意見を伝えるために働く人がいる。
誰も、総理大臣の名前だけで黙らせていいわけではありません。
国家権力は必要です。
行政を動かし、政策を実行し、社会を支えるために。
でも。
その権力が強いからこそ、権限の根拠と限界を知らなければならない。
憲法は、ただ総理大臣を偉くするためにあるのではありません。
総理大臣でさえ、法の下で権限を行使する。
その当たり前を保障するためにも、憲法はあるのです。
私は閉じたノートの表紙を、そっと撫でました。
昭和六十三年。
条文は、未来と同じ。
けれど。
この時代の重い空気の中で、憲法の意味を一つずつ確かめていく。
それが、いまの私の勉強です。
そして。
「こはる」
「はい」
「明日は遅れるな」
片桐所長の声。
「……はい」
「七時だぞ」
「分かってます!」
私は鞄を持ちました。
どうやら、憲法で総理大臣の権限を勉強しても、朝七時の集合命令には勝てないようです。
でも。
少なくとも今日、一つだけ確かなことが分かりました。
――偉い人の言葉に従う前に、その人が何を決める権限を持っているのか、確かめる。
それが法律家の第一歩。
そして私は、いつか胸を張って、その一歩を踏み出せる行政書士になりたいと思うのでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




