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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈憲法 配点28点/300点〉 統治

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407/701

[憲法・内閣総理大臣の権能]現場編 「総理大臣の指示だから逆らえません」の嘘。国のトップでも越えられない権限の境界線と、昭和の役所を動かす最高法規

挿絵(By みてみん)

 偉い人の言葉が、いつも法律より偉いとは限りません。


 社長が言ったから。


 町内会長が決めたから。


 市長の意向だから。


 そして。


 ――総理大臣の指示だから。


 そう言われると、人はつい黙ってしまいます。


 でも。


 日本で一番偉そうに見える政治家にだって、勝手に越えられない線があります。


 その線を引いているのが、憲法です。



 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


「……総理大臣が駄目だと言っているそうです」


 その日の相談者は、開口一番、そんなことを言いました。


 私は思わずペンを止めました。


「総理大臣?」


「はい」


「日本の?」


「ほかにいるんですか?」


「いえ、確認です」


 変な確認をしてしまいました。


 相談者は、三十二歳の男性。


 名前は村瀬健一さん。


 駅前で小さな印刷店を営んでいます。


 父親の代から続く店で、名刺やチラシ、商店街の広告などを刷っているそうです。


 ところが今回。


 市役所から妙な話が持ち込まれました。


「市民集会のチラシを刷ったら、今後、市の仕事を発注できなくなるかもしれないと言われまして」


「市民集会?」


「駅前再整備について、住民が意見を出す集会です」


 なるほど。


 また駅前です。


 この町の駅前は、どうやら法律トラブルの永久機関になっているらしい。


「どんなチラシです?」


 村瀬さんが一枚取り出しました。


 そこには大きく、


 ――駅前再整備計画を考える市民の集い。


 と書いてあります。


 日時。


 場所。


 講演者。


 そして下の方に、


『現在の計画には、商店街の営業や住民生活への影響について、十分な説明がありません』


 という文章。


「……普通のチラシですね」


「そうでしょう?」


「暴力を呼びかけているわけでもない」


「ありません」


「虚偽の事実を書いているとか?」


「計画書を読んだうえで、疑問点を並べただけです」


 私は頷きました。


 憲法二十一条。


 表現の自由。


 市の政策を批判することも、当然その保障の中心にあります。


 でも。


「それが、なぜ総理大臣につながるんです?」


 村瀬さんが肩を落としました。


「市の担当者が言うんです。今回の再整備は国の地域振興政策に沿った事業だから、中央の方針に反対するような活動は困るって」


「中央の方針?」


「内閣総理大臣が各省庁に事業を進めるよう指示している。だから、市としても混乱を招く宣伝は控えてほしい、と」


 私は固まりました。


 総理大臣。


 各省庁への指示。


 国の方針。


 そして地方自治体。


 単語だけなら、全部正しそうです。


 でも。


 何かがおかしい。


「村瀬さん」


 片桐所長が静かに言いました。


「その話は、誰から聞きました」


「市役所の商工観光課です」


「文書は」


「ありません。口頭です」


「印刷しないよう命令されたのですか」


「いいえ。ただ、今後の取引に影響するかもしれない、と」


 相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。


「……汚ねえな」


「先輩?」


「命令はしてねえ。だが、市の仕事が欲しけりゃ言うことを聞け。そういう話だろ」


 村瀬さんは黙って頷きました。


「うちは市の広報物も刷っています。それがなくなると、正直きついんです」


「だからチラシを断った?」


「……まだ返事をしていません」


 そう言って、村瀬さんは顔を上げました。


「でも、頼んできた人たちは、みんな近所の人なんです。うちの店を昔から使ってくれている人たちで」


 声が震えます。


「総理大臣が何を考えているかなんて、私には分かりません。でも、市の計画について話し合うチラシを刷ることまで、いけないことなんでしょうか」


 私は答えられませんでした。


 なぜなら。


 昭和六十三年の空気が、あまりにも重かったからです。



「国の方針に逆らうな、か」


 村瀬さんが帰ったあと。


 相馬先輩は、チラシを机に広げました。


「便利な言葉ですね」


 私が言いました。


「便利すぎるだろ」


 そう。


 国の方針。


 中央の指示。


 地元の和。


 昭和の地方都市では、そういう言葉が恐ろしく強い。


 役所と商店街。


 商店街と町内会。


 町内会と有力者。


 人間関係が複雑に絡み合っている。


 誰か一人が逆らうと、


「あの店は協調性がない」


「あそこは市役所に楯突いた」


 そんな噂がすぐに広がる。


 現代なら、インターネットで抗議することもできるでしょう。


 でも今は昭和。


 スマートフォンもない。


 SNSもない。


 町の噂を訂正する手段さえ限られています。


「総理大臣まで持ち出されたら、普通の人は諦めますよね」


「だろうな」


「国のトップですもんね」


「で?」


 相馬先輩が私を見ました。


「お前も諦めんのか」


「……」


「総理が偉いから、憲法は引っ込むのか?」


 私は息を止めました。


 憲法。


 そうだ。


 憲法です。


 昭和六十三年でも。


 令和でも。


 日本国憲法の条文は、一字一句変わっていません。


 私は本棚から六法を引っ張り出しました。


 憲法。


 第七十二条。


 内閣総理大臣の権能。


 そこには、


 内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。


 とあります。


「……ありますね」


「何がだ」


「総理大臣の指揮監督権」


 私は顔をしかめました。


「本当に各省庁を指揮監督できるんです」


「当たり前だろ」


「じゃあ、市役所の言うことが正しい可能性も?」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「こはる」


「はい」


「お前、いま何を読んだ?」


「憲法七十二条です」


「誰を指揮監督するって書いてある」


「行政各部です」


「市民の印刷屋も、行政各部なのか?」


「……違います」


「市役所の自主的な判断まで、総理の一言で全部決まるのか?」


「それも違います」


「じゃあ、話を混ぜるな」


 私は、はっとしました。


 そこです。


 総理大臣に権限がある。


 そのことと。


 総理大臣の名前を使えば、役所が市民の自由を制限できる。


 そのことは、まったく別です。


 私は六法の別のページを開きました。


 内閣法。


 第六条。


 内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する。


「……あれ?」


 思わず声が出ました。


「先輩」


「あ?」


「総理大臣って、何でも独断で指揮監督できるわけじゃないんですね」


「少なくとも、内閣法にはそう書いてある」


「閣議で決まった方針が基本になる」


「そうだ」


 なるほど。


 総理大臣は強い。


 でも、内閣という組織の長です。


 個人として、全行政機関を自由自在に動かす独裁者ではありません。


 ただし。


 私はそこで、もう一つのことを思い出しました。


 現代の行政書士試験で勉強した、ある最高裁判例。


 平成七年二月二十二日。


 ロッキード事件。


 内閣総理大臣の指揮監督権限が問題になった判決です。


 その判決では、閣議決定された方針がない場合でも、内閣の明示の意思に反しない限り、行政各部に一定の方向で事務を処理するよう指導、助言などを行う権限が認められています。


 つまり。


 閣議決定がないから、総理大臣の発言は全部無効。


 そんな単純な話ではない。


「……待って」


 私は口を閉じました。


 危ない。


 いまは昭和六十三年。


 平成七年の最高裁判決は、まだ存在していません。


 未来の判例を、昭和の市役所で振りかざすわけにはいきません。


 でも。


 そこで示されることになる法的な考え方は、憲法と内閣法の構造から検討できます。


「所長」


 私は振り返りました。


「総理大臣に行政各部への指揮監督権があるとしても、今回の市の対応まで正当化されるわけじゃありませんよね」


 片桐所長が帳簿から顔を上げました。


「理由は」


「第一に、その総理大臣の指示が実在するのか分かりません」


「うん」


「第二に、仮に国の政策を進めるよう指示があっても、それが市民のチラシ印刷を妨害していいという意味にはならない」


「うん」


「第三に、市が取引上の不利益をほのめかして批判的な言論を抑えようとするなら、憲法二十一条の問題になります」


 所長が頷きました。


「そこだ」


「それに、地方自治体には地方自治体の権限があります。国の政策への協力と、市自身の事業発注の判断は、根拠を分けて考えないと」


「よし」


 短い。


 でも。


 片桐所長の「よし」は、合格通知より嬉しい。


「こはる」


「はい」


「意見書を作れ」


「はい!」


「ただし」


 所長の声が低くなりました。


「憲法違反だと叫ぶだけの紙はいらん」


「……はい」


「何の権限を、誰が、どう行使したのか。そこを分けろ」


 相馬先輩がにやりと笑いました。


「総理大臣の名前で脅かしてきた連中に、総理大臣の権限を教えてやろうぜ」


 私はペンを握りました。


 憲法なんて実務で使わない。


 受験生だった頃の私は、そんなことを思っていました。


 でも。


 いま目の前で。


 町の印刷屋さんが、その憲法を必要としている。


 ◇


 翌日。


 市役所二階。


 総務課。


「また皆さんですか」


 沢渡課長が、書類から顔を上げました。


 いつもの灰色の背広。


 細い眼鏡。


 そして、驚くほど感情の見えない顔。


「今日は何でしょう」


「村瀬印刷店の件です」


 私が言うと、沢渡課長はすぐに頷きました。


「ああ。駅前再整備の市民集会ですね」


「ご存じなんですね」


「関係課から報告を受けています」


 相馬先輩が椅子に座りました。


「市の仕事を止めるぞって脅したそうじゃねえか」


「脅迫した事実はありません」


 即答でした。


「商工観光課が事業への影響を説明したことは承知していますが、正式な発注停止の決定はありません」


「じゃあ、発注に影響すると言ったのは?」


「発言の趣旨は確認しています」


 なるほど。


 この人は簡単には崩れない。


 発言があった。


 でも正式な処分ではない。


 だから、即座に違法な行政処分が存在するとは言い切れない。


 そこを正確に分けています。


「課長」


 片桐所長が口を開きました。


「今日は国の方針の確認に来た」


「国の方針?」


「総理大臣から各省庁へ、駅前再整備を進めるよう指示が出ているという話だ」


「国の地域振興政策に沿って、関係省庁が事業を推進していることは事実です」


「その指示の文書はあるか」


「当市が保有している範囲では、総理大臣からの個別の指示文書はありません」


「閣議で決定された方針は?」


「地域振興に関する政府方針はあります」


「その中に、市民集会の開催や、そのチラシ印刷を抑える内容はあるか」


「ありません」


 私は頷きました。


 ここまでは想定どおりです。


 でも沢渡課長は、そこで静かに続けました。


「ただし、国の方針に沿った事業を円滑に推進することは、市として重要です。地元関係者の協力も必要になります」


「地元の和、ですか」


「その言葉を使うなら、そういう側面もあるでしょう」


 来ました。


 昭和の必殺技。


 地元の和。


「課長」


 私は言いました。


「市民が計画に疑問を出すことは、和を乱す行為なんですか」


「意見を述べる自由は否定しません」


「なら、印刷業者に取引上の不利益を示唆する必要はありませんよね」


「行政の事業運営にも配慮が必要です」


「もちろんです」


 私は一度、深呼吸しました。


「だから、そこを法律で分けたいんです」


 鞄から一枚の書面を出します。


 表題。


 ――駅前再整備事業に関する行政指導等の法的妥当性についての意見書。


 沢渡課長が眼鏡を押し上げました。


「拝見しましょう」


 私は書面を置きました。


「まず、憲法七十二条です」


「内閣総理大臣の権能ですね」


「はい」


 私は続けました。


「総理大臣には、内閣を代表して行政各部を指揮監督する権限があります」


「そのとおりです」


「ですが、その権限の存在だけで、市が民間印刷業者に不利益を示唆する根拠にはなりません」


「……続けてください」


「総理大臣が国の行政各部を指導することと、市が批判的な市民集会に関わる業者を不利に扱うことは、権限も行為も違います」


 沢渡課長は黙っています。


 私は次の段落を指しました。


「また、内閣法六条は、閣議にかけて決定した方針に基づく行政各部への指揮監督を定めています」


「ええ」


「仮に国の事業推進について総理大臣の指導や助言があったとしても、その内容を確認せず、印刷妨害まで国の指示だと説明することはできません」


「国の指示という説明が不正確だった可能性はあります」


 沢渡課長が言いました。


「しかし、市が再整備事業への協力を求めること自体は否定されませんね」


「はい」


 私は即答しました。


「協力を求めること自体は否定しません」


 相馬先輩が横から言います。


「だが、協力しなかったら仕事を干すぞってのは別だろ」


 沢渡課長の視線が止まりました。


「市の契約は、公正に判断されるべきものです」


「だったら」


 相馬先輩が机を指で叩きました。


「政府の政策に賛成する印刷屋には仕事を出す。疑問を出す市民のチラシを刷った印刷屋には仕事を出さない。そんな使い分けはできねえよな」


「仮にそういう運用があれば、問題になります」


「仮に、じゃねえ」


 相馬先輩の声が低くなりました。


「その心配をさせたから、印刷屋のおやじが仕事を断ろうとしてんだろ」


 部屋が静かになりました。


 私は最後の段落を指しました。


「憲法二十一条です」


 沢渡課長の目が、書面の上を滑ります。


「市の政策に反対する意見や、その意見を伝える印刷物も、表現の自由の保障を受けます」


「承知しています」


「市が公正な発注判断をすることは当然必要です。でも、批判的な意見の印刷に関わったことを理由に、取引上の不利益を与えたり、そう受け取られる圧力をかけたりするなら、表現の自由への重大な萎縮効果が生じます」


「……」


「それを『公共の福祉』や『地元の和』という抽象的な言葉だけで正当化することはできません」


 私は沢渡課長を見ました。


「行政目的が正当でも、手段は別に審査しなければなりません」


「手段、ですか」


「はい。再整備事業について住民の理解を得たいなら、説明会を開けばいい。資料を公開すればいい。疑問に答えればいい」


 一呼吸。


「印刷業者の仕事を危うくする必要はありません」


 沢渡課長のペンが止まりました。


「市が混乱を避けたいと考えることは、理解します」


 私は続けました。


「でも、批判を受けたくないからといって、民間業者の営業を通じて住民の発言を抑える。それは行政目的と手段の関係が逆転しています」


 所長が静かに言いました。


「課長」


「はい」


「意見書の結論を読んでいただきたい」


 沢渡課長が最終段落へ視線を移しました。


 そこには、こう書いてあります。


 ――市民による政策批判を内容とする印刷物の作成に関し、市の契約上の地位を背景として不利益を示唆する行政指導等が行われたのであれば、憲法第二十一条が保障する表現の自由の趣旨に反し、違憲・違法の疑いが強い。


 ――また、憲法第七十二条に定める内閣総理大臣の権能は、当該行為を正当化する根拠とはならない。


 ――よって、市において発言の事実関係を調査し、印刷業務への不当な干渉を防止するとともに、市の契約判断が政治的見解の相違によって左右されないことを明確にされたい。


 沈黙。


 沢渡課長は、しばらく書面を読んでいました。


 そして。


「……論点は理解しました」


 そう言いました。


「ただし、朝比奈さん」


「はい」


「憲法七十二条は、総理大臣の権限を定める条文です。その条文だけで、市の行為が違憲になるわけではありません」


「分かっています」


「今回、中心になるのは二十一条でしょう」


「はい」


 私は頷きました。


「七十二条は、国の指示という説明の法的な意味を整理するためです」


「なるほど」


 沢渡課長が、もう一度意見書を見ました。


「そして二十一条で、市の行為そのものを検討する」


「そうです」


 相馬先輩がにやりと笑いました。


「権限を混ぜて、総理の名前で住民を黙らせるなって話だ」


 沢渡課長は反論しませんでした。


 代わりに。


「正式な発注停止の決定はありません」


 静かに言いました。


「しかし、担当職員の発言が不当な圧力として受け止められたのであれば、放置はできません」


 私は顔を上げました。


「では」


「事実関係を確認します。また、当該印刷業務に関わったことのみを理由として、市の発注で不利益に扱うことはない。この点を関係課に明確にします」


「ありがとうございます」


「誤解しないでください」


 沢渡課長が眼鏡を直しました。


「市は再整備事業を撤回するわけではありません」


「はい」


「市民集会の主張に賛成するわけでもありません」


「それでいいんです」


「……それでいい?」


 私は頷きました。


「市が政策を進めることと、市民がそれを批判することは、両立します」


 沢渡課長は、ほんの少し目を細めました。


「行政にとっては、なかなか厄介な話です」


「でしょうね」


「しかし」


 課長は意見書を閉じました。


「厄介だからといって、権限のないことをしてよいわけではありません」


 合理的。


 本当にこの人は合理的です。


 感情で謝罪することもなければ、意地で違法な運用を守ることもしない。


 市の判断に法的な危険があると分かれば、余計な損害が出る前に修正する。


 相馬先輩が立ち上がりました。


「じゃあ、頼んだぜ」


「相馬さん」


「何だ」


「一つ申し上げておきます」


「おう」


「総理大臣の権限は、皆さんが考えているほど弱くはありませんよ」


 私は思わず振り返りました。


 沢渡課長が続けます。


「国務大臣を任命し、任意に罷免する権限があります。国会に議案を提出し、国務を報告することもできます。行政各部を指揮監督する権限もある」


「ええ」


「そして、法律や政令への連署、国務大臣の訴追に対する同意など、内閣の一体性を支える重要な権能もあります」


 私は思わず頷きました。


 憲法六十八条。


 七十二条。


 七十四条。


 七十五条。


 総理大臣には、確かに強い権限がある。


「ですが」


 沢渡課長はそこで言葉を切りました。


「強い権限ほど、その根拠を正確に扱わなければならない。そういうご指摘でしょう」


 片桐所長が頷きました。


「そのとおりです」


「承知しました」


 沢渡課長が一礼しました。


 なんだろう。


 勝った、という感じではありません。


 むしろ。


 ようやく役所と法律の話ができた。


 そんな感覚でした。


 三日後。


 村瀬さんが事務所へ飛び込んできました。


「刷れます!」


 私は立ち上がりました。


「え?」


「チラシです! 刷れることになりました!」


「本当ですか?」


「市役所から連絡がありました」


 村瀬さんは興奮した様子で続けました。


「商工観光課の方が、説明の仕方が不適切だったって。市民集会の印刷を引き受けたことだけで、発注上の不利益を受けることはないって」


「よかった……!」


「もちろん、市の仕事を必ず発注するって意味じゃないそうですけど」


「それは当然です」


 私は笑いました。


「市の仕事は、公正に決めてもらえばいいんです」


「そうですよね」


 村瀬さんは、ようやく肩の力を抜きました。


「それで、明日から刷ります」


「何枚です?」


「五百枚」


「結構ありますね」


「ええ」


 村瀬さんがチラシを見下ろしました。


「実はね」


「はい」


「私自身、駅前再整備には賛成なんです」


「……え?」


 意外でした。


「道路が広くなるのも、新しい施設ができるのも、悪い話じゃありません」


「じゃあ、なぜ」


「反対している人の意見だって、聞くべきだと思うからです」


 私は黙りました。


 村瀬さんは少し照れくさそうに笑います。


「自分と違う意見だから刷らない、っていうのも変でしょう」


 なるほど。


 そういうことか。


 表現の自由は、


 自分が賛成する意見だけを守るものではない。


 自分が間違っていると思う意見にも、


 発言する自由がある。


 そして。


 その意見が届くように手伝う人にも、自由がある。


「村瀬さん」


「はい」


「いい印刷屋さんですね」


「いやいや。仕事ですから」


 そう言って笑う顔が、少し誇らしそうでした。


 その日の夕方。


 私は事務所の机で、もう一度憲法を開いていました。


「……先輩」


「何だ」


「総理大臣って、思ったより複雑ですね」


「そりゃそうだろ」


「強い権限もあるし、制約もある」


「当たり前だ」


 私はページをめくりました。


 六十八条。


 国務大臣の任命と罷免。


 七十二条。


 議案提出。


 国務報告。


 行政各部の指揮監督。


 七十四条。


 法律・政令への連署。


 七十五条。


 在任中の国務大臣に対する訴追への同意。


 六十三条。


 議院に出席し、発言する権能。


 全部、試験勉強では暗記項目でした。


 でも。


 今日、少し違って見えます。


「総理大臣って、内閣の中心にいるんですね」


「そうだ」


「大臣を任命して、必要なら罷免できる。国会に議案を出して説明する。行政各部を指揮監督する」


「うん」


「でも、だからといって、何でもできるわけじゃない」


 片桐所長が口を開きました。


「こはる」


「はい」


「総理大臣の権限が強い理由は何だ」


「内閣を一体として動かすためです」


「そうだ」


「でも、その権限は個人の好き勝手を認めるものじゃない」


「うん」


「法律に基づいて行政を統一的に運営するためのものです」


 所長は静かに頷きました。


「権限を与える条文は、同時にその権限の輪郭を示している」


 私はペンを止めました。


 輪郭。


 なるほど。


 権限がある。


 ということは、


 その権限が及ぶ範囲もある。


 ということです。


「だから今回」


 私は言いました。


「総理大臣の指揮監督権があることと、市が印刷屋さんに圧力をかけていいことは別だった」


「そうだ」


「総理大臣という肩書きだけで、法律上の根拠を省略してはいけない」


「そのとおり」


 相馬先輩が煙草に火をつけました。


「要するにだ」


「はい」


「総理が言ったから何でも正しいってんなら、憲法なんかいらねえだろ」


 私は思わず笑いました。


「乱暴ですけど、分かりやすいですね」


「乱暴は余計だ」


「先輩らしい褒め言葉です」


「褒めてねえだろ」


 そのとき。


 電話が鳴りました。


 私が受話器を取ります。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『総務課の沢渡です』


 来ました。


 今日もこの人です。


「お世話になっております」


『村瀬印刷店の件で、一つご報告です』


「はい」


『関係課に対し、今後、国の政策方針を説明する際は、その法的根拠と具体的内容を明確にするよう申し入れました』


「……ありがとうございます」


『また、政策に対する賛否と、契約事務の判断を混同しないよう確認しました』


「そこまで?」


『当然です』


 沢渡課長は淡々と言いました。


『市の契約事務に余計な疑義が生じれば、事業の推進そのものに支障が出ます』


「合理的ですね」


『行政ですから』


 そして。


 少し間がありました。


『朝比奈さん』


「はい」


『一つ質問してもよろしいですか』


「何でしょう」


『総理大臣が国務大臣を罷免する場合、閣議決定は必要ですか』


 ……え?


 急に試験問題?


「必要ありません。憲法六十八条二項で、総理大臣が任意に罷免できます」


『では、行政各部への指揮監督は』


「内閣法六条では、閣議決定した方針に基づいて行うとされています」


『その違いは』


「……」


 私は数秒考えました。


 そして答えます。


「国務大臣の任免は、内閣を組織する総理大臣自身に与えられた権限です。一方、行政各部への指揮監督は、内閣という組織の意思と切り離して好き勝手に行うものではありません」


『結構です』


「……課長?」


『念のため、理解を確認しただけです』


「なんでですか!」


『では、失礼します』


 切れました。


 私は受話器を見つめました。


「……所長」


「何だ」


「沢渡課長に口頭試問されました」


 相馬先輩が吹き出しました。


「ははっ! あの人、性格悪いな!」


「絶対、分かってて聞いてますよね!」


「だろうな」


「しかも正解したら『結構です』って!」


 片桐所長は、帳簿に目を落としたまま言いました。


「答えられたならいい」


「所長まで!」


「現場では、いつ質問されるか分からん」


「……はい」


 確かに。


 行政書士試験なら、問題文を読んでから考えられます。


 でも実務では。


 相手が突然、条文を持ち出してくる。


 しかも、その条文が本当に争点に関係するかまで判断しなければならない。


 暗記だけでは足りません。


 条文の役割を理解していないと、話を混ぜられてしまう。


 私は窓の外を見ました。


 夕暮れの駅前。


 遠くの印刷店には、まだ明かりがついています。


 きっと村瀬さんが、明日のチラシを刷っているのでしょう。


 機械が回る。


 紙が重なる。


 インクの匂いが広がる。


 たった五百枚のチラシ。


 国の政策が変わるわけでもない。


 総理大臣が動くわけでもない。


 市の再整備計画が中止されるわけでもない。


 でも。


 その五百枚を、誰かの顔色をうかがわずに刷ることができる。


 それは、案外、大きなことなのかもしれません。


 私は今日の出来事を、ノートの端に一行だけ書きました。


 ――総理大臣の権限は強い。でも、その名前は市民の自由を奪うための万能札ではない。


「こはる」


 相馬先輩が呼びました。


「はい」


「お前、さっきから何を書いてんだ」


「今日の教訓です」


「見せろ」


「嫌です」


「何でだ」


「先輩に馬鹿にされるからです」


「見せろって」


「嫌です!」


 相馬先輩が椅子から立ち上がりました。


「先輩命令だ」


「法的根拠は?」


「先輩だからだ」


「権限の範囲を示してください」


「俺の命令に逆らうのか」


「内閣法六条に基づく指揮監督ですか?」


「違うわ!」


「じゃあ、閣議決定は?」


「ここに閣議なんかねえ!」


 私はにやりと笑いました。


「つまり、先輩の独断ですね」


「そうだ!」


「では、憲法六十八条二項に基づいて、先輩を罷免します」


「おい待て!」


 相馬先輩が声を上げました。


「お前に任命権はねえだろ!」


「……あ」


 しまった。


 そうでした。


 国務大臣を罷免できるのは、内閣総理大臣です。


 私は見習い。


 しかも、この事務所の総理大臣に相当するのは――。


 二人同時に、奥を見ました。


 片桐所長。


 所長は帳簿を閉じると、静かに言いました。


「相馬」


「はい」


「今日はもう帰れ」


「え?」


「こはる」


「はい」


「お前もだ」


「……え?」


 相馬先輩と顔を見合わせます。


「所長、それって」


「何だ」


「全員罷免ですか?」


 片桐所長は一瞬だけ考えました。


 そして。


「業務終了だ」


 とだけ答えました。


 相馬先輩が腹を抱えて笑いました。


「はははっ! 内閣総辞職だ!」


「いや、違いますよ!」


 私は慌てて六法を閉じました。


「所長が辞めてないんだから、内閣総辞職じゃありません!」


「じゃあ何だよ」


「単なる終業命令です!」


「細けえな!」


「権限の区別は大事なんです!」


 窓の外では、駅前の明かりが一つ、また一つと灯り始めていました。


 総理大臣には、強い権限がある。


 大臣を選び、辞めさせることができる。


 内閣を代表して国会へ議案を提出し、国務を報告する。


 行政各部を指揮監督する。


 しかし。


 どれほど強い権限であっても、法律上の根拠と限界がある。


 そして、国のトップの名前を借りても、市民の自由を勝手に奪えるわけではない。


 その当たり前を守るために。


 昭和六十三年の小さな行政書士事務所では、今日も六法が開かれるのです。


 ――権力が大きいほど、憲法という物差しが必要になる。


 それが、今日の私の教訓でした。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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さくら司法書士補助者の法務帳 〜 昭和に転生して泥沼の争いを収めたら、実務と試験知識が完全にリンクしました 〜
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜
宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
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箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
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