[憲法・内閣の組織]法理編 こはるノート
偉い人にも、守らなければならない決まりがあります。
むしろ。
偉い人だからこそ、守らなければならない決まりがあります。
その決まりを破っても許されるほど偉い人がいたら。
たぶん、その国ではもう、憲法が仕事をしていません。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
窓から差し込む西日が、机の上の六法全書を赤く染めていました。
私は、一枚の写真を眺めていました。
市民会館で開かれた、戦争体験の展示会。
宮田澄江さんが、展示物の前で笑っている写真です。
その後ろには、子どもたち。
古い手紙を覗き込んでいる男の子。
白黒写真を見つめる女の子。
そして、写真の端には。
「……あ」
私は目を凝らしました。
「沢渡課長、写ってる」
会場の隅。
灰色の背広。
細い眼鏡。
感情をどこかの書庫に預けてきたような、いつもの顔。
でも。
よく見ると、展示物を真剣に読んでいます。
「どうした」
相馬先輩が言いました。
「課長、展示会をちゃんと見てたんだなって」
「施設利用の確認だろ」
「本人はそう言ってましたけど」
「じゃあそうなんだろ」
「先輩、夢がないですね」
「役所の課長に何の夢を見てんだ」
それもそうです。
私は写真をノートの横へ置きました。
今回の事件。
元自衛隊幹部の黒岩重信という人物が、
『内閣特命担当大臣相当』
という、何とも怪しい肩書を使い、市民会館での展示中止を求めてきた。
市役所は、その意見や地元の反対を重く見て、利用を不許可にした。
私たちは憲法六十六条と六十八条を使い、
黒岩氏は正式な国務大臣ではない。
その意見は、内閣の意思でも正式な行政命令でもない。
ということを確認した。
さらに憲法二十一条と地方自治法二百四十四条を根拠に、不許可の再検討を求めた。
結果。
宮田さんは展示会を開くことができました。
「……よし」
私はノートを開きました。
最初のページに、大きく書きます。
――憲法第六十六条・第六十八条。
内閣の組織。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日は内閣です」
「勝手にやれ」
「憲法六十六条と六十八条を整理します」
「だから勝手にやれ」
「所長」
私は奥の机へ顔を向けました。
「相馬先輩が勉強会を拒否しています」
片桐所長は帳簿から顔を上げませんでした。
「相馬」
「はい」
「付き合え」
「……はい」
強い。
内閣総理大臣より強いかもしれません。
「じゃあ、始めます!」
「お前、本当に楽しそうだな」
「勉強は楽しくやるものです」
「受験生の頃もそうだったのか」
「……」
「何で黙る」
「過去のことは問わないでください」
私は咳払いをして、ノートに最初の見出しを書きました。
――内閣とは何か。
「先輩」
「何だ」
「日本の行政権は、誰に属していますか」
「内閣だろ」
「正解です」
憲法第六十五条。
行政権は、内閣に属する。
短い条文です。
たったそれだけ。
でも、この一文が重要です。
「総理大臣じゃないんですよね」
「何がだ」
「行政権が属する相手です」
「ああ」
私はノートに書きました。
行政権。
内閣に属する。
内閣総理大臣個人に属するわけではない。
「これ、今回の事件で大事でした」
黒岩氏は、
総理大臣の意向を受けている。
だから国の方針に従え。
そんな理屈を使っていました。
でも。
内閣は、総理大臣一人の私物ではありません。
「じゃあ、内閣は誰でできてる?」
相馬先輩が聞きます。
「憲法六十六条一項です」
私は六法を開きました。
――内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
「つまり」
私は鉛筆で二つの言葉を囲みました。
内閣総理大臣。
その他の国務大臣。
「この二種類の人たちで内閣を組織します」
「総理大臣は首長か」
「はい」
「じゃあ総理大臣が全部一人で決めるのか」
「違います」
私は即答しました。
「内閣は合議体だからです」
合議体。
受験生だった頃は、単語だけ暗記していました。
複数人で意思決定する組織。
はい、次。
そんな感じです。
でも今なら分かります。
合議体というのは。
誰か一人が勝手に決めるのではなく、組織として意思を形成する仕組みです。
「内閣の場合、どうやって意思決定するんだ」
相馬先輩が聞きました。
「閣議です」
「そうだな」
「内閣法では、内閣が職権を行うのは閣議によるとされています」
私はノートに矢印を書きました。
内閣。
合議体。
閣議によって職権を行使。
「じゃあ総理大臣は、何をする人なんだ」
「内閣の首長として、閣議を主宰します」
「なるほど」
「ただし、首長だからといって、閣議によるべき事項を何でも一人で決定できるわけではありません」
相馬先輩は腕を組みました。
「つまり、内閣総理大臣は偉いが、内閣そのものではない」
「そうです」
ここです。
総理大臣は内閣の首長。
でも。
総理大臣イコール内閣ではありません。
「課長が最初、黒岩氏の意見を参考にしたと言ってましたよね」
「ああ」
「専門家の意見を参考にすること自体は問題ありません」
「うん」
「でも、総理大臣に近いというだけで、その人の意見を内閣の正式な決定として扱うことはできない」
「そうだ」
私はノートに線を引きました。
偉い人の意見と、国家機関の正式な意思は別。
「じゃあ、こはる」
片桐所長が言いました。
「六十六条三項はどうなっている」
「あ」
私はページを見ました。
――内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。
「これも重要ですね」
「そうだ」
連帯責任。
内閣は、国会に対して連帯して責任を負う。
大臣一人が勝手に政治をする。
問題が起きたら、その大臣だけの話で終わる。
そういう単純な仕組みではありません。
内閣という組織として、国会に対して責任を負う。
「だから合議体なんですね」
「それも重要な理由の一つだ」
私は頷きました。
内閣は合議体。
国会に対して連帯責任。
これが議院内閣制の重要な特徴。
なるほど。
条文がつながってきました。
「じゃあ次です」
私はノートをめくりました。
――内閣総理大臣は、どうやって選ばれるのか。
「六十七条ですね」
相馬先輩が言いました。
「そうです」
憲法第六十七条。
内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で指名される。
「総理大臣は国民が直接選ぶんじゃないんですよね」
「そうだな」
「まず国会が指名する」
「うん」
「そして、天皇が任命する」
憲法六条一項。
天皇は、国会の指名に基づいて内閣総理大臣を任命する。
「ここで注意です」
私は人差し指を立てました。
「総理大臣を政治的に選ぶのは国会です」
「天皇は?」
「国会の指名に基づいて任命する国事行為を行います」
「そうだ」
国会が指名する。
天皇が任命する。
この区別。
試験でよく問われます。
「じゃあ、国務大臣は?」
相馬先輩が聞きました。
「総理大臣が任命します」
「国会が一人ずつ指名するのか」
「いいえ」
「天皇が国務大臣を任命するのか」
「いいえ」
私はノートに書きました。
内閣総理大臣。
国会が指名、天皇が任命。
国務大臣。
内閣総理大臣が任命。
「ここ、混同すると試験で落としますね」
「そうだな」
「でも現場でも重要でした」
黒岩氏は、自分が総理大臣の意向を受けた立場だと主張していました。
しかし。
総理大臣と親しい。
政策について相談を受けた。
有力な協力者である。
それだけでは、国務大臣になりません。
正式に任命されて初めて、国務大臣になるのです。
「つまり」
私は言いました。
「総理大臣に気に入られている人と、総理大臣に任命された国務大臣は、全然違う」
「そりゃそうだ」
「でも肩書が立派だと、つい混同しちゃうんですよ」
昭和の空気。
元自衛隊幹部。
国の政策に詳しい。
総理大臣の意向を受けた。
そんな言葉が並ぶだけで、逆らってはいけない気分になる。
でも。
憲法は、気分で権限を認めません。
「ちなみに」
相馬先輩が言いました。
「一度任命した大臣は、総理大臣が自由に辞めさせられるのか」
「はい」
私は頷きました。
「憲法六十八条二項です」
――内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる。
「任意に、です」
「理由が必要か」
「憲法上、特定の罷免理由は要求されていません」
「じゃあ総理大臣の権限は結構強いな」
「強いです」
私は頷きました。
国務大臣の任命。
国務大臣の罷免。
どちらも内閣総理大臣の重要な権限です。
「でも」
私は続けました。
「任命権があるからといって、憲法の条件を無視していいわけじゃありません」
片桐所長が小さく頷きました。
「その条件が、次の論点だ」
私はノートに大きく書きました。
――国務大臣の過半数は国会議員。
「ここ、数字が出てきます」
「嫌な予感がするな」
相馬先輩が言いました。
「先輩、数字苦手ですか」
「お前の説明が長くなるのが嫌なんだ」
「ひどい」
私は憲法六十八条一項を読みました。
――内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。
「まず重要なのは、国務大臣全員が国会議員である必要はないことです」
「そうだな」
「過半数でいい」
では。
国務大臣が十四人いた場合。
国会議員は何人必要でしょう。
「七人だろ」
相馬先輩が答えました。
「不正解です」
「何でだ!」
「過半数だからです」
私はノートに書きました。
十四人の半分。
七人。
過半数。
七人を超える人数。
つまり八人以上。
「半数じゃ駄目なんですね」
「そうです」
「面倒くせえな」
「法律の数字は、そこが大事なんです」
では。
国務大臣が十五人なら。
「八人」
「正解です」
十七人なら。
「九人」
「正解」
二十人なら。
「十一人」
「正解です!」
相馬先輩が得意げな顔をしました。
「簡単じゃねえか」
「じゃあ、内閣総理大臣も人数に入れて計算しますか?」
「……」
止まりました。
はい。
ここ、試験の罠です。
「憲法六十八条が言っているのは、国務大臣の過半数です」
「ああ」
「内閣総理大臣を足した、内閣の構成員全体の過半数を計算するわけじゃありません」
私は二重線を引きました。
国務大臣の過半数。
総理大臣を含めた内閣全体の過半数ではない。
「これ、引っかけ問題に出そうですね」
「お前は何でも試験に出したがるな」
「受験生ですから」
「そうだったな」
私はさらに書きました。
総理大臣。
必ず国会議員。
国務大臣。
過半数が国会議員。
「つまり、国会議員じゃない民間人が国務大臣になることもできます」
「そうだな」
「でも、民間人ばかりで内閣を作ることはできません」
「なぜだ」
「国会議員の過半数ルールに反するからです」
ここに、議院内閣制の考え方があります。
国民が選挙で選んだ国会議員。
その国会の信任を基礎として存在する内閣。
行政権が、国会との関係を切って独立した集団にならないようにする。
そのための仕組みです。
「つまり」
私は言いました。
「総理大臣が好きな人を集めるだけでは、内閣は作れない」
「そういうことだ」
相馬先輩が頷きました。
「人事権は強いが、憲法の枠の中で使えってことか」
「はい」
私はノートに丸をつけました。
国務大臣の任命権。
総理大臣。
過半数要件。
国会議員。
これで六十八条一項は、かなり整理できました。
「次は、今回の事件でいちばん大事だったところです」
私はページをめくりました。
――文民統制。
「黒岩って、元自衛隊幹部だったな」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「だから国務大臣になれないのか」
「いいえ」
私は首を振りました。
「そこは誤解しやすいところです」
憲法第六十六条二項。
――内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
「文民って何だ」
「簡単に言えば、軍人ではない人です」
「自衛官は?」
「現職の自衛官は、文民には当たりません」
「元自衛官は?」
「退職しているというだけで、一律に文民から排除されるわけではありません」
私はノートに書きました。
現職の自衛官。
文民ではない。
退職した元自衛官。
その経歴だけで当然に文民資格を失うわけではない。
「じゃあ、黒岩氏は?」
「元自衛官というだけなら、国務大臣になる資格がないとは言えません」
「なるほど」
「今回の問題は別です」
私は写真の横に置いた意見書を指しました。
「そもそも、この人は正式な国務大臣に任命されていないんです」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「大臣相当って名乗ってただけだもんな」
「そうです」
だから。
今回の黒岩氏について整理すると、
元自衛官という経歴そのものが問題なのではない。
正式な国務大臣ではないのに、大臣に準ずる権威を使って行政へ働きかけた。
そこが問題でした。
「でも」
私は鉛筆を止めました。
「どうして文民じゃないと駄目なんでしょう」
相馬先輩が私を見ました。
「軍人が政治を好き勝手に動かしちゃ困るからだろ」
「そうです」
文民統制。
シビリアン・コントロール。
軍事組織が政治を支配するのではなく、民主的な政治の統制に服するという考え方です。
憲法六十六条二項の文民要件は、その重要な保障の一つ。
「軍事の専門家の意見を聞くのは駄目なんですか?」
「いや」
相馬先輩が答えました。
「専門家なんだから、意見を聞くのは当然あるだろ」
「はい」
「でも、専門家が国の最終的な政治判断を勝手に決めるのは違う」
「そういうことです」
私は頷きました。
知識がある。
経験がある。
専門性が高い。
それは、その人の意見に参考価値があるということ。
でも。
国家権力を持っているという意味ではありません。
あの展示会の問題は、まさにそこでした。
「黒岩氏が『この展示は防衛政策上よくない』と意見を述べる自由はあります」
「うん」
「でも、『総理大臣の意向を受けた大臣相当だから中止しろ』と言われても、法的な命令になるわけじゃありません」
「そうだ」
「そして市が、その意見を正式な国の権限による指示と混同して、市民会館の利用を拒否するのも問題です」
片桐所長が口を開きました。
「こはる」
「はい」
「文民統制の意味を、軍人嫌いと勘違いするな」
「あ」
「軍事の専門知識は必要だ。だが、最終的な政治的統制は民主的な仕組みの下に置く。それが本質だ」
「……はい」
私はノートの表現を直しました。
文民統制。
軍事組織に対する民主的な政治の統制を確保する仕組み。
その保障として、総理大臣と国務大臣には文民資格が求められる。
「だから元自衛官を一律に排除する制度じゃないんですね」
「そうだ」
なるほど。
文民という二文字が、急に重く感じられました。
「さて」
私はノートの次の見出しを書きました。
――国務大臣の人数。
「ここです」
相馬先輩が嫌そうな顔をしました。
「まだ数字があるのか」
「あります」
「憲法は面倒だな」
「いえ、ここは内閣法です」
「何が違う」
「そこが大事なんです!」
私は六法を二冊並べました。
一冊は日本国憲法。
もう一冊は昭和六十三年の内閣法。
「憲法六十六条は、『法律の定めるところにより』と書いてあります」
「うん」
「だから、内閣の組織の具体的な部分は内閣法で決められています」
私は指で条文をたどりました。
「今、この昭和六十三年の内閣法では、総理大臣以外の国務大臣は二十人以内です」
「そうだな」
「でも私が知っている後の時代の教材では、原則十四人以内、特別に必要があれば十七人以内という数字が出てきます」
相馬先輩が眉を上げました。
「未来じゃ人数が減るのか」
「そういう改正があるんです」
「忙しいな、未来は」
「本当に」
私はため息をつきました。
憲法は昭和二十一年の公布以来、改正されていない。
でも。
内閣法は改正される。
だから。
憲法六十六条は同じでも、その委任を受けて具体的な人数を決める法律は、時代によって違う。
「もし私が昭和六十三年の役所で、国務大臣は原則十四人以内ですって言ったら……」
「間違いだな」
「そうなんです」
私は机に突っ伏しました。
「憲法が同じだからって、関連法律まで同じだと思うと危険ですね」
「お前、そういう間違いよくしそうだな」
「否定できません」
ただし。
ここでもう一つ重要なことがあります。
「所長」
「何だ」
「憲法自体は、国務大臣の具体的な人数を定めていませんよね」
「そうだ」
「具体的な定数は内閣法」
「うん」
「だから、憲法が直接要求しているものと、法律が具体化しているものを分ける必要がある」
「そのとおりだ」
私はノートに整理しました。
憲法六十六条。
内閣の構成、文民要件、国会に対する連帯責任。
憲法六十八条。
国務大臣の任命、過半数要件、罷免。
内閣法。
国務大臣の定数や閣議など、内閣組織の具体的な仕組み。
「ここで重要なのは」
私は言いました。
「憲法の条件は、内閣法で勝手に消せないことです」
「例えば?」
「内閣法を改正して、現職の自衛官も国務大臣になれることにする、とか」
「駄目だな」
「はい。憲法六十六条二項に反します」
「国務大臣は全員、国会議員じゃなくてもいいことにするとか」
「それも駄目です。六十八条一項の過半数要件に反します」
なるほど。
憲法は最高法規。
法律は憲法に反することができない。
ここで憲法九十八条一項がつながります。
私はノートに一本、太い線を引きました。
憲法が枠を決める。
法律が具体化する。
法律は憲法の枠を越えられない。
「そういうことか」
相馬先輩が頷きました。
「人数は法律で変えられるが、文民要件や過半数要件を法律でなくすことはできねえ」
「そうです!」
やっと整理できました。
「じゃあ、最後に今回の事件を振り返ります」
私は宮田さんの写真を取りました。
展示会。
市民会館。
黒岩氏。
沢渡課長。
あの市役所のやり取りが、頭の中に戻ってきます。
「今回、私たちは憲法六十六条と六十八条を使いました」
「そうだな」
「でも、あれだけで利用不許可を取り消させたわけじゃありません」
「うん」
ここは、とても大事です。
憲法六十六条。
内閣の組織。
憲法六十八条。
国務大臣の任免。
どちらも重要。
でも。
市民会館の利用を拒否された人が、その条文だけを出して、
『だから不許可は違憲です』
と言っても、論理が飛んでいます。
「所長。今回の法的意見書で、いちばん大事だったのは何ですか」
片桐所長はしばらく考えました。
「二つの問題を混同しなかったことだ」
「二つ?」
「黒岩氏に正式な国家権限があるか、という問題」
「はい」
「そして、市が宮田さんの利用を拒否できるか、という問題」
私は頷きました。
前者。
憲法六十六条・六十八条。
後者。
憲法二十一条と地方自治法二百四十四条。
「そうです」
私は言いました。
「内閣の組織規定で、黒岩氏の権威の正体を確認した」
「うん」
「そして表現の自由や公の施設の利用に関する法律で、市の不許可判断を検討した」
「そうだ」
「だから、市役所にも筋道を示せたんですね」
相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。
「『憲法違反だ!』って怒鳴るだけなら、誰でもできる」
「はい」
「どの憲法の条文が、どの権限を縛っているか。それを示さなきゃ意味がねえ」
「……本当にそうですね」
私は思いました。
昔の私は、憲法なんて実務で使わないと思っていました。
行政書士が内閣の組織を論じることなんて、ないでしょう。
国務大臣の人数。
文民。
国会議員の過半数。
試験に出るから覚える。
それだけ。
でも。
宮田さんは、国の権威を名乗る人の言葉に、展示会を奪われかけました。
だから。
その人は、本当に国の権限を持っているのか。
正式な国家機関の意思なのか。
国務大臣とは、どのような地位なのか。
そこを確認する必要があった。
憲法の組織規定が、そのための道具になったのです。
「面白いですね」
私は呟きました。
「何がだ」
相馬先輩が聞きました。
「内閣の組織を勉強していたら、いつの間にか市民の自由につながっていました」
「当たり前だろ」
「そうですか?」
「国の権限を誰が持つか決めるってのは、その権限を持たない奴には勝手なことをさせねえって意味でもある」
私は顔を上げました。
「……なるほど」
「偉い奴が好き勝手やれたら、困るのは普通の人間だ」
そうか。
憲法が国家機関の組織を決める。
それは、組織図を作るだけの話じゃない。
国家権力を持つ者を明確にし、その権限の根拠と責任を定める。
そのこと自体が、国民の自由を守る土台になる。
私はノートに書きました。
国家機関の組織を定めることは、国家権力の限界を定めることでもある。
「では、復習です!」
私は姿勢を正しました。
相馬先輩が嫌そうな顔をします。
「まだやるのか」
「最後の確認です」
「早くしろ」
「第一問」
私は鉛筆を持ち上げました。
「内閣総理大臣は、国民が直接選挙で選ぶ」
「バツ」
「理由は?」
「国会議員の中から国会が指名するから」
「正解!」
「第二問」
「まだあるのか」
「国務大臣は、全員が国会議員でなければならない」
「バツ」
「理由は?」
「過半数でいい」
「正解!」
「第三問」
私はにやりとしました。
「国務大臣が十四人なら、国会議員は七人いれば足りる」
「バツ。八人以上だ」
「正解!」
「第四問」
「おい」
「現職の自衛官は、国務大臣になることができる」
「バツ」
「理由は?」
「文民じゃねえから」
「正解!」
「第五問」
「長えな」
「退職した元自衛官は、過去に自衛官だったというだけで、絶対に国務大臣になれない」
「バツ」
「理由は?」
「退職したというだけで、一律に文民資格を失うわけじゃねえから」
「正解!」
私は大きく頷きました。
相馬先輩。
今日はかなり優秀です。
「第六問」
「まだあるのかよ!」
「国務大臣は、内閣総理大臣が任命する」
「マル」
「正解!」
「第七問」
「……」
「内閣総理大臣は、国務大臣を任意に罷免できる」
「マル」
「正解!」
「第八問」
私は少し意地悪な顔をしました。
「内閣は合議体なので、内閣総理大臣には特別な権限がない」
「バツ」
「理由は?」
「首長だし、国務大臣の任免権もある」
「正解です!」
私はノートに花丸を書きました。
「先輩、満点です」
「嬉しくねえ」
「どうしてです?」
「お前に採点されてるからだ」
ひどい。
私は最後の問題を書こうとしました。
そのとき。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「一つ、追加だ」
「はい」
「内閣総理大臣が、民間人だけを集めて国務大臣に任命した。これは認められるか」
「認められません」
「なぜだ」
「国務大臣の過半数を国会議員から選ばなければならないからです」
「うん」
「では」
所長が続けました。
「民間人一人を国務大臣に任命した。それだけで違憲か」
「いいえ」
「なぜだ」
「国務大臣の全員が国会議員である必要はなく、過半数要件などを満たしていれば、民間人も任命できるからです」
所長は頷きました。
「それでいい」
私は少し嬉しくなりました。
丸暗記ではなく、仕組みが分かってきた気がします。
「じゃあ最後」
相馬先輩が言いました。
「俺から問題だ」
「珍しいですね」
「黒岩氏が正式に国務大臣へ任命されていたら、宮田さんの展示を止める命令は何でも出せたのか」
私は首を振りました。
「いいえ」
「理由は?」
「正式な国務大臣でも、その地位だけで何でも命令できるわけではありません。個々の権限には法的根拠が必要ですし、憲法や法律に従わなければならないからです」
「そうだ」
相馬先輩が笑いました。
「そこを忘れんなよ」
私は頷きました。
そうです。
正式な国務大臣であるか。
そして。
その国務大臣に、その行為をする権限があるか。
この二つも別。
任命されたからといって、無制限の権力を手にするわけじゃない。
「つまり」
私は言いました。
「肩書を確かめて、次に権限を確かめる」
「そういうことだ」
よし。
これは覚えやすい。
窓の外が、少し暗くなってきました。
私はノートを最初から見直しました。
憲法六十五条。
行政権は内閣に属する。
憲法六十六条一項。
内閣は、内閣総理大臣とその他の国務大臣で組織する。
憲法六十六条二項。
内閣総理大臣も国務大臣も文民。
憲法六十六条三項。
内閣は国会に対して連帯責任を負う。
憲法六十七条。
内閣総理大臣は国会議員の中から国会が指名する。
憲法六十八条一項。
国務大臣は内閣総理大臣が任命し、その過半数は国会議員。
憲法六十八条二項。
内閣総理大臣は国務大臣を任意に罷免できる。
そして内閣法。
昭和六十三年の国務大臣の定数は、二十人以内。
後の時代の教材では、原則十四人以内、特別に必要なら十七人以内という規定に変わる。
「……よし」
私は鉛筆を置きました。
「整理できました」
相馬先輩がこちらを見ます。
「終わったか」
「はい」
「今日の教訓は?」
私は少し考えました。
内閣は合議体。
総理大臣は首長。
国務大臣は正式な任命を受ける。
過半数は国会議員。
文民でなければならない。
どれも大切です。
でも。
今日いちばん覚えておきたいのは。
偉い人が言ったから正しい。
ではなく。
憲法が決めた仕組みに従って、その人に権限があるかどうかを考える。
ということでした。
私はノートの最後に、大きく書きました。
――内閣は「総理と大臣」の合議体。大臣は「文民・過半数国会議員」の条件で総理が任免する。
「長いな」
相馬先輩が言いました。
「一行です」
「文字が多い」
「大事なことが多いんです」
「もっと短くしろ」
「じゃあ……」
私は少し考えて、その下に書き足しました。
――内閣は合議、任免は総理、大臣は文民、過半数は議員。
「どうです?」
相馬先輩はしばらく眺めました。
「……まあ、いいんじゃねえか」
「褒めましたね」
「気のせいだ」
いつもの答えです。
私は笑いました。
机の上には、宮田さんの写真。
展示会に集まった人たち。
あの中の誰も、内閣総理大臣を直接相手にしたわけではありません。
国務大臣と裁判をしたわけでもありません。
ただ。
国の権威を名乗る人に、自分たちの展示を止められそうになった。
そして。
憲法の条文に従って、その権威を確かめた。
それだけで、話が少し変わった。
さらに市の不許可を、表現の自由と公の施設の利用という別の角度から検討した。
結果として、展示会を開くことができた。
憲法六十六条と六十八条は、直接、展示会を開かせる魔法の条文ではありません。
でも。
誰が国家権力を持つのか。
誰が国の正式な意思を決めるのか。
その仕組みを明らかにする。
だから、権威という名前の霧を晴らすことができる。
私は写真をそっとノートに挟みました。
宮田さんのお父さんの言葉を思い出します。
――国のためだと言われると、人は自分の頭で考えることをやめてしまうことがある。
だから、考えることをやめるな。
憲法というのは。
国家権力に対して、
本当にその権限があるのか。
なぜその人が決められるのか。
誰に対して責任を負うのか。
そう問い続けるための約束なのかもしれません。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「終わったなら、片付けろ」
「はい」
私は六法を閉じました。
憲法は、昭和六十三年でも現代でも変わらない。
でも。
人が権威に従う空気は、時代によって違う。
だからこそ。
変わらない条文が、変わりやすい人間の常識に歯止めをかける。
それが、今回の事件で学んだことでした。
「そういえば」
帰り支度をしていた相馬先輩が、突然言いました。
「何です?」
「昨日の昼飯担当大臣の話だ」
「ああ、即日解任されたやつですね」
「解任じゃねえ!」
「正式に任命もされてませんでしたしね」
「うるせえ」
相馬先輩は胸を張りました。
「今日から俺が、片桐事務所の昼飯担当国務大臣だ」
「またですか」
「今回は憲法を勉強したからな」
「ほう」
「文民だろ、俺は」
「はい」
「所長に任命してもらえばいいんだろ」
「まあ、事務所内の冗談としてなら」
「よし」
相馬先輩は所長の机へ向かいました。
「所長」
「何だ」
「俺を昼飯担当大臣に任命してください」
「断る」
「何でだ!」
「必要ない」
即答。
相馬先輩は数秒黙りました。
「……総理大臣の専横だ」
私は吹き出しました。
「先輩、任命権者に拒否されましたね」
「内閣の民主化が必要だ!」
「そもそも事務所は内閣じゃありません」
「じゃあお前は何だ」
「行政書士見習いです」
「国務大臣になれ」
「嫌です」
「何でだ!」
「昼飯の責任を負いたくありません」
片桐所長が、帳簿を閉じました。
「二人とも」
「はい」
「今日の昼飯は、もう食っただろう」
「……あ」
そうでした。
今は夕方です。
相馬先輩が固まりました。
「じゃあ夕飯担当大臣で」
「任命しない」
「何でだよ!」
所長は淡々と答えました。
「私は帰る。夕飯は各自で決めろ」
私は思わず笑いました。
「先輩」
「何だ」
「残念でしたね。総理大臣が任命してくれませんでした」
「所長は総理大臣じゃねえ!」
「さっきから先輩がそういう扱いしてるんですよ!」
相馬先輩は、しばらく黙りました。
そして。
「……じゃあ、俺が総理大臣になる」
「はい?」
「自分で自分を総理大臣に任命する」
私は真顔になりました。
「先輩」
「何だ」
「憲法六十七条」
「……」
「国会の指名が必要です」
「……」
「それから六条一項。天皇による任命です」
「……」
「自称総理大臣は、憲法上認められません」
相馬先輩が頭を抱えました。
「面倒くせえな、憲法!」
私は笑いました。
「そうですね」
そして、ノートを軽く叩きました。
「でも、その面倒くささが大事なんですよ」
「何?」
「国家権力を持つのが簡単すぎたら、困るでしょう?」
相馬先輩は、しばらく私を見ていました。
それから。
「……まあな」
小さく笑いました。
私はノートを鞄にしまいました。
その最後のページには、今日の一行が残っています。
――内閣は合議、任免は総理、大臣は文民、過半数は議員。
偉い人が勝手に国を動かせないようにする。
そのための仕組みが、憲法にはちゃんと書かれている。
そして。
その仕組みがあるからこそ。
市民は、偉い人の顔色ではなく、法律に従って生きていける。
私は鞄を肩にかけました。
「では、先輩」
「何だ」
「帰りましょう」
「夕飯は?」
「各自で決めましょう」
「合議じゃねえのか」
「私たちは内閣じゃありませんから」
「都合のいいときだけ憲法使いやがって!」
夕暮れの事務所に、相馬先輩の声が響きました。
どうやら。
昭和六十三年の片桐行政書士事務所では、
内閣制度の導入は、まだまだ先になりそうです。
もっとも。
私は、ちょっとだけ思いました。
もし本当に事務所に内閣ができたとしても。
総理大臣は、きっと片桐所長。
相馬先輩は……。
たぶん、国務大臣になる前に罷免されるでしょう。
私は笑いをこらえながら、事務所の明かりを消しました。
憲法は、国家権力を縛るための法律。
でも、その向こうにいるのは。
今日も自分の言葉で語り、自分の考えで生きようとしている、ごく普通の人たちなのです。
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