[憲法・内閣の組織]現場編 「総理大臣が決めたことですから」の罠。大臣は誰でもなれるのか――昭和の権威主義を打ち破る、文民統制と国会の過半数ルール
偉い人が言ったことは、正しい。
もっと偉い人が言ったことなら、もっと正しい。
そして。
いちばん偉い人が決めたことには、誰も逆らえない。
――そんな理屈が通るなら。
憲法なんて、最初から必要ありません。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「内閣総理大臣の命令だから、逆らうなと言われたんです」
その日の相談者は、そう言って一枚の書類を机に置きました。
「……総理大臣?」
私は思わず聞き返しました。
「はい」
「日本の?」
「ほかにいるんですか?」
「いえ、そうですよね」
大変失礼しました。
でも。
片桐行政書士事務所に、ついに総理大臣案件が来るとは思いませんでした。
昨日までは駅前の花売り台の許可を扱っていたんですけど。
出世が急すぎませんか。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「顔に出てるぞ」
「何がです?」
「面白がってるだろ」
「そんなことありません」
「嘘つけ」
相談者は五十代半ばの女性でした。
名前は宮田澄江。
市内で小さな印刷所を営みながら、地域の戦争体験を記録する市民団体の代表をしているそうです。
今年の夏。
市民会館で、戦争体験者の証言を集めた展示会を開く予定でした。
戦地から帰った人の手紙。
疎開先で使っていた教科書。
焼け残った家族写真。
亡くなった人の名前を書いた帳面。
そんなものを展示し、若い世代に見てもらう。
「政治集会じゃないんです」
宮田さんが言いました。
「昔のことを、知ってほしいだけで」
「それで、市民会館を申し込んだんですね」
「はい。ところが……」
宮田さんは、もう一枚の紙を差し出しました。
市民会館利用申請に対する回答。
――利用を認めない。
理由。
国の防衛政策に対する誤解を招くおそれがあり、地域の秩序と公共の福祉に照らして適当でないため。
「公共の福祉」
私は呟きました。
また出た。
昭和の役所が大好きな言葉です。
もちろん、公共の福祉は憲法上の重要な概念です。
でも。
何がどう危険なのか説明しないまま、
「公共の福祉です」
と言えば何でも止められる。
そんな便利な呪文ではありません。
「国の防衛政策に対する誤解って、どういうことですか」
「それが分からないんです」
宮田さんは眉を寄せました。
「市役所の担当者に聞いたら、最近、防衛関係の国の方針が強くなっているからって」
「国の方針?」
「それで、この人が来たんです」
宮田さんは、三枚目の紙を出しました。
立派な肩書。
見慣れない団体名。
そして。
そこに書かれていた言葉を見た瞬間。
私は、少し首を傾げました。
――国家防衛政策推進協議会。
――特別顧問・元陸上自衛隊幹部 黒岩重信。
――内閣特命担当大臣相当。
「……相当?」
変な言葉です。
国務大臣。
ではなく。
国務大臣相当。
「この黒岩という人が、市民会館に来たんです」
「何を言ったんですか」
「自分は総理大臣の意向を受けた立場だから、市の行事についても指導できるって」
「それで?」
「戦争の悲惨さばかり展示すると、国民の防衛意識を損なう。展示をやめなさいって」
宮田さんは膝の上で拳を握りました。
「私が、そんな命令をする権限があるんですかって聞いたら……」
少し声が震えます。
「総理大臣が認めた人間なんだから、国務大臣と同じようなものだって」
なるほど。
ここでようやく分かりました。
総理大臣が直接、市民会館の展示を中止させた。
という話ではない。
総理大臣の権威を借りた人物が、市へ圧力をかけた。
そして市役所は、その圧力を理由の一つとして、利用を認めなかった。
そういう構図です。
「所長」
私は片桐所長を見ました。
「これ、かなり変じゃありません?」
「どこがだ」
「まず、この肩書です」
私は書類を指しました。
「内閣特命担当大臣相当」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「相当って何だよ。大臣なのか、大臣じゃねえのか」
「そこなんです」
私は憲法の条文を思い浮かべました。
内閣。
行政権。
国務大臣。
内閣総理大臣。
あれ。
待ってください。
内閣の組織。
確か。
憲法六十六条。
六十八条。
……これ、行政書士試験で覚えたところです。
でも。
受験生だった頃の私は思っていました。
内閣の組織なんて暗記するだけ。
実務で使う機会なんて、まずないでしょう。
なにしろ相手は総理大臣です。
行政書士事務所の窓口で、国務大臣の任命を争う日なんて来るはずがない。
ところが。
昭和六十三年。
目の前の小さな市民会館の利用申請で。
まさに、その条文が必要になろうとしていました。
「まず市役所だ」
片桐所長が言いました。
「誰の判断で不許可にしたのか、確認する」
「はい」
「国の方針というなら、根拠となる正式な文書もな」
相馬先輩が書類を鞄に入れます。
「よし、行くぞ」
「先輩」
「何だ」
「今回は相手が大きそうですね」
「総理大臣でも連れてくる気か?」
「それはちょっと」
「安心しろ」
相馬先輩は笑いました。
「相手は役所の窓口だ」
「はい」
「だったら、やることはいつも同じだ」
正しい根拠を出させる。
それだけ。
なるほど。
法律の仕事は、相手が偉そうなほど基本が大事になるようです。
市役所二階。
総務課。
「……また皆さんですか」
沢渡課長は、私たちを見るなり小さく息をつきました。
灰色の背広。
細い眼鏡。
いつもの無表情。
この人の机だけ、昭和の市役所というより裁判所の記録室みたいです。
「今日は何でしょう」
相馬先輩が書類を置きました。
「宮田澄江さん。市民会館の利用不許可」
「ああ」
沢渡課長はすぐに頷きました。
「その件ですか」
「黒岩って人、知ってるな」
「国家防衛政策推進協議会の方ですね」
「役所に来たのか」
「来ました」
「何を言った」
「国の安全保障政策への配慮を求められました」
「それで展示を止めた?」
沢渡課長はすぐには答えませんでした。
「市としては、さまざまな事情を総合的に判断しています」
「どんな事情ですか」
私が聞きました。
「地元から反対意見が出ています」
「地元?」
「一部の遺族会関係者や地域団体です。戦争体験の展示内容によっては、特定の政治的主張に偏るのではないかと」
「展示内容を確認したんですか」
「提出された概要は確認しました」
「どこに政治的な主張が?」
「そこは評価の問題です」
沢渡課長は、落ち着いた声で続けました。
「市民会館は公の施設です。利用者間の公平や施設の秩序を守る必要があります」
「それは分かります」
「また、地域社会の対立を避けることも、行政として無視できません」
地元の和。
地域の秩序。
公共の福祉。
……来ました。
昭和三点セットです。
「さらに」
沢渡課長が一枚の文書を出しました。
「国の政策との整合性について、関係団体から懸念が示されています」
それが。
黒岩氏の意見書でした。
私は目を通しました。
国の安全保障。
防衛意識の涵養。
国民の団結。
協力。
そして最後に。
――本協議会特別顧問は内閣総理大臣の意向を受け、国務大臣に準ずる立場で関係各所に協力を求めるものである。
私は、そこに指を止めました。
「課長」
「何でしょう」
「これ、正式な国の命令ですか?」
「国の正式な通達として受領したものではありません」
即答でした。
さすが沢渡課長。
そこは確認しています。
「では、この人が国務大臣だと確認したんですか」
「文書には『国務大臣に準ずる』とあります」
「そうですね」
「その肩書が法律上の国務大臣を意味するとは、こちらも理解していません」
あ。
やっぱり。
この人、そこまで間抜けじゃありません。
「では、なぜ不許可の判断材料に?」
「公的な権限の有無とは別に、有識者や関係団体の意見を行政判断の参考とすることはあります」
なるほど。
そこを分けてきましたか。
黒岩氏に命令権がない。
それだけでは、市が意見を聞くことまで否定できない。
私は少し黙りました。
沢渡課長は続けます。
「国の政策に詳しい人物の意見として、一定の参考価値があると考えたのです」
……うまい。
この人は、黒岩氏が本物の大臣だとは言っていません。
ただ、その人物の権威を行政判断の重みに使っている。
つまり。
正面から否定するだけでは足りない。
この紙に書かれた「国務大臣に準ずる」という肩書に、どれほどの意味があるのか。
そこを明らかにする必要があります。
「課長」
私は言いました。
「この人、国務大臣ではないんですよね」
「そのようですね」
「国務大臣なら、誰が任命しますか」
「内閣総理大臣です」
「はい」
私は頷きました。
「では、総理大臣が誰かを『大臣と同じくらい偉い』と評価したら、その人は国務大臣になるんでしょうか」
沢渡課長が眼鏡の奥で私を見ました。
「何がおっしゃりたいんです?」
私は書類を机に置きました。
「憲法六十六条です」
その瞬間。
片桐所長が、こちらを見ました。
憲法第六十六条。
内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
そして第二項。
内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
私は頭の中で条文を読み上げました。
不思議です。
この条文。
現代でも、昭和六十三年でも、まったく同じ。
一字一句変わっていません。
なのに。
昭和の空気は、条文の外側から圧力をかけてくる。
元自衛隊幹部。
国の政策に詳しい。
総理大臣の意向を受けている。
だから従うべきだ。
そんな理屈が、当たり前のように人の口から出てくる。
でも。
憲法は、権威の強さで国の組織を決めていません。
「課長」
私はゆっくり言いました。
「内閣って、総理大臣一人の組織じゃありませんよね」
「当然です」
「内閣総理大臣と、その他の国務大臣で組織する合議体です」
「はい」
「そして、国務大臣を任命するのは総理大臣です」
「憲法六十八条ですね」
「そうです」
私は続けました。
「ただし、総理大臣が気に入った人なら、誰でも自由に内閣の一員にできるわけじゃありません」
沢渡課長は黙って聞いています。
「国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばなければならない」
ここ。
大事です。
総理大臣は国会議員から国会が指名する。
国務大臣は総理大臣が任命する。
そして国務大臣は、全員が国会議員である必要はない。
でも過半数は国会議員。
つまり。
内閣は、総理大臣の私的な仲間集団ではないのです。
「それから」
私は黒岩氏の肩書を指しました。
「文民であることも必要です」
相馬先輩が腕を組みました。
「この黒岩ってのは元自衛官なんだろ」
「はい。ただし、そこは注意が必要です」
「何がだ」
「元自衛官だから、それだけで文民じゃないとは言えません」
「ほう」
「退職しているなら、元自衛官という経歴だけで国務大臣になる資格を失うわけではありません。問題は、現職の自衛官のような非文民を大臣にできないことです」
相馬先輩が頷きました。
「なるほどな」
私は書類を軽く叩きました。
「でも、黒岩氏については、その前の問題があります」
「前の問題?」
「そもそも、この人が国務大臣に任命された事実がありません」
沢渡課長の目が、少し細くなりました。
「確認済みですか」
「はい」
片桐所長が封筒から一枚の資料を出しました。
国務大臣の名簿。
正式な内閣の構成員。
黒岩重信の名前は、どこにもありません。
さらに、今回の市民会館の展示について、内閣の正式な決定や所管官庁の指示が存在することを示す資料も見当たりませんでした。
「課長」
片桐所長が言いました。
「国の政策に詳しい人物の意見を聞くのは自由だ」
「ええ」
「だが、その人物の私的な意見を、国務大臣の判断と同列に扱うことはできない」
「それは理解しています」
「まして、内閣の決定でもないものを、国の方針として市民の権利制限に使うなら話は別だ」
沢渡課長は、黒岩氏の文書を見下ろしました。
「……そこは、判断過程を確認する必要がありますね」
私は続けました。
「内閣法の定数もそうです」
「定数?」
「はい」
私は現代の受験勉強を思い出しました。
国務大臣。
原則十四人以内。
特別に必要があれば十七人以内。
そう覚えていました。
でも。
ここで私は、はっとしました。
――待って。
今は昭和六十三年。
憲法の条文は変わっていない。
でも内閣法は違う。
あれは改正されている。
「……二十人」
私は小さく呟きました。
「何だ?」
相馬先輩が聞きます。
「この時代の内閣法では、総理大臣を除く国務大臣は二十人以内です」
「そうだな」
片桐所長が頷きました。
危なかった。
憲法は一字一句同じ。
でも、憲法に基づいて内閣の組織を具体化する内閣法は、時代によって違う。
現代の十四人・十七人という知識を、そのまま昭和に持ち込むところでした。
タイムトラベラー、またしても法改正の罠を踏みかけました。
「ただし」
私は顔を上げました。
「人数が何人であっても、国務大臣の地位が勝手に生まれるわけではありません」
相馬先輩が笑いました。
「当たり前だ」
「はい」
「『大臣相当』なんて名刺を作れば大臣になれるんなら、俺だって今日から法務大臣だ」
「先輩が法務大臣……」
「何だ、その顔」
「日本の司法制度が心配になりました」
「ぶっ飛ばすぞ」
「発言がもう大臣に向いてません!」
沢渡課長は笑いませんでした。
ただ。
黒岩氏の文書を机の上で裏返しました。
「……ご趣旨は分かりました」
そして、静かに言いました。
「ただ、それだけで市民会館の不許可が違法になるとは限りません」
そう。
そのとおりです。
ここで勝った気になるのは、まだ早い。
黒岩氏が国務大臣ではない。
だから市の不許可も必ず違法。
そんな短絡的な理屈は通りません。
必要なのは。
この人物の権威をどう扱い、なぜ宮田さんの利用を拒んだのか。
市の判断そのものを問うことです。
片桐所長が立ち上がりました。
「課長。正式な意見書を提出する」
「承知しました」
「内閣の組織と、施設利用の判断。この二つを整理する」
「拝見しましょう」
沢渡課長は淡々と答えました。
でも。
その声には、最初より少しだけ慎重さが混じっていました。
事務所へ戻ると、私は机に向かいました。
今回の書類は難しい。
なぜなら。
憲法六十六条や六十八条を持ち出すだけでは、宮田さんの展示会は開けないからです。
憲法に定められた内閣の組織。
その組織に属さない人物の権威。
そして、市民会館の利用を拒否する行政判断。
これらを、ひとつの筋道につなげなければなりません。
「先輩」
「何だ」
「『国務大臣じゃないから黙ってください』って書いたら駄目ですか」
「喧嘩の手紙ならそれでいい」
「意見書なので駄目ですね」
「そうだ」
相馬先輩は私の下書きを覗き込みました。
「まず事実を書け」
「はい」
「黒岩氏は何者だ」
「民間団体の特別顧問です」
「国務大臣か」
「違います」
「正式な内閣の決定はあるか」
「確認できません」
「国の通達は」
「ありません」
「それで市は何をした」
「その人物の意見を、国の政策との整合性を判断する材料の一つにした」
「そこだ」
相馬先輩は赤鉛筆で線を引きました。
「意見を聞くことと、権威に従うことを分けろ」
私は頷きました。
「有識者の意見だからって、施設利用を拒否する十分な理由になるわけじゃない」
「そうだ」
「まして大臣相当という肩書で、国の正式な意思だと誤認していたなら……」
「判断の前提からおかしい」
なるほど。
私は書き始めました。
今回の意見書。
第一。
憲法六十六条及び六十八条に基づく内閣の組織。
第二。
黒岩氏の法的地位。
第三。
市が国の正式な意思と民間団体の意見を区別して判断する必要性。
第四。
市民会館の利用拒否が憲法二十一条の表現の自由に及ぼす影響。
第五。
地方自治法二百四十四条に基づく公の施設の利用と、正当な理由のない利用拒否の問題。
私はペンを止めました。
「所長」
「何だ」
「これ、憲法六十六条だけでは終わりませんね」
「当然だ」
「内閣の組織を確認するだけじゃ、展示会を開く権利までは守れない」
「そうだ」
片桐所長は静かに続けました。
「条文を振り回すな」
「はい」
「六十六条は、誰が正式な内閣の構成員かを確かめるために使う」
「はい」
「二十一条は、市民の表現を制限することの問題を考えるために使う」
「はい」
「地方自治法は、公の施設の利用を拒める理由を考えるために使う」
所長が私を見ました。
「法律は、役割を間違えると鈍る」
私は、しばらくその言葉を考えました。
憲法。
伝家の宝刀。
でも。
何でも憲法違反と叫べば勝てるわけじゃありません。
何が憲法上問題なのか。
どの法律が、どの判断を支えるのか。
それを分けなければならない。
「分かりました」
私はもう一度、原稿を見直しました。
その日の夕方。
意見書が完成しました。
三日後。
市役所総務課。
沢渡課長の机には、私たちが提出した法的意見書が置かれていました。
「拝見しました」
沢渡課長は言いました。
「よく整理されていますね」
珍しい。
この人が褒めるなんて。
「ありがとうございます」
「ただし、最初に申し上げます」
来ました。
沢渡課長の『ただし』。
ここからが本番です。
「黒岩氏が国務大臣ではないことは承知しました。しかし、市の施設利用判断は市自身の権限で行うものです」
「そのとおりです」
片桐所長が答えました。
「ですから、黒岩氏の意見が法的拘束力を持たないというだけで、不許可を撤回する必要はありません」
「それも承知しています」
沢渡課長の目が動きました。
所長は続けました。
「問題は、市自身がどのような根拠で不許可にしたかだ」
「……続けてください」
「市は、国の防衛政策に対する誤解を招くおそれを挙げた」
「はい」
「その『国の政策』を裏づける正式な決定や通達はあるか」
「ありません」
「展示内容のどの部分が、施設の管理運営に具体的な支障を及ぼすと判断した」
少し間。
「担当課の資料では、反対団体からの抗議や混乱のおそれが主な懸念として挙げられています」
「警備や利用方法の調整では対応できないのか」
「その点については……」
沢渡課長は言葉を選びました。
「十分な検討記録がありません」
相馬先輩が、ゆっくり腕を組みました。
「つまり、反対する人がいるから、展示そのものを止めたってことか」
「そこまで単純な判断ではありません」
沢渡課長は即座に否定しました。
「しかし、結果として反対意見を重く評価しすぎた可能性はあります」
私は一枚の書類を差し出しました。
「課長。もう一点、確認してください」
表題。
――憲法上の内閣組織と公権力の行使に関する法的意見。
私は言いました。
「黒岩氏は、総理大臣の意向を受けた『大臣相当』だと名乗っています」
「ええ」
「ですが、憲法六十六条の内閣は、総理大臣と正式な国務大臣で組織される合議体です」
「はい」
「六十八条によって、国務大臣の任命権は総理大臣にあります。そして、国務大臣の過半数は国会議員でなければならない」
「そのとおりです」
「六十六条二項は、総理大臣も国務大臣も文民でなければならないと定めています」
沢渡課長は頷きました。
私は続けました。
「なぜ、そこまで組織のあり方を憲法で決めているんでしょうか」
沈黙。
そして。
「国家権力の構成に、法的な歯止めを設けるためでしょう」
沢渡課長が答えました。
そうです。
分かっているんです。
この人は。
「はい」
私は頷きました。
「総理大臣の意向があるというだけで、私人が国務大臣の権威を持つなら、憲法の組織規定が意味を失います」
「……ええ」
「元自衛官という経歴も、専門家として意見を述べる資格と、国の権限を行使する資格とは別です」
沢渡課長は黙っています。
「まして、その人が国務大臣のような肩書で『展示をやめろ』と言い、市がそれを国の政策上の要請として重く扱うなら……」
私は一度、息を吸いました。
「市民の表現の自由が、正式な権限のない人の威光で制限されることになります」
沢渡課長は、黒岩氏の意見書を見ました。
「……なるほど」
私は続けました。
「市が本当に施設の安全や秩序を守るために必要な制限をするなら、具体的な事情を示してください」
沢渡課長が顔を上げます。
「反対者がいるというだけでは?」
「それだけでは足りません」
私は答えました。
「反対される表現ほど、簡単に排除してはいけないんです」
部屋が静かになりました。
相馬先輩が、ゆっくり口を開きました。
「課長」
「何でしょう」
「世間の常識ってのは便利だよな」
「……」
「元自衛隊の偉い人が来た。総理大臣に近いらしい。地元の有力者も反対してる。だったら面倒になる前に止めよう」
相馬先輩は笑いませんでした。
「そうやって面倒な声から順番に消していったら、最後に残るのは何だ」
沢渡課長は答えません。
「役所が聞きたい声だけだろ」
そして。
「世間の常識? 俺たちが守ってんのは法律だ」
相馬先輩は意見書を指しました。
「国務大臣かどうかは、偉そうな肩書で決まらねえ」
「……」
「市民会館を使わせるかどうかも、偉そうな奴が嫌がるかどうかで決めるんじゃねえ」
沢渡課長は、しばらく沈黙していました。
やがて。
「ひとつ、確認させてください」
「どうぞ」
「皆さんは、国の安全保障政策そのものに異議を唱えているのですか」
「いいえ」
片桐所長が答えました。
「今回、それは争点ではありません」
「では」
「国の政策と、私人の意見を混同するなということです」
所長は静かに続けました。
「そして、施設利用を拒むなら、市自身が法律に基づき、具体的かつ合理的な理由を示さなければならない」
「……分かりました」
沢渡課長は、黒岩氏の書類を脇へ寄せました。
「今回の不許可については、判断過程を再検討します」
私は思わず身を乗り出しました。
「本当ですか」
「ただし」
また『ただし』です。
「再検討するからといって、直ちに許可を約束するものではありません」
「はい」
「施設の安全管理上の具体的問題があれば、必要な条件を付すことも検討します」
「もちろんです」
「ですが……」
沢渡課長は一瞬、眼鏡を外しました。
「国務大臣でもない人物の肩書や、反対者の存在だけをもって、利用を拒否することはできません」
私は、机の下で小さく拳を握りました。
勝った。
……いや。
まだ勝っていない。
でも。
少なくとも。
役所の判断が、権威という霧の中から、法律という机の上へ戻ってきた。
それだけは確かでした。
一週間後。
宮田澄江さんのもとへ、市役所から新しい通知が届きました。
――市民会館利用申請について、再審査の結果、利用を許可する。
ただし。
展示会の開催に当たり、通路の確保、来場者の整理、施設管理者との事前協議を行うこと。
それだけでした。
「……許可?」
宮田さんは通知を何度も読みました。
「本当に、展示していいんですか」
「はい」
私は頷きました。
「安全管理の条件はありますけど」
「それはもちろん守ります」
「内容については、特定の政治的見解を理由に展示を禁止することはしないそうです」
宮田さんは、しばらく黙っていました。
そして。
「よかった……」
小さく呟きました。
その声は、泣いているようにも、笑っているようにも聞こえました。
「私ね」
宮田さんが言いました。
「戦争が嫌いだから、この展示をするんじゃないんです」
「はい」
「もちろん、二度とあんなことは起きてほしくない。でも、それだけじゃないんです」
宮田さんは鞄から一枚の写真を出しました。
古い白黒写真。
若い男性が三人。
軍服姿で並んでいます。
「父です」
「……お父さん?」
「真ん中の人。戦争から帰ってきたとき、まだ二十代だったそうです」
宮田さんは写真を撫でました。
「父は、戦争の話をほとんどしませんでした」
「……」
「でも、亡くなる前に一度だけ言ったんです」
宮田さんの声が、少し低くなりました。
「国のためだと言われると、人は自分の頭で考えることをやめてしまうことがある。だから、考えることだけはやめるなって」
私は、何も言えませんでした。
憲法六十六条。
内閣の組織。
文民統制。
国会議員の過半数。
受験生だった頃は、全部暗記する項目でした。
でも。
その背景には。
国家権力を、誰の手に、どのような仕組みで置くのか。
という、重い問いがある。
国を守る。
社会を守る。
秩序を守る。
その言葉が必要なこともあります。
でも。
誰が、どんな権限で、何を決めたのか。
そこを曖昧にしたまま、国民に従えと言うことはできません。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「展示会、行ってこい」
「え?」
「勉強になるだろう」
「……はい」
私は頷きました。
展示会当日。
市民会館には、思った以上に多くの人が集まっていました。
古い手紙。
手作りの地図。
当時の写真。
戦地から届いた葉書。
小学生が、展示された古い教科書を覗き込んでいます。
「これ、昔の学校?」
「そうだよ」
年配の男性が答えていました。
「昔はね、今とずいぶん違ったんだ」
その隣では、若い母親が赤ん坊を抱いて写真を見ています。
反対していたという地域団体の関係者らしき人もいました。
でも、会場は静かでした。
誰も怒鳴っていない。
誰も展示物を壊していない。
ただ、人が見て、考えて、話している。
それだけです。
「案外、何も起きねえな」
相馬先輩が言いました。
「何か起きてほしかったんですか」
「まさか」
先輩は壁の写真を見ました。
「役所が恐れてた混乱ってのは、結局何だったんだろうな」
「反対意見が出ること自体を、混乱だと思ってたのかもしれません」
「意見が違うなんざ、当たり前だろ」
「そうですね」
「全員が同じことを言う社会の方が、よっぽど気味悪い」
私は頷きました。
そのとき。
入口付近に、見慣れた灰色の背広が見えました。
「あ」
「何だ」
「沢渡課長です」
沢渡課長は一人で来ていました。
展示物を順番に眺めています。
私は近づきました。
「課長」
「朝比奈さん」
「来てくださったんですね」
「施設利用の状況確認です」
「仕事ですか」
「ええ」
……本当に、この人は。
素直に展示を見に来たと言えばいいのに。
「どうですか」
私が聞くと、沢渡課長は少し考えました。
「適切に運営されていますね」
「ありがとうございます」
「お礼を言われる筋合いではありません」
「そうですけど」
私は笑いました。
沢渡課長は、しばらく写真を眺めていました。
そして。
「今回の件で、一つ確認できたことがあります」
「何です?」
「行政は、権威ある人物の意見を参考にすることがあります」
「はい」
「ですが、その人物の意見にどれほど重みがあるかと、その人物に公的な決定権があるかは、別問題です」
「……そうですね」
「それを混同すれば、判断を誤る」
沢渡課長は眼鏡を直しました。
「内閣の正式な意思でもないものを、内閣の権威に近づけて扱うべきではありませんでした」
私は少し驚きました。
「課長が、そこまで言うんですね」
「間違った前提を修正するのは、行政の仕事です」
「……格好いいですね」
「褒めても、今後の申請が通りやすくなるわけではありませんよ」
「知ってます!」
沢渡課長は、ほんの少しだけ口元を緩めました。
そして会場の奥へ歩いていきました。
私はその背中を見送りました。
役所の人も、憲法の外にいるわけではない。
権力を行使する側だからこそ。
憲法という線の内側で仕事をする必要がある。
そんなことを、少しだけ考えました。
夕方。
片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、六法を開きました。
憲法第六十六条。
内閣は、内閣総理大臣とその他の国務大臣で組織される。
内閣総理大臣も国務大臣も、文民でなければならない。
憲法第六十八条。
国務大臣は、内閣総理大臣が任命する。
ただし、その過半数は国会議員から選ばなければならない。
私は、しばらく条文を見つめました。
「先輩」
「何だ」
「内閣って、総理大臣が一人で何でも決める組織じゃないんですね」
「当たり前だろ」
「でも、何となくそういうイメージありません?」
「まあ、新聞なんかじゃ総理の名前ばっかり出るからな」
「はい」
総理大臣が決めた。
総理大臣が命じた。
総理大臣の意向。
そういう言葉は強い。
でも。
内閣は合議体。
総理大臣はその首長。
国務大臣は正式な任命によって就任する。
そして、国会とのつながりを保つための過半数ルールがある。
文民でなければならないという制約もある。
全部。
権力を、個人の勝手な意思に任せないための仕組みです。
「今回、一番びっくりしたのは」
私は言いました。
「憲法六十六条が、市民会館の利用申請に関係してきたことです」
「直接の許可基準じゃねえけどな」
「はい」
「だけど、あの偉そうな肩書の正体を確かめるには必要だった」
「そうなんです」
私は頷きました。
憲法の組織規定。
試験では暗記問題。
でも現場では、
その人は、本当に国の権限を持っているのか。
その指示は、正式な国家機関の意思なのか。
そこを見抜くための武器になる。
「所長」
私は奥の机へ声をかけました。
「憲法って、やっぱり強いですね」
「……」
「最高法規って感じがします」
片桐所長は帳簿から顔を上げました。
「こはる」
「はい」
「憲法が強いんじゃない」
「え?」
「憲法に従わなければならない。それが国家権力の前提だ」
私は黙りました。
所長は続けました。
「強い人間を、さらに強くするためのものじゃない」
「……はい」
「強い人間にも、越えてはいけない線があると示すためのものだ」
なるほど。
私はゆっくり頷きました。
総理大臣。
国務大臣。
文民。
国会議員の過半数。
これらは、ただの組織図ではありません。
誰が国家権力を持つのか。
そして。
誰であっても、好き勝手には持てない。
そのための約束です。
私はノートの隅に、小さく書きました。
――偉い人の肩書より、憲法が決めた権限を見ろ。
「何書いてんだ」
相馬先輩が覗き込みました。
「今日の教訓です」
「ほう」
「どうです?」
先輩は少し考えました。
「悪くねえな」
「褒めた」
「気のせいだ」
またそれです。
私は六法を閉じました。
そのとき。
相馬先輩が急に立ち上がりました。
「よし」
「何です?」
「今日から俺も大臣になる」
「は?」
「片桐事務所特命担当大臣」
「何ですか、その役職」
「担当は昼飯」
「ただの昼食係じゃないですか」
「違う。大臣だ」
先輩は胸を張りました。
「所長の意向を受けて、事務所の昼飯を決定する」
「合議体じゃないんですか」
「俺が決める」
「過半数の同意は?」
「要らねえ」
「任命権者は?」
「俺だ」
「文民ですか?」
「見りゃ分かるだろ!」
私は真顔で頷きました。
「憲法の趣旨からすると、かなり危険な組織ですね」
「昼飯決めるだけだろ!」
そこへ。
片桐所長が、奥から一言。
「相馬」
「はい」
「昼飯は、もう決めた」
「……何です?」
「蕎麦だ」
「……はい」
相馬先輩は、静かに椅子へ戻りました。
私は吹き出しました。
「大臣、解任ですか?」
「うるせえ」
「任命権者に勝手に決められましたね」
「黙れ」
「そもそも先輩、正式に任命されてませんし」
「もういい!」
どうやら。
昭和六十三年の片桐行政書士事務所では。
内閣総理大臣に相当する人物の権限が、少々強すぎるようです。
ただし。
私は奥の所長を見ました。
所長は、何事もなかったように帳簿をめくっています。
……この人なら。
少なくとも、法律の線だけは越えないでしょう。
私は笑いながら、もう一度ノートを開きました。
今日、覚えたこと。
総理大臣は、何でも一人で決められるわけじゃない。
国務大臣は、肩書を名乗ればなれるわけじゃない。
国家権力は、偉さだけでは生まれない。
憲法が定めた仕組みの中で、初めて正当な権限になる。
そして。
その仕組みを確認する小さな作業が、
ときには、一人の市民が自由に語る場所を守ることにもつながる。
――今日の教訓。
国を動かすのは「偉い人の意向」ではない。憲法に従って組織された、正式な国家機関の権限だ。
窓の外では、夕暮れの町に灯りがともり始めていました。
今日もまた。
誰かが自分の言葉で語れる場所が、一つ守られたのです。
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