[憲法・議院内閣制と内閣総辞職]現場編 「内閣が辞めたら、国の仕事も止まる」の嘘。解散か総辞職か――政治が揺れても、国民の暮らしを止めない憲法の仕組み
偉い人が辞めたからといって、困っている人の生活まで止めていいわけではありません。
社長が辞めても、会社は動く。
校長先生が代わっても、学校は続く。
それなら。
内閣総理大臣が辞めたら、日本の行政はどうなるのでしょう。
答えは、憲法に書いてあります。
ただし。
その答えを知らない人ほど、政治の混乱を便利な言い訳に使いたがるものです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「国会が揉めると、うちの風呂場まで壊れたままになるんでしょうか」
その日の相談者は、そんな不思議なことを言いました。
「……はい?」
私は思わず聞き返しました。
国会。
風呂場。
この二つを結ぶ法律が、私の頭には思い浮かびません。
「国会と、お風呂ですか?」
「そうなんです」
相談者は、森下文江さん。
五十八歳。
駅から少し離れた商店街で、小さな旅館を営んでいました。
名前は『旅館あさぎり』。
客室は六つ。
建物は古いけれど、掃除が行き届いている。
出張の会社員や、近くの病院へ通う人の家族が泊まる、昔ながらの宿でした。
「風呂場の床がね、傷んでいるんです」
「それは危ないですね」
「ええ。去年、お客さんが滑りかけまして」
幸い怪我はなかった。
しかし、古いタイルにはひびが入り、脱衣所との段差も大きい。
森下さんは今年、思い切って改修を決めました。
浴室の床を滑りにくいものに替える。
手すりを設置する。
段差を減らす。
総工費は百八十万円。
小さな旅館には大金です。
そこで利用しようとしたのが、市の旅館施設改善補助事業でした。
市が窓口となり、国の観光関連補助金を財源の一部に見込んでいる制度です。
ところが。
「申請書を持っていったら、受け付けてもらえなかったんです」
「理由は?」
森下さんは、鞄から一枚の紙を取り出しました。
市役所の商工観光課から渡された案内文。
そこには、こう書かれていました。
――国政の動向及び今後の補助事業の実施見通しが不透明であるため、新規申請の取扱いについては、当面、事前相談にとどめる。
「……国政の動向?」
私が首をかしげると、森下さんが頷きました。
「新聞で、内閣不信任案がどうとか、解散がどうとか騒いでいるでしょう」
「ああ」
「窓口の人が言うんです。もし内閣が総辞職したら、国の予算の扱いも分からなくなる。だから今は申請を進められないって」
私は紙を見つめました。
内閣不信任。
衆議院解散。
内閣総辞職。
行政書士試験の憲法で、嫌というほど出てくる単語です。
でも。
それが旅館の風呂場に直結するとは思いませんでした。
「先輩」
「何だ」
「日本の政治って、お風呂まで止めるんですか」
「お前、何を言ってんだ」
「私も分かりません」
相馬先輩が案内文を受け取りました。
しばらく読む。
そして。
「……なるほどな」
嫌な笑い方をしました。
「また役所が、面倒な判断を先延ばしにしてやがる」
奥で帳簿を見ていた片桐所長が顔を上げました。
「まだ決めつけるな」
「所長?」
「国の補助金を使うなら、予算や交付決定の状況は確認する必要がある」
「ああ、それはそうですね」
「ただし」
所長は案内文を指しました。
「政治情勢と、申請を受け付けられないことは別問題だ」
私はそこで、ようやく引っかかりました。
そうです。
内閣が代わること。
予算が変更されること。
補助金の交付が決まっていないこと。
これらは全部、同じではありません。
「森下さん」
私は尋ねました。
「この補助金、いつまでに申請しろと言われていますか?」
「今月末までです」
「え?」
「市の広報に、そう書いてありました」
森下さんは、さらに折り畳んだ広報紙を出しました。
ありました。
申請受付期間。
九月一日から十月三十一日まで。
対象となる工事。
申請書類。
補助予定額。
そして。
受付期間の変更については、何も書かれていません。
「つまり」
私は言いました。
「広報では今月末まで受け付けると案内しているのに、窓口では今は進められないと言っているんですね」
「そうなんです」
「正式に受付を中止した通知は?」
「もらってません」
森下さんは小さく肩を落としました。
「大きな旅館なら、補助金がなくても工事できるんでしょうけど」
「……」
「うちはそんな余裕がなくて」
そして。
「でも、また誰かが転んでからじゃ遅いんです」
その一言が、胸に刺さりました。
国会で誰が勝つか。
内閣がいつ辞めるか。
それも大切な問題です。
でも、この人にとっては。
明日もお客さんを安全に迎えられるか。
そちらのほうが、ずっと切実なのです。
「内閣が辞めたら、行政は止まる」
私は机に向かって、その言葉を書きました。
そして大きく、バツをつけます。
「いや、止まらないでしょう」
相馬先輩が横から覗きました。
「どうしてだ」
「だって、国が止まったら困るじゃないですか」
「気持ちの問題か?」
「違います!」
「じゃあ根拠は」
う。
出ました。
法律事務所で一番怖い言葉。
根拠。
私は慌てて六法を開きました。
憲法。
第六十五条。
行政権は、内閣に属する。
「まず、ここです」
「うん」
「国の行政権は内閣に属する」
「それで?」
「内閣が総辞職したら……」
私は止まりました。
あれ?
総辞職する。
ということは。
内閣が辞める。
じゃあ、その瞬間から新しい総理大臣が決まるまで、行政権は誰が行使するのでしょう。
……あれ?
「先輩」
「何だ」
「総辞職した内閣って、消えるんですか?」
「人間が消えるわけじゃねえだろ」
「そういう意味じゃありません!」
相馬先輩が笑います。
「だったら、先を読め」
私は条文をめくりました。
第七十一条。
そこには、驚くほど簡潔な答えがありました。
――前二条の場合には、内閣は、あらたに内閣総理大臣が任命されるまで引き続きその職務を行ふ。
「……あ」
見つけた。
私はその一文を、もう一度読みました。
内閣は。
新たに内閣総理大臣が任命されるまで。
引き続き、その職務を行う。
「続くんだ」
思わず声が出ました。
「総辞職しても、次の内閣ができるまで仕事を続けるんだ!」
「そういうことだ」
片桐所長が言いました。
なるほど。
内閣総辞職は、行政機能を停止させる命令ではありません。
新しい内閣へ移るための制度なのです。
私はほっとしました。
でも、その直後。
別の違和感が頭をよぎりました。
昭和六十三年。
現代の私が使っていた六法と、同じ条文。
七十一条も。
六十九条も。
七十条も。
全部同じ。
憲法は制定以来、一度も改正されていません。
なのに。
「……変ですね」
「何がだ」
「条文は今と同じなのに、こんな基本的な継続の仕組みが、申請を止める理由にされちゃうなんて」
相馬先輩が鼻を鳴らしました。
「政治家が辞めたら国が止まると思ってるやつもいるんだろ」
「でも、それは憲法の仕組みと違います」
「ああ」
私は拳を握りました。
現代の知識が、そのまま使える。
行政不服審査法では、旧法と新法を間違えて冷や汗をかきました。
行政事件訴訟法でも、出訴期間や被告適格で危ないところでした。
でも。
憲法は違う。
ここでは、未来の条文を引っ張ってきても大丈夫なのです。
だって。
一字一句、変わっていないのだから。
「所長」
「何だ」
「これ、憲法で戦えますよね」
所長はすぐには答えませんでした。
「戦う相手を間違えるな」
「え?」
「国政の混乱を理由にしているのは、市役所だ」
「はい」
「なら、まず市の事務を確認する。国の補助金が未確定なら、その点は認める」
「……はい」
「憲法七十一条だけで、補助金を出せとは言えん」
ぐっ。
確かに。
「ただし」
所長の目が少し鋭くなりました。
「内閣が総辞職するかもしれない、というだけで、現在の市の受付手続まで止める必要があるのか」
私は顔を上げました。
「そこですね」
「そうだ」
相馬先輩が立ち上がります。
「よし。役所行くぞ」
「早いですね」
「風呂場が待ってる」
「風呂場は逃げませんよ」
「客が転んでからじゃ遅えんだよ」
……はい。
今日の先輩は、ちょっと格好いい。
市役所二階。
総務課。
「また片桐先生ですか」
沢渡課長は、私たちを見るなり眼鏡を押し上げました。
「今日はどちらの件でしょう」
「旅館あさぎりの施設改善補助金だ」
片桐所長が答えました。
「商工観光課の受付運用について、確認したい」
「ああ」
沢渡課長はすぐに事情を理解した様子でした。
「国の補助事業を財源に見込んでいる件ですね」
「申請を受け付けていないそうだ」
「正式に中止したわけではありません」
沢渡課長は落ち着いて言いました。
「ただ、国政の動向が不透明ですから」
「内閣不信任案ですか」
私が尋ねると、課長が頷きました。
「新聞報道をご覧になっているでしょう。政局が流動化すれば、国の補助事業の方針や予算執行にも影響が出る可能性があります」
「可能性はありますね」
「ええ」
「でも、可能性ですよね」
沢渡課長が私を見ました。
「何がおっしゃりたいのですか」
私は広報紙を机に置きました。
「申請受付期間は十月三十一日までです。受付を停止する正式な決定はあるんでしょうか」
「現時点ではありません」
「では、なぜ受け付けないんですか」
「補助事業の見通しが不透明だからです」
「申請の受付と、補助金の交付決定は別ですよね」
沢渡課長は頷きました。
「もちろんです。ただ、交付の見込みが立たない申請を進めれば、住民に過度な期待を持たせる危険があります」
なるほど。
そう来ましたか。
この人は、ただの意地悪で止めているわけではありません。
財源が確定していないのに、補助金が出ると思わせたくない。
その懸念には合理性があります。
でも。
「それなら」
私は言いました。
「交付決定までは工事を始めないよう説明すればいいのでは?」
「それだけで済む問題ではありません」
「なぜです?」
「国の行政体制が変わる可能性もありますから」
来ました。
内閣。
政治。
行政体制。
そして、便利な言葉。
不透明。
私は一度、息を吸いました。
「課長」
「はい」
「内閣不信任案が可決されたら、どうなるかご存じですよね」
沢渡課長の眉がわずかに動きました。
「もちろんです」
「衆議院が内閣不信任決議案を可決した場合、内閣はどうしなければなりませんか」
「十日以内に衆議院が解散されなければ、総辞職しなければなりません」
「憲法六十九条ですね」
「ええ」
私は頷きました。
「では、十日以内に衆議院が解散された場合は?」
「不信任決議を理由とする、その時点での総辞職義務は生じません」
「そうです」
沢渡課長は私を静かに見ています。
「しかし、それが今回の申請とどう関係するのでしょう」
「まだ続きがあります」
私は六法を開きました。
ここが大事です。
不信任決議が出た。
即、内閣総辞職。
そう覚えてしまう受験生は、少なくありません。
でも実際は違います。
十日以内に衆議院を解散するという道が残されている。
そして、解散すれば衆議院議員総選挙が行われる。
さらに。
「衆議院議員総選挙のあと、初めて国会が召集されたら、どうなりますか?」
私が聞くと、沢渡課長は即答しました。
「憲法七十条により、内閣は総辞職します」
「そうですね」
「朝比奈さん」
「はい」
「私に憲法の口頭試問をされるおつもりですか」
「ちょっとだけ」
「困りますね」
口元は笑っていません。
でも怒ってもいません。
この人は本当に、論点が見えてくると逃げないのです。
「つまり」
私は続けました。
「不信任決議が可決されても、直ちに国の行政が止まるわけではありません。解散という選択肢もあるし、その後の総選挙と特別会を経て内閣が総辞職する場合もある」
「そのとおりです」
「さらに、総辞職した場合も」
私は七十一条を指しました。
「新しい内閣総理大臣が任命されるまで、従前の内閣が引き続き職務を行います」
沢渡課長の視線が、条文に落ちました。
「……ええ」
「国会が政治責任を問うことと、国の行政が機能を失うことは同じではありません」
少し、部屋が静かになりました。
私は続けます。
「内閣が総辞職することになっても、それだけで補助事業の根拠となる制度や、市の受付期間が当然に消えるわけではありませんよね」
沢渡課長は、すぐに答えませんでした。
代わりに書類を一枚、取り出しました。
「国の補助金の交付内示は、まだ来ていません」
「はい」
「本年度分の追加配分が見込めるかどうかも不明です」
「それは理解しています」
「つまり、補助金が交付される保証はない」
「分かっています」
私は一歩も引きませんでした。
「でも、交付される保証がないことと、申請を受け付けないことは違います」
沢渡課長の指が止まりました。
「……」
「森下さんは、補助金を必ず出せとは言っていません」
私は広報紙を指しました。
「市が定めた受付期間内に、申請を受け付けてほしいだけです」
相馬先輩が横から口を挟みました。
「課長。あんたらが書いたんだろ。十月三十一日まで受け付けるって」
「ええ」
「だったら、制度を変更したなら変更したと言え。変更してねえなら、申請を受け取って審査しろ」
「交付決定を出せるとは限りません」
「そこは承知してる」
相馬先輩が机を指で叩きました。
「でもな」
声が低くなります。
「国会が揉めてるから、申請すら受け付けませんってのは、話が飛びすぎだろ」
沢渡課長は反論しませんでした。
正確には。
反論する前に、考えていました。
それが分かりました。
そこで片桐所長が、鞄から一枚の書面を取り出しました。
「課長。これを預かっていただきたい」
「何でしょう」
「申請受付に関する法的意見書です」
私が昨夜から条文を調べ、相馬先輩が事実関係を整理し、最後に所長が徹底的に削った書面でした。
最初の原稿は、もっと勇ましかったのです。
――憲法違反である!
――国民の権利を踏みにじる暴挙!
――最高法規を無視した行政運営!
……はい。
全部、所長に消されました。
「こはる」
昨日の所長の声が思い出されます。
「憲法を振りかざすだけなら三流だ」
「でも、実際おかしいじゃないですか」
「何が、どの条文に、どう反するのか」
「はい」
「そこを示せ」
そして。
「憲法七十一条は、申請者に補助金の交付を請求する権利を直接与える条文ではない」
「……はい」
「だが、内閣総辞職によって行政が当然に止まるという前提は、七十一条と整合しない」
その言葉で、私はやっと分かりました。
憲法は、何でも解決する魔法の呪文ではない。
でも。
役所が使っている理由の根っこが間違っていれば。
その根っこを切ることができる。
意見書には、こう書きました。
第一。
憲法第六十五条は、行政権が内閣に属する旨を定める。
第二。
憲法第六十九条及び第七十条は、衆議院による内閣不信任決議、内閣総理大臣の欠缺、衆議院議員総選挙後の国会召集等に伴う内閣総辞職について定める。
第三。
憲法第七十一条は、これらの場合にも、新たな内閣総理大臣が任命されるまで従前の内閣が引き続き職務を行うことを定め、行政権の継続的行使を予定している。
したがって、将来の内閣総辞職の可能性のみをもって、国の行政作用が当然に停止することを前提とする取扱いは、憲法上の制度構造と整合しない。
さらに。
本件補助事業について、市は申請受付期間を公表しており、正式な変更措置も確認されていない。
補助金交付の可否と、申請受付の可否は区別して判断されるべきである。
よって、現行の募集要領に基づく申請書の受付及び所要の審査を求める。
もちろん、補助金交付を当然に義務付ける趣旨ではない。
そのうえで。
政治情勢の不透明さのみを理由として、合理的な説明なく申請の機会を失わせる運用は、公平な行政運営の観点からも問題がある。
「……なるほど」
沢渡課長は、最後まで読んでから言いました。
「申請受付の再開を求める意見書ですか」
「はい」
「憲法違反を断定しているわけではないのですね」
私は頷きました。
「七十一条違反だと、そこまで単純には言えません」
「正確ですね」
「ただ」
私は続けました。
「憲法が予定している行政の継続性を無視した説明で、市の行政手続を止めるのはおかしいと思います」
沢渡課長が眼鏡を外しました。
珍しい。
「……今回の問題は、二つありますね」
課長が言いました。
「一つは、国の補助金の見通しが不明なこと」
「はい」
「もう一つは、それを理由に市の申請受付まで事実上止めていること」
「そうです」
「前者については、国の判断を待つ必要があります」
「理解しています」
「しかし後者については、現行の市の募集要領と整合するか、再検討の余地があります」
相馬先輩が腕を組みました。
「ようやく話が通じたな」
「最初から話は通じていますよ、相馬さん」
沢渡課長は涼しい顔で返しました。
「ただ、確認すべき事項が多いだけです」
そして受話器を取りました。
「商工観光課長につないでください」
私たちは黙って待ちました。
沢渡課長は、電話口で淡々と確認を始めました。
受付停止の正式な決裁はあるのか。
募集要領は変更されたのか。
国から申請受付そのものを停止する通知が来ているのか。
補助金の交付が不確実であることを、申請者へ説明する運用はできないのか。
そして最後に。
「……そうですか。では、受付と交付決定を分けて整理してください」
受話器を置きました。
沢渡課長は私たちを見ました。
「国から受付停止の指示は出ていません」
「では」
「担当課では、交付見込みが不明なまま受付を続けると混乱が生じると判断していたようです」
なるほど。
悪意ではない。
むしろ慎重すぎた。
慎重すぎた結果、申請者にとっては事実上、窓口を閉じられたのと同じになっていた。
「受付方法を見直します」
沢渡課長が言いました。
「ただし、補助金の交付を約束するものではありません」
「もちろんです」
「申請を受けたうえで、国の補助金の見通しを確認し、必要な審査を進める。その方向で調整します」
私は思わず身を乗り出しました。
「じゃあ、森下さんの申請も?」
「必要書類がそろっていれば、受付対象になります」
「ありがとうございます!」
沢渡課長は、少しだけ困った顔をしました。
「お礼を言われるほどのことではありません」
「でも」
「市が公表した手続に沿って処理する。それだけです」
その言葉を聞いたとき。
私は、少しだけ嬉しくなりました。
そう。
それだけでいいのです。
特別扱いしてほしいわけではない。
政治がどう転ぼうと。
決められた手続を、決められたとおり進めてほしい。
森下さんが求めていたのは、たったそれだけでした。
市役所を出ると、相馬先輩が大きく伸びをしました。
「やれやれ。国会の話から旅館の申請まで、ずいぶん遠回りしたな」
「でも、つながってたじゃないですか」
「まあな」
私は六法を抱え直しました。
「先輩」
「何だ」
「議院内閣制って、面白いですね」
「急にどうした」
「国会が内閣を支えている。でも、国会が内閣を辞めさせる仕組みもある」
「ああ」
「しかも内閣は、衆議院を解散して国民に判断を仰ぐ道もある」
「そうだな」
「お互いが無関係じゃない」
私は考えました。
三権分立。
立法。
行政。
司法。
受験生だったころは、三つの箱を描いて、それぞれを別々に覚えていました。
でも日本の議院内閣制では、国会と内閣は強く結びついています。
内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で指名される。
国務大臣の過半数も、国会議員から選ばれなければならない。
内閣は行政権の行使について、国会に対して連帯して責任を負う。
総理大臣や国務大臣は、議院から答弁や説明のために出席を求められれば、出席しなければならない。
そして。
衆議院の信任を失えば、解散か総辞職かという重大な選択を迫られる。
「政治責任を取らせる仕組みなんですね」
私は言いました。
「そうだ」
「でも、その政治責任のせいで行政が止まったら困るから、七十一条がある」
「よく分かったじゃねえか」
相馬先輩が珍しく素直に言いました。
私は思わず振り向きました。
「今、褒めました?」
「気のせいだ」
「絶対褒めましたよね」
「うるせえ」
いつもの先輩でした。
でも、私はまだ考えていました。
もし。
内閣が総辞職した瞬間に、すべての行政機能が停止したら。
年金は?
道路管理は?
災害対応は?
日々必要な行政サービスは?
政治の責任を明確にするための制度が、国民の暮らしを危険にさらすことになってしまいます。
だから、憲法は途切れさせない。
内閣が代わる。
政治の責任者が交代する。
それでも、国の仕事は続く。
その仕組みがある。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「勘違いするな」
「はい?」
「七十一条があるからといって、総辞職した内閣が何をしてもいいという話ではない」
「あ」
「職務の継続と、政治的に何をすべきかは別だ」
「……そうですね」
「新しい内閣への移行期には、政治的な自制が問題になることもある。だが、それと日常の行政事務が当然に全部止まることは違う」
私は頷きました。
ここでも。
区別。
また区別です。
法律って、本当に似ているものを分ける学問なんですね。
「それから」
所長は続けました。
「森下さんの件で、市の受付を見直せたことと、補助金が交付されることも別だ」
「はい」
「そこを忘れるな」
「分かっています」
私は少し笑いました。
「でも、申請できるようにはなりました」
「ああ」
「それだけでも、前進ですよね」
片桐所長は、短く頷きました。
「そうだ」
三日後。
森下さんが事務所へやって来ました。
「受け付けてもらえました!」
入ってくるなり、そう言いました。
「本当ですか!」
「ええ。きちんと受付印を押してくれました」
森下さんは、一枚の控えを見せてくれました。
日付。
受付番号。
商工観光課の印。
どれも小さな文字です。
でも。
先日まで窓口で止まっていた申請が、正式な手続に乗った証拠でした。
「担当の方から、補助金が必ず出るわけではありませんとも説明されました」
「はい」
「国の予算の関係で、交付できない場合もあるって」
「そうですね」
「でも、それは仕方ないと思っています」
森下さんは笑いました。
「申請もできないのと、ちゃんと審査してもらうのとでは、気持ちが全然違いますから」
私は、その言葉を噛みしめました。
決して補助金が確定したわけではありません。
工事費の問題は残っています。
交付決定が出るまでは、契約や着工にも注意が必要です。
それでも。
森下さんには、選択肢が戻ってきた。
これからどうするかを考えるための、時間も戻ってきた。
「それでね」
森下さんが風呂敷包みを机に置きました。
「今日は、お礼を持ってきたんです」
相馬先輩が反応しました。
「食い物ですか」
「先輩!」
「何だよ」
「まだ開けてもないのに!」
森下さんが笑いました。
「温泉まんじゅうです」
「よし」
「よし、じゃないです!」
先輩の判断基準は、憲法より分かりやすい。
包みを開くと、小ぶりのまんじゅうが並んでいました。
私は一つ手に取りました。
「森下さん。旅館のほうは?」
「まだ古いままです」
「そうですよね」
「でも、手すりだけは先に自分で付けようかと思いまして」
「補助対象工事との関係がありますから、着工前に市へ確認してくださいね」
「ええ。今度はちゃんと聞いてからにします」
よかった。
そこは本当に大事です。
補助金制度では、交付決定前に着手した工事が対象外になることもあります。
せっかく申請できたのに、先走って対象外になったら悲しすぎます。
森下さんは、まんじゅうを一つ包み直しながら言いました。
「私ね、政治のことは難しくて、よく分からないんです」
「はい」
「総理大臣が辞めるとか、選挙になるとか、新聞で読んでも、正直、遠い世界の話で」
「……そうですね」
「でも、今回分かりました」
森下さんは顔を上げました。
「偉い人が辞めるかどうかと、私が旅館を続けていいかどうかは、別の話なんですね」
私は少しだけ考えてから、頷きました。
「はい」
そして付け加えました。
「だから憲法は、政治の責任を取らせる仕組みと、行政を続ける仕組みの両方を用意しているんだと思います」
森下さんは、ゆっくり頷きました。
「そういうことなら、安心です」
その笑顔を見て、私は思いました。
憲法六十九条。
内閣不信任。
衆議院解散。
内閣総辞職。
試験では、十日以内という数字を覚える。
憲法七十条。
総理大臣が欠けたとき。
総選挙後、初めて国会が召集されたとき。
総辞職の事由を覚える。
憲法七十一条。
新しい総理大臣が任命されるまで、従前の内閣が職務を行う。
それを覚える。
全部、暗記問題に見えます。
でも。
その背後にあるのは。
政治がどれだけ揺れても、国民の日常を無用に途切れさせないという仕組み。
そして、国会が内閣の責任を問えるという仕組み。
その二つが両立していることでした。
夕方。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『総務課の沢渡です』
また来ました。
「お世話になっております」
『森下さんの件ですが』
「はい」
『商工観光課で、申請受付についての案内文を修正しました』
「案内文?」
『ええ。国の補助金交付が未確定であることは明記したうえで、現在の受付期間内は申請を受け付けるという内容です』
「……そうですか」
『同じ理由で事前相談にとどめていた案件についても、申請の意思を確認することになりました』
私は驚きました。
「森下さんだけじゃないんですね」
『そうです』
「よかった……」
『ただし』
「はい」
『補助金の交付については、まだ不確定です』
「分かっています」
『国政の動向についても、引き続き注意が必要です』
「はい」
『その点は誤解のないように』
私は思わず笑いました。
「課長って、いつも慎重ですね」
『慎重でなければ、行政は務まりません』
「でも、慎重すぎると何もできなくなりません?」
電話の向こうが、少し静かになりました。
しまった。
言いすぎたかも。
ところが。
『……そのとおりです』
「え?」
『今回は、その線引きを見直す必要がありました』
私は受話器を握り直しました。
『行政には、止めるべきものと、止めてはいけないものがあります』
「はい」
『そして、それを混同すると、住民に不利益が生じる』
沢渡課長は、淡々と続けました。
『今回の意見書は、その点を整理するうえで参考になりました』
「……ありがとうございます」
『ただ』
「はい」
『朝比奈さん』
「何でしょう」
『次回は、憲法の口頭試問を始める前に、用件を先におっしゃってください』
「……すみません」
『では』
電話が切れました。
私は、しばらく受話器を見つめていました。
「何だって?」
相馬先輩が聞きます。
「申請受付の案内を修正したそうです」
「へえ」
「ほかの人の申請も、ちゃんと受け付けるそうです」
「そりゃよかった」
先輩はまんじゅうを頬張りました。
「で?」
「で?」
「お前、また課長に説教されたんじゃねえのか」
「なぜ分かるんですか」
「顔に書いてある」
「そんなに分かりやすいですか、私」
「かなりな」
私はため息をつきました。
でも。
少しだけ、誇らしい気持ちもありました。
一枚の憲法の条文が。
一人の旅館の主人に、申請の機会を取り戻した。
しかも。
ほかの人の窓口まで、もう一度開かせた。
憲法は。
政治家のためだけにあるわけではありません。
国会のためだけにあるわけでもありません。
遠く離れた東京で誰かが責任を取るときも。
地方の小さな旅館で誰かが仕事を続けようとするときも。
同じ憲法が、その土台を支えています。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
そして答えました。
「内閣は、国会に対して責任を負う」
「うん」
「衆議院の信任を失えば、解散か総辞職という選択に直面する」
「うん」
「でも、内閣が総辞職しても、次の総理大臣が任命されるまでは職務が続く」
「そうだ」
所長は頷きました。
「それが何を意味する」
私は、窓の外を見ました。
夕暮れの商店街。
自転車で帰る学生。
買い物袋を提げたおばあさん。
小さな旅館の煙突からは、今日も白い煙が上がっているでしょう。
「政治の責任は、ちゃんと取る」
私は言いました。
「でも、そのために国民の暮らしを放り出してはいけない」
片桐所長は、静かに頷きました。
「忘れるな」
「はい」
私は自分のノートに、一行だけ書きました。
――内閣は辞めても、行政は止めない。政治の責任と暮らしの継続、それが議院内閣制を支える憲法の仕組み。
「長いな」
相馬先輩が言いました。
「いいんです。今日は長くても」
「試験じゃ時間が足りなくなるぞ」
「一行の覚え書きなんだから大丈夫です!」
「お前の一行、普通の三行分あるだろ」
「字を小さく書けば一行です!」
「そういう問題じゃねえ」
言い合っていると。
片桐所長が、まんじゅうの最後の一つを手に取りました。
「あっ!」
私と相馬先輩の声が重なります。
「所長、それ最後の一個!」
「そうか」
「私、まだ一個しか食べてません!」
「俺もだ!」
所長はまんじゅうを見ました。
そして、静かに言いました。
「では、二人で話し合え」
「え?」
「誰が食べるか」
私は相馬先輩を見ました。
相馬先輩も私を見ました。
沈黙。
数秒。
「……こはる」
「何です?」
「ここは民主的に決めようじゃねえか」
「多数決ですか?」
「ああ」
「二人しかいませんけど」
「所長も入れれば三人だ」
なるほど。
三人なら多数決ができます。
「じゃあ、私が食べることに賛成の人!」
私は手を挙げました。
一人。
「俺が食べることに賛成の人!」
相馬先輩が手を挙げます。
一人。
最後に、片桐所長を見る。
「所長はどっちですか?」
所長は無言でまんじゅうを口に入れました。
「……あっ」
「ああっ!」
相馬先輩が立ち上がりました。
「おい所長! それは反則だろ!」
片桐所長は、お茶を一口飲みました。
「決定した」
「決定してません!」
「多数決の前に食ってんじゃねえ!」
所長は平然と言いました。
「行政の継続性だ」
「関係ないでしょう!」
私が叫ぶと、相馬先輩まで笑い出しました。
「所長! 信任を失いましたよ!」
「そうです! 不信任決議です!」
私たちは声をそろえました。
「総辞職か解散を要求します!」
片桐所長は、帳簿を閉じました。
「分かった」
「え?」
「今日は事務所を解散する」
「……はい?」
「全員、帰れ」
一瞬。
沈黙。
そして。
「それ、ただの終業じゃないですか!」
私の叫び声が、夕方の事務所に響きました。
相馬先輩は笑いながら鞄を持ちます。
「よかったな、こはる」
「何がですか!」
「解散しても、明日また来られるぞ」
「衆議院の解散と事務所の解散を一緒にしないでください!」
片桐所長は、事務所の灯りを消しました。
「戸締まりを頼む」
「はい……って、また私ですか!」
「職務の継続だ」
「憲法七十一条を便利に使いすぎです!」
外では、商店街の灯りが一つ、また一つとともり始めていました。
遠い東京では、明日も政治家たちが議論を続けるのでしょう。
内閣の信任。
衆議院の解散。
総選挙。
内閣総辞職。
ニュースでは、大きな言葉ばかりが飛び交います。
けれど、そのどれもが。
明日も働く人。
明日も店を開ける人。
明日も誰かを迎える人。
そんな普通の人たちの生活につながっている。
憲法は、政治を動かすための設計図であると同時に。
政治が揺れたとき、国民の暮らしまで一緒に崩れないようにするための、支えでもあるのです。
私は事務所の扉に鍵をかけました。
明日も、ここへ来ます。
片桐所長が辞めない限り。
いや。
仮に辞めたとしても。
誰かが仕事を引き継ぐのでしょう。
そんなことを考えていたら、相馬先輩が振り返りました。
「おい、こはる」
「はい?」
「明日はお前がまんじゅう買ってこい」
「何でですか!」
「今日の補充だ」
「それ、内閣の職務じゃなくて私の財布ですよね!」
「行政権の行使だ」
「先輩に行政権はありません!」
「じゃあ業務命令だ」
「誰の!」
「俺の」
「不信任です!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
どうやら、この事務所の議院内閣制は、今日も少々問題を抱えているようです。
ただ一つ、確かなことがあります。
たとえ所長がまんじゅうを独占しても。
先輩が理不尽な業務命令を出しても。
明日の朝になれば、また誰かが扉を叩く。
そして私たちは、その人のために法律を開く。
政治の顔ぶれは変わっても、人の暮らしは続いていく。
憲法は、その当たり前を守るためにも存在しているのでした。
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