[憲法・国会議員の特権]法理編 こはるノート
特権という言葉には、少し嫌な響きがあります。
普通の人には許されないことが、特別な人には許される。
普通の人には与えられないものが、特別な人には与えられる。
それだけ聞けば、不公平に思えます。
でも。
その特権を取り上げたとき、いちばん困るのが国民自身だったとしたら。
話は、少し違ってきます。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
窓の外では、商店街の街灯が一つ、また一つと点灯し始めていました。
机の上には、今日も憲法の条文集。
そして、その横には小さな包み。
宮原食品加工所の漬物です。
「……おいしい」
私は大根の漬物を一切れ口に運びました。
ぽりっ。
いい音がします。
「こはる」
「はい」
「何やってる」
相馬先輩が、新聞を畳みながら聞いてきました。
「勉強です」
「漬物食ってるだけだろ」
「違います。これは先日の事件を振り返るための重要な資料です」
「どこがだ」
「宮原さんの営業の自由が守られた成果物です」
「ものは言いようだな」
そう言いながら、先輩も一切れ取ります。
「先輩だって食べてるじゃないですか」
「現場確認だ」
「もう事件、解決しましたよ」
「事後確認だ」
便利な言葉です。
行政書士事務所では、どうやら漬物を食べることにも職務上の理由が必要らしい。
私はノートを開きました。
表紙には、大きくこう書いてあります。
――こはるノート・憲法編。
そして今日の見出し。
国会議員の三つの特権。
「所長」
「何だ」
「今日は国会議員の特権を整理します」
「そうか」
「付き合ってください」
「相馬に聞け」
「所長!」
「まず自分で考えろ」
う。
そう来ましたか。
私は鉛筆を握り直しました。
前回。
宮原食品加工所の宮原澄江さんは、国会議員の発言によって商売を失いかけました。
衆議院議員の黒崎隆造が、国会の委員会で補助金事業について疑義を示した。
その中で、宮原食品加工所の名前が挙がった。
新聞には不正疑惑と書かれた。
市役所は産業祭への参加見合わせを求めた。
けれど。
実際には、宮原さんの不正を裏付ける事実は確認されなかった。
私たちは、市役所に法的意見書を提出しました。
国会議員の発言が免責されることと、その発言が真実であることは別。
そして、国会議員の発言を理由に、市が根拠のない不利益を与えてよいわけではない。
最終的に市役所は判断を見直し、宮原さんは産業祭に参加できることになりました。
でも。
黒崎議員の発言そのものについては、簡単に法的責任を追及できない。
そこに、今日の問題があります。
「相馬先輩」
「何だ」
「国会議員の特権って、結局ずるくないですか」
「またそこからか」
「だって、普通の人なら名誉毀損になるような発言でも、国会議員なら免責されるんですよ」
「何のためだ」
「国会の自由な審議を守るためです」
「分かってるじゃねえか」
「頭では分かるんです。でも、宮原さんのことを考えると……」
相馬先輩は漬物を一切れ食べました。
「だったら、そっちもノートに書いとけ」
「そっち?」
「特権が守るものと、そのせいで守りきれないものだ」
私は鉛筆を止めました。
なるほど。
特権には理由がある。
でも、特権によって不利益を受ける人がいなくなるわけではない。
その両方を理解しなければ、本当の意味では分かったことにならない。
「まず、一つ目」
私はノートに書きました。
――憲法五十条。不逮捕特権。
「国会議員は、国会の会期中、原則として逮捕されない」
「そうだ」
「でも、これって本当に強い特権ですよね」
私は条文を読み上げました。
両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない。
「つまり、国会議員なら犯罪をしても捕まらない?」
「違う」
相馬先輩が即答しました。
「早い!」
「最初から間違ってるからだ」
「試しに言ってみただけです」
「試験でもそれやったら落ちるぞ」
はい。
ここ、大事です。
不逮捕特権は、国会議員が犯罪をしても処罰されないという意味ではありません。
あくまで、原則として国会の会期中に逮捕されないという保障です。
「じゃあ、なぜ会期中だけなんですか」
私は聞きました。
「国会の仕事を邪魔させねえためだろ」
「ですよね」
例えば。
政府を厳しく追及する議員がいる。
その議員が、政権にとって非常に邪魔な存在だったとします。
そこで政府が、何らかの容疑を理由に議員を次々と逮捕できたら。
どうなるでしょう。
国会に出席できない。
質問もできない。
表決にも参加できない。
場合によっては、議院の勢力関係にまで影響する。
「それは困りますね」
「だろ」
「だから、会期中の逮捕を原則として制限する」
「そうだ」
国会議員本人を特別扱いすることが目的ではありません。
国会という機関が、外部から不当に妨害されずに活動できるようにするためです。
私はノートに書きました。
――不逮捕特権は、議員個人の無罪を保障するものではなく、議院の活動を守る制度。
「でも、例外がありますよね」
「ああ」
ここは試験で狙われるところです。
「国会の会期中でも逮捕できる場合は二つ」
私は指を立てました。
「一つ目。議院外で現行犯逮捕される場合」
「うん」
「二つ目。所属する議院の承諾がある場合」
「そうだ」
例えば。
国会議員が街中で犯罪を行い、その場で現行犯逮捕される。
この場合は、不逮捕特権を盾に逮捕を免れることはできません。
また。
通常の逮捕であっても、所属する議院が承諾すれば、会期中の逮捕が可能になります。
「じゃあ、議院の承諾がなければ、絶対に捕まらないんですか」
「だから現行犯の例外があるだろ」
「あ、そうでした」
「さっき自分で言ったばっかりじゃねえか」
「確認です!」
私はノートに大きく丸をつけました。
原則。
会期中は逮捕されない。
例外。
議院外の現行犯逮捕。
所属議院の承諾。
「それで、もう一つ大事なのが、会期前に逮捕された場合ですね」
私は条文の後半を指しました。
会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない。
「これ、面白いですよね」
「何がだ」
「逮捕されていた議員が、国会の会期に入っただけで自動的に釈放されるわけじゃない」
「そうだ」
「その議院の要求が必要」
つまり。
会期前に逮捕された議員については、所属する議院が要求した場合に、会期中の釈放が義務付けられます。
「会期が始まったら必ず釈放、ではないんですね」
「ああ」
「議院の要求が条件」
「そこを落とすな」
私は赤鉛筆で囲みました。
――会期前逮捕は、議院の要求があれば釈放。
「でも所長」
私は顔を上げました。
「釈放されたら、その犯罪はなかったことになるんですか」
「ならん」
所長が短く答えました。
「逮捕と有罪は別だ」
「あ」
「不逮捕特権は、刑事責任そのものを消す制度ではない」
なるほど。
国会議員が不逮捕特権によって逮捕を免れたとしても、それは無罪判決を受けたことではありません。
罪を犯していれば、刑事責任が問題になる。
ただし、逮捕という身体拘束について、国会活動を守るための特別な制限が設けられている。
「だから」
私はまとめました。
「不逮捕特権は、逮捕を制限するだけで、犯罪の免罪符ではない」
「そうだ」
所長が頷きました。
よし。
一つ目、整理完了です。
「次は二つ目」
私はノートをめくりました。
――憲法五十一条。免責特権。
ここです。
宮原さんの事件で、私がいちばん腹を立てたところ。
条文は、こうです。
両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。
「先輩」
「何だ」
「院外で責任を問われないって、具体的にはどういう意味ですか」
「刑事責任や民事責任を問われねえってことだ」
「はい」
国会議員が、議院で行った演説、討論、表決について、院外で法的責任を問われない。
つまり。
国会での発言を理由に、刑事罰を科されることはない。
また、その発言を理由に、議員個人へ民事上の損害賠償を請求することも、原則として認められません。
「じゃあ、宮原さんが黒崎議員を名誉毀損で訴えても……」
「委員会での職務上の発言そのものを理由に、議員個人の責任を追及するのは難しい」
「ですよね」
私は鉛筆を置きました。
被害がある。
苦しんでいる人がいる。
でも、発言した議員個人には、憲法上の免責がある。
理屈は分かります。
それでも、気持ちは簡単には納得できません。
「所長」
「何だ」
「どうして、ここまで強い免責が必要なんですか」
「議員が発言のたびに裁判を恐れていたら、どうなる」
「……自由な議論ができなくなる」
「そうだ」
国会は、政治権力を監視する場所です。
行政の不正。
政治家の疑惑。
企業と政治の癒着。
そうした問題について、議員が自由に質問できなければならない。
もし質問するたびに、
名誉毀損で訴える。
損害賠償を請求する。
刑事告訴する。
そんな圧力がかかったら。
議員は、発言を控えるようになるかもしれません。
結果として、国会の監視機能が弱まる。
それを防ぐために、免責特権がある。
「でも、何を言ってもいいんですか」
私が聞くと、相馬先輩が首を振りました。
「その言い方は違う」
「え?」
「院外で法的責任を問われないことと、国会の中で何をしても許されることは別だ」
あ。
そうでした。
憲法五十一条が保障するのは、院外で責任を問われないこと。
議院内部の規律までなくなるわけではありません。
議院には、自らの秩序を維持し、議員を懲罰する権限があります。
私はノートに書きました。
――免責特権は、院外での責任を免除する。院内の規律や政治的責任まで消すものではない。
「それから」
所長が言いました。
「対象となる行為も考えろ」
「演説、討論、表決ですね」
「それだけか」
「え?」
私は考えました。
国会議員が委員会で質問する。
政府に答弁を求める。
議案について討論する。
表決する。
こうした議員の職務に密接に関係する行為も、免責の対象となり得ます。
「じゃあ、国会議員がテレビ番組で誰かを中傷した場合は?」
相馬先輩が聞きました。
「それは……」
テレビ番組。
国会議員の発言。
でも、議院で行った演説、討論、表決ではありません。
「免責特権の対象にはなりません」
「そうだ」
「街頭演説も?」
「議院で行った職務上の発言とは違う」
「ですよね」
国会議員だからといって、私生活や議院外でのあらゆる発言が免責されるわけではありません。
私は大きく書きました。
――議員の発言すべてが免責されるわけではない。
ここ、かなり重要です。
国会議員。
その肩書に免責特権がある。
だからといって。
テレビで何を言っても許される。
街頭演説で何を言っても許される。
私生活で何を言っても許される。
そんな制度ではありません。
守られるのは、議院での職務上の発言や表決などです。
「でも、こはる」
相馬先輩が、新聞を指しました。
「宮原さんの件で、お前が気にしてた問題はまだ残ってるぞ」
「……はい」
そうです。
黒崎議員の発言。
宮原食品加工所への疑惑。
新聞報道。
そして、市役所の参加見合わせ要請。
仮に黒崎議員個人が免責されるとしても。
国の責任はどうなるのでしょう。
「国家賠償ですか」
私は呟きました。
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「議員個人に請求できねえなら、国に請求すりゃいい。そう考える人もいるだろ」
「……確かに」
国家賠償法第一条。
公権力の行使に当たる公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えた場合。
原則として、国または公共団体が賠償責任を負います。
「じゃあ、国会議員の発言で名誉を傷つけられた場合、国に損害賠償を請求すればいいんですか」
「そんなに簡単じゃねえ」
所長が答えました。
私は首をかしげました。
「なぜです?」
「議員の発言が誰かの名誉を低下させた。それだけで国家賠償法上の違法が成立するなら、どうなる」
考えます。
議員個人には請求できない。
でも国には請求できる。
そうすると。
国会で誰かの疑惑を追及するたびに、国が賠償責任を負う危険がある。
その結果、国会活動への圧力になり得る。
「免責特権が守ろうとした自由が、別の形で狭められる可能性がある」
「そうだ」
所長が頷きました。
「ただし、国の責任が絶対に成立しないというわけでもない」
ここで、私は少しだけ未来の知識を思い出しました。
現代の受験生だったころ、問題集で見た判例。
最高裁判所。
平成九年九月九日。
国会議員の名誉毀損発言をめぐる事件。
……待ってください。
平成九年?
今は昭和六十三年。
まだ、その判決は出ていません。
私は慌てて口を閉じました。
「どうした」
相馬先輩が聞きます。
「いえ、ちょっと」
「また変な顔してるぞ」
「未来の判例を思い出しかけました」
「……何言ってんだ、お前」
危ない。
ここで平成九年の最高裁判決を、昭和六十三年の既存判例として語ったら時代考証が崩壊します。
でも。
私の頭の中には、その判例の考え方が残っています。
国会議員が国会で個人の名誉や信用を低下させる発言をしたとしても、それだけで当然に国の損害賠償責任が生じるわけではない。
国会議員が職務と無関係な違法・不当な目的で事実を摘示したり、虚偽と知りながらあえて事実を摘示したりするなど、権限の趣旨に明らかに背く特別な事情が問題になる。
そういう考え方です。
ただし、それは未来の判例。
今この場で、判例として引用することはできません。
「所長」
「何だ」
「国会議員が、わざと嘘だと知っている情報を国会で発言した場合でも、国に責任が生じる余地は考えられますよね」
片桐所長は、少し考えました。
「国家賠償法上、違法な職務行為といえるかは別途検討しなければならん」
「はい」
「ただ、議員個人の憲法上の免責と、国の賠償責任の成否を混同するな」
「……分かりました」
私はノートの余白に、小さく書きました。
――議員個人の免責と、国の賠償責任は別問題。
そして。
未来の判例については、現代に戻ったときのために、心の中で整理しました。
平成九年九月九日最高裁判決。
国の責任を認めるには、単なる名誉低下だけでは足りず、議員が権限の趣旨に明らかに背いて行使したと認められるような特別の事情が必要。
「……厳しいですね」
私は呟きました。
「何がだ」
「国会議員の発言について国の責任を問うのって、簡単じゃないんだなって」
「国会の自由を守るための制度だからな」
相馬先輩は答えました。
「ただし、被害を受けた人間の苦しみが消えるわけでもねえ」
「……はい」
「だから宮原さんの件では、市役所の判断を正したんだろ」
そうでした。
黒崎議員個人の法的責任を追及する。
それは、免責特権という憲法上の壁にぶつかります。
国の賠償責任を追及する。
それも、簡単に認められるものではありません。
でも。
市役所が、具体的な根拠もなく参加見合わせを求めた。
その行政判断については、別の問題として検討できる。
私たちは、そこを争った。
「つまり」
私は言いました。
「免責特権という壁があるからって、全部終わりじゃない」
「そうだ」
「議員個人への責任追及と、ほかの行政機関がした不利益取扱いは、分けて考える」
「そこだ」
私は鉛筆に力を込めました。
――免責は、発言の真実性を保証しない。ほかの行政機関に無条件の不利益取扱いを許すものでもない。
宮原さんの事件で、いちばん大事だったところです。
「さて」
私は次のページを開きました。
「三つ目。歳費受領権です」
憲法四十九条。
両議院の議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額の歳費を受ける。
「歳費って、簡単に言えば給料ですね」
「そうだな」
相馬先輩が頷きました。
「でも、何で国会議員にわざわざ憲法で給料を保障するんですか」
「無給だったらどうなる」
「……お金持ちしか議員を続けられなくなる?」
「そういうことだ」
私は想像しました。
もし、国会議員が無給だったら。
国会で仕事をする。
委員会に出席する。
法律を審議する。
政府を追及する。
その間、自分の生活費はどうするのでしょう。
十分な資産を持っている人なら、何とかなるかもしれません。
でも。
普通の会社員。
小さな商店主。
農家。
そういう人が国会議員になろうと思っても、生活が成り立たなければ続けられません。
「つまり、歳費を保障することで」
私は言いました。
「財産の多い人だけが議員になれるような状況を防ぐ意味がある」
「そうだ」
そして、国会議員が経済的に独立して職務を果たすための保障にもなります。
国民の代表として、自由に活動するため。
これも、議員個人への単なるご褒美ではありません。
「でも先輩」
「何だ」
「国会議員の歳費って、在任中でも減らせるんですよね」
「ああ」
「ここ、裁判官と違いますよね」
私はノートに二本の線を引きました。
国会議員。
憲法四十九条。
国庫から相当額の歳費を受ける。
ただし、法律に基づいて、在任中に減額されることもあり得る。
一方。
裁判官。
憲法八十条二項。
下級裁判所の裁判官の報酬は、在任中、減額することができない。
「何で違うんですか」
私は聞きました。
片桐所長が答えました。
「裁判官の独立を守るためだ」
「独立?」
「裁判官が政府や国会に都合の悪い判決を出した途端、報酬を下げられたらどうなる」
「……圧力になります」
「そうだ」
裁判官は、憲法と法律に従い、独立して判断しなければならない。
そのためには、身分や報酬について強い保障が必要になります。
もちろん、裁判官の報酬に関する憲法上の保障にも、具体的な制度運用上の問題はあります。
けれど、行政書士試験で押さえるべき基本的な違いは明確です。
国会議員の歳費。
在任中の減額が憲法上、一律に禁止されているわけではない。
裁判官の報酬。
在任中の減額禁止が憲法に明記されている。
「これ、入れ替えて出されたら間違えそうですね」
「だから覚えとけ」
「はい」
私は二重線を引きました。
――国会議員の歳費は減額可能。裁判官の報酬は在任中の減額禁止。
「ところで」
相馬先輩が言いました。
「俺の給料は?」
「はい?」
「在任中に減額されない特権はねえのか」
「ありません」
「何でだ」
「先輩、裁判官じゃないでしょう」
「じゃあ国会議員の歳費受領権は?」
「国会議員でもありません」
「何もねえな」
「普通の労働者としての権利はありますよ」
相馬先輩が、少しだけ笑いました。
「そういや、そうだな」
私は頷きました。
特権がない。
だから権利がない。
ではありません。
国会議員には国会議員の保障。
裁判官には裁判官の保障。
労働者には労働者の権利。
それぞれ、守ろうとするものが違います。
「ここまでをまとめます」
私はノートを机の中央に置きました。
「国会議員の特権は三つ」
相馬先輩が指を立てました。
「一つ。逮捕されねえ」
「原則として会期中、です!」
「細けえな」
「そこが重要なんです」
「二つ。発言の責任を問われねえ」
「議院で行った職務上の発言等について、院外で、です!」
「三つ。金をもらえる」
「法律の定めるところにより、相当額の歳費を受ける、です!」
相馬先輩が呆れた顔をしました。
「お前、俺の説明を全部長くしてるな」
「先輩の説明が短すぎるんです!」
でも。
ここで片桐所長が言いました。
「こはる。三つの共通点は何だ」
私は顔を上げました。
「共通点?」
「なぜ三つとも憲法で保障されている」
私は少し考えました。
不逮捕特権。
議員が不当に逮捕され、国会活動を妨害されないため。
免責特権。
議員が院外で法的責任を追及されることを恐れず、自由に審議するため。
歳費受領権。
議員が経済的な不安や特定の支援者への過度な依存を避け、国民の代表として活動できるようにするため。
「……国会の活動を守るためです」
「そうだ」
「つまり、国民の代表が、その役割を果たせるようにするため」
所長が頷きました。
「そこが核心だ」
私はノートに大きく書きました。
――国会議員の特権は、議員個人への恩恵ではなく、国会の自由で独立した活動を保障するためのもの。
なるほど。
こう考えると、三つの特権は全部つながっています。
逮捕による妨害を防ぐ。
発言への法的報復を防ぐ。
経済的な事情による活動の制約を減らす。
守る方法は違う。
でも、目的は共通している。
「ただし」
所長が続けました。
「特権があるというだけで、その行使が常に正しいとは限らない」
「……宮原さんの件ですね」
「そうだ」
黒崎議員は、国会で補助金事業について質問した。
その発言が免責特権の対象になることと。
発言に十分な裏付けがあったかどうか。
そこは別の問題です。
免責特権は、発言の真実性を保証する制度ではありません。
国会議員に与えられた法的な保障です。
そして、発言によって傷ついた人がいるなら。
法的責任とは別に、説明を求める。
訂正を求める。
正しい資料を示す。
そうした方法を考える余地があります。
「それに」
私は言いました。
「国会議員の発言を理由に、役所が勝手に不利益を与えていいわけじゃない」
「そうだ」
宮原さんの場合、市役所は国会議員の発言を重く見すぎていました。
疑義が示されたというだけで、本人への十分な確認もせず、産業祭への参加見合わせを求めた。
そこで私たちは、
憲法十四条。
法の下の平等。
憲法二十二条。
職業選択の自由。
これらとの関係を問題にしました。
もちろん、公的な催事への参加を一度見合わせるよう求めたからといって、それだけで直ちに憲法違反になるわけではありません。
でも。
合理的根拠のない差別的取扱いや、営業活動への過度な制約があれば、憲法上の問題が生じ得ます。
国会議員の特権と、市民の基本的人権。
どちらも憲法に書かれています。
だからこそ、一方を理由にもう一方を無視してはいけない。
「そういえば」
私はノートの最後に、もう一つ見出しを書きました。
――昭和六十三年と現代。
「また始まった」
相馬先輩が言いました。
「何がです?」
「お前がたまに言う、時代がおかしい話」
「今日は大丈夫です!」
私は条文集を開きました。
「憲法は、昭和二十一年の公布以来、一字一句変わっていません」
「そうだな」
「昭和六十三年でも、現代でも、四十九条、五十条、五十一条は同じ」
行政不服審査法。
行政事件訴訟法。
地方自治法。
そうした法律は、時代によって制度が大きく変わることがあります。
でも、日本国憲法の条文は違います。
昭和六十三年に読んでも。
令和の時代に読んでも。
同じ言葉が並んでいる。
「ただし」
私は鉛筆を止めました。
「判例や社会の考え方まで、同じとは限りません」
例えば。
国会議員の名誉毀損発言に関する最高裁平成九年九月九日の判決。
これは、昭和六十三年の今から見れば、まだ未来の判断です。
現代の行政書士受験生である私には、その判例知識があります。
でも、昭和の実務でその判決を既存の先例として使うことはできません。
「条文は同じなのに」
私は呟きました。
「法律の意味を理解するために使える材料は、時代によって違うんですね」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「当たり前だろ。裁判所だって、まだ起きてねえ事件の判決は出せねえ」
「そうですよね」
「法律は紙に書いて終わりじゃねえ」
「はい」
「事件が起きて、争いになって、裁判所が判断して、少しずつ具体的な意味がはっきりしていく」
私は頷きました。
憲法の条文。
判例。
社会の変化。
そして、現場で生きている人。
全部つながっています。
国会議員の特権も、ただ暗記するだけなら簡単です。
四十九条。
歳費受領権。
五十条。
不逮捕特権。
五十一条。
免責特権。
でも。
宮原さんが泣いていた理由を考えると。
その特権がなぜ必要なのか。
どこまで保障されるのか。
誰のためにあるのか。
そこまで考えずにはいられません。
私はノートの最後のページを開きました。
大きく、
――今日の一行の覚え書き。
と書きます。
「よし」
鉛筆を握りました。
国会議員の特権は、議員個人のためではなく、国会の自由な活動を保障するためにあり、不逮捕特権は会期中の逮捕を原則禁止し、免責特権は議院での職務上の発言や表決について院外の責任を免除し、歳費受領権は――
「長え!」
相馬先輩が叫びました。
「まだ書いてる途中です!」
「一行じゃねえだろ、それ」
「大事なことが多いんです!」
「なら削れ」
「うう……」
私は考えました。
三つの特権。
その共通の目的。
そして、今回の事件で学んだこと。
全部を一行にする。
難しい。
でも。
何をいちばん覚えておきたいか。
それは、もう決まっていました。
私は鉛筆を走らせました。
――国会議員の特権は、議員を偉くするためではなく、国民の代表としての仕事を守るためにある。
「……どうです?」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、悪くねえ」
「褒めた!」
「褒めてねえ」
「今、悪くないって」
「採点しただけだ」
私は笑いました。
片桐所長も、ノートをちらりと見ました。
「それでいい」
「ありがとうございます」
「ただし」
来ました。
所長の、ただし。
「試験では条文ごとの違いも正確に答えろ」
「はい!」
「不逮捕特権と免責特権を混同するな」
「はい!」
「歳費と裁判官の報酬の違いも忘れるな」
「はい!」
私は慌ててノートに小さく書き足しました。
四十九条。
歳費受領権。
在任中の減額は一律に禁止されない。
五十条。
不逮捕特権。
原則として会期中は逮捕されない。
例外は、議院外の現行犯逮捕と議院の承諾。
会期前に逮捕されていた議員は、議院の要求があれば会期中釈放。
五十一条。
免責特権。
議院での職務上の演説、討論、表決等について、院外で法的責任を問われない。
議員個人の免責と国の賠償責任は別問題。
よし。
これで、試験対策も大丈夫です。
窓の外を見ると、すっかり日が暮れていました。
宮原さんの食品加工所では、今ごろ産業祭の準備をしているのでしょう。
漬物を樽から出す。
袋に詰める。
値札をつける。
明日も商売をする。
それだけのことです。
でも、少し前まで、その当たり前が失われかけていました。
国会議員の言葉には、大きな影響力があります。
だからこそ、国会の自由な発言を守る制度がある。
そして。
その発言によって、誰かが傷つくこともある。
憲法は、そうした現実の複雑さを、魔法のように全部解決してくれるわけではありません。
ただ。
国会議員が自由に仕事をするための保障と。
普通の市民が、根拠のない不利益を受けずに暮らすための保障。
その両方を置いている。
だから私たちは、どちらか一方だけを見てはいけない。
特権があるから何をしてもいい。
そんなことはありません。
特権なんて不公平だから全部なくせ。
それも違います。
なぜ、その特権があるのか。
誰を守るためなのか。
どこまで認められるのか。
そして、誰かが傷ついたとき、ほかにどんな救済の道があるのか。
そこまで考えるのが、法律を使うということなのだと思います。
「こはる」
相馬先輩が声をかけました。
「はい」
「勉強終わったか」
「終わりました」
「じゃあ帰るぞ」
「はい」
私はノートを閉じました。
すると。
「その前に」
相馬先輩が、机の上の漬物を指しました。
「残り、もらっていいか」
「えっ」
「うまかったからな」
「駄目です!」
「何でだよ」
「それ、私のです!」
「事務所に持ってきたんだろ」
「宮原さんが私にって!」
「そんなこと言ってたか?」
「言ってました!」
「証拠は?」
……証拠?
私は固まりました。
「口頭です!」
「じゃあ確認できねえな」
「先輩!」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「俺には歳費受領権がある」
「ありません!」
「漬物受領権だ」
「そんな憲法ありません!」
そのとき。
奥から片桐所長が出てきました。
「何を騒いでる」
「所長!」
私は訴えました。
「先輩が私の漬物を取ろうとしてます!」
所長は机の上を見ました。
漬物。
相馬先輩。
私。
そして、静かに言いました。
「半分ずつにしろ」
「ええっ!」
「公平だろ」
「私の財産権は!」
「争うなら、まず所有関係を確認しろ」
……くっ。
そこは民法の問題ですか。
相馬先輩が勝ち誇った顔で言いました。
「ほら、所長もこう言ってる」
「先輩!」
「何だ」
「所長の発言には免責特権なんてありませんからね!」
すると片桐所長は、少しだけ笑いました。
「知っている」
「じゃあ――」
「ただし、私は所長だ」
……。
……。
強い。
ものすごく強い。
相馬先輩が笑い出しました。
「残念だったな、こはる!」
「何が残念なんですか!」
私はノートを抱えました。
国会議員には、憲法で保障された三つの特権がある。
でも。
片桐行政書士事務所には、どうやら第四の特権が存在するようです。
――所長の一言で、すべてが決まる特権。
もちろん、そんなものは憲法にありません。
それどころか、法の下の平等という観点から、いろいろ問題がありそうです。
「所長!」
「何だ」
「異議があります!」
「聞こう」
お。
今日は話を聞いてくれる。
「漬物は、私がいただいたものです!」
「証拠は?」
「宮原さんに確認すれば分かります!」
「では確認しろ」
「今から電話します!」
「もう営業時間外だ」
「……あ」
所長は頷きました。
「明日確認すればいい」
私は胸を張りました。
「では、それまで現状を維持してください!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「何だよ、それ」
「争いがある間は、勝手に処分しないでくださいってことです!」
所長が静かに言いました。
「そうだな」
……勝った。
今日、初めて所長に勝った気がします。
ところが。
「じゃあ」
相馬先輩が残りの漬物を見ました。
「明日まで食えねえってことか」
「そうです」
「お前も?」
「……え?」
「現状維持だろ」
私は固まりました。
そうか。
自分で言った。
確認が終わるまで、どちらも勝手に食べない。
つまり。
「……私も食べられない」
「そういうことだ」
相馬先輩が大笑いしました。
「自分で自分の首絞めてやがる!」
「うるさいです!」
片桐所長が、机の上の漬物を冷蔵庫へしまいました。
「明日まで保管する」
「はい……」
私は肩を落としました。
どうやら。
法律で権利を主張するというのは、自分にも同じルールが返ってくることがあるようです。
でも。
それでいいのかもしれません。
特権を考えるときも。
自由を考えるときも。
誰かの権利を守るときも。
大事なのは、自分だけに都合のいい答えを探すことではない。
誰のために、何を守る制度なのか。
そこを見失わないこと。
私はノートを鞄にしまいました。
そして、心の中でもう一度、今日の一行を繰り返しました。
――国会議員の特権は、議員を偉くするためではなく、国民の代表としての仕事を守るためにある。
昭和六十三年。
日本国憲法の条文は、今も未来も変わらない。
けれど。
その条文が守ろうとしているものを知ったとき。
私には、四十九条も五十条も五十一条も、もう単なる暗記問題には見えませんでした。
そして。
「こはる」
「はい」
「明日、宮原さんに電話するの忘れるなよ」
相馬先輩が言いました。
「忘れません!」
「漬物の所有権、確認しねえとな」
「分かってます!」
私は少し考えてから、付け加えました。
「でも先輩」
「何だ」
「もし宮原さんが『事務所の皆さんでどうぞ』って言ったら?」
「半分ずつだろ」
「ですよね」
「じゃあ最初からそうすりゃよかったな」
……本当に。
法律で争う前に、話し合えば済むこともあります。
それでも。
話し合いだけでは守れないものがあるから、法律がある。
そして。
普通の法律だけでは守れない大切なものがあるから、憲法がある。
私はそう思いながら、事務所の灯りを消しました。
明日もまた、誰かの権利を守る一日が始まります。
ただし。
漬物の件については、明日の確認結果次第です。
どうか。
私の取り分が、無事に守られますように。
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