[憲法・国会議員の特権]現場編 「国会議員なら何を言っても許される」の罠。逮捕されない、責任を問われない、給料ももらえる――三つの特権は、誰のためにあるのか
偉い人には、特別な権利があります。
捕まらない権利。
責任を問われない権利。
国からお金をもらう権利。
そんな話を聞いたら、普通は思うでしょう。
――ずるい。
でも。
その特権が本当に守ろうとしているのは、偉い人自身ではないのかもしれません。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「国会議員って、人を泥棒呼ばわりしても許されるんですか!」
朝一番。
事務所の扉を開けるなり、女性が叫びました。
私は思わず湯飲みを落としかけました。
「ど、泥棒?」
「そうです!」
「警察に?」
「国会で!」
……国会?
私は首をかしげました。
相談者は、宮原澄江さん。
四十八歳。
市内で小さな食品加工所を営んでいる女性です。
夫を亡くしてから、地元の農家が作った野菜を仕入れ、漬物や佃煮に加工して販売してきたそうです。
従業員は三人。
大きな会社ではありません。
けれど、十五年間、地元では堅実な商売を続けてきました。
ところが。
「国会で、うちの名前を出されたんです」
宮原さんは新聞の切り抜きを机に置きました。
そこには、衆議院の委員会で行われた質疑の記事が載っていました。
地元選出の国会議員。
黒崎隆造。
五十五歳。
公共事業の不正追及で知られる野党議員です。
その黒崎議員が、委員会でこう発言したというのです。
――地方の補助金事業には、特定業者への不透明な資金支出が見られる。
――その一例として、湖西市の宮原食品加工所についても調査が必要ではないか。
「調査が必要、ですか」
私は記事を読みました。
断定はしていない。
でも。
宮原さんは震える声で言いました。
「新聞には『補助金不正疑惑』って見出しがついたんです」
「ああ……」
「うちは補助金なんてもらってません!」
「え?」
「市の産業振興事業に協力して、加工技術の実演をしたことはあります。でも、お金を不正にもらったことなんて一度もありません!」
私は記事を読み直しました。
黒崎議員の質問は、ある補助金事業について行政の監督状況を問うものでした。
その中で宮原食品加工所の名前が挙がっている。
しかし、具体的に何を不正取得したのかは示されていません。
「議員さんに訂正をお願いしたんです」
宮原さんが言いました。
「そうしたら事務所の人に、『国会での発言には免責特権があります』って」
免責特権。
憲法五十一条。
私は反射的に思い出しました。
両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問われない。
――あ。
これ。
試験に出るやつです。
でも。
「そのせいで、秋の産業祭にも出られなくなりました」
「……はい?」
私は顔を上げました。
「どういうことですか」
「市役所から、出店を見合わせてほしいと言われたんです」
宮原さんが、もう一枚の紙を差し出しました。
市の商工観光課から届いた文書。
そこには、
――産業祭参加については、地域社会への影響及び公共の福祉の観点から、当面見合わせをお願いする。
と書かれていました。
私は目を細めました。
公共の福祉。
また出た。
昭和の役所が困ったとき、引き出しの奥から取り出す万能の言葉。
「理由は国会議員の発言ですか」
「そうです」
「市で調査は?」
「してくれません」
「どうして?」
「国会議員が国会で言ったことだから、軽く扱えないって」
……待ってください。
それ、おかしくないですか。
国会議員が発言した。
免責特権がある。
だから、市役所はその発言を事実として扱う。
だから、民間業者を産業祭から外す。
いやいやいや。
途中で何段階か論理が飛んでいません?
「国会議員の特権か」
相馬先輩が新聞を手に取りました。
「面倒な話を持ってきたな」
「面倒なんですか」
「地方の役所と国会議員が絡んでる。面倒に決まってるだろ」
「でも、宮原さんに不正の証拠があるわけじゃないですよね」
「今のところな」
片桐所長が、静かに言いました。
「こはる。何が問題だと思う」
「国会議員の発言で、一人の商売が潰れかけています」
「だから?」
「だから、その議員の責任を――」
そこまで言って、私は止まりました。
免責特権。
憲法五十一条。
国会の委員会での質疑は、まさにその中心にある行為です。
たとえ発言によって民間人の名誉が傷ついたとしても、国会議員個人に院外で法的責任を追及することは、原則としてできません。
「……あれ?」
私は額を押さえました。
「これ、守られるんですか?」
相馬先輩が頷きます。
「憲法だからな」
「でも、被害者がいるんですよ?」
「だからって憲法が消えるわけじゃねえ」
正論。
ものすごく正論。
でも腹が立ちます。
「国会議員だけ特別扱いって、不平等じゃないですか」
「何で特別扱いしてると思う」
「それは……」
私は考えました。
国会議員。
国民の代表。
国会で自由に発言する。
政府を追及する。
政治権力を監視する。
そこで。
もし政府や有力者が、議員の発言を理由に次々と刑事責任や民事責任を追及できたら。
議員は怖くて発言できなくなる。
不正疑惑を追及するたびに、訴訟を起こされる。
そんな国会では、権力の監視なんてできません。
「……国会の自由な審議を守るため」
「そうだ」
所長が頷きました。
「議員を偉くするためではない」
私は新聞を見ました。
黒崎議員の発言。
それによって傷ついた宮原さん。
どちらも現実です。
だからこそ、難しい。
「じゃあ、宮原さんは泣き寝入りですか」
「誰に対して、何を求めるかを分けろ」
所長が言いました。
「議員の発言を消すことと、市の判断を正すことは別だ」
私は顔を上げました。
「……市の判断」
「国会議員に免責特権があることと、市役所が根拠のない不利益を与えてよいことは、同じではない」
その瞬間。
頭の中で、何かがつながりました。
憲法五十一条。
議員の免責。
でも。
憲法十四条。
法の下の平等。
憲法二十二条。
職業選択の自由。
そして十三条。
個人の尊重。
「所長」
「何だ」
「議員の発言を罰することはできなくても、それを利用して市民を不当に排除する行政判断は争えますよね」
「そういうことだ」
相馬先輩が立ち上がりました。
「市役所行くぞ」
「また即決ですね」
「議員の口は止められねえ。でも役所の手は止められるかもしれねえ」
なるほど。
今日の相手は国会議員じゃない。
その言葉を都合よく利用した、市役所です。
市役所二階。
総務課。
「また憲法ですか」
沢渡課長は、私たちの顔を見るなり言いました。
「まだ何も言ってません」
「片桐先生がお越しになるときは、だいたい何か問題がありますので」
「信用されてるのか警戒されてるのか分かりませんね」
「両方でしょう」
この人、本当に手ごわい。
相馬先輩が文書を置きました。
「宮原食品加工所の件だ」
「ああ、産業祭ですね」
「出店を見合わせろと通知した理由は?」
「国会で補助金事業について疑義が示されています」
沢渡課長は淡々と答えました。
「市主催の催事です。参加業者の信用に関わる問題が表面化した以上、慎重な運営が必要です」
「宮原さんの不正は確認したんですか」
私が聞きました。
「確認中です」
「何を確認しているんです?」
「関係する事業の支出記録などです」
「本人に事情を聞きましたか」
「まだです」
「じゃあ、今のところ不正の証拠はない?」
「不正を認定したわけではありません」
なるほど。
沢渡課長は言葉を間違えません。
疑惑がある。
調査する。
主催者として慎重に対応する。
そこだけ切り取れば、行政として理解できる話です。
「では、なぜ宮原さんだけ見合わせを求めたんですか」
「国会で名前が挙がったためです」
来た。
「国会議員の発言だから、ですか」
「国会という公の場で提起された疑義を、市として無視はできません」
「でも、国会議員の発言には免責特権がありますよね」
「そのとおりです」
「その免責特権は、発言内容が真実だと保証する制度ですか」
沢渡課長の目が細くなりました。
「……いいえ」
「ですよね」
私は続けました。
「議員が院外で法的責任を問われないことと、その発言が正しいことは別です」
「それは承知しています」
「では、その発言だけを根拠に市民を不利益に扱うことには、別の根拠が必要ですよね」
沢渡課長は、すぐには答えませんでした。
代わりに文書を指しました。
「産業祭の参加は、誰にでも無条件に認められるものではありません。参加要件や運営上の判断があります」
「それは分かっています」
「そして、現段階では正式な参加取消処分をしたわけではありません」
私は文書を見ました。
確かに。
見合わせのお願い。
つまり行政指導です。
「任意のお願いだと?」
相馬先輩が低い声で言いました。
「ええ。現段階では」
「なら断ってもいいんだな」
「法的に参加を禁止したものではありません」
「だったら、なぜ宮原さんには『出店を見合わせてほしい』とだけ伝えて、断った場合の扱いを説明していない」
「担当課の説明が不足していた可能性はあります」
沢渡課長は認めました。
でも、すぐに続けます。
「ただし、参加者の選定には主催者としての判断が必要です。最終的に参加を認めるかどうかは、別の問題です」
強い。
この人。
簡単には崩れません。
相馬先輩が鼻で笑いました。
「便利だな。お願いだから強制じゃない。だが、お願いを聞かなきゃ参加の判断で不利になるかもしれない」
「そのような運用はしていません」
「なら書面で明らかにしてもらおうか」
部屋が静かになりました。
片桐所長が口を開きます。
「課長。市の産業祭は、地元の中小事業者の活動を支援するためのものだったな」
「はい」
「宮原食品加工所は従前から参加している」
「ええ」
「募集要項上、参加資格を失う具体的事実は確認されているか」
「現時点では確認されていません」
「では、参加見合わせの必要性を改めて検討してほしい」
所長は静かに続けました。
「国会議員の免責特権は、国会活動を守るための制度だ」
「承知しています」
「市がその制度を理由に、住民の権利を狭めていいという意味ではない」
沢渡課長は眼鏡を直しました。
「……法的意見書を出されるおつもりですか」
「必要なら」
「根拠は?」
所長が私を見ました。
「こはる」
「はい」
「答えろ」
来ました。
実戦試験です。
私は少し息を吸いました。
「憲法十四条と二十二条です」
「平等原則と職業の自由ですね」
沢渡課長が言います。
「はい。もちろん、市が産業祭の参加資格を定めたり、公共目的のために必要な選定をしたりすること自体は否定しません」
「では?」
「でも、問題は判断の根拠です」
私は新聞の切り抜きを指しました。
「国会議員が疑義を述べた。それだけで、宮原さんの不正が確認されたことにはなりません」
「ええ」
「不正を調査する目的が正当だとしても、何も確認しないうちから特定業者だけを排除する必要があるのか。もっと制約の少ない方法はないのか。その検討が必要です」
沢渡課長は黙っています。
「調査はできます」
私は続けました。
「宮原さんに資料提出や説明を求めることもできます。疑義のある取引だけ確認する方法だってあります」
「……」
「それなのに、国会で名前が挙がったというだけで参加見合わせを求める。しかも本人への確認もない」
私は顔を上げました。
「それでは、手段が行き過ぎている疑いがあります」
沢渡課長がゆっくり口を開きました。
「朝比奈さん。産業祭の参加見合わせが、直ちに憲法二十二条違反になるとお考えですか」
鋭い。
そこを聞きますか。
「いいえ」
私は答えました。
「一件の催事への参加を認めないことが、直ちに職業の自由の侵害になるとは言いません」
危ない。
ここで勢いだけで違憲と言い切ったら負けです。
「でも、公的な催事への参加機会を合理的根拠なく奪い、事業者の営業活動に不利益を及ぼすなら、平等原則や職業の自由との関係を検討する必要があります」
沢渡課長の視線が少し変わりました。
「とりわけ、他の参加業者と異なる扱いをする合理的な理由があるのか。目的に対して手段が必要かつ相当なのか。その説明が必要です」
私は文書を指しました。
「『公共の福祉』と書くだけでは、その説明になりません」
しばらく沈黙がありました。
そして。
「……なるほど」
沢渡課長が、小さく言いました。
「ただし、こちらとしても、市の信用を守る必要があります」
「もちろんです」
「では、調査を完了するまで判断を留保するという選択は?」
「産業祭まで何日あります?」
「二週間ほどです」
「その間に出店準備ができなくなったら、事実上の不利益は同じです」
相馬先輩が横から言いました。
「疑惑の調査はやれ。商売を止める理由になるかは別に考えろ」
片桐所長が、最後に言いました。
「課長。これは国会議員の特権を否定する話ではない」
「……」
「むしろ逆だ」
「逆?」
「国会議員が自由に発言できることと、行政が事実を確認して判断すること。その二つを分けなければならない」
私は頷きました。
国会の自由な審議を守る。
同時に、市民の権利も守る。
どちらかを捨てる必要はない。
問題なのは。
国会議員の発言を、行政が無条件に正しいものとして扱うことです。
「三日ください」
沢渡課長が言いました。
「関係書類を確認し、商工観光課と協議します」
「結果は書面で」
所長が答えました。
「承知しました」
事務所へ戻る途中。
私は相馬先輩に聞きました。
「先輩」
「何だ」
「国会議員って、本当に特別ですね」
「今さらか」
「免責特権があるでしょう」
「ああ」
「それだけじゃなくて、不逮捕特権もある」
「憲法五十条だな」
「国会の会期中は、原則として逮捕されない」
私は指を折りました。
「しかも、会期前に逮捕されていた議員でも、その議院から要求があれば、会期中は釈放しなければならない」
「そうだ。ただし法律の定める例外はある」
「議院外での現行犯逮捕と、所属する議院の承諾がある場合ですね」
「覚えてるじゃねえか」
「試験範囲ですから」
ここは大事です。
不逮捕特権といっても、何をしても逮捕されないわけではありません。
会期中の原則的な逮捕禁止。
例外として、議院外での現行犯逮捕。
そして議院の承諾がある場合。
会期前に逮捕されていた議員についても、釈放は自動ではなく、その議院の要求が必要です。
「でも、何でそこまで守るんですかね」
私が聞くと、相馬先輩は言いました。
「選挙で選ばれた議員を、政府が気に入らねえって理由で片っ端から捕まえたらどうなる」
「あ」
「国会の多数派をひっくり返すことだってできるだろ」
なるほど。
不逮捕特権。
それも議員個人のご褒美ではない。
政府による不当な干渉を防ぎ、議院の活動を守るための制度。
免責特権は、自由な発言を守る。
不逮捕特権は、議員の活動を不当な逮捕から守る。
「じゃあ、歳費受領権も?」
「そうだな」
憲法四十九条。
国会議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額の歳費を受ける。
「国会議員のお給料ですよね」
「乱暴に言えばな」
「それも特権なんですよね」
「金持ちしか議員になれなかったら困るだろ」
私は足を止めました。
「……確かに」
国会議員が無給だったら。
生活に余裕がある人。
資産を持っている人。
ほかに収入のある人。
そういう人しか議員活動を続けられなくなるかもしれない。
逆に、生活のために特定の支援者へ過度に依存する危険もある。
だから、国庫から相当額の歳費を保障する。
「でも、歳費って絶対に減らせないんですか」
「そんなことはねえ」
「あ、そうか」
私は思い出しました。
国会議員の歳費は、法律に基づいて定められる。
その額が在任中に減額されることも、憲法上、一律に禁止されてはいません。
一方で。
裁判官の報酬。
憲法八十条二項。
下級裁判所の裁判官の報酬は、在任中、減額することができない。
「ここ、試験で比較されますね」
「お前、歩きながら受験勉強すんな」
「国会議員は減額あり。裁判官は在任中の減額禁止」
「だから何だ」
「裁判官は権力からの独立を守るために、報酬の保障が特に強いんですね」
「そういうことだ」
なるほど。
国会議員と裁判官。
どちらにも特別な保障がある。
けれど、同じではない。
守ろうとする職務の性質が違うからです。
「先輩」
「今度は何だ」
「国会議員の特権って、三つとも結局、国会の仕事を守るためなんですね」
相馬先輩は煙草を取り出しました。
「そうだ」
「議員本人のためじゃない」
「議員が仕事をするためのもんだ」
「でも、その特権のせいで宮原さんみたいな人が傷つくこともある」
「ああ」
先輩は煙草をくわえました。
そして、火をつける前に言いました。
「だから法律は面倒なんだよ」
「面倒?」
「一人を守る仕組みが、別の一人を苦しめることもある」
私は黙りました。
「でもな」
相馬先輩が続けます。
「だからって、守る仕組みを全部壊していいわけじゃねえ」
「……はい」
「壊さずに、ほかに何ができるか探す。それが俺たちの仕事だ」
珍しく。
本当に珍しく。
相馬先輩が格好いいことを言いました。
「先輩」
「何だ」
「今日、名言が多いですね」
「うるせえ」
その日の午後。
私たちは、片桐所長の指示で正式な法的意見書を作成しました。
表題は、
――産業祭参加見合わせ要請に関する法的意見書。
私は机に向かい、何度も書き直しました。
まず。
憲法五十一条。
国会議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問われない。
ここは認める。
黒崎議員が委員会で行った質疑について、院外で個人の法的責任を追及することは、原則として認められない。
しかし。
そのことは、発言内容の真実性を法律上推定させるものではない。
まして、地方公共団体が発言内容を無条件に事実と認定し、特定の事業者を不利益に取り扱う根拠にはならない。
次に。
憲法十四条。
法の下の平等。
合理的な理由なく、特定の事業者だけを不利益に取り扱ってはならない。
そして。
憲法二十二条。
職業選択の自由。
営業活動の自由も、その保障と関わる。
行政が公共目的のために一定の制限を設けることはあり得る。
しかし、その目的と手段の間には合理的な関連が必要であり、具体的事情に照らした必要性と相当性が問われる。
私はそこまで書いて、少し考えました。
「所長」
「何だ」
「『この要請は違憲である』って断定していいですか」
片桐所長は、私の原稿を読みました。
「まだ早い」
「ですよね」
「今分かっている事実で、どこまで言える」
「国会で疑義が示されたという理由だけで、特定の業者に参加見合わせを求めている」
「うん」
「本人への事実確認も終わっていない」
「うん」
「合理的根拠が不足したまま事実上の排除を行うなら、平等原則や職業の自由との関係で憲法上の問題が生じる」
「それを書け」
私は頷きました。
違憲。
強い言葉です。
でも、強いからこそ、軽々しく使ってはいけない。
片桐所長が静かに言いました。
「憲法を振りかざすだけなら三流だ」
「はい」
「事実を積み、論理を組み、相手が合法的な判断へ戻れる道を示せ」
「……はい」
「そのうえで一線を越えたなら、最高法規を抜け」
私はペンを握り直しました。
なるほど。
憲法は、怒りの代わりに叫ぶ言葉じゃない。
行政が越えてはいけない境界線を示すものなんだ。
三日後。
沢渡課長から連絡がありました。
私たちは再び市役所へ向かいました。
「確認が終わりました」
沢渡課長は、机の上に関係書類を並べました。
「宮原食品加工所について、指摘されていた補助金の不正受給を裏付ける事実は確認できませんでした」
私は息をのみました。
「では……」
「黒崎議員の質疑で触れられた事業については、別の事業主体との関係も含め、担当課が資料を取り違えて把握していた部分がありました」
「それを議員が?」
「議員の発言経緯については、こちらでは断定できません」
沢渡課長は慎重です。
どこまでも慎重。
「ですが、市として確認できた範囲では、宮原食品加工所の参加資格を否定する事実はありません」
私は思わず身を乗り出しました。
「じゃあ、産業祭は?」
「当初の参加手続を進めます」
……やった。
心の中で拳を握りました。
「見合わせ要請については、撤回の文書を出します」
沢渡課長は続けました。
「本人への説明が不十分なまま、国会で名前が挙がったことを過度に重視した点は、行政判断として適切ではありませんでした」
相馬先輩が腕を組みます。
「珍しく素直じゃねえか」
「誤りが確認できたなら修正します」
「最初から調べりゃよかったんだよ」
「おっしゃるとおりです」
……え。
認めた。
私は沢渡課長を見ました。
「課長」
「何でしょう」
「国会議員の発言だから、という理由はもう使わないんですね」
「使いません」
「なぜです?」
沢渡課長は少しだけ眉を上げました。
「私に説明させるんですか」
「確認です」
「……国会議員の免責特権は、国会議員の職務を保障する制度であり、行政がその発言を無条件に真実と扱う制度ではありません」
完璧。
この人、敵にすると怖いけど、味方にするとものすごく頼もしい。
「さらに」
沢渡課長が続けます。
「行政は、具体的事実と適用される基準に基づいて判断しなければなりません。国会での発言は調査の端緒にはなりますが、それ自体が不利益取扱いの十分な根拠になるとは限らない」
私は頷きました。
「そうです」
「朝比奈さん」
「はい」
「その点は、あなた方の意見書が的確でした」
……褒められた?
今、沢渡課長に褒められました?
「ありがとうございます!」
「ただし」
来た。
「憲法違反という主張は、常に慎重であるべきです」
「はい」
「何でも憲法違反と言えば通るわけではありません」
「分かっています」
「今回も、市の要請が直ちに違憲だったという結論ではありません。問題は、事実確認と判断過程が不十分だったことです」
「はい」
「そこを修正した。それだけです」
私は笑いました。
「でも、それで十分です」
沢渡課長は、少し意外そうな顔をしました。
「なぜです?」
「宮原さんが、商売を続けられますから」
沢渡課長は一瞬黙りました。
そして。
「……そうですね」
小さく頷きました。
宮原さんが事務所へ来たのは、その翌日でした。
「出られるんですか」
「はい」
私は答えました。
「産業祭、出られます」
宮原さんは、しばらく何も言いませんでした。
そして。
「……よかった」
その一言だけ。
声が震えていました。
「もう、店を畳まなきゃいけないかと思いました」
「そこまで考えてたんですか」
「近所の人に言われたんです」
宮原さんが俯きます。
「国会議員が名前を出したんだから、何かあるんだろうって」
私は唇を噛みました。
昭和六十三年。
地方の小さな町。
噂は、新聞より早く広まります。
国会議員が言った。
だから正しい。
役所が見合わせろと言った。
だから何か悪いことをした。
そんな空気が、一人の商売人を追い詰めていた。
「でも」
宮原さんが顔を上げます。
「黒崎議員さんには、何も言えないんですよね」
私は少し考えました。
「いいえ」
「え?」
「法的責任を追及することには、免責特権という壁があります。でも、訂正を求めたり、説明をお願いしたりすることまで禁止されているわけではありません」
「そうなんですか」
「はい。議員さんや事務所に資料を届けて、事実を確認してもらうことはできます」
片桐所長が頷きました。
「ただし、議員に謝罪を強制できるという話ではありません」
「……はい」
「国会で発言する自由は守られています。その自由を利用して誤った情報が広がったなら、今度は正しい情報を示していく必要があります」
宮原さんは、ゆっくり頷きました。
「分かりました」
そして。
「じゃあ、産業祭で堂々と売ります」
私は笑いました。
「それがいいです」
「うちの漬物、おいしいんですよ」
「ぜひ買いに行きます!」
相馬先輩が横から顔を出しました。
「試食はあるのか」
「ありますよ」
「じゃあ俺も行く」
「先輩、食べ物が絡むと行動が早いですね」
「当然だ」
宮原さんが笑いました。
初めて見る、心からの笑顔でした。
その日の夕方。
私は一人、机に残っていました。
窓から西日が差し込んでいます。
目の前には、憲法の条文集。
四十九条。
五十条。
五十一条。
国会議員の三つの特権。
歳費受領権。
不逮捕特権。
免責特権。
受験生だったころ。
私はこれを、ただの暗記事項だと思っていました。
四十九条は歳費。
五十条は不逮捕。
五十一条は免責。
番号を覚える。
例外を覚える。
試験で間違えない。
それだけ。
でも。
今日、宮原さんが泣いていた。
国会議員の発言によって、商売を失いかけた。
その議員には、免責特権があった。
私は最初、ずるいと思いました。
どうして、あんなに人を傷つけても責任を問われないんだろう。
でも。
もし国会議員が、発言のたびに訴えられることを恐れて、行政の不正を追及できなくなったら。
困るのは誰でしょう。
国民です。
もし政府が、反対派の議員を逮捕して国会から排除できたら。
困るのは誰でしょう。
国民です。
もし議員の仕事が無給で、資産家しか政治に参加できなくなったら。
困るのは誰でしょう。
やっぱり国民です。
「……そういうことか」
私は呟きました。
国会議員の特権。
議員が偉いから与えられているのではない。
国民の代表として、権力を監視し、自由に議論し、国会の仕事を続けるため。
そのための特別な保障。
でも。
だからといって、議員の言葉が全部正しくなるわけではない。
免責されることと、正しいことは違う。
逮捕されないことと、無罪であることも違う。
歳費を受けることと、何もせずにお金をもらってよいことも違う。
すべて、目的がある。
すべて、限界がある。
私は憲法のページを指でなぞりました。
「こはる」
片桐所長が声をかけました。
「はい」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
「特権って、本人のためだけにあるんじゃないんですね」
「うん」
「国会議員を守ることで、国民の代表機関を守っている」
「そうだ」
「でも、その特権があるからといって、ほかの国民の権利を踏みにじっていいわけじゃない」
片桐所長は、静かに頷きました。
「そこを忘れるな」
私は笑いました。
「はい」
すると。
相馬先輩が、奥から新聞を持ってきました。
「おい、こはる」
「何です?」
「国会議員には歳費受領権があるんだよな」
「ありますね」
「俺にもないのか」
「……はい?」
「毎月、国から金もらえる権利」
「先輩、国会議員じゃないでしょう」
「仕事はしてるぞ」
「国会の仕事じゃありません」
「じゃあ、不逮捕特権は」
「ありません」
「免責特権は」
「ありません」
相馬先輩が眉をひそめました。
「何だよ。不公平だな」
「いやいや、何に使うつもりですか」
「所長に文句を言っても責任を問われない特権」
「それは欲しいですね」
思わず同意してしまいました。
そこへ。
「相馬」
片桐所長の声。
「何だ」
「明日の朝、倉庫を片付けろ」
「何で俺が」
「仕事だ」
「俺には免責特権が――」
「ない」
「即答かよ」
私は吹き出しました。
「先輩」
「何だよ」
「特権が欲しかったら、選挙に出てください」
「面倒くせえ」
「じゃあ諦めてください」
「お前はどうなんだ」
「私?」
「将来、国会議員になる気はねえのか」
私は少し考えました。
国会議員。
不逮捕特権。
免責特権。
歳費受領権。
確かに魅力的に聞こえる部分もあります。
でも。
「やめておきます」
「何でだ」
「だって」
私は笑いました。
「特権をもらう代わりに、全国民の代表として仕事をする責任があるんでしょう?」
相馬先輩が黙りました。
「私、まだ一人の相談者の問題を解決するだけで精いっぱいです」
片桐所長が、ほんの少し口元を緩めました。
「それでいい」
窓の外では、夕暮れの町に灯りがともり始めていました。
この町からも、国会議員が選ばれています。
誰かの一票で選ばれた人が、遠い東京の国会で発言する。
その発言を守る憲法がある。
そして。
その言葉によって傷ついた一人の市民を、別の条文で守ろうとする憲法もある。
どちらも同じ憲法です。
昭和二十一年に公布されてから、一字一句変わっていない日本国憲法。
条文は同じ。
でも、その条文をどう使うかで、人の運命は変わる。
今日。
宮原さんは、商売を続けられることになりました。
国会議員の特権を奪うことなく。
国会の自由を傷つけることなく。
行政の判断だけを、あるべき場所へ戻した。
それが、私たちの仕事でした。
「こはる」
「はい」
「倉庫の整理、手伝え」
相馬先輩が言いました。
「えっ、私もですか?」
「見習いだろ」
「私には、休憩する権利が――」
「そんな特権はねえ」
「労働条件の問題です!」
片桐所長が静かに帳簿を閉じました。
「二人とも」
「はい」
「終わったら、宮原さんのところへ寄ってこい」
「え?」
「産業祭の準備状況を確認しておけ」
私は頷きました。
「はい!」
相馬先輩がにやりと笑います。
「試食も確認するか」
「先輩、それは職務ですか」
「当然だろ」
「公私混同ですよ」
「現場確認だ」
「食べたいだけでしょう!」
相馬先輩は、まったく悪びれません。
どうやら、この事務所にも一つだけ、憲法に書かれていない特権があるようです。
――相馬先輩の、試食品受領権。
もちろん。
そんな権利は、憲法のどこを探しても存在しません。
でも。
誰かが安心して漬物を売れる町なら。
その漬物を、おいしいと言って食べられる明日があるなら。
私は、そんな当たり前の毎日を守るために、法律を使いたいと思いました。
憲法は、偉い人だけのものではない。
偉い人に特権を与えるときでさえ。
最後に守ろうとしているのは、国民なのです。
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