[憲法・議院の権能]法理編 こはるノート
権力には、二つの顔があります。
国民を守るために使われる顔。
そして。
国民を傷つけるかもしれない顔。
同じ権力でも、使い方を間違えれば、正義は簡単に理不尽へ変わります。
だから憲法は。
権力に武器を与えると同時に、その武器を振り回してはいけない範囲まで決めているのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
窓から差し込む西日が、机の上の六法全書を赤く染めていました。
私は一冊のノートを開きます。
表紙には大きく、
――こはるノート。
その下に、今日のテーマ。
――議院の権能。
「……よし」
私は鉛筆を握りました。
今日こそ、憲法の条文をきちんと理解します。
昨日までの私は、国政調査権なんて、国会議員がテレビで偉そうに質問するための制度だと思っていました。
もちろん、それだけではありません。
藤村縫製の一件。
国の補助金に関する調査をきっかけに、市役所が企業から資料を集めようとした事件です。
補助金の購入記録。
納品書。
領収書。
そこまでは分かる。
ところが市は、従業員全員の住所や給与記録、扶養家族に関する情報まで広く求めました。
しかも。
国政調査への協力だから、と。
国会の名前を出されてしまえば、普通の人は逆らいにくい。
でも。
調査する権限があることと、何でも調べていいことは違います。
私たちは憲法十三条と六十二条を根拠に、資料収集の必要性と範囲を整理した意見書を提出しました。
結果。
市役所は依頼内容を見直し、補助金と無関係な個人情報については、一律の提出を求めない方針に改めました。
国会の調査を止めたわけではありません。
国会の権限を否定したわけでもありません。
ただ。
調査に協力することと、必要のない情報まで差し出すことを区別した。
その一件が、今日は教材になります。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日は議院の権能です」
「勝手にやれ」
「一緒に復習してください」
「嫌だ」
「また即答ですか」
「俺はお前の家庭教師じゃねえ」
私は奥の机へ顔を向けました。
「所長」
「付き合え」
片桐所長が帳簿から顔も上げずに言いました。
相馬先輩が黙ります。
「……所長の命令って絶対なんですか」
「業務命令だ」
「これ、勉強会ですよね」
「見習いの教育も業務だ」
強い。
これが事務所の最高機関。
いや、最高機関というより、事務所の独裁者では?
私は心の中でそう思いましたが、口には出しませんでした。
生命と自由を守るための危機管理です。
「じゃあ、まず基本から」
私はノートに書きました。
――議院の権能。
議院とは。
衆議院と参議院のこと。
国会には二つの議院があります。
この二つは、何もかも国会全体で一緒に決めるわけではありません。
それぞれが独立して行使する権限もあります。
「今回の重要事項は二つです」
私は指を二本立てました。
「一つ、議院の自律権」
「うん」
「二つ、国政調査権」
「うん」
「この二つを区別する」
相馬先輩が煙草を取り出しました。
「で、違いは?」
「議院の自律権は、議院の内部について自分たちで決める力です」
「じゃあ国政調査権は?」
「国政について調べる力です」
「簡単だな」
「最初は簡単なんです」
問題は、この先。
私はノートに二本の矢印を書きました。
議院の自律権。
――内部を自分たちで決める。
国政調査権。
――国政を調べ、監視する。
「ところで先輩」
「何だ」
「自律権の『自律』って、この字です」
私は『律』に丸をつけました。
「自分を律する。自分たちの内部ルールを自分たちで決めるという意味です」
「それがどうした」
「自分で立つ『自立』とは、少し意味が違います」
「漢字の勉強かよ」
「行政書士試験では、漢字一文字でも意味が変わりますから」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「お前、細かいところはよく見てるな」
「褒めました?」
「気のせいだ」
はい。
今日も始まりました。
「まず、議院の自律権です」
私はページをめくりました。
憲法五十五条。
憲法五十八条。
この二つが中心になります。
「議院の自律権には、代表的なものが四つあります」
「言ってみろ」
相馬先輩が腕を組みます。
私は指を折りました。
「議員の資格争訟裁判」
「うん」
「役員の選任」
「うん」
「議員の懲罰」
「うん」
「議院規則の制定」
「よし」
四つ。
たった四つです。
でも。
試験問題は、この四つを微妙に入れ替えてきます。
まず、資格争訟裁判。
「先輩。国会議員に、資格がない疑いが生じたらどうします?」
「選挙管理委員会に聞く」
「それは選挙の管理や選挙の効力を争う場面なら関係しますけど、今日の問題とは別です」
「じゃあ何だ」
「憲法五十五条です」
私は六法全書を開きました。
――両議院は、各々その議員の資格に関する争訟を裁判する。
「ここです」
例えば。
ある衆議院議員について、議員としての資格を満たしていないのではないかという争いが起きた。
その議員の資格について、衆議院自身が判断する。
参議院議員なら、参議院自身。
「つまり、自分の議院の議員の資格については、自分たちで裁判するんです」
「内輪で決めるのか」
「そうです。でも、好き勝手に議席を奪えるわけではありません」
ここが重要。
私は大きな字で書きました。
――議席を失わせるには、出席議員の三分の二以上。
「三分の二?」
相馬先輩が聞き返しました。
「はい」
「過半数じゃ駄目なのか」
「駄目です」
例えば。
出席議員が三百人いたとします。
ある議員の資格を争った結果、議席を失わせようとする。
その場合。
出席議員の三分の二以上。
つまり二百人以上の賛成が必要です。
「厳しいな」
「厳しくしてあるんです」
「なぜだ」
「簡単に議席を奪えたら、少数派の議員を排除できてしまうからです」
ここで私は、少し手を止めました。
議員の議席。
それは単に、その人の仕事ではありません。
その議員を選んだ有権者の意思とも結びついています。
だから。
多数派が気に入らない議員を簡単に追い出せるようでは、議院の自律権が、少数派を潰す道具になってしまう。
「なるほどな」
相馬先輩が言いました。
「自分たちで判断できるが、重い決定には厳しい条件がある」
「そうです」
私は頷きました。
「ただし、資格争訟裁判と選挙そのものの有効性を争う裁判は別です」
「また罠か」
「はい。議員の資格に関する争訟だから、何でも議院が裁判するわけじゃありません」
相馬先輩が肩をすくめました。
「憲法は油断ならねえな」
「本当に」
「次。役員の選任です」
憲法五十八条一項。
――両議院は、各々その議長その他の役員を選任する。
「これは分かりやすいですね」
私は言いました。
「衆議院の議長は衆議院で選ぶ。参議院の議長は参議院で選ぶ」
「総理大臣が指名するわけじゃねえんだな」
「そうです」
「内閣が決めるわけでもない」
「はい」
なぜか。
考えてみれば当然です。
もし内閣が衆議院や参議院の議長を自由に決められるなら。
国会が内閣を監督するとき、その監督される側が議院の運営に介入できてしまいます。
それでは困る。
議院の独立性が弱くなるからです。
「議長のほかにも、副議長や委員長などの役員がいます」
「委員会って、国会の中で仕事を分担するところか」
「そうです」
法律案を詳しく審査したり。
行政の仕事を調べたり。
特定の問題について議論したり。
国会は、そうした委員会を通じて多くの仕事を進めます。
その役員についても、各議院の仕組みに従って選任する。
「ただし」
私は付け加えました。
「役員の選任と解任の具体的なルールは、憲法だけでなく国会法などにも定めがあります」
「また下の法律か」
「そうです。憲法は基本の骨組みを決めて、細かな手続は国会法や議院規則で定めるんです」
私はノートに小さく書きました。
――役員を選ぶのは各議院。内閣ではない。
「次は懲罰です」
私は鉛筆を持ち直しました。
憲法五十八条二項。
議院は、院内の秩序を乱した議員を懲罰することができます。
「先輩」
「何だ」
「国会議員が会議中に暴れて、議事を妨害したら?」
「追い出せ」
「乱暴ですね」
「暴れてんだろ」
「まあ、そうなんですけど」
議院には、秩序を守る必要があります。
議論をするための場所なのに、誰かが議事を妨害し続けたら、国会の仕事が進みません。
そこで懲罰。
国会法上の懲罰には、代表的に四種類があります。
戒告。
陳謝。
一定期間の登院停止。
除名。
「一番重いのは?」
相馬先輩が聞きました。
「除名です」
「じゃあ必要な賛成は?」
「出席議員の三分の二以上」
「さっきと同じか」
「そうです!」
私は勢いよく頷きました。
ここ。
重要です。
憲法五十五条。
資格争訟裁判で議席を失わせる。
出席議員の三分の二以上。
憲法五十八条二項。
懲罰として議員を除名する。
出席議員の三分の二以上。
「二つとも三分の二なんですね」
「ああ」
「でも、理由が違います」
「どう違う」
「資格争訟は、議員としての資格をめぐる争い。懲罰は、院内の秩序を乱した行為への制裁です」
結果として議席を失う場合でも、制度の目的が違う。
ここを混同すると危険です。
「ちなみに」
私は続けました。
「普通の戒告や陳謝などの懲罰全部に、三分の二以上が必要なわけではありません」
「三分の二が必要なのは?」
「除名です」
「そうだ」
試験問題で。
『議院が議員を懲罰するには、常に出席議員の三分の二以上の賛成が必要である』
なんて書かれたら。
誤り。
除名の場合に特別多数が必要なのです。
「これも多数派による濫用を防ぐ仕組みですね」
私が言うと、片桐所長が頷きました。
「そうだ」
私はふと思いました。
議院の自律権というと、国会の中の問題だから国民には関係ないように感じます。
でも。
議員が追い出されるということは、その議員を選んだ国民の代表が失われることでもある。
だから憲法は、簡単にできないようにしている。
なるほど。
自律権は単なる議院の特権ではありません。
民主主義を守るための仕組みでもあるのです。
「四つ目。議院規則です」
私は書きました。
憲法五十八条二項。
各議院は、会議その他の手続及び内部の規律に関する規則を定めることができます。
「議院規則?」
相馬先輩が言いました。
「議員規則じゃねえのか?」
「違います!」
私は思わず鉛筆を振りました。
「ここ、漢字の罠です!」
「またかよ」
「議員ではなく、議院です!」
議員。
国会議員という人。
議院。
衆議院や参議院という組織。
議院規則は、議院が内部の手続や規律を定める規則です。
「例えば、会議の進め方や内部の手続に関するルールですね」
「国会法とは違うのか?」
「違います」
国会法は法律です。
議院規則は、それぞれの議院が内部の手続について定める規則です。
もちろん、法律や憲法との関係を無視して、どんな内容でも自由に決められるわけではありません。
でも。
内閣が勝手に衆議院規則を作るわけではない。
衆議院と参議院が共同で一つの規則を作らなければならないわけでもない。
それぞれの議院が、自主的に定められる。
「つまり」
私はノートを見直しました。
「議院の自律権は、外部からの不当な干渉を防ぎ、各議院の自主性を守るためにある」
片桐所長が頷きました。
「そこが本質だ」
「はい」
「ただし」
所長が続けます。
「自律と無制限を混同するな」
私は顔を上げました。
「自分たちで決められるから、何でも許されるわけじゃない」
「そうだ」
昨日の事件が思い浮かびました。
権限がある。
だから何でもできる。
その発想が危険なのです。
「では、ここから本題です」
私はノートに大きく書きました。
――憲法第六十二条。
国政調査権。
相馬先輩が椅子に深く座りました。
「昨日の藤村さんの件だな」
「はい」
私は六法全書を開きました。
憲法六十二条。
――両議院は、各々国政に関する調査を行ひ、これに関して、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる。
「まず、ここです」
私は『各々』に線を引きました。
「衆議院と参議院は、それぞれ国政調査権を持っています」
「国会全体で一回だけ調査するわけじゃない」
「そうです」
次に。
国政調査権は何のためにあるのか。
「立法や行政監督など、国会の仕事を適切に行うためです」
「具体的には?」
「法律を作るために実態を調べたり、行政が適切に動いているか確認したりします」
「昨日の補助金問題だな」
「はい」
国が補助金を出した。
そのお金が正しく使われているのか。
制度に欠陥はなかったか。
行政機関はきちんと監督していたか。
そうしたことを国会が調べる。
「国政調査権って、法律を作るためだけなんですか?」
私は自分で問いを立てました。
相馬先輩が答えます。
「違うだろ」
「はい」
国政調査権の性質については、学説上、立法権などの国会の権能を補助するものと捉える考え方と、より独立性を重視する考え方などがあります。
ただし。
試験でまず押さえるのは。
国会が国政全般について、必要な調査を行う権限を持っていること。
そして。
その権限も、司法権の独立や人権などによる制約を受けること。
ここです。
「つまり」
相馬先輩が言いました。
「調査できる範囲は広い。だが、やり方は無制限じゃない」
「そのとおりです」
私は大きく丸をつけました。
「じゃあ先輩。国政調査権の対象になるか、問題を出します」
「またか」
「第一問」
私は鉛筆を持ちました。
「国が補助金を出した公益法人の活動について、国会が調査することはできますか?」
「できる」
「正解です」
一般行政に対しては、国会による民主的統制の必要性が強く働きます。
行政機関の監督下にある公益法人などの活動も、国政と関係する範囲で調査対象となり得ます。
つまり。
役所だけではありません。
行政の仕事と関係する団体の活動にも、国政調査が及ぶことがある。
「次」
私は続けました。
「裁判所が出した判決について、国会が『気に入らないから判決を変えろ』という目的で裁判官を追及する調査は?」
「駄目だろ」
「正解です」
司法権の独立。
憲法七十六条。
裁判官は、憲法と法律に従って独立して職権を行使します。
「国会って、国権の最高機関ですよね」
「ああ」
「でも裁判所の判断に、好き勝手に介入していいわけじゃない」
「当然だな」
例えば。
ある裁判が進んでいる。
国会がその裁判について調査を始める。
そこで。
裁判官に対して、特定の被告人を有罪にしろと圧力をかける。
そんなことは許されません。
「じゃあ」
相馬先輩が聞きました。
「裁判中の事件に関係することは、国会は一切調べられないのか?」
「そこが罠です」
私は鉛筆を立てました。
裁判中の事件に関係する事項でも。
裁判所の判断に介入するためではなく、立法や行政監督などの独自の目的で調査することは、許される余地があります。
例えば。
ある工場事故について裁判が進んでいる。
国会が、事故の原因となった安全制度や行政監督の不備を調べる。
これはどうでしょう。
「裁判所に有罪にしろって言うわけじゃねえ」
「はい」
「安全制度を調べるなら、別の目的だ」
「そのとおりです」
もちろん。
目的が別でも、裁判官の独立した判断を害するような方法は許されません。
要するに。
同じ事件に関係している。
ただそれだけで、国政調査が全部禁止されるわけではない。
問題は。
目的と方法。
そして司法権の独立への影響です。
「これ、昨日と同じですね」
私は呟きました。
「何がだ」
「補助金を調べること自体は正しい。でも、資料の集め方には限界がある」
調査目的と調査方法を分けて考える。
ここが大事なのです。
「次。検察権です」
私は見出しを書きました。
――検察権と国政調査権。
「検察って、犯罪を捜査したり、起訴したりするところですよね」
「ああ」
「では国会が、検察の仕事を調査することはできますか?」
相馬先輩は少し考えました。
「検察は行政機関だから、基本的にはできる」
「正解です」
検察事務は、行政作用としての性質を持っています。
だから。
検察の運営が適切か。
捜査や起訴・不起訴の運用に問題がないか。
そうした事項は、原則として国政調査の対象となり得ます。
「でも」
私は続けました。
「検察は裁判と密接に関係します」
「だから慎重にやらなきゃならねえ」
「そうです」
ここで、三つの注意点。
私はノートに書きました。
目的。
対象。
方法。
「昨日も同じ言葉が出てきましたね」
「そうだな」
まず目的。
検察に対して、特定の事件を起訴しろ、あるいは不起訴にしろと政治的圧力をかける目的の調査。
これは許されません。
次に対象。
起訴された事件に直接関係する事項について、裁判の判断に干渉するような調査。
これも問題です。
そして方法。
捜査の続行に重大な支障を及ぼすような調査方法。
これも許されません。
「つまり」
私は整理しました。
「検察の仕事だから全部調べられない、ではない」
「うん」
「行政作用だから全部自由に調べられる、でもない」
「うん」
「司法権の独立や捜査への影響を考えて、目的・対象・方法を慎重に見る」
相馬先輩が頷きました。
「それなら分かりやすい」
「よかったです」
私はふと思いました。
現代の受験生だった頃。
私はこの部分を、三つの単語で暗記していました。
目的。
対象。
方法。
でも。
今なら意味が分かります。
政治家が検察を自由に動かせたら。
気に入らない相手だけ起訴させることも。
味方だけ不起訴にさせることも。
そんな危険が生じる。
国政調査権は、検察を適切に監視するために使うべきもの。
検察を政治の道具にするための権限ではない。
「なるほど……」
私は呟きました。
「何だ」
「国政調査権って、権力を監視する権力なんですね」
「そうだな」
「だから、その調査権自体が暴走しないように、また制限が必要になる」
相馬先輩が笑いました。
「権力を監視する奴も、監視されなきゃならねえってことだ」
「ですね」
私はノートに小さく書きました。
――監視する権力にも、限界がある。
「次は一般行政権です」
ここで、私は昨日の藤村縫製の事件を思い出しました。
国の補助金。
市の産業振興事業。
事業の適正な実施。
これらは、行政活動に関する問題です。
「司法権や検察権と比べると、一般行政に対する国政調査権は広く認められます」
「なぜだ」
「行政を民主的にコントロールする必要があるからです」
内閣は行政権を担当します。
国会は法律を制定し、予算を議決します。
そして、行政が適切に仕事をしているか監視することも重要です。
そのためには、情報が必要になる。
何が行われているのか。
どれだけのお金が使われたのか。
政策が機能しているのか。
誰がどんな判断をしたのか。
国会がそれらを調べられなければ、行政を監視することは難しくなります。
「藤村さんの件も」
私は言いました。
「国会が市の補助金事業を調べようとしたこと自体は、正当な調査でした」
「ああ」
「市の補助事業は、国の補助金の執行と関係していましたから」
「そうだな」
「だから私たちも、国会の調査をやめろとは言わなかった」
むしろ。
必要な調査には協力する。
補助金の不正があれば、きちんと調べる。
そこは大切です。
ただし。
「調査する権限があることと、どんな資料でも無条件に集めていいことは違う」
「昨日の結論だな」
「はい」
ここで私は、ノートの余白に線を引きました。
国政調査権は広い。
しかし無制限ではない。
一般行政には広く及ぶ。
しかし人権を不当に侵害することは許されない。
「試験で狙われそうですね」
「間違いなくな」
相馬先輩が答えました。
「『一般行政に対する国政調査権には、いかなる制限もない』」
「誤りです」
「即答か」
「そこはもう間違えません」
「最後。人権です」
私は少し姿勢を正しました。
ここが、今回の事件の一番大事なところ。
――国政調査権と人権。
憲法六十二条は、国会に調査権を与えています。
でも。
国民の権利や自由を不当に侵害する方法で、その権限を行使してはいけません。
「先輩」
「何だ」
「国会が調査するためなら、普通の人の私生活まで全部調べていいと思いますか?」
「いいわけねえだろ」
「ですよね」
例えば。
国の補助金を受けた会社について、国会が調査する。
そのために、補助金の申請書や設備購入の記録を調べる。
これは合理的です。
では。
その会社で働く従業員の住所。
家族構成。
病歴。
交友関係。
補助金と無関係な私生活上の情報まで、一律に提出させる。
これはどうでしょう。
「必要性を説明できなきゃ問題だな」
「そうです」
私は頷きました。
「ここで憲法十三条が関係します」
憲法十三条。
個人の尊重。
幸福追求権。
そして、判例上保護される私生活上の自由やプライバシーに関わる利益。
ただし。
プライバシーに関わる情報だから、絶対に提出させられないわけではありません。
法律上の根拠があるか。
調査目的との関連性があるか。
必要な範囲に限定されているか。
権利への制約が不当に過大ではないか。
そうした事情を考える必要があります。
「昨日の藤村さんの件で言えば」
私は整理しました。
「国会が正式に求めていたのは、補助事業の執行状況に関する資料でした」
「うん」
「ところが市役所は、国会の照会に対応するため、従業員の個人情報を含む資料まで広く提出依頼していた」
「そうだ」
「だから私たちは、国会の調査権そのものを否定したわけじゃない」
「うん」
「市の資料収集が、必要な範囲を超えていないかを問題にした」
所長が頷きました。
「そこを間違えるな」
「はい」
「国会の正式な証人喚問と、市が独自に出した協力依頼も区別する」
「そうですね」
憲法六十二条に基づく国政調査では、証人の出頭や証言、記録の提出を要求できます。
その具体的な手続や罰則は、議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律などによって定められています。
正式な手続に基づく要求と、単なる任意の協力依頼。
同じ『資料を出してほしい』でも、法的な意味は違います。
「そこを曖昧にしてしまうと」
私は言いました。
「普通の人は、断れないと思ってしまいます」
「藤村さんがそうだったな」
「はい」
国会から呼び出されるかもしれない。
国政調査の妨害になるかもしれない。
そう言われて。
自分の会社だけでなく、従業員の生活まで危険にさらされると思っていた。
でも。
正式な法的義務なのか。
任意の協力なのか。
何を、どこまで求められているのか。
それを整理したことで、対応の仕方が見えました。
「法律って」
私は呟きました。
「強い人に逆らうためだけのものじゃないんですね」
相馬先輩がこちらを見ました。
「どういう意味だ」
「何が義務で、何が任意なのか。それをはっきりさせるだけで、人は必要以上に怖がらずに済むんです」
所長が静かに頷きました。
「そうだ」
憲法の仕事は。
いつも大げさな違憲判決を出すことではありません。
役所が権限を越えそうになったとき。
その一歩を止める。
それだけで、守られる暮らしがあります。
ここで。
私はノートの最初のページへ戻りました。
――議院の自律権。
――国政調査権。
「所長」
「何だ」
「この二つ、別々の権限ですけど、共通する考え方がありますね」
「言ってみろ」
私は少し考えました。
「ほかの国家機関から不当に干渉されないこと。そして、自分の権限を適切に使うことです」
所長は頷きました。
「悪くない」
議院の自律権。
衆議院と参議院が、それぞれ内部のことを自主的に決める。
これは議院の独立性を守る仕組みです。
国政調査権。
国会が行政などについて情報を集め、監視する。
これは国会による民主的統制を支える仕組みです。
どちらも。
国会の働きを守るためにある。
しかし。
どちらも無制限ではない。
「憲法って、面白いですね」
私は言いました。
「今さらか」
相馬先輩が笑います。
「受験生の頃は、国会のところが一番つまらなかったんですよ」
「何でだ」
「条文ばっかりで、数字も多くて」
「今もそうだろ」
「でも、今は人が見えるんです」
藤村和枝さん。
小さな縫製工場。
働く十二人。
その生活を守ろうとして、国政調査という言葉に怯えていた。
国会の権限という、大きな話。
それが、小さな町の工場まで届く。
そのとき。
権力を正しく使うことが、どれほど大切か。
私は少しだけ理解できた気がしました。
「ところで」
相馬先輩が口を開きました。
「お前、さっき憲法の条文は未来でも同じだって言ってたな」
「はい」
「本当か?」
「本当です」
私は頷きました。
「日本国憲法は、昭和二十一年に公布されてから、現代に至るまで一度も改正されていません」
「へえ」
「条文そのものは同じです」
「じゃあ法律の勉強は楽だな」
「ところが、そうでもないんです」
「何でだ」
「条文が同じでも、社会が変わるからです」
私は窓の外を見ました。
昭和六十三年。
この時代には、この時代の常識があります。
役所には逆らわない。
国の仕事には協力する。
周囲の人と違うことを言わない。
もちろん、すべての人がそう考えているわけではありません。
でも。
現代よりも、地域の慣習や組織の上下関係が重く感じられる場面があります。
「藤村さんも、最初は『国会の調査だから仕方ない』って思っていました」
「ああ」
「でも、そのまま全部出してしまったら、従業員の個人情報まで必要以上に渡していたかもしれません」
「そうだな」
「条文は同じなのに、その条文で守られる権利を、どこまで意識できるかが違う」
相馬先輩が頷きました。
「だから法律屋が要るんだろ」
「はい」
昭和の社会にも、個人の尊重という考え方はあります。
憲法十三条もあります。
プライバシーに関する判例もあります。
ただ、それらの考え方が社会にどう浸透し、どのように運用されるかは、時代とともに変わっていきます。
現代では、個人情報の保護やプライバシーへの関心がより広く制度化されています。
しかし。
ここは昭和六十三年。
未来の法律や制度を、そのまま使うことはできません。
だからこそ。
この時代に存在する憲法と判例を使い、権利を守る理屈を組み立てる必要がある。
「所長」
「何だ」
「憲法って、古い法律なのに、新しい問題にも使えるんですね」
「そうだ」
「不思議です」
「不思議でも何でもない」
所長が言いました。
「憲法は、その時代の流行を決めているわけじゃない」
「……はい」
「国家権力が何をできて、何をしてはいけないか。その基本を決めている」
私は黙って聞きました。
「社会が変わっても、人が権力に怯えることはある」
「はい」
「だから基本を忘れるな」
私は頷きました。
憲法。
最高法規。
その意味が、少しずつ分かってきます。
「じゃあ、最後に確認問題だ」
相馬先輩が言いました。
「えっ」
「お前ばっかり俺に問題を出すな」
「分かりました」
「第一問」
先輩は煙草をくわえました。
「衆議院が、参議院議員の資格争訟裁判をすることはできるか?」
「できません。各議院が、それぞれ自分の議員について判断します」
「正解」
「第二問」
「資格争訟で議席を失わせるには?」
「出席議員の三分の二以上の議決が必要です」
「第三問」
「議院が議員を除名する場合は?」
「これも出席議員の三分の二以上です」
「第四問」
「議院規則は、内閣が制定するか?」
「いいえ。各議院が、それぞれ制定します」
「第五問」
「国政調査権は、衆議院だけに認められているか?」
「いいえ。衆議院と参議院の両方に、それぞれ認められています」
「第六問」
「国会は、裁判所の判決を変更させる目的で、裁判官を追及する調査ができるか?」
「できません。司法権の独立を侵すからです」
「第七問」
「裁判中の事件について、国会は一切調査できないか?」
「いいえ。裁判への介入を目的とせず、司法権の独立を害しない範囲で、独自の目的による並行調査は認められ得ます」
「第八問」
「検察の仕事は、行政作用だから何でも自由に調査できるか?」
「いいえ。裁判との密接な関係に配慮し、目的・対象・方法に限界があります」
「第九問」
「一般行政については、広く国政調査を行えるか?」
「はい。民主的統制の必要性があるからです。ただし無制限ではありません」
「第十問」
「国政調査のためなら、国民の権利を不当に侵害してもいいか?」
「駄目です!」
私は即答しました。
「国政調査権にも、人権による限界があります!」
相馬先輩が黙りました。
「……十問全部正解か」
「はい!」
「つまんねえな」
「ひどい!」
私は笑いました。
でも。
嬉しい。
昨日まで、暗記項目だった単語たち。
議院の自律権。
国政調査権。
司法権の独立。
検察権。
一般行政。
人権。
それらが、ようやく一本の線でつながってきました。
私はノートの最後のページを開きました。
「今日のまとめです」
相馬先輩が言いました。
「長くするなよ」
「分かってます」
私は書きました。
議院の自律権。
――資格争訟・役員選任・懲罰・議院規則。
国政調査権。
――衆参それぞれが国政を調査できる。
国政調査権の限界。
――司法権の独立、検察権への配慮、人権保障。
「……三行じゃねえか」
相馬先輩が指摘しました。
「整理です!」
「一行の覚え書きは?」
「今からです」
私は少し考えました。
議院の自律権。
自分たちで決める。
国政調査権。
国政を調べる。
そして。
権力には限界がある。
全部を一行にする。
難しい。
「……よし」
私は鉛筆を走らせました。
――議院は自らを律し、国政を調べる。ただし、憲法の限界を越えてはならない。
「長いな」
相馬先輩が言いました。
「内容は完璧です」
「自分で言うな」
「じゃあ短縮版」
私はその下に、もう一行書きました。
――自律は内部、調査は国政。強い権限にも限界あり。
相馬先輩が頷きました。
「それなら覚えやすい」
「でしょう?」
所長も小さく頷きました。
「それでいい」
私は満足してノートを閉じました。
窓の外では、夕暮れの街に灯りがつき始めていました。
駅前を走るバス。
商店街の看板。
家路を急ぐ人たち。
そのどこかに、藤村縫製の工場があります。
今日もきっと、従業員たちはミシンを動かしているのでしょう。
機械の音。
布の匂い。
夕方の休憩時間。
家族のために働く人たち。
国会の調査という大きな仕組みは、そうした小さな暮らしにも届きます。
でも。
国会が調べるべきことを調べる。
行政は必要な範囲で協力する。
国民は不当に権利を侵害されない。
その線引きができれば。
権力は、人を怖がらせるだけのものではなくなる。
むしろ。
不正を防ぎ、制度を改善し、国民の生活を守る力になる。
私は机の上の六法全書に手を置きました。
憲法六十二条。
たった一つの条文。
でも。
そこには、国会が国政を調べるための強い権限がある。
そして、その権限は憲法全体の秩序の中で行使されなければならない。
調査される側も。
調査する側も。
同じ憲法の下にいる。
それが、立憲主義なのだと思いました。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「今日の仕事は終わったか」
「はい!」
「なら帰れ」
「はい!」
私はノートを鞄にしまいました。
そのとき。
相馬先輩が、机の上の紙を見て顔をしかめました。
「……おい」
「何です?」
「これ、何だ」
先輩が持っていたのは、私が書いた一枚の紙でした。
表題。
――片桐行政書士事務所・勤務実態調査票。
「……何だこれ」
「事務所の運営改善のための調査です」
「は?」
「所長から、最近、煙草休憩が多いって話が出ていたので」
「出てねえだろ!」
私は紙を指しました。
「業務効率を確認するため、休憩回数、休憩時間、仕事の進捗を記録していただこうかと」
「おい!」
「適正な事務所運営のためです」
「勝手に調査すんな!」
「でも先輩」
私はにっこり笑いました。
「調査権って、大事なんですよね?」
相馬先輩の顔が引きつりました。
「お前……」
「もちろん、必要な範囲で調べます」
「ふざけんな!」
私は真顔で言いました。
「国政調査権にも限界があるように、事務所の調査にも限界がありますから」
「ならやめろ!」
「それは所長が決めます」
相馬先輩が所長を見ました。
「所長! これ、どう思います!」
片桐所長は、ゆっくり帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「その調査票は?」
「私が作りました」
「誰の指示だ」
「……自主的に」
「業務上の必要性は?」
「事務所の適正な運営です」
「具体的には?」
「……先輩の煙草休憩が多いので」
「それなら、まず仕事の進捗を確認すればいい」
「……はい」
「余計な調査はするな」
「……はい」
所長は相馬先輩を見ました。
「相馬」
「はい!」
「仕事の進捗は?」
「……」
「帳簿は?」
「……まだです」
「終わらせろ」
「所長!」
相馬先輩が叫びました。
「俺の人権は!」
「人権は守る」
「じゃあ!」
「仕事はしろ」
私は吹き出しました。
相馬先輩がこちらを睨みます。
「笑うな!」
「すみません!」
「お前の調査権を停止しろ!」
「私は国会じゃありません!」
「知ってるよ!」
片桐所長が静かに言いました。
「二人とも、仕事をしろ」
私と相馬先輩は同時に黙りました。
どうやら。
片桐行政書士事務所では、議院の自律権も国政調査権も使えません。
もちろん。
事務所のルールを決めるのも、所長。
仕事を管理するのも、所長。
ただし、その権限にも法律上の限界はあります。
私は鞄からノートを取り出しました。
そして最後に、小さく一行だけ書き足します。
――どんな権力も、憲法や法律の外には出られない。
相馬先輩が覗き込みました。
「何書いてんだ」
「今日の本当の教訓です」
「見せろ」
「嫌です」
「見せろって」
「私のノートにもプライバシーがあります!」
「都合のいいときだけ憲法を使うな!」
夕暮れの事務所に、相馬先輩の声が響きました。
そして。
片桐所長が、ため息交じりに一言。
「……静かにしろ」
どうやら。
国会にも、行政にも、そしてこの事務所にも。
秩序というものは必要なようです。
ただし。
その秩序を守るためなら、何をしてもいいわけではない。
それだけは。
もう、忘れません。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




