[憲法・議院の権能]現場編 「国会の調査だから、全部差し出せ」の罠。憲法62条の強大な調査権と、国家権力でも踏み越えられない一線
正しいことを調べるためなら、何をしても許されるのでしょうか。
嘘を暴くためなら。
秘密を覗いてもいい。
不正を追及するためなら。
無関係な人の人生まで晒してもいい。
国のためなら。
個人の権利は、後回しにしてもいい。
――いいえ。
どれほど大きな権力にも、越えてはいけない線があります。
たとえそれが。
国権の最高機関である、国会の権限であっても。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「国会から呼び出されるかもしれないんです」
その日の相談者は、そう言って震える手で封筒を差し出しました。
「……国会?」
私は思わず聞き返しました。
「はい」
「東京の?」
「ほかに国会があるのかよ」
相馬先輩が煙草をくわえたまま言いました。
「確認です!」
封筒の差出人は、市役所。
中には二枚の紙。
一枚目。
――国政調査に係る資料提出への協力について。
二枚目。
――関係者事情聴取への協力依頼。
私は首をかしげました。
「これ、国会から直接来た書類じゃないですね」
「市役所からです」
「国政調査なのに?」
「そうなんです」
相談者は、三十九歳の女性でした。
名前は藤村和枝。
市内の小さな縫製工場で経理を担当していました。
工場の名前は、藤村縫製。
従業員十二人。
夫が社長。
和枝さんは帳簿と給与計算を担当しています。
問題が起きたのは、市の産業振興事業でした。
国の補助金を受け、市が地元企業に設備導入を支援する事業。
その事業で。
「補助金の使い方がおかしいって、前から噂があったんです」
「どうおかしいんです?」
「設備を買っていないのに、買ったことになっている会社があるとか」
私は顔を上げました。
「架空の設備購入?」
「そういう噂です。まだ本当かどうかは……」
和枝さんは慌てて付け加えました。
「うちの会社は、きちんと機械を買っています」
「はい」
「領収書もあります。納品書もあります。機械だって工場にあります」
「分かりました」
「でも……」
和枝さんは二枚目の紙を指しました。
そこには、こう書かれていました。
――国政調査への対応に必要なため、補助事業に関する会計帳簿、取引記録、従業員名簿、給与支払記録その他関係資料の提出に協力されたい。
「……従業員名簿?」
私は呟きました。
「給与支払記録まで?」
「はい」
「補助金で購入した設備と、どう関係するんですか?」
「私にも分かりません」
そして。
和枝さんの顔が曇りました。
「市役所では、これを断ると大変なことになるって」
「大変なこと?」
「国会の調査を妨害したことになるかもしれないって」
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。
「誰が言った」
「担当の方です」
「国会の正式な証人喚問か?」
「分かりません」
「出頭命令でも受けたのか?」
「いいえ」
相馬先輩が通知を持ち上げました。
「なら、まず市の協力依頼と、国会の正式な要求を分けろ」
「……違うんですか?」
「当たり前だ」
私はもう一度、紙を読みました。
なるほど。
書面には『協力依頼』とあります。
提出の根拠となる法律。
正式な要求主体。
要求された資料の具体的な範囲。
それらが、はっきり書かれていません。
「和枝さん」
片桐所長が静かに尋ねました。
「一番困っていることは何ですか」
和枝さんは少し迷いました。
そして、小さな声で答えました。
「従業員のことです」
「従業員?」
「うちには、家庭の事情を抱えて働いている人がいるんです」
話を聞くと、工場には母子家庭の女性が三人。
夫に勤め先を知られたくない事情のある女性も一人いる。
給与台帳には住所も載っている。
扶養家族の情報もある。
その全部を提出しろと言われた。
「もし名前や住所が外へ漏れたら……」
和枝さんは唇を噛みました。
「働いている人たちに、迷惑がかかります」
私は紙を見つめました。
国政調査。
国会。
証人。
記録の提出。
受験生だった頃。
この単語たちは、全部一枚の暗記カードに並んでいました。
憲法第六十二条。
両議院は、各々国政に関する調査を行い、証人の出頭、証言、記録の提出を要求できる。
はい、覚えました。
次。
そんな扱いでした。
でも。
今、目の前にいる女性は。
その『記録の提出』という言葉で、眠れなくなっている。
憲法。
全然、遠い話じゃない。
「国会って、そんなに偉いんですか」
和枝さんが尋ねました。
相馬先輩が答えます。
「偉いかどうかなら、国権の最高機関だ」
「じゃあ、断れないんでしょうか」
「それとこれとは別だ」
私は頷きました。
国会には、国政調査権があります。
政治を行う側が、本当に適切な仕事をしているのか。
税金が正しく使われているのか。
法律がきちんと機能しているのか。
そういうことを調べる力です。
そして今回は、国の補助金。
国政との関係は十分にありそう。
調査そのものをおかしいとは言えません。
「でも」
私は書面を持ち上げました。
「補助金の不正を調べるからって、何でも要求できるわけじゃないですよね」
相馬先輩がこちらを見ました。
「ほう」
「補助金の申請書。交付決定書。設備の購入記録。納品書。そういうものは分かります」
「うん」
「でも、従業員全員の住所や給与、家族の情報まで必要なんですか?」
「そこだ」
片桐所長が口を開きました。
「まず確認すべきことがある」
「何でしょう」
「誰が、何のために、どこまで要求しているか」
私は紙に三つの丸を書きました。
誰が。
何のために。
どこまで。
これが今日の鍵になりそうです。
市役所二階。
総務課。
「国政調査への対応ですか」
沢渡課長は、私たちが差し出した書面を見て、すぐに頷きました。
「産業振興事業の件ですね」
「ご存じで」
「ええ。国の補助事業ですから」
相馬先輩が椅子に座りました。
「資料提出の根拠を確認したい」
「協力依頼と書いてあります」
「だから聞いてるんだよ」
「何をです?」
「国会から市へ、正式に何を求められた?」
沢渡課長は手元の書類を開きました。
「衆議院の委員会から、事業の執行状況に関する資料照会が来ています」
私は思わず身を乗り出しました。
「衆議院!」
「ええ」
「参議院じゃなくて?」
「衆議院です」
国会には二つの議院があります。
衆議院。
参議院。
そして憲法六十二条の国政調査権は、両議院それぞれにある。
国会全体で一つだけ持っている権限ではありません。
「国会からの照会なら、市も慎重に対応しなければなりません」
沢渡課長が続けます。
「事業の透明性に疑義が生じている以上、関係資料を幅広く集める方針です」
「幅広く、ですか」
「ええ」
「給与台帳も?」
「必要に応じて」
「従業員の住所も?」
「資料に含まれていれば」
私は眉をひそめました。
「それ、必要性を確認したんですか」
「調査の目的は公的資金の適正な使用を確認することです」
「それは分かります」
「公共の利益に関わる問題です」
出ました。
公共の利益。
昭和の役所が好む言葉。
もちろん。
公共の利益は大切です。
補助金の不正があれば、追及するべきです。
でも。
それは個人の権利を無条件に押し潰していいという意味ではありません。
「課長」
私は言いました。
「国会の調査権って、無制限じゃありませんよね」
沢渡課長が眼鏡の奥で私を見ました。
「無制限だとは申し上げていません」
「では、従業員の住所まで必要な理由を教えてください」
「資料の関連性は、担当部署で確認しています」
「どう確認したんですか」
「……」
沈黙。
私は続けました。
「仮に、補助金の対象経費に人件費が含まれていたとしても、必要な項目を整理できるはずです」
「個別事情によります」
「はい。だから個別に確認したいんです」
相馬先輩が腕を組みました。
「沢渡さん。国会が本当にそこまで要求してるのか」
「要求の趣旨に沿って収集しています」
「趣旨じゃねえ。文面だ」
沢渡課長は少し考えました。
「正式な照会事項を確認しましょう」
そう言って、別の書類を取り出しました。
そこには。
――補助事業の交付先一覧、交付額、対象設備、事業実施状況及び補助金の執行確認に関する資料。
と書かれていました。
「……あれ?」
私は声を漏らしました。
「給与台帳は?」
沢渡課長が答えました。
「個別に列挙されてはいません」
「住所や家族情報も?」
「同様です」
相馬先輩が机を指で叩きました。
「国会が要求してねえものまで、市が先回りして集めてるってことか」
「必要な調査資料を準備する過程です」
「それは分かる」
片桐所長が静かに口を開きました。
「しかし、必要な範囲の検討を欠いたまま、民間企業に一律の提出を求める理由にはならん」
沢渡課長は反論しませんでした。
ただ、こちらを見ています。
「国政調査権は強い権限です」
沢渡課長が言いました。
「国会には行政を監視する責務がある。市が非協力的だと受け取られることも避けなければなりません」
「それはそうでしょう」
片桐所長が頷きます。
「だからこそ、正確に対応すべきです」
「正確に?」
「国会の要求と、市自身の追加調査を混同しないことです」
その瞬間。
沢渡課長の目が、少し細くなりました。
この人。
もう分かっている。
私たちが、どこを突こうとしているのか。
事務所へ戻る道で。
私はため息をつきました。
「難しいですね」
「何がだ」
「国会の権限を否定するわけにはいかない。でも、個人情報を全部出せとも言えない」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「だから仕事になるんだろ」
「もう少し優しい言い方ないんですか」
「世間の常識で決めるなら、法律屋なんか要らねえ」
そう。
昭和六十三年。
この町では、役所に逆らうこと自体が嫌われます。
国の調査だと言われたら、なおさらです。
みんなが協力している。
お前だけ拒むのか。
何か隠しているんじゃないのか。
そういう空気が、人を黙らせる。
和枝さんも同じでした。
書類を出したくないのは、不正があるからじゃない。
従業員を守りたいから。
でも、その理由さえ。
『非協力的』という一言で片付けられそうになっている。
「……憲法って」
私は呟きました。
「条文は今と同じなのに」
「何だ?」
「使われ方が、全然違う気がします」
昭和六十三年。
日本国憲法は、私がいた現代と一字一句同じです。
ところが。
その憲法の下で生きる人たちの感覚は、同じではない。
個人の権利。
プライバシー。
権力行使の必要性。
そうしたものを、どこまで丁寧に考えるか。
そこに時代の空気が入り込む。
ただし。
昭和だから人権を守る理屈が存在しない、というわけではありません。
憲法十三条もある。
昭和四十四年の京都府学連事件最高裁判決だって、すでにある。
個人の私生活に国家が無制限に踏み込めないという考え方は、この時代にもちゃんとあるのです。
そして、国政調査権にも限界がある。
「……所長」
「何だ」
「意見書、作らせてください」
「何について」
「国政調査権の限界と、市の資料提出依頼の適法性についてです」
所長が私を見ました。
「国会に喧嘩を売る気か」
「違います」
「なら?」
「国会の権限を守るためにも、その権限を理由にした市の行き過ぎを止めたいんです」
しばらく沈黙。
そして。
「書け」
片桐所長は、それだけ言いました。
その夜。
私は事務所の机に向かいました。
六法全書。
便箋。
資料。
鉛筆。
消しゴム。
昭和の調べ物は、本当に骨が折れます。
検索窓はありません。
判例データベースもありません。
分からないことがあったら、分厚い本を開くしかない。
「スマホが欲しい……」
「何だそれ」
相馬先輩が聞きました。
「未来の文明です」
「またか」
「一瞬で判例を探せる道具です」
「夢を見る前に本を読め」
「はい……」
私は憲法のページを開きました。
第六十二条。
国政調査権。
国会が持つ、強い調査権。
けれど。
強いからこそ、限界がある。
まず司法権。
裁判所の独立を侵してはいけない。
裁判官に対して、判決を変えさせる目的で調査することは許されない。
一方で。
同じ事件に関係する事項でも、立法や行政監督など別の正当な目的で、裁判を妨げず調査する余地はある。
次。
検察権。
犯罪捜査や起訴・不起訴も、行政作用として国政調査の対象になり得ます。
でも。
起訴させるために政治的圧力をかける。
係属中の起訴事件について、裁判所の判断に干渉するような調査をする。
捜査を重大に妨げる方法を取る。
そういうことは許されない。
そして。
一般行政。
補助金。
行政機関。
行政活動。
ここには国会の民主的統制が広く及ぶ。
今回の補助金事業は、まさにその領域です。
だから調査自体は正当。
でも。
最後の一つ。
人権。
「……ここだ」
私は鉛筆を止めました。
国政調査権があっても、国民の権利や自由を不当に侵害してはいけない。
国会だから何でもできる。
公共の利益だから個人は黙れ。
そんな仕組みにはなっていない。
まして今回は。
国会自身が正式に要求した範囲を超えて、市が独自に広げた資料収集です。
その適法性は、市自身の権限と根拠に照らして検討しなければならない。
「先輩」
「何だ」
「これ、単に『プライバシーが大事です』じゃ弱いですよね」
「弱いな」
「必要性と手段の問題ですよね」
「続けろ」
私は紙に書きました。
目的。
国費の適正使用の確認。
これは正当。
手段。
補助事業に関する記録の収集。
これも、必要な範囲なら合理的。
では。
従業員全員の住所。
扶養家族。
補助金と無関係な給与情報。
それらを一律に集める必要があるか。
代わりに。
対象設備の購入資料。
支払先。
会計帳簿の関係部分。
必要なら個人情報を伏せた資料。
そういう方法では駄目なのか。
目的が正しくても。
手段が過剰なら、問題になる。
「……見えてきました」
相馬先輩が椅子から立ち上がりました。
「もう一つ忘れんな」
「何です?」
「国会からの正式な出頭要求と、市のお願いは別物だ」
「あ」
「そこをごちゃ混ぜにしたら、役所の説明と同じになるぞ」
私は大きく頷きました。
憲法六十二条。
国会には証人の出頭や証言、記録の提出を要求する権限があります。
しかし。
市役所が『国政調査への協力』と書いた紙を出しただけで、民間人に国会の正式な証人としての義務が発生するわけではありません。
正式な要求なのか。
任意の協力依頼なのか。
その区別を曖昧にしてはいけない。
「先輩」
「何だ」
「これ、かなり重要ですね」
「当たり前だ」
私は意見書の最後に、一文を加えました。
――国政調査権の存在は、地方公共団体による無限定な資料収集を当然に正当化するものではない。
書けた。
と思ったところで。
「こはる」
片桐所長が後ろに立っていました。
「はい」
「見せろ」
私は意見書を渡しました。
所長は黙って読み進めます。
一枚。
二枚。
三枚。
そして赤鉛筆を取りました。
「ここ」
「はい」
「『市の要求は違憲である』と断定している」
「……駄目ですか?」
「事実がまだ足りん」
「あ」
「どの資料が必要か、個別の事情を確認していない。市がどの権限で何を強制しようとしているかも確定していない」
「そうですね」
「ならば、まずは違憲・違法の疑いを具体的に指摘しろ」
所長は一文を書き直しました。
――本件協力依頼について、必要性及び法的根拠の説明なく過度に広範な個人情報の提出を強いる運用は、憲法十三条の趣旨に照らして重大な疑義がある。
「……なるほど」
「憲法は、強い言葉を使えば勝てる道具じゃない」
所長が言いました。
「相手が越えた線を、正確に示す道具だ」
私は頷きました。
それから所長は、意見書の冒頭に赤線を引きました。
――本意見書は、国会の国政調査権そのものを否定するものではない。
「これを先に置け」
「はい」
「国会の権限と、市の資料収集を切り分ける。そこが崩れたら全部崩れる」
私はもう一度、書き直しました。
今度は。
感情ではなく。
理屈で。
翌日。
市役所総務課。
沢渡課長の机に、私たちは意見書を置きました。
「……憲法ですか」
沢渡課長が表紙を見ました。
「はい」
「国政調査の妨害を主張されるつもりですか」
「逆です」
私は答えました。
「国政調査に適切に協力するための意見書です」
沢渡課長がページをめくります。
相馬先輩が口を開きました。
「国会が補助金事業を調べること自体に文句はねえ」
「ええ」
「不正があるなら調べりゃいい。必要な記録なら出す」
「それが協力というものでしょう」
「だがな」
相馬先輩は意見書の一節を指しました。
「だからって、市が国会の名前を使って何でも集めていいことにはならねえ」
沢渡課長の手が止まりました。
「何でも集めているわけではありません」
「なら、必要性を示してくれ」
片桐所長が続けました。
「正式な照会事項と、市が追加で求めた資料を整理していただきたい」
「……」
「藤村縫製の補助金支出を確認するため、従業員全員の住所と家族情報が必要な理由もです」
沢渡課長は黙って意見書を読みました。
私は続けました。
「憲法六十二条の国政調査権は、国会が民主的統制を行うための重要な権限です」
「そのとおりです」
「でも、その調査によって人権を不当に侵害してはいけない」
「……」
「そして、今回の書面は市の協力依頼です。国会による正式な証人の出頭要求ではありません」
沢渡課長は眼鏡を直しました。
「それは承知しています」
「では」
私は一度、息を吸いました。
「和枝さんに『断ると国会の調査妨害になるかもしれない』と説明した点は、修正していただけますか」
沈黙。
沢渡課長は、すぐには答えませんでした。
代わりに手元の書類を開きました。
国会から届いた照会文書。
市の内部決裁。
各企業に送った協力依頼。
三つを並べました。
しばらくして。
「朝比奈さん」
「はい」
「ひとつ確認します」
「何でしょう」
「藤村縫製は、補助対象設備の購入記録を提出する意思がありますか」
「あります」
「会計帳簿の関連部分も?」
「あります」
「必要に応じて、市の担当者による設備の現物確認にも協力できますか」
「本人と調整しますが、協力する意向です」
沢渡課長が頷きました。
「では、調査目的そのものについて争いはないわけですね」
「ありません」
「問題は資料の範囲と、協力依頼の説明方法」
「はい」
沢渡課長は、静かに息を吐きました。
「……担当課へ確認します」
私は思わず身を乗り出しました。
「見直していただけるんですか?」
「必要なら」
「本当ですか」
「ただし」
沢渡課長がこちらを見ました。
「あなた方の意見書にも、一つ注意していただきたい」
「はい」
「国政調査権には限界がある。しかし、個人情報が含まれているからというだけで、すべて提出不要になるわけではありません」
「……はい」
「適法な手続に基づき、調査のために必要な情報が要求されることはあります。そこは混同しないでください」
私は頷きました。
そう。
個人情報だから絶対に出さない。
ではありません。
調査だから全部出す。
でもない。
どの権限に基づき。
何のために。
どこまで必要なのか。
それを確認する。
そこが法律の仕事です。
「課長」
片桐所長が尋ねました。
「正式な照会文書には、全従業員の住所等を求める記載はないですね」
「ありません」
「市独自の依頼を、国会の要求と誤解させる説明は避けるべきでしょう」
沢渡課長は少し考えました。
そして。
「その点については異論ありません」
はっきり答えました。
私は驚きました。
もっと抵抗するかと思った。
でも。
沢渡課長は感情で負けを認める人ではありません。
判断が合理的でないと分かれば、修正する。
それがこの人の強さです。
「担当課には、照会事項との対応関係を確認させます」
「お願いします」
「また、任意の協力依頼であることが明確に伝わるよう、文面と説明を見直します」
相馬先輩が小さく笑いました。
「話が早いじゃねえか」
「不必要な紛争を増やすことに、行政上の利益はありませんので」
「相変わらずだな」
「合理的と言っていただければ」
沢渡課長は表情を変えませんでした。
ただ、最後にこう言いました。
「国会の調査を適切に支えるには、市自身の対応も適切でなければならない。それだけです」
なるほど。
敵なのに。
言うことが正論すぎる。
ところが。
話はそれで終わりませんでした。
三日後。
市役所から電話がありました。
『片桐先生はいらっしゃいますか』
沢渡課長です。
所長が受話器を取りました。
短いやり取りのあと、私たちを呼びます。
「こはる。相馬」
「はい」
「どうしました」
「国会からの追加照会が来たそうだ」
私は身構えました。
「追加?」
「ああ」
「また資料ですか」
「今度は、市の補助金審査の仕組みについてだ」
つまり。
国会は、個々の企業の帳簿だけでなく。
市がどうやって補助金の申請を審査し、
どうやって交付を決め、
どうやって不正を防いでいたのか。
その仕組みを調べようとしている。
「……あ」
私は気づきました。
「それって」
「何だ」
「国会が行政を監視してるってことですよね」
「そうだ」
国政調査権。
行政を民主的にコントロールするための権限。
だから。
補助金の交付を受けた企業だけでなく、その制度を運営する行政側にも目が向く。
そこが重要なのです。
「国会の調査って」
私は呟きました。
「単に悪い人を探す仕組みじゃないんですね」
「当たり前だろ」
相馬先輩が言いました。
「制度そのものに穴があったら、次も同じことが起きる」
「はい」
「だから国会が調べる」
そのとき。
片桐所長が机の新聞を持ち上げました。
「こはる」
「はい」
「国会は、行政を調べる。では、国会自身の内部のことは誰が決める?」
突然の問題。
え。
今ですか。
「……国会自身?」
「正確には?」
「衆議院と参議院が、それぞれ内部のことを自主的に決めます」
「そうだ」
議院の自律権。
私は頭の中で、憲法五十五条と五十八条を思い浮かべました。
議員の資格に関する争訟。
議長その他の役員の選任。
院内の秩序を乱した議員への懲罰。
会議の手続や内部規律に関する議院規則。
これらは、衆議院と参議院がそれぞれ自主的に扱う。
「ちなみに」
相馬先輩が口を挟みました。
「国会議員を除名するには、どれだけ賛成が要る?」
「出席議員の三分の二以上です」
「資格争訟で議席を失わせる場合は?」
「それも出席議員の三分の二以上」
「よし」
なぜか突然、受験対策講座になっています。
「でも」
私は言いました。
「自律権があるからって、好き放題できるわけじゃない」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
「内部を自主的に決める権限と、憲法を無視する権限は違う」
そして。
国政調査権も同じ。
強い権限がある。
だから何でもできる。
ではない。
強い権限がある。
だから、その使い方に責任がある。
議院の自律権。
国政調査権。
二つはまったく別の権限に見えます。
でも。
その根っこには、同じものがある。
権力を適切に分けること。
権力が勝手に広がらないようにすること。
憲法は。
権力を与えると同時に。
その権力に、限界を設けている。
一週間後。
藤村和枝さんが、再び事務所へ来ました。
今度は、少し表情が明るい。
「市役所から、新しい書類が届きました」
私は受け取りました。
――補助事業関係資料の提出依頼の見直しについて。
そこには、資料の範囲が整理されていました。
補助金の交付決定に関する書類。
対象設備の購入契約書。
領収書。
納品書。
支払記録。
設備の設置状況。
また、補助対象経費との関連が認められない従業員の住所や扶養家族情報については、一律の提出を求めないこと。
必要な追加資料が生じた場合は、その目的と範囲を個別に説明すること。
そして。
――本依頼は、市による任意の協力依頼であり、国会による証人出頭要求その他の法定の強制手続ではない。
「……よかった」
私は思わず声を漏らしました。
和枝さんが笑いました。
「これなら、必要な書類は出せます」
「はい」
「従業員にも説明できます」
その言葉を聞いたとき。
ようやく、肩の力が抜けました。
もちろん。
国会の調査は続きます。
補助金の不正が見つかるかもしれない。
藤村縫製にも、追加の確認が来るかもしれない。
必要な資料の提出を求められる可能性もあります。
でも。
それはそれ。
従業員の私生活を無差別に差し出すこととは、別の話です。
「朝比奈さん」
和枝さんが尋ねました。
「国会の調査を断らなくても、従業員を守れるんですね」
私は頷きました。
「はい。適切な調査に協力することと、必要のない情報まで渡すことは違いますから」
「そうなんですね……」
和枝さんは、しばらく書面を見つめていました。
そして、ぽつりと言いました。
「私、国会って、遠いところの話だと思っていました」
「私もです」
「テレビに映る偉い人たちの話で」
「はい」
「でも、その人たちが何かを調べるって言っただけで、うちの工場までこんなことになるんですね」
私は苦笑しました。
「そうですね」
「……怖いですね」
「怖いです」
私は正直に答えました。
「だから憲法があるんだと思います」
和枝さんが顔を上げました。
「憲法?」
「国会に調査する力を与えているのも、憲法です」
「はい」
「でも、国民の権利を守っているのも、同じ憲法なんです」
国会の仕事ができなくなれば困る。
不正が見逃されれば困る。
だけど。
国会の仕事という理由で、人の生活が踏みにじられても困る。
その両方を考える。
だから法律は、難しい。
でも。
だからこそ、意味がある。
夕方。
和枝さんが帰ったあと。
私は机に頬杖をついていました。
「……先輩」
「何だ」
「憲法って、ずるいですね」
「何がだ」
「国会にすごい権限を与えておいて、その権限にも制限をかけるんですよ」
「当たり前だろ」
「でも面白いです」
相馬先輩が煙草を取り出しました。
「何が面白い」
「国会って、偉いから何でもできるんじゃないんですね」
「そりゃそうだ」
「国会自身も、憲法に従わなきゃいけない」
「当然だ」
「そして、国会の権限を借りて、市役所が好き勝手していいわけでもない」
「そこだ」
相馬先輩が笑いました。
「世間の常識? 国のため? 公共の利益?」
煙草を指で回す。
「そんな言葉だけで、人の権利を踏み潰せるなら、法律なんざ要らねえ」
私は頷きました。
「先輩」
「何だ」
「今日、ちょっと格好いいです」
「ちょっとかよ」
「かなり格好いいです」
「気持ち悪いな」
「褒めたのに!」
そこへ。
片桐所長が奥から出てきました。
「こはる」
「はい」
「今日の教訓は?」
来ました。
恒例の質問。
私は少し考えました。
国政調査権。
議院の自律権。
国会。
行政。
人権。
強い権限。
そして限界。
頭の中で全部がつながります。
「……権限が大きいほど、その使い方を正確に見なければならない、です」
所長が頷きました。
「もう少し短く」
「ええっ」
「一行だ」
私は考え直しました。
そして答えました。
「――憲法は、権力を与えると同時に、権力を縛る」
所長が、ほんの少し笑いました。
「それでいい」
よし。
今日は合格です。
私は机の上の六法全書を閉じました。
憲法六十二条。
国政調査権。
受験生だった頃。
私はこの条文を、国会の権限を覚えるためだけに読んでいました。
でも今日。
たった一つの工場の給与台帳を巡って。
その権限がどこまで及ぶのかを考えた。
国会は調べられる。
行政を監視できる。
証人の出頭や証言、記録の提出を要求できる。
その強さは、民主主義に必要です。
けれど。
調べることと、踏みにじることは違う。
権力が正しい目的を掲げていても。
その方法まで無条件に正しくなるわけではない。
それを見失わないために、憲法がある。
そう思うと。
六法全書の中に眠っていた一つの条文が、少しだけ温かく感じられました。
「こはる」
相馬先輩が呼びました。
「はい」
「そういや、お前、さっき何か言ってたな」
「何です?」
「スマホとかいう、未来の道具」
「ああ」
「一瞬で判例が調べられるんだろ?」
「はい」
「じゃあ聞くが」
「何でしょう」
「そいつを使えば、俺の仕事も楽になるのか?」
「なりますよ」
「へえ」
「帳簿も作れますし、資料も探せますし、連絡もできます」
「すげえな」
「ただ」
「ただ?」
「先輩の仕事ぶりも記録されるかもしれません」
相馬先輩の動きが止まりました。
「……何?」
「いつ仕事して、いつ煙草吸って、いつ休憩してたか」
「おい」
「場合によっては全部分かります」
「おい!」
「仕事の能率も数字で出せますね」
相馬先輩は真顔になりました。
「そんなもん、絶対に作るな」
「もう未来にはあります」
「未来、怖すぎるだろ!」
私は笑いました。
「でも大丈夫です」
「何がだ!」
「便利だからって、人の私生活を何でも監視していいわけじゃありませんから」
相馬先輩が黙りました。
そして、ぼそっと言いました。
「……憲法が必要だな」
「でしょう?」
そのとき。
奥から片桐所長の声がしました。
「相馬」
「はい」
「今日、外回りから戻って何時間煙草を吸っていた」
「……」
「帳簿は終わったか」
「……まだです」
「なら仕事をしろ」
「所長!」
相馬先輩が立ち上がりました。
「俺にも憲法十三条のプライバシーが!」
「仕事の進捗を聞いただけだ」
「監視社会です!」
「業務管理だ」
「公共の福祉を!」
「持ち出すな」
私は吹き出しました。
国会の権限にも限界がある。
市役所の権限にも限界がある。
そして、どうやら。
相馬先輩の屁理屈にも、限界があるようです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
憲法は今日も、権力を縛っています。
ただし。
勤務時間中の煙草休憩まで守ってくれるかどうかは。
……また別の問題なのでした。
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