[憲法・国会の権能]現場編 「国の予算だから、役所の自由です」の嘘。税金の使い道を決めるのは誰か――昭和の密室行政を止める、国会という最高機関
税金は、誰の金でしょうか。
払った人の金。
集めた国の金。
使う役所の金。
答えは、簡単そうで簡単ではありません。
ただ、一つだけ確かなことがあります。
税金を集めたからといって、役所が好き勝手に使っていいわけではない。
それを止める仕組みが、日本国憲法にはあります。
しかも、その仕組みは。
国民が選挙で選んだ人たちと、深く結びついているのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「国会って、遠いですよね」
私は新聞を畳みながら呟きました。
「何だ、急に」
相馬先輩が顔を上げます。
「憲法の勉強です」
「仕事しろ」
「これも仕事につながるかもしれないじゃないですか」
「国会議員にでもなる気か」
「ありません」
「じゃあ仕事しろ」
冷たい。
昭和の職場は、学習意欲に対する理解が足りません。
もっとも、私にも言い分はあります。
行政書士試験。
憲法。
統治機構。
国会の権能。
法律の議決。
内閣総理大臣の指名。
条約の承認。
財政の監督。
弾劾裁判所。
……正直に言いましょう。
遠い。
あまりにも遠い。
市役所の窓口で書類を出す仕事と、国会が何をするかという話が、どうつながるのか。
受験生だったころの私は、
「はいはい、暗記ですね」
と赤ペンで線を引いて終わっていました。
「相馬先輩」
「まだ何かあるのか」
「国会の権能って、実務で使います?」
「使うこともあるだろ」
「例えば?」
「知らん」
「即答!」
「俺は国会議員じゃねえ」
それはそうですけど。
私は机に頬杖をつきました。
そのときでした。
事務所の引き戸が、勢いよく開きました。
「すみません!」
飛び込んできたのは、三十代半ばくらいの男性でした。
作業着。
日に焼けた顔。
手には茶封筒。
額には汗。
「ここで、役所に出す書類を作ってもらえるって聞いたんですが!」
片桐所長が顔を上げました。
「どうぞ。座ってください」
男性は椅子に腰を下ろすなり、茶封筒を机に置きました。
「納得できないんです」
来ました。
行政書士事務所における事件開始の合図。
納得できない。
その言葉のあとには、たいてい面倒な法律問題が隠れています。
「何がありました?」
私が尋ねると、男性は一枚の紙を取り出しました。
市役所の通知でした。
表題。
――駅前商業振興事業補助金交付申請に係る審査結果について。
内容。
――今回の申請については、採択を見送る。
「補助金ですか」
「はい」
男性は頷きました。
「駅前で、小さな修理工房を開こうと思ってるんです」
「修理工房?」
「自転車と、農機具の小さな修理です。親父がやっていた仕事を、もう一度始めようと思って」
名前は、宮原修一。
三十五歳。
以前は隣町の機械工場に勤めていました。
ところが工場が縮小。
退職を機に、父親が使っていた古い作業場を改装し、独立することにしたそうです。
「駅前の商店街、空き店舗が増えてるでしょう」
「そうですね」
「それで市が、新しく商売を始める人に補助金を出すって」
私は通知の続きを読みました。
店舗改修費の一部を補助する事業。
国の商業振興関係予算を財源の一部とし、市が実施するもの。
対象者。
一定の区域内で新規開業する者。
補助率。
対象経費の二分の一以内。
補助上限額。
五十万円。
「五十万円!」
思わず声が出ました。
「大きいですね」
「ええ。古い作業場を直すのに百万円近くかかるんです。五十万円出れば、借金を減らせる」
それは大きい。
ところが。
「申請したら、不採択になったんです」
「理由は?」
「これです」
男性は通知の下の方を指しました。
そこには、
――地域商業振興の趣旨及び地元関係者との協調性を総合的に考慮した結果。
と書かれていました。
「……協調性?」
私は首をかしげました。
「何をしたんですか」
「何もしてません!」
宮原さんが声を上げました。
「ただ、商店街の会合で意見を言っただけです!」
「どんな?」
「補助金の使い道を、もっと詳しく公開してほしいって」
私は瞬きをしました。
「……それだけ?」
「それだけです」
宮原さんは茶封筒から、もう一枚の紙を取り出しました。
商店街の会合で配られた資料。
駅前商業振興事業。
予算総額。
補助金交付予定額。
事務費。
共同事業費。
そして。
――商店街活性化特別協力事業費。
「何です、これ」
「分からないんです」
宮原さんは言いました。
「だから聞いたんですよ。具体的に何に使うんですかって」
「返事は?」
「商店街の役員から、『余計なことを聞くな』って」
……嫌な予感がします。
「それから、市役所に問い合わせたんです」
「はい」
「国から来た金なら、国会で予算を決めたんでしょう。だったら、何に使うか説明できるはずじゃないですかって」
私は少しだけ姿勢を正しました。
国会。
予算。
財政。
さっきまで机の上で眠っていた単語が、急に立ち上がりました。
「そうしたら」
宮原さんの声が低くなります。
「担当者に言われたんです」
――国の予算で認められた事業ですから、市の運用に従ってください。
――細かな配分は、市と地元関係者との調整事項です。
――地域の和を乱す方への支援は慎重にならざるを得ません。
「……なるほど」
私は紙を見つめました。
「それで不採択?」
「はい」
宮原さんは唇を噛みました。
「国の金だって、元は税金でしょう」
「そうですね」
「税金の使い道を聞いたら、補助金をもらえなくなるんですか」
その質問に。
私は、すぐには答えられませんでした。
「補助金は、申請すれば必ずもらえるものじゃない」
片桐所長が静かに言いました。
「はい」
「予算には限りがある。採択基準もある」
「そうですよね」
「それに、国の予算が議決されたからといって、個々の申請者に交付請求権が当然に生じるわけでもない」
私は頷きました。
そこは重要です。
国会が予算を議決した。
だから自分にも補助金をよこせ。
そんな単純な話にはならない。
「では、何が問題になる」
所長が尋ねました。
私は資料を見直しました。
宮原さんの申請。
事業計画書。
改修見積書。
開業予定地。
資金計画。
必要書類は揃っています。
採択基準には、地域経済への効果、事業の継続性、計画の実現可能性などが記載されています。
でも。
「協調性って、何ですか」
私は呟きました。
「商店街で質問をしないことですか」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「昭和の商店街じゃ、それも立派な協調性だと思ってる奴がいるだろうな」
「嫌な協調性ですね」
「世間の常識ってのは、便利だからな」
「便利?」
「黙らせる側にとっては、な」
その一言が刺さりました。
宮原さんは、不正があったと決めつけたわけではない。
誰かを誹謗中傷したわけでもない。
ただ、
税金を何に使うのか。
と尋ねただけです。
それが補助金の不採択理由にされたのなら。
「憲法十九条とか、二十一条とか……」
私は呟きました。
「そこも考えられますね」
思想・良心の自由。
表現の自由。
平等原則。
しかし。
片桐所長は首を横に振りました。
「まだ早い」
「え?」
「憲法違反だと叫ぶ前に、国と市の金の流れを調べろ」
私は口を閉じました。
「国の予算がある。市の補助金制度がある。誰が、何を決めた」
「……そこから?」
「そこからだ」
所長は新聞を指しました。
「こはる。国会は何をしている」
「え?」
「さっき勉強していただろう」
う。
まさかの抜き打ち試験。
「法律を作ります」
「それだけか」
「内閣総理大臣を指名します」
「ほかは」
「条約の承認、憲法改正の発議、弾劾裁判所の設置、皇室の財産事項に関する議決、それから財政の監督……」
「最後だ」
所長が言いました。
「今回は、そこを見ろ」
財政の監督。
国会の権能。
私はノートを開きました。
憲法八十三条。
――国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない。
私は思わず息を止めました。
そこに書かれていたのは。
国のお金を使う行政権に対する、憲法上の制約でした。
「……これ」
私は言いました。
「内閣が好き勝手に予算を使えないようにする条文ですよね」
「そうだ」
「でも、国会が議決した予算があるなら、今回の支出も認められるんじゃ……」
「そこが違う」
相馬先輩が口を挟みました。
「国会が予算を通したからって、役所が好きに配っていいわけじゃねえ」
「……あ」
「何に使うための金か。どんな条件で配分された金か。そこを見なきゃ話にならねえだろ」
そうか。
国会が国の予算を議決する。
内閣がそれを執行する。
国から地方自治体へ補助金が交付される場合には、その根拠や交付条件も問題になる。
そして市は、市の予算や補助金交付要綱などに従って事業を実施する。
国会が個々の市民への交付を決めるわけではありません。
けれど。
国の予算があることを理由に、市の説明責任や適正な審査が消えるわけでもない。
「所長」
「何だ」
「国の予算と、市の予算。それから国の補助条件と、市の採択基準を分けて確認したいです」
片桐所長が頷きました。
「それでいい」
相馬先輩が立ち上がります。
「行くぞ」
「どこへ?」
「決まってる」
先輩は上着を羽織りました。
「市役所だ」
市役所二階。
総務課。
「また皆さんですか」
沢渡課長は、私たちを見るなり眼鏡を押し上げました。
「今日は何でしょう」
相変わらずです。
この人、驚くという機能が最初から搭載されていないのではないでしょうか。
相馬先輩が通知を置きました。
「宮原修一さんの補助金」
「ああ。駅前商業振興事業ですね」
「不採択の理由を聞きたい」
「通知に記載しています」
「協調性ってやつか」
「地域振興事業では、地元関係者との連携も重要な評価要素です」
沢渡課長は即答しました。
そこに迷いはありません。
「商店街の協力を得られなければ、継続的な事業運営が難しい場合もありますから」
なるほど。
もっともらしい。
実際、地域の連携が必要な事業は存在します。
補助金の採択において、事業の実現可能性や協力体制を評価することも、それ自体は不合理ではありません。
でも。
「課長」
私は尋ねました。
「宮原さんが、地域との協調性に欠けると判断された具体的な事情は何ですか」
「審査の詳細に関わります」
「商店街の会合で、補助金の使い道を質問したことですか」
沢渡課長の視線が止まりました。
「それだけで判断したわけではありません」
「では、ほかには?」
「事業全体の運営に対する理解なども考慮しています」
「事業への理解?」
「はい」
「使い道を質問することが、理解不足なんですか」
少し沈黙。
沢渡課長は机の上で指を組みました。
「朝比奈さん」
「はい」
「地域の事業には、法律だけで割り切れない事情があります」
来ました。
昭和の行政。
定番の一言。
法律だけでは割り切れない。
「商店街は長年、関係者の協力で維持されてきました。新規参入者にも、一定の協調姿勢を求めることは不自然ではありません」
「それは分かります」
「ならば」
「でも、質問しただけで不利益を受けるなら、話は別です」
沢渡課長は黙りました。
私は続けます。
「補助金を配るとき、市役所は誰かを優遇したり、不利益に扱ったりできますよね。だからこそ、どんな基準で判断したかが重要じゃないですか」
「基準はあります」
「その基準と、宮原さんの質問がどう結びつくんですか」
沢渡課長は、すぐには答えませんでした。
「資料を確認しなければ、個別の評価内容までは申し上げられません」
逃げている。
……いや。
違います。
この人は、裏づけのないことを即答しないのです。
それが沢渡課長の強さでもあります。
片桐所長が静かに言いました。
「課長。もう一つ確認したい」
「何でしょう」
「この補助事業の財源だ」
「国の商業振興関係の交付金と、市の一般財源です」
「国からの交付金には、使途条件があるな」
「当然あります」
「交付決定の条件と、市の事業要綱を確認したい」
「情報公開の対象となる範囲を整理する必要があります」
昭和六十三年。
現代の情報公開制度を、そのまま持ち込める時代ではありません。
自治体ごとの条例や運用も確認が必要です。
でも、制度が整っていないからといって、資料の確認を求める道がすべて閉ざされるわけではありません。
片桐所長は頷きました。
「適切な方法で請求する」
「承知しました」
私はここで、もう一つ尋ねました。
「課長。国の予算が議決されていても、市が交付条件に反する使い方をしていいわけではないですよね」
「当然です」
「なら、その適合性も確認したいんです」
「それは市としても確認しています」
「記録はありますか」
「あります」
「では、補助金の採択判断と、事業費の配分を、それぞれ書面で確認させてください」
沢渡課長の目が、ほんの少し細くなりました。
「……随分、準備してきましたね」
私は笑いました。
「国会の勉強中だったので」
「国会?」
「はい」
沢渡課長が少しだけ不思議そうな顔をしました。
「市の補助金審査の話ですが」
「分かっています」
私は頷きました。
「でも、そのお金の一部は、国の予算から来ているんですよね」
「そうです」
「だったら、国会がどうやって国の財政を監督するか、無関係じゃありません」
沢渡課長は、しばらく私を見ていました。
そして。
「……確かに、無関係ではありません」
そう答えました。
事務所へ戻る途中。
私は相馬先輩に尋ねました。
「先輩。国会が予算を決めるって、ものすごく大事なんですね」
「今さらか」
「いや、知識では知ってましたよ!」
「じゃあ何を感心してる」
「国会の仕事って、遠いと思ってたんです」
私は歩きながら言いました。
「でも、宮原さんの補助金も、その元をたどれば国の予算につながってる」
「ああ」
「しかも、国会は予算を議決して終わりじゃない」
「そうだな」
ここで。
私は、もう一つの条文を思い出しました。
憲法九十条。
国の収入支出の決算は、毎年、会計検査院が検査する。
その検査報告とともに、内閣が決算を国会へ提出する。
「つまり」
私は言いました。
「国会は、これからどう使うかだけじゃなく、使ったあとも確認するんですね」
「そういうことだ」
「予算と決算」
「ああ」
「入口と出口」
相馬先輩が頷きました。
「国の金は、使って終わりじゃねえからな」
さらに。
憲法八十七条。
予備費。
予想外の支出に備えて設けるお金。
それすら、国会の議決に基づいて設け、内閣の責任で支出し、事後には国会の承諾を得る。
……徹底しています。
国が金を使う。
それは行政の仕事。
でも。
どこまで認めるか。
どう監督するか。
その中心に、国会がある。
「先輩」
「何だ」
「国会って、行政の財布に鍵をかけてるんですね」
相馬先輩が笑いました。
「いい例えだな」
「褒められた!」
「ただし」
「はい?」
「鍵があるからって、泥棒が絶対に出ねえとは限らん」
「……なるほど」
「だから帳簿を見る奴がいるんだろ」
会計検査院。
決算。
国会への提出。
私は心の中で、大きく頷きました。
数日後。
資料が揃い始めました。
市の補助金交付要綱。
募集要領。
審査項目。
国の交付金関係資料のうち、確認できた部分。
そして宮原さんの申請書類。
私は机の上に並べました。
「……あれ?」
ある項目に目が止まりました。
事業評価。
事業の実現可能性。
資金計画。
地域経済への波及効果。
継続性。
確かにあります。
けれど。
「所長」
「何だ」
「商店街の会合で質問したかどうかなんて、評価項目にありません」
「そうだな」
「地元関係者との連携状況はあります。でも、これは事業実施に必要な協力体制の話ですよね」
「ああ」
「宮原さんは、部品の仕入先も、修理依頼の見込みも、ちゃんと書いてます」
しかも。
商店街への加入を拒否したわけでもない。
共同清掃への参加も表明している。
地域行事への協力も申し出ている。
協調性がない。
そう評価するには、別の事情が必要なはずです。
「……これ」
私は小さく呟きました。
「事業の評価じゃなくて、質問した人への評価になってませんか」
片桐所長は何も言いません。
ただ、資料を一枚ずつ確認していました。
やがて。
「相馬」
「はい」
「商店街の会合について、裏を取れ」
「了解」
「こはる」
「はい」
「要綱と審査結果の関係を整理しろ」
「分かりました」
「それから、国の交付条件と市の支出の関係もだ」
私は頷きました。
憲法の条文を振りかざす前に。
事実を揃える。
その作業が始まりました。
翌日。
相馬先輩が戻ってきました。
「取れたぞ」
「何がです?」
「会合の議事メモだ」
机に置かれた紙。
商店街の役員が、個人的に残していた記録でした。
そこには、宮原さんの質問が書かれていました。
――特別協力事業費について、具体的な支出内容と決定手続を確認したい。
そして、そのあと。
――新規出店希望者より、事業運営に対する疑義が示された。
さらに。
――補助金対象者の選定に当たっては、地域との協調姿勢を十分考慮することを要望。
「……これ」
私は紙を持ち上げました。
「質問したから、採択で不利にしてくれって言ってるように読めます」
「そう読めるな」
「でも、商店街が要望しただけですよね」
「そうだ」
「市がそのまま従った証拠は?」
「まだねえ」
相馬先輩は即答しました。
「だから、そこを確認する」
私は頷きました。
ここは重要です。
商店街の役員が、気に入らない質問をした人を排除したがっている。
それだけでは、市の違法行為は証明できません。
問題は。
市がその要望を、補助金審査の判断材料にしたのか。
したとすれば、どんな理由で、どの程度考慮したのか。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「意見書を書け」
「はい」
「国会の権能を使って、市を叱る文書ではないぞ」
「……分かってます」
ちょっとだけ、そんな感じになりかけていました。
「国会が予算を議決する。それだけで、この不採択が違憲になるわけではない」
「はい」
「国の交付条件、市の要綱、具体的な審査理由。それを分けろ」
「はい」
「その上で、行政が越えてはいけない線を示せ」
私は深く頷きました。
そこから、文章を書き始めました。
感情ではなく。
理屈で。
憲法八十三条に基づく国の財政統制。
憲法八十五条に基づく国費支出の統制。
憲法八十六条に基づく予算の国会審議・議決。
憲法九十条に基づく決算検査と国会への提出。
これらは、国の財政が行政の自由裁量だけで運営されてはならないことを示している。
もっとも、市の個別の補助金採択判断が直ちに国会の権限に属するわけではない。
しかし、市が国の交付金を財源として補助事業を実施する以上、その交付条件や市の関係規範に適合した運営が必要になる。
さらに。
申請者が公金の使途について質問したことを、それ自体として不利益に評価したのであれば。
憲法二十一条の表現の自由。
憲法十四条の平等原則。
そうした憲法上の価値との関係で、重大な問題が生じる。
もちろん、補助金の配分には合理的な選定が認められる。
しかし。
補助事業への批判や質問を封じる目的で不採択とするなら、それは単なる採択裁量の問題では済まない。
私は最後に書きました。
――本件不採択について、審査項目ごとの評価内容、地元関係者の要望を考慮した有無及びその理由を明らかにし、憲法上の権利保障並びに関係法令・交付要綱の趣旨に照らした再検討を求める。
書き終わったところで。
相馬先輩が覗き込みました。
「……長いな」
「必要なことです」
「憲法違反だ! って一行で書けば早いだろ」
「先輩が言うんですか!」
「冗談だ」
「分かりにくいです!」
片桐所長が意見書を読みました。
一枚。
二枚。
三枚。
そして。
「これでいい」
短い一言。
私は思わず、背筋を伸ばしました。
市役所。
再び総務課。
沢渡課長は意見書を受け取ると、丁寧に読み始めました。
最初の一枚。
表情は変わりません。
二枚目。
眼鏡を少し上げました。
三枚目。
指が止まりました。
「……憲法二十一条、十四条ですか」
「はい」
私は答えました。
「もちろん、不採択が直ちに違憲だと決めつけているわけではありません」
「そのようですね」
「でも、宮原さんが公金の使い道を質問したこと自体を不利益に扱ったなら、重大な問題です」
沢渡課長は、机上の議事メモを見ました。
「商店街側の記録ですね」
「はい」
「これだけで、市の採択理由を証明したことにはなりません」
「分かっています」
「市には、市の判断があります」
「その判断の理由を確認したいんです」
私は言いました。
「事業計画に問題があったのか。それとも、質問したことが問題だったのか」
沢渡課長は黙りました。
片桐所長が静かに続けます。
「課長。補助金は恩恵ではない」
「……」
「採択に裁量があっても、何を考慮してもよいわけではない」
沢渡課長の視線が所長に移りました。
「地域との協調性は、正当な評価要素になり得ます」
「そのとおりだ」
「ならば」
「だが、地域との協調性と、行政に質問しないことは違う」
空気が止まりました。
相馬先輩が低い声で言いました。
「世間の常識? 俺たちが守ってんのは法律だ」
私は思わず先輩を見ました。
出た。
相馬誠司。
こういう場面では本当に容赦がありません。
「市が決めた基準に沿って審査したなら、説明できるはずだ」
先輩が続けます。
「それとも、質問した奴は地域の和を乱すから落とす。そういう基準なのか?」
「そのような基準はありません」
沢渡課長は明確に答えました。
「では、そこを確認してください」
私は言いました。
「国の予算を使った事業で、市の補助金として交付する。だからこそ、判断は説明できるものでなければならないと思います」
沢渡課長は、もう一度意見書を見ました。
「……分かりました」
意外なほど、あっさりした返事でした。
「担当課に審査記録を再確認させます」
「ありがとうございます」
「ただし」
沢渡課長が顔を上げました。
「一つ訂正しておきます」
「何でしょう」
「国会による財政監督と、市の個別補助金審査は、制度上同じものではありません」
「はい」
「国会が予算を議決したからといって、個々の市民への補助金交付を国会が判断するわけではない」
「分かっています」
「その区別をした上で、違憲の疑いを指摘しているのであれば」
沢渡課長は意見書を閉じました。
「市として、軽く扱うことはできません」
……この人。
本当に厄介です。
間違った論理には容赦しない。
でも、正しい論理からも逃げない。
片桐所長が立ち上がりました。
「では、回答を待つ」
「承知しました」
私たちは総務課を出ました。
廊下に出たところで、相馬先輩が言いました。
「こはる」
「はい」
「今日の憲法は、よかったぞ」
「……え?」
「国会がどうこうってところから、市の審査の問題まで、ちゃんと分けてた」
私は一瞬、言葉を失いました。
「先輩が褒めた……」
「取り消すぞ」
「取り消さないでください!」
それから一週間。
市役所から連絡がありました。
補助金審査について、再検討するというものです。
ただし。
最初の電話で分かったのは、それだけでした。
「まだ採択じゃないんですね」
私は相馬先輩に尋ねました。
「ああ」
「じゃあ、宮原さんには……」
「そのまま伝えろ」
相馬先輩は言いました。
「仕事で一番やっちゃいけねえのは、勝ってねえのに勝ったと言うことだ」
そのとおりです。
私たちは宮原さんへ、審査の再検討が始まったことを伝えました。
宮原さんは何度も頭を下げました。
「それだけでも、ありがたいです」
「まだ結果は分かりません」
「分かってます」
そう言いながら。
宮原さんの顔には、最初に来たときとは違う表情がありました。
少なくとも。
質問したから終わり。
そんな理不尽な結末には、まだ確定していない。
さらに数日後。
沢渡課長から正式な回答が届きました。
私は封筒を開きました。
そして、読みました。
「……所長」
「何だ」
「審査、やり直すそうです」
相馬先輩が顔を上げました。
「理由は?」
私は回答を読み上げました。
審査記録の再確認により、宮原さんの事業計画について、事業継続性や資金計画に関する評価は一定の水準に達していたこと。
一方、地域関係者との連携状況については、商店街側の意見が重視されていたこと。
その評価に当たり、公金の使途に関する質問を、事業への非協力的姿勢と結びつけた記述が一部存在したこと。
そして。
そのような評価が、補助事業の目的に照らして適切であったか疑義があるため、当該項目を再評価すること。
「……ありましたね」
私は呟きました。
「質問したことを、不利益に扱った記録」
相馬先輩が頷きます。
「市も認めたな」
さらに、回答には続きがありました。
――本件補助金の採択基準について、地域関係者の意見を参照する場合の判断方法を明確化する。
――国の交付条件、市の補助金交付要綱及び採択審査手続の整合性について、改めて点検する。
私は紙を持つ手に力を込めました。
個人の申請を見直すだけじゃない。
制度の運用自体を確認する。
そして、その三日後。
宮原さんのもとに、再審査の結果が届きました。
補助金。
採択。
交付予定額。
四十五万円。
「……四十五万円」
宮原さんは何度も通知を読み直しました。
「本当に?」
「はい」
私は笑いました。
「ただし、正式な交付決定の内容や条件も確認してください。補助対象外の費用を使ったり、手続を間違えたりしたら大変ですから」
「はい!」
宮原さんは大きく頷きました。
「これで、作業場を直せます」
その声が少し震えていました。
「親父の工具、まだ残してあるんです」
「そうなんですか」
「古い旋盤も、万力も。捨てるなって言われてたから」
宮原さんは笑いました。
「また使えます」
私は、胸の奥が少し温かくなるのを感じました。
その日の夕方。
片桐行政書士事務所。
私は机の上に、憲法の条文を開いていました。
国会。
日本国憲法四十一条。
国権の最高機関。
国の唯一の立法機関。
そして、そこに連なる権能。
法律を議決する。
内閣総理大臣を指名する。
条約を承認する。
憲法改正を発議する。
弾劾裁判所を設置する。
皇室の財産事項について議決する。
国の財政を監督する。
「……国会って」
私は呟きました。
「法律を作るだけじゃなかったんですね」
相馬先輩が顔を上げます。
「今さら何言ってんだ」
「いや、頭では知ってました」
「そればっかりだな」
「でも、今回のことで分かった気がするんです」
私はノートを見ました。
憲法八十三条。
国の財政は、国会の議決に基づいて処理する。
憲法八十四条。
税金を新しく課したり変更したりするには、法律または法律の定める条件が必要。
憲法八十五条。
国費の支出や国の債務負担にも、国会の議決が必要。
憲法八十六条。
予算を作るのは内閣。
審議して議決するのは国会。
憲法九十条。
決算を検査するのは会計検査院。
その報告と決算を、国会へ提出するのは内閣。
「予算を作る人と、認める人が違う」
私は言いました。
「お金を使う人と、あとから検査する人も違う」
片桐所長が頷きました。
「権限を分ける意味がある」
「はい」
「全部を一つの機関が自由に決められたら、どうなる」
私は考えました。
税金を集める。
予算を決める。
支出する。
検査も自分でする。
誰にも説明しない。
……怖い。
「好き勝手できちゃいますね」
「そうだ」
所長は静かに言いました。
「だから、憲法が仕組みを作っている」
私は少しだけ笑いました。
「でも、国会が国のお金を直接全部配るわけじゃない」
「当たり前だ」
「そこも今回、よく分かりました」
国会の権能。
内閣の権能。
市役所の権限。
会計検査院の仕事。
全部違う。
でも。
それぞれの役割がつながって、国民のお金が勝手に使われない仕組みを支えている。
「所長」
「何だ」
「私、憲法って、自由を守るための法律だと思ってました」
「間違いではない」
「はい。でも、それだけじゃないんですね」
私はノートを閉じました。
「誰に何を決める権限があるか。それを決めることで、自由を守ってる」
片桐所長は、ほんの少し頷きました。
「そうだ」
相馬先輩が椅子にもたれました。
「ま、覚えとけ」
「何をです?」
「役所の金は、役所の小遣いじゃねえってことだ」
「……雑ですけど、分かりやすい」
「褒めてんのか」
「褒めてます」
そのとき。
事務所の引き戸が開きました。
「こんにちは!」
宮原さんでした。
手には小さな紙袋。
「先日はありがとうございました」
「いえいえ」
「これ、よかったら」
袋の中には、油紙に包まれた焼き菓子が入っていました。
「近所の菓子屋さんで買ってきました」
相馬先輩が即座に反応しました。
「食い物か」
「はい」
「ありがたい」
「先輩!」
私は呆れました。
でも、宮原さんは笑っています。
「工房の準備も始めました」
「よかったですね」
「ええ」
宮原さんは少しだけ真面目な顔になりました。
「でも、補助金の使い道を聞いたのは、やっぱり間違ってなかったんですよね」
私は頷きました。
「はい」
「質問したら嫌われる。そんなことを気にして、黙っていた方がよかったのかと思ってました」
「……」
「でも、聞いてよかった」
宮原さんは静かに言いました。
「税金は、誰かの好き嫌いで使われるものじゃないんですから」
その言葉に。
私は、すぐには返事ができませんでした。
国会。
予算。
財政監督。
憲法。
それらは、教科書の中では大きすぎる言葉です。
けれど。
宮原さんにとっては。
父親の工具をもう一度使えるかどうか。
明日から自分の商売を始められるかどうか。
その問題でした。
法律は、遠くにあるようで。
誰かの生活の、すぐ近くにある。
宮原さんが帰ったあと。
私は窓の外を見ました。
駅前の商店街。
夕暮れの明かり。
古い自転車。
買い物帰りの人たち。
その向こうに、宮原さんの工房になる建物があるはずです。
「所長」
「何だ」
「国会って、国民の代表が集まるところですよね」
「そうだ」
「その国会が国の財政を監督するって」
私は少し考えました。
「国民のお金を、行政だけの判断に任せないってことなんですね」
所長が頷きました。
「そのための権能だ」
私は、心の中で小さく笑いました。
憲法。
一字一句、変わっていない。
昭和六十三年も。
私が知っている現代も。
条文は同じです。
それなのに。
昭和の社会には、まだまだ、
余計なことを聞くな。
昔からこうしている。
地元の和を乱すな。
そんな空気が残っています。
でも。
憲法には、そんな空気よりも強い原則がある。
国のお金を扱う権限は、国会の議決に基づかなければならない。
そして国会の議決は、国民の代表によって行われる。
もちろん、それだけで不正が消えるわけではありません。
個々の補助金申請が、必ず認められるわけでもありません。
けれど。
行政の財布に鍵をかける仕組みがある。
誰が鍵を持つのかまで、憲法が決めている。
それは。
思っていたよりも、ずっと大きな意味を持っていました。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「今日の教訓は?」
私は考えました。
そして答えました。
「国会の財政監督は、税金を行政の好き勝手にさせないための仕組み、です」
「まあ、いいだろ」
「やった」
そこで。
相馬先輩が紙袋を持ち上げました。
「じゃあ、これも監督してくれ」
「何です?」
「菓子だ」
「はい」
「四つある」
「はい」
「俺が三つ食っていいか」
「駄目です!」
「何でだ」
「不公平です!」
「俺が先に見つけた」
「宮原さんが事務所全員に持ってきたんでしょう!」
「じゃあ、所長が決めればいい」
片桐所長が顔を上げました。
「一人一つだ」
「ほら!」
「ちっ」
「先輩、舌打ちしましたね!」
私は思わず笑いました。
国会の財政監督。
国民の代表による予算の統制。
権限の分担。
……うん。
この事務所にも、少しだけ似たような仕組みが必要かもしれません。
ただし。
「所長」
「何だ」
「お菓子の配分についても、国会みたいに議決しましょうか」
「必要ない」
「え?」
「私が決める」
「それ、権力集中じゃないですか!」
相馬先輩が吹き出しました。
「こはる、憲法違反だぞ」
「先輩が言うんですか!」
片桐所長は、涼しい顔で焼き菓子を一つ取りました。
「事務所の菓子は国費ではない」
「正論!」
「国会の権能も及ばない」
「そこまで正確に言わなくても!」
どうやら。
国会の財政監督は、片桐行政書士事務所のお菓子の配分問題までは解決してくれないようです。
それでも私は。
今日から少しだけ、国会の勉強が好きになれそうでした。
遠い東京の大きな議事堂。
そこで決められる予算。
そこから動く国のお金。
その先には。
昭和の小さな町で、古い工具を磨き直す一人の男がいる。
憲法は、国会に権限を与えている。
それは単に、政治家を偉くするためではありません。
行政権に限界を設けるため。
そして。
国民の暮らしを、権力者の気まぐれから守るためなのです。
私はノートの隅に、小さく書きました。
――国会は、国の財布を監督する。その鍵の向こうには、国民の暮らしがある。
窓の外では、商店街の明かりが一つ、また一つと灯り始めていました。
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