[憲法・衆議院の優越]法理編 こはるノート
話し合いは、大切です。
反対意見も、大切です。
でも。
話し合いが終わらなければ、何も決まりません。
そして。
何も決まらないことにも、責任があります。
夕方。
片桐行政書士事務所。
私は机の上に、三枚の紙を並べていました。
一枚目。
六十日。
二枚目。
三十日。
三枚目。
十日。
「……やっぱり面倒くさい」
「何がだ」
向かいの机で、相馬先輩が煙草に火をつけました。
「衆議院の優越です」
「また国会か」
「また国会です」
私はノートを開きました。
表紙には、大きく書いてあります。
――こはるノート・憲法編。
昨日、市民会館で開かれた勉強会。
高瀬美津子さんが、市役所から使用不許可を受けた事件。
理由は、
政治的中立性。
公共の福祉。
地元からの反対。
でも。
憲法第二十一条の集会・表現の自由と、具体的な施設管理上の支障の有無を問うことで、市役所は判断を見直しました。
結果。
勉強会は無事に開催されました。
そこで教えられたのが、
衆議院の優越。
国会の仕組みです。
「しかし、不思議ですね」
私は呟きました。
「何が」
「衆議院の優越って、国会の話じゃないですか」
「そうだな」
「行政書士が役所の窓口で使う法律じゃないと思ってました」
「昨日使っただろ」
「はい」
そう。
直接の武器は、憲法第二十一条でした。
でも。
国会の仕組みを学ぶことの意味。
国民が政治を知り、選挙で意思を示すことの重要性。
そこを理解するためには、衆議院の優越という制度そのものを知る必要があった。
「法律って、つながってるんですね」
「今さら気づいたのか」
「毎回新鮮に気づいてるんです」
「効率の悪い頭だな」
「そこは成長していると言ってください!」
片桐所長が奥から声をかけました。
「こはる」
「はい」
「今日は何を整理する」
「衆議院の優越です」
「まず理由からだ」
「はい!」
私はノートの一番上に書きました。
――なぜ、衆議院は参議院より優越するのか。
「先輩」
「何だ」
「衆議院と参議院、どっちが偉いと思います?」
「衆議院」
「即答ですね」
「優越するんだろ」
「でも、そこが最初の罠です」
私はノートに書きました。
――衆議院と参議院は、原則として対等。
「対等なのか?」
「はい。国会は二院制ですから」
日本国憲法第四十二条。
国会は、衆議院及び参議院の両議院で構成される。
そして。
法律案は、原則として両院で可決しなければ成立しません。
「つまり、衆議院が何でも勝手に決められるわけじゃありません」
「じゃあ、何で優越するんだ」
「二つ理由があります」
私は指を二本立てました。
「一つ目。衆議院のほうが、国民の意思をより反映しやすいこと」
「なぜだ?」
「任期と解散です」
衆議院議員。
任期四年。
ただし、解散すると任期途中でも議員の地位を失う。
一方。
参議院議員。
任期六年。
三年ごとに半数改選。
解散はありません。
「つまり」
私は言いました。
「衆議院は、参議院より頻繁に選挙を通じて国民の意思を問う仕組みなんです」
「だから民意を反映しやすい」
「そうです」
もちろん、参議院も国民が選ぶ議員で構成されています。
民意を代表していないわけではありません。
ただし。
任期や解散制度の違いから、衆議院には、より新しい民意を反映しやすい性格がある。
「二つ目は?」
「国の意思決定を止めないためです」
私は昨日の勉強会を思い出しました。
最前列の男の子。
衆議院と参議院がけんかしたら、どうなるのか。
そう質問していました。
「衆議院と参議院が違う決定をしたとします」
「ああ」
「どちらも譲らなければ?」
「決まらねえ」
「法律も予算も総理大臣も、いつまでも決まらないと困ります」
「そりゃそうだ」
そこで。
憲法は、一定の事項について衆議院の議決を優先させる。
「ただし」
片桐所長が言いました。
「参議院が不要になるわけではない」
「はい」
「衆議院の意思を優先する場合でも、参議院の審議や意見に意味がある」
私は頷きました。
衆議院の優越とは。
参議院の存在を否定する制度ではない。
両院の意見を尊重しながら、必要なときには結論を出す制度。
「なるほど」
相馬先輩が煙草を置きました。
「つまり、話し合いはする。でも最後まで決まらなきゃ、決め方を用意しておく」
「そうです!」
「うちの昼飯にも必要だな」
「まだ昨日のそば事件を引きずってるんですか」
「俺はラーメンが食いたかった」
「予算を出した所長に負けたんですよ」
「お前、あっさり寝返ったよな」
「財政民主主義です」
「都合よく使うな」
私は次のページを開きました。
――衆議院の優越は二種類ある。
「二種類?」
相馬先輩が聞きました。
「はい。権限そのものが衆議院だけに認められる場合と、両院の議決が対立したときに衆議院の議決が優先される場合です」
「具体的には?」
「まず、権限そのものの優越から」
私はノートに書きました。
予算先議権。
内閣不信任決議。
「予算先議権ってのは?」
「予算を先に衆議院へ提出しなければならないことです」
憲法第六十条第一項。
予算は、さきに衆議院に提出しなければならない。
「つまり、予算は必ず衆議院から審議を始めるんです」
「参議院からじゃ駄目なのか」
「駄目です」
「何でだ」
「予算は、国民が負担する税金などを、何に使うか決めるものだからです」
国民の負担に深く関わる。
だから。
より民意を反映しやすい衆議院で、先に審議する。
「じゃあ、法律案も衆議院から始めるのか?」
「そこです!」
私は思わずペンを振りました。
「法律案は、原則として衆議院からでも参議院からでも提出できます」
「予算だけか」
「はい。憲法上、先議が義務づけられているのは予算です」
相馬先輩が笑いました。
「また試験の罠か」
「そうです!」
予算は衆議院先議。
法律案は必ずしも衆議院先議ではない。
この違い。
簡単そうで、焦ると間違えます。
「じゃあ内閣不信任は?」
「憲法第六十九条です」
私は大きく書きました。
――内閣不信任決議による憲法第六十九条の効果は、衆議院だけ。
「参議院が内閣を信用できないって決議したら?」
「参議院には問責決議などがあります。でも、第六十九条の内閣不信任決議と同じ法的効果はありません」
「衆議院なら?」
「不信任決議案を可決するか、信任決議案を否決した場合、内閣は十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職しなければなりません」
私は紙に二つの道を書きました。
衆議院解散。
内閣総辞職。
「十日以内に、内閣が総辞職するか、衆議院が解散されるかというわけか」
「そうです」
「解散されたら、衆議院議員はどうなる?」
「全員、議員の地位を失い、総選挙になります」
「内閣総辞職なら?」
「内閣が総辞職し、国会で新しい内閣総理大臣を指名することになります」
私は少し考えました。
内閣不信任。
強い権限です。
国の行政を担う内閣の存続を左右する。
だからこそ。
衆議院には、解散という仕組みもある。
「国民の代表である衆議院と内閣が対立したら、国民に判断を問い直す道もあるんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「それが議院内閣制の重要な仕組みだ」
私はノートに丸をつけました。
予算先議権。
内閣不信任決議。
この二つは、衆議院だけに認められる権限の代表例。
「さて」
私は次の紙を出しました。
「ここからが本当の地獄です」
「大げさだな」
「六十日、三十日、十日です」
「昨日の勉強会でやっただろ」
「聞いて分かったつもりになるのと、自分で説明できるのは別です!」
私はノートに書きました。
――法律案の議決。
憲法第五十九条。
「まず、法律案です」
原則。
衆議院と参議院の両方で可決すれば、法律になる。
「では、衆議院が可決した法律案を、参議院が否決したら?」
私は相馬先輩に尋ねました。
「衆議院が再可決する」
「何人の賛成が必要ですか?」
「三分の二」
「何の三分の二?」
「……議員の三分の二だろ」
「惜しい!」
私は立ち上がりました。
「出席議員の三分の二以上です!」
「同じじゃねえのか」
「違います!」
私はノートに大きく書きました。
――出席議員の三分の二以上。
「総議員の三分の二じゃないんです」
相馬先輩が顔をしかめました。
「細けえな」
「その細かさで点数が変わるんです!」
現代の受験生だったころ。
この「出席議員」という言葉を見落として、何度間違えたことか。
私はさらに続けました。
「ここで、参議院が否決したからといって、必ず両院協議会を開かなければならないわけではありません」
「開かなくてもいい?」
「はい」
憲法第五十九条第三項。
法律案について、衆議院が両院協議会を求める道はある。
でも。
法律案の両院協議会は、憲法上、必ず開かなければならないものではない。
「じゃあ、衆議院が三分の二で再可決できれば、それで法律になる」
「そうです」
「参議院がずっと黙っていたら?」
私は待っていましたとばかりに答えました。
「六十日!」
衆議院で可決された法律案を、参議院が受け取る。
その後。
国会休会中の期間を除いて六十日以内に、参議院が議決しない。
そのとき。
衆議院は、参議院が否決したものとみなすことができる。
「できる?」
相馬先輩が聞き返しました。
「はい。ここも重要です」
私は二重線を引きました。
――否決したものとみなすことができる。
「六十日たったら、自動的に法律になるわけではありません」
「ああ」
「しかも、自動的に否決とみなされるわけでもありません」
「衆議院が、否決したものとみなすことができるわけか」
「そうです」
その後。
出席議員の三分の二以上で再可決すれば、法律になる。
「じゃあ法律案は」
相馬先輩が指を折りました。
「六十日たっただけじゃ成立しない」
「はい」
「三分の二の再可決が要る」
「はい!」
「両院協議会は必須じゃない」
「完璧です!」
私は嬉しくなって拍手しました。
「うるせえ」
「先輩が正解すると嬉しいんです」
「俺を受験生扱いすんな」
「次は予算です」
私はノートに書きました。
――憲法第六十条。
予算先議権とは別に、予算の議決にも衆議院の優越がある。
「まず、衆議院が予算を可決します」
「ああ」
「それを参議院が否決したら?」
「衆議院が三分の二で再可決?」
「違います!」
私は机を叩きかけて、慌てて止めました。
所長がこちらを見たからです。
「予算は法律案とは違います」
「どう違う」
「両院協議会を必ず開きます」
衆議院と参議院で、予算について異なる議決をした場合。
両院協議会を開く。
意見の一致を図る。
それでも一致しないとき。
衆議院の議決を国会の議決とする。
「三分の二の再可決は?」
「要りません」
「法律案より衆議院が強いな」
「そうなんです」
予算は、国の活動に直結します。
いつまでも決まらなければ、国政運営に支障が出る。
だから。
両院で調整しても一致しない場合、衆議院の議決を国会の議決とする。
「じゃあ参議院が黙っていたら?」
「三十日です」
私は例の紙を取り出しました。
三十日。
「参議院が、衆議院の可決した予算を受け取ってから、国会休会中の期間を除いて三十日以内に議決しなければ、衆議院の議決が国会の議決になります」
「法律案は六十日だったな」
「はい」
「予算は三十日」
「はい」
「それで、自動的に衆議院の議決が国会の議決になる」
「そうです」
私はノートに線を引きました。
法律案。
六十日。
否決とみなすことができる。
再可決が必要。
予算。
三十日。
衆議院の議決が国会の議決になる。
「同じ優越でも、効果が全然違いますね」
私は言いました。
「そうだな」
片桐所長が答えました。
「名前だけ覚えるな」
「はい」
「何日か。何が起きるか。そこまで整理しろ」
「はい!」
「では、条約です」
私は次の見出しを書きました。
――憲法第六十一条。
「条約の承認については、予算の議決と同じ仕組みが準用されます」
相馬先輩が首を傾げました。
「同じって?」
「両院で異なる議決をした場合、両院協議会を開きます」
「ああ」
「一致しなければ、衆議院の議決が国会の議決になります」
「参議院が議決しなければ?」
「三十日です」
私は丸をつけました。
予算。
三十日。
条約の承認。
三十日。
「ここはセットで覚えると楽ですね」
「ようやく楽なところが来たな」
「でも注意があります」
「またか」
私は笑いました。
「予算には、衆議院の先議権があります」
「ああ」
「でも、条約の承認には、予算と同じような衆議院先議の規定はありません」
「……ややこしいな」
「だから、予算と条約は議決の優越が同じでも、先議権まで同じだと思ったら間違いです」
私はノートに書きました。
――予算と条約は、議決の優越は同じ。ただし、予算先議権は予算だけ。
相馬先輩が呟きました。
「受験生を罠にかけるために憲法が作られたみてえだな」
「私も昔、そう思いました」
「今は?」
「ちゃんと理由があるんだと分かりました」
少しだけ、胸を張ります。
数字を覚える。
制度を覚える。
でも。
なぜその仕組みなのか。
そこまで考えると、暗記は少しずつ理解に変わる。
「次は、内閣総理大臣の指名です」
私はノートに書きました。
――憲法第六十七条。
「総理大臣って、国民が直接選ぶんじゃないんだよな」
相馬先輩が聞きました。
「はい。国会が国会議員の中から指名します」
「衆議院だけで決めるのか?」
「原則として、両院で指名の議決をします」
もし。
衆議院がAさんを指名。
参議院がBさんを指名。
違う人を選んだら?
「両院協議会です」
「これは必ず?」
「はい。必ず開きます」
そして。
両院協議会でも一致しなければ。
衆議院の指名が国会の議決になる。
「参議院が指名しなかったら?」
相馬先輩が聞きました。
私は、三枚目の紙を掲げました。
十日。
「衆議院が指名の議決をした後、国会休会中を除いて十日以内に参議院が議決しなければ、衆議院の議決が国会の議決になります」
「十日か」
「はい」
「予算より短いな」
「総理大臣を決めることは、国の行政を担う内閣の形成に直結しますから」
私は、ノートにまとめました。
法律案。
六十日。
予算・条約。
三十日。
総理大臣。
十日。
「こう並べると、少し覚えやすいですね」
「本当か?」
「少なくとも、全部同じ数字だと思わなくなりました」
「最初からそう思うな」
「受験生の脳は、ときどき雑になるんです!」
私は、ここで一度ノートを閉じかけました。
でも。
片桐所長が言いました。
「こはる」
「はい」
「両院協議会を整理しろ」
「……来ましたね」
「そこを曖昧にすると間違える」
「はい」
私は新しいページを開きました。
――両院協議会は、いつ必要か。
法律案。
両院の議決が異なった場合、開くことはできる。
ただし、必須ではない。
予算。
両院の議決が異なった場合、必ず開く。
条約の承認。
同じく、必ず開く。
内閣総理大臣の指名。
同じく、必ず開く。
「つまり」
私は言いました。
「法律案だけ、任意なんです」
「簡単じゃねえか」
相馬先輩が言いました。
「本当ですか?」
「ああ」
「じゃあ問題です」
「何だ」
「衆議院が可決した法律案を参議院が否決しました。両院協議会を開かずに、衆議院が出席議員の三分の二以上で再可決しました。法律は成立しますか?」
「する」
「正解です」
「当たり前だ」
「では、予算について衆議院と参議院が異なる議決をしました。両院協議会を開かず、衆議院の議決をそのまま国会の議決にできますか?」
「……できねえ」
「正解!」
私は頷きました。
「予算は、両院協議会を開くことが必要です」
相馬先輩は、少し得意そうに煙草をくわえました。
「余裕だな」
「じゃあ三問目」
「まだあるのか」
「参議院が予算を三十日以内に議決しませんでした。両院協議会を必ず開かなければなりませんか?」
「……必ず開くんだろ?」
「違います!」
私は思わず立ち上がりました。
「そこが、さらに細かい罠なんです!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「どういうことだ」
「両院協議会が必須になるのは、両院が異なる議決をした場合です」
私は説明しました。
「参議院が期限内に議決しなかった場合は、憲法の定める期間が経過することで、衆議院の議決が国会の議決になるんです」
「だから、そこで両院協議会を必ず開くわけじゃない」
「そうです!」
私はノートに書きました。
――両院で異なる議決をした場合と、参議院が議決しない場合を混同しない。
これです。
行政書士試験で怖いのは、数字だけではありません。
条件。
場合分け。
要件と効果。
そこを丁寧に区別しなければならない。
「こはる」
所長が言いました。
「それでいい」
「はい」
「法律は、似た言葉ほど違いを見ろ」
私は、深く頷きました。
ここで。
私は昨日の高瀬さんの顔を思い出しました。
市民会館の使用不許可通知を握っていたとき。
彼女は、こう言っていました。
――政治のことを勉強するなんて、女が余計なことをするからだって。
昭和六十三年。
そういう空気が、まだ強く残っています。
でも。
憲法の条文は、変わっていません。
「所長」
「何だ」
「憲法って、本当に不思議ですね」
「何がだ」
「昭和六十三年でも、私がいた時代でも、条文が同じなんです」
日本国憲法。
昭和二十一年公布。
昭和二十二年施行。
その後、私が知る令和の時代まで、条文は一字一句改正されていません。
なのに。
同じ条文を読んでも、社会の受け止め方は変わる。
「昔は、政治の話をすると嫌がられる場面が多かった」
私は言いました。
「女性が政治を語るだけで、余計なことをするなと言われることもあった」
「今でもそういう奴はいるぞ」
相馬先輩が言いました。
「……そうですね」
「だから憲法が要るんだろ」
私は顔を上げました。
「どういう意味です?」
「世間の常識なんざ、時代で変わる」
「あ……」
「昨日正しいと言われたことが、明日も正しいとは限らねえ」
相馬先輩は、窓の外を見ました。
「でも役所が人の自由を制限するときには、法律上の根拠と理由が要る」
私は、昨日の沢渡課長を思い出しました。
政治的中立性。
公共の福祉。
地元の反対。
その言葉だけでは、集会の自由を奪う理由にならない。
具体的な危険があるのか。
必要な制限なのか。
もっと穏やかな方法はないのか。
そこまで問わなければならない。
「つまり」
私は言いました。
「公共の福祉って、世間の多数派が嫌がることを禁止するための言葉じゃないんですね」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
「公共の福祉は、権利を無制限に消すための札ではない」
私はノートに書きました。
――公共の福祉は、単なる世間の都合ではない。
そして。
衆議院の優越も、同じように考えられるのかもしれません。
民主主義は、多数決だけではありません。
反対意見を聞く。
少数意見を尊重する。
話し合う。
それでも決まらない場合に、憲法の定める方法で結論を出す。
「衆議院の優越って」
私は呟きました。
「多数派が何をしてもいい、って制度じゃないんですね」
「当然だ」
所長が言いました。
「憲法の制約を受けるのは、国会も同じだ」
「……はい」
どれほど多数の議員が賛成しても。
憲法に反する法律を、自由に作っていいわけではない。
衆議院が優越しても、憲法より上には立てない。
そこが重要です。
「では、まとめます」
私はノートの中央に、四角い枠を書きました。
その中へ、試験で必ず思い出したいことを書き込んでいきます。
衆議院の優越。
理由。
衆議院は任期が短く、解散もあるため、より民意を反映しやすい。
また、両院の対立によって国政が停滞するのを防ぐため。
権限上の優越。
予算先議権。
内閣不信任決議による憲法第六十九条の効果。
法律案。
衆議院の出席議員の三分の二以上による再可決。
参議院が六十日以内に議決しなければ、否決とみなすことができる。
両院協議会は任意。
予算。
両院で異なる議決なら、両院協議会が必須。
不一致なら衆議院の議決を国会の議決とする。
参議院が三十日以内に議決しなければ、衆議院の議決が国会の議決となる。
条約承認。
予算と同じ三十日の優越。
総理大臣の指名。
両院で異なる指名なら、両院協議会が必須。
不一致なら衆議院の指名が国会の議決となる。
参議院が十日以内に議決しなければ、衆議院の議決が国会の議決となる。
※期間計算では、憲法の定めにより国会休会中の期間を除く。
「……できました」
私はペンを置きました。
相馬先輩が覗き込みます。
「長えな」
「重要事項が多いんです!」
「覚えられんのか?」
「大丈夫です」
「本当か?」
「意味が分かれば覚えられます」
私は三枚の紙を並べ直しました。
六十日。
三十日。
十日。
そして、もう一枚。
三分の二。
「この四つが、今日の鍵です」
法律案は六十日。
予算と条約は三十日。
総理大臣の指名は十日。
法律案の再可決は、出席議員の三分の二以上。
「ただし、数字だけでは足りません」
私は言いました。
「六十日は、否決とみなせるだけ」
「ああ」
「三十日と十日は、衆議院の議決が国会の議決になる」
「うん」
「異なる議決なら、法律案の両院協議会は任意。予算・条約・総理大臣は必須」
「よし」
相馬先輩が頷きました。
「それなら覚えられそうだな」
「はい」
私は少し笑いました。
昨日まで。
この数字たちは、試験会場で私を苦しめる敵でした。
でも今は。
それぞれの数字の向こうに、国会の姿が見える。
意見が割れる。
議論が続く。
結論が出ない。
それでも。
国家は動かなければならない。
国民の生活は、待ってくれない。
だから。
憲法は、最後に決める仕組みを用意している。
六十日。
三十日。
十日。
それは、単なる日数ではありません。
民主主義を止めないための、期限なのです。
私は最後のページを開きました。
一行の覚え書き。
ここだけは、必ず短く。
そう決めています。
何を書こう。
衆議院の優越。
民意。
国政の停滞防止。
六十日。
三十日。
十日。
三分の二。
少し考えて。
私はペンを走らせました。
――衆議院の優越は、民意を尊重し、国を止めないための仕組み。法律六十・予算条約三十・総理十、再可決は出席議員の三分の二。
「……長いな」
相馬先輩が言いました。
「一行に収まってます!」
「字が小せえ」
「内容が多いんです!」
先輩が笑いました。
「まあ、覚えとけ」
「はい」
私はノートを閉じました。
窓の外。
夕方の街並み。
市役所の屋根。
市民会館の方向には、まだ少し明かりが残っています。
あそこで。
昨日。
一人の男の子が、衆議院と参議院の違いを学びました。
そして。
大人になったら、選挙に行きたい。
そう書いてくれました。
私は、その手紙を机の引き出しから取り出しました。
政治を知る。
政治を考える。
政治を選ぶ。
衆議院の優越が、民意をより反映しやすい衆議院を優先する仕組みなら。
その民意の出発点は。
きっと、あの男の子のような一人ひとりの国民なのです。
「所長」
「何だ」
「私、憲法って、暗記だけじゃ駄目だと思いました」
「そうだな」
「国の仕組みを知ることは、自分の権利を知ることにもつながるんですね」
所長は、静かに頷きました。
「国会は、国民のためにある」
「はい」
「国民が国会を知ろうとすることを、役所が理由もなく妨げていいはずがない」
私は、昨日の高瀬さんの笑顔を思い出しました。
市民会館の使用許可。
ただ一枚の紙。
でも。
その紙のおかげで、三十人が集まり、国会の仕組みを学ぶことができた。
憲法の条文は、昭和六十三年も令和も同じです。
しかし。
その条文を、誰かの生活の中で本当に生かせるかどうか。
そこには、人の勇気と、法律を使う技術が必要になる。
私は、そっとノートを撫でました。
憲法は。
遠い国会議事堂の中だけで働く法律ではありません。
市民会館の利用を断られた、一人の女性のためにも働く。
そして。
その女性が開いた小さな勉強会で、次の世代が政治を学ぶ。
法律は、そうやって未来へつながっていくのかもしれません。
「さて」
相馬先輩が立ち上がりました。
「終わったな」
「はい」
「じゃあ帰るぞ」
「待ってください」
「何だ」
私は机の上に、三枚の紙を並べました。
六十日。
三十日。
十日。
「先輩」
「何だよ」
「今日の復習問題です」
「まだやんのか」
「一問だけです」
「言ってみろ」
私は真剣な顔で尋ねました。
「所長が昼食をそばにすると決めて、先輩がラーメンを主張し続けた場合、何日後にそばが国会の議決になりますか?」
「……は?」
「六十日ですか? 三十日ですか? 十日ですか?」
相馬先輩は、しばらく黙っていました。
そして。
「即日だろ」
「なぜです?」
「金を出すのが所長だからだ」
「それは衆議院の優越じゃありません!」
「じゃあ何だ」
「財政上の圧力です!」
奥から、片桐所長の声がしました。
「こはる」
「はい」
「明日の昼飯は、ラーメンにする」
相馬先輩が、勢いよく振り返りました。
「本当ですか!」
「ああ」
私は首を傾げました。
「所長、どうして急に?」
「昨日の意見を聞いた」
相馬先輩が嬉しそうに笑いました。
「ほらな!」
「何がです?」
「参議院の意見も無駄じゃねえってことだ!」
私は思わず笑いました。
なるほど。
確かに。
衆議院の優越があっても、参議院の意見が無意味になるわけではありません。
最終的に衆議院の意思が優先される場合でも。
参議院での議論が、結論に影響することはある。
「……じゃあ、私のカレー案は?」
私は聞きました。
相馬先輩が、にやりと笑います。
「少数意見だな」
「少数意見も尊重してください!」
「意見は聞いた」
「採用は?」
「しねえ」
「ひどい!」
片桐所長が、帳簿を閉じました。
「明日はラーメンだ」
「決定ですか?」
「決定だ」
「両院協議会は?」
「終わった」
「いつですか!」
「今だ」
「短すぎません!?」
相馬先輩が吹き出しました。
私は、ノートの最後に小さく書き足しました。
――多数決は、少数意見を無視していいという意味ではない。
そして、その下に。
――ただし、昼飯については例外らしい。
「こはる」
所長が言いました。
「それは試験に出んぞ」
「分かってます!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
どうやら。
この事務所の意思決定には、まだまだ改善の余地がありそうです。
でも。
意見が違っても、話し合える。
反対しても、黙らされない。
そして、最後には結論を出す。
その仕組みの大切さを。
私は今日、ようやく理解できた気がしました。
窓の外では、夕暮れの街に明かりが灯り始めています。
私はノートを閉じました。
六十日。
三十日。
十日。
そして、三分の二。
あれほど無機質だった数字が。
今は、少しだけ頼もしく見えました。
民主主義は、意見が一致することではない。
意見が違っても、自由に話し合い、責任を持って決めることなのだ。
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