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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈憲法 配点28点/300点〉 統治

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395/701

[憲法・衆議院の優越]現場編 「参議院が反対したら、国会は何も決められません」の嘘。六十日・三十日・十日――国を止めないための憲法と、昭和の町を縛る『政治の話はするな』という掟

挿絵(By みてみん)


 話し合いは、大切です。


 反対意見も、大切です。


 でも。


 いつまでも結論が出なかったら。


 誰が、最後の決断をするのでしょう。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の朝、私は一枚の新聞を見ながら、人生で初めて本気で国会に感謝していました。


「……憲法って、親切ですね」


「朝から何言ってんだ」


 相馬先輩が煙草をくわえたまま、こちらを見ました。


「国会の話です」


「国会?」


「衆議院と参議院って、意見が割れても最後には決められるようになってるんですよ」


「そりゃそうだろ」


「でも、その仕組みがなかったら、ずーっと揉め続けるじゃないですか」


「役所の会議みてえだな」


「先輩、敵を増やす発言は控えてください」


 私は新聞を畳みました。


 現代で行政書士試験の勉強をしていたころ。


 衆議院の優越。


 それは、ただの暗記地獄でした。


 法律案。


 六十日。


 予算。


 三十日。


 総理大臣の指名。


 十日。


 法律案の再可決。


 出席議員の三分の二。


 両院協議会。


 必要だったり、そうでなかったり。


 もう。


 全部三十日に統一してください。


 と、何度思ったことか。


 ところが。


 その数字が、まさか一人の女性の仕事を救うことになるなんて。


 この朝の私は、まだ知りませんでした。


「政治の話をするなら、市の施設は貸せないそうです」


 相談者は、怒っていました。


 四十二歳。


 高瀬美津子さん。


 市内の印刷会社で働きながら、休日に地域の勉強会を開いている女性です。


 机の上に置かれたのは、市民会館の使用不許可通知でした。


「私、選挙運動なんてするつもりないんですよ」


「何の会合ですか?」


 私が尋ねると、高瀬さんは一枚のチラシを差し出しました。


 見出しは大きく、


 ――私たちの税金は、国会でどう決まる?


 その下に、


『衆議院と参議院の違いを知ろう』


 とあります。


「……国会の勉強会?」


「そうです」


「誰か政治家を呼ぶんですか?」


「いいえ。地元の元高校教師の方に、憲法の仕組みを説明してもらうだけです」


「特定の政党を応援する内容は?」


「ありません」


「反対運動とか?」


「それもありません」


 私はチラシを読み直しました。


 会場。


 湖西市民会館。


 日時。


 日曜日、午後二時。


 参加費。


 資料代百円。


 内容。


 衆議院と参議院。


 法律ができるまで。


 予算の決め方。


 内閣総理大臣の指名。


 ……普通です。


 ものすごく普通です。


 行政書士試験の入門講座と言われても違和感がありません。


「これが駄目なんですか?」


「市役所では、政治的な集会だからと言われました」


「政治的?」


「国会のことを話すのは、政治的だって」


 私は思わず相馬先輩を見ました。


 先輩は煙草を灰皿に押しつけました。


「……で?」


「で、って?」


「それだけで不許可か?」


「もう一つあります」


 高瀬さんが唇を噛みました。


「地元の議員さんから、苦情が来ているそうです」


「議員さん?」


「市議会議員の方です。『国会の仕組みなんか市民に教えて、政治への不満を煽るつもりか』って」


「……は?」


「それから、こんなことも言われました」


 高瀬さんは、少し声を低くしました。


「衆議院と参議院で意見が割れたら、どちらも譲れないんだから、国民は政治家の決定を黙って待っていればいい。余計なことを教えるな、と」


 私は黙りました。


 何でしょう。


 この、昭和の重力。


 政治の仕組みを知ろうとする。


 それだけで、秩序を乱す人間扱い。


 今なら学校の公民で習う内容です。


 いや、昭和六十三年だって習う内容です。


 それなのに。


「地元ではね」


 高瀬さんが苦笑しました。


「政治の話をする女は、面倒な女なんだそうです」


 その言葉に、胸の奥が冷えました。


「私、子供たちに聞かれたんです」


「何を?」


「衆議院と参議院で意見が違ったら、税金の使い道はどうなるのって」


 高瀬さんは、机の上のチラシを指で撫でました。


「答えられなかったんです。だから調べようと思ったんです」


「……はい」


「大人が知らないから、子供に教えられない。それじゃ駄目だと思って」


 たった、それだけ。


 知りたい。


 学びたい。


 人に伝えたい。


 そのために、市民会館を借りようとした。


 ところが。


 政治の話はするな。


 地元の和を乱すな。


 余計なことを教えるな。


 私は通知書を手に取りました。


 不許可理由。


 ――政治的中立性の確保及び公共の福祉の維持のため。


「……また出た」


 思わず呟きました。


「何が?」


 相馬先輩が聞きます。


「公共の福祉です」


「ああ」


「便利すぎません?」


「便利だから使うんだろ」


 そう。


 公共の福祉。


 憲法に登場する重要な言葉。


 でも。


 公共の福祉と書けば、何でも制限できる。


 そんな意味ではありません。


 片桐所長が、通知書に目を落としました。


「こはる」


「はい」


「会館の条例と利用規則を確認しろ」


「はい」


「相馬」


「分かってます」


 先輩が立ち上がりました。


「沢渡んとこだろ」


 所長は頷きました。


「行政の中立と、市民の沈黙は違う」


 その一言で。


 今回の戦いが始まりました。


 市役所二階。


 総務課。


「また片桐先生ですか」


 沢渡課長は、いつもの灰色の背広で迎えてくれました。


 歓迎されている気配は、まったくありません。


「今度は何でしょう」


「市民会館の使用不許可だ」


 相馬先輩が通知書を置きます。


「ああ。高瀬さんの件ですね」


「理由を聞きたい」


「通知のとおりです」


 出ました。


 役所の必殺技。


 通知のとおり。


 通知に理由が書かれているようで、具体的な事情は何も分からない。


「政治的中立性の確保、ですか」


 私が聞きました。


「そうです」


「国会の仕組みを説明するのが?」


「内容によります」


 沢渡課長は落ち着いていました。


「政治制度の説明そのものを問題にしているわけではありません」


「では何を?」


「開催の経緯です」


 課長は机の上で指を組みました。


「市内では、国の予算や政策をめぐって意見が対立しています。今回の勉強会が、特定の政治的立場を広める催しになるのではないかという懸念があります」


「具体的な証拠は?」


「苦情が寄せられています」


「苦情の内容は?」


「政治的な対立を市の施設へ持ち込まないでほしい、というものです」


 なるほど。


 沢渡課長は馬鹿ではありません。


 単純に、


 政治の話は禁止です。


 とは言わない。


 市の施設の中立性。


 利用者間の対立。


 管理上の支障。


 それらを組み合わせ、慎重な行政判断として説明している。


 だから厄介なのです。


「課長」


 相馬先輩が言いました。


「政治の話をしたら、誰かが怒る。だから貸さない。そういうことか?」


「そのように単純化されても困ります」


「じゃあ何だ」


「市としては、公共施設が政治的対立の場になることを避けたいのです」


「対立が起こる根拠は?」


「地域の実情を踏まえた判断です」


「地域の実情ねえ」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「つまり、声のでけえ奴が反対したら、勉強会はできねえわけだ」


「そうは申し上げていません」


 課長の表情は変わりません。


 ただし。


「先生方にも、行政運営の難しさはご理解いただきたい」


 と続けました。


「施設を貸せば苦情が来る。貸さなければ申請者から苦情が来る。市は、どちらか一方の主張だけを採用するわけにはいきません」


 正論に聞こえます。


 いえ。


 半分は正論です。


 行政が特定の政治的立場を応援することは問題になり得る。


 施設の安全管理も必要です。


 けれど。


 私は一つ、引っかかりました。


「課長」


「何でしょう」


「市が中立であることと、市民に政治の話をさせないことは、同じなんですか?」


 沢渡課長がこちらを見ました。


「……どういう意味でしょう」


「市が特定の政党を応援しないのは分かります。でも、市民が政治制度について学ぶことまで止める必要がありますか?」


「政治的な対立を生じさせる可能性が――」


「可能性だけなら、どんな話題でもあります」


 私は言いました。


「税金の話も、学校の話も、道路整備の話も。誰かが反対すれば全部駄目になるんですか?」


 沢渡課長は、すぐには答えませんでした。


 私は続けます。


「今回、会場で暴力が起きる具体的な危険が確認されているわけではありませんよね」


「現時点では、そこまでの報告はありません」


「特定政党への投票を呼びかける資料も?」


「確認していません」


「それなら――」


「朝比奈さん」


 沢渡課長が静かに遮りました。


「市民会館は、誰でも無条件に使える施設ではありません」


 う。


 それはそうです。


「利用目的、管理上の支障、他の利用者への影響。許可権者には、それらを判断する責任があります」


 完全に間違っているとは言えない。


 権限がある。


 基準がある。


 公共の福祉という言葉もある。


 そして地元から苦情も来ている。


 この時代の空気では。


 それだけで、話が終わってしまいそうでした。


 私は唇を噛みました。


 昭和六十三年。


 世間の目。


 地元の和。


 政治の話はしない。


 余計な波風は立てない。


 正しいことを知っていても、黙っているほうが賢い。


 そんな空気。


 現代から来た私には、息苦しいほど重かった。


 でも。


 そのとき。


 片桐所長が、静かに口を開きました。


「課長」


「はい」


「憲法は、変わっていませんな」


 私は顔を上げました。


 沢渡課長も、わずかに眉を動かします。


「……もちろんです」


「ならば、確認しておきたい」


 所長は、私の前に一冊の六法を置きました。


「こはる」


「はい」


「この勉強会は、何を教える会だ」


「国会の仕組みです」


「その仕組みを、国民が知ることに何の意味がある」


 私は、一瞬止まりました。


 そして。


 机の上のチラシを見ました。


 衆議院と参議院。


 法律。


 予算。


 総理大臣。


 ……あ。


 そうか。


 これ。


 単なる暗記項目ではありません。


 国民が、政治を監視するための知識です。


「所長」


「何だ」


「私、分かりました」


「言ってみろ」


「国会の仕組みを知らなかったら、誰が政治の責任を負うのかも分からなくなるんです」


 相馬先輩が、こちらを見ました。


 私は六法を開きました。


「衆議院の優越です」


「まず」


 私は沢渡課長の机に、一枚の紙を置きました。


 そこには、大きく二つの言葉が書いてあります。


 衆議院。


 参議院。


「課長。国会は二院制ですよね」


「当然です」


「原則として、両院はそれぞれ重要な権限を持っています」


「ええ」


「でも、両院が対立して、何も決められなくなったら?」


「……」


「国の仕事が止まります」


 私は紙の真ん中に、一本の線を引きました。


「そこで憲法は、一定の場合に衆議院の意思を優先します」


 沢渡課長が頷きます。


「衆議院の優越ですね」


「はい」


 私は続けました。


「衆議院は任期が四年で、解散もあります。一方、参議院は任期六年で、三年ごとに半数が改選されます」


「そのとおりです」


「つまり、衆議院のほうが選挙を通じて国民の意思を問い直す機会が多い」


 だから。


 重要な局面では、国民の意思をより反映しやすい衆議院を優先する。


 ただし。


 何でも衆議院が勝つわけではありません。


「ここが大切なんです」


 私は別の紙を出しました。


 そこには、四つの項目。


 法律案。


 予算。


 内閣総理大臣の指名。


 内閣不信任。


「全部、衆議院に優越が認められる場面ですが、仕組みは同じではありません」


「……続けてください」


 沢渡課長の声が変わりました。


 単なる抗議ではない。


 法律の議論になる。


 そう判断した声でした。


「たとえば、法律案です」


 私は六法の第五十九条を指しました。


「原則として、法律は衆議院と参議院の両方で可決されなければ成立しません」


「ええ」


「では、衆議院で可決した法案を、参議院が否決したら?」


 沢渡課長が答えます。


「衆議院で再可決する道があります」


「そのとおりです」


 私は指を二本立てました。


「出席議員の三分の二以上の賛成が必要です」


 相馬先輩が横から口を挟みました。


「過半数じゃ駄目なのか」


「駄目です」


「衆議院のほうが優越するんだろ?」


「だからって、何でも簡単に押し切れるわけじゃありません」


 私は首を振りました。


「参議院が反対した法律案を通すなら、衆議院には重い再可決要件があるんです」


 衆議院が優越する。


 でも。


 参議院の反対も、軽く扱わない。


 だから三分の二。


「それなら、参議院がずっと議決しなかった場合は?」


 相馬先輩が聞きます。


「六十日です」


「六十日?」


「衆議院から受け取った法律案について、参議院が、国会休会中の期間を除いて六十日以内に議決しなければ、衆議院は否決したものとみなせます」


「そのまま法律になるのか?」


「なりません!」


 私は即答しました。


「そこが罠です!」


 相馬先輩が笑いました。


「何の罠だよ」


「試験の罠です!」


 法律案の場合。


 六十日経過。


 参議院が否決したものとみなせる。


 でも。


 それだけで法律成立ではない。


 衆議院による三分の二以上の再可決が必要になる。


「ずいぶん慎重なんだな」


「法律は国民全体にルールを作るものですから」


 ここで沢渡課長が口を開きました。


「ただし、朝比奈さん」


「はい」


「その説明には、両院協議会も必要でしょう」


 来ました。


 さすが沢渡課長。


 黙って聞いているだけの人ではありません。


「はい。法律案で両院の議決が異なった場合、両院協議会を求めることもできます」


「必ず開くわけではありませんね」


「はい。法律案では、両院協議会を開くことは必須ではありません」


「正確です」


 課長が短く言いました。


 何でしょう。


 敵に採点されている気分です。


 しかも、ちょっと嬉しい。


 私は次の紙を出しました。


「では、予算はどうでしょう」


「予算は、先に衆議院へ提出します」


 私は憲法第六十条を開きました。


「これが予算先議権です」


「税金の使い道だからか」


 相馬先輩が聞きます。


「はい。国民の負担に関わる重要な問題なので、より民意を反映しやすい衆議院に先に審議させるんです」


「じゃあ参議院が反対したら?」


「両院協議会です」


「法律案と同じか?」


「違います」


 私は即答しました。


「予算で両院の議決が異なった場合は、両院協議会を必ず開かなければなりません」


「で?」


「それでも一致しなければ、衆議院の議決が国会の議決になります」


 相馬先輩が眉を上げました。


「三分の二で再可決しなくても?」


「はい」


「ほう」


「さらに、参議院が議決しない場合は――」


 私は紙に大きく書きました。


 三十日。


「法律案は六十日でしたよね」


「ああ」


「予算は三十日です」


「半分か」


「国の予算が長期間決まらなかったら困りますから」


 学校。


 道路。


 行政機関。


 さまざまな国の活動。


 予算が決まらなければ、国の仕事に大きな支障が出ます。


「だから」


 私は言いました。


「参議院が、衆議院の可決した予算を受け取ってから、国会休会中を除いて三十日以内に議決しなければ、衆議院の議決が国会の議決になります」


「自動的に?」


「憲法上、そうなります」


 ここが法律案との大きな違い。


 法律案。


 六十日経過だけでは、法律は成立しない。


 予算。


 三十日経過すれば、衆議院の議決が国会の議決になる。


「条約の承認についても、同じ三十日の仕組みが準用されます」


「なるほどな」


 相馬先輩が腕を組みました。


「じゃあ、総理大臣は?」


 私は微笑みました。


「もっと短いです」


 紙に書く。


 十日。


「十日?」


「はい」


 私は憲法第六十七条を指しました。


「衆議院と参議院が、別々の人を総理大臣に指名した場合は、両院協議会を開きます」


「それでも決まらなければ?」


「衆議院の指名が国会の議決になります」


「参議院が何も決めなかったら?」


「衆議院の指名後、国会休会中を除いて十日以内に参議院が議決しなければ、衆議院の指名が国会の議決になります」


「早えな」


「国の行政を担う内閣の長を、いつまでも決めないわけにはいきませんから」


 私は三枚の紙を並べました。


 法律案。


 六十日。


 予算・条約。


 三十日。


 総理大臣。


 十日。


 相馬先輩が、しばらく眺めていました。


「……おい」


「何です?」


「この数字、面倒くせえな」


「ですよね!」


 思わず本音が出ました。


「私もずっと思ってました!」


「だったら全部十日でいいだろ」


「それは駄目です!」


「何でだよ」


「法律と予算と総理大臣の指名では、求められる慎重さや、決定を急ぐ必要性が違うんです!」


 私は言いながら気づきました。


 ああ。


 そういうことか。


 受験生だったころ。


 数字を覚えることばかり考えていました。


 六十。


 三十。


 十。


 でも。


 それぞれ違うのには、理由がある。


 慎重に決めるべきこと。


 早く決めなければならないこと。


 その違いを、憲法は制度にしている。


「さらに」


 私は最後の項目を指しました。


「内閣不信任決議です」


 相馬先輩が顔を上げます。


「内閣を辞めさせるやつか」


「正確には、衆議院が内閣不信任決議案を可決するなどした場合、内閣は十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職しなければなりません」


「参議院でもできるのか?」


「憲法第六十九条の不信任決議は、衆議院だけです」


 私は指を立てました。


「参議院にも問責決議などはあります。でも、第六十九条のように、内閣総辞職か衆議院解散かという憲法上の効果を生むものではありません」


「つまり」


 相馬先輩が言いました。


「国民の選挙で入れ替わりやすい衆議院が、内閣の存続を左右するわけか」


「そうです」


 衆議院。


 解散がある。


 任期も短い。


 より頻繁に国民の意思を問う。


 だから。


 一定の重要事項では、参議院より強い権限を持つ。


 私は、沢渡課長に向き直りました。


「課長」


「はい」


「この勉強会で教えようとしているのは、こういう内容です」


 沢渡課長は黙っています。


「誰が法律を決めるのか。誰が予算を決めるのか。誰が総理大臣を指名するのか。内閣が国民の代表にどう責任を負うのか」


 私はチラシを指しました。


「これを市民が知らなかったら、政治家が何をしているのか、正しく判断することも難しいと思うんです」


 そして。


「それを教える会を、政治の話だからという理由で排除する」


 一度、息を吸いました。


「それこそ、民主主義の土台を弱くするんじゃありませんか?」


 部屋が静かになりました。


 沢渡課長は、少しだけ視線を落としました。


 しかし。


「お話は理解しました」


 そう言って、顔を上げます。


「ですが、国会制度の説明が有益であることと、市民会館を使用させる義務があるかどうかは、別の問題です」


 ……ですよね。


 来ました。


 正論です。


 憲法第五十九条をいくら説明しても、それだけで市民会館の使用許可が出るわけではありません。


 私は一瞬、言葉に詰まりました。


 すると。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「そこからが仕事だ」


「……はい」


「憲法の知識を披露するだけなら、学校の先生でもできる」


 私は顔を上げました。


「行政書士なら、何をする」


 私は、机の上の不許可通知を見ました。


 そうです。


 今回の依頼は。


 国会制度の授業ではありません。


 市民会館の不許可を、見直してもらうこと。


 そのためには。


 憲法の知識を、行政判断の問題へ結びつけなければならない。


「……意見書です」


 所長が頷きました。


「書け」


 翌日。


 片桐行政書士事務所。


 私たちは、一通の意見書を作りました。


 表題。


 ――市民会館使用不許可処分の再検討を求める法的意見書。


 相馬先輩が、私の下書きを読んでいます。


「……おい」


「はい」


「お前、いきなり『憲法違反である』って書いてるな」


「駄目ですか?」


「根拠を先に書け」


「はい」


「違憲って言葉は、でけえ金槌だ」


 先輩は紙を叩きました。


「釘がどこにあるか分からねえ奴が振り回すな」


 ……珍しく、かなり良いことを言いました。


 私は書き直しました。


 まず、事実。


 高瀬さんが市民会館を申し込んだこと。


 勉強会の目的が、国会制度に関する一般的な学習であること。


 特定政党への支持や反対を呼びかける内容ではないこと。


 参加者が平穏に学習する予定であること。


 具体的な危険や施設管理上の支障が確認されていないこと。


 次に、条例。


 市民会館条例では、正当な理由のない利用拒否は許されない。


 管理上の支障などがある場合には不許可とできる。


 ただし。


 何でも管理上の支障になるわけではありません。


 そして。


 憲法。


「二十一条です」


 私は書きました。


 集会の自由。


 表現の自由。


 国会制度について学び、意見を交わす活動は、その保障と深く関わる。


「政治的な内容だからこそ、慎重に扱わなければならないんですね」


 私が言うと、片桐所長が頷きました。


「そうだ」


「市が中立であることを理由に、住民の政治的な表現を一律に排除したら、本末転倒です」


「うん」


「しかも今回、市民が政治制度を学ぶことまで止めている」


 私は意見書に書き加えました。


 憲法第四十一条。


 国会は、国権の最高機関であり、国の唯一の立法機関である。


 憲法第五十九条、第六十条、第六十七条、第六十九条。


 衆議院と参議院の役割、衆議院の優越、内閣の国会に対する責任。


 それらの制度について市民が知識を得ることは、国民主権の実質的な基盤をなす。


「……よし」


 私はペンを置きました。


「これならどうですか?」


 片桐所長が読みました。


 相馬先輩も読みました。


 そして。


「まだ甘い」


 所長が言いました。


「どこがです?」


「仮に市が施設管理上の危険を主張するなら、どうする」


「……危険の具体性を確認します」


「なぜだ」


「漠然とした不安だけで集会の自由を制限したら、行政の判断が広すぎるからです」


「ほかには」


「目的と手段です」


 私は、現代で学んだ憲法の考え方を思い出しました。


 目的は正当か。


 手段は合理的か。


 権利への制約は必要な範囲か。


 より制限の少ない方法はないか。


 もちろん、すべての憲法問題を一律の基準で判断できるわけではありません。


 でも。


 今回なら。


「施設の安全を守る目的自体は正当です」


「ああ」


「でも、それなら警備や利用条件の調整で対応できないかを検討すべきです。具体的危険も確認せず、不許可にするのは過剰です」


「そうだ」


「しかも、苦情を言った人の不快感を理由に集会を封じることになってしまう」


 所長が頷きました。


「そこだ」


 私は最後の一文を書きました。


 ――本件不許可処分は、憲法第二十一条の保障する集会・表現の自由との関係で重大な疑義があり、施設管理上の必要性を具体的に示さないまま維持することは、違憲・違法と評価される危険がある。


 書き終えて、私は少し息を吐きました。


「……できました」


 相馬先輩が笑いました。


「ようやく役所に出せる文章になったな」


「最初から結構よかったと思うんですけど」


「最初は『憲法違反です!』って叫んでただけだろ」


「言い方!」


 片桐所長は、完成した意見書を封筒に収めました。


「行くぞ」


 私は立ち上がりました。


 最高法規。


 憲法。


 今から、それを持って市役所へ行きます。


「……なるほど」


 沢渡課長は、意見書を最後まで読みました。


 表情は変わりません。


 けれど。


 いつもより、読む速度が遅かった。


「憲法第二十一条ですか」


「はい」


「国会制度についての学習会も、集会・表現の自由として保護される活動だと」


「そうです」


 私は答えました。


「しかも、政治的な制度についての学習と意見交換です」


「……」


「市が政治的に中立であることと、市民が政治について学ぶ自由を奪うことは違います」


 沢渡課長は、意見書を机に置きました。


「市側にも、公共施設の管理責任があります」


「もちろんです」


 片桐所長が言いました。


「だが課長」


「はい」


「何が危険なのか」


 沢渡課長は答えません。


「誰が反対しているのか、ではない」


 所長の声は静かでした。


「何が起きると判断したのか。その根拠は何か」


 少しの沈黙。


 沢渡課長は、指先で通知書を整えました。


「現時点では、具体的な混乱を予測させる資料はありません」


「ならば」


「ただし、苦情があることは事実です」


「苦情は判断資料の一つにはなる」


 所長が言いました。


「だが、苦情があるだけで集会を禁止できるなら、反対者に事実上の拒否権を与えることになる」


 沢渡課長の目が細くなりました。


 相馬先輩が続けます。


「世間の常識? 俺たちが守ってんのは法律だ」


 課長は黙っています。


「政治の話を聞きたくねえ奴は、参加しなきゃいい」


 先輩が低い声で言いました。


「なのに、勉強したい奴まで黙らせるのか?」


 沢渡課長は、しばらく考えていました。


 そして。


「……一点、確認します」


 私を見ました。


「高瀬さんの勉強会は、特定の政治家や政党を支持するものではない。そうですね」


「はい」


「会場での勧誘活動もない」


「ありません」


「テーマは国会制度。憲法上の衆議院の優越などを説明する」


「そのとおりです」


「具体的な施設管理上の支障も、現時点では確認されていない」


 沢渡課長は、そこで言葉を切りました。


「そうであれば」


 私は息を止めました。


「政治的な内容を含むという理由だけで不許可を維持することには、法的な問題が残ります」


 ……来た。


 沢渡課長が、認めた。


 ただし。


 その顔は、敗北した人間の顔ではありませんでした。


 むしろ。


 計算を終えた人の顔でした。


「施設担当課に再検討させます」


「では、許可を?」


「現時点で私が許可を出すとは申し上げられません」


 ですよね。


 沢渡課長は、机の上の書類を揃えました。


「使用許可の権限と手続は、条例に従う必要があります。私がここで結論を約束するわけにはいきません」


「分かっています」


 片桐所長が頷きました。


「ただし」


 沢渡課長は続けました。


「今回の不許可理由については、改めて審査する必要があると考えます」


 私は、思わず拳を握りました。


 大きな勝利ではありません。


 でも。


 昨日まで。


 政治の話だから駄目。


 地元が反対しているから駄目。


 公共の福祉だから駄目。


 そう言われていたものが。


 今は。


 具体的な危険はあるのか。


 制限する必要があるのか。


 法律上、正当化できるのか。


 その土俵に戻った。


 これだけでも、大きな前進でした。


 三日後。


 高瀬さんが事務所へ駆け込んできました。


「許可が出ました!」


 私は椅子から立ち上がりました。


「本当ですか!」


「はい!」


 高瀬さんは、両手で新しい通知書を握っていました。


 市民会館使用許可。


 申請どおりの日程。


 一般的な施設利用上の条件は付いていましたが、勉強会の内容そのものを制限するものではありません。


「よかった……!」


 私は思わず笑いました。


 高瀬さんの目には、涙が浮かんでいました。


「私、もう諦めようかと思ってたんです」


「……はい」


「政治のことを勉強するなんて、女が余計なことをするからだって、近所でも言われて」


 高瀬さんは、許可書を見ました。


「でも、法律は違うんですね」


 私は頷きました。


「はい」


「私たちにも、知る権利がある」


「あります」


「集まって勉強してもいい」


「もちろんです」


 高瀬さんは、少しだけ笑いました。


「当たり前のことなのにねえ」


 その言葉が、胸に残りました。


 当たり前。


 そう。


 本当は当たり前なのです。


 国民が国会の仕組みを知る。


 政治家がどう選ばれ、何を決めるのかを学ぶ。


 自分の税金が、どのような手続で使われるのかを知る。


 それは、誰かの特別な許可を得なければできないことではありません。


 なのに。


 時代の空気が、それを難しくする。


 憲法の条文は変わっていない。


 でも。


 社会の常識は、人の自由を簡単に狭くしてしまう。


 私は、初めて実感しました。


 憲法は。


 国家権力を縛る法律なのだと。


 日曜日。


 午後二時。


 湖西市民会館。


 私は、高瀬さんの勉強会を覗きに来ていました。


「……結構、人がいますね」


 隣の相馬先輩に言います。


「三十人くらいか」


「もっと少ないと思ってました」


「お前、失礼だな」


「そういう意味じゃなくて!」


 会場には、いろいろな人がいました。


 若い母親。


 仕事帰りらしい男性。


 高校生。


 年配の夫婦。


 そして。


 小学生くらいの男の子が、最前列に座っていました。


 壇上では、元高校教師の男性が黒板に大きく数字を書いています。


 六十。


 三十。


 十。


「この数字を覚えてください」


 先生が言いました。


「法律案は六十日、予算や条約は三十日、総理大臣の指名は十日です」


 私は思わず笑いました。


 ……出た。


 受験生を苦しめる数字たち。


 先生は続けました。


「ただし、法律案の六十日と、予算の三十日では効果が違います。法律案は、六十日が過ぎただけで法律になるわけではありません」


 私は大きく頷きました。


 そうです。


 そこ、大事です。


「なぜ違うんですか?」


 最前列の男の子が手を挙げました。


「いい質問です」


 先生が微笑みました。


「法律を作るときには、慎重に考える必要があります。でも、予算や総理大臣の指名は、いつまでも決まらないと国の仕事が困ります」


「じゃあ、衆議院のほうが偉いんですか?」


 先生は首を振りました。


「偉い、というより、役割が違うんです」


「役割?」


「参議院は、衆議院とは違う角度から考える役割があります。でも、どうしても決めなければならないときには、衆議院の決定を優先する仕組みがあるんです」


 男の子は、少し考えてから言いました。


「じゃあ、話し合うのをやめるためじゃなくて、最後に決めるためなんですね」


 先生が笑いました。


「そのとおりです」


 私は、胸の奥が温かくなりました。


 ああ。


 そうなんです。


 衆議院の優越は、参議院を黙らせるための仕組みではない。


 反対意見を無意味にする仕組みでもない。


 話し合う。


 考える。


 意見が違えば、調整する。


 それでも決まらなければ。


 国の意思を決定する。


 そのために、憲法が用意した仕組みなのです。


 そして。


 その仕組みを知ることは。


 国民が、政治を人任せにしないための第一歩でもある。


 私は隣の相馬先輩を見ました。


「先輩」


「何だ」


「憲法って、思ってたより実務で使いますね」


「今さらか」


「受験生のころ、憲法なんて判例暗記だけだと思ってました」


「馬鹿だな」


「否定しません」


 相馬先輩は、壇上を見ました。


「お前が今日覚えとくべきことは、数字だけじゃねえぞ」


「……はい」


「衆議院だろうが参議院だろうが、国民が知らなきゃ意味がねえ」


 私は、もう一度会場を見渡しました。


 男の子がノートを取っています。


 高瀬さんが資料を配っています。


 年配の女性が、先生に質問しています。


 誰も怒鳴っていません。


 誰も暴れていません。


 ただ。


 国会の仕組みを学んでいる。


 それだけです。


 この光景を守るために。


 憲法第二十一条を使った。


 そして。


 国会の仕組みを理解するために、憲法第五十九条、第六十条、第六十七条、第六十九条を使った。


 憲法は、一つの条文だけで働くわけではありません。


 国の仕組みを決める条文。


 国民の自由を守る条文。


 それらがつながっている。


 だから。


 国民は、政治を知ることができる。


 そして。


 知った国民が、次の政治を選ぶ。


 衆議院の優越が意味を持つのも、その選択があるからなのです。


 翌朝。


 片桐行政書士事務所。


 机の上には、高瀬さんから届けられた一通の礼状がありました。


 中には、勉強会の写真。


 そして。


 小さな紙切れが一枚。


 最前列にいた男の子からの手紙でした。


 ――ぼくは、衆議院と参議院がけんかしたら、どうなるのか知りたかったです。


 ――でも、ちゃんと決める方法があると分かりました。


 ――大人になったら、選挙に行きたいです。


 私は、その三行を何度も読みました。


「……所長」


「何だ」


「これ、すごいですね」


 片桐所長は、手紙に目を落としました。


「そうだな」


「私たちが守ったのって、会館を使う権利だけじゃなかったんですね」


「うん」


「この子が、政治を知る機会も守ったんですね」


 所長は、静かに頷きました。


「憲法は、今いる人間だけのためにあるわけじゃない」


「……はい」


「次の世代にも、自由な国を渡すためにある」


 私は、手紙をそっと机に置きました。


 六十日。


 三十日。


 十日。


 三分の二。


 あれほど面倒だった数字が、今日は少しだけ違って見えました。


 それは。


 ただの試験問題の答えではありません。


 意見が違っても。


 国を止めない。


 話し合いを無意味にしない。


 国民の意思を、最後の決定へつなぐ。


 そのための数字。


 そして。


 その仕組みを知る自由まで、憲法は守っている。


「こはる」


 相馬先輩が声をかけました。


「はい」


「昨日の勉強会、ちゃんと覚えたか」


「もちろんです」


「じゃあ問題」


「え?」


「法律案。参議院が六十日議決しなかったら?」


「衆議院が否決とみなすことができます。その後、出席議員の三分の二以上で再可決すれば法律になります」


「予算は?」


「三十日。衆議院の議決が国会の議決になります」


「総理大臣は?」


「十日です」


「内閣不信任は?」


「衆議院だけ。可決されたら、十日以内に衆議院が解散されない限り内閣総辞職です」


「よし」


 先輩が頷きました。


「最後」


「まだあるんですか?」


「この事務所の昼飯、何にする?」


「……はい?」


「俺はラーメン」


「私はカレーです」


「意見が割れたな」


「そうですね」


「じゃあ衆議院の優越だ」


「誰が衆議院なんですか!」


「俺」


「勝手に決めないでください!」


 相馬先輩が、にやりと笑います。


「俺のほうが先輩だ」


「衆議院が優越するのは、先輩だからじゃありません!」


「じゃあ何だ」


「民意をより反映しやすいからです!」


「だったら所長に聞くか」


 所長。


 片桐所長は、帳簿から顔を上げました。


「そば」


「……」


「……」


 三人の意見が割れました。


 相馬先輩が腕を組みます。


「両院協議会だな」


「三院になってますけど!」


「じゃあ多数決」


「全員一票ずつですよ!」


 片桐所長が、静かに言いました。


「昼飯代は俺が出す」


 私は背筋を伸ばしました。


「そばでお願いします」


「おい、こはる!」


「予算編成権者の意向は重要です!」


「お前、さっきまで民意がどうとか言ってただろ!」


「財政の現実も大事です!」


 片桐所長は、ほんの少し笑いました。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 どうやら。


 私たちの昼食会議には、まだ憲法のような立派な決定手続がありません。


 でも。


 今日の私は、一つだけ確信していました。


 憲法は、誰かを黙らせるための法律ではない。


 違う意見を持つ人たちが、それでも一つの国で生きていくための法律なのだ。


 私は、男の子の手紙をもう一度見ました。


 大人になったら、選挙に行きたい。


 その一行が。


 どんな法律の条文よりも、今日は明るく見えました。

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