[憲法・国会の会期と議決の原則]現場編 「国会が閉まっているから、何もできません」の嘘。四分の一で開く国会、三分の一で動く議場――昭和の沈黙を破る、憲法の数字
多数決は、何でも決められる魔法ではありません。
何人集まれば会議を開けるのか。
何人賛成すれば決められるのか。
そして。
そもそも、誰に会議を開かせる権限があるのか。
その数字を間違えると。
少数派の声は、議論される前に消されてしまいます。
昭和六十三年。
六月。
片桐行政書士事務所。
「国会って、閉まるんですね」
私は新聞を広げながら呟きました。
「当たり前だろ」
向かいの机で相馬先輩が煙草に火をつけます。
「一年中やってたら、議員だって地元に帰れねえ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
新聞には、五月二十五日に閉会した通常国会の記事が載っていました。
正確には、第百十二回国会。
前年の十二月二十八日に召集され、百五十日間の会期を終えたところです。
「なんか変な感じがするんですよ」
「何が」
「国権の最高機関なのに、営業時間があるんだなって」
「営業時間って言うな」
「国会議事堂、年中無休じゃないんですね」
「コンビニじゃねえんだぞ」
ごもっとも。
私は新聞を畳みました。
現代の行政書士試験では、国会の会期は暗記項目です。
常会。
臨時会。
特別会。
参議院の緊急集会。
四種類。
覚えれば終わり。
そう思っていました。
そのとき。
事務所の引き戸が、勢いよく開きました。
「すみません!」
入ってきたのは、四十代半ばくらいの女性でした。
紺色のブラウス。
日に焼けた腕。
手には、何枚もの署名用紙。
「こちらで、役所に出す書類を作っていただけると聞いて」
片桐所長が顔を上げます。
「どうぞ」
女性は椅子に座るなり、署名用紙を机に置きました。
「私たちの集会を、市役所に止められたんです」
名前は、三浦美代子さん。
湖西市の海沿いの地区で、小さな水産加工場を営んでいるそうです。
その地区では、春先の高潮被害によって護岸の一部が壊れ、道路が何度も冠水していました。
市は応急修繕を行った。
しかし、抜本的な改修には多額の予算が必要。
県や国の支援も求めているものの、話は進んでいない。
「もうすぐ台風の季節なんです」
三浦さんは言いました。
「このままじゃ、また工場に水が入ります」
「市には要望を?」
私が尋ねると、三浦さんは頷きました。
「何度もしました。でも、国の予算も関係するから、すぐには決められないって」
「なるほど」
「それで、住民で集まって、国会議員にも働きかけようってことになったんです」
署名は、すでに二百三十七人分。
国会で災害対策を議論してほしい。
必要な財政措置を検討してほしい。
そのための陳情集会を、市民会館で開こうとした。
ところが。
「使用申請を出したら、難色を示されまして」
三浦さんが一枚の文書を取り出しました。
市民会館の使用許可申請について、政治的対立を招くおそれがあるため、現時点では許可を差し控える。
「……政治的対立?」
私は読み直しました。
「護岸工事の要望ですよね?」
「そうです」
「特定の政党の選挙運動ですか?」
「違います。困っている住民が集まるだけです」
「暴力的な行動を予定しているとか?」
「そんなこと、ありません」
相馬先輩が書面を取りました。
「理由が妙だな」
「役所では、こう言われました」
三浦さんは唇を噛みました。
「国会も閉会している。国のことを騒いでも仕方がない。地元の和を乱すようなことは控えてほしいって」
私は思わず顔を上げました。
「……国会が閉まってるから?」
「はい」
「それ、理由になるんですか?」
片桐所長は答えず、書面の日付を確認しました。
まだ正式な不許可処分ではない。
使用許可を留保し、申請の取下げを促している段階らしい。
だからこそ厄介です。
行政指導という形で、
自分から諦めてください。
と言われている。
「市役所の担当者は、ほかにも何か?」
所長が尋ねました。
「国会を開くには大勢の議員が必要なんだから、地方の署名くらいでは何も変わらない、と」
その言葉に。
私の中で、何かが引っかかりました。
大勢の議員。
国会を開く。
待って。
それ、憲法に数字が書いてありますよね?
市役所の二階。
総務課。
「また皆さんですか」
沢渡課長は、私たちの顔を見るなり書類を閉じました。
「今日は何でしょう」
「市民会館の件だ」
相馬先輩が通知を置きます。
「三浦美代子さんたちの集会」
「ああ。海岸地区の要望集会ですね」
沢渡課長はすぐに理解しました。
「担当課から報告は受けています」
「じゃあ話が早い。何で使わせねえ」
「使用を認めないと決定したわけではありません」
沢渡課長は淡々と言いました。
「市民会館は公共施設です。利用者間の紛争や施設管理上の支障を避ける必要があります」
「紛争?」
「地元では意見が割れています」
なるほど。
地区には、国への要望活動を積極的に進めたい人もいれば、政治的な集会には関わりたくない人もいる。
そのうえ。
「国会も閉会中です」
沢渡課長が続けました。
「今すぐ国会で議論される状況ではありません。無用な対立を招くより、行政間の調整を待つほうが現実的だと考えています」
私は思わず口を開きました。
「でも、国会って臨時に開けますよね?」
「もちろんです」
即答。
あれ。
「じゃあ、閉会中だから意味がない、という説明は……」
「集会の必要性を判断するうえでの一事情です」
沢渡課長は落ち着いています。
「国会の召集と、市民会館の使用許可は別問題です。国会を開ける制度があるからといって、市がすべての集会を無条件に許可する義務を負うわけではありません」
……強い。
この人、本当に嫌なところを突いてきます。
正しい。
国会を開く制度があることと、市民会館を使わせる義務があることは、直接にはつながりません。
私は口を閉じました。
「朝比奈さん」
「はい」
「憲法の条文を知っていることと、目の前の行政判断を覆せることは違いますよ」
痛い。
痛すぎる。
憲法の教科書で殴られた気分です。
沢渡課長は続けました。
「公共の福祉という観点からも、地域社会の秩序や施設の適正管理は無視できません」
公共の福祉。
出ました。
昭和の役所が大好きな言葉。
もちろん、本来は重要な憲法上の概念です。
でも。
今の話には、妙なものが混ざっています。
地元の和。
政治的対立。
国会の閉会。
それらを全部まとめて、
公共の福祉。
という箱に放り込んでいないでしょうか。
「一度、戻りましょう」
片桐所長が言いました。
相馬先輩が振り向きます。
「所長?」
「整理が足りん」
私は唇を噛みました。
負けた。
少なくとも、今日のところは。
事務所へ戻る道すがら。
私はひどく腹が立っていました。
「国会が閉まってるから集会は意味がないって、変じゃないですか」
「ああ」
「地元で意見が割れてるから駄目って、それじゃ少数派は何も言えないじゃないですか」
「ああ」
「先輩、ちゃんと聞いてます?」
「聞いてる」
相馬先輩が煙草をくわえます。
「お前、今いくつ論点を混ぜた?」
「……え?」
「三つだ」
先輩が指を立てました。
「国会を召集できるか」
二本目。
「市民会館を使わせるべきか」
三本目。
「公共の福祉を理由に、住民の意見表明を制限できるか」
「……確かに」
「全部別だ。ごちゃ混ぜにして喋るから、沢渡に切られる」
悔しい。
でも正しい。
「じゃあ、まず国会から調べろ」
「国会?」
「ああ。あいつが持ち出した話だ。だったら、その説明が本当に筋の通ったものか、きっちり調べてやれ」
事務所に戻った私は、六法全書を開きました。
日本国憲法。
第五十二条。
常会。
第五十三条。
臨時会。
第五十四条。
特別会と緊急集会。
ページをめくる。
第五十五条。
議員の資格争訟。
第五十六条。
定足数と表決数。
第五十七条。
会議の公開。
私は、しばらく黙りました。
「……あれ?」
「どうした」
相馬先輩が顔を上げます。
「条文、同じだ」
「何と?」
「いえ、何でもありません」
危ない。
また未来の話をするところでした。
私は現代の行政書士受験生。
昭和六十三年へ転生してきた人間です。
行政手続法も。
行政不服審査法も。
時代が違えば制度が違う。
ところが、日本国憲法は違います。
公布以来、一字一句改正されていない。
私が令和の受験テキストで読んだ条文と、目の前の六法に載っている条文は同じです。
ただし。
同じ条文があっても、社会の空気が違う。
政治的なことを言うな。
地域の和を乱すな。
少数派は黙っていろ。
そんな空気が、ここには濃く残っている。
私は第五十三条を指でなぞりました。
――いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。
「……四分の一」
思わず声が漏れました。
「先輩」
「何だ」
「臨時国会を開く要求って、過半数じゃないんですよ」
「そうだな」
「四分の一でいい」
「ああ」
「つまり、少数派にも国会の召集を要求する道がある」
相馬先輩が頷きました。
「そこが大事だ」
「でも、実際に召集を要求できるのは国会議員です。三浦さんたちが署名を集めただけで、内閣に召集義務が発生するわけじゃない」
「そのとおり」
「だから、国会議員に働きかける意味があるんですね」
私は一気に顔を上げました。
「国会が閉まっているから意味がない、じゃない」
むしろ。
閉まっているときに動かすための制度がある。
「そういうことだ」
相馬先輩が笑いました。
「ただし、四分の一集めりゃ国会が即日開くと思うなよ」
「分かってます」
憲法第五十三条は、内閣に召集決定の義務を課しています。
でも、条文には具体的に何日以内とまでは書かれていません。
要求したその日に国会が開くわけではない。
それでも。
必要な少数派の声を、制度として無視できないようにしている。
「……これ、すごいですね」
「今さらか」
「受験生のころは『四分の一』って数字しか見てませんでした」
私はノートに書きました。
――国会は、多数派だけが開くものではない。
すると。
「こはる」
奥から片桐所長が声をかけました。
「第五十六条も読め」
「はい?」
「国会を開いたあと、何人いれば議事を開ける」
私は条文を読みました。
総議員の三分の一以上。
「三分の一です」
「議決は」
「原則、出席議員の過半数」
「総議員の過半数か」
「違います。出席議員の過半数です」
所長が頷きます。
「それを忘れるな」
私は少し考えました。
例えば。
総議員が三百人の議院なら。
百人以上が出席すれば、議事を開いて議決できる。
ちょうど百人が出席した場合、通常の議決なら五十一人の賛成で可決できる。
「……総議員三百人なのに、五十一人で決まる場合がある?」
思わず声が大きくなりました。
「定足数を満たしているならな」
相馬先輩が答えます。
「じゃあ、何でも五十一人で決められるんですか?」
「何でもじゃねえ」
所長が言いました。
「憲法が特別の多数を要求しているものがある」
私はページをめくりました。
資格争訟によって議員の議席を失わせる。
出席議員の三分の二以上。
秘密会を開く。
出席議員の三分の二以上。
議員を除名する。
出席議員の三分の二以上。
さらに。
衆議院で法律案を再可決する場合。
出席議員の三分の二以上。
私は思わず額を押さえました。
「数字が多い!」
「受験生みてえな反応だな」
「受験生ですから!」
「見習いの仕事に戻れ」
「今、仕事のために勉強してるんです!」
相馬先輩が笑います。
でも。
数字を追いかけているうちに、気づきました。
これらは単なる暗記項目ではありません。
誰かの議席を奪う。
会議を非公開にする。
参議院で否決された法律案を衆議院で再び可決して成立させる。
そういう重要な場面では、普通の多数決よりも厳しい数字が要求される。
そして。
「所長」
「何だ」
「憲法改正は?」
「第九十六条だ」
私は慌ててページをめくりました。
両議院のそれぞれにおいて、総議員の三分の二以上の賛成。
「……あ」
「分かったか」
「ここは、出席議員じゃない」
「そうだ」
「総議員の三分の二以上」
私は赤鉛筆で二重線を引きました。
たった二文字。
総議員。
出席議員。
この違いで必要な賛成数が大きく変わる。
つまり憲法は。
何人集まるべきか。
何人賛成すべきか。
それを、決める内容の重さに応じて使い分けている。
「……なるほど」
私は呟きました。
「多数決って、ただの人数勝負じゃないんですね」
片桐所長が頷きました。
「ようやく気づいたか」
翌日。
私たちは三浦さんに集会の具体的な予定を確認しました。
目的。
国への災害対策要望。
参加予定者。
約八十人。
内容。
被害状況の報告。
署名活動の説明。
国会議員への陳情書案の検討。
施設の定員内。
騒音を発する予定なし。
特定の政党への投票依頼もなし。
反対意見を持つ住民の参加も妨げない。
「反対する人にも来てもらうんですか?」
三浦さんが驚きました。
「もちろん、無理に招く必要はありません」
私は答えました。
「でも、違う意見があるから集会を禁止する、という話なら、むしろ議論する機会を閉ざしてしまいます」
相馬先輩が腕を組みました。
「そういうことだ」
「でも、けんかになったら……」
「そこは運営方法を工夫しましょう」
私は紙に書きました。
発言時間。
司会者。
質疑応答。
会場整理。
万一の混乱への対応。
行政に対して、
絶対に何も問題は起きない。
などと無責任なことは言えません。
ただ。
具体的な危険がないのに、意見が割れるというだけで利用を止めることが許されるのか。
そこを問うのです。
「所長、これでどうでしょう」
私は書類を差し出しました。
片桐所長は黙って目を通します。
「まだ足りん」
「えっ」
「市民会館の設置管理条例を確認したか」
「……まだです」
「国会の条文だけで、市民会館の使用許可を争うつもりか」
ぐっ。
痛いところを。
「国会の召集制度を説明しただけでは、市の使用許可判断は覆せない」
「はい」
「この施設は、公の施設だ」
「地方自治法第二百四十四条」
「そうだ」
正当な理由なく、住民の利用を拒んではならない。
不当な差別的取扱いもしてはならない。
そして。
政治的な意見を表明する集会には、憲法第二十一条の保障が関わってくる。
私はようやく、昨日の沢渡課長の言葉を思い出しました。
国会を開けるか。
市民会館を使えるか。
表現の自由を制限できるか。
三つの論点。
別々に整理しなければいけない。
でも、全部が無関係というわけでもない。
国会に働きかけるための集会。
それは、国民主権の下で住民が政治的意見を表明する、大切な活動の一つです。
「所長」
「何だ」
「書き直します」
「そうしろ」
私は原稿用紙を引き寄せました。
三日後。
市役所総務課。
沢渡課長の机に、私たちは一通の意見書を置きました。
表題。
――市民会館使用許可申請に関する法的意見書。
作成者。
片桐行政書士事務所。
依頼者。
三浦美代子。
添付書類。
集会実施計画書。
施設使用条件への対応案。
国会の会期及び議事に関する憲法上の整理。
「……ずいぶん調べられましたね」
沢渡課長が言いました。
「必要なことですから」
片桐所長が答えます。
私は緊張で背筋を伸ばしました。
「課長」
「はい」
「まず、国会が閉会しているから集会に意味がない、という説明についてです」
沢渡課長が頷きました。
「どうぞ」
「国会は、一年中開いているわけではありません。でも、閉会中に重要な問題が生じた場合、臨時会という制度があります」
「憲法第五十三条ですね」
「はい」
私は条文を示しました。
「内閣は、必要に応じて臨時会の召集を決定できます。そして、衆議院か参議院のいずれかの総議員の四分の一以上が要求した場合には、内閣は召集を決定しなければなりません」
「そのとおりです」
「もちろん、住民の署名だけで臨時会が開かれるわけではありません」
「ええ」
「だからこそ、住民が国会議員に事情を伝え、臨時会での審議を働きかけることには意味があります」
沢渡課長は黙って聞いています。
「常会が閉会していることは、住民の陳情活動が無意味である理由にはなりません」
「……その点は認めましょう」
小さな前進。
私は続けました。
「そして、国会は会議を開くにも、議決するにも、憲法上の人数が決まっています」
私は第五十六条を示しました。
「各議院で、総議員の三分の一以上の出席が必要です。通常の議決は、出席議員の過半数です」
「ええ」
「重要な例外では、さらに厳しい多数が必要です」
「その説明は理解しています」
沢渡課長が眼鏡を押し上げました。
「ですが、それが市民会館の使用許可とどう関係するのでしょう」
来た。
ここです。
昨日までの私なら、
憲法の規定なんです!
と勢いで押し切ろうとしたでしょう。
でも、今日は違います。
「直接の許可基準ではありません」
私は答えました。
沢渡課長が、少しだけ眉を上げます。
「ほう」
「国会の定足数や表決数を、そのまま市民会館の利用に当てはめることはできません」
「そのとおりです」
「ただ、重要なのは、憲法が少数派の声や議決手続を制度として保障しているということです」
私は意見書の次の項目を指しました。
「住民が国会議員へ意見を伝えること自体は、正当な政治参加です。その意見が市の方針と異なるからといって、活動を排除することはできません」
そして。
「市民会館の使用許可については、地方自治法第二百四十四条と憲法第二十一条の問題になります」
沢渡課長の表情が、少し変わりました。
「具体的には?」
「今回の集会で、施設の管理にどのような支障が生じると判断されたのでしょうか」
「住民間の対立です」
「対立があること自体は、具体的な管理上の支障でしょうか」
沈黙。
私は続けました。
「集会では暴力行為を予定していません。会場の定員も守ります。反対意見を持つ人を排除するものでもありません」
「それは計画上の話でしょう」
「はい。ですから、必要な管理条件を付けることまで否定していません」
私は資料を差し出しました。
「でも、単に政治的な意見が対立するという理由だけで利用を差し控えさせるのは、表現の自由に対する過度の制約になるおそれがあります」
沢渡課長が資料を読みます。
ゆっくり。
一枚ずつ。
この人は、感情で押しても動きません。
けれど。
法的な根拠と事実関係を積み上げれば、必ず検討する。
それが、この人の怖いところであり、信頼できるところでもあります。
「市民会館の条例には」
沢渡課長が口を開きました。
「管理上の支障があるときは、使用を許可しないことができる旨の規定があります」
「承知しています」
片桐所長が答えました。
「その規定自体を否定するつもりはありません」
「では」
「問題は、何を管理上の支障と認定するかです」
所長の声は静かでした。
「地域で意見が分かれている。それだけで集会を止められるなら、政治的な集会ほど使用許可を得にくくなる」
「……」
「憲法第二十一条との関係を検討せずに、そのような運用を続けるのは危険です」
沢渡課長が口を閉じました。
相馬先輩が、そこで身を乗り出しました。
「課長」
「何でしょう」
「世間の常識って便利だよな」
「……どういう意味ですか」
「地元の和だの、みんなが困るだの、そういう話だ」
相馬先輩は意見書を指で叩きました。
「だがな。多数派が気に入らねえ意見を言わせないために、市の施設を使わせねえってんなら、それは話が違う」
「そのような意図はありません」
「意図の話じゃねえ」
先輩の声が少し低くなりました。
「結果として、そうなってねえかって話だ」
私は思わず息を呑みました。
相馬先輩が続けます。
「世間の常識? 俺たちが守ってんのは法律だ」
部屋が静まりました。
沢渡課長は、しばらく書類を見つめていました。
やがて。
「一点、確認させてください」
意外な言葉でした。
「三浦さんたちの集会は、市の担当部署を非難することを目的としていますか」
「いいえ」
私は答えました。
「主な目的は、災害対策の現状報告と国への要望活動です。ただし、市の対応について批判的な意見が出る可能性はあります」
「そこを隠さないのですね」
「隠す理由がありません」
「……なるほど」
沢渡課長が椅子に深く座り直しました。
「市として、施設管理上の危険を放置することはできません」
「はい」
「しかし、意見の相違そのものを危険と扱うことにも問題がある」
私は頷きました。
「そのとおりです」
「現状の資料では、使用許可を留保し続けるだけの具体的な支障を示すことは難しいでしょう」
……え?
「では」
私は思わず身を乗り出しました。
「許可を?」
「担当課に再検討を指示します」
沢渡課長は即答を避けました。
「実施計画を確認し、通常の使用条件を満たしているなら、政治的な意見の対立だけを理由に利用を制限しない方向で整理します」
相馬先輩が口元を緩めました。
「話が早いじゃねえか」
「誤解しないでください」
沢渡課長は淡々と言いました。
「私は、法的に維持できない判断を続けることに利益がないと考えているだけです」
……合理的。
どこまでも合理的。
でも。
私は、この人のそういうところを少しだけ好きになりかけていました。
◇
二日後。
市民会館の使用許可が下りました。
三浦さんは事務所へ駆け込んできました。
「使えることになりました!」
手には正式な使用許可書。
「本当に、ありがとうございました!」
私は思わず立ち上がりました。
「よかったです!」
相馬先輩が横から言います。
「まだ何も解決してねえぞ」
「分かってます!」
三浦さんも頷きました。
「はい。護岸の工事も、国の予算も、まだです」
それでも。
「みんなで集まって、これからどうするか話せるんです」
その言葉が、胸に残りました。
集会を開ける。
意見を出せる。
反対する人も、賛成する人も、話せる。
それだけのこと。
でも。
その「それだけ」を奪われたら、人は自分たちの未来について話し合う機会さえ失ってしまいます。
私は三浦さんに尋ねました。
「集会では、国会の仕組みも説明する予定ですか?」
「はい。でも、難しくて」
「簡単な資料を作りましょうか」
「お願いできます?」
そこで、相馬先輩が嫌な笑みを浮かべました。
「こはる」
「はい」
「せっかくだ。国会の会期も全部説明してやれ」
「全部?」
「ああ」
私は顔をしかめました。
「常会、臨時会、特別会、緊急集会……」
「そうだ」
「数字も多いんですよね」
「お前、昨日あんなに楽しそうに調べてたじゃねえか」
「仕事になると話は別です!」
それでも私は、翌日の午後までかけて資料を作りました。
難しい言葉は減らす。
図を描く。
誰が、いつ、何をできるのか。
まずそこだけを伝える。
常会は毎年一回。
昭和六十三年の国会法では、十二月中に召集するのが常例。
会期は百五十日。
臨時会は必要に応じて召集する。
総議員の四分の一以上の議員が要求すれば、内閣は召集を決定しなければならない。
衆議院が解散した場合には、四十日以内に総選挙。
選挙から三十日以内に国会を召集する。
それが特別会。
そして。
衆議院が解散され、参議院も閉会となっている間に、国に緊急の必要が生じた場合。
内閣は、参議院の緊急集会を求めることができる。
「……これ、災害の話と関係ありそうですね」
私は呟きました。
「どうした」
相馬先輩が覗き込みます。
「衆議院が解散している最中でも、国に重大な緊急事態が起きたら、参議院が動ける場合があるんですね」
「ああ」
「つまり、衆議院が解散しているから、何が起きても国会は何もできません、とはならない」
「そういうことだ」
「ただし、緊急集会の措置は臨時的なもの」
私は資料に書き加えました。
――次の国会開会後十日以内に衆議院の同意がなければ、効力を失う。
「参議院だけで、いつまでも決められるわけじゃないんですね」
「当然だ」
片桐所長が言いました。
「緊急の必要に応える制度と、二院制を守る仕組み。その両方がある」
私は頷きました。
そして、資料の最後に大きな文字を書きました。
――国会は、閉会中でも、必要なときに動くための仕組みがある。
これなら伝わるでしょうか。
集会当日。
市民会館には、七十人ほどの住民が集まりました。
漁師。
加工場の従業員。
商店主。
子どもを連れた母親。
そして、護岸工事より別の対策を優先すべきだと考える人もいました。
最初は、少し険悪でした。
「国に頼ったって無駄だ!」
「市が先にやるべきだろう!」
「そんなこと言ってたら、また水が入る!」
声が飛び交う。
私は会場の後ろで、思わず肩をすくめました。
やっぱり。
意見が違う人が集まれば、対立は起きます。
でも。
三浦さんがマイクを握りました。
「皆さん」
会場が静まります。
「私たちは、全員が同じ意見になるために集まったわけではありません」
その声は、少し震えていました。
「国にお願いしたいことも、市にお願いしたいことも、それぞれ違うと思います」
そして。
「でも、今年の台風が来る前に、何かできないか。それを話したかったんです」
誰も、すぐには反論しませんでした。
三浦さんは続けました。
「国会は、いま閉会しています。でも、必要なときには臨時に開く仕組みがあるそうです」
私は小さく頷きました。
「私たちの署名だけで、国会が開くわけではありません。それは分かっています」
会場に、小さな笑いが起きました。
「でも、だから何も言わなくていいってことには、ならないと思うんです」
その言葉に。
私は胸が熱くなりました。
「国会議員の先生方に、地元の事情を知ってもらいたい。今できることを考えてもらいたい。そのお願いくらい、してもいいでしょう?」
拍手が起きました。
大きくはありません。
全員が賛成したわけでもありません。
けれど、確かに拍手でした。
私は、資料の端に書いた数字を見ました。
四分の一。
三分の一。
過半数。
三分の二。
国会を開くための数字。
議事を進めるための数字。
重要な決定を行うための数字。
それらは、ただの算数ではありません。
少数派が議論の機会を求める道。
会議に最低限必要な参加を確保する仕組み。
重要な決定を軽々しく行わせない歯止め。
数字には、それぞれ役割がある。
そして。
議決の結果がどうなるかとは別に。
人が意見を述べる自由まで、最初から奪ってよいわけではありません。
集会から一週間後。
三浦さんたちの陳情書は、県内選出の国会議員の事務所へ届けられました。
受け取った側からは、被害状況について詳しい資料を送ってほしいとの返事がありました。
国会が召集されるかどうか。
予算がつくかどうか。
護岸工事が早まるかどうか。
まだ何も決まっていません。
それでも。
住民の声が、ようやく国の政治へ届く入口に立ったのです。
夕方。
片桐行政書士事務所。
「先輩」
「何だ」
「憲法って、面白いですね」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「今さら何言ってんだ」
「いや、受験生のころは、数字ばっかりで面倒だったんですよ」
「まあ、面倒だな」
「でも、今日ちょっと分かりました」
私はノートを開きました。
四分の一。
少数派による臨時会召集の要求。
三分の一。
議事を開き議決するための定足数。
過半数。
通常の議決。
三分の二。
議席を失わせるとき。
秘密会を開くとき。
議員を除名するとき。
衆議院で法律案を再可決するとき。
そして、憲法改正の発議。
ただし、ここだけは総議員の三分の二以上。
「同じ数字でも、全部意味が違うんですね」
「そうだな」
「それに、国会が閉まっているから何もできない、なんてこともない」
「うん」
「政治の世界って、多数派が全部決めるものだと思ってました」
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。
「多数決は大事だ」
「はい」
「だが、多数決にかける前から少数派を黙らせていいわけじゃねえ」
私は頷きました。
そのとき。
奥の机から、片桐所長が言いました。
「こはる」
「はい」
「今日の教訓は何だ」
来ました。
恒例の、所長による抜き打ち試験。
私は少し考えました。
「……国会の数字は、単なる多数決の計算ではありません」
「うん」
「少数派にも議論を求める道を残し、重要な決定には慎重な手続を要求する。そのための数字です」
所長は静かに頷きました。
「それでいい」
私はノートの最後に一行を書きました。
――憲法の数字は、多数派の力を決めるだけでなく、少数派の声と大切な決定を守るためにある。
うん。
今日の教訓としては、悪くない。
そう思った瞬間。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「何ですか」
「明日の掃除当番、俺とお前のどっちがやるか決めようぜ」
「……はい?」
「多数決だ」
嫌な予感。
「所長!」
相馬先輩が奥へ声をかけます。
「明日の掃除、こはるにやらせるのに賛成の人!」
相馬先輩が手を挙げました。
片桐所長も、無言で手を挙げました。
「二対一」
相馬先輩が笑います。
「可決だ」
「待ってください!」
「何だ」
「まず、定足数は満たしてますけど!」
「おう」
「そもそも掃除当番を多数決で決めるルールなんてありましたっけ!」
所長が帳簿を閉じました。
「ないな」
「ですよね!」
「だが、今決めた」
「その決め方が問題なんです!」
相馬先輩が笑います。
「多数決だぞ。民主主義だろ」
「多数決なら何でも正当になると思わないでください!」
「じゃあ、どうする」
私は腕を組みました。
考える。
少数派。
手続。
決定の正当性。
そして。
「……週替わりの交代制を提案します」
相馬先輩の笑顔が消えました。
「何?」
「今週は私。来週は先輩。再来週は所長」
片桐所長が顔を上げました。
「俺もか」
「全員で使う事務所ですから」
沈黙。
相馬先輩が言いました。
「……所長。再議決しません?」
「却下」
「何でだよ!」
「こはるの案が合理的だ」
私は勝ち誇りました。
「やった!」
相馬先輩が悔しそうに舌打ちします。
「お前、憲法覚えてから面倒くさくなったな」
「最高法規を学んだ成果です」
「掃除当番に最高法規を持ち込むな!」
私は笑いました。
窓の外では、夕焼けが駅前の屋根を赤く染めていました。
明日も、たぶん誰かが役所で理不尽なことを言われるでしょう。
多数派だから。
前例だから。
地元の和だから。
そんな言葉に押し返される人が、きっといます。
でも。
憲法は、昭和六十三年にもあります。
しかも、条文は現代と同じ。
違うのは、それを使う人間の覚悟だけ。
国会を開かせる四分の一。
議場を動かす三分の一。
決定を下す過半数。
重要な決定を守る三分の二。
数字の向こうには、いつだって人がいます。
その人たちが声を届ける道を、法律は残している。
私はノートを閉じました。
そして。
「先輩」
「何だよ」
「来週の掃除、忘れないでくださいね」
「……まだ言うか」
「多数決で決まったので」
「交代制はお前の提案だろ!」
「民主的な合意です」
「くそっ!」
片桐所長が、珍しく小さく笑いました。
どうやら。
片桐行政書士事務所でも。
少数派の提案が、きちんと議論されれば採用されることがあるようです。
もっとも。
それを国会の制度と一緒にしてはいけません。
なにしろ来週。
掃除当番を無断で欠席した相馬先輩を、出席者の三分の二で除名しようとしても。
所長は、たぶん許してくれないでしょうから。
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