[憲法・天皇の国事行為と皇室の財産]法理編 こはるノート
権力を持たないことにも、意味があります。
夕方。
片桐行政書士事務所。
私は机の上に、一本の木刀を置いていました。
大庭さんの道場からもらったものです。
「……先輩」
「何だ」
「これ、どうしましょう」
「振れ」
「そういう意味じゃありません」
「じゃあ飾れ」
「行政書士事務所に木刀を?」
「悪徳業者が来たとき便利だろ」
「何に使うつもりですか」
「話し合い」
「絶対違う」
私は木刀を壁際へ立てかけました。
そして。
ノートを開きます。
今日の見出し。
――天皇。
その下に。
――国事行為。
さらに。
――皇室の財産。
「今日は天皇です」
「急にでかいな」
相馬先輩が煙草に火をつけました。
「昨日までは市役所と喧嘩してたのに、今日は天皇か」
「喧嘩してません」
「毎週行ってるだろ」
「行政書士業務です」
「沢渡が泣くぞ」
「絶対泣きませんよ、あの人」
私はペンを持ちました。
現代で行政書士試験の勉強をしていた頃。
天皇のところは。
正直。
暗記でした。
憲法第一条。
象徴。
第二条。
皇位の世襲。
第三条。
内閣の助言と承認。
第四条。
国政に関する権能なし。
第六条。
任命。
第七条。
国事行為。
第八条。
皇室への財産授受。
第八十八条。
皇室財産と皇室費。
はい。
覚えましょう。
そんな感じ。
でも。
大庭さんが、
――天皇陛下に市の決定を取り消していただきたい。
と言った瞬間。
全部が一本につながりました。
「先輩」
「何だ」
「天皇って、日本で一番偉い人ですか」
「その聞き方が雑だ」
「ですよね」
「憲法の問題で『偉い』とか言い出すな」
正論。
私はノートに書きました。
日本国憲法第一条。
天皇は、
日本国の象徴。
日本国民統合の象徴。
その地位は、
主権の存する日本国民の総意に基づく。
「まずここですね」
「ああ」
「主権者は?」
「国民」
「天皇ではない」
「そうだ」
大事なのは。
天皇が、
国の統治権を握っている存在ではないということ。
日本国憲法の基本原理は、
国民主権。
だから。
大庭さんが考えたように、
市役所で駄目。
県でも駄目。
国でも駄目。
なら最後に、
全部の上にいる天皇へ頼む。
という権力構造にはなっていません。
「ピラミッドじゃないんですね」
私は言いました。
「何がだ」
「権力です」
市。
県。
国。
総理大臣。
天皇。
下から上へ行けば行くほど強くなって、
一番上の人なら何でもひっくり返せる。
そんな仕組みではない。
「当たり前だ」
相馬先輩が言います。
「権限は法律で決まってる」
「ですよね」
「市長にできること。知事にできること。内閣にできること。それぞれ違う」
「そして天皇にも」
「できることが決まってる」
そこで。
第四条。
私は大きく書きました。
――天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行う。
――国政に関する権能を有しない。
「ここ」
私は二重線を引きます。
「大庭さんの事件では、これが決定打でした」
「陛下に市の決定を取り消してもらう権限はない」
「はい」
「市長に命令する権限もない」
「はい」
「道路計画を止める権限もない」
「はい」
「道場を残せと政治的に決定する権限もない」
「そうです」
天皇は、
国事行為を行います。
でも。
国政に関する権能は持たない。
ここを混ぜると。
全部おかしくなる。
「でも」
私は言いました。
「受験生としては、ここで一回混乱するんですよ」
「何が」
「だって国事行為の一覧だけ見ると、めちゃくちゃ政治してるように見えるじゃないですか」
「例えば?」
「総理大臣を任命する」
「うん」
「最高裁判所長官を任命する」
「うん」
「国会を召集する」
「うん」
「衆議院を解散する」
「うん」
「総選挙を公示する」
「うん」
「法律や政令や条約を公布する」
「うん」
私はペンを置きました。
「強そう」
「感想が小学生だな」
「でも強そうでしょう!」
「字面だけならな」
そこです。
字面に騙されてはいけない。
私はノートに、
大きな矢印を書きました。
――国事行為=政治的決定ではない。
「まず、内閣総理大臣」
憲法第六条第一項。
天皇は、
国会の指名に基づいて、
内閣総理大臣を任命する。
「ここで問題」
私は相馬先輩を指しました。
「総理大臣を誰にするか、天皇が選べますか」
「選べねえ」
「国会が指名した人を見て、『私は別の人がいい』と言えますか」
「言えねえ」
「任命を拒否できますか」
「そういう政治的な選択をする立場じゃねえ」
「正解」
「何でお前が採点してんだ」
つまり。
天皇が行うのは、
任命。
でも。
誰を総理大臣にするかという実質的決定は、
国会がする。
「じゃあ最高裁判所長官」
憲法第六条第二項。
天皇は、
内閣の指名に基づいて、
最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
「誰が指名?」
「内閣」
「誰が任命?」
「天皇」
「ここ、試験で入れ替えられそうですね」
「お前らの試験は性格悪いな」
「否定できません」
私はノートに書きました。
内閣総理大臣。
国会が指名。
天皇が任命。
最高裁判所長官。
内閣が指名。
天皇が任命。
「どっちも任命は天皇」
「指名するところが違う」
「はい」
ここは絶対に混ぜない。
次。
憲法第七条。
「来ました」
「何が」
「国事行為の大群」
「大群って言うな」
私は番号を振ります。
一つ目。
憲法改正、法律、政令、条約の公布。
二つ目。
国会の召集。
三つ目。
衆議院の解散。
四つ目。
国会議員の総選挙の施行の公示。
五つ目。
国務大臣その他の官吏の任免などの認証。
六つ目。
大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除、復権の認証。
七つ目。
栄典の授与。
八つ目。
批准書その他の外交文書の認証。
九つ目。
外国の大使、公使の接受。
十。
儀式を行う。
「十個ですね」
「あれ?」
相馬先輩が言います。
「さっき十二って言ってなかったか」
「教材では、第六条の二つと第七条の十個を合わせて十二として整理してます」
「なるほど」
「憲法第七条だけなら十号です」
「そこは分けて覚えろってことか」
「そうです」
私はノートの端に書きました。
六条。
任命二つ。
七条。
国事行為十号。
合わせて教材上の整理では十二。
「ここから」
私は言いました。
「ひっかけ地獄です」
「楽しそうだな」
「楽しくありません」
まず。
公布。
憲法改正。
法律。
政令。
条約。
「予算は?」
相馬先輩が聞きました。
「入りません」
「条例は?」
「入りません」
「何で」
「憲法七条一号に書いてないから」
「単純だな」
「こういう単純なところを試験で刺してくるんですよ」
例えば。
――天皇は予算を公布する。
誤り。
――天皇は地方公共団体の条例を公布する。
これも誤り。
でも。
法律を公布する。
正しい。
政令を公布する。
正しい。
条約を公布する。
正しい。
憲法改正も公布する。
正しい。
「憲法改正って」
私は言いました。
「もし実際に行われれば、天皇が公布するんですよね」
「ああ」
「でも天皇が改正内容を決めるわけじゃない」
「当然だ」
「ここも同じ構造」
国事行為をする。
でも。
政治的内容を決めるわけではない。
次。
国会の召集。
「参議院の緊急集会は?」
「国会の召集とは別だろ」
「正解」
「だから何でお前が先生なんだ」
参議院の緊急集会は、
衆議院が解散されている間、
緊急の必要がある場合に内閣が求めるもの。
天皇の国事行為としての「国会の召集」とは別です。
「ここも出そう」
「試験問題作るな」
次。
衆議院の解散。
私は一度ペンを止めました。
「これが一番、政治的に見えますよね」
「まあな」
「『天皇は衆議院を解散する』って条文だけ読むと」
「陛下が政治判断して解散するように見える」
「でも違う」
天皇は、
国政に関する権能を有しない。
だから。
天皇自身が、
今の国会は気に入らない。
選挙をやり直そう。
と判断するわけではありません。
政治的な決定は内閣側で行われ、
天皇は国事行為として解散を行う。
「ここでも第四条が効いてくるんですね」
「七条だけ読むなってことだ」
「そういうことです」
憲法は。
一条ずつバラバラに読むと、
ときどき意味を取り違える。
第四条で、
国政の権能なし。
第三条で、
内閣の助言と承認。
その上で、
第六条、第七条の国事行為を見る。
そうすると。
天皇の位置が見える。
「次、選挙」
私は言いました。
「天皇が公示するのは?」
「国会議員の総選挙」
「補欠選挙は?」
「違う」
「はい」
これも教材の注意点。
総選挙の施行を公示。
補欠選挙まで含めて覚えない。
「じゃあ」
相馬先輩が面白そうな顔をしました。
「市長選挙」
「違います」
「県議会議員選挙」
「違います」
「町内会長選挙」
「もっと違います」
「お前の学級委員長選挙」
「なぜ私の学生時代まで国家行為になるんですか」
「国事行為な」
「そこだけ訂正が細かい!」
私はノートに赤線を引きました。
国会議員の総選挙。
ここ大事。
次。
国務大臣などの任免の認証。
「ここも『任命』じゃなくて『認証』なんですね」
「違うのか」
「試験では大違いです」
内閣総理大臣。
天皇が任命。
最高裁判所長官。
天皇が任命。
国務大臣。
天皇が認証。
「つまり」
相馬先輩が言います。
「国務大臣を誰にするか決めるのは?」
「内閣総理大臣」
「天皇は?」
「その任免を認証する」
「なるほど」
任命。
認証。
似ている。
だから危ない。
「行政書士試験って」
相馬先輩が言いました。
「漢字一文字で人を落としに来るのか」
「だいたいそんな感じです」
「嫌な試験だな」
「受ける前から心折らないでください」
次。
恩赦。
大赦。
特赦。
減刑。
刑の執行の免除。
復権。
「天皇が決める?」
相馬先輩。
「違います」
「じゃあ?」
「内閣が決定する」
「天皇は?」
「認証」
ここ。
大事。
大庭さんの話と似ています。
天皇は、
誰かを助けたいから、
この人を特赦にしよう。
とは決めない。
「認証することと、決定することは別」
「そうです」
私は二重線。
――恩赦の決定=内閣。
――天皇=認証。
次。
栄典。
「これは授与ですね」
「勲章とかか」
「そうです」
そして。
批准書その他外交文書の認証。
外国の大使、公使の接受。
儀式。
「これで七条」
「多いな」
「でも一覧を丸暗記するより」
私は言いました。
「分類すると少し見えます」
公布する。
召集する。
解散する。
公示する。
認証する。
授与する。
接受する。
儀式を行う。
「動詞を見るのか」
「はい」
「お前、珍しく勉強うまいな」
「珍しくは余計です」
ここで。
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「第三条を飛ばすな」
「あ」
そうでした。
国事行為の中身に夢中になって。
一番大事な仕組みを忘れかけました。
憲法第三条。
天皇の国事に関するすべての行為には、
内閣の助言と承認を必要とする。
そして。
内閣が、
その責任を負う。
「ここです」
私は大きく囲みました。
――助言と承認。
――責任は内閣。
「なぜです?」
私は所長に聞きました。
「天皇に政治的責任を負わせないためだ」
「ですよね」
天皇は象徴。
国政に関する権能を持たない。
なら。
国事行為について政治的責任を天皇本人に負わせるわけにもいかない。
だから。
内閣の助言と承認が必要。
責任も内閣。
「大庭さんが」
私は言いました。
「もし『天皇陛下が市の道路計画を止めてください』ってお願いして、それを陛下が政治判断して止めることができたら」
「第四条が崩れる」
「はい」
「しかも責任の所在もおかしくなる」
「そうなんです」
誰が決めた。
誰が責任を負う。
それを曖昧にしない。
天皇の国事行為の仕組みは、
単なる儀式の一覧じゃない。
象徴天皇制と国民主権を両立させるための、
権限と責任の設計です。
「だから」
私はノートに書きました。
天皇。
行為する。
内閣。
助言・承認する。
責任を負う。
「天皇が責任を負う、は?」
相馬先輩。
「誤り」
「内閣の助言だけ必要」
「誤り。助言と承認」
「天皇が自由に判断して国事行為を行う」
「誤り」
「天皇は国政に関する権能を有する」
「大間違い」
「よし」
「何の確認です?」
「お前が寝てないか」
「起きてます!」
私はページをめくりました。
次。
皇位。
憲法第二条。
皇位は、
世襲。
そして。
国会の議決した皇室典範の定めるところによって継承される。
「世襲」
相馬先輩が言います。
「子孫へ継いでいくってことだな」
「はい」
「でも具体的な継承ルールは憲法だけでは決めてない」
「皇室典範ですね」
現行の皇室典範では、
皇統に属する男系の男子が皇位を継承する。
ここも。
憲法第二条と皇室典範を混ぜない。
「憲法には『男系男子』って直接書いてないんですね」
「ああ」
「憲法は世襲と皇室典範への委任」
「具体的な順位なんかは皇室典範」
「はい」
試験では。
似た言葉を、
どの法令が定めているか。
そこをずらされると危ない。
「さて」
私は次のページを開きました。
「最後です」
「まだあるのか」
「皇室の財産」
憲法第八条。
そして。
第八十八条。
相馬先輩が嫌そうな顔をしました。
「急に金の話か」
「大事ですよ」
「皇室の土地を売るとか?」
「まさにそういう財産関係です」
私はまず第八条を書きます。
皇室に財産を譲り渡す。
皇室が財産を譲り受ける。
皇室が財産を賜与する。
これらは。
――国会の議決に基づかなければならない。
「つまり」
私は言いました。
「皇室との財産のやり取りを、自由な私的処分だけの問題にしない」
「国会を通す」
「はい」
「何でだ」
「皇室と財産、つまり政治的・財政的な力が結びつくのを、国会の統制なしに自由にさせないため、と考えると分かりやすいです」
そして。
憲法第八十八条。
すべて皇室財産は、
国に属する。
すべて皇室の費用は、
予算に計上して、
国会の議決を経なければならない。
「また国会ですね」
「本当に国会が出てくるな」
「国民主権だからでしょうね」
財産。
費用。
ここでも。
皇室を、
政治や国家財政から独立した巨大な権力主体にしない。
国会による統制を置く。
「つまり」
私は整理しました。
第八条。
財産の授受。
国会の議決。
第八十八条。
皇室財産。
国に属する。
皇室の費用。
予算に計上。
国会の議決。
「似てるけど違う」
相馬先輩が言いました。
「そうです」
「八条は財産のやり取り」
「はい」
「八十八条は皇室財産と費用」
「はい」
「数字まで似てやがる」
「八と八十八ですからね」
「受験生を殺しに来てるな」
「憲法制定者は行政書士試験のひっかけ問題を作るために条番号を決めてません」
たぶん。
私はノートを見返しました。
第一条。
象徴。
主権は国民。
第二条。
皇位は世襲。
皇室典範。
第三条。
国事行為には内閣の助言と承認。
責任は内閣。
第四条。
国事行為のみ。
国政に関する権能なし。
第六条。
内閣総理大臣。
国会の指名に基づき天皇が任命。
最高裁判所長官。
内閣の指名に基づき天皇が任命。
第七条。
十の国事行為。
第八条。
皇室との財産授受には国会の議決。
第八十八条。
皇室財産は国に属する。
皇室費は予算に計上し、国会の議決。
「こうして見ると」
私は言いました。
「全部、同じ方向を向いてません?」
「どういう意味だ」
「天皇を政治権力の中心にしない」
相馬先輩が黙りました。
「国事行為をする」
でも。
国政を決めない。
「任命する」
でも。
誰を任命するか自由に選ばない。
「恩赦を認証する」
でも。
誰を赦すか決定するのは内閣。
「法律を公布する」
でも。
法律の内容を決めるのは天皇ではない。
「国会を召集する」
でも。
天皇が政治日程を好きに決めるわけではない。
「財産についても」
国会の統制が入る。
「なるほどな」
相馬先輩が言いました。
「全部、権力を持たせすぎない仕組みか」
「はい」
私は昨日まで。
天皇の国事行為を、
覚えるべき十二項目。
くらいに考えていました。
でも。
違う。
あの一覧は。
天皇に、
これだけの権限を与えます。
という一覧ではない。
むしろ。
天皇が行う公的行為の範囲を憲法で限定し、
その外側にある政治的決定から切り離すための仕組み。
「所長」
私は聞きました。
「これって、憲法が天皇を縛ってるんですか」
「それだけじゃない」
「え?」
「政治の側も縛っている」
所長が言いました。
「天皇を政治に引きずり込むな、ということでもある」
私は。
ペンを止めました。
あ。
そうか。
大庭さんの事件。
大庭さんは悪気なく、
天皇に市の決定を変えてもらおうとした。
もし。
政治家が同じことをしたら。
天皇の権威を使って、
自分の政策を通そうとしたら。
天皇を、
政治的意思決定の道具にしてしまう。
第四条は。
天皇が勝手に政治をしないためだけの条文ではない。
天皇を政治的争いの当事者にしないための壁でもある。
「……深い」
私は呟きました。
「今さらか」
相馬先輩が言います。
「受験テキストだと二ページくらいなんですよ!」
「ページ数で憲法を判断すんな」
「はい」
そこで。
私はふと思いました。
「でも不思議ですね」
「何が」
「昭和六十三年でも、私のいた時代でも」
憲法の条文は、
同じです。
一字一句。
変わっていない。
「お前、また未来の話か」
「聞いてくださいよ」
昭和二十一年公布。
昭和二十二年施行。
そして。
私が知る現代まで。
日本国憲法は改正されていない。
だから。
第一条も。
第三条も。
第四条も。
第六条も。
第七条も。
第八条も。
第八十八条も。
そのままです。
「行政法はあんなに変わるのに」
私は言いました。
「行政不服審査法なんて未来から来たら地雷だらけなのに」
「知らん」
「憲法は変わってない」
「なら楽でいいだろ」
「そう思うでしょう?」
でも。
憲法は。
条文が同じだからこそ難しい。
社会が変わる。
価値観が変わる。
人権感覚が変わる。
政治の運用も積み重なる。
裁判例も積み上がる。
同じ文字を、
どう現実に適用するか。
そこは時代とともに磨かれていく。
「大庭さんも」
私は言いました。
「『一番偉い人なら何でもできる』って感覚があった」
「ああ」
「でも憲法は、昭和六十三年の今でも、ちゃんと違うと言ってる」
権威があること。
権限があること。
それは違う。
尊敬されること。
政治的に命令できること。
それも違う。
象徴であること。
統治者であること。
全く違う。
「世間の感覚より」
私は言いました。
「憲法のほうが先に線を引いてたんですね」
片桐所長が頷きました。
「憲法は、空気で変わるものじゃない」
短い。
でも。
今日の話には、
それで十分でした。
私はノートの最後に、
試験用の整理を書きました。
まず。
天皇の地位。
――象徴。
――主権者ではない。
――皇位は世襲。
次。
国事行為。
――内閣の助言と承認が必要。
――責任は内閣。
――天皇に国政に関する権能はない。
次。
第六条。
――総理大臣は国会が指名、天皇が任命。
――最高裁長官は内閣が指名、天皇が任命。
次。
第七条。
――公布。
――召集。
――解散。
――総選挙の公示。
――認証。
――栄典。
――外交。
――接受。
――儀式。
注意。
――予算の公布ではない。
――条例の公布ではない。
――参議院の緊急集会ではない。
――補欠選挙の公示ではない。
――恩赦を決定するのは内閣。天皇は認証。
そして。
皇室財産。
――八条、財産授受には国会の議決。
――八十八条、皇室財産は国に属する。
――皇室費は予算に計上し国会の議決。
「……よし」
私はペンを置きました。
「終わったか」
「まだです」
「まだあんのかよ」
「一行の覚え書き」
「また長くするなよ」
「分かってます」
私は少し考えました。
国事行為。
象徴。
内閣の助言と承認。
責任。
国政の権能なし。
全部を一行にする。
そして書きました。
――天皇は「行為する」が「政治を決めない」。決める者と責任を負う者は、別にいる。
相馬先輩が覗き込みました。
「まあまあだな」
「今日は褒めますね」
「褒めてねえ」
「じゃあ試験用超短縮版」
私はその下に書きました。
――天皇は象徴。国事行為はする、国政はしない。
「そっちの方がいい」
「ですよね」
さらに。
赤ペンで小さく書き足します。
――助言・承認・責任=内閣。
「これで完璧」
「三行になってるぞ」
「一行の覚え書きが増殖しました」
「ルール守れ」
「では最終版」
私は全部を消して。
最後に一行だけ書きました。
――天皇は、憲法の定めた「形」を担い、政治の「決定」と「責任」は担わない。
今度は。
相馬先輩も何も言いませんでした。
「どうです?」
「悪くねえ」
「褒めた」
「気のせいだ」
出ました。
いつものやつ。
私はノートを閉じました。
窓の外は、
もう暗くなっています。
遠くに市役所の明かり。
そのさらに遠く。
東京には国会がある。
内閣がある。
最高裁判所がある。
皇居がある。
大庭さんは。
天皇に助けてもらうことはできませんでした。
市の道路計画を止めてもらうことも。
道場を残せと命令してもらうことも。
できない。
でも。
私は今。
それを、
残念なことだとは思いません。
何でもできる人がいない。
ということ。
誰にでも、
権限の境界があるということ。
天皇でさえ、
憲法に定められた国事行為のみを行い、
国政に関する権能を持たない。
なら。
市役所だって。
内閣だって。
国会だって。
法律が与えた権限を越えて、
何でも好きにできるわけではない。
権力には。
必ず線が引かれている。
その線を引くものの一つが、
憲法です。
だから。
大庭さんの事件で、
天皇の国事行為は直接の武器にはなりませんでした。
それでも。
私は、
憲法第四条の考え方を知ったことで、
市役所にも聞けた。
――あなたたちは、何の権限でそれを言っているんですか。
その質問ができた。
憲法は。
いつも、
「この権利を守れ」
と叫ぶだけの法律ではありません。
ときには。
静かに。
――そこから先へ行く権限は、あなたにはない。
と。
権力の足元に線を引く。
その線は。
昭和六十三年でも。
私がいた現代でも。
同じ場所にあります。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「帰るぞ」
「はい」
私は立ち上がりました。
すると。
壁際の木刀が目に入ります。
「これ、持って帰ります?」
「置いとけ」
「事務所に?」
「ああ」
「何のために」
相馬先輩が木刀を手に取りました。
「明日から朝、素振り百本」
「まだ言ってる!」
「健康のためだ」
「嫌です」
「先輩命令」
「根拠は?」
「事務所の秩序」
「法律は?」
「慣習」
「憲法は?」
「公共の福祉」
「便利な言葉を全部使うな!」
私は木刀を奪い返しました。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日の勉強、聞いてましたよね」
「聞いてた」
「天皇陛下ですら、憲法に定められた権限しか行使できないんですよ」
「そうだな」
「先輩は?」
「お前の先輩」
「だから?」
「偉い」
「その理屈、大庭さんと同じです!」
片桐所長が吹き出しました。
「所長!」
「悪い」
「笑いましたね!」
「気のせいだ」
「絶対笑った!」
私は木刀を壁へ戻しました。
そして。
電気を消す前に、
ノートの最後の一行を、
もう一度だけ見ました。
――天皇は、憲法の定めた「形」を担い、政治の「決定」と「責任」は担わない。
権力を持たない。
何も決めない。
それだけ聞けば、
弱い存在のように見えるかもしれません。
でも。
政治的な争いから離れ、
国民統合の象徴として存在するために。
あえて。
政治を決める権能を持たない。
それが、
日本国憲法の選んだ形です。
昭和六十三年。
条文は。
今日も一字も変わっていません。
けれど。
私の中での意味は。
昨日よりずっと、
大きく変わっていました。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




