[憲法・天皇の国事行為と皇室の財産]現場編 「陛下にお願いすれば、市の決定も変わる」の罠。象徴には国政を動かす権能がない――昭和の陳情騒ぎと、憲法四条の静かな壁
偉い人なら、何でも決められる。
そう思ってしまうのは。
たぶん、人間の悪い癖です。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「天皇陛下に、お願い状を書いてください」
その日の相談は。
開始三秒で、私の思考を止めました。
「……はい?」
私は聞き返しました。
向かいに座っているのは、六十代くらいの男性。
紺色の背広。
きっちり締めたネクタイ。
膝の上には、大きな茶封筒。
名前は、
大庭宗一郎さん。
駅東地区で、小さな剣道場を営んでいる人でした。
「ですから」
大庭さんは、もう一度言いました。
「天皇陛下に、お願い申し上げたいのです」
「何をでしょう」
「市の決定を、取り消していただきたい」
「…………」
私は横を見ました。
相馬先輩。
煙草をくわえています。
片桐所長。
新聞を読んでいます。
二人とも助けてくれません。
いや。
所長。
新聞、絶対読んでないですよね。
さっきから同じところ見てますよね。
「ええと」
私は慎重に聞きました。
「市の、どんな決定でしょう」
大庭さんが茶封筒から書類を出しました。
駅東地区再整備事業。
市道拡幅。
公共施設の配置変更。
そして。
大庭さんが三十年以上使ってきた剣道場について、市が移転を求めている。
「子どもが四十人通っています」
「四十人」
「私が若い頃から続けてきた道場です」
写真もありました。
古い木造の建物。
入口には、
――大庭修武館。
墨書きの看板。
小学生らしい子どもたちが、防具をつけて並んでいます。
「市には話しました」
「はい」
「議員にも頼みました」
「はい」
「県にも手紙を出しました」
「はい」
「駄目でした」
大庭さんは拳を握りました。
「だから、もう陛下しかおられません」
私は、言葉を失いました。
なるほど。
この人は、ふざけているわけではない。
本気です。
本気で、
市より上。
県より上。
国より上。
最後にいる一番偉い人。
そこへ頼めば何とかなると思っている。
「大庭さん」
私は言いました。
「天皇陛下は、市の決定を取り消すことはできません」
「なぜです」
「憲法上、そういう権限がないからです」
大庭さんの顔が曇りました。
「日本で一番偉い方でしょう」
「……そこが」
難しい。
とても難しい。
私は頭の中で憲法をめくりました。
第一条。
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴。
その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
第三条。
国事行為には内閣の助言と承認が必要。
第四条。
天皇は憲法の定める国事行為のみを行い、
国政に関する権能を有しない。
ここです。
私は言いました。
「天皇陛下は、国を政治的に支配する方ではないんです」
大庭さんの眉が動きました。
「しかし、総理大臣を任命される」
「はい」
「国会も召集される」
「はい」
「衆議院を解散されるでしょう」
「はい」
「なら、政治を動かしているじゃありませんか」
おお。
来ました。
これは。
行政書士試験だったら、
かなり良いひっかけ問題です。
「違う」
相馬先輩が言いました。
煙草を灰皿に押しつける。
「相馬さん」
「総理大臣を誰にするか、陛下が決めてるわけじゃねえ」
大庭さんが黙ります。
「総理を決めるのは国会だ。天皇は、その指名に基づいて任命する」
「では、最高裁判所の長官は」
「内閣の指名に基づいて任命する」
「衆議院の解散は」
「政治的な決定を天皇自身がするわけじゃねえ」
相馬先輩は机に肘をつきました。
「天皇の国事行為ってのはな、天皇が好き勝手に政治を決める権限じゃねえんだ」
大庭さんの表情が険しくなりました。
「好き勝手などとは言っていない!」
「先輩」
「分かってる」
相馬先輩は少し声を落としました。
「言い方が悪かった」
珍しい。
謝った。
「要するに」
私は引き取りました。
「天皇の国事行為は、政治的な意思決定そのものとは違うんです」
法律や政令、条約を公布する。
国会を召集する。
衆議院を解散する。
総選挙の施行を公示する。
国務大臣などの任免を認証する。
大赦、特赦、減刑などを認証する。
外国の大使、公使を接受する。
儀式を行う。
確かに。
言葉だけを見ると、
ものすごく強そうです。
でも。
そこで天皇自身が、
この法律は気に入らないから公布しない。
この人を総理にしたい。
この人を赦免したい。
この政策を実行しろ。
そんな政治的判断をするわけではない。
できない。
「憲法第四条です」
私は言いました。
「天皇は、国政に関する権能を有しません」
「……国政に関する権能を」
「有しません」
大庭さんは黙りました。
やがて。
「では」
小さな声で言いました。
「お願い状を送っても、意味がないと」
「お気持ちを手紙にすることまで、私が否定する話ではありません」
私は答えました。
「でも、『天皇陛下に市の決定を取り消してもらう』という法的な手段にはなりません」
「そうですか」
肩が落ちる。
その姿を見ると。
少し胸が痛みました。
この人は、
天皇を政治利用しようとしているわけではない。
道場を守りたい。
子どもたちの稽古場所を守りたい。
あちこち頭を下げて。
全部駄目で。
最後に、
日本で一番偉い人なら助けてくれるんじゃないか。
そう思っただけです。
「大庭さん」
片桐所長が新聞を畳みました。
「はい」
「市の決定を見せてください」
「え?」
「天皇に頼む話ではない」
所長は書類を手に取ります。
「だが、市の判断が正しいかどうかは別だ」
大庭さんが顔を上げました。
そこから。
話は、急に現実へ戻りました。
道場の敷地。
市道拡幅予定線。
移転要請の根拠。
補償の内容。
代替施設。
市から出された通知。
私は書類を一枚ずつ並べました。
「これ」
気になる紙がありました。
――大庭修武館については、駅東地区再整備事業への協力を求める。
「『協力を求める』?」
私は首をかしげました。
「これ、命令ですか」
「市役所では、出ていってくださいと言われました」
「期限は?」
「来年三月までに」
「従わなかった場合は?」
「それは……」
大庭さんが考えます。
「聞いていません」
相馬先輩が書類を取ります。
「処分なのか、行政指導なのか、まずそこからだな」
「ですね」
さらに。
市は代替場所として、市民体育館の剣道場を紹介していました。
ただし。
週二回。
午後七時から九時。
大庭道場は現在、
週五日。
小学生の部は午後五時から。
「これじゃ、代替になってません」
私が言うと、
大庭さんが強く頷きました。
「そうなんです!」
「市には言いました?」
「言いました。ですが――」
返ってきた答えは。
駅東地区全体の利益。
再整備計画。
公共の福祉。
そして。
地域住民の理解。
「また出た」
私は呟きました。
「何がだ」
「公共の福祉」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「役所の万能呪文にするなよ」
「市役所が、ですよ」
「分かってる」
片桐所長が立ち上がりました。
「行くぞ」
「市役所ですか」
「ああ」
私は鞄を持ちました。
大庭さんも立ち上がろうとします。
所長が止めました。
「今日は我々だけで確認します」
「しかし」
「天皇にお願いする前に」
所長は言いました。
「市役所に、もう一度説明させましょう」
市役所二階。
総務課。
「今度は何ですか」
沢渡課長は、
私たちを見るなり言いました。
「その言い方、完全に常連客扱いですよね」
「常連なら歓迎されると思いましたか」
「思ってません」
「なら問題ありません」
今日も強い。
片桐所長が大庭修武館の書類を置きました。
「駅東地区の件だ」
「大庭さんですか」
知っていました。
「ずいぶんあちこちへ陳情されているようですね」
「天皇陛下にも出すつもりらしい」
相馬先輩が言いました。
沢渡課長の手が止まりました。
「……何をです」
「市の決定を取り消してください、ってな」
「それは困ります」
「でしょうね」
「困るというより」
沢渡課長は眼鏡を押し上げました。
「天皇陛下に、そのような権限はありません」
即答。
さすがです。
「憲法四条」
私が言いました。
「ええ」
「国政に関する権能を有しない」
「当然です」
「じゃあ課長」
相馬先輩が身を乗り出しました。
「市も、その『当然』を利用するなよ」
沢渡課長の目が細くなりました。
「どういう意味です」
「大庭さんには、『上に言っても決まったことは変わりません』って説明したそうじゃねえか」
「再整備計画については、そう説明しています」
「天皇でも変えられないから、市役所の判断も変わらない?」
「そんな説明はしていません」
沢渡課長はきっぱり言いました。
なるほど。
そこは混同していない。
この人は賢い。
なら。
話は早い。
「課長」
私は言いました。
「大庭さんへの移転要請の法的性質を確認させてください」
「法的性質?」
「命令ですか」
「いいえ」
「許可取消し?」
「違います」
「使用禁止処分?」
「違います」
「では」
私は書類を指しました。
「現段階では、再整備事業への協力要請ですね」
沢渡課長は数秒黙りました。
「……現時点では、そうです」
「つまり行政指導」
「広い意味では」
「なら、あたかも法的義務があるように『三月までに出ていってください』とだけ言うのはまずくないですか」
「担当者の説明は確認します」
来た。
確認します。
沢渡課長が一歩引くときの言葉です。
「もう一つ」
片桐所長が言いました。
「代替施設」
「市民体育館を提示しています」
「週二回だ」
「施設利用には他団体との調整があります」
「現在は週五回」
「承知しています」
「小学生の部は五時からだ」
「承知しています」
「体育館は七時から」
「……承知しています」
相馬先輩が言いました。
「それを代替って呼ぶのか?」
「完全に同条件の施設を確保する義務が市にあるとは考えていません」
「それはそうだ」
相馬先輩はあっさり認めました。
「でもな」
書類を指で叩く。
「お前ら、『公共の福祉』って言ったそうじゃねえか」
「再整備は地域全体の利益に関わります」
「だから何だ」
「何がでしょう」
「公共の福祉って言えば、個人が黙って引っ込むと思ってんのか」
空気が少し変わりました。
私は息を吸いました。
今回。
憲法で大庭さんを直接救えるわけではありません。
天皇の国事行為。
それ自体が道場を守る武器になるわけでもない。
でも。
この事件には、
もっと根っこの話がありました。
誰が政治を決めるのか。
誰が責任を負うのか。
誰に権限があるのか。
天皇でさえ、
憲法に書かれていない政治的権能を持たない。
なら。
市役所だって同じです。
権限の根拠を飛び越えて、
「公共のためだから従え」
とは言えない。
「課長」
私は言いました。
「天皇陛下が市の決定を変えられない理由、さっき即答しましたよね」
「ええ」
「なぜです?」
「憲法上、そのような権能を有していないからです」
「ですよね」
「それが?」
「同じことです」
沢渡課長が私を見る。
「市も」
私は続けました。
「持っていない権限は使えません」
沈黙。
「再整備への協力をお願いする権限があることと」
一枚目の紙。
「住民に移転を命令できることは別です」
二枚目。
「公共の福祉を考慮することと」
三枚目。
「公共の福祉という言葉だけで、法的根拠のない義務を作ることも別です」
沢渡課長は答えません。
片桐所長が静かに言いました。
「権限の境界を曖昧にするな」
「……承知しています」
「本当に?」
相馬先輩が言います。
「相馬」
所長が止める。
でも。
沢渡課長は怒りませんでした。
むしろ。
机の書類をもう一度見ました。
「確かに」
ゆっくり言います。
「現段階の文書は、協力要請です」
「はい」
「法的強制力を伴う移転命令ではありません」
「はい」
「担当課の口頭説明が、それを超えていたのであれば訂正させます」
私は少し驚きました。
早い。
「それから」
沢渡課長が続けます。
「代替施設についても、教育委員会と再調整します」
「週五日を確保すると?」
「そこまでは約束できません」
即答。
ですよね。
「ですが」
沢渡課長は書類を閉じました。
「少なくとも、小学生の利用実態を無視して午後七時以降だけを提示したのは、調整として十分だったとは言いにくいでしょう」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「珍しく素直だな」
「違法な行政処分を作るより安いですから」
「そういう言い方する?」
「私は合理的なんです」
知っています。
本当に。
嫌になるくらい。
事務所へ戻ると。
大庭さんが待っていました。
「どうでした」
「まず」
私は椅子に座りました。
「大事なところから言います」
「はい」
「天皇陛下に、市の決定を取り消していただくことはできません」
大庭さんの表情が沈みます。
「やはり」
「でも」
私は続けました。
「市の言っていることが、全部強制命令だったわけでもありません」
「え?」
「今の段階では、移転への協力要請です」
「でも、市役所では三月までに出ていけと」
「その説明は訂正させます」
大庭さんが固まりました。
「……訂正?」
「はい」
「では、三月になったら警察が来るとか」
「そういう話ではありません」
「罰金は」
「ありません」
「道場を閉められるのは」
「少なくとも、今の文書だけからそうはなりません」
大庭さんは。
しばらく何も言いませんでした。
そして。
両手で顔を覆いました。
「私は」
声が震えていました。
「もう、全部決まったと思っていました」
「そうですよね」
「市に言われたから」
「はい」
「県に言っても駄目で」
「はい」
「だから」
顔を上げる。
「陛下なら、と思って」
「分かります」
本当に。
少しだけ分かる気がしました。
権力というものを、
一本の大きな塔みたいに考えてしまう。
市役所より県。
県より国。
国より総理大臣。
その上に天皇。
上へ行くほど偉くて、
偉いほど何でもできる。
でも。
日本国憲法は。
そんな形にはなっていない。
権限は分かれている。
役割がある。
限界がある。
天皇には天皇の役割。
内閣には内閣の役割。
国会には国会の役割。
裁判所には裁判所の役割。
地方公共団体には地方公共団体の役割。
そして。
誰も。
何でもできるわけではない。
「変な話ですね」
大庭さんが言いました。
「何がです?」
「陛下に何でもしていただけると思っていたのに」
少し笑います。
「何でもできないことのほうが、大事だったんですね」
私は。
その言葉に、少し驚きました。
「……そうかもしれません」
一週間後。
市から正式な文書が届きました。
大庭修武館への通知。
前回の協力要請について、
現段階で法的強制力を伴うものではないことを明記。
今後、事業実施時期、必要となる法的手続、補償、代替施設について改めて協議する。
さらに。
市民体育館だけではなく、
近隣中学校の武道場。
地区公民館の多目的室。
民間体育施設。
いくつかの候補を含めて調整することになりました。
「道場、そのまま残るんですか」
私が聞くと、
片桐所長は首を振りました。
「そこまでは決まっていない」
「ですよね」
「道路拡幅が正式に進めば、別の問題になる」
「補償も」
「ああ」
「権利関係も」
「ああ」
魔法の解決ではありません。
でも。
少なくとも、
市役所から言われたから、
何の手続もなく、
三月に黙って出ていく。
という話ではなくなった。
話し合う時間ができた。
法的根拠を確認する余地ができた。
代替場所を探す余地ができた。
そして。
何より。
誰が、
何の権限で、
何を決めるのか。
そこが見えるようになった。
その日の夕方。
大庭さんが事務所へ来ました。
手には、細長い包み。
「これ」
「何です?」
「道場の子どもたちからです」
開ける。
木刀でした。
「えっ」
「一本余っていたので」
「余り物を行政書士事務所に持ってきます?」
「護身用に」
「用途が怖い!」
相馬先輩が受け取ります。
「いい木刀だな」
「先輩、分かるんですか」
「分からん」
「返してください」
大庭さんが笑いました。
「朝比奈さん」
「はい」
「お願い状は、やめました」
「そうですか」
「陛下に政治をお願いすること自体が、違うんでしょう」
「そうですね」
「でも」
少し考えてから言います。
「前より、天皇陛下のことが分かった気がします」
「どういうところが?」
「何でも決める方じゃない」
「はい」
「決めないことに、意味がある」
私は黙りました。
憲法第四条。
天皇は、
この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、
国政に関する権能を有しない。
受験生だった頃。
私はこの条文を、
ただの制限規定だと思っていました。
国事行為だけ。
国政の権能なし。
はい、暗記。
終わり。
でも。
今は少し違います。
総理大臣を任命する。
最高裁判所長官を任命する。
法律を公布する。
国会を召集する。
衆議院を解散する。
総選挙を公示する。
国務大臣の任免を認証する。
恩赦を認証する。
栄典を授与する。
外交文書を認証する。
外国大使を接受する。
儀式を行う。
これだけの行為をする。
それでも。
政治的な意思決定者にはならない。
そして。
国事行為には、
内閣の助言と承認が必要で、
内閣が責任を負う。
なぜか。
天皇を政治的責任の主体にしないため。
象徴を、
政治権力の頂点に戻さないため。
そう考えると。
「……憲法って」
私は呟きました。
「権力を与える条文だけじゃないんですね」
「何だ急に」
相馬先輩が言いました。
「権力を持たせない条文もある」
「当たり前だ」
「受験生には、その当たり前が見えないんですよ」
「お前だけじゃねえのか」
「全国の受験生を敵に回しましたね」
片桐所長が、木刀を見ました。
「こはる」
「はい」
「振ってみろ」
「ここで?」
「外でやれ」
「なぜ私が?」
「見習いだろ」
「行政書士見習いに木刀の素振り業務はありません!」
相馬先輩が笑います。
「憲法に書いてねえぞ」
「じゃあ、やりません!」
「所長命令だ」
「権限の根拠を示してください!」
大庭さんが声を上げて笑いました。
数日後。
私は市役所で沢渡課長に会いました。
「大庭さんの件、ありがとうございました」
「礼を言われることではありません」
「また合理的だから?」
「ええ」
「課長」
「何です」
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「もし天皇陛下から、『大庭道場を残しなさい』って言われたらどうします?」
沢渡課長が。
ものすごく嫌そうな顔をしました。
「あり得ない仮定を持ち込まないでください」
「仮定です」
「そのような政治的指示を天皇陛下がなさること自体、憲法上想定されていません」
「ですよね」
「憲法第四条です」
「ですよね」
「何が言いたいんです」
「確認です」
「何の」
私は笑いました。
「誰だって、持ってない権限は使えないんだなって」
沢渡課長は。
一瞬だけ黙りました。
そして。
「朝比奈さん」
「はい」
「それを理解したなら」
「はい」
「市役所へ来る回数を減らしてください」
「それとこれとは別問題です」
「残念です」
廊下を歩きながら。
私は、ふと思いました。
昭和六十三年。
憲法の条文は、
私がいた時代と一字一句変わっていません。
第一条も。
第三条も。
第四条も。
第六条も。
第七条も。
第八条も。
同じです。
なのに。
教科書で読んでいたときと、
見える景色が全然違う。
天皇は、
日本で最も強い政治権力を持つ人ではない。
むしろ。
憲法が、
政治的な権能を明確に持たせなかった存在です。
その国事行為には、
内閣の助言と承認が要る。
責任を負うのも内閣。
任命すると書いてあっても、
誰を任命するかを自由に決めるわけではない。
公布すると書いてあっても、
法律の中身を天皇が決めるわけではない。
解散すると書いてあっても、
天皇自身が政治的判断をするわけではない。
形だけ。
儀礼だけ。
そう言ってしまえば簡単です。
でも。
その「形だけ」にしたこと自体が、
たぶん。
とても大きな意味を持っている。
誰か一人を、
何でも決められる存在にしない。
権限を分ける。
責任を分ける。
そして。
誰が何を決めたのかを、
曖昧にしない。
大庭さんは、
天皇に助けてもらうことはできませんでした。
けれど。
天皇でさえ政治を自由に動かせない憲法だからこそ、
市役所にも言えた。
あなたたちも。
持っていない権限までは使えないでしょう、と。
事務所へ戻ると。
机の上に木刀が置いてありました。
その横に紙。
相馬先輩の字です。
――朝比奈こはる。
――素振り百本。
「……何ですか、これ」
「所長命令」
「本当ですか?」
奥を見る。
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「知らん」
「先輩!」
「ちっ」
「今、舌打ちしましたね!」
「国政に関する権能はねえが、後輩に命令する権能くらいある」
「ありません!」
「先輩だぞ」
「憲法より上なんですか!」
「世間の常識だ」
その瞬間。
私は木刀を握りました。
「先輩」
「何だ」
「世間の常識?」
「あ?」
「俺たちが守ってんのは法律だ、っていつも言ってますよね」
「……言ったな」
「じゃあ、その命令の法的根拠をどうぞ」
沈黙。
片桐所長が、
帳簿の向こうで少しだけ笑いました。
私は木刀を机に置きます。
「却下です」
「お前が却下すんな」
「権限がありませんから」
「生意気になったな」
「憲法を勉強しましたので」
窓の外。
夕暮れの町に、
市役所の時計塔が見えました。
その向こう。
ずっと遠くに東京がある。
国会がある。
内閣がある。
皇居がある。
でも。
この国には。
全部の権力を一つに握って、
何でも好きに決められる人はいない。
それは。
少し面倒で。
ずいぶん回りくどくて。
たぶん。
とても大切なことです。
今日の教訓。
――天皇は「一番偉い政治家」ではない。国事行為を行う象徴であり、国政を決める権能は持たない。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




