[行政手続法4条・固有の資格]現場編 「市営なんだから、役所同士でもう決まってます」の罠。行政主体としての市と、一事業者としての市を混ぜる“お役所だから特別”の思い込み
役所は、ときどき、自分が役所であることを忘れます。
いや。
逆です。
自分が役所であることを、便利なところだけ思い出します。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の朝、私はコピー機の横で、一枚のチラシを眺めていました。
『駅前再整備記念 市営観光循環バス運行予定』
駅前。
商店街。
浜名湖畔公園。
温泉街。
郷土資料館。
それらをぐるっと回る観光バス。
なるほど。
町おこしとしては分かりやすい。
駅前再整備ともつながっています。
問題は、そのチラシの一番下。
『今秋運行開始予定』
その文字を見て、向かいの椅子に座っていた男性が、苦い顔をしました。
「これ、もう決まったみたいに書いてあるでしょう」
五十代。
日に焼けた顔。
紺色の作業着。
町で小さなバス会社を営む、三田村隆一さんです。
三田村観光。
貸切バス三台。
路線バス二台。
家族経営に毛が生えたくらいの会社だそうです。
「うちは去年から、その区間で観光路線をやれないか運輸の窓口に相談してたんです」
三田村さんは言いました。
「ところが、急に市営バスの話が出てきた」
「競合するんですか?」
「丸かぶりですよ」
「丸かぶり」
「駅から温泉まで。うちが考えていた経路とほとんど同じです」
それは痛い。
「それで市役所へ聞きに行ったら」
三田村さんの口元が歪みました。
「担当に言われたんです」
「何て?」
「“市営ですから、役所同士ではもう話がついてます”って」
私は瞬きをしました。
「……話がついてる?」
「ええ」
「免許は?」
「そこを聞いたんです」
三田村さんは机を軽く叩きました。
「そしたら、“民間会社とは立場が違いますから”って」
はい。
嫌な言葉が出ました。
立場が違う。
行政法では、その一言を聞いたら、
何がどう違うんですか、
と聞かないと眠れません。
昨夜までの私は、たぶん寝ていましたけど。
行政手続法第四条。
国の機関等に対する処分等の適用除外。
その中に出てくる、
固有の資格。
令和の受験生だった私にとっては、
読むたびに、
「固有って何が固有なんですか」
と教科書へ文句を言いたくなる言葉でした。
地方公共団体が、地方公共団体だからこそ立てる立場。
一般私人には立てない立場。
そこまでは分かる。
でも試験では、
市町村の合併の届出は固有の資格。
市営バスの事業免許は固有の資格ではない。
などと平然と出してくる。
どっちも市なのに。
同じ市なのに。
受験生に優しくない。
「こはる」
片桐所長が湯呑みを置きました。
「何が引っかかる」
「“市だから民間とは立場が違う”ってところです」
「うん」
「市営バスって、市が行政主体として何かする話なんでしょうか」
相馬先輩がこちらを見ます。
「市がやるんだから市だろ」
「それはそうなんですけど」
「何だよ」
「市が市であることと、“市にしかできない立場でやってること”は別じゃないですか」
相馬先輩が少し黙りました。
「……続けろ」
珍しい。
ちゃんと聞いてくれます。
「たとえば、市町村の合併の届出を、私が私人として出すことはできません」
「そりゃそうだ」
「でもバス事業は?」
三田村さんを見る。
「民間会社でもできます」
「できます」
「じゃあ市営バスの事業免許を受けるとき、市は“行政主体にしかなれない立場”じゃない」
片桐所長が一度だけ頷きました。
「そう見るべきだな」
胸の中で、昨夜まで文字だった言葉が少しだけ立ち上がります。
固有の資格。
行政機関だから特別、ではない。
その場面で、
一般私人には立てない立場なのか。
そこを見る。
ただし。
ここで大事な問題があります。
今は昭和六十三年です。
行政手続法は、まだありません。
私は未来の条文を市役所に突きつけて、
「第四条によれば!」
などとは言えません。
やったら法律論以前に、私の社会的信用が終わります。
「でも」
私はチラシを見ました。
「今の制度でも、事業免許が必要なら、市だから自動的に通るわけじゃないですよね」
「確認しに行くぞ」
相馬先輩が立ち上がりました。
「どこへ?」
「運輸の窓口」
「市役所じゃないんですか?」
「市の話を市だけに聞いてどうする」
ごもっとも。
実務派、こういうときだけ妙に格好いい。
片桐所長も立ち上がります。
「三田村さんも来てください」
「私も?」
「あなたの事業にも関係する」
こうして。
私たちは、市役所ではなく、まず地方の運輸行政を扱う窓口へ向かいました。
古い庁舎。
灰色の廊下。
紙ファイル。
待合椅子。
昭和の役所というのは、どうしてこう、全部の壁が少し疲れているんでしょう。
窓口で相馬先輩が名刺を出します。
「市営観光循環バスの件で確認したい」
担当の男性職員が、少し警戒しました。
「どういったご用件でしょう」
「もう免許は出てます?」
「免許?」
「市が秋から運行すると宣伝してる」
職員の眉が寄りました。
「まだ出ていません」
三田村さんが顔を上げました。
「出てない?」
「はい」
「申請は?」
「申請相談は受けています」
はい。
一枚剥がれました。
私はチラシを見ます。
『今秋運行開始予定』
予定。
便利な言葉です。
決定にも見えるし、
駄目なら予定でしたと言える。
日本語、行政に優しすぎません?
「市役所の担当から」
三田村さんが言いました。
「“市営だから役所同士ではもう話がついている”と言われたんですが」
職員の顔が止まりました。
「誰がそんなことを?」
「都市振興課です」
「……それは困りますね」
「じゃあ、市だから特別に通るわけじゃない?」
「当然です」
担当職員ははっきり言いました。
「バス事業を行う以上、市営であっても必要な審査は受けます」
私の頭の中で、
カチッ、
と音がしました。
これです。
市役所だから。
地方公共団体だから。
行政機関だから。
そこだけ見たら見誤る。
この場面の市は、
道路を管理する市でもない。
条例を制定する市でもない。
住民票を発行する市でもない。
バスを走らせる事業者です。
「民間のバス会社と、審査する事項は違うんですか?」
私は聞きました。
職員が私を見る。
「申請者が地方公共団体だからというだけで、事業者としての要件を見なくなることはありません」
「ですよね」
「君は?」
「見習いです」
「何の」
「行政書士です」
「妙に細かいな」
最近よく言われます。
「じゃあ、市だから免許を出す前提で話を進めてるわけじゃない」
三田村さんが確認しました。
「もちろん違います」
「競合する既存業者の状況も見ます?」
職員は少し言葉を選びました。
「個別案件の審査内容はここで申し上げられませんが、必要な事項は確認します。少なくとも、“市営だから免許は形式だけ”という扱いではありません」
三田村さんの肩が、少しだけ下がりました。
たぶん。
勝った、という安心ではありません。
自分の知らないところで全部決められていたわけではない。
その安心です。
片桐所長が聞きました。
「市からの申請書類は、すでに正式提出されていますか」
「まだ事前相談の段階です」
相馬先輩がチラシを指で叩きました。
「事前相談で、もう“秋から運行”か」
「こちらも、その広報は把握していませんでした」
担当職員の顔が少し険しくなります。
「申請前提で住民に確定的な印象を与えるのは、こちらとしても望ましくありません」
空気が変わりました。
ここです。
役所同士だから話がついている。
その一言が、
市民には、
もう決定済み。
民間業者が何を言っても無駄。
そう聞こえていた。
でも。
運輸側に聞けば違った。
まだ事前相談。
免許は出ていない。
市営だから自動的に通るわけでもない。
「じゃあ次」
相馬先輩が言いました。
「市役所だ」
午後。
市役所の都市振興課。
そして、いました。
倉田係長。
「……また来た」
顔に出てますよ、係長。
「こんにちは」
「今日は何です」
「最近、歓迎されなくなってきました」
「最初から歓迎はしてません」
「傷つきます」
「元気そうだから大丈夫でしょう」
この人もだいぶ慣れてきましたね。
三田村さんがチラシを窓口へ置きます。
「これについて聞きたい」
倉田係長の顔が少し真面目になりました。
「ああ、市営循環バスですか」
「免許、まだ出てませんよね」
倉田係長が一瞬止まりました。
「……運輸に行かれたんですか」
「行きました」
相馬先輩が答えます。
「事前相談の段階だそうだな」
「ええ、まあ」
「なのに“役所同士でもう話がついている”?」
倉田係長が額を押さえました。
「誰が言ったんです、それ」
三田村さんが担当者の名前を出しました。
倉田係長が、深いため息をつきます。
「あいつか……」
この反応。
ちょっと同情します。
「係長」
私は言いました。
「市営だから、普通の事業者とは違う扱いになるんですか?」
「何の話?」
「バスの事業免許です」
「市営だから多少、行政間の調整がしやすい面はありますよ」
「調整がしやすいことと、免許の審査で特別扱いされることは別ですよね」
倉田係長が私を見ました。
数秒。
黙る。
「……そうですね」
「市はこの場合、何の立場なんです?」
「何のって」
「バス事業をする側です」
私は言いました。
「道路を管理する側でも、市民を指導する側でもない。一事業者として免許を受けようとしてる」
倉田係長の目が少し細くなりました。
「君、また変なところ突くね」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてない」
相馬先輩が横から言いました。
「要するに、市の看板を背負えば何でも行政になるわけじゃねえだろ」
「言い方」
でも内容はそれです。
片桐所長が静かに言いました。
「行政主体としてしか立てない場面と、私人でも立てる場面は分けた方がいい」
倉田係長が所長を見ます。
「私人でも立てる場面」
「民間のバス会社でも、同じ事業の免許を申請できます」
「……ええ」
「なら、市が申請者だからという理由だけで、“役所同士の話だから事実上決まっている”と説明するのは正確ではない」
静か。
短い。
逃げ道がありません。
倉田係長はしばらく黙りました。
「それは……確かに言い過ぎです」
三田村さんが口を開きます。
「私が腹を立ててるのは、市営バスをやること自体じゃないんです」
声は、最初より落ち着いていました。
「町が便利になるなら、それはいい」
「はい」
「でも、こっちは同じ路線を考えて一年相談してきたんです。それを“市だからもう決まり”って言われたら、何のために俺たちは申請だの審査だのやってるんだって思うでしょう」
倉田係長が視線を落としました。
「それは……そうですね」
「市も審査を受けるんなら、受ければいい」
三田村さんは言いました。
「同じ土俵なら、文句はありません」
あ。
私はその言葉に、少しだけ胸が動きました。
同じ土俵。
まさに、それです。
地方公共団体だから、
何でも私人と違うわけじゃない。
市だからこそできることもある。
市町村の合併。
行政機関としてしかできない届出。
一般の人間には絶対に立てない立場。
それは確かにある。
でも。
バスを走らせる。
土地を借りる。
物を買う。
事業者として許可や免許を受ける。
そういう場面では、
地方公共団体が私人と同じ土俵に立つことがある。
未来の行政手続法は、
そこを「固有の資格」という妙に硬い言葉で区切る。
でも。
今日の三田村さんの、
同じ土俵なら文句はない。
その一言の方が、ずっと分かりやすかった。
「係長」
所長が言いました。
「広報を直してください」
「広報?」
「免許取得前であることが分かるように」
倉田係長はチラシを見ます。
『今秋運行開始予定』
「“関係機関との協議及び必要な手続を経た上で”など、少なくとも現状に即した表現に」
「……検討します」
相馬先輩が刺します。
「また“検討”か」
「じゃあ今日中に担当と話します」
「最初からそう言え」
「あなた、本当に役所に厳しいですね」
「仕事だからな」
倉田係長は苦笑しました。
そして。
「三田村さん」
「はい」
「担当者の言い方については、こちらから注意します」
三田村さんは少し意外そうな顔をしました。
「……お願いします」
「市営事業だからといって、免許が出る前から決定済みのように説明するのは適切ではありません」
「そこだけ分かってもらえれば」
完全勝利ではありません。
市営循環バスの計画が消えたわけでもない。
三田村観光の路線が認められると決まったわけでもない。
競合するかもしれない。
市営バスが先に認められるかもしれない。
逆もあるかもしれない。
でも。
少なくとも、
「市だからもう決まり」
という一枚岩の言葉は崩れました。
市も、事業者として審査を受ける。
三田村さんも、事業者として申請する。
そこから先は、
市の肩書ではなく、
それぞれの計画と制度の中身で見てもらう。
帰り道。
三田村さんが言いました。
「なんか、変ですね」
「何がです?」
「市役所って聞くと、こっちより上の立場だと思うでしょう」
「思いますね」
「でも今日は、同じ申請者なんだな」
「そういう場面もあります」
「市が市じゃなくなるわけじゃないのに」
「そこがややこしいんです」
本当に。
地方公共団体は地方公共団体のままです。
でも、
いつでも行政権を振るう側にいるわけじゃない。
ときには、
許可をもらう側。
契約する側。
事業をする側。
私人と並んで一つの制度に参加する側にもなる。
「役所って、一個の顔じゃないんですね」
三田村さんが言いました。
「はい」
私は笑いました。
「行政法の人、そこをいちいち分けるのが好きみたいです」
「行政法の人?」
「いえ、独り言です」
危ない。
夕方。
事務所へ戻ってしばらくすると、市役所から電話が入りました。
倉田係長です。
『チラシ、差し替えることになりました』
「早いですね」
『最近、あなた方が来た案件は早めに直した方が被害が少ないと学習しました』
「何ですかその危険物扱い」
『“必要な事業免許等の手続を経た上で、今秋の運行開始を目指します”に変えます』
「かなり違いますね」
『でしょう』
「ありがとうございます」
『あと』
「はい?」
『三田村さんに言った担当には、私から話しました』
「怒りました?」
『怒ってません』
一拍。
『かなり説明しました』
それ、役所語で怒ったやつでは。
「係長」
『何です』
「お疲れさまです」
電話の向こうで、少しだけ笑った気配がしました。
『君もね』
通話が切れます。
その日の夕方。
三田村さんが事務所へ、小さな紙袋を持ってきました。
「うちの女房からです」
中身は、駅前のパン屋のあんパン。
「こんなに?」
「社員の分も買ってたら多くなって」
相馬先輩がさっそく一個取ります。
「先輩」
「何だ」
「まだお礼も言ってません」
「ありがとうございます」
「速い!」
三田村さんが笑いました。
「いいですよ。食べてください」
そして。
「朝比奈さん」
「はい」
「今日のあれ、覚えときます」
「どれです?」
「市だから偉いんじゃなくて、その場で何の立場にいるかを見る」
私は一瞬、返事を忘れました。
それ。
今日の教訓、ほぼ完成してません?
「……はい」
「今度また役所に何か言われたら、聞いてみます」
「何て?」
「今の市役所さんは、役所として言ってるんですか。それとも一事業者として言ってるんですか、って」
相馬先輩があんパンを噴きそうになりました。
「やめとけ。窓口が固まる」
「でも合ってるでしょう?」
「合ってるけど、言い方が喧嘩売ってる」
「じゃあ朝比奈さんに聞いてから行きます」
「私を武器商人みたいにしないでください」
三田村さんは笑って帰っていきました。
日が落ちます。
事務所の窓の外。
駅前再整備の工事現場に、黄色い灯りが点き始めています。
私は机に戻り、ノートを開きました。
白いページ。
今日は題名を書くまで、少し迷いました。
行政手続法第四条。
――と書きかけて。
いったんペンを止めます。
今は昭和六十三年。
この法律は、まだありません。
今日の市役所でも。
運輸の窓口でも。
誰も「行政手続法第四条」なんて言わなかった。
言えるはずもない。
でも。
問題そのものは、もう目の前にありました。
地方公共団体が、
地方公共団体にしかできない立場で動くとき。
地方公共団体が、
私人でも立てる立場で動くとき。
見た目は同じ「市」。
でも法律から見れば、意味が違う。
私はノートに、一つだけ書きました。
――役所かどうかではなく、その場で“役所にしか立てない立場”かを見る。
「何だそれ」
相馬先輩が覗き込みます。
「今日のまとめです」
「長い」
「じゃあ先輩なら?」
「市でも、客になるときは客」
私は止まりました。
「……分かりやすい」
「だろ」
「悔しい」
「何でだよ」
でも。
かなり本質です。
市が行政主体としてしかできないこと。
市町村としての届出。
行政機関間の関係。
そういうものと。
市がバス事業者として免許を求めること。
私人でも立てる立場。
それを一緒にしない。
所長が帳簿を閉じました。
「立場は肩書で決まらない」
私と相馬先輩が同時に所長を見る。
「その行為について、何者として立っているかだ」
また全部持っていかれました。
「所長」
「何だ」
「今の、私のノートに書いていいですか」
「勝手にしろ」
「著作権は?」
「知らん」
「昭和の事務所、知的財産に雑!」
相馬先輩が笑います。
私はノートの一番下に、今日の教訓を書き直しました。
肩書ではなく、その場で何者として立っているかを見る。
その横に、小さく付け足します。
――市でも、私人と同じ土俵に立つことがある。
行政法の言葉は、どうしても冷たいです。
固有の資格。
行政主体。
処分。
届出。
どれも、人の顔が浮かびにくい。
でも。
今日、三田村さんが欲しかったのは、
市を負かすことじゃありませんでした。
市営バスを止めることでもない。
ただ、
市だからというだけで、
最初から勝負が終わっていることにされたくなかった。
それだけです。
冷たい制度の線引きが、
市役所を特別扱いするためではなく、
逆に、
必要なときには同じ土俵へ戻すためにも働く。
それを知ると、
「固有の資格」
という眠そうな言葉にも、少しだけ血が通って見えました。
「こはる」
「はい」
相馬先輩が最後のあんパンを持っています。
「これは俺が食う」
「何でです?」
「俺は先輩だ」
「それ、先輩という固有の資格ですか?」
「そうだ」
「一般私人が立てない立場ですか?」
「お前は後輩だから立てない」
「その理屈だと、私への適用除外になります?」
「何のだよ」
所長が新聞を広げたまま言いました。
「半分にしろ」
「またですか」
「異議は?」
私は相馬先輩を見ました。
相馬先輩も私を見る。
「……ないです」
「俺も」
どうやら片桐行政書士事務所では、
所長だけは本当に、
私人には立てない固有の資格を持っているようでした。
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