[憲法・権力分立]現場編 「役所が決めた基準ですから」の罠。肥大化する行政権と、誰にも全部を決めさせない三権分立
人は、決める人と、実行する人と、裁く人を、同じ人にしてはいけません。
たとえ。
その人が、とても優秀でも。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「役所って、法律も作れるんですか?」
その日の朝。
私は一枚の紙を持ったまま、かなり間抜けな質問をしました。
相馬先輩が新聞から目だけを上げます。
「朝から何言ってんだ」
「いや、だってこれ」
私は紙を机に置きました。
表題。
――駅前露店営業適正化指導基準。
その下には、細かい文字で条件が並んでいます。
道路幅員。
営業時間。
衛生設備。
防火措置。
そして。
最後の一項。
――周辺商店会その他地域関係団体との協調が認められない者については、駅前区域における営業を認めないものとする。
「……これ」
私は指で叩きました。
「法律なんですか?」
「違う」
「条例?」
「違う」
「規則?」
「違う」
「じゃあ何なんです?」
「書いてあるだろ」
「指導基準」
「そうだ」
「なのに営業できなくなるんですか?」
「そこを聞きに来たんだろ」
相馬先輩が顎をしゃくりました。
応接椅子には、一人の男性が座っていました。
三十二歳。
名前は水野隆志。
東京の洋食店で十年働き、去年、故郷へ戻ってきた人でした。
駅前で、小さな移動販売車を使ったサンドイッチ店を始めようとしている。
車といっても大型ではありません。
中古の軽トラックを改造したもの。
鉄板。
小さな冷蔵庫。
給水タンク。
手洗い設備。
保健所関係の手続も進めた。
駅前広場近くの市有地についても、使用の相談をしていた。
ところが。
「商店会に入らなかったんです」
水野さんが言いました。
「入れなかった?」
「いえ。入らなかったんです」
「どうして?」
「条件がありまして」
「条件?」
「営業時間を周りの店に合わせること。値段も相談すること。毎月の会費。それから、祭りの寄付」
「……値段も?」
「はい」
私は眉をひそめました。
「サンドイッチ一個いくらにするかまで?」
「『既存の喫茶店と競合しないように』って」
なるほど。
昭和の地元商店会。
強い。
たぶん私が思っている三倍くらい強い。
「断ったら?」
「会長さんに言われました」
水野さんが苦笑しました。
「『この町で商売するなら、この町のやり方がある』って」
その一週間後。
市役所から連絡が来た。
駅前での営業について、
現状では認められない。
「理由を聞いたら」
水野さんは紙を指しました。
「この基準を渡されました」
――地域関係団体との協調が認められない者。
つまり。
商店会と仲良くできない。
だから駄目。
「でも、俺」
水野さんが言いました。
「衛生基準も守ってます。消防署にも相談しました。邪魔にならない場所も選びました」
「はい」
「商店会に入らないだけで、市が商売を止めていいんですか」
私は答えられませんでした。
いや。
頭の中には、いくつか言葉が浮かんでいます。
営業の自由。
憲法二十二条。
職業選択の自由。
合理的な規制。
公共の福祉。
でも。
今回、何か違う。
もっと手前に。
気持ちの悪いものがある。
「これ、誰が作ったんですか」
私は聞きました。
「市役所の商工観光課だそうです」
「議会は?」
「分かりません」
「条例は?」
「それも」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「行くぞ」
「また早い」
「紙見て悩んでても役所の腹は分からねえ」
「前にも聞きました、それ」
「なら覚えろ」
市役所二階。
総務課。
灰色の背広。
細い眼鏡。
沢渡課長は、私たちを見るなり書類を閉じました。
「今日は何でしょう」
「水野隆志さん」
相馬先輩が言います。
「駅前の移動販売」
「ああ」
「これだ」
指導基準を机に置く。
沢渡課長は一度だけ目を落としました。
「商工観光課の基準ですね」
「これで営業を認めないと言われた」
「正確には」
沢渡課長が言いました。
「現段階では、市有地使用について肯定的な判断ができない、ということです」
さすがです。
言葉が正確。
こちらが雑に殴ると、その雑なところだけ避けてくる人です。
「理由は?」
「駅前は再整備を控えています。無秩序に営業者が増えれば、歩行者動線、衛生、防災、既存商店との調整など、様々な問題が起きます」
「既存商店との調整」
私は言いました。
「商店会に入ることですか」
「必ずしもそうではありません」
「じゃあ、水野さんの何が問題なんです?」
「地域との協調性です」
出た。
昭和の最終兵器。
協調性。
学校でも会社でも町内会でも商店街でも、これを出されると強い。
「協調性がないって」
私は聞きました。
「具体的には?」
「商店会から懸念が出ています」
「どんな?」
「価格競争が起きる。営業時間が異なる。既存店舗との摩擦が生じる可能性がある」
「それって」
私は思わず言いました。
「新しい店なら普通じゃないですか」
沢渡課長の眉が少し動きます。
「普通かどうかではなく、駅前の秩序を維持する必要があります」
「公共の福祉、ですか」
「そういう観点も含まれます」
来ました。
公共の福祉。
受験生のころ。
何度も見ました。
人権は無制限ではない。
公共の福祉による制約を受ける。
それだけ覚えると。
ものすごく便利な言葉に見えます。
公共の福祉だから駄目。
公共の福祉だから我慢。
公共の福祉だから役所が正しい。
でも。
そんな万能カードだったでしょうか。
「課長」
片桐所長が静かに言いました。
「確認する」
「どうぞ」
「この指導基準は条例か」
「違います」
「市長規則か」
「違います」
「法令に基づく許可基準そのものか」
「それも違います。内部の判断指針です」
「議会の議決は」
「経ていません」
沢渡課長は即答しました。
誤魔化さない。
むしろ。
こちらがどこを問題にしているか、もう分かっている顔でした。
「それ自体に、市民の営業を禁止する法的効力があるか」
片桐所長が聞きます。
少し間がありました。
「それ自体に、直接そのような効力があるとは申しません」
やっぱり。
沢渡課長は分かっている。
問題は、もっと別のところです。
「でも実際には」
私は言いました。
「この基準に合わないから、市有地を使わせない」
「判断材料の一つです」
「結果として、水野さんは営業できない」
「市有地以外での営業まで禁止しているわけではありません」
「じゃあ聞きます」
私は紙を持ち上げました。
「衛生上の問題もない。防火上の問題もない。通行の邪魔になるとも決まっていない。それでも、商店会と値段や営業時間を合わせないことが、市有地使用を拒む決定的な理由になるんですか」
沢渡課長が黙りました。
相馬先輩が腕を組みます。
「役所が面倒なんだろ」
「何がでしょう」
「新しい奴が来る。古い商店が文句言う。だったら新しい奴を入れなきゃ揉めねえ」
「そのような単純な話ではありません」
「だろうな」
相馬先輩は鼻で笑いました。
「だから紙にしてある」
空気が少し変わりました。
「行政が何でもやる時代だ」
相馬先輩が言います。
「道路も見る。福祉もやる。衛生も見る。商工業も見る。町づくりまでやる」
私は相馬先輩を見ました。
行政。
確かに。
現代の国家は、昔のように警察と税金だけやっているわけではありません。
福祉。
教育。
都市計画。
産業振興。
環境。
衛生。
労働。
社会が複雑になればなるほど。
行政が扱う仕事は増える。
専門知識も必要になる。
全部を国会や地方議会が細部まで決めることなんてできない。
だから行政に判断が委ねられる。
基準を作る。
運用する。
専門的な判断をする。
行政国家現象。
受験テキストに書いてあった言葉が、急に目の前の市役所の机とつながりました。
「……行政が大きくなる」
私は呟きました。
「何だ?」
相馬先輩が見る。
「いえ」
そうです。
行政が大きくなること自体が悪いわけではない。
むしろ必要だから大きくなった。
でも。
だからこそ。
怖い。
行政が基準を作る。
行政がその基準を適用する。
行政が不利益を与える。
そして、
行政が、
『うちの判断ですから』
で終わらせる。
それが全部通るなら。
「……あ」
声が出ました。
「何だ」
片桐所長が私を見る。
「権力分立」
沢渡課長の視線がこちらへ向きました。
私は頭の中で、憲法の最初から最後までを思い出しました。
条文は。
同じです。
昭和六十三年も。
令和も。
日本国憲法は変わっていない。
国会。
内閣。
裁判所。
立法。
行政。
司法。
なぜ分ける。
仕事を効率化するため?
違う。
もっと根っこです。
一つの権力に全部を握らせないため。
権力を分ける。
互いに抑える。
均衡させる。
最後に守りたいものは。
人です。
「課長」
私は言いました。
「行政が基準を作ること自体が悪いって言いたいんじゃありません」
「でしょうね」
「行政に専門的な判断が必要なのも分かります」
「ええ」
「でも、その基準だけで市民の営業を事実上排除して、それを『役所が決めた基準だから』で終わらせることはできませんよね」
「もちろん、法令の範囲内で運用します」
「その範囲を誰が決めるんです?」
沢渡課長が私を見る。
「まず行政自身が法令を解釈します」
「でも、行政だけが最後に決めるわけじゃない」
沈黙。
その瞬間。
頭の中で三つの機関が並びました。
国会。
内閣。
裁判所。
立法府が法を作る。
行政府が法を執行する。
裁判所が具体的な争いについて法を適用し、行政の行為が違法なら是正する。
そして裁判所には、違憲審査という強烈な役割まである。
「行政の判断だって」
私は言いました。
「司法審査の外にはありません」
沢渡課長は否定しませんでした。
「そうですね」
「裁判所は、行政の内部基準だからって無条件に従うわけじゃない」
「当然です」
「なら、この運用が憲法二十二条の職業選択の自由との関係で合理的なのかも問われる」
「……そこまで持っていきますか」
「持っていきません」
私は答えました。
「私たちは弁護士じゃありませんから」
そこは大事です。
行政書士が裁判代理をするわけではない。
違憲訴訟を起こすわけでもない。
法廷で沢渡課長と戦うわけでもない。
「でも」
片桐所長が言いました。
「法廷へ行く前に、行政が自分の判断を点検することはできる」
沢渡課長が所長を見る。
「意見書を出す、と」
「そうだ」
「憲法論まで入れて?」
「必要なら」
片桐所長は静かでした。
「憲法を振り回すのは三流だ」
私はちらりと所長を見る。
出ました。
所長の持論。
「何でも違憲だと言えばいいわけじゃない。行政には行政の役割がある。専門判断も裁量もある」
「同感です」
沢渡課長が答えます。
「だが」
所長の声が少しだけ低くなりました。
「行政が自分で作った内部基準を使って、法令上の根拠や目的との結びつきが薄い理由で、市民の自由を事実上封じるなら話は別だ」
部屋が静まりました。
「そのときは」
片桐所長が言います。
「一番上の法を確認する」
憲法。
最高法規。
私は背筋が少し伸びました。
その日の午後。
事務所へ戻った私たちは、意見書を作り始めました。
「よし」
私は原稿用紙を前にしました。
「第一行。『本件は明白かつ重大な憲法違反であり――』」
「消せ」
片桐所長。
「まだ十七文字くらいです」
「全部消せ」
「勢いが」
「いらん」
相馬先輩が笑いました。
「所長に言われただろ。憲法振り回すのは三流だ」
「でも今回は伝家の宝刀ですよね?」
「刀ってのはな」
相馬先輩が煙草をくわえます。
「抜く前が一番怖えんだよ」
なるほど。
ちょっと格好いい。
「じゃあ、どう書きます?」
「事実からだ」
水野さんが満たしている条件。
衛生。
防火。
設備。
営業予定場所。
交通への影響。
次に。
問題となっている指導基準の位置づけ。
条例ではない。
規則でもない。
議会の議決を経た法規範でもない。
行政内部の判断指針。
そして。
地域との協調性。
その具体的内容が、
商店会への加入や、
既存店との価格・営業時間の調整を意味するのであれば。
「ここからですね」
「ああ」
所長が言います。
「行政目的との関係を問え」
駅前秩序。
衛生。
防災。
歩行者安全。
それらは行政が考慮していい。
むしろ考慮すべきです。
でも。
既存商店と価格を合わせない。
商店会に入らない。
それだけで。
なぜ衛生が悪化する。
なぜ防災上危険になる。
なぜ歩行者の安全が損なわれる。
つながらない。
「目的と手段」
私は呟きました。
「そうだ」
所長が言います。
「行政目的が正当でも、使う手段まで何でも許されるわけじゃない」
さらに。
憲法二十二条一項。
職業選択の自由。
営業の自由も、その保障と密接に関わる。
もちろん。
経済的自由には合理的な規制が認められます。
安全。
衛生。
社会経済政策。
何でも即違憲ではない。
だからこそ。
今回の規制理由が、
本当に正当な行政目的に結びついているのか。
必要性があるのか。
手段として合理的なのか。
そこを問う。
そして。
私は意見書の最後に、
もう一つの視点を書きました。
行政権の肥大化。
行政が専門的・技術的事項について基準を設定し、その基準に基づき執行する必要性そのものは否定できない。
しかし。
行政内部で形成された基準によって、市民の基本的人権に重大な制約を加える場合には、
法令上の根拠、
委任の範囲、
行政目的との合理的関連性、
平等な運用、
そして司法審査に耐え得る説明が必要になる。
「これ」
私は書きながら言いました。
「権力分立って、国会と内閣と裁判所の名前を三つ覚える話じゃなかったんですね」
「今さらか」
相馬先輩が言います。
「受験生のころは三角形を書いて満足してました」
「何だその勉強法」
「国会、内閣、裁判所を三角に置いて、矢印をいっぱい書くんです」
「それで?」
「満足します」
「落ちるぞ」
「転生前の私に言ってください」
でも。
今なら分かります。
三角形の真ん中に置くべきもの。
それは。
たぶん人間です。
権力を三つに分けること自体が目的じゃない。
国家権力を一か所に集めない。
立法が行政を抑える。
行政も議会に対して働きかける。
司法が法律や行政作用を審査する。
互いに完全に孤立しているわけでもない。
均衡。
抑制。
誰か一人に、
作る。
実行する。
裁く。
その全部を握らせない。
その仕組みの先に。
水野さんみたいな一人の人間がいる。
三日後。
私たちは再び市役所へ行きました。
沢渡課長の机に、意見書を置く。
厚さ十二枚。
「ずいぶん書きましたね」
「朝比奈が三十枚書いた」
相馬先輩が言いました。
「所長が十二枚にしました」
「十八枚は何だったんです?」
「熱意です」
「不要部分ですね」
「課長まで!」
沢渡課長は眼鏡を直し、読み始めました。
一枚。
二枚。
三枚。
表情は変わらない。
七枚目。
指が止まりました。
そこには、
職業選択の自由。
内部基準の法的位置づけ。
市有財産管理の目的。
考慮すべき事項と、考慮してはならない事項。
そして、
行政判断が司法審査の対象となり得ること。
そうした論点を整理してありました。
「裁判をするつもりですか」
沢渡課長が聞きました。
「それを決めるのは水野さんです」
片桐所長が答えます。
「必要なら弁護士へ引き継ぐ」
「行政書士としては?」
「そこへ行く前に、市に再検討を求める」
沢渡課長は意見書を閉じませんでした。
「一つ言っておきます」
「はい」
「行政が内部基準を持つこと自体は問題ではありません」
「分かっています」
「駅前管理について、市に一定の判断余地があることも」
「否定していません」
「商店会の意見を聞くこと自体も違法ではない」
「それも書いてあります」
沢渡課長は小さく頷きました。
「だから厄介なんです」
私は瞬きをしました。
「厄介?」
「『商店会の意見を聞いたから違憲』なら、こちらも簡単に反論できます」
そう。
この人は馬鹿ではありません。
むしろ。
こちらが雑な憲法論を出せば、簡単に潰してくる。
「問題は」
沢渡課長が七枚目を指しました。
「その意見を、どの程度判断に反映させたか」
「はい」
「そして、商店会への非加入が、事実上の不許可基準として運用されていなかったか」
「そこです」
「……確認します」
相馬先輩が口元を少し上げました。
「確認で済むか?」
「何を期待しているんです」
「判断のやり直し」
「必要なら行います」
「必要だろ」
「それを今から確認すると言っています」
相変わらず強い。
でも。
前回とは違います。
沢渡課長は、
『役所の基準です』
とは言わなかった。
「課長」
私は聞きました。
「怖いですか」
「何がでしょう」
「違憲って言われるの」
「言われるだけなら怖くありません」
即答。
「じゃあ何が?」
「説明できない行政判断を残すことです」
私は黙りました。
「朝比奈さん」
「はい」
「行政は多くのことを判断します」
「はい」
「昔より、仕事は増えています。福祉も、都市計画も、産業政策も、環境も、防災も」
「行政国家現象」
「教科書の言葉なら、そうでしょう」
沢渡課長は意見書を持ち上げました。
「だからこそ、行政に判断余地が必要になる」
「でも」
「ええ」
先を言われました。
「判断余地が大きくなるほど、なぜそう判断したのかを説明できなければならない」
私は少し悔しくなりました。
「それ、私が言いたかったです」
「早い者勝ちではありません」
「そうですけど」
沢渡課長は、ほんの少しだけ笑った気がしました。
一週間後。
市から連絡が来ました。
水野さんの市有地使用について、
再検討。
商店会への加入や価格調整を条件とはしない。
衛生。
防火。
通行安全。
営業時間。
占用面積。
そうした客観的条件を中心に、改めて判断する。
「許可ですか?」
水野さんが聞きました。
「まだです」
私は答えました。
「そこは大事です。憲法を出したから自動的に許可、ではありません」
「じゃあ」
「ちゃんとした基準で、もう一度審査してもらえることになりました」
「商店会に入らなくても?」
「それだけを理由にはしないそうです」
水野さんは、しばらく黙っていました。
そして。
「それでいいです」
と言いました。
「いいんですか?」
「俺も、何でも自由にやらせろって言いたいわけじゃないんです」
「はい」
「火を使うなら消防の決まりは守ります。邪魔になるなら場所も変える。ゴミが出るなら片付ける」
少し笑います。
「でも、『昔からそうだから』だけで駄目って言われるのは嫌だった」
その言葉が。
妙に残りました。
さらに二週間後。
条件付きで使用が認められました。
営業時間。
清掃義務。
通路幅の確保。
火気設備の点検。
半年間の試行。
水野さんは全部受け入れました。
商店会への加入。
価格の調整。
祭りへの寄付。
それらは条件に入りませんでした。
営業初日。
私たちは駅前を通りました。
軽トラックの横に、小さな看板。
――焼きたて玉子サンド。
「うわ」
私は立ち止まりました。
「いい匂い」
「仕事中だぞ」
相馬先輩が言います。
「昼休みです」
「十一時四十分だ」
「誤差です」
「二十分を誤差にするな」
水野さんがこちらに気づきました。
「朝比奈さん!」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
「売れてます?」
「まあまあです」
「じゃあ一つ」
「お前」
相馬先輩が呆れます。
「営業確認です」
「食いたいだけだろ」
玉子サンドを一つ買いました。
厚焼き玉子。
からし。
少し甘いソース。
一口。
「……おいしい」
「だろ?」
水野さんが笑います。
その向こう。
駅前には昔からの喫茶店があります。
新聞販売台があります。
花屋があります。
新しいサンドイッチ屋も加わった。
別に。
町は壊れていません。
秩序も崩壊していません。
商店会長が怒って世界が終わることもありませんでした。
「先輩」
「何だ」
「権力分立って、変な制度ですね」
「何がだ」
「国会と内閣と裁判所を、わざわざ分けるじゃないですか」
「それが?」
「効率だけ考えたら、一か所で全部決めた方が早いですよね」
法律を作る。
執行する。
争いが起きたら自分で裁く。
一人で全部。
速い。
ものすごく速い。
「でも」
私は玉子サンドを見ました。
「速すぎるんですね」
相馬先輩がこちらを見る。
「何が」
「権力です」
一つの機関が、
ルールを作り、
人を従わせ、
自分の判断が正しかったかまで自分だけで決める。
それなら。
水野さんは今ここにいなかったかもしれない。
「だから」
私は言いました。
「わざと面倒にしてある」
「まあな」
「議会がある。行政がある。裁判所がある」
「うん」
「互いに邪魔する」
「言い方」
「抑制する」
「最初からそう言え」
でも。
少しくらい邪魔し合う方がいい。
国家権力については。
誰か一人が、
何でも決められるより。
「世間の常識?」
相馬先輩がサンドイッチを一つ取りました。
「俺たちが守ってんのは法律だ」
「それ私のですよ」
「二つ入ってる」
「二切れで一個です!」
「細けえな」
「返してください!」
相馬先輩は一口食べました。
「うまい」
「感想じゃなくて!」
そのとき。
背後から声がしました。
「勤務時間中では?」
振り返る。
「沢渡課長!」
最悪の人に見つかりました。
「昼休みです!」
「まだ十二時前ですが」
「現地調査です」
「サンドイッチを食べるのが?」
「営業状況の確認です!」
「なるほど」
絶対信じていません。
沢渡課長は店を見ました。
人が三人ほど並んでいます。
通路は十分空いている。
ゴミ箱もある。
消火器も置いてある。
「問題なさそうですね」
ぽつりと言いました。
「課長も一つどうです?」
水野さんが聞きました。
「勤務中ですので」
「十二時になったら?」
「検討します」
役人。
そこまで慎重なのか。
沢渡課長は去りかけて。
一度だけ振り返りました。
「朝比奈さん」
「はい」
「先日の意見書」
「はい」
「一点だけ」
「何でしょう」
「権力分立は、行政を弱くするためだけの仕組みではありません」
私は黙りました。
「行政には行政の仕事をさせる。その代わり、越えてはいけない線を他の権力が監視する」
「……はい」
「行政が必要以上に萎縮しても、国民は困ります」
「確かに」
「そこまで書ければ、もう少し良い意見書でした」
ぐ。
悔しい。
「次は書きます」
「次がない方がいいんですが」
「それもそうですね」
沢渡課長は去っていきました。
私はその背中を見ながら、思いました。
権力分立。
立法。
行政。
司法。
どれか一つを悪者にする話ではない。
どれも必要です。
だからこそ。
一つに全部を渡さない。
行政が大きくなる時代なら、
なおさら。
政党が議会と政府を強く結びつける時代なら、
なおさら。
そして。
法律や行政の行為を憲法に照らして審査する司法の役割も、
なおさら重くなる。
昭和六十三年。
憲法の条文は、未来と一字一句変わりません。
変わっていくのは。
社会。
国家。
権力の使われ方。
そして。
その権力を、どう抑えるかです。
私は残った玉子サンドを一口食べました。
甘い玉子。
少し辛いからし。
駅前を行く人たちの声。
その中に。
新しい店の呼び込みが混じっています。
「先輩」
「何だ」
「今日の教訓です」
「また始まった」
「権力分立は、偉い人を三つに分ける制度じゃない」
「ほう」
「誰にも全部を決めさせないことで、一人の自由を守る仕組みです」
相馬先輩は少しだけ黙りました。
「まあ」
煙草を取り出して。
「そんなとこだ」
「褒めました?」
「気のせいだ」
またそれです。
「ところで先輩」
「何だ」
「私のサンドイッチ代」
「知らん」
「一切れ食べましたよね?」
「証拠は?」
「私が見ました」
「お前が証人で、お前が裁判官か?」
「……あ」
相馬先輩がにやりとしました。
「一人に全部やらせるな。今日習っただろ」
「そういう使い方じゃありません!」
立法。
行政。
司法。
三つに分ける理由は。
たぶん。
玉子サンド一切れより、ずっと大事です。
でも。
自分のサンドイッチについてだけは。
三権を全部握ってでも取り返したい。
そんなことを思った私は、
まだ権力分立を完全には理解していないのかもしれません。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




