[憲法・国民主権]現場編 「市長が決めたんだから、住民は従ってください」の罠。政治を最後に決めるのは誰なのか――昭和の役所に突きつける“主権者”という言葉
選挙で一票を入れたら、あとは黙っているしかない。
――そんな民主主義なら。
たぶん、憲法はもっと薄い本で済んでいます。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「住民には、決定権はありません」
その日の相談は、その一言から始まりました。
「……え?」
私は思わず聞き返しました。
相談者は、五十代くらいの男性。
名前は杉浦正吉さん。
駅西地区で小さな印刷屋を営んでいます。
杉浦さんは茶封筒から一枚の紙を取り出し、机の上へ置きました。
市役所から届いた回答書でした。
題名は、
――駅西再整備計画に関する要望書について。
内容は簡単です。
駅西地区の再整備に伴い、市は古い公民館と広場を取り壊し、観光客向けの物産施設と駐車場を整備する計画を進めている。
杉浦さんたち地元住民は、
公民館を残してほしい。
少なくとも計画内容を住民に説明してほしい。
できれば住民の意見を聞く場を設けてほしい。
そう求めて要望書を提出した。
その回答が、これでした。
「市長の政策判断として既に決定された事項であり、住民の皆様に個別の決定権を認めるものではありません」
「……なるほど」
私はもう一度読みました。
書いてあること自体は、
全部が全部、おかしいわけではありません。
市の政策を住民一人一人の多数決で決める制度になっているわけではない。
住民一人に、
「私は反対だから工事を止める」
なんて拒否権があるわけでもない。
日本は基本的に代表民主制です。
選挙で代表者を選び、
その代表者が政治を行う。
だから、
住民に個別の決定権はない。
そこだけ切り取れば分かります。
でも。
「問題は、この次なんです」
杉浦さんが言いました。
「次?」
「役所へ行ったんです」
「直接?」
「ええ。そしたら担当の人に言われました」
杉浦さんは、少し言いにくそうに口を開きました。
「『市長は市民から選ばれています。議会も選挙で選ばれています。ですから、市長と議会が決めたことは、市民が決めたことと同じです』って」
「……はい」
「『選挙が民主主義ですから、決まったあとは従ってください』って」
私は黙りました。
相馬先輩が、煙草の箱を机へ置きました。
「誰が言った」
「企画課の人です」
「名前は」
「若い人でした。名前までは……」
「沢渡じゃねえのか」
「沢渡さん?」
「いや、こっちの話だ」
相馬先輩が椅子にもたれました。
「で?」
「私が、住民は何も言えないんですかって聞いたら」
杉浦さんは苦笑しました。
「『次の選挙で意思を示してください』って」
うわあ。
私は心の中で頭を抱えました。
言いたいことは分かります。
代表民主制。
選挙。
多数決。
行政の継続性。
いちいち政策の全部を住民投票にかけていたら行政は動かない。
でも。
それを、
選挙が終わったら住民は四年間黙っていろ。
に変換するのは、かなり危ない。
「杉浦さん」
片桐所長が静かに聞きました。
「市は住民説明会を一度も開いていないんですか」
「ありません」
「議会での審議は」
「予算は通ったそうです」
「公民館の廃止については」
「条例の改正案が次の議会に出るらしいです」
「まだ議決前?」
「はい」
所長の目が少し細くなりました。
「それで『もう決定済み』か」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「気が早えな」
「でも」
私は言いました。
「市長が政策として決めること自体はできますよね」
「ああ」
「議会が必要な部分は議会で決める」
「ああ」
「住民が全部直接決めるわけじゃない」
「そうだ」
じゃあ。
何がおかしい?
私は回答書を見ました。
――市長の政策判断。
――住民に個別の決定権はない。
――選挙が民主主義。
――決まったあとは従う。
頭の中に、行政書士試験のテキストが浮かびます。
国民主権。
日本国憲法の基本原理。
主権は国民に存する。
はい。
知っています。
暗記しました。
前文。
第一条。
国民主権。
基本中の基本。
だからこそ。
受験生だった頃の私は、どこかで思っていました。
こんなの実務で使う?
役所の窓口で、
「国民主権です!」
なんて言う行政書士がいたら、ちょっと面倒な人じゃない?
でも。
目の前には、
「選挙が終わったら、あとは従ってください」
と言われた人が座っています。
「……所長」
「何だ」
「憲法、使います?」
片桐所長は、すぐには答えませんでした。
相馬先輩がこちらを見ます。
「お前」
「はい」
「何でも憲法持ち出す奴は嫌われるぞ」
「分かってます」
「行政書士が窓口で『憲法違反だ!』って叫び始めたら、だいたい話がややこしくなる」
「分かってますって」
「三流だ」
「所長と同じこと言うようになりましたね」
その所長が、回答書を指で軽く叩きました。
「ただし」
低い声でした。
「相手が憲法の線を越えたなら、話は別だ」
来た。
伝家の宝刀。
「行くぞ」
相馬先輩が立ち上がりました。
「どこへです?」
「市役所」
「まだ何も整理してませんけど」
「だから聞きに行くんだ」
「相変わらず現場主義!」
市役所二階。
企画調整課。
そして。
「また皆さんですか」
いました。
沢渡課長。
灰色の背広。
細い眼鏡。
役所という建物が人間の形を取ったら、たぶんこんな感じです。
「今日は杉浦正吉さんの件です」
片桐所長が言いました。
「ああ」
沢渡課長はすぐ分かったようでした。
「駅西再整備ですね」
「この回答書」
所長が机に置きます。
「課長も確認したか」
「決裁には回っています」
「『住民に個別の決定権はない』」
「事実でしょう」
沢渡課長は平然としていました。
「市政について、住民一人一人に拒否権があるわけではありません」
「それはそうです」
私は言いました。
「では問題ないでしょう」
「その次です」
「何でしょう」
「窓口で、『選挙が民主主義だから、決まったあとは従ってください』と説明したそうですね」
沢渡課長の眉がわずかに動きました。
「誰がそのように?」
「担当職員です」
「確認します」
即答で庇わない。
さすがです。
「ただ」
沢渡課長は続けました。
「趣旨としては理解できます」
「趣旨?」
「行政運営には安定性が必要です」
出ました。
役所の正論。
「選挙で市長を選ぶ。議員を選ぶ。その代表者が政策を決定する。個々の政策について、反対者がいるたびに決定を白紙にしていては行政は成り立ちません」
「はい」
「市長も議会も、市民から民主的な正当性を与えられています」
「はい」
「それが代表民主制でしょう」
正しい。
かなり正しい。
だから厄介です。
間違った相手なら簡単です。
違います。
条文はこうです。
で終わる。
でも沢渡課長は、間違っていることを言っているわけではありません。
代表民主制。
まさにその通り。
「だから」
沢渡課長が言いました。
「住民の一部が反対しているというだけで、市の政策を変更する理由にはなりません」
私は口を閉じました。
昭和六十三年。
この時代の空気は、重い。
町内会。
自治会。
地元有力者。
商工会。
昔からの付き合い。
若い人が反対すると、
生意気だ。
新しく来た人が反対すると、
地元を知らない。
少数の人が反対すると、
わがままだ。
みんなが決めた。
もう決まった。
波風を立てるな。
和を乱すな。
そして最後に、
民主主義だから。
便利です。
多数派が使う「民主主義」という言葉は、ときどき巨大な蓋になります。
私は一瞬、
これ、勝てるのかな。
と思いました。
市長は選挙で選ばれている。
議会も選挙で選ばれている。
住民全員で政策を決める制度ではない。
市の説明は、完全な嘘ではない。
むしろ制度論としてはかなり正しい。
だったら。
住民は結局、次の選挙まで待つしかない?
そのとき。
頭の中で。
一文が浮かびました。
――そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって。
「……信託」
思わず口に出しました。
「何です?」
沢渡課長が聞きます。
私は顔を上げました。
そうだ。
条文は変わっていない。
昭和六十三年でも。
令和でも。
日本国憲法は同じです。
社会の空気は違う。
役所の感覚も違う。
でも。
憲法前文は、昭和六十三年にもそこにある。
第一条もある。
国民主権もある。
「課長」
「はい」
「代表者が選挙で選ばれた、というところまでは同意します」
「では――」
「でも、それで主権が代表者に移るわけじゃないですよね」
沢渡課長が止まりました。
相馬先輩の目が、少しだけ鋭くなりました。
「……どういう意味です?」
「市長が選ばれたから、市長が主権者になるわけじゃない」
「当然でしょう」
「議員が選ばれたから、議会が主権者になるわけでもない」
「それも当然です」
「じゃあ」
私は回答書を指しました。
「『選挙で代表者を選んだ。だから決定後は住民は黙って従う。それが民主主義だ』という説明は、おかしくありませんか」
沢渡課長は答えません。
「代表民主制って」
私は続けました。
「主権者が権力を捨てる制度じゃないですよね」
選挙。
代表者。
議会。
市長。
それらは、
国民や住民を政治から追い出すための仕組みではない。
主権者の意思を政治へ反映するための仕組みです。
「国民主権には」
私は言いました。
「政治のあり方を最終的に決める力が国民にある、という意味があります」
「国民主権の一般論ですね」
「一般論だから大事なんです」
沢渡課長の目が細くなりました。
「朝比奈さん。地方自治体の個別政策について、住民に最終決定権があると?」
「そんなこと言ってません」
ここです。
ここで飛び越えたら負けます。
「住民が全部直接決めるべきだとも言ってません」
「では?」
「代表民主制だからこそ、市長や議会の権限には正当性がある。でも、その正当性の源は住民です」
相馬先輩が腕を組みました。
「借り物の権力ってことだ」
「言い方は乱暴ですけど」
「分かりやすいだろ」
沢渡課長が相馬先輩を見る。
「市長の権限を『借り物』と表現するのは適切ではありません」
「じゃあ何だ」
「法令に基づく権限です」
「その制度の根っこを言ってんだよ」
相馬先輩が机に指を置きました。
「誰のために使う権力だ?」
部屋が静かになりました。
「市長様の私物じゃねえだろ」
「当然です」
「議員様の私物でもねえ」
「当然です」
「じゃあ、『俺たちは選挙で選ばれた。次の選挙まで黙ってろ』は違うだろ」
沢渡課長は眼鏡を押し上げました。
「その表現を職員が実際にしたのなら、不適切でしょう」
一歩。
動きました。
でも。
まだ足りません。
「課長」
片桐所長が口を開きました。
「住民投票を要求しているわけではない」
「承知しています」
「計画を全部白紙にしろとも言っていない」
「ええ」
「求めているのは、説明と意見聴取だ」
「法的義務があるかどうかは別問題です」
「それも分かっている」
所長は静かでした。
「だからこそ、憲法論を雑に使うなと言っている」
私は所長を見ました。
え。
こっち?
「朝比奈」
「はい」
「国民主権だから説明会を開け、とはならん」
「……はい」
「国民主権だから住民投票をしろ、ともならん」
「はい」
「国民主権は万能の請求権じゃない」
「はい」
危なかった。
伝家の宝刀、振り回すところでした。
所長は沢渡課長を見る。
「だが」
声が少し低くなりました。
「行政側も、代表民主制を『住民を黙らせる理屈』として使うな」
沢渡課長は黙っています。
「選挙で選ばれた者が権限を持つのは、国民や住民から政治的正当性を受けているからだ」
「ええ」
「その正当性を理由に、正当性の源である住民の意見を無意味だと言うのは、理屈が逆だ」
あ。
そういうことか。
国民主権。
主権者だから、
全部直接決められる。
ではない。
主権者だから、
代表者の権力の根拠になる。
つまり。
代表民主制と国民主権は対立しない。
代表民主制は、
国民主権を実現する方法の一つなんです。
「それに」
私は言いました。
「直接民主制の仕組みだってありますよね」
「地方自治法上の制度の話ですか」
「はい」
条例制定改廃の直接請求。
議会の解散請求。
議員や長の解職請求。
住民が直接、政治へ関与する仕組み。
全部を代表者任せにするわけではない。
代表民主制を原則にしつつ、
直接民主制的な制度が補完する。
「だから」
私は言いました。
「『選挙だけが民主主義です』は、やっぱり違います」
沢渡課長が、しばらく私を見ました。
「朝比奈さん」
「はい」
「私は『選挙だけが民主主義だ』とは言っていません」
「課長は言ってません」
「では?」
「市の窓口で、そう受け取れる説明がされた」
私は回答書を指します。
「しかも、この文章だけ読むと、その説明を補強してしまっています」
――住民に個別の決定権を認めるものではありません。
法的には間違いとは言い切れない。
でも。
住民の要望に対する回答として、
それだけを書く。
すると、
お前たちには決める権利がない。
選挙は終わった。
黙って従え。
そう読めてしまう。
「杉浦さんたちは」
私は言いました。
「市長の椅子を奪いたいわけじゃないんです」
「……」
「議員になりたいわけでもない」
「……」
「公民館を壊す前に、なぜ壊すのか説明してほしい。自分たちの意見も聞いてほしい。それだけです」
沢渡課長は回答書を手に取りました。
「意見を聞いた結果、計画を変更しないこともあります」
「当然です」
「反対者が納得しないこともある」
「それも当然です」
「それでも説明会を開け、と?」
「少なくとも」
私は答えました。
「『あなたたちには決定権がないから終わり』よりは、民主主義らしいと思います」
沈黙。
沢渡課長が窓の外を見ました。
駅西地区。
古い公民館。
広場。
これから変わっていく町。
「……分かりました」
沢渡課長が言いました。
「え?」
「担当課に確認します」
「何をです?」
「計画決定の段階、議会提出予定、住民への説明状況」
「それから?」
「住民説明会の開催を検討します」
私は一瞬、言葉を失いました。
「本当に?」
「検討です」
「役所の『検討』!」
「朝比奈」
所長に止められました。
沢渡課長が眼鏡を押し上げます。
「ただし」
「はい」
「国民主権を理由に開催するわけではありません」
「……はい?」
「国民主権から直ちに個別政策について説明会開催義務が導かれる、という整理はしません」
「はい」
「市政運営上、住民への説明と意見把握が必要だと判断した場合に開催します」
私は少し考えて。
笑いました。
「それでいいです」
「朝比奈さん」
「はい」
「憲法は便利な道具ではありませんよ」
「分かってます」
「本当に?」
「……今日、分かりました」
たぶん。
憲法は、
何でも願いを叶える魔法ではない。
でも。
行政が、
自分たちは選ばれた側。
住民は従う側。
そんなふうに上下を取り違えたとき。
誰が誰から権力を預かっているのか。
それを思い出させる力がある。
「課長」
相馬先輩が言いました。
「担当の若い奴には言っとけ」
「何をです」
「世間の常識とか、市の決定とか言う前に」
煙草の箱をポケットへ入れる。
「誰が主権者か忘れんなって」
沢渡課長はため息をつきました。
「相馬さんが言うと、革命家みたいですね」
「行政書士だ」
「余計に困ります」
一週間後。
片桐行政書士事務所へ、杉浦さんが駆け込んできました。
「決まりました!」
「何がです?」
「説明会です!」
紙を一枚。
机に置く。
――駅西再整備計画住民説明会開催のお知らせ。
「市役所から全戸に?」
「町内会を通して配るそうです」
「意見も言えるんですか」
「質疑の時間を設けるって」
杉浦さんの顔は明るかった。
「計画が止まったわけじゃないんですよね」
私が聞くと、杉浦さんは頷きました。
「ええ」
「公民館も残るとは限らない」
「分かってます」
「それでも?」
「いいんです」
杉浦さんは言いました。
「やっと、こっちを向いて話してくれるから」
その一言が。
妙に残りました。
政治に参加する。
そんな言葉を聞くと、
選挙。
国会。
議員。
演説。
大きなものばかり思い浮かべます。
でも。
町の公民館がなくなる。
その理由を聞く。
意見を言う。
行政が答える。
それだって、
政治と人がつながる場所なんだと思います。
「でも私」
杉浦さんが笑いました。
「勘違いしてました」
「何をです?」
「先生たちに頼めば、住民投票でもやってくれるのかと」
「無理です」
「即答ですね」
「私たち行政書士ですから」
「裁判も?」
「できません」
「市長を辞めさせたりは?」
「もっとできません」
相馬先輩が横から言います。
「必要なら法律上の手続を調べることはできる」
「リコールとか?」
「そういう制度もある。だが簡単に口にするもんじゃねえ」
「はい」
「まず話せ」
相馬先輩はぶっきらぼうに言いました。
「話して、それでも駄目なら次の制度を使え」
杉浦さんは頷きました。
「分かりました」
帰り際。
杉浦さんが振り返りました。
「朝比奈さん」
「はい」
「国民主権って、国民が何でも決められるって意味じゃないんですね」
「……はい」
私も今日覚えたばかりです。
「じゃあ、何なんでしょうね」
私は少し考えました。
「たぶん」
窓の外を見ます。
市役所。
議会。
駅。
商店街。
その間を、人が歩いています。
「政治をする人より、その権力の根っこにいる人のほうが偉い、ってことじゃないですか」
相馬先輩が吹き出しました。
「雑だな」
「じゃあ先輩、言ってくださいよ」
「国の政治のあり方を最終的に決める力は、国民にある」
「教科書!」
「正確だろ」
「正確ですけど!」
杉浦さんが笑いました。
「でも、分かりました」
扉が閉じます。
私は席へ戻りました。
机の上には憲法の本。
開く。
前文。
そして第一条。
条文は。
現代と同じです。
一字一句、変わっていない。
なのに。
その言葉が置かれている社会の空気は、ずいぶん違う。
昭和六十三年。
まだまだ、
お上。
役所。
先生。
偉い人。
決まったこと。
世間の常識。
そんな言葉の重さが残っています。
でも。
憲法だけは、
その空気に合わせて古くなったりしない。
「所長」
「何だ」
「憲法って、変な法律ですね」
「どういう意味だ」
「昭和でも令和でも、同じことが書いてある」
「ああ」
「なのに、読む側の社会が変わると、見え方が変わる」
片桐所長は帳簿から目を上げました。
「法律が変わらなくても、人間は変わる」
「はい」
「だが」
所長は憲法の本を指しました。
「変わらないものがあるから、人間のほうが間違ったときに戻れる」
私は黙りました。
なるほど。
憲法が時代に合わせて毎回ふらふらしていたら、
時代の空気を裁けない。
世間がそうだから。
昔からそうだから。
みんなそう思っているから。
それだけで政治が正当化されるなら、
国民主権なんて必要ありません。
その日の夕方。
市役所から電話がありました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『沢渡です』
「課長」
『一つ訂正があります』
「何でしょう」
『例の回答書ですが』
「はい」
『表現を改めます』
「え?」
『今後、同様の要望に対して「住民に決定権がない」という表現だけで回答することは避けます』
「……どうしてです?」
『誤解を招くからです』
「どんな?」
少し間。
『行政が住民より上にあるかのような誤解です』
私は思わず笑いました。
「課長がそれ言います?」
『何か問題でも?』
「いえ」
『行政は法令に基づいて権限を行使します』
「はい」
『そして、その制度の正当性がどこから来るのかは、別の話です』
「はい」
『混同すべきではありません』
相変わらず。
沢渡課長は、負けたとは絶対に言いません。
でも。
間違っていると判断したところは直す。
だから厄介で。
だから信用できる部分もある。
「朝比奈さん」
「はい」
『あなたも気をつけてください』
「何をです?」
『国民主権を、何でも住民が直接決められる原理だと思わないことです』
「……はい」
『では』
切れました。
「最後に授業していった……」
「何だって?」
相馬先輩が聞きます。
「国民主権を勘違いするなって」
「正しいじゃねえか」
「敵から試験対策される主人公ってどうなんですか」
「敵じゃねえだろ」
「じゃあ何なんです?」
相馬先輩は少し考えました。
「役所だ」
「分類が雑!」
片桐所長が小さく笑いました。
私は憲法の本を閉じます。
今日の教訓。
国民主権とは、
国民が毎日すべてを直接決めることではない。
代表者を選んだ瞬間に、
主権を手放すことでもない。
政治を行う者が誰であっても。
市長でも。
議員でも。
役所でも。
その権力が、
どこから正当性をもらっているのか。
最後までたどれば。
そこにいるのは、
国民です。
私はノートの端に、一行だけ書きました。
――選挙で選ぶのは「支配者」じゃない。私たちから政治を託される「代表者」だ。
「こはる」
「はい」
「それ、明日の勉強用か」
「そうです」
「ならもう一個書いとけ」
「何をです?」
相馬先輩が言いました。
「主権者だからって、何でも直接決められるわけじゃねえ」
「分かってますよ」
「今日途中まで怪しかっただろ」
「……否定はしません」
「代表民主制が原則」
「はい」
「直接民主制が補完」
「はい」
「住民投票とか、解職請求とか」
「はいはい」
「試験に出るぞ」
「急に予備校講師みたいになるのやめてください!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
どうやらここでは。
国民主権の最高決定権より、
私の勉強時間を最終的に決定する権力のほうが、
少しだけ強いようでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




