[憲法28条・労働基本権]現場編 「組合を作るなら、辞めてもらう」の罠。社長の一言を止めた、働く者の三つの武器
一本の鉛筆なら、簡単に折れます。
十本束ねると、なかなか折れません。
たぶん。
労働組合というものは、そのためにあります。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「組合なんか作ったら、工場を潰すそうです」
その日の相談者は、椅子に座るなりそう言いました。
「……物騒ですね」
私は思わず答えました。
向かいに座っているのは、三十代半ばくらいの男性。
名前は、
野口正志さん。
市内にある小さな食品加工会社――浜名食品工業の従業員でした。
従業員は四十人ほど。
冷凍食品や総菜を作って、スーパーや旅館へ卸している会社だそうです。
「潰すっていうのは」
私は確認しました。
「会社を?」
「社長が朝礼で言ったんです」
「そのまま?」
「はい」
野口さんは膝の上で拳を握りました。
「『組合なんか作って会社を混乱させるなら、いっそ工場を閉める』って」
相馬先輩が煙草をくわえたまま、ちらりとこちらを見ます。
「で?」
「……で?」
「なんで組合作ろうとした」
「ああ」
野口さんは少し迷ってから答えました。
「残業です」
「残業?」
「この半年、増えてまして」
注文が増えた。
人は増えない。
機械は古い。
納期は短い。
結果。
現場の人間が残業で穴を埋めていた。
「それで、みんなで社長に話をしたいって」
「個人じゃなく?」
「はい」
「組合を作って?」
「はい」
そこまで聞いて。
私は、少し安心しました。
ああ。
分かる。
これは分かる。
憲法二十八条。
勤労者の団結する権利。
団体交渉その他の団体行動をする権利。
いわゆる労働基本権。
団結権。
団体交渉権。
団体行動権。
行政書士試験でも出てくる。
私はノートの隅に、
三つ。
と書こうとして。
「朝比奈」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「勉強始めるな」
「まだ何もしてません」
「顔が完全に試験問題だった」
「失礼な」
でも。
事件は、そこからでした。
「それで」
野口さんが言いました。
「昨日、会社から紙が配られました」
「紙?」
「これです」
鞄から一枚のコピーを取り出します。
私は受け取りました。
社内通知。
――従業員各位。
――当社は従来より家族的な経営を旨とし、労使の相互信頼によって事業を運営してきた。
――外部団体等の介入は、職場の秩序及び従業員間の融和を害するおそれがある。
――従業員は会社との直接対話を重視し、職場の和を乱す行為を慎むこと。
「……うわあ」
声が出ました。
相馬先輩が紙を奪います。
「何が『家族的』だ」
「先輩」
「家族なら残業代ちゃんと払え」
「そこはまだ確認してません」
「じゃあ後で確認しろ」
「はい」
片桐所長は黙って通知を読みました。
「野口さん」
「はい」
「この紙だけなら、組合結成を明示的に禁止してはいません」
「……そうなんです」
「だが朝礼では?」
「社長が言いました」
「誰が聞いた」
「ほぼ全員です」
「記録は」
「ありません」
昭和。
こういうところで、昭和です。
スマートフォン。
ありません。
ボイスレコーダーを全員が持ち歩く時代でもない。
朝礼の録音なんて、普通はしていません。
「同じ発言を聞いた人から、話を聞けますか」
「できます」
「名前と、聞いた内容を整理してください」
「はい」
片桐所長が通知を机へ置きました。
「それで、会社は何を求めている」
「組合作りをやめろ、と」
「正式に?」
「班長から言われました」
「誰に」
「組合を作ろうとしている六人に」
私は眉をひそめました。
「六人だけ呼ばれたんですか」
「はい」
「何て?」
「『会社と喧嘩する気なら、ここでは働けないぞ』って」
空気が変わりました。
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけます。
「なるほどな」
私はもう一度、社内通知を見ました。
職場の和。
相互信頼。
家族的経営。
秩序。
融和。
どれも。
単体なら悪い言葉ではありません。
むしろ、きれいです。
だから厄介でした。
「所長」
「何だ」
「これ……」
私は言いかけて止まりました。
憲法。
でも。
相手は民間会社です。
役所じゃない。
憲法は国家権力を縛るもの。
私人間の争いなら、民法などの私法を通じて人権価値を反映させる。
受験生だった私は、そう整理していました。
いわゆる私人間効力。
直接適用。
間接適用。
三菱樹脂事件。
頭の中に、答案用紙みたいな単語が並びます。
だから私は。
一瞬、迷いました。
「……会社相手に、憲法そのものを持っていくのは――」
「普通ならな」
片桐所長が言いました。
「え?」
「普通の人権規定なら、その疑問は持て」
私は所長を見ました。
「でも今回は」
「二十八条だ」
その瞬間。
頭の中で、
カチッ。
何かがはまりました。
「あ」
そうだ。
労働基本権。
憲法二十八条。
これは。
私人間にも直接適用される。
「……直接」
私が呟くと、相馬先輩がこちらを見ます。
「何だ」
「直接なんです」
「何が」
「憲法二十八条」
私は通知を見ました。
会社。
労働者。
私人対私人。
それでも。
勤労者の団結する権利。
団体交渉その他の団体行動をする権利。
憲法そのものが、
ここに入ってくる。
「すごい」
「何がだ」
「憲法って」
私は思わず言いました。
「こんなところまで来るんですね」
「お前、憲法を何だと思ってた」
「国会とか内閣とか裁判所とか、そういう大きい話をする法律だと」
「受験生の悪い癖だな」
「自覚してます」
憲法二十八条。
働く人が、
一人では使用者と対等になれない。
だから集まる。
集まった上で交渉する。
必要なら、集団で行動する。
その三つを、
憲法が保障する。
団結権。
団体交渉権。
団体行動権。
私は野口さんを見ました。
「野口さん」
「はい」
「会社が『家族なんだから組合はいらない』と言っても」
「はい」
「家族かどうかを決めるのは、社長じゃありません」
「……え?」
「というより」
私は少し言葉を選びました。
「家族的な会社だから労働組合を作ってはいけない、という法律はありません」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「当たり前だ」
「でも」
野口さんが言いました。
「会社には会社の方針があるって」
「あります」
「じゃあ」
「会社の方針より上にあるものがあります」
私は通知の余白に数字を書きました。
28。
「憲法です」
その日の午後。
私たちは浜名食品工業へ向かいました。
もちろん。
行政書士が労働者の代理人として法廷で会社と争うわけではありません。
労働組合の代理人になって、法律紛争の交渉を請け負うわけでもありません。
できることには線があります。
だから今回も。
野口さんたちから事情を整理し、
事実関係を文書化し、
会社側へ提出する書面を整える。
必要なら弁護士や労働関係の専門機関へつなぐ。
そこまで。
でも。
そこまででも、
やれることはあります。
工場の事務棟。
応接室。
社長本人は不在でした。
代わりに出てきたのは総務部長。
そして。
「……なぜあなたがいるんですか」
「こちらの台詞です」
沢渡課長がいました。
市役所総務課。
灰色の背広。
細い眼鏡。
いつもの無表情。
「市役所の人ですよね」
「浜名食品工業は、市の学校給食関係の納入業者でもあります」
「それで?」
「今朝、会社側から相談がありました」
なるほど。
組合問題で職場が混乱すれば、
納入への影響もあり得る。
市として状況を確認しに来たらしい。
嫌な予感がします。
こういうときの役所は、
法的に正しいことより、
揉めないことを優先しがちです。
総務部長が言いました。
「こちらとしては、組合を作るなと言っているわけではありません」
「朝礼で社長が言ったそうですが」
相馬先輩が返します。
「工場を閉める、と」
「あれは言葉の綾です」
「便利だな、言葉の綾」
「会社が分裂するようなことになれば経営にも影響する、という趣旨です」
「六人だけ呼んだのは?」
「話を聞いただけです」
「『ここでは働けない』は?」
「誤解です」
全部、
誤解。
全部、
言葉の綾。
相馬先輩の眉間の皺が増えていきます。
その横で沢渡課長が静かに言いました。
「片桐先生」
「何です」
「市としては、給食納入業務への影響を懸念しています」
「それは分かります」
「できれば労使双方に、穏便に解決していただきたい」
来ました。
穏便。
昭和の役所が大好きな言葉です。
「会社には長年の労使慣行もあります」
「慣行?」
「これまで労働組合を設けず、直接対話で問題を解決してきたそうです」
「それで?」
「地域の雇用を支える企業でもあります。過度な対立は、地域経済にも――」
「課長」
相馬先輩が遮りました。
「何でしょう」
「世間の常識?」
沢渡課長の目が細くなります。
「そういう言い方はしていません」
「地元の和?」
「それも言っていません」
「じゃあ何だ」
「現実的な影響を申し上げています」
さすが沢渡課長。
馬鹿なことは言いません。
労働組合は禁止だ。
そんな雑な発言はしない。
でも。
その奥にあるものは同じでした。
揉めるな。
波風を立てるな。
今まで問題なくやってきた。
だから今まで通りにしろ。
昭和六十三年。
この時代の空気が、
部屋いっぱいに詰まっていました。
重い。
私は少し息苦しくなりました。
四十人の会社。
地方都市。
取引先も近い。
社長も顔見知り。
市役所とも付き合いがある。
組合を作れば、
あいつは会社に逆らった。
あいつは和を乱した。
そんな目で見られる。
法律以前に、
空気で潰される。
現代なら、
そんなもの関係ない。
権利は権利。
そう言いたくなる。
でも。
ここに座っていると分かります。
空気は、
条文よりずっと近くにある。
人は法律を毎日読むわけじゃない。
でも、
隣の席の人の目は毎日見る。
「……重い」
私は小さく呟きました。
「何がだ」
相馬先輩が聞きます。
「昭和の空気です」
「意味分からん」
「こっちの話です」
私は鞄の中の六法を見ました。
そのとき。
ふと思いました。
昭和六十三年。
憲法二十八条。
令和。
憲法二十八条。
同じです。
一字一句。
変わっていない。
だったら。
空気が違うから何だ。
世間の常識が違うから何だ。
条文は、
逃げていない。
私は六法を開きました。
「課長」
「何でしょう」
「確認していいですか」
「どうぞ」
「市として、浜名食品工業の従業員が労働組合を作ること自体に反対するんですか」
「そこまでは申し上げていません」
即答。
やはり分かっている。
「では」
私は総務部長を見ました。
「会社としては?」
「ですから、禁止しているわけでは――」
「組合を作ったことを理由に、不利益な扱いをしますか」
「そんな話ではありません」
「組合を作ろうとした六人に、『ここでは働けない』と伝えた」
「それは――」
「社長は、組合を作るなら工場を閉めると朝礼で言った」
「だから言葉の綾で」
「その言葉を」
私は言いました。
「労働者側はどう受け取ると思います?」
総務部長が黙りました。
「組合を作れば会社が潰れる」
「……」
「仕事を失う」
「……」
「家族を養えなくなる」
「……」
「それでも組合を作るのか」
私は通知を机へ置きました。
「そう聞こえます」
「会社にも経営の自由があります」
「あります」
「従業員に勝手なことをされれば、経営秩序が――」
「勝手なこと?」
相馬先輩が低い声で言いました。
「組合作るのが?」
「そういう意味では」
「じゃあどういう意味だ」
「相馬」
片桐所長が止めます。
相馬先輩は舌打ちして椅子へ戻りました。
所長が私を見ます。
「こはる」
「はい」
「続けろ」
私は頷きました。
「会社に経営の自由があることは否定しません」
そして。
六法の一か所を指しました。
「でも、勤労者には憲法二十八条があります」
総務部長の顔が少し硬くなりました。
「憲法?」
「はい」
「会社と従業員の話でしょう」
「だからです」
「……?」
「二十八条の労働基本権は、私人間にも直接働きます」
部屋が静かになりました。
私は続けます。
「労働者が一人で会社と交渉すれば、力の差があります」
雇う側。
雇われる側。
給料を払う側。
給料を受け取る側。
契約上は対等でも、
現実の力が同じとは限らない。
「だから憲法は」
私は指を一本立てました。
「団結する権利」
二本目。
「団体で交渉する権利」
三本目。
「そして団体で行動する権利を保障しています」
団結権。
団体交渉権。
団体行動権。
「組合を作らせない」
「……」
「組合を作ったら不利益を与えると受け取られる圧力をかける」
「……」
「そういう運用は、単なる『社内方針』では済みません」
私は言いました。
「憲法上保障された権利に触れる問題です」
総務部長が沢渡課長を見ました。
助けを求めるような視線。
沢渡課長は助けませんでした。
むしろ。
「その点は」
眼鏡を押し上げます。
「会社側も慎重に整理されたほうがよろしいでしょう」
「課長?」
「市が労働組合の結成を妨げることはできません」
「しかし給食業務への影響が」
「それとこれは別です」
沢渡課長。
切り替えが早い。
「業務への具体的な支障が生じれば、その時点で契約上必要な対応を検討します。しかし」
一拍。
「労働者が団結しようとしている段階で、市が『地域の和』を理由にその権利行使を抑制したと受け取られることは避けるべきです」
相馬先輩が私の横で小さく笑いました。
「合理的だな」
「何か?」
沢渡課長が睨みます。
「いや」
この人は、
憲法に感動して寝返る人ではありません。
違憲な行政運営をするリスクと、
合法的に距離を取る利益。
その計算ができる。
だから厄介で。
だから話が早い。
片桐所長が鞄から数枚の紙を出しました。
「こちらで事実関係を整理しました」
総務部長が受け取ります。
朝礼での発言。
六人への個別の呼び出し。
社内通知。
組合結成の動き。
そして。
憲法二十八条。
労働組合法上の問題。
会社側が組合結成を妨害するような行為を続けた場合に生じる法的リスク。
事実と法的論点を整理した書面。
「これは」
「意見書です」
「脅しですか」
「逆です」
片桐所長が言いました。
「脅しにならないよう、法律を書いてあります」
うわ。
所長。
たまに怖い。
「会社を敵にしたいわけではありません」
所長は続けました。
「労働者にも会社にも、それぞれ守られるべきものがある」
「……」
「だから一線を確認しているだけです」
「一線?」
「組合を作るな、と会社が力で押さえ込むな」
総務部長は黙りました。
片桐所長が淡々と言います。
「それを越えれば、こちらの仕事ではなくなる」
「どういう意味です」
「弁護士へ渡します」
短い。
それだけでした。
でも。
意味は十分でした。
行政書士事務所で書類を整え、
事実を固め、
法的問題を指摘する。
そこで是正されるなら、それでいい。
されないなら。
次は、
法廷へ行ける人間の仕事です。
総務部長は意見書を読みました。
一枚。
二枚。
三枚。
顔がだんだん険しくなる。
やがて。
「……持ち帰ります」
「どうぞ」
「社長とも話します」
「お願いします」
立ち上がろうとしたとき。
私は一つだけ気になって聞きました。
「部長」
「何です」
「社長は、どうしてそこまで組合を嫌がってるんですか」
総務部長は少し迷いました。
「昔からです」
「昔?」
「先代社長のころから、うちは家族経営でした」
「……」
「困ったことがあれば社長に直接言え。それでやってきた」
「はい」
「だから今の社長も」
総務部長は通知を見ました。
「組合を作るということ自体が、自分を信用していないという意味に感じるんでしょう」
その言葉で。
少しだけ見えました。
悪人だからではない。
たぶん。
社長には社長なりの歴史がある。
昔からこうだった。
うちは家族だ。
みんな一緒にやってきた。
だから、
組合なんて必要ない。
でも。
善意で始まった慣習でも。
誰かの権利を押し潰し始めれば、
そこで止めなければならない。
「信用と権利は」
私は言いました。
「別だと思います」
総務部長が私を見る。
「信用してるから、権利はいらない」
「……」
「それは、たぶん違います」
片桐所長が立ち上がりました。
「行くぞ」
「はい」
三日後。
浜名食品工業から連絡がありました。
社内通知を撤回する。
組合結成の動きについて、
会社として妨害しない。
組合が正式に結成され、
団体交渉の申入れがあれば、
適切に対応する。
そして。
例の六人に対する、
「ここでは働けない」
という発言については。
班長から謝罪があったそうです。
「……勝った?」
私は電話を置いて言いました。
「勝ち負けにすんな」
相馬先輩が答えます。
「でも」
「まだ組合作っただけだ」
「そうですね」
「残業の問題はこれからだ」
「はい」
「給料も勤務時間も、何一つ決まってねえ」
「はい」
その通りです。
憲法二十八条は、
労働者の要求を全部通してくれる条文ではありません。
組合を作れば、
給料が上がる。
残業がなくなる。
社長が何でも言うことを聞く。
そんな魔法じゃない。
ただ。
話し合うために集まる。
集まった人間が、
使用者と交渉する。
必要なら、
団体として行動する。
その入口を、
力で塞がせない。
それだけ。
でも。
一人では言えなかったことを、
十人なら言える。
二十人なら交渉できる。
そのための権利です。
夕方。
野口さんが事務所へ来ました。
「組合、作ることになりました」
「正式に?」
「はい」
「何人です?」
「最初は六人だったんですけど」
「はい」
「二十三人」
「増えた!」
思わず大きな声が出ました。
野口さんが笑います。
「みんな、様子見してたんです」
「様子見?」
「会社に睨まれるのが怖くて」
なるほど。
「でも、会社が妨害しないって分かったら」
「入る人が増えた」
「はい」
野口さんは鞄から一枚の紙を出しました。
「これ、要求書です」
「見てもいいですか」
「お願いします」
残業時間。
休憩時間。
人員配置。
休日。
いくつかの項目が並んでいました。
無茶な要求ではありません。
少なくとも、
社長を追い出せ。
会社を寄越せ。
なんて話ではない。
働く条件について、
話をしたい。
それだけです。
「団体交渉ですね」
「はい」
「会社は?」
「来週、話し合うって」
私は少し笑いました。
「よかったですね」
「まだですよ」
野口さんが言いました。
「え?」
「まだ何も決まってませんから」
あ。
この人。
ちゃんと分かってる。
「でも」
野口さんは続けました。
「前は、社長に一人で言うしかなかったんです」
「はい」
「言ったら、『嫌なら辞めろ』で終わる」
「……」
「今度は、二十三人で座れます」
その言葉が。
妙に残りました。
一人から、
二十三人。
ただ人数が増えただけ。
でも。
それで、
話し合いの形が変わる。
「憲法って」
私は呟きました。
「何です?」
「いえ」
憲法なんて実務で使わない。
昔の私は、そう思っていました。
国会。
内閣。
裁判所。
基本的人権。
統治機構。
試験問題。
判例。
そんなものだと思っていた。
でも。
違いました。
今日、
憲法は工場の休憩室にいました。
油の染みた作業服の隣にいた。
残業表の横にいた。
社長室の扉の前にいた。
一人では言えない人の後ろに、
ちゃんと立っていた。
「朝比奈さん」
野口さんが言いました。
「はい」
「ありがとうございました」
「いえ。まだ交渉はこれからです」
「でも」
野口さんは少し照れたように笑いました。
「組合作っていいんだって分かっただけで、ずいぶん違います」
「……はい」
「会社に許してもらうものだと思ってました」
私は一瞬、答えられませんでした。
許してもらう。
違う。
そこです。
私は六法を開きました。
「野口さん」
「はい」
「これ」
憲法二十八条。
短い条文。
勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。
「『会社が許可する』って書いてないでしょう」
野口さんが条文を読みます。
「……本当だ」
「保障する、です」
「誰が?」
「憲法が」
少し大げさな言い方かもしれません。
でも。
そのくらいでいい気がしました。
会社がくれる権利ではない。
社長が認めてくれる権利でもない。
昔からの慣習が許してくれる権利でもない。
最初から。
そこにある。
野口さんが帰ったあと。
相馬先輩が新聞を畳みました。
「こはる」
「はい」
「今日の教訓は」
「急ですね」
「最近お前、最後に何か言うだろ」
「私、そんな癖あります?」
「ある」
私は少し考えました。
団結権。
団体交渉権。
団体行動権。
三つの権利。
でも。
今日いちばん心に残ったのは、
そこじゃありません。
「一人じゃ弱いから」
「うん」
「集まる権利を、憲法が守った」
「まあ、そうだな」
「これです」
私はノートに書きました。
――一人では届かない声を、束ねるための権利。
相馬先輩が覗き込みます。
「綺麗にまとめたな」
「いいでしょう」
「でも一個忘れてるぞ」
「何を?」
「公務員」
「あ」
嫌な予感。
「公務員にも二十八条の保障は及ぶ」
「はい」
「でも民間とまったく同じじゃねえ」
「はい」
「職務の公共性がある。争議行為には制約がある」
「はい」
「そこまで覚えろ」
「今日の余韻を壊さないでください!」
「試験は余韻で点くれねえぞ」
「知ってます!」
そうでした。
労働基本権。
民間労働者だけ覚えて終わりではありません。
公務員にも保障は及ぶ。
ただし、
その地位の特殊性と、
職務の公共性。
国民生活への影響。
そこから一般企業とは異なる制約を受ける。
全農林警職法事件。
昭和四十八年四月二十五日。
最高裁大法廷。
国家公務員の争議行為等に対する規制について、
憲法二十八条に反しないとした重要判例。
「……先輩」
「何だ」
「今日くらい気持ちよく終わらせてくれてもよくないですか」
「駄目だ」
「なぜ」
「お前は受験生だからだ」
「昭和に転生してまで?」
「何言ってんだ」
ひどい。
憲法は時代を越えて変わらないのに、
受験勉強からも逃げられないらしい。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『沢渡です』
また来た。
「今日は何です?」
『その言い方は失礼ではありませんか』
「すみません」
『浜名食品工業の件です』
「はい」
『市としても、今後は給食納入への影響と労使関係の問題を分けて扱います』
「……そうですか」
『労働組合の存在そのものを、契約上の不安要素として扱うことはしません』
私は少し驚きました。
「課長」
『何でしょう』
「最初は『穏便に』って言ってましたよね」
数秒。
沈黙。
『行政は』
沢渡課長が言いました。
『法的に問題があると分かれば、運用を修正します』
「格好いいこと言いますね」
『当然のことです』
「でも、地元の和は?」
『朝比奈さん』
「はい」
『和を守ることと、権利を潰すことは別です』
私は黙りました。
この人。
たまに全部持っていきます。
『では』
「あ、課長」
『何です』
「一つだけ」
『どうぞ』
「憲法って、昭和でも強いですね」
また沈黙。
『……何を当たり前のことを』
電話が切れました。
私は受話器を置きました。
「何だって?」
相馬先輩が聞きます。
「和を守ることと、権利を潰すことは別だって」
「沢渡が?」
「はい」
「明日は雪だな」
「ひどい」
窓の外。
工場地帯の煙突から、
白い煙が細く伸びていました。
明日も、
浜名食品工業では仕事があります。
機械が動く。
総菜を詰める。
トラックが走る。
社長も会社へ来る。
野口さんたちも働く。
何も劇的には変わりません。
ただ。
来週。
同じ机に、
会社側と、
二十三人の労働者を代表する人たちが座ります。
一人ではなく。
束になって。
話をする。
それだけです。
それだけのことを、
憲法は一条使って守っています。
私はノートの最後に、
もう一度書きました。
――一人では届かない声を、束ねるための権利。
そして。
その下に小さく。
団結権。
団体交渉権。
団体行動権。
三つ合わせて、
労働基本権。
「よし」
ノートを閉じます。
「帰ります」
「待て」
相馬先輩が言いました。
「何です?」
「掃除」
「え?」
「今日はお前だ」
「昨日も私でしたよ」
「事務所の和を乱すな」
私は止まりました。
「……先輩」
「何だ」
「今、一番言っちゃいけない言葉を言いましたね」
「知らん」
「私は団結します」
「誰と」
奥を見る。
「所長」
「掃除しろ」
「団結失敗!」
相馬先輩が笑いました。
どうやら。
憲法二十八条でも、
見習いの掃除当番までは救ってくれないようです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
最高法規は今日も健在。
ただし、
ほうきだけは、
自分で持つしかありませんでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




