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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈憲法 配点28点/300点〉 人権

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[憲法26条・教育を受ける権利]現場編 「払えないなら、授業に出さない」の罠。義務教育の無償は“全部タダ”ではない――それでも子どもの学ぶ権利は奪えない

挿絵(By みてみん)

 大人のお金の事情で。


 子どもの机まで、廊下へ出していいわけではありません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


「娘が、授業に入れてもらえないんです」


 その日の相談者は、そう言って泣きました。


 名前は、宮下恵美子さん。


 三十四歳。


 市内の縫製工場で働いている女性でした。


 夫とは二年前に離婚。


 小学五年生の娘、奈緒ちゃんと二人暮らし。


 恵美子さんは、くたびれた茶封筒を机の上へ置きました。


「これです」


 中から出てきたのは、小学校からの通知でした。


 教材費。


 学級費。


 校外学習積立金。


 その他、細々とした集金。


 そのうち、教材費など三か月分が未納になっている。


「全部で?」


「六千八百円です」


 大金。


 というほどではない。


 でも。


 払えない人にとっては、六千八百円は六千八百円です。


「工場の仕事が減って」


 恵美子さんは俯きました。


「先月、家賃も遅れました。それで学校に、もう少し待ってくださいってお願いしたんです」


「学校は何て?」


「最初は、分かりましたって」


「それが?」


「先週から……」


 声が詰まりました。


「奈緒だけ、理科の実験に入れてもらえなくなりました」


「……え?」


 私は聞き返しました。


「どういう意味ですか」


「教材費を払っていないから、実験道具を使わせられないって」


 胸の奥がざらつきました。


「ほかにも?」


「図工もです」


「図工?」


「共同で使う材料がある授業のとき、奈緒だけ別の課題をさせられているそうです」


「別の課題って」


「教室の後ろで、教科書を読んでなさいって」


 相馬先輩の煙草が止まりました。


「誰が決めた」


「学校です」


「校長か」


「先生からは、『学校として決めました』って」


「教育委員会は?」


「相談しました」


「何て?」


 恵美子さんは、もう一枚の紙を出しました。


 市教育委員会。


 相談記録の控え。


 そこに書かれていた言葉を見て、私は眉をひそめました。


 ――教材費等については保護者間の公平な負担が必要であり、学校運営上やむを得ない措置である。


「やむを得ない」


 私は呟きました。


「あと」


 恵美子さんが言います。


「教育委員会の人に言われました」


「何をです?」


「みんな払ってるんだから、あなたの家だけ特別扱いすると、地元の和が乱れるって」


 相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。


 ぐしゃ。


「出たな」


「何がです?」


「和」


 低い声でした。


「役所が法律の話から逃げるとき、たまに出てくる化け物だ」


「先輩」


「何だ」


「ちょっと言い方が」


「世間の常識? 地元の和?」


 相馬先輩は鼻で笑いました。


「俺たちが守ってんのは法律だ」


 恵美子さんが、小さく息を飲みました。


 私は通知をもう一度見ました。


 教材費。


 未納。


 授業の一部参加制限。


 公平な負担。


 学校運営。


 地元の和。


 そして。


 小学五年生。


「奈緒ちゃんは」


 片桐所長が初めて口を開きました。


「学校へは行っているんですね」


「はい」


「本人が授業を嫌がっているわけではない」


「逆です」


 恵美子さんの顔が歪みました。


「あの子、理科が好きなんです」


 その一言が。


 いちばん痛かった。


「この前も」


 恵美子さんは続けました。


「豆電球と電池をつなぐ授業があるって、前の日から楽しみにしてたんです」


 私は何も言えませんでした。


「帰ってきて、聞いたんです。実験どうだったって」


「……はい」


「そしたら」


 恵美子さんは唇を噛みました。


「『見てただけ』って」


 教室。


 四人ずつの班。


 乾電池。


 豆電球。


 導線。


 みんなが手を動かしている。


 その横で。


 一人だけ。


 教科書を読む。


 十一歳の子どもにとって。


 それがどういう時間なのか。


 想像するのは難しくありませんでした。


「私が払えてないのが悪いんです」


 恵美子さんが言いました。


「でも」


 私は顔を上げました。


「でも?」


「子どもまで悪いんでしょうか」


 誰もすぐには答えませんでした。


「憲法二十六条」


 私は言いました。


 恵美子さんが帰ったあと。


 机の上に通知を広げていました。


「教育を受ける権利」


「そうだ」


 片桐所長が答えます。


「義務教育は無償」


 そこまで言って。


 私は止まりました。


「あ」


 相馬先輩がこちらを見る。


「何だ」


「これ、単純に『義務教育なんだから教材費を取るな』とは言えませんね」


「当たり前だ」


「ですよね……」


 危ない。


 憲法二十六条二項。


 義務教育は、これを無償とする。


 文字だけ読むと。


 小学校、中学校で必要なお金は全部無料。


 そんなふうにも見えます。


 でも。


 違います。


 最高裁はすでに、


 義務教育の無償とは、基本的には授業料を徴収しないという意味であって、


 教育に必要な費用すべてを憲法上当然に無償とする趣旨ではない、


 という考え方を示しています。


「教科書代まで、憲法二十六条だけで当然に無償になるわけじゃない」


 私は言いました。


「ああ」


「教材費も、何でもかんでも『義務教育だから払わなくていい』とはならない」


「そうだ」


「じゃあ……」


 私は腕を組みました。


 困りました。


 最初に思いついた剣が、抜けない。


「憲法、使えないじゃないですか」


 相馬先輩が呆れた顔をしました。


「お前な」


「はい」


「何で親の金の話しか見てねえんだ」


「え?」


「二十六条は誰のための条文だ」


「国民の――」


「この事件で、一番守られる側は誰だ」


 私は止まりました。


 教材費を払うのは。


 親。


 でも。


 教育を受けるのは。


「……奈緒ちゃん」


「そうだ」


 片桐所長が静かに言いました。


「子どもだ」


 そこで。


 景色が変わりました。


 教材費を徴収できるか。


 できないか。


 それだけを見ていた。


 違う。


 仮に教材費を保護者に負担させること自体が許されるとしても。


 未納だからといって。


 子どもを授業から外していいのか。


 それは別問題です。


「教育を受ける権利……」


 私はもう一度呟きました。


「子どもの学習権」


 片桐所長が頷きました。


 憲法二十六条一項。


 すべて国民は、


 法律の定めるところにより、


 その能力に応じて、


 ひとしく教育を受ける権利を有する。


 教育は。


 親が学校からサービスを買う話だけではない。


 子ども自身が、


 学ぶ。


 知る。


 考える。


 成長する。


 そのための権利でもある。


「払ってないのは親です」


 私は言いました。


「奈緒ちゃんじゃない」


「うん」


「教材費の負担を求めることと、奈緒ちゃんを授業から外すことは別」


「そういうことだ」


「しかも」


 私は通知を指しました。


「学校側の目的は、未納をなくすことですよね」


「おそらくな」


「保護者間の公平な負担」


「そう言っている」


「目的自体は分かります」


 払う人。


 払わない人。


 学校側が何も対応しなければ、


 きちんと払っている家庭から不満が出る。


 予算にも限界がある。


 教材だって空から降ってくるわけじゃない。


 そこまでは分かります。


 でも。


「そのための手段が」


 私は言いました。


「子どもを授業から外す?」


 片桐所長が私を見ました。


「そこを詰めろ」


 来た。


 目的。


 手段。


 私はノートを引き寄せました。


 目的。


 教材費負担の公平。


 学校運営上の費用確保。


 手段。


 未納家庭の児童を、一部授業から外す。


「ほかに方法ありますよね」


「例えば?」


「保護者への請求」


「うん」


「分納の相談」


「うん」


「家庭事情の確認」


「うん」


「利用できる援助制度がないかの案内」


「そうだ」


「それを飛ばして、子どもの授業を制限する必要がありますか?」


 片桐所長は答えませんでした。


 答えの代わりに。


「意見書を作れ」


 と言いました。


「憲法ですか」


「そうだ」


 相馬先輩がにやりとしました。


「抜くのか」


 片桐所長が帳簿を閉じます。


「憲法論を振り回す行政書士は三流だ」


「所長、それ前にも言いましたよね」


「だが」


 所長の声が低くなりました。


「役所が越えてはいけない線を越えたなら、話は別だ」


 私はノートを開きました。


 憲法二十六条。


 教育を受ける権利。


 子どもの学習権。


 そして。


 目的と手段。


「最高法規」


 私は呟きました。


「何だ」


「いえ」


 憲法なんて。


 行政書士の実務で、そんなに使わないと思っていました。


 試験科目。


 判例。


 人権。


 統治。


 五肢択一。


 それくらい。


 でも。


 下にあるルールが全部、


 「昔からそうしている」


 「みんな払っている」


 「地元の和がある」


 と言い始めたとき。


 最後に残る基準は。


 いちばん上です。


 二日後。


 市役所。


 教育委員会事務局。


「片桐先生」


 沢渡課長は、私たちの顔を見るなり眼鏡を直しました。


「今度は学校ですか」


「今度は学校だ」


 相馬先輩が答えます。


「最近、守備範囲が広すぎませんか」


「行政が広いんだよ」


「それはそうですが」


 机の上へ。


 片桐所長が一冊の書面を置きました。


 表紙。


 ――宮下奈緒児童に対する授業参加制限措置についての意見書。


 沢渡課長の目が止まります。


「行政書士として、教育内容そのものへ介入するつもりはありません」


 片桐所長が言いました。


「承知しています」


「学校の授業方法を、こちらが決めるつもりもない」


「では?」


「子どもの教育を受ける機会を、教材費未納への事実上の制裁として制限してよいのか。それだけです」


 沢渡課長が書面を開きました。


「制裁、という表現は強すぎませんか」


「では確認しましょう」


 私が言いました。


「奈緒さんが理科実験から外されている理由は、本人の学力ですか」


「違います」


「授業妨害?」


「違います」


「安全上の問題?」


「違います」


「本人が参加を拒否?」


「それも違います」


「では?」


 沢渡課長が黙りました。


「教材費の未納です」


「ですよね」


 私は続けました。


「未納なのは保護者です」


「ええ」


「でも教育機会を制限されているのは子どもです」


「学校側にも事情があります」


「分かっています」


「教材には費用がかかる。ほかの保護者は負担している。未納家庭だけ同じように教材を使わせれば、不公平だという声も出る」


「それも分かります」


 沢渡課長が少し眉を上げました。


「なら――」


「だから、徴収してください」


「……何です?」


「保護者に」


 私は言いました。


「必要な教材費なら、保護者に負担を求める。その話と、子どもの教育を受ける機会を奪う話を分けてください」


 沢渡課長の指が止まりました。


「憲法二十六条二項の『義務教育は無償』も、教育に関係する費用を何もかも国や自治体が負担しなければならない、という意味ではありません」


「そのとおりです」


「そこは争いません」


 相馬先輩が横から言いました。


「こっちも無茶言ってんじゃねえんだ」


「では何を問題に?」


「子どもを取り立ての道具にするなって言ってんだ」


 部屋が静かになりました。


 相馬先輩。


 そういうところ。


 本当に強い。


「相馬」


 所長が言います。


「言葉を選べ」


「はいよ」


 選ぶ気がなさそうです。


 私は意見書の該当部分を開きました。


「教育を受ける権利は、特に子どもの学習権を保障するものとして考えられています」


「ええ」


「国や地方公共団体には、教育制度を整え、子どもが学べる条件を確保する役割がある」


「それも否定しません」


「一方で、国や学校が教育について何も決められない、という話でもありません」


 私は一度息を吸いました。


 ここ。


 大事です。


 憲法を振り回して、


 学校は子どもに何も命令できない。


 親が全部決める。


 教師が全部決める。


 そんな単純な話ではありません。


「旭川学力テスト事件」


 私が言うと。


 沢渡課長の目つきが変わりました。


「……昭和五十一年の最高裁ですね」


「はい」


 さすが。


 知っています。


「最高裁は、教育内容について国が関与する権能を全面的に否定していません」


「必要かつ相当と認められる範囲で、という話ですね」


「そうです」


 私は頷きました。


「だから今回も、学校に教育上必要な判断権限があること自体は否定しません」


「では、なおさら――」


「必要かつ相当なんですか?」


 沢渡課長が止まりました。


「教材費が六千八百円未納」


「はい」


「それを理由に、十一歳の子を理科実験と図工の共同作業から外す」


「……」


「その手段が」


 私は意見書を指しました。


「子どもの利益のために、必要かつ相当なものなんですか」


 返事はありませんでした。


「保護者へ請求する方法があります」


「はい」


「分納の協議もできる」


「はい」


「生活状況を確認して、利用可能な援助制度を案内することもできる」


「……はい」


「それでもなお」


 私は言いました。


「子どもを授業から外さなければならない理由は何ですか」


 沢渡課長は答えません。


 代わりに。


 書面を一枚めくりました。


「ここに」


 彼が言います。


「憲法十三条も入れていますね」


「はい」


「個人の尊重」


「奈緒さんを、未納家庭の子という記号だけで扱わないためです」


 昭和の空気。


 みんな払っている。


 普通は払う。


 迷惑をかけるな。


 一人だけ違うことをするな。


 親が払わないなら、子どもも少しくらい我慢しろ。


 それは。


 法律ではありません。


「課長」


 相馬先輩が言いました。


「『ほかの家は払ってる』ってのは分かる」


「はい」


「払った家が馬鹿を見る運用にしろとも言ってねえ」


「ええ」


「だがな」


 相馬先輩は机を指で軽く叩きました。


「大人の公平を守るために、子どもの授業を削るのは順番が逆だろ」


 沢渡課長は眼鏡を外しました。


 布でレンズを拭きます。


 この人が考えているときの癖です。


「学校側からは」


 やがて言いました。


「未納を放置すると、他の家庭への説明がつかないという意見があります」


「放置しろとは言ってません」


 私は答えました。


「徴収の問題と、教育の問題を分けてください」


「地元では、学校運営への協力は当然だという意識も強い」


「世間の常識?」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「先輩」


「何だ」


「まだ言ってません」


「どうせ言う」


 沢渡課長が小さくため息をつきました。


「公共の福祉という観点もあります」


 来た。


 私は思いました。


 便利な言葉。


 公共の福祉。


 憲法の人権問題で、何でも最後に出てくる言葉。


 でも。


 それは。


 人権を消す呪文ではありません。


「公共の福祉と言えば」


 私は言いました。


「何をしてもいいわけではありませんよね」


「もちろんです」


「目的は何です?」


「公平な費用負担と、円滑な学校運営です」


「その目的のために」


「……」


「奈緒さんの学習機会を制限することが、どれだけ必要なんですか」


 沢渡課長が黙る。


「もっと権利侵害の小さい方法がありますよね」


 保護者への督促。


 面談。


 分納。


 援助制度。


 個別相談。


 ほかにもある。


 それなのに。


 一番弱いところへ行った。


 子ども。


 払う義務を直接負っていない。


 逃げることもできない。


 学校へ毎日来る。


 そこへ圧力をかけた。


「意見書の結論は」


 片桐所長が静かに言いました。


「教材費の請求をやめろ、ではありません」


「承知しました」


「学校の教育内容に行政書士が口を出す、でもない」


「はい」


「未納を理由として児童本人の学習機会を制限する運用を直ちに再検討してほしい。それだけです」


 沢渡課長は意見書を閉じました。


「教育委員会と校長に確認します」


「お願いします」


「ただ」


 沢渡課長がこちらを見ました。


「違憲だと断定するのは、強すぎるのでは?」


 片桐所長は表情を変えませんでした。


「だから断定していない」


「……」


「読め」


 沢渡課長が表紙を戻します。


 最後のページ。


 そこには、


 ――憲法第二十六条第一項の趣旨に照らし、合理的根拠を欠く教育機会の制限として、重大な疑義がある。


 と書いてありました。


「違憲判決を出すのは、うちじゃない」


 所長が言います。


「我々は裁判官でも弁護士でもない」


「ええ」


「だが」


 声が少し低くなります。


「行政が違憲の疑いのある運用を続ける前に、止めることはできる」


 沢渡課長は。


 しばらく黙っていました。


 そして。


「三日ください」


 と言いました。


 三日はかかりませんでした。


 翌日の午後。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『総務課、沢渡です』


「早いですね」


『教育委員会から回答が出ました』


 私は受話器を握り直しました。


「どうなりました?」


『宮下奈緒さんについて、教材費未納を理由とする授業参加制限を解除します』


「……本当ですか」


『明日から通常どおり参加させます』


 思わず立ち上がりました。


「所長!」


「聞こえてる」


 地声の大きさを忘れていました。


『それと』


 沢渡課長が続けます。


「はい」


『市内小中学校に、同様の取扱いがないか確認します』


「全部ですか」


『全部です』


「そこまで?」


『憲法問題になってから調べるより、なる前に調べるほうが安い』


 実に沢渡課長らしい。


「合理的ですね」


『私はいつも合理的です』


「知ってます」


『なお』


「はい」


『教材費の未納分が消えたわけではありません』


「もちろんです」


『宮下さんとは、分納について学校側が協議します。また、利用可能な就学援助についても案内するとのことです』


「はい」


『そこは混同しないでください』


「しません」


 ここ。


 大事です。


 勝った。


 全部無料になった。


 そういう話ではありません。


 憲法二十六条二項の、


 義務教育は無償。


 その言葉だけで、


 教材費も。


 学用品費も。


 給食費も。


 学校に関する費用は何でも払わなくていい。


 そんな結論にはなりません。


 でも。


 だからといって。


 払えない家庭の子どもから、


 学ぶ時間まで取り上げていいことにもならない。


 お金の問題は、大人同士で解決する。


 子どもの教育は、子どもの教育として守る。


 ただ。


 それだけのことでした。


 次の日。


 宮下恵美子さんが事務所へ来ました。


 奈緒ちゃんも一緒でした。


 初めて会います。


 髪を肩まで伸ばした、小柄な女の子でした。


「こんにちは」


 私が言うと。


「こんにちは」


 小さな声。


 恥ずかしそうです。


「今日、理科だった?」


 聞いてから。


 ちょっと馴れ馴れしかったかなと思いました。


 でも。


 奈緒ちゃんの顔がぱっと明るくなりました。


「はい!」


「実験した?」


「しました」


「何やったの?」


「電磁石」


 おお。


 豆電球はもう終わっていた。


 残念。


「釘に銅線巻いて」


「うん」


「電池つないだら、クリップがくっつきました」


「おお」


「電池を増やすと、いっぱいつきました」


 楽しそうでした。


 ただ。


 それだけ。


 子どもが理科の実験をして。


 クリップがくっついた。


 それだけです。


 新聞にも載らない。


 市長も会見しない。


 最高裁判決も出ない。


 歴史の教科書にも載らない。


 でも。


 その子にとっては。


 今日一日の学校生活です。


「朝比奈さん」


 恵美子さんが言いました。


「ありがとうございました」


「いえ」


「私、学校に行くのが怖かったんです」


「……はい」


「払ってないのはこっちだから。何を言っても、親が悪いって言われると思って」


 私は答えに迷いました。


 実際。


 費用負担の問題は残っています。


 そこをごまかしてはいけない。


「払う話は」


 私は言いました。


「これからちゃんと相談しましょう」


「はい」


「でも」


 奈緒ちゃんを見る。


「それと、奈緒ちゃんが勉強していいかどうかは別です」


 恵美子さんは。


 少しだけ泣きました。


 二人が帰ったあと。


 私は窓際に立っていました。


 夕方。


 ランドセルを背負った子どもたちが歩いていきます。


「先輩」


「何だ」


「憲法って、すごいですね」


「急だな」


「私、受験生の頃」


 憲法二十六条。


 教育を受ける権利。


 義務教育。


 無償。


 旭川学力テスト事件。


 教科書費。


 そんなふうに。


 単語で覚えていました。


「義務教育は無償だから、全部無料」


「間違い」


「そう。だから教科書代まで当然無料ではない」


「うん」


「国には教育内容を決める権限がない」


「それも雑だな」


「そう。国にも必要かつ相当な範囲で教育内容について決定する権能がある」


「うん」


「試験だと、それで終わるんですよ」


「現場じゃ終わらねえ」


「はい」


 今日。


 その言葉の向こう側に。


 一人の子どもがいました。


 学ぶ権利。


 それは。


 答案用紙に丸をつけるための言葉じゃない。


 教室に入る。


 友達と机を囲む。


 実験をする。


 失敗する。


 もう一回やる。


 知らなかったことを知る。


 そういう時間を。


 子どもから簡単に奪わせないための言葉です。


「でも」


 私は言いました。


「昭和でも憲法二十六条は同じなんですよね」


「何言ってんだ」


「いや」


 日本国憲法。


 昭和二十一年公布。


 昭和二十二年施行。


 そして。


 私が知っている未来まで。


 一字一句、改正されていない。


 だから。


 昭和六十三年でも。


 令和でも。


 憲法二十六条の文字は同じです。


「変なの」


「何が」


「条文は同じなのに」


 私は窓の外を見ました。


「周りの空気が違う」


 みんな払っている。


 親の責任だ。


 学校に迷惑をかけるな。


 和を乱すな。


 少しくらい子どもに我慢させれば、親も払うだろう。


 そういう。


 法律には書いていない空気。


 昭和の町には、それが重い。


「空気なんざ条文集には載らねえ」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


「だから厄介なんだ」


「はい」


「だが」


 先輩は煙草をくわえました。


「条文集に載ってねえものが、載ってるものより偉くなったら終わりだ」


 私は笑いました。


「先輩、今日すごく憲法っぽいですね」


「うるせえ」


「人権派ですか」


「違う」


「じゃあ何派です?」


「仕事終わらせて帰りたい派だ」


「台無し」


 奥から片桐所長の声が飛んできました。


「こはる」


「はい」


「今日の教訓は」


 来ました。


 私は少し考えました。


 義務教育の無償。


 それだけでは足りない。


 教材費は全部無料ではない。


 それも大事。


 でも。


 今日、一番覚えておきたいのは。


 そこじゃない。


「――親への請求と、子どもの学ぶ権利を混ぜない」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私は机に戻りました。


 ノートを開く。


 そして。


 最後にもう一行だけ書きました。


 ――憲法二十六条が守っているのは、「無料」という言葉より先に、学びたい子どもだ。


 窓の外から。


 下校する子どもたちの声が聞こえてきました。


 今日。


 奈緒ちゃんは電磁石を作った。


 銅線を巻いて。


 電池をつないで。


 クリップがくっついた。


 たぶん。


 大人になったら忘れるでしょう。


 何個くっついたかも。


 隣の席が誰だったかも。


 先生が何を言ったかも。


 でも。


 それでいい。


 教育というのは。


 覚えている一日だけでできているわけではありません。


 忘れてしまうような普通の日を、


 何百日も積み重ねて。


 人は少しずつ大人になります。


 だから。


 その普通の日を。


 大人の都合で、一日ずつ削ってはいけない。


 憲法は。


 十一歳の少女の机に、


 「憲法第二十六条」


 なんて札を立ててはくれません。


 ただ。


 誰かがその机を教室の外へ出そうとしたとき。


 静かに。


 そこに置いておけ、と言ってくれる。


 最高法規というのは。


 案外。


 そういうものなのかもしれません。

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