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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈憲法 配点28点/300点〉 人権

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378/701

[憲法23条・学問の自由]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 夕方の片桐行政書士事務所は、学問の自由にあまり向いていません。


「こはる」


「はい」


「昨日言った整理は終わったか」


「今やってます」


「昨日までと言った」


「学問研究には時間が必要なんです」


「期限も必要だ」


「研究者に圧力をかけないでください!」


「お前は研究者じゃない」


 正論でした。


 机の上。


 開いた六法。


 その横に、昨日の公民館利用に関する法的意見書。


 そしてノート。


 私は一番上に大きく書きました。


 ――憲法第二十三条。


 その下。


 ――学問の自由は、これを保障する。


「……短い」


 改めて見ても短い。


 ものすごく短い。


 行政不服審査法の目的条文なんて、覚えるだけで息継ぎが必要だったのに。


 憲法二十三条は、一息で終わります。


「先輩」


「何だ」


「学問の自由は、これを保障する」


「急に何だ」


「二十三条、終わりです」


「だから?」


「これだけで試験範囲も終わってくれたらいいのに」


「終わるわけねえだろ」


 ですよね。


 条文が短い法律ほど、判例が怖い。


 受験生は知っています。


 私はノートに最初の見出しを書きました。


 ――学問の自由の内容。


 そして三つ。


 一、学問研究の自由。


 二、研究発表の自由。


 三、教授の自由。


「まず昨日の水野さん」


 私は言いました。


「一番中心だったのは、学問研究の自由ですね」


 戦時中の地域史。


 軍需工場。


 そこで働いていた人たち。


 当時の生活。


 何を研究するのか。


 どんな資料を集めるのか。


 誰から話を聞くのか。


 そこを研究者自身が決める。


「役所が『祭りの歴史ならいいけど、戦時中の話は揉めるから駄目』と言い始めたら」


「研究内容の選別になる」


 片桐所長が言いました。


「はい」


 私はノートに書きます。


 ――学問研究の自由=何を研究するかを国家権力によって不当に制限されない自由。


「でも」


 相馬先輩が煙草を指に挟みました。


「学問なら何やってもいいのか?」


「そこは違います」


「昨日も沢渡に言ってたな」


「はい」


 学問の自由は保障される。


 でも。


 研究という看板を掲げれば、あらゆる行為が無制限に許されるわけではありません。


 他人の生命。


 身体。


 人格。


 プライバシー。


 研究対象者の権利。


 そうしたものを踏みにじっていいわけではない。


「たとえば人間を勝手に実験材料にするとか」


「駄目だな」


「危険な物質を好き放題扱うとか」


「研究です、で通るわけねえ」


「そういうことです」


 私は書きます。


 ――学問研究の自由も絶対無制約ではない。


 ただし。


 ここが昨日の事件で大事でした。


「制限できる場合がある」


 と、


 「地元が嫌がるから制限していい」


 は、


 まったく別の話です。


「公共の福祉」


 私はその言葉を書きました。


 そして少し睨みました。


「何を紙と喧嘩してんだ」


「この言葉、便利すぎるんですよ」


「役所が使うと?」


「受験生も使います」


 人権問題。


 制限。


 理由。


 分からない。


 困った。


 そういうとき。


 ――公共の福祉による制約。


 と書いておけば何となく答案が法律っぽくなる。


「昔の私なら」


 私は言いました。


「学問の自由も公共の福祉によって制限される、で終わってました」


「雑だな」


「今なら分かります。そこからが本番なんですよね」


 何のための制限なのか。


 その目的は正当なのか。


 その目的と制限手段は合理的につながっているのか。


 必要以上に広く自由を奪っていないか。


 もっと制約の小さい方法はないのか。


「昨日なら」


 私は指を折りました。


「目的は公民館の秩序維持」


「それ自体はおかしくねえ」


「はい」


「で?」


「参加人数を制限すればいい」


「うん」


「事前申込制にもできる」


「うん」


「混乱が具体的に予想されるなら、職員を配置する方法もある」


「うん」


「なのに研究活動そのものを排除する」


「やりすぎだな」


「そういうことです」


 公共の福祉。


 その五文字を言えば、


 人権制約が自動的に合憲になるわけではない。


 目的。


 手段。


 必要性。


 均衡。


 そこを見る。


「現代では、こういう考え方がかなり細かくなってます」


 私が言うと、相馬先輩が眉を上げました。


「未来では公共の福祉って言わねえのか?」


「言います」


「じゃあ同じじゃねえか」


「条文は同じです。でも、人権制約の考え方が精緻になっていくんです」


 昭和六十三年にも。


 憲法十三条はあります。


 二十三条もあります。


 公共の福祉という言葉もあります。


 条文は未来と同じ。


 でも。


 社会の空気は違う。


 地元が嫌がる。


 昔からそうしている。


 揉め事になる。


 世間体が悪い。


 そんな理由が、


 今よりずっと重い。


「昨日の沢渡課長も」


 私は言いました。


「違法なことをしてやろうと思ってたわけじゃないんですよね」


 片桐所長が頷きます。


「役所として揉め事を避けたかっただけだ」


「はい」


「だから厄介なんだ」


「悪意じゃないから?」


「そうだ」


 所長は言いました。


「人権は、悪人だけが侵害するわけじゃない」


 私はペンを止めました。


 それ。


 かなり大事かもしれません。


 悪い役人が、


 悪意を持って、


 市民の権利を踏みにじる。


 そんな事件なら分かりやすい。


 でも現実は、


 もっと地味です。


 揉めるから。


 苦情が来るから。


 前例がないから。


 地元の人が嫌がるから。


 みんなのためだから。


 そうやって、


 一人の自由が少しずつ削られる。


「公共の福祉って」


 私は言いました。


「多数派の機嫌って意味じゃないんですね」


「当たり前だ」


 相馬先輩が言います。


「十人が嫌がったら一人の権利を消せるなら、憲法なんざ要らねえ」


 昨日の私と同じところへ着地しました。


 やっぱりこの人、


 口は悪いけど憲法との相性がいい。


 私は次の見出しを書きました。


 ――研究発表の自由。


「これも昨日の事件とつながります」


 研究は、


 調べて終わりではありません。


 成果をまとめる。


 論文を書く。


 学会で発表する。


 本にする。


 講演する。


 外へ出す。


「研究成果を発表できなかったら」


 私は言いました。


「研究の価値が大きく失われます」


「日記帳じゃねえんだからな」


 相馬先輩が言います。


「そうです」


 だから。


 学問研究の自由だけ保障して、


 発表は禁止。


 では意味がない。


 研究成果を発表する自由も、


 学問の自由に含まれる。


「水野さんも、最終的には論文にする予定でした」


「ああ」


「だから市がもし、『調べるのは勝手だが、この町について発表するな』と言ったら」


「もっと露骨だな」


「完全に問題になります」


 もちろん。


 発表内容によって、


 他人の名誉やプライバシーを侵害する場合は別問題です。


 だから水野さんにも、


 片桐所長は言いました。


 発表するときは慎重にな。


 学問の自由は免罪符じゃない。


「自由って」


 私は呟きました。


「責任がなくなることじゃないんですね」


「当たり前だ」


「今日、先輩そればっかりですね」


「お前が当たり前のことばっかり言うからだ」


 ひどい。


 次。


 ――教授の自由。


「教授って」


 相馬先輩が言いました。


「大学教授のことか?」


「ここでは『教える自由』という意味です」


「教師が好き勝手教えていい自由?」


「そこが罠です」


 私は大きく、


 大学。


 と書きました。


「学問の自由の一内容として教授の自由が重要になるのは、特に大学です」


「なぜ大学なんだ」


「大学は学問研究の場だから」


 研究する。


 その研究成果を学生へ伝える。


 新しい学説を検討する。


 通説を批判する。


 国家が、


 この学説だけ教えろ。


 この考え方は禁止。


 そんなことを始めたら、


 学問そのものが死んでしまう。


「じゃあ小学校も同じか?」


 相馬先輩が聞きます。


「そこが今日の重要判例です」


 私はノートに、


 ――旭川学力テスト事件。


 と書きました。


「昭和五十一年五月二十一日、最高裁大法廷」


「未来の事件じゃねえんだな」


「これはもう判決出てます」


「じゃあ安心して喋れ」


 どういう安心ですか。


 事件は、


 全国の中学生を対象に実施された学力調査。


 いわゆる全国一斉学力テストをめぐるものでした。


 教師側の教育の自由。


 国による教育内容への関与。


 そうした問題が争われた。


「最高裁は」


 私はノートを見ながら言いました。


「小中高校の教師にも、一定の範囲で教授の自由が保障されるべきだとしました」


「じゃあ好きに教えていいんじゃねえか」


「ところが、そうはならない」


「なぜ」


「普通教育だからです」


 小学校。


 中学校。


 高校。


 特に普通教育では、


 大学とは事情が違います。


 子どもは、


 自分で教育内容を完全に選べるわけではない。


 全国どこに住んでいても、


 一定水準の教育を受けられる必要がある。


 教育の機会均等。


 全国的な教育水準の確保。


 そうした要請が強い。


「だから最高裁は」


 私は言いました。


「小中高校の教師に、大学教授と同じ意味で完全な教授の自由を認めることはできない、と考えた」


「なるほどな」


「一定の自由はある。でも完全ではない」


「ゼロでも百でもない」


「はい」


 ここ。


 試験で狙われそうです。


 私は赤線を引きました。


 ――小中高校にも一定の教授の自由は認められる。


 しかし、


 ――完全な教授の自由は認められない。


「『小中高校には教授の自由は一切ない』」


「バツ」


「『大学と同程度の教授の自由が保障される』」


「それもバツ」


「いいですね」


「俺を受験生扱いすんな」


 でも。


 この判例を見ても分かります。


 学問の自由。


 教育の自由。


 国の関与。


 全部、


 単純なゼロか百ではありません。


 何を守るための自由なのか。


 誰の権利が関わっているのか。


 どこまで国家が関与する必要があるのか。


 そこを見る。


 私は次のページを開きました。


 そして大きく書きます。


 ――大学の自治。


「出ました」


「昨日は使わなかったやつだな」


「はい」


 昨日の水野さんの事件は、


 市立公民館での研究活動。


 大学内部の問題ではありませんでした。


 だから、


 大学の自治!


 と叫ぶのはズレています。


「でも二十三条では重要です」


「何だ、大学の自治って」


「大学の内部のことを、大学自身が自主的に決めることです」


 特に。


 人事。


 施設。


 学生の管理。


 大学内部の行政。


「なぜそんな自治が必要なんだ」


 相馬先輩が聞きます。


「学問の自由を守るためです」


 もし政府が、


 この教授は政府に批判的だから辞めさせろ。


 この研究室は気に入らないから閉鎖しろ。


 この学生の研究テーマは禁止しろ。


 そんな介入を自由にできたら。


 学問研究の自由なんて、


 条文に書いてあっても簡単に潰されます。


「つまり」


 私は矢印を書きました。


 学問の自由。


 ↓


 大学における学問研究の自主性を確保する必要。


 ↓


 大学の自治。


「大学の自治そのものが目的じゃない?」


 相馬先輩が聞きました。


「学問の自由を制度的に守るための仕組み、という関係で理解すると分かりやすいです」


「なるほど」


 私は書きます。


 大学の人事。


 大学の施設管理。


 学生の管理。


 これらについて、


 大学の自主的判断を尊重する。


「ただし」


 片桐所長が言いました。


「大学の中なら国家権力は一切入れない、ではない」


「はい」


 来ました。


 もう一つの重要判例。


 私はノートに書きます。


 ――東大ポポロ事件。


 昭和三十八年五月二十二日。


 最高裁大法廷。


「昨日の意見書にも入れたやつです」


「あれ、何の事件なんだ?」


 相馬先輩が聞きます。


「東京大学の学生団体、ポポロ劇団の演劇発表会です」


 題材は、


 松川事件。


 社会的・政治的色彩の強い題材でした。


 その演劇会場に、


 私服警察官が入っていた。


 学生がそれを発見。


 警察官を拘束し、


 警察手帳を奪った。


 そこで、


 大学の自治。


 学問の自由。


 警察の立入り。


 そうした問題が争われました。


「学生側は」


 私は言いました。


「大学の自治を主張した」


「大学に警察が入ったから?」


「はい」


「で、最高裁は?」


「大学の自治の侵害とは認めませんでした」


「なんでだ」


 そこが大事です。


「その演劇発表会が、学問研究のためのものとは認められなかったから」


「学問じゃない?」


「実社会の政治的・社会的活動で、しかも公開の集会またはそれに準じるものだと評価された」


「だから?」


「大学の中で行われていても、それだけで学問の自由や大学の自治の保障を当然に受けるわけじゃない」


 相馬先輩が少し笑いました。


「場所だけ大学でも駄目か」


「そういうことです」


 私は大きく書きました。


 ――大学内=何でも大学の自治、ではない。


 これ、


 かなり重要です。


 大学の建物の中でやれば、


 政治集会も、


 商売も、


 犯罪行為も、


 全部「大学の自治」で国家権力を排除できる。


 そんなわけはない。


「だから昨日」


 私は言いました。


「水野さんの活動も、名前だけ『研究』なら駄目だったんです」


「うん」


「本当に研究計画がある」


「うん」


「研究対象がある」


「うん」


「聞き取りを資料化する」


「うん」


「他の史料と照合する」


「うん」


「論文として発表する予定がある」


「そこまで出したから、研究活動だと言えた」


「はい」


 憲法上の権利を主張するとき。


 条文番号だけ叫んでも弱い。


 事実を積む。


 その活動が、


 本当に憲法が守ろうとしているものなのか。


 そこまで示す。


「だから行政書士の仕事になるんですね」


 私は言いました。


「どういう意味だ」


「裁判はできない」


「うん」


「違憲判決を取ることもできない」


「うん」


「でも、事実を整理して」


「うん」


「条例や規則を確認して」


「うん」


「判例を調べて」


「うん」


「この行政運用を続けると憲法問題になりますよ、って意見書にする」


 片桐所長が頷きました。


「それで役所が戻るなら、裁判にする必要はない」


「はい」


 憲法というと。


 最高裁。


 違憲判決。


 統治行為。


 違憲審査制。


 そんな大きな言葉ばかり浮かびます。


 でも昨日。


 憲法二十三条が働いた場所は、


 最高裁判所ではありません。


 市役所の会議室でした。


 しかも、


 判決は出ていません。


 裁判すらしていません。


 行政が、


 ここから先へ進むと危ない。


 そう判断して、


 自分で戻った。


「憲法って」


 私は言いました。


「裁判で勝つためだけにあるんじゃないんですね」


「当たり前だ」


 また相馬先輩です。


「憲法違反になるまで役所を走らせて、裁判で止めるより」


「その前に止めたほうがいい」


「そういうことだ」


 なるほど。


 最高法規。


 最後の砦。


 でも。


 砦は、


 攻め込まれてからしか役に立たないわけではない。


 そこに砦があるから、


 攻める側が止まることもある。


 私はノートを最初から見直しました。


 憲法二十三条。


 学問の自由は、これを保障する。


 内容。


 一、学問研究の自由。


 二、研究発表の自由。


 三、教授の自由。


 そして。


 学問の自由を制度的に支える、


 大学の自治。


 大学の人事。


 施設。


 学生管理。


 内部行政について、


 大学の自主性を尊重する。


 ただし。


 無制限ではない。


 大学内で行われた活動なら何でも大学の自治で守られるわけではない。


 東大ポポロ事件。


 実社会の政治的・社会的活動であり、


 公開の集会またはそれに準じるものについては、


 大学の学問の自由と自治の保障が当然に及ぶわけではない。


 そして教授の自由。


 大学では重要な保障。


 一方、


 普通教育。


 小中高校。


 旭川学力テスト事件。


 教師にも一定範囲の教授の自由はある。


 しかし、


 教育の機会均等。


 全国的な教育水準確保。


 そうした要請から、


 完全な教授の自由は認められない。


「……結構あるなあ」


 私は呟きました。


「二十三条、一行なのに」


「まだ言ってんのか」


「一行からこんなに増えるとは思わないでしょう」


「法律なんてそんなもんだ」


 相馬先輩が言います。


「書いてねえところで揉めるから裁判になる」


 なるほど。


 ちょっと名言っぽい。


「先輩、それノートに書いていいです?」


「やめろ」


「何で」


「恥ずかしい」


「恥ずかしいんだ」


「うるせえ」


 でも。


 まだ一つ、


 引っかかっています。


「所長」


「何だ」


「日本国憲法って、本当に不思議ですね」


「何がだ」


「私がいた時代と、条文が同じなんです」


「また未来の話か」


 相馬先輩が呆れます。


 でも。


 ここは本当に重要です。


「二十三条だけじゃありません」


 私は言いました。


「憲法そのものが、一字一句変わってない」


「そうなのか」


「はい」


「じゃあ未来も『学問の自由は、これを保障する』?」


「まったく同じです」


「楽でいいな」


「暗記だけなら」


 でも。


 昨日の事件を見れば分かります。


 条文が同じだから、


 社会も同じ。


 ではない。


「昭和六十三年では」


 私は言いました。


「『地元が嫌がる』って、今よりずっと重い理由なんですよね」


 町内会。


 地域の有力者。


 昔からの付き合い。


 家と家。


 世間体。


 地元の和。


 役所だって、


 そこから自由ではない。


「今だって同じだろ」


 相馬先輩が言いました。


「あります。でも」


 私は少し考えました。


「未来では、『みんなが嫌がるから』だけじゃ、人権を制限する説明として足りない、という感覚がもっと強くなる」


「へえ」


「少なくとも、役所が権利を制限するときは」


 目的は何か。


 手段は本当に必要か。


 範囲が広すぎないか。


 別の方法はないか。


 そういう説明を、


 より厳しく求められる。


「じゃあ憲法が変わったんじゃなくて」


 相馬先輩が言いました。


「読み方が育った?」


 私は止まりました。


「……それです」


「何が」


「今の、すごくいい」


「そうか?」


「憲法の読み方が育った」


 条文は変わらない。


 でも。


 社会が変わる。


 事件が起きる。


 判例が積み重なる。


 人権感覚も変わる。


 その中で、


 同じ一行が、


 より細かく読まれていく。


「だから」


 私は言いました。


「昭和だから人権がなかった、じゃないんですよね」


「当たり前だ」


「二十三条はもうある」


「ある」


「判例もある」


「ある」


「でも現場では、まだ『世間』の力が強い」


「そういうことだ」


 そこで。


 片桐所長が静かに言いました。


「勘違いするな」


「はい」


「昔の人間が全員、人権を軽く見ているわけじゃない」


「……はい」


「今の人間が全員、憲法を正しく理解しているわけでもない」


「はい」


「時代だけで人を切るな」


 私は少し恥ずかしくなりました。


「そうですね」


 昭和だから遅れている。


 現代だから進んでいる。


 そんな単純な話ではありません。


 旭川学力テスト事件は、


 もう昭和五十一年。


 東大ポポロ事件は、


 昭和三十八年。


 私が生まれるよりずっと前に、


 学問の自由について、


 最高裁は難しい線引きをしていた。


「条文が変わらなくても」


 所長が言います。


「現場でどう使うかは、人間次第だ」


 その言葉を、


 私はノートの端に小さく書きました。


 そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『総務課の沢渡です』


「課長」


 思わず背筋が伸びます。


『水野さんの公民館利用についてですが』


「何かありました?」


『問題なく終了したと報告を受けました』


「あ、はい」


『騒ぎもありませんでした』


「でしょうね」


『……朝比奈さん』


「はい」


『その言い方は少し腹が立ちますね』


「すみません」


 でも、


 ちょっとだけ勝った気分です。


『それと』


「はい」


『公民館の利用審査について、内部の運用を整理することになりました』


「運用?」


『利用内容に関する抽象的な苦情や反対意見だけで、申請を事前に断念させるような対応は避ける』


 私は黙りました。


『具体的な施設管理上の支障がある場合は、その内容を整理した上で判断する』


「……それって」


『今回の意見書を参考にした部分はあります』


「課長」


『何でしょう』


「ありがとうございます」


 少し間。


『礼を言われることではありません』


「でも」


『市として合理的な運用に直しただけです』


 沢渡課長らしい。


「じゃあ、一つだけ」


『何ですか』


「地元の和は?」


 電話の向こうで、


 長い沈黙。


『大切ですよ』


「ですよね」


『ただし』


 沢渡課長が言いました。


『憲法より上ではありません』


 私は笑いました。


「はい」


『では』


 電話が切れました。


「何だって?」


 相馬先輩が聞きます。


「公民館の運用、見直すそうです」


「へえ」


「抽象的な苦情だけで事前に諦めさせないようにするって」


「最初からそうしろ」


「先輩、そればっかり」


 片桐所長は何も言いません。


 ただ、


 少しだけ頷きました。


 私はノートの最後のページを開きました。


「さて」


「何だ」


「一行の覚え書きです」


「また長くなるんだろ」


「今日は本当に一行にします」


 学問研究の自由。


 研究発表の自由。


 教授の自由。


 大学の自治。


 旭川学力テスト事件。


 東大ポポロ事件。


 公共の福祉。


 目的と手段。


 時代が変わっても変わらない条文。


 でも、


 少しずつ育っていく人権感覚。


 全部を一行に。


 私はしばらく考えて。


 書きました。


 ――学問の自由は、「何を考えるか」を世間の多数決から守る自由。


「どうです?」


 相馬先輩が覗き込みます。


「研究発表と教授が抜けてる」


「一行に全部入るわけないでしょう!」


「じゃあ駄目じゃねえか」


「意味ですよ、意味!」


 消す。


 もう一度。


 ――学問は、研究し、発表し、教える自由。大学の自治は、その自由を守る盾。


「判例は?」


「もう!」


 消す。


 また考える。


「試験向けなら」


 私は言いました。


「もっと直接的にします」


 そして。


 今度こそ書きました。


 ――二十三条は「研究・発表・教授」を守り、大学の自治で学問の自主性を支える。


「おお」


「どうです?」


「普通だな」


「普通でいいんです!」


 試験前日のノートに、


 文学性はいりません。


 でも。


 その下に。


 私は小さく、


 もう一行だけ書き足しました。


 ――「みんなが嫌がる」は、学問を黙らせる理由にならない。


 相馬先輩がそれを見ました。


「二行になったぞ」


「こっちは現場用です」


「都合いいな」


「一行の覚え書きが二種類あるんです」


「それを二行って言うんだよ」


 うるさい。


 窓の外は、


 すっかり暗くなっていました。


 昨日まで。


 私は憲法二十三条を、


 試験で取りこぼしてはいけない短い条文、


 くらいに思っていました。


 学問の自由。


 研究。


 発表。


 教授。


 大学の自治。


 判例。


 暗記する。


 正誤問題を解く。


 それだけ。


 でも。


 今は少し違います。


 四十年以上前の冬。


 まだ暗いうちに家を出て、


 霜の降りた道を歩いて、


 軍需工場へ向かった人がいる。


 その記憶を、


 聞きたい人がいる。


 記録したい人がいる。


 研究したい人がいる。


 そして、


 知りたくない人もいる。


 掘り返してほしくない人もいる。


 町が揉めるのを嫌がる人もいる。


 だからこそ。


 どちらが多数派かで、


 研究していいかどうかを決めてはいけない。


 学問というものは、


 今いる人たちが聞きたいことだけを調べる仕事ではないから。


 都合の悪い問い。


 不愉快な問い。


 答えがまだ分からない問い。


 そんなものまで、


 問いとして残す。


 そのために。


 学問の自由は、これを保障する。


 たった一行がある。


 昭和六十三年にも。


 未来にも。


 同じ一行が。


「こはる」


「はい」


「終わったなら帰れ」


 片桐所長が言いました。


「はい」


 私はノートを閉じます。


 その瞬間。


 相馬先輩が私のノートを取ろうとしました。


「ちょっと!」


「何だ」


「勝手に見ないでください」


「学問研究の自由だ」


「それは他人のノートを覗く自由じゃありません!」


「研究対象だ」


「何の研究ですか!」


「行政書士受験生が、何回同じところを間違えるか」


「やめてください!」


 私はノートを取り返しました。


「研究発表もする」


「どこで!?」


「事務所内」


「プライバシー侵害です!」


「じゃあ教授の自由で、お前に教えてやる」


「何をですか!」


「昨日間違えたところ」


「それは……」


 必要かもしれない。


「……お願いします」


「素直だな」


「試験は別です」


 相馬先輩が笑いました。


 片桐所長が電気を一つ消します。


「続きは明日にしろ」


「はい」


「学問の自由にも営業時間はある」


「それは憲法に書いてません」


「事務所の規則だ」


「憲法と規則なら憲法が上です!」


「なら残って勉強するか」


「帰ります」


「即答か」


 当然です。


 学問の自由が保障されていても。


 勉強し続ける体力までは、


 憲法二十三条は保障してくれません。


 私は鞄にノートをしまいました。


 最後のページには、


 二つの覚え書き。


 ――二十三条は「研究・発表・教授」を守り、大学の自治で学問の自主性を支える。


 そして。


 ――「みんなが嫌がる」は、学問を黙らせる理由にならない。


 試験で必要なのは、


 たぶん上。


 でも。


 昨日の公民館で聞いた、


 あのおばあさんの声を忘れないためには。


 私には、


 下の一行も必要でした。

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六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
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