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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈憲法 配点28点/300点〉 人権

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375/612

[憲法22条・職業選択の自由(消極目的規制と積極目的規制)]現場編 「近くに同じ店がありますから」の罠。命を守る規制と商売を守る規制――同じ距離制限でも憲法の答えが変わる

挿絵(By みてみん)

 店を開く自由がある。


 だからといって。


 どこに、何の店でも、好き勝手に開けるとは限りません。


 でも。


 役所が「駄目です」と言うなら。


 今度は役所のほうが、


 ――なぜ駄目なのか。


 を問われます。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


「薬局を開きたいんです」


 その日の相談者は、三十四歳の男性でした。


 名前は、


 宮下俊夫。


 白いワイシャツ。


 紺色のネクタイ。


 黒い革鞄。


 そして机の上には、


 一枚の地図。


「薬剤師さんですか?」


 私が聞くと、


「はい」


 宮下さんは頷きました。


「県立病院の近くの薬局で、十年働いています」


「独立ですか」


「そのつもりでした」


 でした。


 過去形。


 嫌な予感しかしません。


 宮下さんが地図を広げました。


 駅東口。


 古い商店街。


 魚屋。


 時計屋。


 洋品店。


 その外れに、


 赤鉛筆で丸がついています。


「ここです」


「新しい薬局の予定地?」


「はい」


 以前は乾物屋だった木造店舗。


 店主が高齢で廃業し、


 空いた建物を借りる話がまとまった。


 大家とも話した。


 内装業者にも見積もりを取った。


 宮下さんは、


 そこで自分の薬局を始めるつもりだった。


「でも、市役所で言われました」


「何をです?」


「近くに薬局があるから、やめたほうがいいって」


「……やめたほうがいい?」


「はい」


 私は少し眉を寄せました。


「許可を出さない、じゃなくて?」


「最初はそうでした」


 最初は。


 という言葉が、また嫌です。


「県の許可が必要なのは分かっています。だから事前に市の担当窓口にも相談したんです。そうしたら――」


 宮下さんは鞄からメモを出しました。


「既存の薬局から近すぎる」


「はい」


「地域の薬局の経営が不安定になる」


「はい」


「昔から商店街でやっている店との共存を考えてほしい」


「……はい?」


「最後に」


 宮下さんは少し苦笑しました。


「地元の和を乱すような出店は好ましくない、と」


 出ました。


 地元の和。


 最近、この町で法律相談をしていると、


 だいたい三日に一回は聞いている気がします。


 万能調味料か。


「それ、市役所が言ったんですか」


「商工関係の担当者です」


「正式な不許可処分は?」


「まだです」


「書面は?」


「ありません」


「じゃあ行政指導の段階ですね」


 私は言ってから、


 宮下さんの表情を見ました。


 あまり安心した顔ではありません。


「でも」


「はい」


「役所にそう言われたら、普通は怖いですよ」


 その一言で。


 私は黙りました。


 そうです。


 法律の教科書なら、


 行政指導に強制力はありません。


 従う義務はありません。


 嫌なら拒否できます。


 そう書いて終わる。


 でも現場では。


 これから許可を取ろうとしている人が、


 その役所から、


「やめたほうがいい」


 と言われる。


 それを、


「ただの行政指導だから無視します」


 と笑える人が、


 どれだけいるでしょう。


「しかも」


 宮下さんが続けました。


「商店街の人にも話が回っていました」


「え?」


「古くからの薬局を潰すつもりかって」


「誰がそんなことを」


「分かりません」


 地図の上。


 宮下さんの予定地から、


 二百メートルほど離れた場所。


 そこに、


 古くから営業している薬局がありました。


 藤岡薬局。


 三十年以上続く店。


「藤岡さんとは?」


「一度話しました」


「何て?」


「悪い人じゃないんです」


 宮下さんは言いました。


「ただ、『この町で商売するなら順番がある』って」


 順番。


「薬局を開く順番って何ですか」


「分かりません」


「ですよね」


「それで……」


 宮下さんが、


 少し俯きました。


「私も、もうやめようかと思って」


 そこまで黙っていた相馬先輩が、


 煙草を灰皿へ押しつけました。


「何でだ」


 ぶっきらぼう。


 宮下さんが顔を上げます。


「何でって」


「薬剤師なんだろ」


「はい」


「店借りる金も用意した」


「はい」


「十年働いた」


「はい」


「なら、何で役所に『地元が嫌がる』って言われただけで、お前の職業を役所に決めてもらうんだ」


 宮下さんは黙りました。


 相馬先輩は机に肘をつきます。


「世間の常識? 地元の和?」


 鼻で笑いました。


「俺たちが守ってんのは法律だ」


 来ました。


 特攻隊長。


「ただし」


 片桐所長が言いました。


「相馬」


「何だ」


「煽るな」


「煽ってねえ」


「煽ってる」


「本人がやりたいって言ってんだろ」


「それと許可が出るかは別だ」


 所長は宮下さんを見る。


「薬局は、誰でも勝手に開ける商売ではありません」


「はい」


「法令上の要件は満たす必要がある」


「分かっています」


「なら、まずそこを分けます」


 片桐所長が、


 机の上の紙を二つに分けました。


「法律上、許される規制」


 右。


「役所や地域が勝手に足している規制」


 左。


「この二つを混ぜない」


 私は、


 はっとしました。


 職業選択の自由。


 憲法二十二条一項。


 ――何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。


 現代と同じです。


 一字一句。


 同じ。


 しかも。


 薬局。


 距離。


 職業選択の自由。


 私の頭の中で、


 行政書士試験の憲法テキストが猛烈な勢いでページをめくり始めました。


「……あ」


「何だ」


 相馬先輩が言います。


「あります」


「何が」


「判例」


「何の」


「薬局です」


 私は立ち上がりました。


「薬局の距離制限!」


 事務所中が静かになりました。


 宮下さんまで、


 ちょっと引いています。


「すみません」


 座りました。


 受験生、


 知っている判例が実物になって現れるとテンションがおかしくなります。


「昭和五十年」


 私は言いました。


「最高裁大法廷」


 薬事法距離制限事件。


 薬局の開設許可について。


 既存の薬局などとの距離を基準に配置規制をすることが、


 職業選択の自由との関係で争われた事件。


 そして。


 最高裁は、


 距離制限を違憲としました。


「違憲?」


 宮下さんが聞きます。


「はい」


「薬局の距離制限が?」


「はい。ただし」


 私は一度止まりました。


 危ない。


 ここを雑に言ったら駄目です。


 距離制限は全部違憲。


 そんな話ではありません。


「重要なのは」


 片桐所長が言いました。


「何のために規制するかだ」


 私は頷きました。


「はい」


 何のために。


 そこです。


 市役所二階。


 商工関係の窓口。


 そして。


 またいました。


「最近、よく会いますね」


 沢渡課長。


 灰色の背広。


 細い眼鏡。


 今日も、


 こちらの主張を三手先まで読んでいそうな顔です。


「課長、薬局まで担当なんですか」


「庁内調整です」


「便利ですね」


「朝比奈さんほどではありません」


「どういう意味です?」


「毎回違う法律を持ってくる」


 否定できない。


 行政書士受験生ですから。


 片桐所長が宮下さんの相談内容を説明しました。


 沢渡課長は、


 途中で遮りませんでした。


 全部聞いたあと。


「正式な不許可処分は出していません」


 まず、


 そこから来ました。


「分かってる」


 相馬先輩。


「では問題はありません」


「ある」


「行政指導です」


「行政指導なら何言ってもいいのか」


「そうは言っていません」


 沢渡課長は冷静です。


「市としては、地域の商業環境を踏まえ、円満な出店をお願いしているだけです」


「円満」


「はい」


「既存店が反対したら?」


「調整をお願いする」


「調整できなかったら?」


「慎重に考えていただく」


「それ、実質的に出店断念を迫ってんじゃねえか」


「受け取り方の問題でしょう」


 強い。


 言葉の選び方が強い。


 私は口を挟みました。


「課長」


「何でしょう」


「理由は、既存薬局との距離ですか」


「それだけではありません」


「じゃあ何です?」


「地域医療の安定」


「はい」


「既存薬局との過当競争の防止」


「はい」


「商店街の秩序」


「はい」


「住民の利便性」


「はい」


「そして地域の理解です」


 全部それっぽい。


 だから厄介です。


 露骨に、


「昔からいる薬局を守りたいだけです」


 と言ってくれれば簡単なのに。


 行政はそんな馬鹿な言い方をしません。


「公共の福祉に反する営業は、当然、一定の制約を受けます」


 沢渡課長が言いました。


 公共の福祉。


 来ました。


 憲法二十二条自身に書いてある言葉。


 職業選択の自由は、


 無制限ではない。


 医師。


 薬剤師。


 パイロット。


 危険物を扱う仕事。


 誰でも自由にやらせたら、


 人の命や健康に危険が出る。


 だから資格や許可で規制する。


 そこまでは分かります。


 でも。


「課長」


 私は聞きました。


「今言った目的、全部同じ種類ですか」


「どういう意味でしょう」


「国民の生命や健康を守るための規制と」


 私は一度息を吸います。


「既存の商売を過当競争から守るための規制」


 沢渡課長の目が、


 少しだけ細くなりました。


「同じ『公共の福祉』でも、目的が違いますよね」


 沈黙。


 相馬先輩が、


 ちらりと私を見る。


 私は続けました。


「薬局に資格や設備基準を要求する」


 薬剤師がいる。


 必要な設備がある。


 医薬品を適切に管理する。


 これは、


 国民の生命や健康を守るため。


「でも」


 地図を広げます。


「近くに既存薬局があるから、新しい薬局を入れない」


 これは、


 別の話です。


「既存業者の経営を守る」


「地域の医薬品供給体制を維持するためです」


 沢渡課長が即座に返しました。


「薬局が過当競争で共倒れすれば、結果として住民が不利益を受けます」


 う。


 ちゃんと返してくる。


 この人、


 絶対に雑魚役になってくれません。


「じゃあ」


 私は言いました。


「距離制限がなければ、本当に薬局が共倒れして、住民の健康が危険になるんですか」


「可能性はあります」


「可能性だけで、職業を始める自由を止めます?」


「経済政策には予測が必要です」


 そこへ。


 片桐所長が、


 静かに一枚の紙を机へ置きました。


「課長」


「はい」


「薬事法距離制限事件は知ってるな」


 沢渡課長が、


 一秒だけ黙りました。


「もちろんです」


 ですよね。


 知ってますよね。


 昭和五十年の最高裁判決。


 今から十三年前。


 この時代でも、


 すでに存在する判例です。


「なら話は早い」


 所長が言いました。


「薬局開設の距離規制を、国民の生命や健康を守るためだと言うなら」


 指先で、


 机を一度叩く。


「その手段が本当に必要なのかを詰めろ」


 沢渡課長は黙っています。


「設備を確認する」


「……」


「薬剤師の資格を確認する」


「……」


「医薬品の管理体制を確認する」


「……」


「それで危険を防げるなら」


 所長の声は静かでした。


「なぜ、既存店から何メートル離れているかまで必要になる」


 私は、


 あの判例の意味が、


 急に現場の形になった気がしました。


 消極目的規制。


 国民の生命や健康に対する危険を、


 防止する。


 除去する。


 緩和する。


 そのための規制。


 人の自由を止めるのだから、


 本当に必要な規制か。


 もっと自由を制限しない方法では駄目なのか。


 そこを厳しく見る。


「資格や設備の審査で安全を確保できるなら」


 私は言いました。


「距離まで規制するのは、やりすぎになる可能性がある」


「……」


「だから最高裁は、薬局の距離制限について、必要かつ合理的な規制とはいえないとした」


 沢渡課長は眼鏡を直しました。


「しかし」


 来ます。


「小売市場の距離制限については、最高裁は合憲としていますね」


 うわ。


 そっちも来た。


 相馬先輩が小声で聞きます。


「何だそれ」


「別の判例です」


「結論逆じゃねえか」


「そうなんです」


「距離制限は違憲なのか合憲なのか、どっちだ」


「だから目的を見るんです!」


 思わず声が大きくなりました。


 沢渡課長の口元が、


 ほんの少し動きました。


 笑いましたね。


 絶対。


「小売市場距離制限事件」


 私は言いました。


「昭和四十七年の最高裁大法廷判決です」


 小売市場の乱立。


 過当競争。


 小売商の共倒れ。


 それを防ぎ、


 経済的に弱い立場の小売商を保護する。


 こちらは、


 社会経済政策としての規制。


 いわゆる、


 積極目的規制。


「政策として経済的弱者を保護する場合は」


 私は言いました。


「立法府の政策判断を尊重する余地が大きい」


「だから審査が緩やかになる」


 沢渡課長が答えます。


「はい」


 やっぱり知ってる。


 完全に分かってて投げてきましたね。


「著しく不合理であることが明白でない限り、裁判所は政策判断を尊重する」


「その整理なら」


 沢渡課長が言います。


「既存薬局を過当競争から守るという目的なら、積極目的規制として説明する余地もあるのでは?」


「あります」


 私は答えました。


 ここで、


「ありません!」


 と勢いで言ったら負けます。


「でも」


 私は地図を指しました。


「市には、その距離制限を定めた法令がありますか」


 沈黙。


「条例は?」


「……ありません」


「規則は?」


「ありません」


「許可基準は?」


「市にはありません」


「じゃあ」


 相馬先輩が割り込みました。


「何を根拠に宮下さんへ出店をやめろって言った」


「やめろとは言っていません」


「慎重に考えろ、だろ」


「行政指導です」


「その行政指導で、憲法上の自由を実質的に諦めさせようとしてる」


「相馬」


 所長が止めました。


「感情で押すな」


「分かってる」


 所長は沢渡課長を見る。


「問題は二つだ」


「伺います」


「一つ」


 所長が指を立てました。


「宮下さんの開業について、法令上必要な資格、設備、安全上の基準を満たしているか」


「はい」


「これは審査すればいい」


「異論ありません」


「二つ」


 二本目。


「既存薬局との競争や地元の反対を理由に、法令にない参入障壁を行政指導で作っていいか」


 沢渡課長は、


 答えませんでした。


「公共の福祉は」


 所長が言いました。


「役所が好きな規制を足すための言葉じゃない」


 静かな声。


 だからこそ、


 重かった。


 事務所へ戻ったあと。


 私は判例集と六法を机いっぱいに広げました。


「うー……」


「うるせえ」


 相馬先輩。


「難しいんですよ」


「何が」


「同じ距離制限なのに」


 薬局。


 違憲。


 小売市場。


 合憲。


「受験生のころ、ここ嫌いでした」


「今も受験生だろ」


「そうでした」


「で?」


「距離制限っていう手段だけ覚えたら駄目なんです」


「今日やったな」


「はい」


 何のための規制か。


 そこを見る。


 生命。


 健康。


 安全。


 危険防止。


 消極目的規制。


 一方。


 経済の調和。


 弱者保護。


 過当競争防止。


 積極目的規制。


 そして。


 目的によって、


 裁判所がどこまで厳しくチェックするかも変わる。


「でも」


 私は鉛筆を止めました。


「今回、市役所は両方混ぜてきました」


「健康と、既存店保護か」


「はい」


「便利だな」


「便利すぎます」


 住民の健康のため。


 既存薬局の経営安定のため。


 地域医療のため。


 地元の和のため。


 全部を一袋に入れて、


「公共の福祉」


 と書けば。


 何となく立派な理由に見える。


 でも。


 憲法論では、


 そこで終わらない。


「分解するんです」


「何を」


「理由を」


 命を守るためなら。


 本当にその規制が必要なのか。


 資格や設備基準では足りないのか。


 距離制限まで必要なのか。


 弱者保護の経済政策なら。


 本当にそういう政策が法令として採用されているのか。


 行政が勝手に、


「昔からの店を守ります」


 という新しい参入規制を作っていないか。


「今回、市は法律じゃなくて行政指導でやろうとした」


「そういうことだな」


「しかも地元の和まで混ぜた」


「昭和だからな」


 相馬先輩が煙草に火をつけます。


「昭和って言葉で全部片づけないでください」


「でも実際、商店街じゃ古株の顔はでけえぞ」


「それは分かります」


 現代でも、


 地域の人間関係はあります。


 昔からの店。


 町内会。


 商店会。


 付き合い。


 でも。


 昭和六十三年。


 この町では、


 その空気が、


 役所の判断にまで入り込んでくる。


 条文は、


 未来と同じなのに。


「……本当に不思議」


「何が」


「憲法二十二条、一字一句変わってないんですよ」


「ああ」


「未来でも同じ」


「また未来か」


「でも、社会の空気は全然違う」


 地元と揉めるな。


 昔からの店を立てろ。


 商店街には商店街の順番がある。


 そういうものが、


 昭和では、


 法律とは別の巨大な壁になっている。


「だから」


 私は言いました。


「憲法が必要なんですね」


 相馬先輩が煙を吐きます。


「今さら気づいたのか」


「前は」


 私は正直に言いました。


「憲法なんて実務で使わないと思ってました」


「馬鹿だな」


「言い方」


「毎日抜くもんじゃねえだけだ」


 奥から片桐所長の声。


「所長」


「憲法論を何でも振り回す行政書士は三流だ」


「はい」


「だが」


 所長がこちらを見ました。


「行政が、法律にない壁を作って個人の職業を止めるなら」


 一拍。


「抜け」


 伝家の宝刀。


 それです。


 翌日。


 私たちは意見書を作りました。


 題名は、


 宮下俊夫氏の薬局開設に関する行政指導についての意見書。


 最初に。


 宮下さんが薬剤師資格を有していること。


 開設予定場所。


 予定する設備。


 必要な法令上の許可申請を適正に行う意思があること。


 そこを整理しました。


 次。


 憲法二十二条一項。


 職業選択の自由。


 それは、


 職業を選ぶだけの自由ではない。


 選んだ職業を実際に行う自由。


 営業の自由も含む。


「選ぶだけ自由で、始めるのは禁止」


 私は書きながら言いました。


「それじゃ意味ないですもんね」


「当たり前だ」


 相馬先輩。


「薬剤師になっていい。でも薬局は開くな、じゃ職業選択の自由が空っぽになります」


「だから営業の自由まで含む」


「はい」


 次。


 規制目的。


 生命・健康への危険防止を理由とするなら、


 薬事法距離制限事件の考え方。


 必要かつ合理的な規制か。


 より制限的でない手段で目的を達成できないか。


 資格。


 設備。


 管理体制。


 そうした方法で安全を確保できるなら、


 既存薬局との距離だけを理由に新規開業を抑える合理性は乏しい。


 そして。


 既存店の過当競争防止、


 経済的弱者保護を理由とするなら。


 小売市場距離制限事件のように、


 社会経済政策として立法府に広い裁量が認められる領域はある。


 しかし。


「ここ」


 片桐所長が言いました。


「強く書け」


「はい」


 私は書きました。


 ――本件では、市の条例その他の法令に、既存薬局との距離または既存事業者の同意を新規開業の要件とする規定は存在しない。


 つまり。


 積極目的規制なら何でも行政が勝手に作れる。


 わけではない。


 裁判所が立法府の政策判断を尊重する。


 という話と。


 市役所の窓口が法令にない参入規制を作る。


 という話は、


 まったく別です。


 さらに。


 地元の和。


 商店街の理解。


 昔からの商慣習。


「これ」


 私はペンを止めました。


「どう書きます?」


「そのまま書け」


 相馬先輩。


「そのまま?」


「憲法上の職業選択の自由を制約する独立の根拠にはならない」


「おお」


「何だ」


「綺麗」


「馬鹿にしてんのか」


「してません」


 そのまま採用しました。


 最後。


 行政指導。


 形式上は任意でも。


 将来の許可権限を背景に、


 申請者へ事実上の断念を迫れば、


 職業選択の自由を不当に萎縮させる。


 したがって。


 法令上の要件に基づき、


 宮下さんの申請を適正に審査すること。


 法令上の根拠のない、


 既存業者との距離。


 既存業者の了解。


 地元の同意。


 それらを事実上の開設要件として扱わないこと。


 完成。


 相馬先輩が読みます。


「長え」


「憲法ですから」


「憲法は短いぞ」


「意見書ですから!」


 片桐所長が赤鉛筆を持ちました。


「削る」


「どこをです?」


「半分」


「半分!?」


「役人は忙しい」


「私の渾身の違憲審査基準が!」


「読まれなければ紙くずだ」


 実務、


 憲法より厳しい。


 三日後。


 市役所。


 沢渡課長は、


 完成した意見書を最後まで読みました。


 赤鉛筆によって半分にされた、


 精鋭部隊です。


「……なるほど」


 紙を机へ置く。


「市として、薬局の距離制限を新たに設けた認識はありません」


「なら」


 相馬先輩が言います。


「宮下さんにもそう説明してくれ」


「担当者の表現には、適切でない部分があったと思います」


 お。


 来た。


「地元の理解を得ること自体は、円滑な営業のために有益です」


「それは本人が判断する話だ」


「ええ」


 沢渡課長は頷きました。


「法令上の開設要件とは別です」


 宮下さんが、


 隣で小さく息を呑みました。


「今後は」


 沢渡課長が続けます。


「必要な許可については、法令上の基準に従って判断します」


「既存薬局との距離は?」


「市独自の要件とはしません」


「商店街の同意は?」


「要件とはしません」


「地元の和は?」


 相馬先輩。


「相馬」


 所長が止めます。


「そこまで煽るな」


「確認だ」


 沢渡課長は、


 少しだけ苦笑しました。


「法令上の要件ではありません」


 勝った。


 そう思いかけて。


 私は、


 すぐ自分を止めました。


 違う。


 私たちは、


 薬局の開設許可を出したわけではありません。


 行政書士にそんな権限はない。


 裁判で違憲判決を取ったわけでもない。


 宮下さんが、


 必ず薬局を開けると決まったわけでもない。


 これから正式な申請。


 法令上の要件審査。


 設備確認。


 必要な手続。


 全部残っています。


 ただ。


 ひとつだけ。


 法律に書かれていない壁が、


 消えた。


「朝比奈さん」


 沢渡課長が言いました。


「はい」


「一つだけ」


「何でしょう」


「今日の意見書」


「はい」


「消極目的規制と積極目的規制の区別は、あまり機械的に使わないほうがいい」


 私は固まりました。


「え」


「現実の規制目的は、一つとは限りません」


「……はい」


「公衆浴場のように、衛生確保と経営安定の双方が問題になるものもあります」


 う。


 未来の判例知識が、


 頭の中で反応しました。


 公衆浴場距離制限。


 国民保健と衛生。


 そして、


 自宅に風呂を持たない人のための厚生施設としての維持。


 消極目的。


 積極目的。


 両方。


「目的を一つの箱に押し込めて満足しないことです」


 沢渡課長が言いました。


「規制の実態を見る」


「……はい」


「それが憲法論でしょう」


 私は、


 しばらく黙ってから。


「課長」


「何でしょう」


「やっぱり先生側ですよね?」


「行政側です」


「ですよね」


 手強い。


 でも。


 だから面白い。


 二か月後。


 片桐行政書士事務所の扉が開きました。


「こんにちは」


 宮下さんでした。


 顔が、


 前より明るい。


「どうしたんです?」


「これ」


 差し出されたのは、


 一枚の紙。


 開設に向けた手続が進み、


 必要な許可も整ったという報告でした。


「じゃあ」


「来月、開店します」


「本当に?」


「はい」


 私は思わず立ち上がりました。


「やった!」


「お前が開くんじゃねえ」


 相馬先輩が言います。


「でも嬉しいじゃないですか」


「まあな」


 宮下さんが笑いました。


「藤岡薬局さんにも挨拶に行きました」


「え」


「大丈夫でした?」


「最初は嫌な顔されました」


「ですよね」


「でも、話してみたら」


 宮下さんは少し笑います。


「向こうは高齢者向けの配達を増やしたい。私は病院勤務が長かったので、薬の相談をもっと丁寧にやりたい」


「はい」


「同じ薬局でも、やりたいことが少し違ったんです」


「じゃあ」


「今は、『まあ、お互い潰れない程度にやろう』って」


 相馬先輩が吹き出しました。


「商売人らしい和解だな」


「地元の和ですね」


 私が言うと、


 全員がこちらを見ました。


「違います?」


「役所に強制されて作るもんじゃねえだろ」


 相馬先輩が言いました。


 そう。


 それです。


 和。


 協調。


 地域との付き合い。


 それ自体が悪いわけではありません。


 むしろ、


 大切なこともある。


 でも。


 誰かに、


 「自由を諦めろ」


 と迫って作る和は。


 たぶん、


 本当の和ではない。


「これ」


 宮下さんが紙袋を置きました。


「開店の挨拶で配るタオルです」


「薬じゃないんですね」


「薬を配ったら怒られます」


「確かに」


「一本どうぞ」


 相馬先輩が袋を覗きます。


「食い物じゃねえのか」


「先輩、毎回それ言うんですか」


「差し入れってのはな」


「はいはい」


 片桐所長が、


 タオルを一本取りました。


 白い布に、


 青い文字。


 ――宮下薬局。


「所長」


「何だ」


「店の名前、そのままなんですね」


「いいだろ」


「もっとこう、ひまわり薬局とか」


「余計なお世話だ」


 宮下さんが笑いました。


「実は考えたんですけどね」


「考えたんだ」


 笑い声が、


 事務所に広がりました。


 私は、


 机の上の六法を見ました。


 憲法二十二条。


 昭和六十三年。


 条文は、


 未来と一字一句同じです。


 何人も、


 公共の福祉に反しない限り、


 職業選択の自由を有する。


 たったそれだけ。


 でも。


 現場に来ると、


 その一行の周りには、


 いろんなものがまとわりつきます。


 命を守るため。


 健康を守るため。


 弱い商売人を守るため。


 地域経済を守るため。


 昔からの店を守るため。


 地元の和を守るため。


 全部、


 「守る」


 という言葉を使えます。


 だから。


 難しい。


 誰かを守るための規制が、


 別の誰かの自由を奪うことがある。


 そして。


 同じ距離制限でも。


 何のために。


 どこまで。


 なぜ必要なのか。


 それによって、


 憲法の答えまで変わる。


 私は昔、


 消極目的規制。


 積極目的規制。


 そんなものは、


 試験問題を解くための分類だと思っていました。


 違いました。


 あれは。


 役所が、


「公共の福祉です」


 と大きな袋を出してきたとき。


 その袋を開けて、


 中身を一つずつ確かめるための道具だったのです。


「朝比奈さん」


 帰り際。


 宮下さんが振り返りました。


「はい」


「ありがとうございました」


「いえ」


 私は少し迷ってから言いました。


「まだ始まったばかりですよ」


「え?」


「薬局」


「ああ」


「開く自由を守っても、商売が成功する保証までは憲法にありませんから」


 一瞬。


 宮下さんが固まりました。


 相馬先輩が笑います。


「こいつ、最後にひでえこと言いやがった」


「違いますよ!」


「いや」


 宮下さんも笑いました。


「その通りです」


 扉を開けます。


「そこから先は、自分で頑張ります」


 外には、


 夕方の商店街。


 古い店。


 新しい店。


 シャッターの下りた店。


 これから開く店。


 いろんな看板が並んでいます。


 どの商売も、


 永遠に守られるわけではありません。


 新しい人が来る。


 競争する。


 失敗することもある。


 誰かを守るために、


 一定の規制が必要なこともある。


 でも。


 少なくとも。


 役所が、


 法律にもない「昔からそうだから」を持ち出して、


 最初から挑戦する席を取り上げていいわけではない。


 片桐所長が言いました。


「こはる」


「はい」


「今日の教訓は」


 私は少し考えました。


 そして。


「『公共の福祉』って言われたら、まず目的を聞け」


 相馬先輩が頷きます。


「その次は?」


「その手段、本当に必要ですかって聞く」


「その次」


「法律に根拠がありますかって聞く」


「上出来だ」


「三つになっちゃいました」


「一つにしろ」


「無茶ですよ」


 私は笑いました。


 それから、


 机の端のメモ帳に一行だけ書きました。


 ――自由を止めるなら、「何のために、なぜそこまで」が要る。


 宮下薬局の白いタオルが、


 夕暮れの事務所の机に置かれていました。


 まだ一度も使われていない、


 まっさらなタオル。


 それは少しだけ。


 これから始まる商売に似ていました。

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