[憲法22条・居住移転の自由、海外渡航の自由、国籍離脱の自由]法理編 こはるノート
自由というものは。
近所へ引っ越すところから、国を出るところまで続いています。
夕方。
片桐行政書士事務所。
私は机の上に、小さな紙袋を置いていました。
高瀬さんの奥さんにもらった台湾のお茶。
その横には、お菓子。
「先輩」
「何だ」
「お茶、淹れます?」
「菓子は」
「あります」
「なら飲む」
「判断基準が一貫してますね」
「茶だけ飲んで腹が膨れるか」
「お茶に何を求めてるんですか」
相馬先輩が紙袋から菓子を一つ取ります。
私は湯呑みにお茶を注いでから、自分の机へ戻りました。
目の前にはノート。
今日の見出しは、
――憲法第二十二条。
です。
現代で行政書士試験の勉強をしていたころ。
私は二十二条を、
わりと地味な条文だと思っていました。
居住・移転の自由。
職業選択の自由。
外国移住の自由。
国籍離脱の自由。
はいはい。
覚えます。
次。
そんな感じ。
でも。
高瀬さんが、
「この町には住まないでくれ」
と言われた事件を経験したあとでは。
もう、
ただの暗記項目には見えません。
「では復習します」
「勝手にしろ」
「参加してください」
「嫌だ」
「所長」
「付き合え」
奥から片桐所長。
「毎回この流れですね」
「毎回お前が俺を巻き込むからだろ」
相馬先輩が煙草に火をつけました。
私はノートの一番上に書きます。
憲法二十二条第一項。
――何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
「まず」
私は『居住・移転』に丸をつけました。
「居住・移転の自由って何です?」
「好きなところに住む自由」
相馬先輩。
「雑です」
「合ってんだろ」
「合ってますけど」
もう少し法律っぽく書きます。
自己の住所または居所を自由に決定すること。
そして、
自由に移動すること。
これが、
居住・移転の自由。
「高瀬さんの件なら」
私は言いました。
「東京からこの町へ引っ越して、祖父の家に住む」
「ああ」
「どこに住むかを本人が決める」
「そうだ」
「だから市役所や地域住民が、勝手に『ここには住むな』と決めることはできない」
「原則はな」
所長が言いました。
原則。
大事な言葉です。
「でも」
私は続けました。
「住む自由があるからって、何でもできるわけじゃない」
「昨日やっただろ」
「はい」
たとえば。
危険な建物に住む。
違法な用途で建物を使う。
周囲に深刻な騒音を出す。
他人の土地へ勝手に住みつく。
そういうことまで、
「居住の自由だ!」
で通るわけではありません。
「二十二条にも書いてあります」
私は指でなぞります。
――公共の福祉に反しない限り。
「問題はここですね」
「ああ」
相馬先輩が煙を吐きました。
「昨日、市役所も使ってた言葉だな」
「公共の福祉」
便利な言葉です。
便利すぎて、
危ない言葉でもあります。
地域の和。
秩序。
昔からの慣習。
近所が嫌がっている。
そういうものを全部まとめて、
「公共の福祉です」
と言ってしまえば。
どんな自由でも簡単に潰せそうに見える。
でも。
「それじゃ駄目なんですよね」
「当然だ」
所長が言いました。
「公共の福祉は、役所に白紙委任状を渡す言葉じゃない」
私はそのままノートに書きました。
「それ、いいですね」
「試験答案にそのまま書くな」
「分かってます」
人権は、
無制限ではない。
他人の権利との調整が必要になる。
社会生活上、一定の制約が必要な場合もある。
でも。
人権を制約するなら、
なぜ制約するのか。
どの程度制約するのか。
その手段は必要なのか。
目的と手段が釣り合っているのか。
そこを考えなければならない。
「高瀬さんの件で市が守りたかったものは?」
所長が聞きます。
「地域の平穏」
「それだけか」
「住民同士の摩擦防止。地域秩序。そういうものです」
「目的自体は?」
「全部が全部、不当とは言えません」
「そうだ」
地域で紛争が起きないようにする。
生活環境を守る。
行政がそういうことを考えるのは、
別に悪くありません。
問題は。
そのために何をしたか。
「高瀬さんに」
私は言いました。
「地元の理解が得られるまで転入を待ってください、と求めた」
「期限は?」
「なし」
「具体的な危険は?」
「確認されていない」
「法令違反は?」
「なし」
「騒音は?」
「なし」
「建築上の問題は?」
「なし」
「それで?」
「近所の人が反対しているから、待ってください」
私はペンを置きました。
「やっぱり重いですね」
「何が」
「制約が」
住む。
ということは。
ただ寝る場所を決めるだけではありません。
仕事。
学校。
家族。
地域生活。
生活全部の土台です。
それを、
具体的な危険もない段階で止める。
しかも、
いつまでか分からない。
「目的が正当でも」
私はノートに書きました。
――手段まで正当とは限らない。
「ここですね」
「ああ」
所長が頷きます。
「人権問題では、目的だけ見て安心するな」
「手段も見る」
「そうだ」
地域の摩擦を減らしたい。
なら。
地域ルールを説明する。
自治会と話し合う場を作る。
ごみ出しなどの生活上の決まりを案内する。
具体的な騒音問題が起きたなら、その問題に対処する。
もっと自由を傷つけない方法がある。
それなのに、
住むことそのものを延期させる。
「だから私たちの意見書では」
私は言いました。
「目的と手段の関係を詰めた」
「そうだな」
「公共の福祉って書いてあるから制約できます、では終わらない」
「そこを覚えろ」
私は二重線を引きました。
――公共の福祉=世間の多数決ではない。
「これ、今回の一番大事なところかもしれません」
「だろうな」
そこで私は、
ふとペンを止めました。
「でも」
「何だ」
「条文は同じなんですよね」
所長がこちらを見る。
「何が」
「昭和六十三年と現代」
「ああ」
日本国憲法。
昭和二十一年十一月三日公布。
昭和二十二年五月三日施行。
そして。
昭和六十三年の今も。
私がいた現代も。
条文そのものは改正されていない。
「二十二条も、一字一句同じ」
「そうだ」
「なのに」
私は窓の外を見ました。
「同じ条文なのに、使った感じが全然違います」
高瀬さんの事件。
よそ者。
外国人の妻。
地域の和。
昔からの付き合い。
住民の理解。
現代なら、
「それを転入の条件にするの?」
と最初から強く疑われそうな話です。
でも昭和六十三年のこの町では。
「地元が嫌がってるなら仕方ない」
という空気が、
かなり強い。
「条文が変わってないなら」
相馬先輩が言いました。
「何が変わったんだ」
「人権感覚……ですかね」
「曖昧だな」
「ですよね」
私は考えます。
条文は変わらない。
でも。
社会が変わる。
価値観が変わる。
家族の形も変わる。
外国人との交流も増える。
個人の生き方に対する考え方も変わる。
そして。
人権をどう守るかという法律の議論も、
積み重なっていく。
「同じ『公共の福祉』でも」
私は言いました。
「昔なら、地域の和とか社会秩序って言われると、それだけで押し切られやすかった」
「うん」
「でも、人権を制限するなら、本当に必要なのか、手段は行き過ぎてないか、もっと狭い制限で済まないか、って細かく見るようになる」
「条文が育つわけか」
相馬先輩が言いました。
私は少し驚きました。
「いい言い方しますね」
「馬鹿にしてんのか」
「してません」
条文は同じ。
でも。
解釈。
判例。
社会の人権感覚。
それらが積み重なる。
だから、
同じ文字でも、
守られる自由の輪郭が少しずつ精密になる。
「憲法って」
私は言いました。
「改正されなくても、止まってるわけじゃないんですね」
「そういうことだ」
所長が答えました。
私はページをめくります。
「次」
「まだあるのか」
「二十二条は長いんですよ」
「二項だろ」
「はい」
私は書きました。
憲法二十二条第二項。
――何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。
「ここから海外です」
「急に距離が伸びたな」
「国内引っ越しから国境越えです」
二十二条一項。
居住。
移転。
職業選択。
二項。
外国移住。
国籍離脱。
こうして見ると、
人間が、
どこで暮らすのか。
どこへ行くのか。
どの国との関係で生きるのか。
かなり根っこの部分を保障している条文です。
「まず海外渡航の自由」
私は言いました。
「外国へ行く自由ですね」
「旅行もか」
「はい」
ここは大事です。
二十二条二項の文言は、
外国に移住する自由。
でも。
保障されるのは、
永久に外国へ引っ越す場合だけではありません。
一時的な海外旅行。
これも、
海外渡航の自由として保障されると解されています。
「つまり」
相馬先輩が言います。
「台湾へ茶を買いに行く自由」
「目的が小さい」
「旅行なんだから何でもいいだろ」
「まあ、そうですけど」
観光。
仕事。
留学。
親族訪問。
どんな目的であれ、
外国へ一時的に渡航する自由。
それも憲法上の保障と関係する。
「でも」
私は首を傾げました。
「二項って、『外国に移住し』ですよね」
「ああ」
「旅行って移住じゃないですよね」
「そうだな」
「なのに一時的な海外旅行も保障される?」
ここが、
条文の文字だけでは分からないところです。
外国に住所を移して生活する。
海外移住。
それだけでなく。
一時的に外国へ旅行する。
海外渡航。
これも憲法上保障される。
「試験では」
私は赤線を引きました。
――海外渡航の自由は二十二条二項。
「ここ、押さえます」
「何でそんなに嬉しそうなんだ」
「こういう条文から直接読みにくいところ、試験で怖いんですよ」
「受験生の発想だな」
「受験生ですから」
私はさらに書きます。
海外渡航の自由。
一時的な外国旅行。
海外移住の自由。
外国へ住所を移す。
「国内なら一項」
「ああ」
「国外なら二項」
「雑だが覚えやすいな」
「でしょう?」
そして。
もう一つ。
「国籍離脱の自由」
私はそこを丸で囲みました。
「日本国籍を離れる自由ですね」
「そうだ」
「つまり」
昨日。
帰り道で私が言いかけたこと。
日本国籍を捨てて、
どこの国の国籍も持たない。
「無国籍になる自由も――」
「ない」
片桐所長が即答しました。
「ですよね」
「昨日止めて正解だったな」
相馬先輩が笑います。
「危なかった」
私は大きく書きました。
――国籍離脱の自由に、無国籍になる自由までは含まれない。
重要。
「何でです?」
私は所長に聞きました。
「国籍を離脱する自由があるなら、完全にどこの国にも属さない自由まで認めてもよさそうですけど」
「国籍は権利だけじゃない」
「というと?」
「国家との法的な身分関係だ」
国籍がある。
それによって、
国家との間にさまざまな法律関係が生まれる。
それを本人の意思だけで、
何の受け皿もないまま消して、
無国籍になることまで憲法が保障している。
そうは解されていない。
「だから日本国籍を離脱するには」
私は整理します。
「外国の国籍を持っていることが必要」
「そうだ」
「どこかの国籍を取得している」
「ああ」
「そのうえで日本国籍を離脱する」
「そういうことだ」
私はノートに矢印を書きました。
日本国籍だけ。
↓
捨てる。
↓
無国籍。
これは、
二十二条二項が保障する自由ではない。
一方。
外国国籍あり。
↓
日本国籍を離脱。
これは国籍離脱の自由の問題になる。
「ここ」
私は言いました。
「名前だけ覚えると間違えますね」
「どういうことだ」
「『国籍離脱の自由』って聞くと、国籍から自由になれる感じがするじゃないですか」
「まあな」
「でも正確には、日本国籍を離脱して無国籍になる自由まで保障してるわけじゃない」
「そうだ」
「試験で『何人も無国籍となる自由を有する』とか出たら」
「×だな」
「はい」
大きなバツを書きました。
「気持ちいい」
「何が」
「肢を一個切れました」
「完全に受験生だな」
私は少しノートを眺めました。
一項。
居住・移転。
二項。
外国移住。
海外渡航。
国籍離脱。
「全部」
私は呟きました。
「自分がどこにいるか、なんですね」
相馬先輩がこちらを見る。
「何だそれ」
「自分の居場所を、自分で決める自由」
この町に住む。
別の町へ行く。
国内を旅行する。
外国へ旅行する。
外国へ移住する。
そして一定の条件のもとで、
日本国籍を離れる。
「距離がだんだん伸びていく感じです」
「最後は国籍まで行くからな」
「はい」
でも。
どれも根っこには、
国家や地域が、
お前はここにいろ。
ここから出るな。
ここへ来るな。
この国から離れるな。
と不当に縛ることへの警戒がある。
「移動できるって」
私は言いました。
「結構大事なんですね」
「今さらか」
「いや、普段は意識しないじゃないですか」
今日、
東京へ行く。
来月、
大阪へ引っ越す。
夏休みに、
北海道へ旅行する。
来年、
外国へ行く。
そんなことを決めるたびに、
「憲法二十二条!」
とは思いません。
普通にできる。
だから、
権利だということすら忘れる。
でも。
「お前はここから出るな」
と言われた瞬間。
「お前はここへ来るな」
と言われた瞬間。
自由だったことに気づく。
「高瀬さんもそうでした」
「ああ」
「住めるのが普通だったから、二十二条なんて考えてなかった」
「普通の人はそうだろ」
「でも止められた瞬間、憲法が出てきた」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「それでいい」
「え?」
「憲法は、毎日振り回すものじゃない」
「はい」
「普段は意識しないくらいでいい」
「でも」
「誰かが越えてきたときに、そこにある」
私は、
少し笑いました。
「やっぱり伝家の宝刀ですね」
「だから抜きたがるな」
「分かってます」
私は最後に、
今日の内容を整理しました。
憲法二十二条一項。
居住・移転の自由。
自分の住所・居所を自由に決め、
移動する自由。
国内旅行の自由も含まれる。
ただし、
公共の福祉による制約を受ける。
でも。
公共の福祉は、
世間の空気。
多数派の好き嫌い。
昔からの慣習。
それだけで人権を制限するための万能語ではない。
制約するなら。
目的は正当か。
手段は必要か。
制約が広すぎないか。
もっと権利を傷つけない方法はないか。
目的と手段の釣り合いを見る。
そして。
二十二条二項。
外国移住の自由。
一時的な海外渡航の自由も保障される。
さらに。
国籍離脱の自由。
ただし、
無国籍になる自由までは保障されない。
「よし」
私は言いました。
「まとまりました」
「一行は」
相馬先輩が言います。
「覚えてたんですか」
「毎回やってるだろ」
「じゃあ……」
私は考えます。
そしてノートの最後に書きました。
――二十二条は、自分の居場所を自分で決める自由。ただし「公共の福祉」は世間の好き嫌いではない。
「二項が抜けてるぞ」
「う」
「海外は」
「入れます」
消す。
書き直す。
――二十二条は、住む場所から国境の向こうまで、自分の行き先を自分で決める自由。
「国籍離脱が弱いな」
「先輩、今日厳しくないですか」
「一行にするって言ったのはお前だろ」
「じゃあ!」
もう一度。
――住む、移る、国を出る。自分の居場所は自分で決める。ただし無国籍までは自由じゃない。
相馬先輩が黙ります。
「どうです」
「試験前なら使える」
「やった」
「ただし」
「何です?」
「公共の福祉が消えた」
「もう一行に入りません!」
片桐所長が、
ほんの少し笑いました。
「二行にしろ」
「一行の覚え書きなのに!?」
「内容を落とすよりいい」
「所長がルール破った!」
「誰が決めたルールだ」
「私です」
「なら変えろ」
「強い」
最高法規より簡単に改正されました。
私は結局、
二行書きました。
――住む、移る、海外へ行く。自分の居場所は自分で決める。
――公共の福祉は“世間の空気”ではない。国籍離脱も、無国籍になる自由までは含まない。
「これでどうです?」
「いいんじゃねえか」
「今日のまとめとして完璧ですね」
「自分で言うな」
窓の外を見ると、
夕暮れの町に家々の灯りがついていました。
あのどこかに。
高瀬さん一家の新しい家もあります。
昨日まで、
よそ者だった家。
でも。
今日からは、
ただの一軒の家です。
憲法は、
地域の人に高瀬さん一家を好きになれとは命じません。
仲良くしろとも言いません。
同じ価値観を持てとも言いません。
ただ。
誰かを嫌う自由と、
その人を町から締め出す権力とは、
別です。
そこに線を引く。
そして、
その線を行政が越えそうになったとき。
一番上から、
止める。
それが憲法なのだと思います。
私はノートを閉じました。
「終わったか」
相馬先輩が立ち上がります。
「はい」
「帰るぞ」
「待ってください」
「今度は何だ」
「このお茶」
高瀬さんの奥さんにもらった台湾茶。
「まだ残ってます」
「置いとけ」
「でも湿気ますよ」
「じゃあ持って帰れ」
「私が?」
「自由だろ」
「……なるほど」
私は紙袋を持ち上げました。
「憲法二十二条。移転の自由」
「茶に適用するな」
「茶葉にも移転の自由を」
「ねえよ」
「じゃあ先輩の家へ海外渡航」
「国内だ!」
「細かいなあ」
「お前が今日勉強したんだろうが!」
奥から片桐所長の声が飛んできます。
「こはる」
「はい」
「戸締まり」
「また私ですか」
「見習いだろ」
「私にも移転の自由があります。もう帰りたいです」
「戸締まりしてから移転しろ」
「自由への制約!」
「正当な業務命令だ」
「公共の福祉ですか!」
「雇用の福祉だ」
「そんな概念ありません!」
相馬先輩が笑いました。
昭和六十三年。
日本国憲法第二十二条。
条文は、
未来と一字一句変わりません。
でも。
その文字の周りにある社会は、
少しずつ変わっていく。
昔からそうだから。
みんなが嫌がるから。
地元の和が乱れるから。
そんな空気に押されそうになった人へ、
憲法は静かに言います。
どこに住むか。
どこへ行くか。
その人生の行き先は、
まず、
あなた自身が決めるものだ、と。
私は事務所の電気を消しました。
そして最後に、
自分自身の居住・移転の自由を盛大に行使して、
家へ帰りました。
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