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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈憲法 配点28点/300点〉 人権

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373/701

[憲法22条・居住移転の自由、海外渡航の自由、国籍離脱の自由]現場編 「よそ者には住んでもらいたくない」の罠。昭和の“地元の和”が閉ざした町と、住所を自分で決める自由

挿絵(By みてみん)

 住む場所を決めるのに。


 町の許可はいりません。


 ――少なくとも。


 憲法には、そう書いてあります。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


「この町には、住まないでくれと言われました」


 その日の相談者は、そう言って頭を下げました。


「……はい?」


 私は思わず聞き返しました。


 向かいに座っているのは、三十代半ばくらいの男性です。


 名前は、


 高瀬修一。


 三十六歳。


 東京の印刷会社に勤めていたものの、父親が倒れたのをきっかけに退職。


 妻と七歳の娘を連れて、父親の故郷であるこの町へ移り住むことにした。


 町外れに、亡くなった祖父が残した小さな家がある。


 築三十年以上。


 古いけれど、住めないほどではない。


 修繕して、


 そこで暮らす。


 近くの印刷所への就職も決まっている。


 娘は春から地元の小学校へ。


 ――そのはずだった。


「住民票を移そうとしたら拒否されたんですか?」


「いえ」


「転入届を受け付けてもらえなかった?」


「それも違います」


「じゃあ何を?」


 高瀬さんは鞄から一枚の紙を出しました。


 私は受け取ります。


 市役所の正式な処分通知ではありません。


 地区の生活環境に関する、


 行政指導の文書でした。


 そこには、


 地域生活への円滑な適応。


 近隣住民との協調。


 生活環境の保全。


 そんな言葉が並んでいます。


 そして最後に。


 ――当該地区への転入については、地元住民の理解を得たうえで慎重に判断されたい。


「……何ですか、これ」


 私は顔を上げました。


「私も、よく分からなくて」


「転入するのに、地元住民の理解?」


「近所の人から反対が出てるそうです」


「何でです?」


 高瀬さんが少し言いにくそうにしました。


「東京から来るから、だそうです」


「……それだけ?」


「妻が外国人だからというのも、あるみたいです」


 私は黙りました。


 高瀬さんの妻は、台湾出身。


 結婚して九年。


 日本語も話せる。


 娘も日本で生まれ育った。


 それが、


 何だというのでしょう。


「ほかには?」


「私が家を仕事場にも使いたいと言ったので、それも」


「仕事?」


「小さな印刷の仕事を請けようと思ってるんです。大きな機械を入れるわけじゃありません。版下を作ったり、原稿を整理したり」


「騒音は?」


「ほとんどありません」


「危険物?」


「使いません」


「用途地域とか建築関係の問題は?」


「市役所からは、それは問題ないと言われました」


「じゃあ何が問題なんですか」


「だから」


 高瀬さんは困ったように笑いました。


「よそ者だから、だと思います」


 その言葉が、


 妙に重かった。


 現代にいたころ。


 私は田舎暮らしの特集を何度も見たことがあります。


 移住支援。


 空き家バンク。


 地方創生。


 お試し移住。


 歓迎します。


 来てください。


 住んでください。


 そんな言葉ばかり見ていた。


 でも。


 ここは昭和六十三年です。


 しかも地方都市の外れ。


 集落には集落の付き合いがある。


 消防団。


 祭り。


 自治会。


 草刈り。


 冠婚葬祭。


 誰の息子か。


 どこの家の親戚か。


 そういうものが、


 住所より先に人間を分類する。


「役所の人には、何と言われたんです?」


 片桐所長が聞きました。


「無理に転入しても、地域で暮らしにくくなる、と」


「誰が」


「総務の沢渡課長です」


 私は天井を見ました。


「また沢渡課長……」


「知ってるんですか?」


「ええ、まあ」


 最近、


 市役所案件を開けると高確率で出てくる人です。


 役所の中ボスみたいになっています。


「ほかには?」


「地元の理解を得るまで、転入の手続を少し待ったほうがいいと言われました」


「待つ?」


 相馬先輩の声が変わりました。


 さっきまで煙草をくわえて新聞を読んでいたのに。


 新聞が下がる。


「どのくらいだ」


「分かりません」


「市が転入届を拒否すると言ったのか」


「そこまでは」


「じゃあ、出すなと言ってるだけか」


「はい」


 相馬先輩が新聞を机へ置きました。


「一番嫌なやつだな」


「何がです?」


 私が聞くと、


「処分しねえ」


 と言いました。


「拒否処分を出せば、理由が要る。争われる。だから『お願い』にする」


 なるほど。


 行政指導。


 命令ではない。


 強制でもない。


 あくまで、


 お願い。


 協力要請。


 助言。


 でも。


 市役所から、


 地元の理解が得られるまで転入を待ってください。


 と言われた普通の人が、


「嫌です」


 と簡単に言えるでしょうか。


「しかも」


 高瀬さんが言いました。


「娘の学校のこともあるんです」


「学校?」


「転入時期が決まらないと、手続も進めにくいと言われて」


 私は唇を噛みました。


 紙の上では任意。


 でも生活全部を握られれば、


 事実上、


 断りにくい。


「引っ越しはいつの予定です?」


「来月です」


「東京の家は?」


「もう解約を申し込んでます」


「仕事は?」


「来月十五日から」


「つまり」


 私は紙を置きました。


「待てないじゃないですか」


「はい」


 高瀬さんは小さく笑いました。


「でも、町の人と喧嘩して住み始めるのも嫌なんです」


 それも分かる。


 正しい。


 法律的に勝てば、


 人間関係まで勝てるわけではありません。


 その地区で暮らす。


 毎朝、顔を合わせる。


 娘が学校へ通う。


 妻が買い物へ行く。


 だから、


 高瀬さんは市役所で怒鳴らなかった。


 反対住民にも文句を言わなかった。


 ただ。


「自分の家なのに」


 高瀬さんが言いました。


「住んじゃいけないんでしょうか」


 その言葉で。


 私の頭の中に、


 ものすごく基本的な条文が浮かびました。


 憲法二十二条。


 何人も、


 公共の福祉に反しない限り、


 居住、移転及び職業選択の自由を有する。


「……あ」


「どうした」


 相馬先輩が私を見ます。


「あります」


「何が」


「ものすごく強いやつ」


「何だ」


「憲法です」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「いきなりでけえ刀抜くな」


「でも二十二条ですよ」


「知ってる」


「居住・移転の自由」


「知ってるって言ってんだろ」


 私は片桐所長を見ました。


「所長」


「何だ」


「憲法って昭和六十三年でも――」


「同じだ」


 即答でした。


「ですよね」


「昭和二十一年公布。二十二年施行。改正はされていない」


 そう。


 ここは不思議なところです。


 行政法なら、


 現代知識を持ち込むと地雷を踏む。


 異議申立てが残っていたり。


 期間が違ったり。


 制度そのものがなかったり。


 でも。


 日本国憲法は違う。


 私が現代で読んでいた二十二条と、


 昭和六十三年の二十二条。


 一字一句、


 同じです。


「やった」


 思わず言いました。


「何がだ」


「法改正確認しなくていい」


「お前は憲法を何だと思ってる」


「転生者に優しい法律です」


「馬鹿」


 でも。


 本当に少し安心しました。


 条文は同じ。


 なら。


 使える。


 ――と思ったのですが。


「ただし」


 片桐所長が言いました。


「憲法を出せば勝てると思うな」


「え」


「憲法論を最初から振り回す行政書士は三流だ」


「せっかく伝家の宝刀を見つけたのに」


「刀は抜く順番を間違えると、ただの喧嘩になる」


 ぐう。


 それっぽい。


「まず事実を詰めろ」


「はい」


「本当に法令上の問題がないのか」


「はい」


「市が何を根拠に待てと言っているのか」


「はい」


「地域の反対理由は何か」


「はい」


「そのうえで」


 所長が高瀬さんの紙を指で叩きました。


「役所が越えたなら抜け」


 最高法規を。


 翌日。


 市役所二階。


 総務課。


「またですか」


 沢渡課長は私たちを見るなり言いました。


「まだ何も言ってません」


「片桐先生と相馬さんと朝比奈さんが三人で来れば、だいたい分かります」


「高瀬修一さんの件だ」


 相馬先輩が言いました。


「ああ」


 沢渡課長は表情を変えません。


「転入予定の方ですね」


「市が転入を止めてるそうじゃねえか」


「止めてはいません」


 即答。


 さすがです。


 そこは明確に線を引いてきました。


「では何をしている」


 片桐所長が聞きます。


「地域との調整をお願いしています」


「法的義務か」


「いいえ」


「従わなければ転入届を受理しないのか」


「そのようなことは申し上げていません」


「なら明日提出しても受理する?」


 沢渡課長が一拍置きました。


「届出が法定の要件を満たしていれば、適切に処理します」


 なるほど。


 逃げてはいません。


 むしろ、


 法的な線は理解している。


 だからこそ厄介です。


「じゃあ」


 私は聞きました。


「何で待てと言ったんですか」


「地域から強い懸念が出ています」


「何について?」


「生活環境です」


「具体的に」


「外部から転入される方が地域慣行を理解されないまま生活を始めれば、摩擦が生じる可能性があります」


「外国人の奥さんだから?」


 沢渡課長の眉がわずかに動きました。


「市として、その点を理由にしているわけではありません」


「でも反対住民は言ってる」


「住民が何を考えるかまで、市が統制することはできません」


 それは正しい。


 住民の頭の中まで役所は管理できない。


 でも。


「市が、その反対を理由に転入延期を求めたら?」


「理由はそれだけではありません」


「じゃあ何です?」


「地域秩序です」


 出ました。


 便利な言葉。


「地域には長年培われた生活秩序があります」


「はい」


「それを無視して権利だけを主張すれば、結果的に本人も不幸になる」


「それも分かります」


「行政としては、紛争を未然に防ぐ必要がある」


「それも分かります」


「公共の福祉という観点からも――」


 そこで。


 私の中で、


 何かが引っかかりました。


 公共の福祉。


 便利です。


 ものすごく便利です。


 人権は無制限ではない。


 他人の権利との調整も必要。


 社会全体との調和も必要。


 だから、


 公共の福祉による制約を受ける。


 受験勉強では、


 そう覚える。


 でも。


 その四文字を置けば、


 何でも制限できるわけではありません。


「課長」


「何でしょう」


「公共の福祉って、地元の人が嫌がったら成立するんですか」


 空気が変わりました。


「そういう意味ではありません」


「ですよね」


「当然です」


「じゃあ確認します」


 私は手帳を開きました。


「高瀬さんがあの家に住むことで、具体的に誰のどんな権利が侵害されるんですか」


「将来的な地域紛争の可能性があります」


「可能性じゃなくて、権利です」


 沢渡課長が黙ります。


「騒音?」


「現時点では確認されていません」


「危険物?」


「ありません」


「違法な営業?」


「確認されていません」


「建築上の問題?」


「ありません」


「道路交通への支障?」


「ありません」


「公衆衛生?」


「ありません」


「じゃあ」


 私は言いました。


「何を守るために、高瀬さんの居住・移転の自由を事実上制約してるんですか」


 静かになりました。


 沢渡課長が眼鏡を直します。


「朝比奈さん」


「はい」


「市は制約していません」


「行政指導だから?」


「そのとおりです」


 来た。


 なら。


 そこを詰める。


「でも、高瀬さんには来月から仕事があります」


「承知しています」


「今の家は解約する」


「ええ」


「娘さんの学校もある」


「ええ」


「それなのに期限を示さず、『地元の理解が得られるまで待ってください』と言った」


「調整をお願いしました」


「そのお願いを、市役所が言う意味は大きいですよ」


 沢渡課長が私を見る。


「普通の人は、市役所から待てと言われたら、待たなきゃいけないと思います」


「行政指導は――」


「任意です」


 相馬先輩が割り込みました。


「だからこそ、任意じゃなくなる使い方をするなって話だ」


 低い声でした。


「住民票」


「学校」


「役所の手続」


「これから住む町」


 一つずつ。


 相馬先輩が指を折ります。


「全部そっちが窓口だ。その役所から『地元が納得するまで来るな』と言われて、ただのお願いだと思える奴が何人いる」


「『来るな』とは言っていません」


「じゃあ文書で書け」


「何をです」


「高瀬さんが地域の同意を得なくても、法定要件を満たす転入届の受理その他の行政手続に不利益を与えない」


 沢渡課長の目が細くなりました。


「それは当然です」


「なら書けるな」


 相馬先輩。


 強い。


 でも。


 沢渡課長も引きません。


「地域との円滑な関係形成を促すことまで否定される理由はありません」


「そこは否定してねえ」


「でしたら――」


「順番が逆なんだよ」


 相馬先輩が言いました。


「住んでいいかを地元に決めさせるな。住む自由を認めたうえで、仲良く暮らす方法を調整しろ」


 私は、


 その言葉を手帳に書きました。


 住む自由。


 その後に、


 調整。


 なるほど。


 地域との協調が悪いわけではない。


 むしろ必要です。


 でも。


 協調できることを、


 住むための条件にしてはいけない。


「世間の常識?」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「俺たちが守ってんのは法律だ」


 事務所へ戻って。


 私たちは意見書を作りました。


 片桐所長は最初に言いました。


「違憲と断定するな」


「え?」


「まだ処分はない」


「でも――」


「だから『違憲の疑い』を詰める」


 なるほど。


 市は転入届を拒否していない。


 行政指導として、


 延期を求めている。


 なら、


 いきなり、


 違憲処分だ!


 と殴り込むのは雑です。


 書くべきなのは。


 この行政指導が事実上の強制になっていないか。


 その運用が、


 憲法二十二条一項の居住・移転の自由を不当に制約していないか。


 その制約目的は何か。


 目的は正当か。


 手段は必要か。


 目的と手段は釣り合っているか。


 もっと制限的でない方法はないか。


「地元との摩擦を防ぐ目的そのものは」


 私は言いました。


「完全におかしいとは言えませんよね」


「そうだ」


 所長が答えます。


「行政が地域紛争を予防すること自体は悪くない」


「問題は手段」


「そうだ」


 地域説明会を開く。


 自治会の仕組みを説明する。


 ごみ出しルールを案内する。


 騒音や営業について具体的な懸念があるなら、


 その部分だけ調整する。


 いくらでも方法はあります。


 なのに。


 住民の理解が得られるまで、


 転入そのものを待たせる。


 それは。


「広すぎる」


 私は言いました。


「何がだ」


「手段が」


 相馬先輩がこちらを見る。


「具体的な害が確認されてないのに、住むこと自体を止める方向へ持っていってる」


「うん」


「しかも期限なし」


「うん」


「住民の反対理由には、妻が外国人だからという話まで混じってる」


「そこは慎重に書け」


 所長が言います。


「市自身がそれを理由にした証拠はない」


「はい」


「事実以上のことを書くな」


「はい」


 大事です。


 腹が立っていると、


 つい相手を悪役にしたくなる。


 でも意見書は小説じゃありません。


 証拠があることだけを書く。


 私は書きました。


 憲法第二十二条第一項。


 居住・移転の自由。


 住所または居所を自ら決定し、


 国内を自由に移動する自由。


 そして。


 地域社会との調和を図る行政目的が正当であるとしても、


 具体的な危険や法令違反が認められない者について、


 近隣住民の同意または理解を事実上の転入条件とする運用は、


 居住・移転の自由に対する過度の制約となる疑いがある。


 さらに。


 地域紛争防止という目的は、


 地域ルールの説明、


 個別の生活上の調整、


 具体的な問題行為への事後対応など、


 より権利制約の小さい手段によって達成し得る。


 したがって、


 転入そのものの延期を求める必要性及び合理性は乏しい。


「……強いですね」


 私は読み返しました。


「憲法だからな」


 相馬先輩が言います。


「でも不思議です」


「何が」


「条文、現代と全く同じなんですよ」


「ああ」


「なのに、空気が違う」


 昭和六十三年。


 法律には、


 何人も、


 と書いてある。


 誰の息子か。


 どこの出身か。


 妻がどこの国の人か。


 昔から住んでいるか。


 そんなことは書いていない。


 何人も。


 それだけ。


 なのに社会の側には、


 よそ者。


 地元。


 昔からの決まり。


 世間の目。


 そんな見えない条文が、


 憲法より太い字で書かれている。


「憲法って」


 私は呟きました。


「社会がちゃんとしてると、見えないんですね」


 所長が顔を上げました。


「どういう意味だ」


「普段は使わないからです」


 受験生だった私は思っていました。


 憲法なんて実務で使うの?


 幸福追求権。


 表現の自由。


 居住移転の自由。


 最高法規。


 試験では大事。


 でも行政書士が毎日、


「憲法違反です!」


 なんて叫ぶわけじゃない。


 だから、


 遠い法律だと思っていました。


 でも。


 下のルールも。


 条例も。


 行政指導も。


 慣習も。


 世間の常識も。


 全部がおかしな方向へ流れたとき。


 一番上に、


 動かない基準がある。


「最後に止めるやつなんですね」


「何が」


「憲法」


 片桐所長は、


 少しだけ笑いました。


「だから最初から抜くなと言った」


「はい」


「最後まで抜かずに済むなら、その方がいい」


「でも」


「越えたら抜く」


「はい」


「それが最高法規だ」


 三日後。


 市役所。


 沢渡課長の机の上に、


 私たちの意見書が置かれました。


 全部で七枚。


 相馬先輩が言います。


「読んだか」


「読みました」


「どうだ」


「よく書けています」


「感想文じゃねえ」


「では何と」


「市の回答」


 沢渡課長は眼鏡を外しました。


 布でゆっくり拭きます。


「市として、高瀬さんの転入を拒否する法的根拠はありません」


「うん」


「また、近隣住民の同意を転入届受理の要件とすることもできません」


「うん」


「それは当初から承知しています」


 私は少し首を傾げました。


「じゃあ何で待てって」


「行政として紛争を避けたかったからです」


 正直でした。


「高瀬さんがそのまま転入すれば、地域から市へ苦情が来る可能性が高かった」


「だから本人に待ってもらう?」


「最も摩擦が少ない方法だと判断した」


「でも」


 私は言いました。


「高瀬さん側に全部負担を寄せてます」


「その点です」


 沢渡課長は意見書を指で押さえました。


「この指摘は認めます」


 部屋が静かになりました。


「地域秩序の維持という目的を重視するあまり、転入を希望する本人の自由への配慮が不足していました」


 私は瞬きをしました。


「つまり?」


「行政指導を撤回します」


「……本当に?」


「撤回という表現が適切かはともかく」


 沢渡課長は少し嫌そうな顔をしました。


「少なくとも、地元の理解が得られるまで転入を延期してほしいという要請は行いません」


 相馬先輩が腕を組みます。


「転入届は」


「法定要件を満たせば通常どおり処理します」


「学校関係は」


「転入を前提に関係部署と調整します」


「地域の反対は」


「それは残ります」


 そこは。


 当然です。


 憲法は、


 人の感情を消す魔法ではありません。


「ではどうするんです?」


 私が聞くと、


 沢渡課長は答えました。


「市が説明会を設けます」


「説明会?」


「高瀬さんに『理解を得てから来てください』と丸投げするのではなく、市が地域側にも説明する」


「何を?」


「転入そのものを拒否する権限は地域にはないこと。そのうえで、生活上の具体的な懸念があるなら個別に調整すること」


 私は少し驚きました。


 ちゃんと、


 代わりの方法を考えた。


「課長」


「何でしょう」


「憲法、効きました?」


 沢渡課長は、


 ものすごく嫌そうな顔をしました。


「その言い方は好きではありません」


「じゃあ何て言えば」


「行政判断の法的リスクを再評価しただけです」


「それを効いたって言うんじゃ」


「朝比奈」


 所長に止められました。


「はい」


 調子に乗りました。


 沢渡課長は意見書を閉じます。


「市が住民同士の摩擦を避けたいのは事実です」


「はい」


「ですが」


 一拍。


「摩擦を避けるために、権利を持つ側だけに譲歩を求め続ければ、行政は楽でしょう」


 私は黙って聞きました。


「楽だから正しいとは限りません」


 それだけ言うと、


 沢渡課長は次の書類を取りました。


「以上です」


「課長」


「何です」


「今ちょっと格好よかったですよ」


「帰ってください」


「はい」


 高瀬さん一家が引っ越してきたのは、


 四月の初めでした。


 桜が咲き始めた頃。


 私は相馬先輩と一緒に、


 例の地区まで行きました。


「何で俺たちまで引っ越し手伝ってんだ」


「成り行きです」


「行政書士の仕事じゃねえ」


「所長が行けって」


「なら業務だ」


 強い。


 所長命令。


 憲法より即効性があります。


 古い平屋の前に、


 小さなトラックが止まっています。


 段ボール。


 机。


 布団。


 娘さんの赤いランドセル。


 そして。


「朝比奈さん!」


 高瀬さんが手を振りました。


「無事、来ましたね」


「はい」


「近所、大丈夫です?」


 私は小声で聞きました。


「まあ」


 高瀬さんは苦笑しました。


「全員歓迎、とはいきません」


「ですよね」


「でも昨日、隣のおばあさんが漬物を持ってきてくれました」


「おお」


「妻が台湾のお茶を返したら、一時間くらい話してました」


「早い」


「言葉、通じるんですか」


「妻、日本語できますから」


「あ、そうだった」


 偏見があったのは、


 もしかすると私のほうにも少しあったのかもしれません。


 庭では、


 娘さんが近所の子と遊んでいました。


 縄跳び。


 ただそれだけです。


 憲法二十二条が守った景色にしては、


 ずいぶん普通でした。


「結局」


 私は言いました。


「住んでみないと分からないこともありますね」


「当たり前だ」


 相馬先輩が段ボールを持ち上げます。


「住む前から、よそ者だから駄目って決めたら何も始まらねえ」


「ですよね」


「ただし」


「はい」


「地域のルールは守れ」


「急に自治会側」


「ごみの日を守るのと、住むなと言うのは別の話だ」


 それです。


 自由がある。


 だから何をしてもいい。


 ではない。


 他人の権利もある。


 具体的な生活ルールもある。


 騒音を出せば問題になる。


 危険なことをすれば止められる。


 でも。


 そういう具体的な問題がないうちから、


 何となく嫌だから。


 昔からそうだから。


 地元の和が乱れるから。


 それだけで、


 人が住む場所を決めてはいけない。


 私は高瀬家の玄関を見ました。


 新しい表札。


 高瀬。


 たった二文字。


 でも。


 その表札を、


 どこに掛けるか。


 それを自分で決められること。


 それが、


 居住の自由なのだと思います。


「朝比奈さん」


 高瀬さんの奥さんが声をかけてくれました。


「これ、どうぞ」


 小さな紙袋。


「何です?」


「お茶です」


「台湾の?」


「はい」


「ありがとうございます!」


 横から相馬先輩が覗き込みます。


「食い物じゃねえのか」


「またそれですか!」


 奥さんが笑いました。


「お菓子もあります」


「ありがとうございます」


「即答しないでください!」


 帰り道。


 私はふと思いました。


「先輩」


「何だ」


「二十二条って、海外に行く自由もありますよね」


「ああ」


「外国に移住する自由とか」


「あるな」


「国籍を離脱する自由も」


「ある」


「じゃあ日本国籍を捨てて、どこの国籍も持たない人になる自由も――」


「待て」


「はい?」


「そこは所長に聞け」


「何でです?」


「お前、今また地雷踏みそうな顔してる」


「そんな顔あります?」


「ある」


 私は口を閉じました。


 どうやら、


 憲法二十二条にはまだ続きがあるらしい。


 国内で、


 どこに住むか。


 どこへ移動するか。


 国外へ、


 出ていくか。


 そして、


 どの国に属するか。


 自由という言葉は、


 思っていたよりずっと遠くまで続いている。


 私は振り返りました。


 古い平屋。


 玄関には、


 新しい表札。


 庭では子どもたちが笑っています。


 誰かが、


 ここに住んでもいいですか。


 と世間に許可を求めなければならない社会は、


 たぶん自由な社会とは呼べません。


 法律は、


 隣人を好きになれとは命じない。


 仲良くしろとも命じない。


 でも。


 役所が、


 多数派の好き嫌いを理由に、


 一人の自由を取り上げることには、


 待ったをかけられる。


 昭和六十三年。


 憲法の条文は、


 未来と一字一句変わらない。


 違うのは、


 その周りを漂っている空気です。


 そして今日。


 私は初めて、


 憲法という法律の役目が少し分かった気がしました。


 みんなが自由を尊重しているときには、


 憲法は目立たない。


 でも。


 みんなが、


 あいつだけは駄目だ。


 と言い始めたとき。


 最後に一人の側へ立つ。


 そのために、


 一番上にいる。


「先輩」


「何だ」


「憲法って、実務で使うんですね」


「使わねえで済むなら、そのほうが平和だ」


「でも使うと強い」


「だから伝家の宝刀なんだろ」


「なるほど」


「毎日抜いてる奴はただの危ねえ奴だ」


「片桐所長と同じこと言ってる」


「誰に教わったと思ってんだ」


 なるほど。


 そこにも継承関係があるらしい。


 事務所へ戻ると、


 片桐所長が帳簿をつけていました。


「終わったか」


「はい」


「高瀬さんは」


「無事、引っ越しました」


「そうか」


「所長」


「何だ」


「今日の教訓、できました」


「言ってみろ」


 私は少し考えてから言いました。


「『公共の福祉』は、世間の好き嫌いを法律に変える魔法の言葉じゃない」


 所長の鉛筆が止まりました。


 相馬先輩もこちらを見る。


「どうです?」


「長い」


「内容は?」


「悪くない」


「やった」


「だがもう一つ覚えろ」


「何です?」


「居住の自由は、住んだ後の迷惑行為まで自由にするものじゃない」


「あ」


「自由と無秩序を混ぜるな」


「はい」


 私は手帳に書きました。


 ――住む場所は自分で決める。だが、住み方まで無制限ではない。


「二つになっちゃいました」


「明日まとめろ」


「今日は?」


「帰れ」


「はい」


 事務所を出る。


 夕暮れの町には、


 家が並んでいました。


 昔から住んでいる人の家。


 昨日来た人の家。


 明日出ていく人の家。


 たぶん憲法は、


 その違いを気にしません。


 何人も。


 ただ、それだけ。


 昭和の町では、


 その短い言葉が。


 ときどき、


 世間よりずっと強いのです。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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さくら司法書士補助者の法務帳 〜 昭和に転生して泥沼の争いを収めたら、実務と試験知識が完全にリンクしました 〜
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜
宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
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