[憲法21条の2・事前抑制と検閲]法理編 こはるノート
言葉は、世に出て初めて誰かに届きます。
だから。
出たあとに責任を問われることと。
出る前に口を塞がれることは。
似ているようで、まるで違います。
夕方。
片桐行政書士事務所。
私は机の上に、三枚の紙を並べていました。
一枚目。
水野さんたちが最初に作ったチラシ。
二枚目。
市役所の赤鉛筆で真っ赤になった原稿。
三枚目。
市が運用を見直したあとの通知。
「……怖いなあ」
「何がだ」
向かいで相馬先輩が煙草に火をつけます。
「これです」
私は二枚目を持ち上げました。
――住民への説明は十分なのか。
削除。
――商店街の声は計画に反映されているのか。
削除。
――市の計画決定過程を公開してほしい。
修正。
「昨日は腹が立ったんですけど」
「今日は?」
「怖いです」
「同じじゃねえか」
「違いますよ」
私は赤鉛筆の跡を指でなぞりました。
「これ、配ったあとに『名誉毀損だから責任取れ』って言われたわけじゃないんですよ」
「ああ」
「配る前です」
「そうだな」
「世の中に出る前に、ここを消せって言われた」
そこです。
今日のテーマ。
私はノートを開きました。
大きく書きます。
――憲法二十一条二項。
その下。
――事前抑制と検閲。
「先輩」
「何だ」
「今日はややこしいですよ」
「お前は毎回そう言うな」
「今回は本当にややこしいです」
「何が」
「事前抑制と検閲って、似てるのに同じじゃない」
相馬先輩が煙を吐きました。
「じゃあ分けろ」
「簡単に言いますね」
「法律は分けりゃ半分片付く」
「それ、意外と名言ですね」
「意外は余計だ」
でも。
本当にそうです。
私はノートの真ん中に線を引きました。
左。
事前抑制。
右。
検閲。
「まず、広いほうから」
私は左側を指しました。
「事前抑制」
表現物が世の中に出る。
その前に。
発表を差し止める。
これが事前抑制です。
「昨日の水野さんなら?」
相馬先輩が聞きます。
「チラシを配る前に止める」
「新聞なら?」
「発行前に止める」
「本なら?」
「出版前に止める」
「演説なら?」
「……演説する前に止める?」
「何で急に自信なくなる」
「印刷物の例ばっかり考えてたので」
でも本質は同じ。
表現が公になる前に。
その発表を抑える。
なぜ危険なのか。
私はノートに書きました。
――表現そのものが、社会に届かなくなるから。
「ここが事後規制との違いですよね」
私は言いました。
「たとえば名誉毀損なら」
「うん」
「表現したあとに責任を問われる場合がある」
「そうだな」
「でも事前抑制は」
そもそも。
言わせない。
書かせない。
配らせない。
出版させない。
世の中へ出させない。
「出たものに責任を問うんじゃなくて」
私は言いました。
「出ること自体を止める」
「だから重い」
片桐所長が奥の机から言いました。
「はい」
表現というものは。
一度世に出れば。
誰かが読む。
誰かが聞く。
誰かが反論する。
議論が生まれる。
でも。
発表そのものを止めてしまえば。
その可能性が全部消える。
「だから事前抑制は原則禁止」
私は二重線を引きました。
ただし。
「絶対禁止じゃない」
相馬先輩が言います。
「そうです」
「そこ間違えるなよ」
「はい」
事前抑制は。
原則として許されない。
でも。
例外の余地がある。
ここで出てくるのが。
北方ジャーナル事件。
最高裁大法廷。
昭和六十一年六月十一日。
「今から二年前」
私は言いました。
「何度言うんだ」
「だって嬉しいんですよ」
「何が」
「判例がもう出てる」
「普通だろ」
「転生者にとって判例の年月は死活問題なんです」
「知らねえよ」
未来では有名な判例でも。
昭和六十三年の時点でまだ出ていなければ使えない。
しかし北方ジャーナル事件は違います。
二年前。
できたてほやほやです。
「判例では」
私はノートを見ました。
「表現行為に対する事前抑制は、憲法二十一条の趣旨から、厳格かつ明確な要件の下でのみ許容され得る」
「つまり?」
「ものすごく慎重にやれ」
「雑だな」
「覚えるためです」
原則。
事前抑制は駄目。
なぜなら。
表現が社会へ出る前に封じられてしまうから。
ただし。
どんな場合でも一切駄目。
というわけではない。
厳格かつ明確な要件。
そこが必要になる。
「じゃあ」
相馬先輩が言いました。
「検閲も同じか」
「そこです!」
私は右側を叩きました。
「違います」
事前抑制。
原則禁止。
例外あり。
検閲。
「絶対禁止」
私は大きく囲みました。
――検閲は、これをしてはならない。
「条文そのままですね」
「短いな」
「短いです」
憲法二十一条二項。
検閲は、これをしてはならない。
通信の秘密は、これを侵してはならない。
「検閲には」
私は言いました。
「公共の福祉のためなら例外的にやっていい、みたいな逃げ道はない」
「絶対禁止だからな」
「はい」
ここが決定的です。
事前抑制は原則禁止。
検閲は絶対禁止。
「じゃあ検閲って何だ」
相馬先輩が聞きます。
「来ましたね」
私は姿勢を正しました。
「六つです」
「六つ?」
「最高裁が示した検閲の定義」
私はノートに番号を書きました。
一。
行政権が主体。
二。
思想内容等の表現物が対象。
三。
全部または一部の発表を禁止する目的。
四。
一定の表現物について網羅的一般的に。
五。
発表前に内容を審査。
六。
不適当と認めたものの発表を禁止。
「……長えな」
「ですよね」
「一言で言え」
「行政が、表現物を広く事前審査して、駄目だと思ったものを発表させない」
「最初からそう言え」
でも。
この六つ。
単なる暗記だと思っていたら、昨日。
全部現場に出てきました。
「水野さんの事件を当てはめてみます」
私は赤鉛筆原稿を出しました。
「一。主体」
「市役所」
「行政権」
「二。対象」
「チラシ」
「しかも駅前再整備に対する意見や疑問が書かれている。思想内容等を含む表現物」
「三」
「問題がある内容を配らせない」
「四」
私は少し止まりました。
「ここが一番微妙でした」
網羅的一般的。
市は世の中のすべての出版物を見ていたわけではない。
駅前再整備に関する印刷物について。
一度全部見せてください。
そう求めていた。
「だから昨日」
私は言いました。
「意見書で『絶対に検閲だ』って断定しなかった」
「そうだ」
片桐所長が答えました。
「要件は詰めろ」
「はい」
「似ているから同じ、ではない」
そこ。
大事です。
行政が事前に何かを見る。
それだけで即、
検閲!
とはならない。
誰が。
何を。
何の目的で。
どの範囲について。
いつ審査し。
どんな効果を与えるのか。
全部見る。
「五」
私は続けます。
「発表前」
「完全に当たるな」
「チラシを配る前に提出させています」
「六」
「市が不適当と考えた部分を直さなければ、公共施設で配布を認めない」
赤鉛筆。
削除。
修正。
あの跡が。
急に六つの要件の形に見えてきます。
「だから」
私は言いました。
「少なくとも検閲に該当する重大な疑いがあった」
「そうだな」
「でも」
私はノートの左右を見ました。
「仮に検閲じゃないとしても」
「事前抑制の問題は残る」
「はい」
ここです。
試験で。
ものすごく大事なところ。
検閲と事前抑制を同じものとして覚えない。
検閲は。
事前抑制の中でも、行政権による特定の態様。
だから。
検閲に当たらない。
イコール。
憲法上まったく問題なし。
ではありません。
「北方ジャーナル事件が、まさにそれですね」
「あれは誰が止めた」
「裁判所です」
「行政じゃねえ」
「はい」
雑誌『北方ジャーナル』。
知事選挙への立候補予定者について名誉を害する記事が掲載される予定だった。
そこで本人が裁判所へ仮処分を申し立て。
裁判所が印刷や販売などを差し止めた。
「裁判所は?」
「司法権」
「だから?」
「検閲ではない」
私は丸をつけます。
検閲の定義で。
一番分かりやすい入口。
主体。
行政権。
「でも出版前に止めてる」
「だから事前抑制ではある」
「そうです」
つまり。
裁判所の仮処分。
検閲ではない。
だから終わり。
ではない。
次に。
事前抑制として許されるのか。
という問題になる。
「これ」
私は言いました。
「受験生だった頃、一番ごちゃごちゃしてました」
「どう覚えてた」
「検閲は駄目。事前抑制も駄目。北方ジャーナルも何か駄目」
「何も分かってねえじゃねえか」
「今は分かります!」
現場に置くと。
かなり違います。
市役所がチラシを全部事前審査して止める。
検閲の問題。
裁判所が私人の申立てを受け、個別紛争について出版を差し止める。
検閲ではない。
しかし事前抑制の問題。
「主体を見ろ」
私はノートに書きました。
――検閲か迷ったら、まず誰が審査しているか。
「これだけでもかなり切れますね」
「行政なら全部検閲なのか?」
相馬先輩。
嫌な問題を出してきます。
「違います」
「何で」
「残りの要件も必要だから」
「そうだ」
主体だけでは決まらない。
行政が関与していても。
検閲に当たらない場合がある。
「税関検査事件」
私は次のページを開きました。
最大判昭和五十九年十二月十二日。
「これも現在から四年前」
「いちいち確認すんな」
「大事なんです」
外国から輸入しようとした表現物。
税関で輸入禁止品に該当すると判断され、輸入できなかった。
行政が見る。
表現物。
しかも入ってくる前。
「じゃあ検閲か」
相馬先輩が言います。
「最高裁は違うとした」
「なぜ」
ここが面白い。
輸入禁止になる表現物は。
一般に国外ですでに発表されている。
「つまり」
私は言いました。
「まだ一度も世の中に出ていない表現を、発表前に潰しているわけじゃない」
「うん」
「しかも輸入を禁止するだけ」
「国内では読めねえんじゃないのか」
「その輸入行為は止められます。でも税関がその表現物そのものを没収して廃棄して、あらゆる発表機会を消してしまうわけではない」
だから。
最高裁は。
検閲に特有の、
発表前に審査して。
不適当なものの発表そのものを禁止する。
という性質がないと考えた。
「行政がやってるのに検閲じゃない」
「そうです」
「面倒くせえな」
「だから六要件なんです」
行政がやった。
イコール検閲。
ではない。
表現物を審査した。
イコール検閲。
でもない。
六つを見ていく。
「次」
私はページをめくりました。
「教科書検定」
「これも行政だろ」
「はい」
「しかも本の内容を見る」
「はい」
「発行前だろ」
「教科書として使う前に審査します」
「じゃあ検閲」
「じゃない」
「何でだ」
「そこです」
教科書検定。
検定で不合格になる。
でも。
その本を一般図書として出版することまで禁止されるわけではない。
「つまり」
私は言いました。
「教科書として採用しません、という判断と」
「本そのものを世の中に出すな、は違う」
「そうです」
発表禁止目的ではない。
一般図書としての発行機会まで奪うものでもない。
だから。
検閲には当たらない。
「……なるほどな」
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。
「何です?」
「検閲って言葉、思ったより狭いな」
「そうなんです」
私は思わず頷きました。
「日常語だと、市役所が文章を見るだけで『検閲だ』って言いたくなるんですけど」
「憲法上は違う」
「はい」
最高裁のいう「検閲」は。
かなり厳格に定義されています。
だからこそ。
該当すれば絶対禁止。
「所長」
私は聞きました。
「何で検閲だけ、こんなに強く禁止するんです?」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「考えろ」
「はい」
「表現の自由は、何のためにある」
「個人が自分の思想や意見を表現するため」
「それだけか」
「……民主政?」
「そうだ」
自分の考えを外に出す。
自己実現。
それだけではない。
政治。
行政。
社会。
権力。
それらについて市民が情報を受け取り。
意見を言い。
批判し。
議論する。
民主主義を動かすためにも。
表現の自由は必要です。
「昨日のチラシもそうですよね」
「何がだ」
「市の駅前再整備について、市民が質問する」
「ああ」
「行政のやることを、市民が批判する」
「そうだ」
「その批判を」
私は赤鉛筆原稿を見ました。
「批判される側の行政が、世に出る前に読んで」
「うん」
「都合が悪いところを消させる」
ぞっとしました。
改めて。
「……それ、民主主義そのものが弱くなりますね」
所長が頷きました。
「だから重い」
市民が行政を批判する。
行政が批判内容を事前審査する。
行政が不適当だと判断したものを発表させない。
もしそれが普通になれば。
表現の自由がある。
と条文に書いてあっても。
実際に世の中へ出てくる言葉は、
行政が許したものだけになる。
それでは。
自由とは呼べない。
「だから」
私は言いました。
「検閲は絶対禁止」
「そうだ」
私はノートの次の見出しを書きました。
――公共の福祉。
「来ました」
「昨日の沢渡だな」
「はい」
表現の自由も無制限ではない。
これは正しい。
名誉。
プライバシー。
他人の権利。
公共の安全。
具体的な利益との調整が必要になる場合はある。
でも。
「『公共の福祉』って言えば全部止められるわけじゃない」
「当たり前だ」
「昭和の現場だと、その当たり前が強敵なんですよ」
地元の和。
地域秩序。
揉め事防止。
昔からこうしている。
みんな納得している。
そういうものが。
公共の福祉という法律っぽい服を着て出てくる。
「昨日の沢渡課長も」
私は言いました。
「住民間の混乱防止って言ってました」
「ああ」
「でも、それだけじゃ足りない」
何を守ろうとしているのか。
具体的な害は何なのか。
その害が本当に起きるのか。
表現そのものを事前に止めなければ防げないのか。
もっと制限の弱い方法はないのか。
「だから昨日」
私は市の新しい通知を取り出しました。
内容審査。
やめる。
その代わり。
通行。
安全。
配布場所。
時間。
施設管理上必要な事項は確認する。
「これなら」
相馬先輩が言います。
「言ってる内容じゃなく、配り方を見る」
「はい」
たとえば。
市民会館の非常口を塞いでチラシを配る。
駄目です。
廊下を百人で占拠する。
駄目です。
大声で来館者を追い回す。
たぶん駄目です。
でも。
市長を批判しているから駄目。
再整備計画に疑問を呈しているから駄目。
それは。
まったく別の問題。
「内容規制と、内容中立的な規制の違いにもつながりますね」
私が言うと、相馬先輩が嫌そうな顔をしました。
「また難しい言葉を増やすな」
「大事ですよ」
「今日は検閲だろ」
「そうでした」
範囲管理。
行政書士試験は、横道に入ると帰ってこられません。
「でも」
私はふと気づきました。
「憲法って変わってないんですよね」
「またその話か」
「大事なんです」
私は憲法の冊子を持ち上げました。
「昭和六十三年の第二十一条と、令和の第二十一条」
一字一句。
同じ。
「なのに」
私は赤鉛筆原稿を見ました。
「感覚が違う」
昭和六十三年。
市役所が、
地元の和を乱す。
混乱を招く。
まず内容を見せてください。
と言う。
それに対して。
相談者自身も。
逆らっていいんでしょうか。
店に何かされませんか。
と怖がっていた。
条文は同じ。
でも。
社会の空気は同じではない。
「法律が変わらなくても」
私は言いました。
「人権の感じ方は変わるんですね」
「感じ方だけじゃない」
片桐所長が言いました。
「何がです?」
「判例が積み重なる」
「あ」
「社会も変わる。争われる事件も変わる。そのたび、同じ条文の意味が具体化される」
なるほど。
憲法二十一条に。
事前抑制。
厳格かつ明確な要件。
なんて全部書いてあるわけではない。
検閲の六要件だって。
条文に箇条書きされているわけではない。
同じ条文を。
現実の事件に当てはめ。
裁判所が線を引いてきた。
「だから」
私は言いました。
「条文が変わってないイコール、憲法の世界が何十年も止まってる、じゃない」
「そういうことだ」
これは。
転生して初めて分かった気がします。
憲法は変わっていない。
でも。
憲法を取り巻く判例。
社会。
人権感覚。
行政の運用。
それらは動く。
「ただし」
相馬先輩が言いました。
「未来の感覚だけ持ち込んで、昭和の人間を馬鹿にすんなよ」
私は少し驚きました。
「先輩がそんなこと言うんですね」
「何だよ」
「もっと『昭和の役所は頭が固え!』って言うかと」
「頭固え奴はいる」
「いるんだ」
「でもな」
相馬先輩は新しい煙草を取り出しました。
「役所が揉め事を避けたがるのにも理由はある」
「はい」
「商店街が割れる。地権者が揉める。工事が止まる。住民同士で喧嘩になる」
「……はい」
「それを避けたいって目的まで悪だとは言えねえ」
確かに。
沢渡課長だって。
市民を黙らせて喜んでいたわけではない。
駅前再整備を進めたい。
不要な混乱を防ぎたい。
その目的自体は理解できる。
問題は。
手段。
「混乱を防ぎたいから」
私は言いました。
「批判的な文章を配る前に削らせる」
「そこまで行くと線を越える」
「はい」
目的が正しそうに見えるほど。
手段まで正しいと思い込みやすい。
公共の福祉。
秩序維持。
地域の融和。
どれも。
目的として口当たりがいい。
だからこそ。
何をしているのか。
手段を細かく見る。
「憲法って」
私は言いました。
「『目的がいいから仕方ない』で終わらせないための法律なんですね」
所長が少しだけ頷きました。
私はノートを見直しました。
事前抑制。
表現物が発表される前に、その発表を抑えること。
原則禁止。
ただし、厳格かつ明確な要件の下で例外的に許容され得る。
検閲。
事前抑制の中でも。
行政権が主体となり。
思想内容等の表現物を対象とし。
発表禁止を目的として。
一定の表現物を網羅的一般的に。
発表前に審査し。
不適当と認めたものの発表を禁止するもの。
絶対禁止。
北方ジャーナル事件。
裁判所の仮処分。
司法権だから検閲ではない。
しかし事前抑制なので、厳格に判断。
税関検査事件。
行政による審査でも。
国外ですでに発表済みで。
発表そのものを全面的に禁止するものではないため。
検閲ではない。
教科書検定。
不合格でも。
一般図書としての発行を禁止するものではない。
だから検閲ではない。
「……整理できた」
私はペンを置きました。
「じゃあ問題」
相馬先輩が言います。
「嫌な予感」
「市役所が市民新聞を発行前に全部読んで、役所を批判する記事があったら発行を禁止する」
「検閲の可能性が極めて高い」
「税関が外国ですでに売られている本の輸入を法律に基づいて止める」
「行政がやってても、直ちに検閲とはならない。税関検査事件」
「裁判所が私人の申立てを受けて雑誌の記事を出版前に差し止める」
「検閲ではない。でも事前抑制」
「教科書検定で不合格」
「一般図書として出版できるなら、検閲ではない」
「じゃあ」
相馬先輩がにやりとしました。
「俺がお前のノートを発表前に読んで、くだらない部分を全部削る」
「事前抑制です」
「検閲は?」
「先輩は行政権じゃないので、憲法二十一条二項の検閲ではありません」
「じゃあ削っていいな」
「よくない!」
「検閲じゃねえんだろ」
「憲法上の検閲じゃないことと、先輩に私物を勝手に添削されていいことは別問題です!」
「分かってきたじゃねえか」
「そのための問題だったんですか?」
「今考えた」
「返してください!」
ノートを取り返します。
片桐所長が呆れたようにこちらを見ました。
「こはる」
「はい」
「一行」
「あ」
忘れるところでした。
今日の。
一行の覚え書き。
私はペンを持ちます。
最初。
――検閲は行政権がする事前抑制で、絶対禁止。
うーん。
少し足りない。
書き直します。
――「出る前に止める」が事前抑制。「行政が広く事前審査して、駄目なら出させない」が検閲。
「長い」
相馬先輩が言います。
「じゃあ短くします」
私は考えました。
そして。
ノートの最後に、大きく書きました。
――事前抑制は原則ダメ。行政の検閲は絶対ダメ。
「雑だな」
「まずこれを骨にするんです」
その下に、小さく。
――検閲は六要件。特に主体は行政権。
と書き足しました。
「二行じゃねえか」
「補足です」
「一行の覚え書きだろ」
「六要件を一行に押し込むと文字が小さくなるんですよ!」
「知らねえよ」
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『水野です』
「あ、水野さん」
『今日、討論会なんです』
「そうでしたね」
『市役所の人も来てくれるそうです』
「聞きました」
『それで』
少しだけ。
水野さんの声が小さくなりました。
『チラシを見た人から、苦情も来ました』
「苦情?」
『「市役所を悪者にするな」とか。「駅前整備に反対するなら商店街から出ていけ」とか』
「……そうですか」
『やっぱり、怖いですね』
私は答えられませんでした。
市役所の事前審査は止まった。
でも。
世間の目まで消えるわけではない。
法律で行政を止めても。
人の同調圧力までは、条文一本でなくならない。
『でも』
水野さんが続けました。
『来てくれる人もいるんです』
「はい」
『「私も聞きたかった」って』
「……はい」
『だから、やります』
「はい」
『別に、市を倒したいわけじゃないんです』
「分かっています」
『ちゃんと説明してほしいだけ』
その言葉が。
昨日のチラシより、ずっと静かでした。
「それでいいと思います」
私は言いました。
『ありがとうございます』
電話が切れます。
受話器を置くと。
相馬先輩がこちらを見ました。
「何だって?」
「苦情も来てるそうです」
「そうか」
「でも討論会はやるって」
「そうか」
それだけ。
相馬先輩は言いました。
片桐所長も何も言いません。
窓の外では。
夕方の町が、少しずつ暗くなっていました。
たぶん今頃。
市民会館では椅子が並べられている。
水野さんたちが資料を置いて。
市役所の担当者も来る。
市に賛成する人も。
反対する人も。
よく分からないから聞きたい人も来る。
そこで。
誰かが何かを言う。
誰かが反論する。
もしかしたら。
少し揉めるかもしれません。
地元の和は。
ほんの少し乱れるかもしれない。
でも。
私は思いました。
民主主義って。
たぶん。
誰も何も言わない状態のことではありません。
意見が違う人たちが。
それでも言葉を世の中へ出して。
聞いて。
反論して。
最後には何かを決める。
そのために。
まず。
言葉が世の中へ出る必要がある。
出る前に消された言葉には。
誰も賛成できない。
誰も反対できない。
誰も考えることすらできない。
だから。
事前抑制は怖い。
だから。
行政による検閲は、もっと怖い。
私はノートの最後の一行を見ました。
――事前抑制は原則ダメ。行政の検閲は絶対ダメ。
受験用なら。
これで十分かもしれません。
でも。
今日なら。
もう少しだけ分かります。
その言葉の後ろには。
水野さんのチラシがあります。
赤鉛筆があります。
市役所の窓口があります。
そして。
今夜、市民会館で初めて誰かの耳へ届く言葉があります。
「所長」
「何だ」
「憲法って」
「うん」
「言葉を守る法律なんですね」
片桐所長は少し考えました。
「違う」
「え?」
「言葉だけじゃない」
所長は帳簿を閉じました。
「言葉を出す人間を守る」
私は黙りました。
なるほど。
だから。
表現の自由。
私はノートを閉じます。
その瞬間。
相馬先輩が手を伸ばしました。
「貸せ」
「嫌です」
「まだ何も言ってねえ」
「ノートでしょう」
「読ませろ」
「事前審査ですか」
「誤字脱字の確認だ」
「内容も直すでしょう」
「不適当ならな」
「検閲!」
「だから俺は行政権じゃねえ!」
「じゃあ事前抑制!」
「発表予定あるのか!」
「あります!」
「どこで!」
「未来で!」
「意味分かんねえ!」
片桐所長が額を押さえました。
「二人とも」
「はい」
「うるさい」
「すみません」
「すみません」
私たちは同時に黙りました。
三秒後。
相馬先輩が小声で言います。
「これが事後規制だな」
「……たぶん違います」
私は笑いました。
窓の外。
市民会館の方向に。
ぽつぽつと灯りがつき始めていました。
言葉は。
まだ消されていません。
だから今夜。
誰かに届きます。
それだけのことを守るために。
憲法第二十一条は。
昭和六十三年も。
そして未来も。
同じ場所に立ち続けているのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




