[憲法21条の2・事前抑制と検閲]現場編 「市役所で内容を確認してから配ってください」の罠。昭和の“事前チェック”と、絶対に越えてはいけない検閲の一線
言ってはいけないことを決められるより。
言う前に、見せろと言われるほうが怖い。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「これ、市役所に見せないと配っちゃいけないそうです」
その日の相談者は、一束の紙を抱えてやってきました。
ざらついた白い紙。
黒一色の印刷。
上には太い文字で、
――駅前再整備を考える市民の会 公開討論会。
とあります。
「チラシですか?」
「はい」
相談者は三十代半ばくらいの女性でした。
名前は、水野美代子さん。
駅前商店街で文房具店を営んでいます。
最近、市が進めている駅前再整備計画について、市民有志で勉強会を始めた。
道路の付け替え。
バス乗り場の移転。
古い商店街の一部整理。
観光案内施設の新設。
計画そのものに反対しているわけではない。
ただ。
「市から説明されることと、商店街で聞く話が違うんです」
「どう違うんです?」
「立ち退きの範囲とか、工事の順番とか。だから、一度みんなで話を聞こうって」
「それで討論会を?」
「はい」
私はチラシを読みました。
市民会館小ホール。
午後七時から。
入場無料。
市の担当者にも出席を要請。
再整備計画について、市民側から質問する。
ごく普通です。
少なくとも、紙面を見る限り。
「何が問題なんです?」
水野さんは、もう一枚の紙を差し出しました。
「これです」
市役所商工観光課からの通知。
そこには、
――駅前再整備に関する印刷物を公共施設その他市管理区域において配布する場合は、事前に内容を担当課へ提出し、確認を受けること。
とありました。
「確認?」
私は読み返しました。
さらに、その下。
――市政に対する誤解を招く内容、地域の秩序又は住民間の融和を害するおそれのある内容を含む場合には、配布を認めないことがある。
「……え?」
思わず声が出ました。
相馬先輩が向かいの机から顔を上げます。
「どうした」
「先輩、これ」
紙を渡します。
読む。
眉が動く。
「誰が出した」
「商工観光課です」
水野さんが答えました。
「最初は口頭だったんです。念のため書面でもらったんですけど」
「よくもらったな」
「文房具屋なので」
「関係あるか?」
「紙にはうるさいんです」
「そういう意味じゃねえ」
少しだけ空気が緩みました。
でも。
問題は全然緩くありません。
「提出したんですか?」
「はい」
「このチラシを?」
「そうです」
「それで?」
水野さんは鞄から赤鉛筆の入った原稿を取り出しました。
私は固まりました。
何か所も線が引かれています。
――住民への説明は十分なのか。
削除。
――商店街の声は計画に反映されているのか。
削除。
――市の計画決定過程を公開してほしい。
修正。
その横には、
――「市の計画について意見交換します」程度の表現が適当。
と書かれていました。
「……添削?」
「そうみたいです」
市役所が。
市役所について批判するチラシを。
配る前に読んで。
ここは削れ。
ここは変えろ。
直さなければ配布を認めない。
頭の中で。
一つの単語が、ものすごく嫌な音を立てました。
検閲。
「こはる」
片桐所長の声が飛んできました。
「まだ言うな」
「え?」
「顔に書いてある」
「そんなに分かりやすいですか」
「大きく書いてある」
相馬先輩が言いました。
「『検閲だ!』ってな」
「まだ声に出してません」
「だから顔だ」
私は口を閉じました。
危ない。
憲法を覚えた受験生が、行政による事前チェックを見た瞬間、
検閲!
憲法二十一条二項!
絶対禁止!
と叫ぶ。
たぶん、それが一番危ない。
片桐所長は水野さんに尋ねました。
「配る予定の場所は?」
「駅前と、市民会館の周りです」
「全部市の土地ですか」
「駅前広場はそうだと思います。でも商店街の店にも置いてもらうつもりでした」
「市役所は、民間の店に置く分まで確認を受けろと言った?」
「はい」
所長の目が止まりました。
「間違いないですか」
「はい。『駅前再整備に関係する印刷物は、混乱防止のため一度全部見せてください』って」
全部。
その言葉が重い。
「見せなかったら?」
「配布しないように、と」
「従わなければ?」
「市民会館の使用も再検討すると言われました」
相馬先輩が椅子の背にもたれました。
「ずいぶん景気よく踏んできやがったな」
「何をです?」
「線をだよ」
片桐所長が立ち上がりました。
「市役所へ行く」
「はい」
私も立ちます。
「こはる」
「はい」
「憲法は持っていけ」
「はい」
「ただし」
所長が私を見る。
「抜くな」
「……はい?」
「最初から憲法を振り回すな」
「でもこれ、かなり――」
「かなり、何だ」
「……危ないです」
「そうだ」
所長は上着を取ります。
「だからこそ、最後に抜け」
市役所二階。
総務課。
「事前確認です」
沢渡課長は、いつもの調子で言いました。
「検閲ではありません」
先に言われました。
私はまだ一言も言っていません。
「なんで分かったんですか」
「朝比奈さんが来たので」
「私、どういう認識なんですか」
「条文を見つけると嬉しそうな人」
「だいたい合ってる」
相馬先輩が言います。
「先輩」
沢渡課長は机の上のチラシを指しました。
「市としては、駅前再整備について誤った情報が流布されることを避けたい。それだけです」
「誤った情報?」
私は聞きました。
「はい」
「どこが誤ってるんです?」
「たとえば、『住民への説明は十分なのか』という表現」
「質問ですよね」
「読む人によっては、市が十分な説明をしていないとの印象を受けます」
「実際、十分なんですか?」
「それは評価の問題です」
「じゃあ誤りじゃないですよね」
沢渡課長の眼鏡の奥が少し細くなりました。
相馬先輩が咳払いします。
「朝比奈」
「はい」
「喧嘩しに来たんじゃねえ」
「すみません」
沢渡課長は動じません。
「駅前再整備は、地権者、商店主、交通事業者、周辺住民、多数の利害関係人が関わります」
「はい」
「不用意な表現が広がれば、不要な対立を生む」
「だから市が事前に読む?」
「行政運営上の調整です」
「内容まで?」
「必要な範囲です」
「削除まで求める?」
「表現の修正をお願いしています」
「直さなかったら?」
「公共施設での配布は認めません」
「民間の店は?」
一瞬。
沢渡課長が黙りました。
「市としては、自粛をお願いしています」
来ました。
昭和の強敵。
自粛。
禁止してません。
命令してません。
お願いです。
でも。
役所から言われた側は、なかなか断れない。
しかも、市民会館の利用までちらついている。
「課長」
相馬先輩が言いました。
「何を守りたい」
「秩序です」
「何の秩序だ」
「地域社会の秩序です」
「もっと具体的に」
「地元の和です」
その言葉が出た瞬間。
私は妙に納得してしまいました。
ああ。
これだ。
法律じゃない。
昭和の空気です。
町内会。
商店会。
自治会。
役所。
地元の有力者。
揉めないこと。
逆らわないこと。
話を大きくしないこと。
みんな同じ方向を見ること。
誰かが声を上げると、
空気を読め。
和を乱すな。
今までうまくやってきた。
そう言われる。
それを役所の言葉にすると。
「公共の福祉、ですか」
私が言いました。
沢渡課長は頷きます。
「表現の自由も無制限ではありません」
正しい。
そこだけ聞けば。
「公共の福祉による一定の制約を受ける」
「はい」
「市には住民間の無用な混乱を防ぐ責任もあります」
私は一瞬。
言葉に詰まりました。
憲法二十一条。
表現の自由。
大事。
でも無制限ではない。
他人の名誉。
プライバシー。
社会秩序。
一定の制約はあり得る。
沢渡課長は、そこを知っています。
単純に、
表現の自由だから何でも自由です!
では勝てない。
しかも。
この時代の空気は、
揉め事を起こす側が悪い。
と言ってくる。
市が計画を進めている。
大勢が協力している。
なのに一部の人が批判的なチラシを配る。
和を乱す。
迷惑だ。
そういう空気。
憲法の条文は同じなのに。
空気が重い。
私は少しだけ、怖くなりました。
現代なら。
行政が批判的なチラシを事前に読んで、修正しなければ配らせないなんて。
かなり危険だと感じる。
でもここでは。
「昔からそうしてます」
その一言が、法律より強そうに聞こえる。
「朝比奈」
帰り際。
片桐所長が言いました。
「今日は戻るぞ」
「でも」
「戻る」
「……はい」
沢渡課長は止めませんでした。
「意見書を出されるなら、受け取ります」
最後にそう言いました。
「ただし」
「何でしょう」
「『検閲だ』の一言だけなら、こちらも一行で回答します」
「何て?」
「『該当しないと考えます』」
腹立つ。
でも。
正しい。
検閲。
その言葉は強い。
強いからこそ。
雑に使えば負ける。
事務所へ戻って。
私は憲法を開きました。
第二十一条。
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
そして第二項。
検閲は、これをしてはならない。
通信の秘密は、これを侵してはならない。
「……同じ」
私は呟きました。
「何がだ」
相馬先輩が煙草に火をつけます。
「条文です」
「昨日と?」
「令和とです」
「また未来の話か」
「一字一句、同じなんですよ」
憲法は変わっていない。
昭和六十三年でも。
現代でも。
同じ。
だったら。
使える。
私は判例集を引っ張り出しました。
北方ジャーナル事件。
最高裁大法廷。
昭和六十一年六月十一日。
「……二年前」
「何が?」
「この判決、二年前です」
思わず声が大きくなりました。
「昭和六十一年」
「今は六十三年だぞ」
「使える!」
「そりゃ使えるだろ」
「未来判例じゃない!」
「お前、普段何と戦ってんだ」
時系列です。
転生者最大の敵です。
私は判例を読みます。
そして。
止まりました。
「所長」
「何だ」
「これです」
検閲とは。
行政権が主体となって。
思想内容等の表現物を対象とし。
その全部又は一部の発表の禁止を目的として。
一定の表現物を網羅的一般的に。
発表前に内容を審査し。
不適当と認めるものの発表を禁止する。
「……六つ」
私は呟きました。
「六つの要素」
行政権。
表現物。
発表禁止目的。
網羅的一般的。
発表前。
不適当なものを発表禁止。
今回。
主体。
市役所。
行政権です。
対象。
駅前再整備に関するチラシ。
思想内容を含む表現物。
目的。
問題があると市が判断した内容の配布を止める。
対象範囲。
駅前再整備に関する印刷物を「一度全部見せてください」。
時期。
配布前。
効果。
修正しなければ公共施設での配布を認めない。
さらに民間店舗についても自粛を要求。
「……これ」
私は顔を上げました。
相馬先輩が言います。
「言え」
「かなり危ないです」
「さっきより弱くなったな」
「逆です」
私は判例集を閉じました。
「さっきまでは、なんとなく検閲っぽいと思ってました」
「今は?」
「要件で見ても危ない」
片桐所長がこちらを見ました。
「なら書け」
「意見書?」
「そうだ」
「憲法、抜いていいんですか」
「抜け」
来た。
伝家の宝刀。
ただし。
所長が続けました。
「二本立てにしろ」
「二本?」
「検閲だけで終わるな」
私は少し考えました。
「あ」
事前抑制。
検閲と事前抑制は、同じではない。
検閲は、行政権による特定の態様の事前審査・発表禁止。
絶対に禁止される。
一方。
表現を世に出る前に止める事前抑制は、それより広い。
「北方ジャーナル」
私は言いました。
「裁判所の仮処分は、行政権が主体じゃないから検閲には当たらなかった」
「だが?」
「事前抑制ではある」
「それで?」
「事前抑制は原則として許されない」
例外はある。
でも。
厳格かつ明確な要件の下でのみ許容され得る。
「そういうことだ」
所長が言いました。
「役所が『検閲じゃない』と言えば終わると思うな」
なるほど。
検閲に当たるか。
まずそこを詰める。
しかし。
仮に検閲の定義に完全には当たらないとしても。
発表前に表現を止める仕組みである以上、
事前抑制として極めて厳格に見る必要がある。
「逃げ道を塞ぐんですね」
「言い方が悪い」
「論点を漏らさない?」
「それでいい」
相馬先輩が灰皿を引き寄せました。
「あと、公共の福祉って言葉も潰しとけ」
「潰す?」
「便利に使わせんなってことだ」
その夜。
意見書を作りました。
感情は書かない。
昭和は古い。
役所は頭が固い。
そんなことも書かない。
ただ。
事実と法理を並べる。
市が駅前再整備関係の印刷物について事前提出を求めていること。
内容を審査していること。
市政への批判的・疑問的表現について削除・修正を求めていること。
従わない場合、公共施設での配布を認めないとしていること。
さらに民間店舗での配布についても自粛を求めていること。
そして。
憲法二十一条。
最高裁昭和六十一年六月十一日大法廷判決。
行政権。
表現物。
発表禁止目的。
網羅的一般的審査。
発表前審査。
不適当なものの発表禁止。
私は一つずつ対応させました。
最後に。
仮に憲法二十一条二項の「検閲」該当性について市側に異論があるとしても、
本件運用が表現内容に着目した事前抑制として重大な憲法上の問題を有することは別途検討されなければならない。
表現行為に対する事前抑制は、
表現が世に出る機会そのものを奪う。
事後的な責任追及よりも、表現の自由への制約が大きい。
したがって。
「地元の和」。
「混乱防止」。
「公共の福祉」。
その程度の抽象的な言葉だけで正当化することはできない。
「……書けた」
時計を見る。
午後九時。
「長え」
相馬先輩が原稿を取ります。
「すみません」
「謝るくらいなら削れ」
「どこを?」
「ここ」
赤鉛筆。
一本。
二本。
三本。
「ちょっと!」
「形容詞が多い」
「私の力作!」
「意見書は小説じゃねえ」
「分かってます!」
未来の私は小説を書くかもしれませんけど。
今は行政書士見習いです。
片桐所長も読みます。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
そして。
「ここは断定するな」
「検閲に該当する、のところですか」
「そうだ」
「でも要件はかなり――」
「かなり近い」
「はい」
「だからこそ、『検閲に該当する重大な疑いがある』としろ」
「弱くなりません?」
「逆だ」
所長は紙を机に置きました。
「役所に判断を戻させるんだ」
「判断を?」
「この運用を続けるなら、市は自分で説明しなければならなくなる」
なぜ検閲ではないのか。
なぜ事前抑制が許されるのか。
なぜ批判的な表現だけ修正させるのか。
なぜ公共の福祉という抽象語で足りるのか。
全部。
「……なるほど」
「相手が逃げられない質問を作れ」
それが実務。
裁判所で勝訴判決を取るのではない。
役所の机の上で、
このまま進めるほうが危ない。
と気づかせる。
翌日。
総務課。
沢渡課長の机に、
意見書を置きました。
十二ページ。
相馬先輩に削られて十二ページ。
最初は十八ページありました。
「長いですね」
沢渡課長が言いました。
「先輩に六ページ削られました」
「それでも十二ページ」
「力作です」
「自慢するな」
相馬先輩に頭を軽く叩かれました。
沢渡課長は一ページ目を読みます。
表情は変わりません。
二ページ。
三ページ。
四ページ。
そして。
判例名のところで止まりました。
「北方ジャーナル事件」
「昭和六十一年六月十一日」
私は言いました。
「最高裁大法廷です」
「知っています」
でしょうね。
この人に判例名で威嚇は効きません。
「市としては、検閲を行っている認識はありません」
「認識の問題じゃねえ」
相馬先輩が言います。
「行為の中身だ」
沢渡課長は続きを読みます。
「行政権が主体」
小さく呟く。
「表現物を対象」
次。
「発表禁止目的」
次。
「網羅的一般的」
指が止まりました。
「この点は争いがありますね」
「どこがです?」
「市は世の中の出版物全部を審査しているわけではない」
「もちろんです」
「駅前再整備に関する印刷物だけです」
「だから、そこは市側の反論として書いてあります」
沢渡課長が顔を上げました。
「自分に不利なことも書くんですか」
「書きます」
「なぜ」
片桐所長が答えました。
「役所がそこだけ読んで安心しないようにだ」
一瞬。
沢渡課長が黙りました。
私は続けます。
「仮に検閲に当たらないとしても、終わりじゃありません」
「事前抑制ですか」
「はい」
「北方ジャーナル事件の差止めは裁判所による仮処分でした」
「はい」
「司法権が主体だから検閲ではない」
「そうです」
「しかし事前抑制として、厳格かつ明確な要件が必要とされた」
「はい」
沢渡課長は眼鏡を外しました。
珍しい。
「朝比奈さん」
「はい」
「あなた方は、市が検閲をしていると断定したいのですか」
「いいえ」
「では何を求めています」
私は答えました。
「市民のチラシを、内容で事前審査する運用をやめてください」
「公共施設については管理権があります」
「施設管理上のルールは必要だと思います」
「なら」
「でも」
私は水野さんの原稿を出しました。
赤鉛筆。
削除。
修正。
「これは施設管理じゃありません」
沢渡課長が黙る。
「紙を貼る場所とか」
私は言いました。
「配る時間とか」
「……」
「通行を邪魔しないとか」
「……」
「そういうルールなら分かります」
私は赤線を指しました。
「でも、『市の説明は十分なのか』という文章を消せ、は違います」
沢渡課長の視線が赤線へ落ちました。
「これは」
私は言いました。
「市民会館をどう使うかの管理じゃなくて、市民が何を言うかの管理になっています」
静かになりました。
相馬先輩が腕を組みます。
「地元の和を守りたいのは分かる」
沢渡課長を見る。
「俺だって毎日喧嘩してえわけじゃねえ」
「そうでしょうね」
「でもな」
相馬先輩の声が低くなりました。
「世間の常識? 俺たちが守ってんのは法律だ」
沢渡課長の眉が少し動く。
「役所が批判されるのが嫌だから、配る前に文章を直させる」
相馬先輩が意見書を指で叩きました。
「そんな『和』なら、憲法より下だ」
私は思わず先輩を見ました。
格好いい。
今日はかなり格好いい。
でも言いません。
調子に乗るから。
「公共の福祉」
片桐所長が口を開きました。
「便利な言葉です」
沢渡課長が所長を見る。
「ですが、何でも入る箱ではない」
「承知しています」
「なら、具体的に比較してください」
「何をです」
「守ろうとしている利益と、奪おうとしている表現の機会を」
片桐所長は淡々と続けます。
「市民が行政計画について疑問を述べる。その内容を行政自身が発表前に読み、批判的な部分を削除させ、従わなければ配布を認めない」
所長の指が、憲法の冊子に触れました。
「そこまでやる必要が、本当にあるのか」
沢渡課長は答えませんでした。
「ないなら」
所長が言います。
「最高法規を相手に賭けをする理由もないでしょう」
数秒。
沢渡課長は黙っていました。
それから。
「この場で回答はできません」
「構いません」
「商工観光課、市民会館担当、法務担当と確認します」
「お願いします」
「ただし」
沢渡課長が私たちを見る。
「市が表現活動について一切関与できない、という結論にはなりません」
「もちろんです」
私は答えました。
「通行妨害とか、施設の利用方法とか、別の具体的な問題があるなら別です」
「分かっているなら結構です」
「でも」
「何でしょう」
「内容が気に入らないから配る前に止める、は別です」
沢渡課長は、少しだけ息を吐きました。
「……そこを検討します」
三日後。
水野さんが事務所へ飛び込んできました。
「変わりました!」
「何がです?」
「市の通知!」
一枚の紙。
私は受け取ります。
新しい運用。
駅前再整備に関する市民作成の印刷物について、
市は原則として内容の事前提出を求めない。
公共施設内で配布する場合には、
通行、
安全、
施設利用上の支障、
配布場所及び時間など、
施設管理上必要な事項のみ確認する。
そして。
表現内容について、市政への批判又は賛否を理由として配布を拒まない。
「……勝った?」
思わず呟きました。
「違う」
片桐所長が言います。
「え?」
「勝ち負けじゃない」
「でも」
「行政を合法な位置へ戻しただけだ」
格好いい。
所長も今日は格好いい。
この事務所、たまに全員格好よくなる日があります。
「討論会は?」
相馬先輩が聞きました。
「予定どおりです!」
「チラシも?」
「このまま配れます」
水野さんは、赤鉛筆で真っ赤になった旧原稿を取り出しました。
「これ、取っておこうと思って」
「記念に?」
「はい」
「嫌な記念ですね」
「でも」
水野さんは笑いました。
「最初は怖かったんです」
「何がです?」
「市役所に逆らって、店に何かされたらどうしようって」
私は答えられませんでした。
たぶん。
それが一番怖い。
法律に書いていない圧力。
許可。
補助金。
施設利用。
商店会。
町内会。
近所付き合い。
役所が直接、
黙れ。
と言わなくても。
人は黙る。
「でも」
水野さんがチラシを見ました。
「普通のことを書いていいんですよね」
「はい」
「市の計画に、疑問がありますって」
「はい」
「説明してくださいって」
「言っていいです」
「役所が嫌な顔しても?」
私は少し考えてから答えました。
「嫌な顔をする自由までは、たぶんあります」
相馬先輩が吹き出しました。
「何だそりゃ」
「でも、言わせない権限とは別です」
「それでいい」
片桐所長が言いました。
その日の夕方。
市役所から電話がありました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『沢渡です』
「お疲れさまです」
『例の運用ですが』
「はい」
『庁内で整理しました』
「聞きました」
『内容確認という言葉が広すぎました』
珍しい。
沢渡課長が、はっきり認めています。
「再整備への反対運動が過熱することを警戒していたのは事実です」
「はい」
『ですが、市への批判的表現まで事前に修正させる根拠にはならない』
「……はい」
『施設管理と表現内容の審査を混同していました』
私は黙って聞きました。
『ただ』
「何でしょう」
『あなたの意見書にも、一か所問題があります』
「え」
嫌な予感。
『「本件は検閲に該当する」と最初に書いて、あとで「該当する重大な疑い」と直していますね』
「なんで分かるんですか」
『訂正跡が残っています』
「先輩!」
向こうの机で相馬先輩が笑っています。
「ちゃんと消したと思ったのに!」
『朝比奈さん』
「はい」
『憲法論は、言葉が強い』
「……はい」
『だから、強い言葉ほど要件を詰めて使ったほうがいい』
私は少し黙りました。
「検閲と事前抑制は、同じじゃない」
『そうです』
「検閲に当たらなくても、事前抑制として問題になることがある」
『ええ』
「逆に、行政が何かを事前確認しただけで、全部が直ちに検閲になるわけでもない」
『そのとおりです』
なんでしょう。
またこの人に授業をされている気がします。
「課長」
『何でしょう』
「今回、市が引いた一番の理由って何です?」
少し間がありました。
『合理的ではなかったからです』
「憲法違反が怖かったからじゃなくて?」
『違憲の疑いがある運用を、明確な必要性もなく維持すること自体が合理的ではないでしょう』
なるほど。
沢渡課長らしい。
『それでは』
「あ、課長」
『まだ何か』
「討論会、市の担当者は出るんですか」
『出席します』
「本当に?」
『批判があるなら、説明すればいい』
「……そうですね」
『禁止するより、そのほうが健全です』
電話が切れました。
私は受話器を置きました。
「何だって?」
相馬先輩が聞きます。
「討論会、市役所も出るそうです」
「へえ」
「批判があるなら説明するって」
「最初からそうしろって話だな」
「本当に」
私は机の上の憲法を見ました。
薄い冊子です。
条文も。
短い。
検閲は、これをしてはならない。
たったそれだけ。
しかも。
昭和六十三年も。
現代も。
一文字も変わっていない。
変わっていないのに。
その言葉が置かれている社会は、同じではない。
昔からこうしてきた。
地元が揉める。
役所に逆らうな。
和を乱すな。
そんな空気が、人の口を閉じることがある。
でも。
憲法は。
空気を読みません。
町内会長の顔色も。
商店会の評判も。
役所の都合も。
読みません。
ただ。
国家が人の言葉を止めるとき。
その手をどこまで伸ばしていいのか。
そこに線を引いている。
「所長」
「何だ」
「憲法って」
私は言いました。
「実務で使うんですね」
片桐所長が書類から顔を上げました。
「今さらか」
「受験生の頃は、憲法って判例問題を解く科目だと思ってました」
「馬鹿だな」
「そこまで言います?」
「憲法を毎日振り回す行政書士は三流だ」
「はい」
「だが」
所長は窓の外を見ました。
「役所が越えてはいけない線を越えたとき、最後に残る線も憲法だ」
私はノートを開きました。
今日の教訓。
何と書こう。
少し考えて。
一行だけ書きました。
――「配る前に見せろ」は、ただの確認とは限らない。言葉が世に出る前だからこそ、憲法は厳しく見る。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「何です?」
「そのノート、俺にも事前に見せろ」
「嫌です」
「不適当な部分があったら削除してやる」
「もっと嫌です」
「事務所の秩序維持だ」
「検閲です!」
「俺は行政権じゃねえ」
「くっ……!」
正しい。
腹立つほど正しい。
「じゃあ事前抑制です!」
「発表する予定あんのか、そのノート」
「将来、本にするかもしれません」
「誰が読むんだ」
「全国の行政書士受験生です!」
「売れねえよ」
「表現内容への不当な介入!」
「出版してから言え」
「発表前に止めようとしてるじゃないですか!」
相馬先輩が笑いました。
片桐所長は呆れたように帳簿へ目を戻します。
窓の外。
駅前では。
水野さんたちが、あのチラシを配っているはずです。
誰かが受け取る。
読む。
賛成する人もいる。
反対する人もいる。
くだらないと言って捨てる人もいる。
それでいい。
表現の自由とは。
正しいことだけを言う自由でも。
みんなが喜ぶことだけを言う自由でもありません。
まず。
言葉を世の中へ出せること。
そこから始まる。
昭和六十三年。
古い町の夕暮れ。
市役所の窓にも。
商店街の看板にも。
同じ橙色の光が落ちていました。
憲法の文字は、未来まで変わらない。
だからきっと。
時代の空気がどれだけ重くても。
誰かが声を上げるための隙間は、
最後まで閉じてはいけないのです。
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