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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈憲法 配点28点/300点〉 人権

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369/701

[憲法21条・表現の自由]現場編 「町の悪口を書くなら配らせません」の罠。役所が守るべきは“地元の和”か、それとも言論か

挿絵(By みてみん)

 人は、黙っているかぎり、あまり揉めません。


 でも。


 揉めない町が、自由な町とは限りません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


「新聞を、配るなと言われました」


 その日の相談者は、そう言って、机の上に四つ折りの紙を置きました。


「新聞?」


 私は紙を広げます。


 題字。


 ――湖西まちづくり通信。


 新聞といっても、大手新聞社が発行するようなものではありません。


 B4判。


 両面刷り。


 ガリ版ではなく印刷所に頼んだらしく、文字はきれいです。


 発行者は、


 湖西まちづくりを考える会。


 相談者の名前は、


 村松俊夫。


 五十二歳。


 駅前で文房具店を営んでいる男性でした。


「これ、ご自分たちで?」


「はい。月に一回だけです」


「何を書いてるんですか」


「市のことです」


 私は一面を読みました。


 ――駅前再整備計画、本当にこれでいいのか。


 おや。


 見覚えのある単語です。


 駅前再整備。


 最近、この町では何かにつけて、この言葉が出てきます。


 記事を読む。


 駅前広場の改修計画。


 商店街への説明不足。


 公共用地の利用見直し。


 市が誘致を検討している観光施設。


 予算の使い方への疑問。


 市議会での質疑内容。


 そして最後には、


 ――市民説明会の開催を求めます。


 と書かれていました。


「普通ですね」


 私が言うと、


「普通だろ」


 相馬先輩が横から覗き込みました。


「市長を泥棒呼ばわりしてるわけでもねえ」


「してません」


 村松さんが慌てます。


「役所が嘘をついたとも書いてません。市議会の議事録と、市が出した資料を見て書いただけです」


「それで、何が問題に?」


 村松さんは鞄からもう一枚の紙を出しました。


 市民会館使用許可申請。


 申請目的。


 ――湖西まちづくりを考える会・市政勉強会。


 参加予定。


 三十名。


 内容。


 駅前再整備計画についての資料閲覧、意見交換、会報配布。


 そして。


 欄外に赤い印。


 不許可。


「……市民会館を借りられなかった?」


「はい」


「理由は?」


「それが」


 村松さんは唇を噛みました。


「窓口では、『地元の和を乱す活動には貸せない』と」


 私は顔を上げました。


「何ですか、それ」


「市を批判する内容を含むから、公共施設を使わせるのは好ましくない、と」


「書面には?」


「『施設管理上支障があるため』とだけ」


 出ました。


 役所文学。


 何か言っているようで、具体的なことは何も言っていない文章です。


「暴れる予定は?」


 相馬先輩が聞きました。


「ありません!」


「大声出す?」


「出しません」


「デモ行進?」


「しません」


「酒飲む?」


「勉強会ですよ!」


「じゃあ何の支障だ」


「だから困ってるんです」


 村松さんは、新聞を指で押さえました。


「市役所では、こうも言われました」


「何て?」


「公共の福祉です」


 私は止まりました。


 来ました。


 憲法受験生を一度は惑わせる万能っぽい四文字。


 公共の福祉。


「市の施設なんだから、市民同士の対立を招くような活動は認められない。公共の福祉に反する、と」


 村松さんは小さく息を吐きました。


「私たちは、町を壊したいんじゃないんです」


「はい」


「駅前を良くしたい。でも、市が決めたことに疑問があるなら、話し合ったっていいでしょう?」


 もちろんです。


 と言いかけて。


 私は口を閉じました。


 法律の仕事で、


 「もちろんです」


 ほど危ない言葉はありません。


 感情として正しくても。


 法律上どう組み立てるかは別です。


「ほかにも何か?」


 片桐所長が聞きました。


 村松さんが少し迷ってから答えます。


「新聞も、駅前では配らないよう言われました」


「誰に」


「市の職員です」


「命令か」


「そこは……」


「紙は?」


「ありません」


「罰則は?」


「聞いてません」


「許可制か?」


「分かりません」


 所長が私を見ました。


「こはる」


「はい」


「混ぜるな」


「……はい」


 市民会館の使用不許可。


 駅前での新聞配布を控えるよう求める行政側の働きかけ。


 同じ事件に見えても、法的な性質は別かもしれない。


 処分なのか。


 行政指導なのか。


 そもそも市に止める権限があるのか。


 そこを整理しないといけません。


 私は新聞をもう一度見ました。


「村松さん」


「はい」


「この会報を出すようになってから、周りの反応はどうです?」


 村松さんは苦笑しました。


「悪いですよ」


「やっぱり?」


「商店街では、『役所に逆らって何になる』って」


「……」


「店の前で言われました。『町で商売してるなら、町に協力しろ』って」


 町に協力。


 その言葉だけ聞けば、悪くありません。


 でも。


 ここではどうも、


 市役所に異論を言わない。


 という意味らしい。


「妻には、もうやめてくれって言われてます」


「どうして?」


「店に客が来なくなるって」


 私は言葉を失いました。


「昔から住んでる町です。子供もここで育った。別に喧嘩したいわけじゃない」


 村松さんは新聞を折り直しました。


「でも、疑問を持ったら、それを書いたっていいでしょう?」


 その声は大きくありませんでした。


 むしろ。


 大きな声を出すことさえ、この町では迷惑なのではないか。


 そう思い始めている人の声でした。


「昭和、重っ」


 村松さんが帰ったあと。


 私は机に突っ伏しました。


「何だそれ」


 相馬先輩が煙草に火をつけます。


「空気ですよ、空気」


「空気?」


「『町で商売してるなら役所に逆らうな』ですよ?」


「よくある話だ」


「よくあるんですか」


「ある」


「怖っ」


「お前は何時代から来たんだ」


「令――」


 危ない。


「……人権意識の進んだ家庭です」


「何だそりゃ」


 ごまかせていません。


 でも。


 本当に重い。


 現代なら、ネットで市政批判なんて珍しくありません。


 市長の政策を批判する。


 議会を批判する。


 公共事業に反対する。


 署名を集める。


 動画を配信する。


 SNSで議論する。


 もちろん炎上もします。


 でも、


 行政を批判すること自体が、


 「町の和を乱す」


 と扱われる感覚。


 これは想像以上でした。


「憲法って」


 私は呟きました。


「こういう時代だと、めちゃくちゃ重要ですね」


 相馬先輩が煙を吐きます。


「何だと思ってたんだ」


「行政書士試験の最初に出てくる、判例暗記科目」


「全国の憲法学者に謝れ」


「反省してます」


 私は六法を開きました。


 憲法。


 第二十一条。


 ――集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。


 同じ。


 当たり前ですが。


 同じです。


 昭和六十三年も。


 現代も。


 一字一句。


 変わっていない。


「……変わってないんだ」


「何が」


「条文です」


「そりゃそうだろ」


「憲法って、まだ一回も改正されてないんですよね」


「だから?」


「だったら」


 私は顔を上げました。


「使える」


 相馬先輩の目が細くなりました。


「何をだ」


「未来の――」


「おい」


「……かなり新しい感じの憲法論を」


「言い直しても怪しいぞ」


 でも。


 私の頭の中で、受験勉強の知識が次々に起き上がっていました。


 表現の自由。


 なぜ重要なのか。


 自己実現。


 自己統治。


 政治的表現。


 民主政治。


 国民が政治意思決定に関与するための情報。


 そして。


 知る権利。


 市政を批判する新聞。


 市政について話し合う集会。


 これほど真正面から二十一条にぶつかる事案も珍しい。


「所長」


 私は言いました。


「これ、憲法を出していいですか」


 片桐所長は帳簿から顔を上げませんでした。


「まだ早い」


「え」


「役所相手に、最初から憲法を振り回すな」


「でも――」


「憲法論を振りかざすのは三流だ」


 出ました。


 所長の冷水。


「まず下を見る」


「下?」


「条例。規則。使用許可基準。施設管理の目的。事実関係」


「……はい」


「そこで処理できるなら、それで処理する」


 なるほど。


 何でもかんでも、


 憲法違反だ!


 人権侵害だ!


 と叫べばいいわけではない。


 むしろ。


 実務では下位のルールから詰める。


 権限があるのか。


 要件を満たすのか。


 運用は合理的か。


 そこを積み上げる。


「ただし」


 所長がページをめくりました。


「下のルール自体が、憲法の線を越えているなら」


 そこで初めて顔を上げます。


「抜け」


「……はい」


 伝家の宝刀。


 そんな言葉が頭に浮かびました。


 翌日。


 市役所。


 また二階。


 また灰色の背広。


 また細い眼鏡。


「最近、多くないですか」


 沢渡課長が言いました。


「何がです?」


「片桐事務所の皆さんです」


「市役所が事件を供給するので」


「人聞きの悪い」


「冗談です」


「朝比奈さんの冗談は分かりにくい」


 相馬先輩が書類を机へ置きました。


「村松俊夫さん。市民会館の使用不許可」


「ああ」


「理由」


「書面のとおりです」


「施設管理上の支障?」


「はい」


「具体的には」


 沢渡課長は眼鏡を押し上げました。


「今回の集会は、駅前再整備計画に対する批判を主な内容としています」


「それが?」


「現在、駅前整備については地元商店会、自治会、市議会、市役所の間で調整を進めています」


「だから?」


「不用意に対立をあおる集会を市の施設で開催することは、地域秩序の維持という観点から好ましくありません」


 来ました。


 地元の和。


 役所語に翻訳すると、


 地域秩序の維持。


「暴力の危険がありますか」


 私は聞きました。


「現時点で具体的情報はありません」


「施設を壊す危険は?」


「そういう話ではありません」


「定員超過?」


「三十名と聞いています」


「騒音?」


「そうではなく」


「では、何の支障です?」


 沢渡課長が私を見ました。


「朝比奈さん」


「はい」


「公共施設は、私人が好き勝手に使うための場所ではありません」


「もちろんです」


「管理上の秩序が必要です」


「はい」


「公共の福祉という観点もあります」


 私は思わず、


 その言葉、便利に使いすぎでは?


 と言いそうになりました。


 でも。


 横で片桐所長が黙っています。


 感情で行くな。


 たぶん、そういう意味です。


 私は一度息を吸いました。


「課長」


「何でしょう」


「公共の福祉って、役所が嫌な意見を黙らせるための言葉じゃありませんよね」


 部屋が静かになりました。


 沢渡課長の表情が少し変わります。


「当然です」


「なら確認します」


 私は新聞を机に置きました。


「この記事のどこが、施設利用を拒否しなければならないほど問題なんですか」


 沢渡課長は新聞を見ました。


「市政に対する批判的内容を含んでいます」


「批判的だから?」


「それだけではありません」


「では?」


「地元の一部から、こうした活動に対する懸念が寄せられています」


「何件?」


「件数の問題ではありません」


「内容は?」


「町を分断する、という意見です」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「世間の常識か」


「そういう言い方はしていません」


「同じだろ」


「相馬さん」


 沢渡課長の声が少し硬くなります。


「行政は、権利だけを見ていればいいわけではありません。地域全体への影響も考える必要があります」


「当たり前だ」


 相馬先輩は即答しました。


「だがな」


 机を指で軽く叩く。


「世間の常識? 俺たちが守ってんのは法律だ」


 沢渡課長の目が細くなりました。


「法律上、表現の自由にも制約はあり得ます」


「否定してねえよ」


「公共の福祉による制約は――」


「だから、その中身を言えってんだ」


 相馬先輩の声が低くなりました。


「『みんな嫌がってます』が、いつから人権制約の根拠になった」


 私は心の中で拍手しました。


 口は悪い。


 でも。


 そこです。


 公共の福祉。


 それは、


 多数派が不快だから少数派を黙らせてよい。


 という魔法の呪文ではない。


「課長」


 私は言いました。


「この集会で扱うのは、市の駅前再整備計画ですよね」


「そうです」


「政治的な問題ですよね」


「市政上の問題です」


「市民が、市の政策について情報を集めて、意見を出して、ほかの市民と話し合う」


「ええ」


「それって」


 私は六法を開きました。


「表現の自由が一番大事になる場面じゃないですか」


 沢渡課長は答えませんでした。


「憲法二十一条です」


「知っています」


「ですよね」


「馬鹿にしていますか」


「してません」


 むしろ。


 ここからが怖い。


 沢渡課長は、法律を知らない相手ではありません。


 だからこそ。


 雑な憲法論では押せない。


「市が、施設の安全や正常な管理のために合理的な制限をする。それは分かります」


「ええ」


「でも今回は、具体的な危険がない」


「……」


「施設を壊す予定もない。定員超過でもない。騒音の具体的危険もない」


「それだけで判断するものではありません」


「そして、不許可の実質的な理由として出てくるのが」


 私は新聞を指しました。


「市政に批判的だから」


「表現が正確ではありません」


「では、正確にお願いします」


 沢渡課長が黙りました。


 片桐所長がそこで初めて口を開きました。


「沢渡課長」


「はい」


「この使用許可基準に」


 所長が一枚の写しを出しました。


「市政を批判する内容の集会には貸さない、という条項はあるか」


「ありません」


「特定の政治的意見を理由に拒否できる条項は」


「ありません」


「施設管理上の支障とは」


「施設の適正な管理運営に支障がある場合です」


「具体的支障は」


 沈黙。


 沢渡課長は数秒考えました。


「地域住民との摩擦が予想されます」


 所長は静かに返しました。


「誰かが反対する表現ほど、保護が必要になる」


 私は所長を見ました。


 短い。


 でも。


 強い。


「全員が賛成する意見だけ守るなら」


 所長は続けます。


「表現の自由はいらない」


 沢渡課長が眼鏡を外しました。


 布でゆっくり拭きます。


「憲法論を持ち出しますか」


「持ち出したくはなかった」


「でしょうね」


「だが」


 所長の声は変わりません。


「市が、自分を批判する言論だからという理由で公共施設の使用を拒むなら、話は別だ」


 ぞくりとしました。


 これです。


 憲法が、


 教科書から現場へ出てくる瞬間。


「行政書士が違憲判断をするわけではありません」


 私は言いました。


「当然です」


「裁判をするわけでもありません」


「ええ」


「でも」


 机の上の新聞を見る。


「市が処分をするとき、その処分が憲法に適合しているかを考える必要はありますよね」


「それも当然です」


「なら」


 私は言いました。


「市政批判という表現内容を理由に不利益を与えることが、本当に必要なのか」


 沢渡課長が私を見る。


「目的は何か」


「地域秩序の維持です」


「その目的のために、市政批判の集会そのものを締め出す必要があるのか」


「……」


「もっと表現の自由を傷つけない方法はないのか」


 例えば。


 警備上の懸念があるなら、具体的な安全対策を求める。


 利用人数を守らせる。


 騒音規制を守らせる。


 施設を壊せば責任を負わせる。


 いくらでもあります。


 なのに。


 内容が気に入らないから、


 貸さない。


 それは。


 手段として重すぎる。


「公共の福祉と言えば終わりじゃないと思います」


 私は言いました。


「何を守るための制限なのか。そのために、本当にここまで表現を制限する必要があるのか。そこを見ないと」


 沢渡課長はしばらく黙っていました。


「……意見書を出すつもりですか」


 片桐所長が答えます。


「出す」


「内容は」


「憲法二十一条」


 所長が一つずつ言います。


「市民会館使用許可基準」


「はい」


「不許可理由の具体性」


「はい」


「表現内容を理由とした差別的運用の疑い」


 沢渡課長の指が止まりました。


「そして」


 所長が言います。


「目的と手段の均衡」


 部屋の空気が変わりました。


 たぶん。


 沢渡課長も分かったのです。


 これは、


 うるさい市民を一人黙らせれば済む話ではない。


 市が、


 市を批判する集会には施設を貸さない。


 そんな運用を文書として残した瞬間。


 話が変わる。


「……提出してください」


 沢渡課長が言いました。


「検討します」


「逃げませんね」


 私が言うと、


「何からです?」


「憲法から」


「逃げられる役所があるなら教えてください」


 ごもっともです。


 その夜。


 事務所の机に、資料が積み上がりました。


 憲法。


 施設使用基準。


 申請書。


 不許可通知。


 村松さんの会報。


 駅前再整備計画資料。


「こはる」


「はい」


「書け」


 所長が言いました。


「意見書」


「私が?」


「下書きだ」


「はい」


 私は原稿用紙を前にしました。


 最初に書きかけたのは、


 ――本件不許可処分は、憲法第二十一条に違反する。


「強すぎる」


 所長が言いました。


「まだ一行目ですよ」


「だからだ」


「じゃあどうします?」


「行政書士が裁判官になるな」


 なるほど。


 私は書き直します。


 ――本件不許可処分については、憲法第二十一条が保障する表現の自由との関係で、重大な疑義がある。


「こっちですか」


「そうだ」


 行政に、


 お前は違憲だ。


 と判決を下すのではない。


 このまま処分を維持すれば、


 違憲と評価される危険がある。


 だから再検討せよ。


 その形にする。


「次」


 相馬先輩が言いました。


「何を書く」


「村松さんたちの活動が、表現の自由の保護領域に入ること」


「具体的に」


「会報の発行」


「うん」


「市政についての意見交換」


「うん」


「集会」


「うん」


「あと、団体として活動しているから結社の自由も関係します」


「欲張るな」


「え」


「主砲を決めろ」


 なるほど。


 何でも書けば強くなるわけではない。


 今回の中心は、


 市政批判を理由とした集会場所の使用拒否。


 言論。


 集会。


 政治的表現。


 そこを太くする。


「表現の自由が重要な理由は?」


 所長が聞きました。


「自己実現と自己統治」


「答案を書くな」


「う」


「村松さんの事件にしろ」


 難しい。


 でも。


 考えます。


「自分の考えを外に出すことは、その人が自分らしく生きることに関わる」


「それが?」


「自己実現」


「もう一つ」


「市政について市民が情報を知って、意見を交換して、政治的判断に参加する」


「それが?」


「自己統治」


「そうだ」


 つまり。


 今回、特に重いのは後者です。


 駅前再整備。


 税金。


 公共施設。


 市の政策。


 それについて市民が話す。


 行政を批判する。


 情報を共有する。


 それは民主政治そのものに関わる。


「だから政治的表現は」


 私は言いました。


「役所にとって不愉快だからこそ、簡単には止められない」


「そういうことだ」


 相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。


「役所を褒める新聞なら、誰も止めねえからな」


 確かに。


 権利というのは、


 守っても誰も困らない場面では、


 あまり試されません。


 誰かが嫌がる。


 権力者が困る。


 多数派が腹を立てる。


 そんなときに初めて、


 本当に保障されているのかが問われる。


 私は書き続けました。


 市側が主張する目的。


 地域秩序の維持。


 公共施設の適正管理。


 それ自体は否定しない。


 でも。


 具体的な危険が示されていない。


 単に市政批判を含むこと。


 地域住民の一部が不快感を示していること。


 それだけを理由に使用を拒否するのは、


 表現内容に着目した過度の制約となる疑いが強い。


 さらに。


 仮に施設管理上の懸念があるとしても、


 人数制限。


 利用条件。


 騒音防止。


 安全管理。


 より制限的でない手段を検討できる。


 全面的な使用拒否は重すぎる。


「……書けました」


 所長が読む。


 赤鉛筆。


 一行消す。


 二行消す。


「そんなに?」


「長い」


「頑張ったのに」


「憲法論は長くすると弱くなる」


「そうなんですか」


「相手に逃げ道を与える」


 相馬先輩が原稿を覗きます。


「ここもいらねえ」


「ええ?」


「『憲法上極めて重大な権利である』」


「大事ですよ」


「分かってる。二十一条って書いてある」


「でも強調を」


「強調したいなら事実を書け」


 事実。


 市政批判であること。


 具体的危険がないこと。


 他の一般的な集会には貸していること。


 使用基準に政治的内容を理由とする拒否規定がないこと。


 その事実を並べる。


 すると。


 最後の、


 憲法二十一条との関係で重大な疑義がある。


 という一文が勝手に重くなる。


「法律って」


 私は言いました。


「大声で書けば強くなるわけじゃないんですね」


「当たり前だ」


「表現の自由の意見書なのに」


「うまいこと言ったつもりか」


「ちょっとだけ」


 三日後。


 意見書を提出しました。


 全七頁。


 表紙には、


 ――市民会館使用不許可処分に関する法的意見書。


 沢渡課長は最初から最後まで読みました。


 途中で一度も口を挟みませんでした。


 最後の頁。


 指が止まる。


「……片桐先生」


「何だ」


「確認ですが」


「うん」


「貴事務所としては、市の使用許可制度そのものが違憲だと言っているわけではない」


「言っていない」


「施設管理上、必要な制限をすることまで否定していない」


「していない」


「今回の運用について問題にしている」


「そうだ」


 沢渡課長は頷きました。


「そこは理解しました」


 私は少し驚きました。


 もっと揉めると思っていました。


「ただし」


 やっぱり来た。


「行政としては、地域秩序への影響を無視することはできません」


「もちろんです」


「市民から苦情が来る可能性もある」


「はい」


「会館で混乱が起きれば、市が責任を問われる」


「分かります」


「そのうえで」


 沢渡課長は意見書を閉じました。


「不許可という結論が必要だったかは、再検討します」


 相馬先輩が眉を上げます。


「ずいぶん早いな」


「合理的に考えただけです」


「何を」


「市政批判を理由とした利用拒否だと評価される運用を、市として維持する合理性です」


 沢渡課長らしい。


 負けたから折れる。


 ではない。


 リスクを計算している。


「具体的な危険が確認できない以上」


 沢渡課長は続けました。


「不許可を維持するより、必要な利用条件を付した上で許可する方が、施設管理目的にも適合する可能性が高い」


 私は思わず言いました。


「それ、私たちの意見書に書いてあります」


「読みましたから」


「ですよね」


「朝比奈さん」


「はい」


「少し嬉しそうですね」


「気のせいです」


 初めて仕返しできました。


 一週間後。


 市民会館の使用は認められました。


 条件付き。


 定員厳守。


 廊下での拡声器使用禁止。


 他の利用者への迷惑行為禁止。


 施設管理者の指示に従うこと。


「普通ですね」


 私は通知を読みました。


「普通だな」


 相馬先輩が言います。


「最初からこれでよかったのでは」


「世の中、最初から普通にやるのが一番難しいんだよ」


 深いのか雑なのか分かりません。


 そしてもう一つ。


 駅前での新聞配布。


 こちらについては、市側から、


 道路使用や通行妨害等の問題がない限り、会報の内容そのものを理由として配布自粛を求めない。


 という回答が出ました。


「勝ったんでしょうか」


 私は聞きました。


 片桐所長は首を振ります。


「勝ち負けじゃない」


「でも」


「役所を負かすのが仕事じゃない」


「じゃあ何です?」


「線の内側へ戻す」


 線。


 行政が越えてはいけない線。


 その一番外側に。


 憲法がある。


 市民会館での勉強会当日。


 私は少しだけ様子を見に行きました。


 三十人。


 ほとんどが地元の人です。


 商店主。


 主婦。


 会社員。


 退職した人。


 若い人は少ない。


 村松さんが前に立っていました。


「今日は、市を攻撃する会ではありません」


 最初にそう言いました。


「駅前をどうするのがいいのか、資料を見て、みんなで考えたいと思います」


 机の上には、


 市の再整備計画。


 市議会議事録の写し。


 そして。


 湖西まちづくり通信。


 一人の女性が手を挙げました。


「私は、市の計画に賛成です」


 村松さんが答えます。


「どうぞ」


「え?」


「賛成の意見も聞きたいです」


 女性は少し戸惑ってから話し始めました。


 駅前が古い。


 若い人が来ない。


 観光客も少ない。


 だから整備は必要だと思う。


 すると別の男性が言います。


「整備そのものには俺も賛成だ。でも、店をどかす順番がおかしい」


 また別の人。


「予算はいくらなんだ」


「市の資料だと――」


 話が始まります。


 賛成。


 反対。


 質問。


 疑問。


 ときどき笑い。


 少しだけ口論。


 でも。


 誰も殴りません。


 椅子も飛びません。


 町は壊れません。


「……これが」


 私は呟きました。


「地元の和を乱す集会?」


「むしろ普通の町内会だな」


 後ろにいた相馬先輩が言いました。


「来てたんですか」


「所長に見てこいって言われた」


「私もです」


「見習い二人もいらねえだろ」


「先輩も見習い枠なんですか」


「殴るぞ」


 暴力はいけません。


 公共施設です。


 会が終わると。


 村松さんが私たちのところへ来ました。


「ありがとうございました」


「何もしてませんよ、今日は」


「今日じゃなくて」


 村松さんは新聞を一部、私に渡しました。


 新しい号でした。


 一面。


 ――市民会館で駅前再整備を考える。


 記事を読む。


 市の計画に賛成する意見。


 反対する意見。


 改善案。


 全部載っています。


「市を批判する新聞じゃなくなりましたね」


 私が言うと、村松さんは笑いました。


「最初から批判するために作ったんじゃないですよ」


「じゃあ何のために?」


「考えるためです」


 その言葉に。


 私は少し黙りました。


 表現の自由。


 言いたいことを言う自由。


 私はずっと、そんなふうに覚えていました。


 でも。


 違う。


 言う人だけではない。


 聞く人がいる。


 読む人がいる。


 情報を受け取る人がいる。


 その人たちが、


 知って、


 考えて、


 また意見を返す。


 送り手。


 受け手。


 その往復全部が。


 民主主義を動かしている。


「朝比奈さん」


「はい」


「これからも配っていいんですよね」


「内容が市に都合悪いからって、市が止めることはできません」


「じゃあ、好き放題書いていい?」


「それは別です」


「え」


「他人の名誉を傷つけたり、嘘を書いたりすれば、別の法律問題になります」


「やっぱりそうですよね」


「自由って無敵カードじゃないので」


 相馬先輩が横から言いました。


「だが、役所の機嫌を取る義務もねえ」


 村松さんが笑いました。


「それくらいがちょうどいいですね」


 帰り道。


 駅前を通りました。


 夕方。


 バスが一台入ってきます。


 学生が降りる。


 買い物帰りの人が歩く。


 商店街からラジオの音がする。


 そして駅前の端で。


 村松さんたちが新聞を配り始めていました。


「駅前再整備についての会報です」


 受け取る人。


 受け取らない人。


 読まずに鞄へ入れる人。


 その場で立ち止まる人。


 一人のおじさんが言いました。


「また役所の悪口か」


 村松さんは笑って答えます。


「今回は役所の意見も載せてますよ」


「じゃあ読むか」


 新聞を受け取る。


 それだけ。


 町は壊れません。


 誰も暴れません。


 でも。


 昨日までなかった意見が、


 紙一枚になって町を歩き始めます。


「先輩」


「何だ」


「憲法って、すごいですね」


「今さらか」


「だって」


 私は六法を思い出しました。


 第二十一条。


 条文は短い。


 昭和六十三年も。


 現代も。


 同じ。


 一文字も変わっていない。


 なのに。


 その短い条文が、


 役所の、


 「地元が嫌がるから」


 を止めた。


「私、憲法って実務であんまり使わないと思ってました」


「馬鹿だな」


「否定できません」


「憲法は毎日振り回すもんじゃねえ」


 相馬先輩は前を向いたまま言いました。


「でもな」


「はい」


「役所が線を越えたとき、最後に残るのがあれだ」


 最高法規。


 伝家の宝刀。


 滅多に抜かない。


 だからこそ。


 抜いたときには重い。


 私は駅前を振り返りました。


 村松さんの新聞を受け取った女性が、


 歩きながら読んでいます。


 あの人が何を考えるのか。


 賛成するのか。


 反対するのか。


 そんなことは誰にも分かりません。


 それでいい。


 自由というのは。


 正しい意見を言わせることではなく。


 考えるための材料を、


 誰かが勝手に取り上げないことなのかもしれません。


「今日の教訓」


 私は呟きました。


「何だ」


「公共の福祉は、世間の機嫌じゃない」


 相馬先輩が少し笑いました。


「まあ、合格」


「やった」


「ただし」


「はい?」


「役所でその言い方するなよ」


「どうしてです?」


「喧嘩売ってるように聞こえる」


「先輩に言われたくないです」


「俺はいいんだよ」


「何でですか」


「担当だから」


「何の担当です?」


「喧嘩」


「行政書士事務所にそんな担当ありません!」


 駅前の風が、配られた新聞の端をぱたぱた揺らしました。


 昭和六十三年。


 町の空気は重い。


 世間の目も強い。


 みんなと違うことを言えば、


 面倒な人だと言われる。


 黙っていたほうが楽なこともある。


 それでも。


 憲法第二十一条は、


 昭和だから少し弱くなるわけではありません。


 町の全員が嫌な顔をしても。


 役所が困っても。


 多数派が、


 黙っていれば丸く収まるのに、


 と思っても。


 人には、


 言う自由がある。


 集まる自由がある。


 伝える自由がある。


 そして。


 受け取って、


 知って、


 考える自由がある。


 法律は、


 町の空気を軽くしてはくれません。


 でも。


 空気より強い線を一本、


 引くことはできます。


 その線の名前を。


 私は今日、


 初めて現場で知りました。


 ――表現の自由。


 たったそれだけの言葉が。


 黙らなくてもいい場所を、


 人のために残していました。

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