[憲法20条・信教の自由]法理編 こはるノート
心の中は、役所の管轄外です。
夕方。
片桐行政書士事務所。
机の上には、昨日の朝市で買ったパンが一つ残っていました。
あんパン。
水野さんの店――『麦の灯』の商品です。
「先輩」
「何だ」
「これ、私のですよね」
「知らん」
「昨日、私が買ったんです」
「名前書いてねえだろ」
「食べたんですか」
「知らん」
「口の横にあんこ付いてますけど」
相馬先輩が黙りました。
現行犯。
憲法三十八条以前の問題です。
「返してください」
「もう無理だ」
「損害賠償」
「パン一個で訴訟する気か」
「訴訟代理はできませんから、弁護士さんに完璧に引き継ぎます」
「弁護士も困るわ」
そんなくだらない会話をしながら。
私はノートを開きました。
今日の見出し。
――憲法第二十条。
信教の自由。
その文字を書いた瞬間。
昨日までとは、
少し意味が違って見えました。
受験生だった頃。
私は信教の自由を、
宗教を信じる人のための権利だと思っていました。
もちろん。
知識としては知っていました。
信じない自由もある。
宗教的行為をしない自由もある。
宗教団体に入らない自由もある。
でも。
知っているのと、
目の前で誰かが困っているのを見るのは違います。
水野さんは、
宗教を信じたい人ではありませんでした。
特定の宗教を信じているわけでもない。
ただ。
神社のお祓いを受けたくない。
玉串を捧げたくない。
それだけ。
なのに。
――みんなやっている。
――町の伝統だから。
――地元で商売するなら当然だ。
そんな言葉が積み重なると、
参加しない自由なんて、
簡単に押し潰されそうになりました。
「所長」
「何だ」
「憲法二十条って」
「うん」
「信じてる人だけの条文じゃないんですね」
片桐所長は帳簿から顔を上げました。
「今さらか」
「相馬先輩と同じこと言わないでください」
「今さらだからな」
「はい……」
私はノートに書きました。
信教の自由。
大きく三つ。
一つ。
信仰の自由。
二つ。
宗教的行為の自由。
三つ。
宗教的結社の自由。
「まず信仰の自由」
私は声に出しました。
「特定の宗教を信じる自由」
「うん」
「信仰を変える自由」
「うん」
「そして」
赤鉛筆を持ちます。
――信じない自由。
そこに二重線。
「ここが水野さんですね」
「そうだ」
「水野さんは、別の宗教を信じているから神社行事を拒んだわけじゃない」
「それでもいい」
「はい」
信教の自由というと、
仏教を信じる人。
神教を信じる人。
その対立を想像しやすい。
でも。
どちらも信じない。
宗教そのものと距離を置く。
それも自由です。
「じゃあ」
相馬先輩が口を挟みました。
「役所が『何か一つ宗教を選べ』って言ったら?」
「当然駄目です」
「『神社じゃなくてもいい。寺でも教会でも好きなの選べ』」
「選択肢を増やしても駄目です」
「何でだ」
「選ばない自由があるから」
「そういうことだ」
なるほど。
自由というのは、
選択肢が多ければいいわけじゃない。
赤。
青。
黄色。
どれでも好きな色を選べ。
それだけなら自由に見える。
でも。
――何も選ばない。
という選択肢が認められていなければ、
本当の意味では自由ではない。
私は書きました。
信仰の自由。
信じる。
信じない。
変える。
捨てる。
すべて自由。
「ただし」
片桐所長が言いました。
「ここは分けろ」
「何をです?」
「内心と行為だ」
あ。
重要なところです。
私はページの中央に線を引きました。
左。
内心。
右。
外部的行為。
「信仰そのものは?」
所長が聞きます。
「内心です」
「神社を信じる」
「内心」
「キリスト教を信じる」
「内心」
「何も信じない」
「内心」
「役所が『その考え方は危険だから変えろ』と言ったら?」
「駄目です」
「なぜだ」
「心の中だから」
信仰そのもの。
何を信じるか。
何を信じないか。
それは人間の内心に属します。
国が、
あなたはこれを信じなさい。
これは信じてはいけません。
そう命令することはできない。
「でも」
私は右側を指しました。
「宗教的行為になると、話が変わる」
「そうだ」
礼拝。
祈祷。
布教。
宗教的儀式。
それらは、
心の中だけでは終わらない。
外に出る。
他人と接触する。
社会と接触する。
「だから」
私は言いました。
「宗教的行為の自由は、場合によっては公共の福祉による制約を受ける」
「具体例」
「例えば……」
考えます。
「宗教上必要だからって、他人の家に勝手に入って布教する」
「駄目だな」
「宗教儀式だからって、道路を完全に塞いで何日も占拠する」
「それも問題になる」
「宗教上の理由だから他人を傷つけてもいい」
「論外だ」
つまり。
宗教だから無敵。
ではない。
信教の自由は重要な精神的自由です。
でも、
宗教的な外部行為が他人の権利や社会生活と衝突するなら、
一定の規制が認められる場合はある。
「公共の福祉」
私は書きました。
そして。
昨日の市役所で聞いた言葉を思い出しました。
地域秩序。
地元の和。
地域の一体感。
「……便利な言葉ですよね」
「何がだ」
「公共の福祉」
相馬先輩が笑いました。
「役所にとってか」
「はい」
「使い方間違えりゃ便利でも何でもねえ」
「ですよね」
私は大きく書きました。
――公共の福祉=多数派の気分、ではない。
「ここ」
昨日、一番大事だった気がします。
水野さんが祭りに出ない。
商店会の人が面白くない。
昔からみんな参加している。
一人だけ参加しないと、
まとまりが悪い。
だから。
公共の福祉のために参加してください。
「それは違いますよね」
「違う」
片桐所長が即答しました。
「公共の福祉を、世間体の別名にするな」
「……それ、ノートに書きます」
私は本当に書きました。
――公共の福祉は、世間体の別名ではない。
「試験答案には書くなよ」
相馬先輩。
「分かってます」
「書きそうだから言ってる」
「書きません!」
でも。
覚えるには最高です。
公共の福祉。
人権と人権がぶつかる。
その調整が必要になる。
だから人権にも一定の限界がある。
でも。
単に多数派が不快だから。
昔からそうだから。
地域の慣習だから。
それだけで少数者の人権を制限できるなら、
憲法なんてほとんど意味がありません。
「昨日の水野さんで整理すると」
私は言いました。
「水野さんが祭りに参加しないことで、ほかの人の信教の自由は侵害されない」
「そうだな」
「神社の祭りも禁止されない」
「うん」
「参加したい店主は参加できる」
「うん」
「朝市の運営にも、宗教性のない形で協力できる」
「清掃とかな」
「はい」
なら。
なぜ、
神社の宗教的儀式に参加しなければ、
朝市でパンを売れないのか。
目的と手段がつながらない。
「ここで目的と手段を見るんですね」
「そうだ」
片桐所長が言いました。
「人権を制約するなら、言葉だけで済ませるな」
「目的は何か」
「うん」
「その目的は正当か」
「うん」
「その手段は目的に役立つか」
「うん」
「必要以上に権利を制限していないか」
「そうだ」
「もっと制約の小さい方法はないか」
「そこまで見ろ」
私は矢印でつなぎました。
目的。
地域協調。
これは理解できる。
手段。
神社祭礼への参加。
でも。
地域協調なら、
清掃でもいい。
設営でもいい。
広報でもいい。
交通整理でもいい。
宗教的儀式に参加させる必要はない。
「代替手段」
私は丸で囲みました。
「これ、後の剣道事件でも重要になる考え方ですね」
相馬先輩が嫌そうな顔をしました。
「また未来か」
「未来です」
「まだ判決出てねえぞ」
「分かってます。だから昨日は意見書に書いてません」
私の頭にあるのは、
エホバの証人剣道受講拒否事件。
学生が宗教上の真摯な理由から剣道実技を拒否した。
学校側は代替措置を認めず、
結果として原級留置、
そして退学処分。
後に最高裁は、
学生の信仰上の理由の真摯さ。
他の体育種目は拒否していないこと。
重大な不利益。
代替措置を求めていたこと。
そして、
代替措置が不可能ではないのに何ら検討しなかったこと。
そうした事情を踏まえて、
処分を裁量権の範囲を超える違法なものと判断する。
「でも」
私は言いました。
「この判決、平成八年なんですよね」
「今は昭和六十三年だ」
「八年早い」
「なら使うな」
「はい」
そこが、
憲法の面白いところでした。
条文は同じ。
でも。
判例は未来から持ってこられない。
社会の人権感覚も違う。
つまり私は、
未来の判例の結論をコピーすることはできない。
でも。
その判例が後に磨き上げることになる、
目的は何か。
不利益はどれほど重いか。
代替手段はあるか。
本当にそこまで制限する必要があるか。
という思考方法なら、
今ある憲法から考えることができる。
「条文は変わってない」
私は呟きました。
「そうだ」
「でも読み方が深くなっていく」
片桐所長は何も言いませんでした。
ただ、
少しだけ頷きました。
私は次の見出しを書きました。
――宗教的行為への参加を強制されない自由。
「水野さんの事件の核心ですね」
「ああ」
憲法二十条二項。
何人も、
宗教上の行為、
祝典、
儀式、
行事に、
参加することを強制されない。
「これ、かなり直接的ですよね」
「何がだ」
「昨日の事件、そのままじゃないですか」
神社の例大祭。
お祓い。
玉串。
参加しなければ朝市出店が難しくなる。
もちろん。
市役所が腕をつかんで神社へ連れていったわけではありません。
罰金を科したわけでもない。
刑罰もない。
でも。
「強制って」
私は言いました。
「物理的に引っ張っていく場合だけじゃないですよね」
「当然だ」
「参加しなければ不利益を与える」
「うん」
「その不利益が大きければ、事実上参加せざるを得なくなる」
「そういう圧力も見ろ」
水野さんの場合。
参加しなければ、
市主催の朝市で商売できない。
商売をしている人にとって、
それは小さな話ではありません。
だから。
形式上は、
お願いです。
自由参加です。
と書いてあっても。
断れば不利益。
なら、
本当に自由なのかを見なければならない。
「行政指導でも同じですね」
私が言うと、
相馬先輩が頷きました。
「名前じゃなく実態を見ろ」
「お願いという名前でも?」
「断れねえお願いなら疑え」
「名言ですね」
「使用料百円な」
「行政書士事務所で名言販売しないでください」
私はノートに書きました。
――形式ではなく、実質を見る。
任意参加。
お願い。
協力要請。
そんな名前でも。
拒否した場合に重大な不利益が待っているなら、
本当に自由な選択だったのかを考える。
「次」
私はページをめくりました。
――宗教的結社の自由。
「宗教団体を作る自由」
「そうだ」
「宗教団体に加入する自由」
「うん」
「当然、加入しない自由もある」
「そういうことだ」
そして。
団体として宗教活動を行う自由。
これも信教の自由の重要な内容です。
ただし。
ここも外部的な活動なので、
何をしても無制限というわけではない。
私はペンを止めました。
「これで出てくるのが……」
「何だ」
「オウム真理教解散命令事件」
「知らん」
「ですよね」
また未来。
平成八年。
今は昭和六十三年。
「未来の判例多すぎません?」
「お前が未来から来てるだけだろ」
「それはそう」
後に。
宗教法人に対する解散命令と信教の自由が問題になる。
最高裁は、
宗教法人が解散しても、
信者が法人格を持たない宗教団体として活動することや、
新たに団体を作ること自体まで禁止されるわけではない。
つまり。
法人格を失わせることと、
信仰そのものを禁止することは、
同じではない。
「ここも区別ですね」
「何と何をだ」
「宗教法人という法的な器と、信仰そのもの」
「そうだ」
宗教法人への法的規制。
イコール。
宗教そのものの禁止。
ではない。
ただし。
法人格を失えば、
財産管理などに影響が出る。
結果として宗教活動に支障が生じる可能性もある。
だから。
法的には信仰を直接禁止していないから、
信教の自由とは無関係です。
とは言えない。
「慎重に見る」
私は書きました。
精神的自由だから。
直接制限しているか。
間接的に大きな支障を生じさせていないか。
そこまで見る。
「でも」
相馬先輩が言いました。
「宗教団体って言えば何やっても許されるわけじゃねえんだろ」
「もちろんです」
宗教の自由は、
犯罪の自由ではありません。
他人の生命や身体を害する行為まで、
宗教だから保護されるわけではない。
信教の自由を重く見ることと、
宗教団体を無法地帯にすることは、
全く違う。
「ここ、極端な二択にしないことですね」
「どういう意味だ」
「宗教だから全部自由、でもない」
「うん」
「危険だから宗教活動を全部禁止、でもない」
「そうだ」
「何を規制して、その規制が信仰や宗教活動にどんな影響を与えるのかを見る」
「そこだ」
私は大きく丸をつけました。
「さて」
私は姿勢を正しました。
「次が政教分離です」
相馬先輩が露骨に嫌な顔をしました。
「まだあんのか」
「憲法二十条ですよ。ここからが試験で怖いところです」
「帰る」
「所長」
「座れ」
「ちっ」
「今、舌打ちしました?」
「気のせいだ」
私はノートに書きました。
政教分離。
国と宗教を分離し、
国家の宗教的中立性を確保する原則。
「信教の自由とは違うんですよね」
「違う」
片桐所長が答えます。
信教の自由。
個人の権利。
政教分離。
国家と宗教の関係を定める制度的な保障。
「制度的保障」
私はそこに線を引きました。
「つまり?」
相馬先輩が聞きます。
「国家を宗教から距離を取らせることで、結果的に個人の信教の自由を守る仕組み」
「例えば」
「国が特定の宗教だけを特別扱いしたら?」
「その宗教を信じない奴は肩身が狭くなるな」
「そうです」
国が、
この宗教は良い宗教です。
この宗教を応援します。
税金も出します。
行政行事にも使います。
そうなれば。
形式上は、
誰も入信を強制されていなくても。
少数派。
別の宗教。
無宗教。
そういう人たちに、
見えない圧力がかかる。
「昨日の朝市も」
私は言いました。
「市が神社の祭礼参加を出店条件みたいに扱ったから、政教分離の問題も出てきた」
「そうだ」
「単に商店会の人が『祭り出ようよ』と言うのとは違う」
「行政が絡んだ」
「はい」
ここが重要。
憲法は、
基本的には国家権力を縛るもの。
近所のおじさんが、
祭り来いよ。
と言っただけで、
直ちに憲法二十条違反。
という話ではない。
でも。
市役所が。
市主催の朝市で。
行政上の利益を与える条件として。
特定の宗教行事への参加を求める。
そうなると。
憲法の出番になる。
「国家が宗教を押しつける側に回るな」
相馬先輩が言いました。
「すごく雑ですけど分かりやすい」
「雑は余計だ」
私は書きました。
憲法二十条一項後段。
宗教団体は、
国から特権を受けてはならない。
政治上の権力を行使してはならない。
そして三項。
国及びその機関は、
宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
「さらに八十九条」
私はページの端に書きます。
公金その他の公の財産を、
宗教上の組織又は団体の使用、便益又は維持のために支出し、
またはその利用に供してはならない。
「二十条だけじゃないんですね」
「政教分離は八十九条も押さえろ」
「はい」
でも。
ここでも。
国と宗教が一ミリでも接触したら全部違憲。
ではない。
社会の中には、
宗教に由来する慣習や儀礼がたくさんあります。
地鎮祭。
慰霊祭。
祭礼。
文化行事。
歴史的建造物。
完全に接触をゼロにすることは、
現実には難しい。
「そこで」
私は書きました。
――目的と効果。
「出たな」
相馬先輩が言います。
「憲法の常連です」
行政の行為の目的が宗教的意義を持つのか。
その効果が、
特定宗教への援助、
助長、
促進、
または圧迫、
干渉などになるのか。
そういう事情を見る。
「だから昨日、所長は」
私は言いました。
「市と神社が関わった。それだけで即違憲とは書かなかった」
「そうだ」
「朝市と祭礼の歴史的な関係もある」
「あるだろう」
「地域行事としての側面もある」
「そうだ」
「でも」
市が朝市出店という行政上の利益を、
宗教儀式への参加と結びつける。
そこまで行けば。
単なる慣習だから、
では済みにくくなる。
「線を引くんですね」
「憲法は線を引く仕事だ」
所長が言いました。
「全部駄目、全部自由。そんな話なら法律家はいらん」
私はその言葉も、
ノートの隅に小さく書きました。
ここで。
私は一度、
憲法の条文を最初から見直しました。
「不思議ですね」
「何がだ」
「これ、私のいた時代と同じなんですよ」
相馬先輩が煙草をくわえます。
「またその話か」
「だって行政法だと、未来知識が地雷になるじゃないですか」
「知らん」
「行政不服審査法なんて、異議申立ては消えるし、期間も変わるし、審理員まで出てくる」
「未来は面倒だな」
「行政事件訴訟法も変わります」
「知らん」
「地方自治法も大改正されます」
「知らんって言ってんだろ」
「でも憲法は」
私は六法を指で叩きました。
「変わらない」
昭和二十一年公布。
昭和二十二年施行。
そして。
私のいた時代まで。
一度も改正されていない。
一字一句。
同じ。
「なのに」
私は続けました。
「同じ条文を読んでるのに、昭和と現代で感じ方が違う」
「どう違う」
片桐所長が聞きました。
「昭和のほうが」
少し考えます。
「『みんなそうしている』が強いです」
所長は黙っています。
「町内会だから」
「うん」
「学校だから」
「うん」
「家族だから」
「うん」
「女だから。男だから。地元だから。昔からそうだから」
そういうものが。
法律の外側で、
人を強く縛っている。
「現代なら全部なくなるのか」
相馬先輩が聞きました。
「なくなりません」
「じゃあ同じじゃねえか」
「でも」
私は言いました。
「少なくとも、『昔からそうだから』だけでは人権制限の理由にならないって感覚は、もっと強くなってると思います」
個人の尊重。
憲法十三条。
一人一人を、
集団の部品ではなく、
個人として尊重する。
「条文が変わったんじゃない」
私は言いました。
「社会の側が、条文に追いついていった」
片桐所長が、
そこで初めてペンを置きました。
「逆もある」
「え?」
「社会が条文から離れることもある」
私は黙りました。
「人権は」
所長が言います。
「一度理解したら、永久に守られるものじゃない」
「……はい」
「世間の空気が変われば、また簡単に押される」
だから。
憲法がある。
多数派の気分が変わっても。
町の空気が重くても。
役所が面倒を嫌がっても。
同じ文章が、
そこに残っている。
何人も。
宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを、
強制されない。
昨日も。
今日も。
未来も。
同じ文章。
「憲法って」
私は言いました。
「時代に合わせて変わらないから古い、って思ってました」
「違ったか」
「変わらないからこそ」
少し考えて。
「時代のほうを測れるんですね」
昭和六十三年の社会を、
二十条に当てる。
未来の社会を、
同じ二十条に当てる。
すると。
社会がどこまで個人の自由を尊重できているか。
逆に。
どこで多数派の空気が人を押しているか。
見えてくる。
「よし」
私はノートを見直しました。
「試験用にまとめます」
相馬先輩がため息をつきます。
「まだやるのか」
「ここからが大事なんです」
「さっきも聞いた」
「全部大事なんです!」
信教の自由。
内容は三つ。
信仰の自由。
宗教的行為の自由。
宗教的結社の自由。
それぞれ、
しない自由も含む。
特に憲法二十条二項。
宗教上の行為、
祝典、
儀式、
行事への参加を強制されない。
「水野さん」
私は横に書きました。
神社祭礼への不参加。
朝市出店。
不参加を理由に不利益。
代替的な地域協力が可能。
次。
限界。
内心としての信仰。
国家が直接踏み込むことは許されない。
外部的な宗教行為・宗教的結社。
他人の人権などとの関係で一定の制約を受ける場合がある。
ただし。
精神的自由として重要。
規制は慎重に吟味する。
公共の福祉。
多数派の好みではない。
世間体でもない。
人権相互の調整。
目的。
必要性。
手段。
不利益。
代替可能性。
そうした事情を具体的に見る。
次。
政教分離。
国家の宗教的中立性。
二十条一項後段。
宗教団体への特権付与禁止。
政治上の権力行使禁止。
二十条三項。
国及びその機関による宗教教育その他の宗教的活動の禁止。
八十九条。
宗教上の組織・団体への公金支出等の禁止。
目的は。
国家と宗教を適切に分離することで、
個人の信教の自由を間接的に守る。
「そして判例」
私は書きます。
エホバの証人剣道受講拒否事件。
平成八年三月八日。
宗教上の真摯な理由。
重大な不利益。
代替措置の可能性。
それを検討しないまま原級留置・退学処分。
裁量権の範囲を超える違法。
そして。
オウム真理教解散命令事件。
平成八年一月三十日。
宗教法人の解散。
それ自体が信仰や宗教上の行為を法的に禁止するものではない。
ただし。
宗教活動に事実上の支障を生じさせる可能性がある以上、
信教の自由の重要性に照らして慎重に吟味する必要がある。
「両方平成八年なんですね」
「未来だな」
「はい」
「今使うなよ」
「使いません!」
でも。
未来の判例を知っているからこそ、
少し不思議でした。
今。
昭和六十三年のこの事務所で、
私たちが水野さんのために考えたこと。
本人の信仰に関わる問題であること。
不参加に重大な不利益を結びつけていること。
ほかの手段があること。
その手段を検討していないこと。
八年後。
最高裁もまた、
似た視点から一つの事件を見ることになる。
「法律って」
私は言いました。
「未来の判例が突然、新しい人権を発明するわけじゃないんですね」
「当たり前だ」
片桐所長が言います。
「判例は」
一拍。
「目の前の事実に、昔からある条文をどう当てるかを積み上げていく」
「はい」
「だから条文を軽く見るな」
私は頷きました。
最後。
一行の覚え書き。
私はノートの一番下に線を引きました。
「昨日は何て書いた」
相馬先輩が聞きます。
「『信じる自由とは、信じない・祈らない・参加しない自由まで守って、初めて自由になる』」
「長い」
「昨日も言われました」
「今日も長い」
「まだ書いてません!」
私は考えました。
信じる。
信じない。
祈る。
祈らない。
集まる。
集まらない。
参加する。
参加しない。
国家は、
そのどちらかへ人を押してはいけない。
公共の福祉は、
みんなと同じにさせるための言葉ではない。
政教分離は、
宗教を嫌う制度ではない。
国家が特定の宗教へ人を引っ張らないことで、
信仰の選択を本人に返す制度。
私は書きました。
――信教の自由は、「何を信じるか」だけでなく、「信じない・しない・参加しない」を国家から守る自由。
「まだ長い」
「内容が多いんですよ!」
「もっと削れ」
「じゃあ……」
私は考えます。
そして。
もう一度書きました。
――心の向きは、国ではなく本人が決める。
相馬先輩が黙りました。
「どうです?」
「……まあ」
「まあ?」
「悪くねえ」
「褒めた!」
「気のせいだ」
またそれ。
私は笑って、
ノートを閉じました。
そのとき。
片桐所長が言いました。
「こはる」
「はい」
「明日の朝」
「はい」
「八幡神社の前、清掃だそうだ」
「……え?」
「水野さんから電話があった」
「はい」
「朝市の出店者でやるらしい」
「はい」
「手伝ってこい」
「何で私が!?」
「世話になったから人手が欲しいそうだ」
「それ、業務命令ですか?」
「いや」
所長が言います。
「任意だ」
私は目を細めました。
「断ったら?」
「別に何もない」
「本当に?」
「ああ」
「給与査定とか」
「関係ない」
「見習い期間とか」
「関係ない」
「お茶くみ増えるとか」
「関係ない」
「じゃあ」
私は少し考えました。
「行きます」
「そうか」
「神社の儀式には出ませんけど、掃除なら」
「それでいい」
その瞬間。
相馬先輩が笑いました。
「何です?」
「いや」
「何ですか」
「お前、ちゃんと二十条使えてんじゃねえか」
「……」
私は一瞬、
返事ができませんでした。
参加しない。
でも。
協力しないわけではない。
祈らない。
でも。
祈る人を邪魔しない。
自分の心は、
自分で決める。
相手の心も、
相手に決めさせる。
その間にある距離を、
法律が守る。
たぶん。
自由というのは、
好き勝手に一人で生きることではありません。
違う人同士が、
違うまま同じ場所で暮らすための、
距離の取り方なのだと思います。
「じゃあ先輩も明日来ます?」
「行かねえ」
「地域協力ですよ」
「俺は朝市に出店してねえ」
「水野さん、パンくれるかもしれませんよ」
「何時だ」
「早い!」
片桐所長がため息をつきました。
「七時だ」
「行く」
「信仰よりパンに忠実ですね」
「俺の内心に干渉するな」
「憲法十九条まで使い始めた!」
翌朝。
私たちは神社の前を掃除するのでしょう。
境内では、
誰かが手を合わせるかもしれません。
私は手を合わせないかもしれません。
相馬先輩は、
パンしか見ていないかもしれません。
それでもいい。
昭和六十三年。
町の空気は、
まだ少し重い。
昔から。
みんな。
普通は。
そんな言葉が、
個人の心より先に立つことがあります。
でも。
憲法二十条は、
昭和でも未来でも、
同じ場所に立っています。
信じてもいい。
信じなくてもいい。
祈ってもいい。
祈らなくてもいい。
集まってもいい。
離れていてもいい。
国家が決めるのではなく。
世間が決めるのでもなく。
最後に決めるのは、
その人自身。
私は閉じたノートの表紙を、
指で軽く叩きました。
今日の一行。
――心の向きは、国ではなく本人が決める。
たったそれだけ。
でも。
その「たったそれだけ」を守るために、
憲法は二十条を使って、
国に向かって、
ずっと同じことを言い続けています。
――そこから先は、本人に決めさせろ。
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