[憲法20条・信教の自由]現場編 「町内の神事なんだから、参加して当然です」の罠。信じない自由まで守る最高法規と、昭和の“村八分”
信じる自由があるなら。
信じない自由も、あるはずです。
――法律の上では。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「神社のお祭りに出ないなら、商売はさせられないそうです」
その日の相談者は、そう言いました。
私は鉛筆を止めました。
「……もう一回お願いします」
「ですから」
向かいに座った女性は、膝の上で両手を握りました。
「神社のお祭りに出ないなら、市場では商売させられないって」
「誰に言われたんです?」
「市役所です」
私はさらに止まりました。
「市役所が?」
「はい」
相談者は、
水野佳代さん。
三十四歳。
夫と二人で、小さなパン屋を営んでいます。
駅から少し離れた住宅地。
店の名前は『麦の灯』。
今年、市が駅前広場で始めることになった日曜朝市へ出店を申し込みました。
市の観光振興策の一つ。
野菜。
干物。
菓子。
手工芸品。
地元商店の商品。
そこにパンも並べたい。
ところが。
「最初は、出店できると言われたんです」
「許可が出た?」
「正式な許可の前ですけど、担当の人には『場所は空いてますから大丈夫でしょう』って」
「それが変わった」
「はい」
「理由は?」
水野さんは鞄から一枚の紙を出しました。
正式な不許可通知ではありません。
市役所の商工観光課から渡された、
出店条件確認書。
私は読みました。
地元行事への協力。
地域美化活動への参加。
共同宣伝への協力。
まあ。
ここまでは分かります。
朝市を地域で運営するなら、一定の協力を求めること自体は不自然ではない。
しかし。
最後。
私は指を止めました。
――駅前八幡神社例大祭その他地域伝統行事への協力。
「これですか」
「はい」
「協力って、具体的には?」
「神社のお祭りで、店主がそろってお祓いを受けて、玉串を捧げるそうです」
「……なるほど」
「それを断りました」
水野さんは静かに言いました。
「私は、そういうことをしたくないんです」
私は顔を上げました。
「宗教上の理由ですか」
「特定の宗教を信じているわけではありません」
「あ」
「だから余計に、したくないんです」
その言葉で。
頭の中に一つの条文が浮かびました。
日本国憲法第二十条。
信教の自由。
私は受験生時代、
この単元が嫌いではありませんでした。
条文は短い。
論点も比較的整理しやすい。
信仰の自由。
宗教的行為の自由。
宗教的結社の自由。
政教分離。
判例を覚える。
はい、次。
そんな感じ。
でも。
目の前の水野さんは、
試験問題のXさんではありません。
「それで市役所は何て?」
「担当の方は、『宗教というほど大げさなものではありません』って」
「大げさ?」
「昔からやっている町の行事だからって」
嫌な予感がしました。
「ほかには?」
「朝市は地元の協力で成り立っている。和を乱す人が一人いると困るって」
来ました。
昭和六十三年。
最強の法源。
――みんなやっている。
もちろん法律ではありません。
でも、ときどき法律より強そうな顔で出てきます。
「参加しなければ出店できない、と明言されたんですか」
「はい」
「書面は?」
「ありません」
「口頭だけ?」
「はい」
片桐所長が初めて口を開きました。
「申請は取り下げたか」
「いいえ」
「取り下げるよう言われたか」
「それは……言われました」
「何と」
「『このままでは難しいから、今回は申請しなかったことにしてはどうですか』って」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「出たな」
「何がです?」
「役所の便利なやつだよ」
煙草を灰皿に押しつける。
「処分する前に、本人に引っ込めさせる」
「ああ……」
正式に不許可を出せば。
理由が要る。
争われるかもしれない。
でも本人が取り下げれば、
最初から申請がなかったことになる。
「取り下げてませんよね」
「はい」
「それで正解です」
私が言うと、
水野さんは少し安心した顔をしました。
「でも」
すぐに視線を落とします。
「私、変なんでしょうか」
「え?」
「みんな参加してるんです」
その言葉が、
思ったより重かった。
「商店会の人にも言われました。『信じろって言ってるんじゃない。ただ頭を下げるだけじゃないか』って」
「……」
「夫にも、商売するならそれくらい我慢したらどうだって」
私は何も言えませんでした。
現代なら。
いや。
現代だって同調圧力はあります。
町内会。
学校。
職場。
冠婚葬祭。
宗教なのか慣習なのか分からない行事。
でも昭和六十三年。
地方都市。
商店会。
地元の祭り。
ここでは、
「嫌なら参加しなければいい」
で済まない。
参加しない。
変わった人。
付き合いが悪い。
地域を大切にしない。
商売人なのに。
次々と札が貼られていく。
そして最後には。
市役所まで、
「地元の和」
と言い始める。
「……重いなあ」
思わず漏れました。
「何がだ」
相馬先輩が聞きます。
「空気です」
「空気?」
「昭和の空気」
「また妙なこと言ってんな」
でも。
本当にそう思いました。
法律の条文なら読めます。
判例なら調べられます。
役所の規則ならコピーを取れます。
けれど。
――みんなやっている。
――昔からそうだ。
――地元なんだから。
そんなものは六法のどこにも載っていない。
なのに。
人を縛る力だけは、とんでもなく強い。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「条文」
「え?」
「今、何条を考えている」
「……二十条です」
「読め」
私は六法を開きました。
ページを探す。
そして。
そこで、手が止まりました。
「あ」
「何だ」
「同じだ」
相馬先輩が眉を寄せます。
「何が」
「条文」
「当たり前だろ」
「いや、私にとっては当たり前じゃないんです」
行政法では、
何度も地雷を踏みかけました。
不服申立て。
出訴期間。
制度。
平成の大改正。
現代知識をそのまま昭和へ持ってくれば危ない。
でも。
憲法は。
違う。
日本国憲法は、
昭和二十一年に公布されてから、
私のいた時代まで、
一度も改正されていない。
一字一句。
同じ。
つまり。
ここは昭和六十三年でも。
私の知っている第二十条が、
そのまま使える。
私は条文を目で追いました。
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
そして第二項。
何人も、
宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
「……あるじゃん」
「何がだ」
「そのまま書いてあるじゃないですか」
私は顔を上げました。
「参加しない自由」
その日の午後。
私たちは市役所へ向かいました。
商工観光課。
そして。
なぜかそこに、
沢渡課長がいました。
「またですか」
開口一番それでした。
「こっちの台詞です」
私が言うと、
相馬先輩に肘で小突かれました。
「痛い」
「客先だ」
「市役所です」
「もっと悪い」
沢渡課長は眼鏡を直しました。
「朝市の出店についてですね」
「話が早い」
片桐所長が言います。
「総務でも相談を受けています」
「理由は」
「出店者間の調整です」
「具体的に」
「朝市は市だけで運営するものではありません。商店会、観光協会、地域団体との協力が不可欠です」
「それで?」
「地域行事への協力も、円滑な運営上重要です」
私は聞きました。
「八幡神社の例大祭も?」
「地域の伝統行事です」
「神社ですよね」
「神社です」
「お祓いを受けて、玉串を捧げるんですよね」
「そう聞いています」
「それを断ったら、朝市に出店できない?」
沢渡課長は少し間を置きました。
「現段階では正式な不許可処分はしていません」
なるほど。
逃げてはいません。
むしろ正確です。
この人はこういうところが強い。
「では」
片桐所長が言いました。
「参加しなければ出店を認めない、という運用はあるのか」
「出店者には地域との協調を求めています」
「質問に答えろ」
静かな声でした。
沢渡課長も片桐所長を見る。
「……事実上、参加をお願いしています」
「お願い?」
相馬先輩が笑いました。
「断ったら出店できねえお願いか」
「地域全体の理解を得る必要があります」
「誰の理解だ」
「商店会、地域住民、既存出店者――」
「憲法より偉いのか」
空気が止まりました。
相馬先輩。
いきなり最高法規を抜きました。
沢渡課長の表情が変わります。
「大げさではありませんか」
「何がだ」
「地域行事への協力を求めているだけです」
「神社でお祓い受けて玉串出すんだろ」
「宗教的信仰を強制しているわけではありません」
そこで。
私は一瞬、詰まりました。
確かに。
市役所は、
八幡神社を信じろ、
とは言っていない。
神様を信じろ。
入信しろ。
信仰を変えろ。
そう言っているわけではない。
ただ。
祭りに出ろ。
儀式に参加しろ。
形だけでいい。
頭を下げろ。
それだけ。
――それだけ?
違う。
私はもう一度、
頭の中の第二十条を読みました。
信教の自由。
信仰する自由だけじゃない。
宗教的行為をする自由。
宗教団体を作る自由。
そして。
しない自由。
さらに第二項は、
もっと直接的です。
宗教上の行為、祝典、儀式又は行事への参加を、
強制されない。
「課長」
私は言いました。
「信じさせることだけが、信教の自由の問題じゃありません」
「分かっています」
「じゃあ、分かりますよね」
「何がです」
「参加させることもです」
沢渡課長が黙ります。
「信仰を強制していない。だから問題ない。そういう話じゃないですよね」
「朝比奈」
相馬先輩が言います。
「続けろ」
「はい」
私は少し緊張しながら言いました。
「水野さんは、神社を壊したいと言ってるんじゃありません」
「当然です」
「祭りを中止しろとも言ってません」
「ええ」
「ほかの店主が参加するのを邪魔しているわけでもない」
「……」
「ただ、自分は宗教的な儀式には参加したくない。それだけです」
ここ。
大事です。
信教の自由にも限界はある。
宗教を理由に何をしてもいいわけではない。
他人の生命や身体を侵害する。
財産を奪う。
危険な行為をする。
そんなものまで、
信教の自由です、
で通るわけがない。
公共の福祉。
他人の人権との調整は必要です。
でも。
「水野さんが祭りに参加しないことで、誰の権利が侵害されるんですか」
沢渡課長が私を見ました。
「地域の一体感というものがあります」
「それは人権ですか」
「そういう言い方をされると――」
「だって、公共の福祉って」
私は言いました。
「『みんなが気に入らない』の言い換えじゃないでしょう」
相馬先輩が、
少しだけ笑いました。
沢渡課長は笑いません。
「公共の福祉とは、社会共同生活上の調整原理です」
「はい」
「行政が地域秩序を考慮すること自体が許されないわけではありません」
「それも分かってます」
「なら」
「だから、聞いてるんです」
私は一歩踏み込みました。
「祭りに出ない人を朝市から排除することが、本当に必要なんですか」
沢渡課長が止まりました。
私は続けます。
「朝市の目的は何です?」
「地域商業の活性化です」
「パンを売ることに問題は?」
「衛生上の要件等を満たせば、特には」
「場所は?」
「空きがあります」
「ほかの出店者に迷惑をかけた?」
「まだ出店していません」
「過去に問題を起こした?」
「聞いていません」
「じゃあ」
私は言いました。
「祭りに参加しないことと、朝市でパンを売らせないことに、どんな関係があるんですか」
沈黙。
答えは。
たぶん一つ。
みんな参加しているから。
でも。
それを役所の言葉にすると、
途端に弱くなる。
相馬先輩が腕を組みました。
「世間の常識?」
沢渡課長を見る。
「俺たちが守ってんのは法律だ」
出ました。
特攻隊長。
「相馬さん」
沢渡課長が低い声で言います。
「現場は法律だけで動いているわけではありません」
「知ってるよ」
「地域社会には地域社会の――」
「だからって役所まで村八分に参加していい理由にはならねえ」
「村八分とは言っていません」
「出店させねえんだろ」
「まだ決定していません」
「じゃあ決定するとき、憲法二十条を机に置け」
沢渡課長が黙りました。
片桐所長が、
そこで初めて鞄を開きました。
「課長」
「はい」
「明日、意見書を出す」
「意見書?」
「朝市出店資格と宗教行事参加を結びつける運用についてだ」
「……憲法論を持ち出すおつもりですか」
「嫌いなんだ」
所長は言いました。
「何がです?」
「何でも憲法で殴る奴が」
私は所長を見ました。
相馬先輩も見ました。
「憲法論を振り回せば、自分が正義になった気になる。そんな仕事は三流だ」
所長は淡々と続けます。
「条例で済むなら条例を使う。規則で済むなら規則を使う。裁量の問題なら裁量で詰める」
「では今回は?」
沢渡課長が聞きました。
片桐所長は、
ほんの少しだけ目を細めました。
「役所が宗教行事への参加を事実上の出店条件にするなら」
一拍。
「抜く」
何を。
聞く必要はありませんでした。
最高法規。
伝家の宝刀。
翌日。
私たちは意見書を作りました。
最初に相馬先輩が書いた案は、
ひどいものでした。
――宗教行事への参加を強制する本件運用は憲法第二十条に違反し、到底容認できない。
「喧嘩売ってますよね」
「意見書だろ」
「果たし状じゃありません」
「似たようなもんだ」
「違います」
片桐所長が赤鉛筆で全部消しました。
「うわ」
「何だ」
「全滅」
「感情を書くな」
「俺は感情で書いてねえ」
「怒っている」
「怒ってねえ」
「字が怒っている」
字が怒る。
初めて聞きました。
でも確かに相馬先輩の字は、
紙から殴りかかってきそうでした。
所長が私を見る。
「こはる。組め」
「はい」
まず。
朝市の目的。
地域商業の振興。
駅前の賑わい創出。
市民への販売機会の提供。
次。
水野さん。
食品衛生上の要件を満たす見込み。
出店スペースあり。
過去の問題行為なし。
営業内容にも問題なし。
そして。
出店を困難にしている唯一の事情。
神社例大祭への不参加。
「ここから憲法ですね」
「ああ」
憲法第二十条第一項。
信教の自由。
そして第二項。
宗教上の行為、祝典、儀式又は行事への参加を強制されない。
さらに。
市が宗教行事への参加を事実上の出店条件として運用するなら、
行政自身の宗教的中立性の観点からも問題が生じる。
「政教分離も入れます?」
「触れろ」
「断定は?」
「急ぐな」
所長が言いました。
「何でも即違憲と書くな」
「はい」
「目的と効果を見ろ」
私は頷きました。
宗教と行政が少しでも接触したら、
全部違憲。
そんな単純な話ではない。
でも今回。
市が、
神社の宗教的儀式への参加を、
市主催の朝市に出店するための事実上の条件にしている。
もしそうなら。
単なる伝統行事への便宜供与という話を超える。
「そして公共の福祉」
私は言いました。
「市は地域秩序を理由にしてます」
「だから潰せ」
相馬先輩。
言い方。
「潰すんじゃなくて、検討します」
「同じだ」
「違います」
市が守ろうとしている利益は何か。
朝市の円滑な運営。
地域との協調。
それ自体は理解できる。
しかし。
宗教行事に参加しない出店者を排除することが、
その目的のために必要なのか。
代替手段はないのか。
祭りそのものには参加しなくても、
清掃。
警備。
朝市準備。
広報。
地域美化。
宗教性のない活動で協力することはできる。
「ここです」
私は言いました。
「祭りに参加しなければ地域協力できない、じゃない」
「そうだ」
「宗教的行為を避けながら、朝市運営に協力する方法はいくらでもある」
「なら」
片桐所長が言いました。
「行政が、より制約の少ない方法を検討せずに宗教行事への参加を求める合理性は薄い」
私は書きました。
目的。
地域との協調。
手段。
神社例大祭への参加。
不利益。
拒否すれば朝市出店を認めない。
代替手段。
宗教性を伴わない地域活動への参加。
そこまで並べると。
見えてきます。
「公共の福祉」
という大きな言葉だけでは、
足りない。
何を守るために。
なぜその制限が必要で。
ほかの方法では駄目なのか。
そこまで説明できなければ、
人権制限の根拠にはなりにくい。
「判例は?」
相馬先輩が聞きました。
私は一瞬、口を開きました。
そして閉じました。
頭の中に、
剣道。
宗教上の理由。
代替措置。
レポート。
退学処分。
という判例が浮かびます。
最高裁。
平成八年三月八日。
エホバの証人剣道受講拒否事件。
――待って。
平成八年。
今は。
昭和六十三年。
「あああ……」
「何だ」
「まだない」
「何が」
「使いたい最高裁判決が、まだ出てません」
相馬先輩が私を見ました。
「また未来か」
「はい」
「捨てろ」
「いい判例なのに!」
「八年後まで待つか?」
「水野さんのパンが化石になります」
「なら今ある法で戦え」
そうです。
憲法の条文は同じ。
でも。
判例の蓄積は同じではない。
ここにも時代差がある。
私は未来の判決そのものを引用することはできない。
でも。
その判決が後に示すことになる考え方。
信仰の核心に関わる不利益。
代替措置の可能性。
それを何も検討せず重大な不利益を課すことの問題。
その発想自体は、
今ある憲法二十条から組み立てられる。
「未来の判例は書くな」
所長が言いました。
「はい」
「今ある条文と事実で組め」
「はい」
「判例は道具だ。判例がなければ憲法が消えるわけじゃない」
その一言に、
私はペンを止めました。
そうか。
未来の最高裁判決が、
昭和六十三年の水野さんに権利を与えるわけじゃない。
権利は、
もうここにある。
第二十条に。
私は意見書の最後を書きました。
――宗教的儀式への不参加を理由として市主催事業への参加資格を否定することは、憲法第二十条が保障する信教の自由、とりわけ宗教上の行為等への参加を強制されない自由との関係で重大な疑義を生じさせる。
――地域協調という目的を達成するためには、宗教性を伴わない協力方法を選択することが可能であり、それらを検討することなく宗教行事への参加を事実上要求する必要性・合理性は乏しい。
――したがって、本件申請については、宗教行事への参加・不参加を出店審査の考慮要素から除外し、営業内容その他本来の審査基準に基づき判断されたい。
「どうです?」
片桐所長が読む。
一分。
二分。
長い。
胃に悪い。
そして。
「出せ」
「はい」
沢渡課長は、
意見書を三回読みました。
一回目。
無表情。
二回目。
眉間に皺。
三回目。
眼鏡を外しました。
これは。
効いている。
「片桐先生」
「何だ」
「一つ確認します」
「ああ」
「市が宗教を信じることを強制した、と主張しているわけではないですね」
「違う」
「祭りそのものを禁止すべきだとも」
「言っていない」
「神社への市の関与一般が、直ちに違憲だとも」
「そこまで雑な話はしていない」
沢渡課長は頷きました。
やはりこの人は、
間違いを認めて折れるタイプではありません。
論点を切り分け、
行政側のリスクを計算する。
だから強い。
「問題にしているのは」
沢渡課長が言いました。
「市主催の朝市の出店資格と、宗教行事への参加を結びつけた点」
「そうだ」
「しかも、宗教性のない代替的な地域協力を検討していない」
「そうだ」
「不参加による不利益が、朝市への出店拒否」
「その通りだ」
沢渡課長は、
しばらく黙りました。
そして。
「この運用は改めます」
私は瞬きをしました。
「……え?」
「朝市の出店審査から、神社例大祭への参加の有無を外します」
「そんな即決でいいんですか」
思わず聞いてしまいました。
「即決ではありません」
「でも今――」
「昨日から総務で確認していました」
あ。
先回りされていました。
「商工観光課にも聞き取りをしました。もともと正式な出店基準ではありません」
「え?」
「地域団体側からの要望を、担当者が出店者への協力事項として事実上運用していたものです」
相馬先輩が眉を上げました。
「つまり?」
「市の正式な基準として宗教行事への参加を義務付けた事実はありません」
「でも実際には断ったら出店できないと言われた」
「そこが問題です」
沢渡課長は即答しました。
「行政指導の範囲を越えて、事実上の不利益取扱いに結びついていた」
なるほど。
沢渡課長は、
負けを認めたのではありません。
もっと役人らしい。
違憲な処分が完成する前に、
危険な運用を切った。
「水野さんの申請は?」
「祭りへの参加とは切り離して審査します」
「出店できますか」
「審査前です」
そこは言わない。
さすがです。
「ただし」
沢渡課長は続けました。
「現時点で、営業内容に問題があるとの報告は受けていません」
十分。
ほぼ十分です。
「それと」
沢渡課長が私を見ました。
「朝比奈さん」
「はい」
「『公共の福祉』について」
「はい」
「行政がその言葉を使っただけで、人権制限が正当化されるわけではありません」
「……はい」
「しかし逆に、憲法二十条を出せば、宗教に関係する行為がすべて無制限になるわけでもない」
「分かってます」
「なら結構です」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「先生かよ」
「合理的な確認です」
「便利な言葉だな、それ」
一週間後。
水野さんが事務所へ飛び込んできました。
「出ました!」
「何がです?」
「許可!」
紙を差し出されます。
朝市出店承認。
私は思わず立ち上がりました。
「やった!」
「こはる」
片桐所長。
「はい」
「騒ぐな」
「でも!」
「まだ営業はこれからだ」
「はい」
水野さんは笑っていました。
最初に来た日とは、
まるで違う顔です。
「それで」
水野さんが言いました。
「商工観光課から、地域協力についても新しく説明がありました」
「何て?」
「祭りに参加しない人は、翌朝の清掃を手伝うとか、朝市の飾り付けをするとか」
「宗教行事じゃない形で?」
「はい」
「それなら?」
「やります」
即答でした。
「掃除ならいくらでもします。朝市で商売させてもらうんだから」
私は笑いました。
そう。
水野さんは、
地域と関わりたくないわけじゃない。
協力したくないわけでもない。
ただ。
自分の心の中にまで、
土足で入ってほしくなかっただけです。
「それと」
水野さんが紙袋を机に置きました。
「これ」
嫌な予感。
いや。
いい予感。
「パンですか?」
「試作品」
相馬先輩が、
ものすごい速度でこちらを見ました。
「何パンです?」
「こはる」
「はい」
「客の差し入れを催促するな」
「聞いただけです!」
「俺が見る」
「先輩が一番食べる気じゃないですか!」
紙袋を開ける。
あんパン。
クリームパン。
丸い食パン。
そして。
妙に細長いパン。
「これは?」
「八幡巻きパン」
「……名前、大丈夫です?」
水野さんが笑いました。
「名前まで嫌いなわけじゃありません」
その一言に。
私は少しだけ胸が温かくなりました。
宗教を信じない自由は、
宗教を嫌う自由とは違う。
参加しない自由は、
参加する人を否定する自由でもない。
自分はしない。
あなたがするのは邪魔しない。
その距離を、
国や役所が勝手に壊さない。
たぶん。
信教の自由って、
そういう静かな自由でもある。
朝市の初日。
私たちは駅前へ見に行きました。
「何で俺まで」
相馬先輩が言います。
「パン目当てですよね」
「仕事だ」
「何の」
「現場確認」
「もう許可出てますけど」
「継続的な実態把握だ」
「パン目当てですね」
駅前には、
白いテントが並んでいました。
野菜。
魚。
団子。
木工品。
そして。
『麦の灯』
小さな看板。
水野さんがパンを並べています。
「朝比奈さん!」
「売れてます?」
「ぼちぼち!」
その向こう。
駅前八幡神社から、
祭囃子が聞こえてきました。
今日は例大祭。
朝市の店主の何人かは、
交代で神社へ向かっています。
水野さんは行きません。
誰も、
行けと言わない。
市役所の職員も、
何も言わない。
ただ。
「水野さん」
商工観光課の職員が声をかけました。
「明日の清掃、七時からです」
「はい!」
「軍手はこちらで用意します」
「分かりました」
それだけ。
私は祭囃子を聞きながら、
不思議な気持ちになりました。
祭りはなくなっていません。
神社もある。
参加する人もいる。
水野さんもパンを売っている。
誰かの自由を守るために、
ほかの誰かの自由を消す必要はなかった。
「先輩」
「何だ」
「憲法って、すごいですね」
「今さらか」
「私、受験生の頃は」
「うん」
「憲法って実務でそんなに使わないと思ってました」
「馬鹿だな」
「即答しないでください」
相馬先輩は、
あんパンを買いながら言いました。
「毎日使うもんじゃねえよ」
「え?」
「毎日、憲法違反だ何だって役所で叫んでみろ。誰も話聞かなくなる」
「それはそうですね」
「条例で済むなら条例。法律で済むなら法律。手続で済むなら手続」
「所長と同じこと言ってる」
「だがな」
相馬先輩が、
神社の鳥居を見ました。
「役所が越えちゃいけねえ線を越えたら」
あんパンを一口。
「一番上を出せ」
私は笑いました。
「最高法規」
「そういうことだ」
そのとき。
後ろから声がしました。
「朝比奈さん」
「うわっ」
沢渡課長。
休日なのに背広。
この人、私服を持っていないのでしょうか。
「何してるんですか」
「朝市の運営確認です」
「休日ですよ」
「市の事業ですから」
相馬先輩があんパンを差し出しました。
「食うか」
「勤務中です」
「パンくらい食えるだろ」
「後で買います」
買うんだ。
「課長」
私は聞きました。
「祭り、見ました?」
「見ました」
「水野さん、参加してません」
「承知しています」
「問題ありません?」
沢渡課長は、
ほんの少しだけ眉を上げました。
「朝市でパンを販売する資格と、神社の祭礼への参加に何の関係があります?」
私は口を開きました。
相馬先輩も止まりました。
「……それ、私たちが言ったんですけど」
「合理的な運用に改めただけです」
「絶対、自分で最初から分かってたみたいに言ってる」
「気のせいでしょう」
出た。
沢渡課長まで、それを使うようになりました。
水野さんの店から、
焼きたてのパンの匂いが流れてきます。
神社からは祭囃子。
太鼓。
笛。
笑い声。
全部、
同じ駅前にあります。
参加する人。
参加しない人。
信じる人。
信じない人。
違うまま、
同じ町にいる。
それでいい。
むしろ。
それを許せる町のほうが、
きっと強い。
私はポケットから小さなメモ帳を出しました。
今日の教訓。
――「公共の福祉」は、“みんなと同じにしろ”という命令ではない。
その下に。
もう一行。
――信教の自由は、信じる人だけでなく、祈らない人も守る。
「二行じゃねえか」
相馬先輩が横から言いました。
「見ないでください!」
「一行にしろ」
「じゃあ……」
私は少し考えて、
書き直しました。
――信じる自由とは、「信じない・祈らない・参加しない自由」まで守って、初めて自由になる。
「長え」
「いいんです!」
その瞬間。
神社の太鼓が、
どん、
と鳴りました。
水野さんは振り向きませんでした。
パンを一つ、
お客さんへ渡します。
「ありがとうございます」
笑顔でした。
誰にも頭を下げさせられず。
誰の祈りも邪魔せず。
自分の店で、
自分のパンを売っている。
昭和六十三年。
社会の空気は重い。
世間の目も強い。
昔から。
みんなそうしている。
地元の和。
そんな言葉が、
ときどき法律より大きな顔をする。
けれど。
六法を開けば。
そこには、
現代と一字一句同じ憲法がありました。
人の心の中まで、
多数決にはさせない。
そのための二十条が、
昭和のページにも、
ちゃんと載っていました。
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