[憲法19条・思想及び良心の自由]現場編 「考えを書けないなら、貸せません」の罠。昭和の“踏み絵”を、沈黙の自由で叩き割る
人の口は、役所が開けていいものではありません。
まして。
心の中まで。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「書かなかったんです」
その日の相談者は、そう言って一枚の紙を机に置きました。
「だから、市民会館を貸してもらえなくなりました」
「……書かなかったから?」
私は紙を取りました。
題名。
――市民会館利用に関する確認書。
その下に、いくつか質問が並んでいます。
団体名。
代表者名。
利用目的。
参加予定人数。
ここまでは普通です。
問題は、その下でした。
私は読み上げました。
「『当団体は、現行の市政方針を尊重し、市の秩序及び地域の融和を損なう活動を行わないことを確認します』」
「はい」
「……これも、まあ、書き方は嫌ですけど」
さらに下。
私は止まりました。
――市の駅前再整備事業について。
賛成。
反対。
どちらでもない。
丸を付けてください。
「……何ですか、これ」
向かいに座っていた男性が苦笑しました。
「私も、そう言いました」
相談者は、
高瀬修一。
四十二歳。
町の印刷屋さんでした。
駅から少し離れた商店街で、父親の代から小さな印刷所を営んでいる。
高瀬さんは、月に一度。
市民会館の小会議室を借りて、
「まちづくり勉強会」
という集まりを開いていました。
商店主。
会社員。
主婦。
学生。
十人から、多いときで三十人ほど。
駅前再整備。
商店街の空洞化。
道路拡張。
観光振興。
そういう話をする。
「反対運動なんですか?」
私が聞くと、高瀬さんは首を振りました。
「反対の人もいます。賛成の人もいます」
「高瀬さん自身は?」
「それを、役所にも聞かれました」
「あ」
「だから答えませんでした」
なるほど。
高瀬さんは腕を組みました。
「私は、勉強会の代表です。自分が賛成か反対かを市に登録する必要があるとは思わない」
「それで空欄に?」
「はい」
「そうしたら?」
「窓口で、これでは受け付けられないと言われました」
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。
「誰に」
「市民生活課です」
「理由は」
「最近、駅前整備のことで揉めているから、市の施設を貸す以上、利用団体の考え方を確認する必要がある、と」
「考え方を?」
「はい」
高瀬さんの声が少し低くなりました。
「『やましいことがないなら、書けるでしょう』とも言われました」
その瞬間。
事務所の空気が変わりました。
相馬先輩の顔から、いつもの面倒くさそうな色が消えた。
片桐所長が、帳簿から顔を上げた。
私は。
紙を見ました。
賛成。
反対。
どちらでもない。
三つの丸。
たったそれだけ。
たったそれだけなのに。
妙に気持ちが悪い。
「……踏み絵」
思わず口から出ました。
「何だ?」
相馬先輩が聞きます。
「いえ」
私はもう一度紙を見ました。
踏み絵。
江戸時代。
キリスト教徒を見つけるために、
信仰を外へ出させる。
心の中にあるものを、
行動によって証明させる。
もちろん。
これは絵を踏ませるわけではありません。
ただ紙に丸を付けるだけ。
でも。
その丸が、
その人の思想を役所へ差し出す印だとしたら。
「高瀬さん」
私は聞きました。
「去年までは、この紙は?」
「ありませんでした」
「今回から?」
「そうです」
「ほかの団体も?」
「駅前整備に関係する集会には書いてもらっている、と聞きました」
「関係しない団体は?」
「知りません」
「利用拒否は、正式な通知ですか」
「まだです。窓口で申請書を受け取ってもらえなかっただけです」
なるほど。
まだ処分以前。
窓口段階で止めている。
こういうのが、いちばん厄介です。
正式に不許可なら、不許可理由を問える。
不服申立ての対象になるかも検討できる。
でも。
「確認書を書いてください」
「書けないなら受け付けられません」
柔らかい言葉で入口を塞ぐ。
「地元の人からも言われました」
高瀬さんが続けました。
「何をです?」
「市の施設を借りるんだから、市に協力するのは当然だろうって」
「……」
「駅前の商店会でも、『わざわざ役所と揉めるな』って」
高瀬さんは笑いました。
でも。
その笑い方は、疲れていました。
「私は別に、市を倒したいわけじゃないんですよ」
「はい」
「駅前整備に賛成の意見だって聞きたい。反対の意見も聞きたい。ただ、それだけなんです」
「はい」
「なのに最近は」
少し間を置いて。
「どっちなんだ、と」
高瀬さんは言いました。
「賛成なのか。反対なのか。市の味方なのか。敵なのか」
私は何も言えませんでした。
昭和六十三年。
今から見れば、たった数十年前。
テレビもある。
新幹線も走っている。
ファミコンだってある。
法律だって、ちゃんとある。
なのに。
町の空気は。
現代よりずっと重い。
近所。
商店会。
自治会。
役所。
学校。
会社。
誰が何を考えているか。
誰が誰に逆らったか。
誰が「和」を乱したか。
そんなものが、今よりずっと近い距離で人を囲んでいる。
「……嫌だな」
私は呟きました。
「何がだ」
相馬先輩が聞きます。
「空気です」
「空気?」
「法律じゃなくて、空気で人を黙らせる感じ」
「昭和に喧嘩売ってんのか」
「先輩も昭和の人ですよね」
「そうだよ」
「どう思います?」
相馬先輩は確認書を取ると、
一番下の三択を見ました。
賛成。
反対。
どちらでもない。
そして鼻で笑いました。
「世間の常識?」
「え?」
「地元の和?」
紙を机へ戻します。
「俺たちが守ってんのは法律だ」
出た。
特攻隊長。
「行くぞ」
「どこへ」
「市役所」
「ですよね」
市役所。
二階。
市民生活課。
そして。
「また片桐先生ですか」
いました。
沢渡課長。
灰色の背広。
細い眼鏡。
今日も役所そのものみたいな顔をしています。
「最近、頻度が高くありませんか」
「市役所が仕事をくれる」
片桐所長が言いました。
「できれば別の形で地域経済に貢献したいものです」
沢渡課長が答えます。
この二人。
仲が悪いのか良いのか、本当に分かりません。
相馬先輩が確認書を机へ置きました。
「これだ」
沢渡課長は一瞥しました。
「ああ」
「知ってるな」
「当然です」
「何のためだ」
「市民会館の適正な利用のためです」
「駅前整備への賛否が?」
「最近、駅前再整備をめぐって、住民間の対立が生じています」
沢渡課長は淡々と答えました。
「市の施設が、過度に政治的な対立をあおる活動の拠点となることは望ましくありません」
「だから思想調査か」
「思想調査という表現は適切ではありません」
「じゃあ何だ」
「利用目的の確認です」
「利用目的なら『まちづくり勉強会』で足りるだろ」
「それだけでは実態が分かりません」
私は口を挟みました。
「課長」
「はい」
「どうして駅前整備への賛否まで必要なんですか」
「先ほど申し上げたとおりです」
「賛成って書いたら貸すんですか」
「そういう意味ではありません」
「反対って書いたら?」
「それだけで拒否するわけでもありません」
「じゃあ」
私は紙を指しました。
「何のために聞くんです?」
沢渡課長が少し黙りました。
「総合的な判断材料です」
来た。
役所語。
総合的な判断。
便利です。
何でも入る魔法の箱。
「施設管理上の秩序維持」
沢渡課長が続けます。
「他の利用者への影響」
「はい」
「地域住民との摩擦」
「はい」
「公共の福祉」
その言葉で。
私は止まりました。
公共の福祉。
憲法の勉強をしていると、何度も出てくる言葉。
人権は無制限じゃない。
他人の権利との調整が必要。
社会全体との調整も必要。
だから一定の制約を受けることがある。
そこまでは分かります。
でも。
この時代。
この町。
この窓口で聞く、
「公共の福祉」は。
何だか違う。
地元が嫌がるから。
揉めるから。
面倒だから。
和を乱すから。
役所に反対する人が集まるかもしれないから。
そういうものを全部まとめて、
公共の福祉。
というラベルを貼っている。
「公共の福祉って」
私は言いました。
「便利ですね」
沢渡課長の眉がわずかに動きました。
「どういう意味でしょう」
「何でも入れられる」
「朝比奈」
片桐所長が言いました。
「喧嘩をするな」
「すみません」
「論点を言え」
「はい」
論点。
私は確認書を見ました。
何かがおかしい。
でも。
何条だ。
集会だから二十一条?
市民会館だから公の施設?
平等取扱いなら十四条?
もちろん、それもある。
でも。
もっと手前。
そもそも役所は、
人に、
「お前は何を考えている」
と答えさせていいのか。
頭の中で。
短い条文が浮かびました。
驚くほど短い。
憲法十九条。
――思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
私は一瞬、
変な感覚になりました。
あれ。
この条文。
知ってる。
現代と同じだ。
というより。
日本国憲法は。
「……変わってない」
「何がだ」
相馬先輩が聞きました。
「憲法です」
「は?」
「一字も」
私は確認書を見ました。
昭和六十三年。
でも。
憲法十九条は、
現代の私が覚えた十九条と、
まったく同じです。
行政不服審査法みたいに、
旧法だから期間が違う。
制度が違う。
そんな話じゃない。
条文は同じ。
変わっているのは。
社会の空気です。
「課長」
私は言いました。
「これ、書かなきゃ駄目なんですか」
「必要事項です」
「賛成、反対、どちらでもない。このどれかを」
「はい」
「選ばない自由は?」
沢渡課長の目が、少し細くなりました。
「……何をおっしゃりたいのでしょう」
「憲法十九条です」
部屋が静かになりました。
相馬先輩がこちらを見る。
片桐所長は何も言わない。
沢渡課長だけが、
私をまっすぐ見ました。
「思想及び良心の自由」
「はい」
「この確認書が、それを侵害すると?」
「その疑いがあります」
「大きく出ましたね」
「大きいのは条文です」
言ってから。
ちょっと格好つけた。
でも撤回はしません。
「市が、高瀬さんに駅前整備への賛否を答えさせる」
「施設利用の判断材料としてです」
「それを答えないと、申請を受け付けない」
「必要な確認ができませんから」
「つまり」
私は言いました。
「自分の考えを表明しない人には、市の施設を使わせない」
沢渡課長は答えません。
「それって」
私は続けました。
「思想を言わせるために、不利益を使ってませんか」
一秒。
二秒。
沢渡課長が眼鏡を直しました。
「朝比奈さん」
「はい」
「思想・良心の自由は、あらゆる質問を禁止するものではありません」
来た。
当然です。
役所が質問しただけで全部十九条違反。
そんな単純な話ではない。
「利用目的を確認する必要性はあります」
「はい」
「施設内で何をするのか。参加人数は何人か。危険な行為はないか。他の利用者へ支障を生じさせないか」
「そこは否定しません」
「ならば――」
「でも」
私は三択を指しました。
「それと、駅前整備に賛成か反対かは別です」
沢渡課長が止まりました。
「必要なのは行為の確認ですよね」
「……」
「何人集まるか」
「ええ」
「何をするか」
「ええ」
「騒音が出るか」
「ええ」
「施設を壊す危険があるか」
「ええ」
「他の利用者に迷惑をかける具体的なおそれがあるか」
「そうです」
「だったら」
私は言いました。
「どうして心の中まで聞くんですか」
沈黙。
これだ。
外で何をするか。
内心で何を考えるか。
同じではない。
思想・良心の自由。
内心の領域にとどまる限り、
国家はそこへ踏み込めない。
しかも。
何を考えているかを、
本人に表明させることまで強制できない。
沈黙する自由。
答えない自由。
「十九条が守ってるのは」
私は言いました。
「考える自由だけじゃありません」
「……」
「考えていることを、国に言わない自由もです」
沢渡課長の指が、
確認書の端で止まりました。
相馬先輩が低い声で言います。
「高瀬さんは、市役所に反対思想を広めに来たわけじゃねえ」
「それは承知しています」
「じゃあ、何で賛否を吐かせる」
「表現が悪いですね」
「じゃあ訂正する。何で答えさせる」
「施設管理上――」
「管理するのは建物だろ」
相馬先輩が言いました。
「頭ん中じゃねえ」
うわ。
強い。
沢渡課長の目が、今度は相馬先輩へ向きます。
「相馬さん。感情論では困ります」
「感情の話してんのはそっちだ」
「何ですって?」
「『地元が揉める』『和を乱す』『反対派かもしれない』」
相馬先輩が机を指で叩きました。
「全部、何か起きたあとの話じゃねえ」
「予防的な管理は必要です」
「だから具体的に何を予防する」
「混乱です」
「どんな混乱だ」
「……」
「殴り合いか?」
「そこまで言っていません」
「器物損壊か?」
「それも」
「大声出すのか?」
「可能性は――」
「その可能性は、駅前整備に反対って丸付けたら高くなるのか?」
沢渡課長が黙りました。
「だったら思想で人を選別してんじゃねえか」
「相馬」
片桐所長が止めます。
「言い過ぎだ」
「……すみません」
所長が確認書を手に取りました。
しばらく見る。
それから。
「課長」
「はい」
「これは捨てろ」
静かな声でした。
でも。
たぶん今日いちばん強い言葉でした。
「片桐先生」
「利用目的を聞け」
「はい」
「人数を聞け」
「はい」
「具体的な危険があれば、それを聞け」
「……はい」
「必要なら施設管理上の条件も示せ」
「はい」
「だが」
所長は、
賛成。
反対。
どちらでもない。
その三つを指でなぞりました。
「市が、市民に思想の申告を要求するな」
沢渡課長の表情が変わりました。
ほんの少しだけ。
「十九条を持ち出すには、事案が小さすぎませんか」
沢渡課長が言いました。
所長は即答しました。
「逆だ」
「逆?」
「小さいから危ない」
「……」
「大げさな思想弾圧なら、誰でも気づく」
所長は紙を置きました。
「窓口の確認書一枚。丸一つ。『皆さん書いていますから』。そういう形で始まるものの方が、止めにくい」
私は所長を見ました。
この人。
普段は、
憲法論を振り回す行政書士は三流だ。
と言っています。
行政実務でいきなり憲法を叫んでも、役所は動かない。
まず法律。
条例。
規則。
要綱。
処分基準。
事実。
証拠。
そこから詰める。
それが片桐所長です。
でも。
役所が越えてはいけない線を越えたとき。
この人は。
本当に抜く。
最高法規を。
「明日」
片桐所長が言いました。
「意見書を出す」
「意見書?」
「この確認書の運用についてだ」
沢渡課長が目を細めます。
「違憲だと?」
「違憲の疑いがある、と書く」
「ずいぶん慎重ですね」
「行政書士だからな」
所長は淡々と言いました。
「裁判官の真似はしない」
そう。
私たちは、
この場で、
違憲判決を出すわけじゃない。
裁判所へ行って、
憲法裁判をするわけでもない。
行政書士は弁護士じゃない。
でも。
役所が判断を出す前に。
この運用を続けたら、憲法問題になりますよ。
と指摘することはできる。
事実を整理する。
法的問題を整理する。
意見書にする。
役所自身に、
その一線を踏むのか。
考えさせる。
「こはる」
「はい」
「作れ」
「私が?」
「十九条を言い出したのはお前だ」
「はい」
「ただし」
「はい」
「『思想・良心の自由は絶対だから全部駄目』で終わらせるな」
ぎく。
ちょうど書こうと思っていました。
「何を確認する必要があるのか」
「はい」
「その目的のために、何を聞けば足りるのか」
「はい」
「なぜ賛否の申告まで必要なのか」
「はい」
「答えない者に施設利用上の不利益を与える合理的な必要性があるのか」
「……はい」
「分けて書け」
目的。
手段。
必要性。
関係性。
なるほど。
単に、
憲法十九条!
思想の自由!
絶対!
と叫ぶんじゃない。
行政側の目的を認めた上で、
その目的に対して、
この手段は必要なのか。
そこまで踏み込む。
私は頷きました。
「やります」
その夜。
片桐行政書士事務所の灯りは、
いつもより遅くまで消えませんでした。
私は机に向かいました。
題名。
――市民会館利用確認書における思想・意見の申告要求に関する意見書。
「長い」
相馬先輩が言います。
「真面目なんです」
「長い」
「じゃあ先輩つけてくださいよ」
「嫌だ」
「逃げた」
中身は。
できるだけ冷静にしました。
市民会館について、
施設の適正管理のために、
利用目的、人数、使用方法等を確認する必要性は否定しない。
具体的な秩序侵害のおそれがある場合、
その事実を確認する必要が生じることもあり得る。
しかし。
駅前再整備事業への賛否そのものは、
直ちに施設の利用方法や具体的危険性を示すものではない。
にもかかわらず。
利用者に対し、
賛成。
反対。
どちらでもない。
そのいずれかを選択させる。
しかも。
回答しない場合には申請を受理しない。
これは。
行政機関が市民に対し、
自己の思想、信条、政治的意見に関わる事項の表明を事実上強制し、
沈黙を選択した者に不利益を課す運用となる疑いがある。
そして。
憲法十九条。
思想及び良心の自由は、
これを侵してはならない。
「所長」
「何だ」
「ここ」
私は原稿を見せました。
「『反対思想を持つ者を排除する制度である』って書いていいですか」
「証拠は」
「……ありません」
「なら書くな」
「はい」
「役所が何を考えていたかを想像するな」
「はい」
「運用の構造を書け」
「構造」
「反対と答えたから不許可になると確認できたわけじゃない」
「そうですね」
「だが、答えなければ受け付けない。それは確認できている」
「はい」
「そこを攻めろ」
なるほど。
沢渡課長を悪人にする必要はない。
むしろ。
悪意がなくても危ない制度は作れる。
地元の揉め事を避けたい。
会館で騒ぎを起こしてほしくない。
行政としては分からなくもない。
だからこそ。
目的は認める。
そのうえで。
心の中を申告させる必要まではないでしょう。
と切る。
「あと」
私は言いました。
「判例も入れます?」
「入れろ」
十九条。
思想・良心。
何でも本人が嫌だと言えば守られる。
という話ではない。
外部に現れた行為と、
内心そのものは区別しなければならない。
ちょうど今年。
昭和六十三年七月十五日。
最高裁は、麹町中学校の内申書事件で判断を示している。
内申書に記載されたのは、
生徒の思想・信条そのものではなく、
ビラ配布などの外部的行為。
その記載から思想・信条を了知できるものでもなく、
思想・信条自体を高校入学者選抜の資料に供したものでもない。
だから十九条違反という主張は採用されなかった。
「逆に言えば」
私は呟きました。
「今回、市が聞いてるのは行為じゃない」
「そういうことだ」
相馬先輩が言いました。
「会館で何をやるかじゃなくて」
「駅前整備をどう思ってるか」
「はい」
「自分から内心に入りにいってる」
そこです。
行為を確認することと、
思想を申告させること。
ごちゃ混ぜにしてはいけない。
私は意見書の最後に書きました。
施設管理上必要な審査は、
利用者の具体的な利用行為を基礎として行うべきであり、
特定の行政施策に対する賛否その他の内心に関わる事項の表明を利用申請の条件とすべきではない。
確認書から当該項目を削除し、
高瀬修一氏の申請について、
回答の不存在を不利益に取り扱うことなく、
通常の利用基準に従って判断されたい。
「……できました」
時計を見る。
遅い。
肩が痛い。
でも。
妙に頭は冴えていました。
相馬先輩が原稿を読みます。
「生意気になったな」
「褒めてます?」
「半分」
「残り半分は?」
「本当に生意気だ」
「ひどい」
片桐所長が最後まで読み、
赤鉛筆を一本だけ入れました。
私はそこを見る。
『違憲である。』
と書いたところ。
赤線。
そして、
『憲法十九条との関係で重大な疑義がある。』
に修正。
「弱くないですか?」
「強い」
「でも断定してません」
「だから強い」
所長は言いました。
「役所に逃げ道を残せ」
「逃げ道?」
「違憲だと断定して殴れば、向こうも守りに入る」
「……はい」
「疑義がある。だから自分たちで見直せ、と書く」
「なるほど」
「行政を倒すな」
所長は原稿を机へ戻しました。
「合法な場所へ戻せ」
私は赤鉛筆の修正を見ました。
たった数文字。
でも。
実務って、
こういうところなのかもしれません。
翌日。
市役所。
沢渡課長は、
意見書を最初から最後まで読みました。
途中で一度も口を挟みませんでした。
読み終える。
机に置く。
「……十九条ですか」
「はい」
私が答えました。
「市民会館の申請で、ここまで来ますか」
「来ます」
「朝比奈」
相馬先輩が小声で言います。
「お前が答えるな」
「すみません」
沢渡課長は、もう一度意見書を見ました。
「市としては、思想によって利用者を選別する意図はありません」
片桐所長が頷きます。
「なら直せるな」
「簡単に言いますね」
「思想選別でないなら、賛否欄は不要だ」
「……」
「利用目的と具体的行為を見ればいい」
「……」
「違うか」
沢渡課長は答えませんでした。
代わりに。
確認書を取りました。
三択を見る。
「実際」
沢渡課長が言いました。
「この項目を設けたのは、苦情がきっかけです」
「苦情?」
「駅前整備に反対する団体へ、市の施設を貸すなという意見が複数ありました」
やっぱり。
「市は、市民感情も無視できません」
「分かる」
所長が言いました。
「ですが」
沢渡課長は続けます。
「市民感情に配慮することと、市が思想を確認することは……」
そこで言葉を切りました。
自分で言って。
自分で気づいたようでした。
「別問題ですね」
「そういうことだ」
所長が答えました。
沢渡課長は椅子にもたれました。
「地元の和を保つつもりだったんですが」
相馬先輩が鼻で笑います。
「和ってのは便利だな」
「相馬さん」
「何だ」
「今日はあなたと議論する気力がありません」
「賢明だ」
「先輩」
「何だよ」
「勝った顔しないでください」
「してねえ」
しています。
ものすごく。
沢渡課長は電話を取りました。
内線。
「私です。例の市民会館の確認書ですが」
少し間。
「駅前再整備に関する賛否欄の運用を止めてください」
私は思わず沢渡課長を見ました。
「はい。現行分もです」
電話の向こうで何か言われています。
「理由ですか」
沢渡課長は、
私たちの意見書を見ました。
「施設管理上の必要性との関係を説明できません」
短い。
でも。
十分でした。
「それから、未回答を理由に申請書を受け取らない取扱いも停止してください」
さらに何か言われる。
「苦情が来たら私に回してください」
電話を切りました。
私は聞きました。
「……いいんですか」
「何がでしょう」
「止めて」
「違憲の疑いがある運用を、意地で続ける方が行政として危険です」
やっぱり。
この人は合理的です。
「ただし」
沢渡課長がこちらを見ました。
「高瀬さんの市民会館利用が認められるかどうかは別です」
「はい」
「通常の利用基準に従って審査します」
「それでいいです」
「騒音や定員超過があれば、普通に駄目です」
「もちろんです」
「政治的意見を述べる場だからといって、施設を壊していいわけでもありません」
「当たり前です」
「そこを混同しないでください」
私は頷きました。
そう。
十九条は、
何をしても許される魔法じゃない。
心の中と、
外に出た行為は違う。
外部的な行為なら、
別の権利との調整や、
具体的な規制の問題になる。
でも。
心の中。
そこだけは。
国が土足で入っていい場所ではない。
「朝比奈さん」
「はい」
「一つだけ」
「何でしょう」
「あなたは駅前再整備に賛成ですか。反対ですか」
「えっ」
思わず固まりました。
沢渡課長が、
ほんの少し笑っています。
この人。
「答えません」
私は言いました。
「なぜです?」
「十九条です」
「私人間で十九条を直接持ち出しますか」
「今のは課長として聞いた顔でした」
「どんな顔ですか、それは」
「役所の顔です」
相馬先輩が吹き出しました。
片桐所長まで少し口元を緩めました。
三日後。
高瀬さんが事務所へ来ました。
手には封筒。
「借りられました」
「本当ですか!」
「来月の第二土曜日」
私は思わず立ち上がりました。
「よかった」
「ただし」
高瀬さんが笑います。
「定員三十人。机は元に戻すこと。廊下に物を置かないこと。終了時刻厳守」
「普通ですね」
「ええ」
「ものすごく普通ですね」
「こんなに普通がありがたいとは思いませんでした」
本当に。
普通です。
市民会館を使う。
何をするかを書く。
何人来るかを書く。
時間を守る。
設備を壊さない。
終わったら片付ける。
それだけ。
駅前整備に賛成か。
反対か。
そんなことは聞かれない。
「勉強会、続けるんですか」
「続けます」
「駅前整備について?」
「はい」
「今度は荒れません?」
「たぶん荒れますよ」
「え」
「賛成の人も反対の人も呼びますから」
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないかもしれません」
高瀬さんは笑いました。
「でも、それでいいんです」
「……」
「みんな同じ意見だから平和、じゃないでしょう」
私は何も言えませんでした。
昭和六十三年。
町では、
和。
という言葉が強い。
近所とうまくやれ。
役所と揉めるな。
みんなに合わせろ。
余計なことを言うな。
それ自体が全部悪いわけじゃない。
人と暮らす以上、
譲り合うことも必要です。
でも。
譲ってはいけない場所がある。
人間の頭の中。
何を信じるか。
何を疑うか。
何に賛成するか。
何に反対するか。
そして。
それを誰にも言わないこと。
そこまで「和」のために差し出したら。
たぶん。
最後に残るのは、
人ではなく、
ただ同じ方向を向いた顔だけです。
「こはる」
片桐所長が呼びました。
「はい」
「今回、何を覚えた」
また来た。
突然の口頭試問。
私は少し考えました。
「憲法十九条」
「条文暗唱じゃない」
「分かってます」
もう一度考える。
「心の中で何を考えるかは、国家に決められない」
「うん」
「思想そのものを理由に不利益を与えることもできない」
「うん」
「それから」
私は、
あの確認書を思い出しました。
賛成。
反対。
どちらでもない。
丸を付けろ。
「何を考えているかを、国家に言わない自由もある」
所長が頷きました。
「それだ」
沈黙の自由。
受験生だった私は、
そこに赤線を引いて覚えました。
踏み絵。
思想調査。
アンケート。
典型例。
試験に出る。
以上。
でも。
実際に目の前で、
「答えないなら施設を貸しません」
という紙を見たら。
十九条の短さが、
急に怖いくらい強く見えました。
「私」
ぽつりと言いました。
「憲法って、実務ではあんまり使わないと思ってました」
相馬先輩が鼻で笑います。
「三流だな」
「昔の私に言ってください」
「今のお前も大差ねえ」
「ひどい」
片桐所長が言いました。
「普段は振り回すな」
「はい」
「憲法だけで役所へ殴り込むな」
「はい」
「条例で済むなら条例を使え。法律で済むなら法律を使え。事実で崩せるなら事実で崩せ」
「はい」
「だが」
所長が、
机の上の日本国憲法を指で叩きました。
「役所が人間の中まで管理しようとしたら」
短い間。
「抜け」
私は、その薄い冊子を見ました。
伝家の宝刀。
なるほど。
普段から振り回すものじゃない。
だからこそ。
本当に必要なとき。
強い。
「昭和でも」
私は言いました。
「同じなんですね」
「何がだ」
「十九条」
「当たり前だ」
「一字一句」
所長は怪訝そうな顔をしました。
「憲法がいつ変わった」
「……変わってません」
「なら同じだ」
簡単に言います。
でも。
未来から来た私には、
それが不思議でした。
条文は同じ。
十九条も同じ。
十三条も同じ。
二十一条も同じ。
昭和六十三年にも、
私が生きていた現代にも、
同じ文字が書いてある。
それなのに。
社会の空気は違う。
人権への感覚も違う。
役所の常識も違う。
だから。
憲法は、
書いてあるだけでは足りないのかもしれません。
その言葉を、
目の前の出来事に当てはめる人が必要になる。
これは、
思想の確認ではないか。
これは、
沈黙する自由を奪っていないか。
これは、
「公共の福祉」という言葉で、
ただの同調圧力を正当化していないか。
そう問い直す人が。
高瀬さんが帰ったあと。
事務所の電話が鳴りました。
私が取ります。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『総務課の沢渡です』
「今日は何ですか」
『ずいぶんな言い方ですね』
「最近、頻度が高いので」
『それはこちらの台詞です』
「それで?」
『市民会館の確認書ですが』
「はい」
『駅前整備以外の項目も含めて、思想・信条に関わる質問が紛れ込んでいないか全体を点検することになりました』
私は黙りました。
「……全部?」
『全部です』
「高瀬さんの件だけじゃなく?」
『同じ形式の確認書を使っている部署がありますから』
「そうですか」
『余計な仕事が増えました』
「すみません」
『謝るんですか』
「じゃあ撤回します」
『朝比奈さん』
「はい」
『今回の件で一つだけ、あなた方の意見書に同意するところがあります』
「どこです?」
少し間。
『行政が知る必要のないことまで、知ろうとする必要はない』
私は受話器を握ったまま、
少し笑いました。
「課長」
『何です』
「それ、意見書に書けばよかった」
『切りますよ』
「すみません」
『それと』
「はい」
『駅前再整備への賛否ですが』
「答えませんよ」
『聞いていません』
「……」
『では』
切れました。
負けた気がする。
「何だって?」
相馬先輩が聞きます。
「確認書、全部点検するそうです」
「へえ」
「思想・信条に関わる質問がないか」
「面倒な仕事増やしたな」
「先輩まで」
「褒めてんだよ」
「それ褒めてます?」
「役所に仕事させたんだから大したもんだ」
私は受話器を置きました。
窓の外。
夕方の商店街を、
学生たちが自転車で走っていきます。
誰が何を考えているのか。
分かりません。
駅前整備に賛成かもしれない。
反対かもしれない。
政治なんて興味がないかもしれない。
今日の夕飯のことしか考えていないかもしれない。
それでいい。
国家が、
全部知る必要なんてない。
誰かの心の中に、
役所の帳簿は置けない。
誰かの胸の奥に、
申請書の記入欄なんて作れない。
何を考えるか。
何を信じるか。
そして。
何も言わないか。
そこだけは。
本人だけの場所です。
私は机の端に置いたメモへ、
今日の教訓を書きました。
――心の中には、役所の窓口はない。
「こはる」
「はい」
「何書いてる」
「今日の教訓です」
相馬先輩が覗き込みます。
「ふうん」
「どうです?」
「役所の窓口はなくても、うちの所長の目は届くぞ」
「え?」
「さっきから所長、お前の後ろ見てる」
振り向く。
片桐所長。
「こはる」
「はい」
「昨日の意見書」
「はい」
「誤字が三つある」
「……」
「思想の自由以前に、誤字をなくせ」
「そこは自由にさせてください!」
「駄目だ」
「十九条!」
「関係ない」
「沈黙の自由!」
「訂正しろ」
「表現の自由!」
「業務だ」
「憲法が全部負けた!」
相馬先輩が腹を抱えて笑いました。
どうやら。
国家にも入れない心の中はあっても。
見習いの原稿だけは、
所長の赤鉛筆から完全に自由にはなれないようでした。
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