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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈憲法 配点28点/300点〉 人権

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360/695

[憲法13条・幸福追求権]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 憲法は、人を幸せにしてくれる魔法ではありません。


 ただ。


 他人が勝手に、その人の幸せの形を決めることを止めてくれる。


 十三条は、そんな条文なのかもしれません。


 夕方。


 片桐行政書士事務所。


 私は机の上に三つのものを並べていました。


 六法。


 判例集。


 そして、市役所から届いた改訂後の「新規営業者連絡票」。


 氏名。


 店舗所在地。


 営業内容。


 営業時間。


 緊急連絡先。


 以上。


「……消えましたねえ」


「何がだ」


 向かいの机で、相馬先輩が煙草に火をつけます。


「家族構成」


「うん」


「前住所」


「うん」


「賞罰」


「うん」


「全部」


「昨日も見ただろ」


「何回見てもいいじゃないですか」


 私は旧様式と新様式を並べました。


 旧様式にはあった。


 ――賞罰・その他参考事項。


 それが。


 新しい紙にはない。


 たった一つの欄が消えただけです。


 でも。


 杉原美津子さんにとっては。


 十二年前の自分まで町内へ連れていかなくても、新しい店を始められるということでした。


「先輩」


「何だ」


「今日は憲法十三条です」


「勝手にやれ」


「付き合ってください」


「嫌だ」


「所長」


「付き合え」


 奥から片桐所長。


「毎回この流れやるのか?」


「伝統です」


「昨日できた伝統だろ」


 相馬先輩が嫌そうな顔をしました。


 私はノートを開きます。


 大きく。


 ――憲法第十三条。


 その下に書きました。


 すべて国民は、個人として尊重される。


 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


「……同じ」


 私は呟きました。


「またか」


「だって不思議なんですよ」


「何が」


「私が知ってる憲法十三条と、一字一句同じ」


 昭和六十三年。


 そして、私がいた現代。


 日本国憲法は一度も改正されていない。


 だから当然。


 条文は同じです。


「民法だったら大変なんですよ」


 私は言いました。


「成年年齢とか、相続とか、債権法とか」


「未来の話は知らん」


「行政法なんて、制度ごと変わってたりします」


「それは最近散々やったな」


「でも憲法は」


 私は十三条を指しました。


「ここに関しては、条文の新旧比較がない」


「楽でいいじゃねえか」


「ところが」


 私は昨日の連絡票を持ち上げました。


「社会の方が違う」


 昭和六十三年。


 地元の和。


 町内会。


 世間体。


 昔からの慣行。


 新しく来た人間は、どこの誰か分かるようにする。


 それが安心。


 それが常識。


 それが地域社会。


 そんな空気が、現代よりずっと重い。


「条文は同じなのに」


 私は言いました。


「人権を取り巻く空気が全然違う」


 相馬先輩が煙を吐きました。


「条文が勝手に守ってくれるわけじゃねえからな」


「……なるほど」


「書いてあるだけだ」


 そう。


 憲法十三条は昭和にも存在した。


 個人の尊重も書いてあった。


 幸福追求権もあった。


 それでも。


 昔からそうしている。


 みんな提出している。


 地元の人が知りたがっている。


 隠す方がおかしい。


 そんな社会の空気が、人の権利を押してくる。


「じゃあ」


 私はノートに最初の見出しを書きました。


 ――幸福追求権とは何か。


「簡単に言うと?」


 相馬先輩が聞きます。


「幸せになる権利」


「雑」


「ですよね」


 私もそう思います。


 名前が悪い。


 幸福追求権。


 字面だけ見ると、


 幸せにしてください。


 と国へ要求する権利みたいです。


 でも、そうではありません。


「憲法十三条後段が保障する、包括的基本権」


 私は書きました。


「包括的?」


「憲法十四条以下には、いろいろな権利が書かれてますよね」


 法の下の平等。


 思想・良心の自由。


 信教の自由。


 表現の自由。


 職業選択の自由。


 財産権。


 その他にも、さまざまな基本的人権が保障されている。


「でも」


 私は言いました。


「人間の権利を全部、憲法制定時に名前付きで列挙できるわけじゃない」


「まあな」


「社会が変われば、新しい問題も出ます」


 写真。


 個人情報。


 医療。


 情報技術。


 生活様式。


 社会が変われば。


 人間の人格や私生活を守るために、憲法制定時には明文で名前を付けられていなかった利益が問題になる。


「そこで十三条」


 私は丸で囲みました。


「憲法に明文で列挙されていない、新しい人権の根拠になる」


「昨日のプライバシーもか」


「はい」


 プライバシー権。


 肖像権。


 自己決定権。


 そうした権利・利益を考えるとき。


 憲法十三条。


 個人の尊重。


 幸福追求権。


 そこが重要な根拠になります。


「つまり十三条は」


 私は考えました。


「人権の予備ポケットみたいなものですかね」


「格好悪いな」


「じゃあ先輩なら?」


「知らん」


「考えてくださいよ」


 片桐所長が帳簿から顔を上げました。


「受け皿だ」


「あ」


「列挙された権利だけでは拾えない人格的利益を受け止める」


「それです」


 私は書きました。


 ――幸福追求権=新しい人権の受け皿となる包括的基本権。


「ただし」


 所長が言いました。


「何でも入れるな」


「え?」


「そこが問題だろ」


 来ました。


 幸福追求権の難しいところ。


「たとえば」


 相馬先輩が言います。


「俺には毎晩酒を飲んで寝る自由がある」


「まあ」


「十三条だ」


「いきなり憲法にしないでください」


「幸福だぞ」


「先輩の幸福の規模が小さい」


「うるせえ」


 でも。


 冗談みたいで、かなり本質的です。


 幸福追求権を、


 人間がやりたいこと全部を憲法上保障する権利。


 と考えたら。


 あらゆる行為が基本的人権になります。


 そこで。


 学説の対立。


 私は二つ書きました。


 ――一般的行為自由説。


 ――人格的利益説。


「来たな」


 相馬先輩が嫌そうな顔をしました。


「受験生が好きな二択です」


「学者が好きなんだろ」


「試験委員も好きです」


 まず。


 一般的行為自由説。


 これは。


 幸福追求権が、あらゆる生活領域に関する行為の自由を保障する、と考える立場です。


「かなり広いですね」


「ああ」


「何をするか。何をしないか。生活上の行動全般を広く保障する」


「じゃあ酒も?」


「先輩、酒から離れてください」


 一方。


 人格的利益説。


 こちらは。


 個人の人格的生存に不可欠な利益・行為の自由を中心に、十三条の保障を考える。


「通説はこちらとされています」


 私は人格的利益説に丸をつけました。


「つまり」


 相馬先輩が言います。


「何でも十三条じゃねえ」


「そうです」


「人が人として生きるうえで重要な利益かどうかを見る」


「そういう整理です」


 ここで。


 昨日の杉原さん。


 十二年前の傷害事件。


 罰金。


 それを町内会や商店街へ知られたくない。


 これは。


 単なる好き嫌いでしょうか。


 違います。


 前科や犯罪経歴は。


 その人の名誉。


 信用。


 社会生活。


 人間関係。


 場合によっては就労。


 そうしたものに深く関わる。


「だから昨日は」


 私は言いました。


「『隠したいって言ってるから尊重しましょう』じゃ弱かった」


「うん」


「前科情報は人格的利益に深く関わる情報だから、行政が扱うには強い理由が要る」


「そうだ」


 私は次の見出しを書きました。


 ――プライバシー権。


「これも十三条から導かれる代表ですね」


 プライバシー。


 昔ながらのイメージなら。


 私生活を勝手に覗かれない。


 秘密を勝手に公開されない。


 つまり。


 消極的な側面。


「放っておいてくれ、ですね」


「乱暴だが分かりやすい」


 他人に侵害された場合に、


 差止め。


 損害賠償。


 その他の法的救済が問題となる。


 しかし。


 現代的なプライバシーの考え方では。


 もう一つ。


 積極的側面。


 自分に関する情報を、誰が、どのように扱うのか。


 それを自分でコントロールするという考え方があります。


「自己情報コントロール権ですね」


「昭和六十三年で、その言い方をどこまで前面に出す?」


 片桐所長が言いました。


 私はペンを止めました。


「……そこですよね」


 未来の理論を。


 昭和へそのまま持ち込んではいけない。


 十三条の条文は同じ。


 でも。


 そこからどの権利をどこまで具体的に導くか。


 判例や学説の蓄積は、時代によって違います。


「だから昨日の意見書でも」


 私は言いました。


「未来の完成した情報プライバシー論を、そのまま昭和の確立判例みたいには書かなかった」


「当然だ」


「使ったのは、この時点ですでに出ている判例」


「何だ」


 私は判例集を開きました。


 ――最高裁昭和五十六年四月十四日。


 前科照会事件。


「これです」


 会社を解雇された人が。


 その解雇を争った。


 相手方の弁護士が、弁護士会を通じて区役所へ前科・犯罪経歴を照会した。


 区長は回答した。


 そこで。


 前科等を回答したことの違法性が争われた。


「最高裁は」


 私は判例集を見ながら整理します。


「前科や犯罪経歴は、人の名誉や信用に直接関係する事項だとした」


「うん」


「そして、前科等のある人も、それをみだりに公開されないことについて、法律上保護される利益を持つ」


「昨日の杉原さんそのものだな」


「かなり近いです」


 もちろん。


 事件は同じではありません。


 前科照会事件は弁護士会照会への回答。


 杉原さんの件は、新規営業者連絡票。


 でも。


 核心部分は使える。


 行政機関が保有する前科情報を。


 必要性を吟味せず。


 第三者へ漫然と渡していいわけではない。


「ここで大事なのは」


 片桐所長が言いました。


「前科が嘘か本当かではない」


「あ」


「本当なら公開していい、ではない」


「そうですね」


 杉原さんは実際に事件を起こしていました。


 だから。


 市が嘘を流そうとしていたわけではありません。


 でも。


 真実であることと。


 第三者へ公開してよいことは。


 別問題です。


「プライバシーって」


 私は言いました。


「嘘を流されない権利じゃないんですね」


「それは名誉の問題とも絡む」


「はい」


「むしろ、本当のことだからこそ知られたくない場合もある」


 その通り。


 病歴。


 家族関係。


 過去の失敗。


 犯罪歴。


 思想。


 生活。


 真実だからこそ。


 他人に知られることで人生へ大きな影響が出る情報があります。


 私はノートに書きました。


 ――真実であること≠自由に公開してよいこと。


「これ、覚えやすいですね」


「試験にそのまま書くなよ」


「分かってます」


 次。


 私は判例集をめくりました。


「十三条といえば、これも外せません」


 ――京都府学連事件。


 最大判昭和四十四年十二月二十四日。


「昭和四十四年?」


 相馬先輩が言います。


「今から十九年前です」


「なら俺でも知ってなきゃまずいか」


「できれば」


 デモ行進。


 学生。


 警察官による写真撮影。


 そこで問題になったのが。


 承諾なしに、自分の容貌や姿態を撮影されない自由。


「最高裁は」


 私は整理しました。


「人は、正当な理由なく、みだりにその容貌や姿態を撮影されない自由を有するとした」


「写真を撮るだけでも憲法が出てくるのか」


「何でも駄目ではありません」


 ここが重要。


 警察官による撮影だから。


 本人の承諾がないから。


 それだけで即違憲になるわけではない。


 現に京都府学連事件では。


 犯罪が行われている、または行われた後間がないと認められ。


 証拠保全の必要性・緊急性があり。


 撮影方法が相当であるなどの事情の下では。


 本人の同意なく撮影することも許され得る。


「つまり」


 相馬先輩が言います。


「権利がある、で終わりじゃねえ」


「はい」


「行政側の必要性も見る」


「そうです」


 これ。


 昨日の沢渡課長との話と同じです。


 個人の権利。


 対。


 公共の必要性。


 どちらか一方を書けば終わりではない。


「公共の福祉」


 私は書きました。


「便利な言葉ですね」


「昨日、課長も使ってたな」


「地元の安心。地域秩序。公共の福祉」


「もっともらしい」


「はい」


 でも。


 公共の福祉に反しない限り。


 と十三条に書いてあるからといって。


 役所が、


 公共の福祉です。


 と言えば人権を制限できるわけではありません。


「そこをどう見る」


 所長が聞きます。


 私は昨日の意見書を思い出しました。


「目的」


「うん」


「その目的の重要性」


「うん」


「手段が本当に目的と結びついているか」


「うん」


「必要以上に権利を制限していないか」


「うん」


「もっと侵害の小さい方法がないか」


「それでいい」


 私は矢印でつなぎました。


 地域の安心を守りたい。


 だから。


 新規営業者の十二年前の前科を町内会へ知らせる。


「この『だから』が飛んでるんですよね」


「そういうことだ」


 地域と連絡を取りたいなら。


 店名。


 営業内容。


 営業時間。


 緊急連絡先。


 それで足りる。


 なぜ。


 前科まで必要なのか。


「公共の福祉は」


 私は言いました。


「目的と手段の検討を飛ばす魔法の言葉じゃない」


「そう覚えろ」


「じゃあ次」


 私は判例集をめくりました。


「未来の判例です」


「また未来か」


「これは私だけ知ってます」


 平成七年十二月十五日。


 指紋押捺拒否事件。


 昭和六十三年の今から見れば。


 まだ最高裁判決は出ていません。


「だから現場では使えません」


「当たり前だ」


「でも法理を整理するなら、未来にどう発展するかを見ると分かりやすいです」


 外国人登録制度。


 指紋押捺。


 これについて最高裁は後に。


 何人も、私生活上の自由の一つとして、みだりに指紋の押捺を強制されない自由を有する。


 という趣旨を示します。


「これも十三条?」


「はい」


「でも指紋押捺制度そのものを違憲にしたのか」


「そこ注意です」


 私は大きく、


 ――権利を認めることと、制度を違憲とすることは別。


 と書きました。


「ここ、試験で狙われます」


 憲法上保護される自由を認めた。


 だから。


 その自由を制約する制度は全部違憲。


 ではない。


 公共目的。


 必要性。


 合理性。


 制約の程度。


 そうした事情を踏まえて、具体的に判断される。


「京都府学連事件もそうでした」


「ああ」


「みだりに撮影されない自由はある。でも必要な警察撮影が全部禁止されるわけじゃない」


「指紋も同じか」


「そうです」


 人権を認める。


 制約がある。


 だから違憲。


 そんな三段飛ばしではない。


 人権が保障されている。


 制約がある。


 では、その制約は正当化できるのか。


 ここを詰める。


「昨日、所長が『憲法論で酔うな』って言った意味」


 私は言いました。


「ちょっと分かりました」


「やっとか」


「人権って言えば勝てるわけじゃない」


「当たり前だ」


「役所側にも目的がある」


「そうだ」


「その目的と手段を、一個ずつ崩す」


「それが仕事だ」


 なるほど。


 憲法は伝家の宝刀。


 でも。


 振り回すものではない。


 抜いたら。


 どこがどう危ないのかを、精密に示さなければならない。


「次は前科つながりです」


 私はページをめくります。


 平成六年二月八日。


 ノンフィクション「逆転」事件。


「また未来か」


「はい」


「未来ばっかりじゃねえか」


「憲法の条文は同じなので許してください」


「判例はまだねえぞ」


「現場では使いません!」


 傷害致死事件で服役した人物。


 その後。


 事件を題材としたノンフィクション作品で実名を使われた。


 前科等に関わる事実を公表されたくない利益。


 対して。


 作品として公表する理由。


 そこで利益衡量が問題になります。


「最高裁は後に」


 私は説明しました。


「前科等に関わる事実を公表されないことについて、法的保護に値する利益を認めます」


「前科照会事件と似てるな」


「はい。ただし、絶対に公表禁止ではない」


 ここでも。


 公表されない利益。


 対。


 公表する理由。


 どちらが優越するか。


 比較する。


「人権って」


 相馬先輩が言いました。


「ずっと天秤だな」


「確かに」


 私はノートに天秤を書きました。


「絵が下手だな」


「法理を見てください」


 片方。


 個人の人格的利益。


 もう片方。


 公表する側の利益・公共性。


 事件の性質。


 時間の経過。


 本人のその後の生活。


 公表の必要性。


 さまざまな事情を見る。


「時間の経過って大事ですね」


 昨日の杉原さん。


 事件から十二年。


 その後は何も起こしていない。


 洋裁店を始める。


 そこへ昔の前科を持ち出す。


「過去は消えない」


 所長が言いました。


「だが」


「はい」


「過去をいつまで社会が追いかけていいかは、別問題だ」


 私はその言葉をノートの端に書きました。


「そして」


 私は少し姿勢を正しました。


「十三条には、プライバシー以外にも重要なものがあります」


 ――自己決定権。


「自分のことを自分で決める」


 相馬先輩が言います。


「雑に言えば」


「お前に言われたくない」


 自己決定権。


 個人の人格的生存に深く関わる事柄について。


 自分で決定することを尊重する考え方。


 典型的に問題となるのが。


 医療。


 身体。


 家族。


 生き方。


「ただ」


 私は言いました。


「ここも『自分で決めたいことは全部、憲法上の自己決定権』ではありません」


「人格的利益説につながるわけか」


「はい」


 そして。


 未来の重要判例。


 平成十二年二月二十九日。


 エホバの証人輸血拒否事件。


「これは何だ」


「宗教上の信念から輸血を拒否する患者の事件です」


 患者は。


 輸血を伴う医療行為を拒否する明確な意思を持っていた。


 ところが。


 手術の際、輸血が行われた。


 そこで最高裁は後に。


 輸血を拒否するとの明確な意思決定について。


 人格権の一内容として尊重されなければならない。


 という判断を示す。


「命を助けるためでも?」


 相馬先輩が聞きました。


「だから難しいんです」


 医師側には。


 生命を救うという重大な目的がある。


 一方。


 患者には。


 自分の身体にどんな医療行為を受けるか。


 しかも宗教上の信念に関わる重大な意思決定がある。


「幸せにしてやる、では駄目なんですよね」


 私は言いました。


「何?」


「国や医者や周りの人が」


 あなたのためだから。


 これが普通だから。


 こうした方が幸せだから。


 そう言って。


 本人の人生に関わる重大な決定を全部代わりにしてしまう。


 それでは。


 個人として尊重したことにならない場合がある。


「幸福追求権って」


 私は十三条を見ました。


「国が幸福を決める権利じゃないんですね」


「逆だろ」


 相馬先輩が言います。


「本人の人生だ」


 短い。


 でも。


 その通りでした。


「じゃあ」


 私は少し意地悪な問題を出しました。


「自分で人生を決める権利があるなら、結婚するとき名字を変えたくない自由も十三条で保障されますか?」


「知らん」


「考えてください」


「未来の話だろ」


「はい」


 平成二十七年十二月十六日。


 夫婦同姓を定める民法七百五十条をめぐる最高裁大法廷判決。


 問題の一つが。


 婚姻の際に氏の変更を強制されない自由が、憲法十三条で保障される人格権の一内容なのか。


「結論は?」


「最高裁は、そのような自由が憲法上の権利として保障される人格権の一内容であるとはいえない、としました」


「へえ」


「そして民法七百五十条は憲法十三条に違反しない、と」


「何でも十三条から出てくるわけじゃねえと」


「そこです」


 私は大きく囲みました。


 ――幸福追求権は包括的基本権。しかし、主張された自由がすべて憲法上の権利になるわけではない。


「これ大事です」


 新しい人権の受け皿。


 という説明だけ覚えると。


 何でも入れたくなる。


 プライバシー。


 肖像。


 自己決定。


 環境。


 日照。


 氏名。


 さまざまな利益が問題になる。


 でも。


 ある利益が大切であることと。


 憲法十三条によって具体的な基本権として保障されることは。


 同じではない。


「だから判例を覚えるのか」


 相馬先輩が言います。


「そうなんです!」


 私は思わず机を叩きました。


「痛っ」


「何してんだ」


「今つながりました」


 行政書士試験で。


 幸福追求権の問題は。


 判例との組み合わせが重要。


 京都府学連事件。


 前科照会事件。


 指紋押捺拒否事件。


 ノンフィクション「逆転」事件。


 エホバの証人輸血拒否事件。


 夫婦別姓訴訟。


「全部『十三条です』で終わらない」


「当たり前だろ」


「何を権利として認めたか」


「うん」


「どこまで認めたか」


「うん」


「最終的に違憲としたのか、合憲としたのか」


「そこを混ぜるな」


「はい」


 私は一覧にしました。


 京都府学連事件。


 みだりに容貌・姿態を撮影されない自由を憲法十三条の趣旨から保障。


 ただし、正当な理由のある警察撮影まで全面禁止ではない。


 前科照会事件。


 前科・犯罪経歴をみだりに公開されない法律上保護される利益を認め、区長の漫然とした回答を違法とした。


 指紋押捺拒否事件。


 みだりに指紋押捺を強制されない自由を私生活上の自由として認める。


 ただし、それだけで制度を違憲としたわけではない。


 ノンフィクション「逆転」事件。


 前科等に関わる事実を公表されない法的利益を認め、公表理由との比較衡量を行う。


 エホバの証人輸血拒否事件。


 輸血を伴う医療行為を拒否する明確な意思決定を、人格権の一内容として尊重。


 夫婦別姓訴訟。


 婚姻時に氏の変更を強制されない自由が憲法上保障される人格権の一内容であるとはいえない。


「よし」


 私は満足しました。


「未来の試験なら、ここ出ます」


「今のお前は何の試験を受けるんだ」


「……昭和の行政書士試験です」


「未来の判例書くなよ」


「絶対書きません」


 怖い。


 転生者最大の敵。


 未判決判例。


 私はノートをめくりました。


「でも、今回一番大事なのは」


「何だ」


「『個人として尊重される』だと思うんです」


 十三条前段。


 すべて国民は、個人として尊重される。


「昨日、市役所が最初に見ていた杉原さんって」


 私は言いました。


「新規営業者だったんですよね」


「そうだな」


「町内へ入ってくる人」


「うん」


「地域に説明すべき人」


「うん」


「過去に前科がある人」


「うん」


「でも」


 それらは。


 全部、杉原さんについての属性です。


 営業者。


 転入者。


 前科のある人。


 女性。


 店主。


 地域の新参者。


「十三条は」


 私は言いました。


「その前に『個人』を置く」


 杉原美津子。


 一人の人間。


 その人には。


 過去がある。


 秘密がある。


 これからの人生がある。


 誰に何を話すか。


 どう生きるか。


 自分で決めたい領域がある。


「役所は」


 片桐所長が言いました。


「分類する」


「はい」


「申請者」


「はい」


「営業者」


「はい」


「対象者」


「はい」


「住民」


「はい」


「仕事だからな」


「そうですね」


「だが、分類した瞬間に人間を忘れるな」


 私はペンを止めました。


「十三条は、そのためにある」


 静かな声でした。


 なるほど。


 憲法十三条。


 新しい人権。


 包括的基本権。


 もちろん重要です。


 でも。


 もっと前。


 個人の尊重。


 そこが出発点。


「公共の福祉も整理しましょう」


 私は新しいページを開きました。


 昨日。


 沢渡課長は言いました。


 地域秩序。


 地元の安心。


 公共の福祉。


 それ自体が悪い言葉ではありません。


「個人の権利は無制限じゃない」


 相馬先輩が言います。


「はい」


 一人の自由を無制限に認めれば。


 他人の権利と衝突する。


 社会生活も成立しない。


 だから。


 人権には一定の制約があり得る。


「でも」


 私は太い線を引きました。


 ――公共の福祉=役所の都合、ではない。


「昨日の一番大事なところですね」


「そうだな」


「地元が嫌がる」


「うん」


「昔からそうしている」


「うん」


「みんな出している」


「うん」


「役所として揉め事を避けたい」


「うん」


「それを全部『公共の福祉』に入れたら?」


「何でもできる」


「ですよね」


 だから。


 権利を制限するときには。


 何のためか。


 その目的は正当か。


 その手段は目的に役立つのか。


 制限は必要な範囲か。


 もっと権利侵害の小さい方法はないか。


 権利侵害の程度と得られる利益は釣り合っているか。


 そうした検討が必要になる。


「目的と手段」


 私は二重丸。


「行政法でもよく出ますけど、憲法ではもっと怖い」


「なぜだ」


「一番上の権利を制限する話だから」


 昨日なら。


 目的。


 地域との円滑な関係。


 仮に、それ自体は正当とする。


 では手段。


 十二年前の前科を収集し、町内会や商店街へ知らせる。


「重すぎる」


 相馬先輩が言います。


「はい」


 しかも。


 代替手段がある。


 営業内容。


 営業時間。


 店舗所在地。


 連絡先。


 近隣に必要なのは、その程度。


 前科まで伝えなければ地域連絡が成立しないとは考えにくい。


「だから」


 私は書きました。


 ――目的が正しくても、手段がやりすぎなら許されない。


「これですね」


「覚えとけ」


「はい」


 ここで。


 私は昨日の意見書を開きました。


「所長」


「何だ」


「昨日、『明白に違憲である』を削りましたよね」


「ああ」


「やっぱり実務では、憲法違反って断定しない方がいいんですか」


「場合による」


「ですよね」


「だが行政書士がやる仕事を勘違いするな」


「はい」


「裁判所で違憲判決を取るのは、うちの仕事じゃない」


 行政書士は。


 訴訟代理人にはなれません。


 裁判所で。


 この制度は違憲だから無効です。


 と訴訟を遂行する仕事ではない。


「じゃあ、何をする」


 所長が聞きます。


 私は答えました。


「役所の運用を、違憲・違法になる前に戻す」


「そうだ」


 意見書。


 申入書。


 内容証明。


 許認可申請。


 行政との協議。


 そこで。


 この運用は憲法十三条の趣旨に反する重大な疑いがある。


 このまま処分すれば違法性が問題となる。


 この情報収集に必要性はあるのか。


 この第三者提供に根拠はあるのか。


 もっと侵害の小さい手段はないのか。


 そう突きつける。


「行政に」


 私は言いました。


「負けを認めさせる必要はないんですね」


「ない」


「憲法違反でした、ごめんなさいって言わせなくてもいい」


「杉原さんの情報が守られればいい」


「店が開ければいい」


「そうだ」


 沢渡課長は。


 市が違憲だったとは認めませんでした。


 ただ。


 必要性と法的根拠が十分整理されていない。


 そう言って。


 賞罰欄を削除した。


 第三者提供もしない。


 不利益取扱いもしない。


 それで。


 杉原さんの目的は達成された。


「実務って」


 私は言いました。


「判決文みたいに綺麗じゃないですね」


「当たり前だ」


「でも」


「何だ」


「人は救える」


 所長が少しだけ頷きました。


 私はノートの最初へ戻りました。


 幸福追求権。


 昨日まで。


 かなり抽象的な権利だと思っていました。


 いや。


 今でも抽象的です。


 十三条には。


 プライバシー。


 肖像。


 自己決定。


 そんな言葉は一つも書いていません。


 だからこそ。


 社会が変わっても。


 人間の人格に関わる新しい問題を受け止められる。


「抽象的だから弱いんじゃなくて」


 私は言いました。


「抽象的だから広がれるんですね」


「広げすぎるなよ」


 相馬先輩が即座に言います。


「そこ!」


 私は指を差しました。


「今日の重要ポイント!」


「指差すな」


 幸福追求権は。


 新しい人権の根拠になる。


 しかし。


 何でも新しい人権にしていいわけではない。


 人格的生存に関わる重要な利益か。


 判例はどこまで認めているか。


 公共の福祉との関係はどうか。


 制約の目的と手段は合理的か。


 そこまで見る。


「じゃあ試験向けにまとめます」


 私はノートの最後に線を引きました。


 憲法十三条。


 個人の尊重。


 幸福追求権。


 包括的基本権。


 新しい人権の根拠。


 考え方。


 一般的行為自由説。


 あらゆる生活領域に関する行為の自由を保障。


 人格的利益説。


 人格的生存に不可欠な利益・行為の自由を保障するという考え方。


 代表的な権利・利益。


 プライバシー。


 肖像。


 自己決定。


 そして。


 判例では。


 権利・利益を認めたこと。


 制約を違憲としたこと。


 この二つを混同しない。


「どうです」


 相馬先輩が覗き込みます。


「字が多い」


「法律ですから」


「最後、一行でまとめろ」


「来ましたね」


 私はペンを持ちました。


 一行の覚え書き。


 少し考えます。


 昨日の杉原さん。


 十二年前の事件。


 新しい洋裁店。


 市役所の連絡票。


 地域の安心。


 公共の福祉。


 そして。


 憲法十三条。


 私は書きました。


 ――十三条は、「みんなの常識」の前に、一人の人生を「個人」として守る。


「……どうです?」


 相馬先輩が煙草をくわえたまま読みます。


「試験用じゃねえな」


「覚えるためです」


「まあ」


「まあ?」


「悪くねえ」


「褒めた」


「気のせいだ」


「またそれですか」


 そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『杉原です』


「あっ」


 私は姿勢を正しました。


「どうしました?」


『あの、別に相談じゃないんですけど』


「はい」


『今日、お客さんが七人来ました』


「七人!」


『裾上げが三人。ファスナー交換が一人。子どもの制服が二人。それと――』


 声が少し弾んでいます。


『町内会長さんが来ました』


「え」


 一瞬、身構えました。


「何か言われました?」


『カーテン直してくれって』


「……カーテン」


『集会所の』


 私は力が抜けました。


「そうですか」


『はい』


「昔のことは?」


『何も』


「聞かれませんでした?」


『何も』


 電話の向こうで。


 杉原さんが少し笑いました。


『営業時間だけ聞かれました』


 私は机の上の新しい連絡票を見ました。


 氏名。


 店舗所在地。


 営業内容。


 営業時間。


 緊急連絡先。


 それだけ。


「十分だったんですね」


『え?』


「いえ、こっちの話です」


 電話を切ります。


「何だって?」


 相馬先輩が聞きました。


「町内会長さんが来たそうです」


「揉めたか」


「集会所のカーテン修理」


「なんだそりゃ」


「地域の円滑な関係です」


「前科いらねえじゃねえか」


「そういうことです」


 私は笑いました。


 地域社会に必要だった情報は。


 十二年前の傷害事件ではなく。


 何時まで店が開いているか。


 カーテンを直してもらえるか。


 たぶん。


 それだけでした。


 窓の外は、もう暗くなっていました。


 私はもう一度、憲法十三条を見ます。


 昭和六十三年。


 この条文は。


 未来の私が使っていた六法と同じです。


 一字一句。


 変わっていない。


 でも。


 十三条から何を読み取るか。


 社会がどんな利益を「守るべき個人の領域」として意識するか。


 裁判所がどんな人格的利益を法的に保護するか。


 それは。


 社会と判例の積み重ねの中で、少しずつ輪郭を持っていく。


 写真を撮られない自由。


 前科をみだりに公開されない利益。


 指紋をみだりに強制されない自由。


 医療についての重大な意思決定。


 そして。


 すべての主張が十三条上の権利として認められるわけではない、という限界。


 だから。


 幸福追求権は便利な万能条文ではありません。


 何でも願いを叶える魔法でもない。


 むしろ。


 何が人間の人格にとって本当に大切なのか。


 そのたびに考えさせる条文です。


「所長」


「何だ」


「昨日、憲法は伝家の宝刀って言いましたよね」


「ああ」


「今日ちょっと分かりました」


「何がだ」


「強いから、簡単に抜いちゃ駄目なんですね」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「そうだ」


「でも」


「うん」


「役所が『世間』を理由に、一人の人生へ踏み込みすぎたら」


「抜け」


 短い。


 やっぱりこの人は格好いい。


「そして?」


 所長が聞きます。


「え?」


「抜いたあとだ」


 私は考えました。


「目的を見る」


「うん」


「手段を見る」


「うん」


「必要性を見る」


「うん」


「もっと侵害の小さい方法がないか見る」


「うん」


「判例を確認する」


「うん」


「そのうえで、行政が合法な場所へ戻れる意見書を作る」


「それでいい」


 私はノートを閉じました。


 今日の一行が。


 表紙の隙間から少し見えています。


 ――十三条は、「みんなの常識」の前に、一人の人生を「個人」として守る。


「よし」


 私は立ち上がりました。


「帰ります」


「待て」


 所長が言います。


「何です?」


「そのノート」


「はい」


「机の上に置いて帰るな」


「どうしてです?」


「個人情報だ」


「私の勉強ノートですよ!?」


「昨日の依頼人の名前が書いてある」


「あ」


 固まりました。


 相馬先輩が笑います。


「プライバシー権を勉強した日に、依頼人情報を机へ放置」


「……」


「行政書士見習い朝比奈こはる先生」


「やめてください」


「憲法十三条は?」


「分かりました!」


 私は慌ててノートを鞄へしまいました。


「先輩」


「何だ」


「今のことは誰にも言わないでくださいね」


「どうしようかな」


「みだりに公開されない利益があります」


「前科じゃねえだろ」


「幸福追求権です!」


「何でも十三条に入れるな」


「あっ」


 やられた。


 今日一日勉強したことを。


 最後の最後で全部使って怒られました。


 片桐所長が小さく笑います。


「こはる」


「はい」


「今日の補足だ」


「何です?」


「十三条は便利だ」


「はい」


「だからこそ」


 所長は事務所の明かりを一つ消しました。


「雑に使うな」


 私は頷きました。


「はい」


 憲法は。


 一字一句変わっていない。


 けれど。


 その短い言葉から、人が守ろうとしてきたものは。


 少しずつ。


 少しずつ。


 具体的になってきた。


 その積み重ねの先に。


 未来の私が暗記していた、


 プライバシー権。


 肖像権。


 自己決定権。


 という言葉がある。


 だったら。


 判例を覚えるというのは。


 事件名と年月日を暗記するだけじゃない。


 どこまでなら国家が入っていいのか。


 どこから先は、一人の人間に返さなければならないのか。


 その境界線を。


 一件ずつ覚えていくことなのだと思います。


 私は鞄の中のノートを確かめました。


 今度こそ。


 依頼人の名前が外から見えないように。


 しっかり閉じる。


 昭和六十三年。


 個人情報保護という言葉が、まだ今ほど町に溢れていない時代。


 それでも。


 憲法十三条は、もうそこにあります。


 誰にも見えないところで。


 一人ひとりの人生に、


 ここから先は、その人のものだ。


 と線を引くために。

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