↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈憲法 配点28点/300点〉 人権

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
359/701

[憲法13条・幸福追求権]現場編 「昔から名簿に載せていますので」の罠。町内の安心という“公共の福祉”と、知られたくない過去を守る最高法規

挿絵(By みてみん)

 秘密というのは。


 悪いことを隠すためだけに、あるんじゃありません。


 誰に。


 何を。


 どこまで知られるか。


 それを自分で決めながら生きるために、人には秘密が必要なのです。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


「私、何か悪いことしたんでしょうか」


 その日の相談者は、椅子に座ってから三度、同じことを言いました。


 三十二歳。


 名前は杉原美津子さん。


 駅から少し離れた商店街で、小さな洋裁店を開く予定の女性でした。


 古いクリーニング店の跡を借りた。


 ミシンを二台入れた。


 看板も注文した。


 カーテンの裾上げ。


 制服の直し。


 子ども服の仕立て。


 開店日は来月一日。


 そこまで準備して。


 市役所へ必要な届出や相談に行ったところ。


「町内に配るんだそうです」


 杉原さんは、鞄から一枚の紙を出しました。


「何をです?」


 私が受け取ります。


 ――新規営業者連絡票。


 氏名。


 生年月日。


 住所。


 電話番号。


 家族構成。


 前住所。


 そして。


 私は、最後の欄で指を止めました。


 ――賞罰・その他参考事項。


「……これ」


 嫌な感じがしました。


「誰に配るんですか」


「商店街と町内会の役員さんに回すって」


「市役所が?」


「はい」


 相馬先輩が、向かいの机から顔を上げました。


「何のためだ」


「地元の人に安心してもらうためだそうです」


「安心?」


「新しく商売を始める人が、どういう人なのか分からないと困るからって」


 私は紙をもう一度見ました。


 家族構成。


 前住所。


 賞罰。


 いや。


 待ってください。


「これ、営業の許可に必要な法定書類なんですか?」


「分かりません」


「条例に書いてあるとか?」


「それも……」


 片桐所長が手を出しました。


「見せろ」


 紙を渡します。


 所長は数秒だけ読んで、


「市の様式か」


「はい」


「提出しないとどうなると言われた」


 杉原さんの唇が、少し震えました。


「地元の理解が得られないなら、営業について市としても協力できない、と」


 相馬先輩の眉が動きます。


「協力できない、ねえ」


「それから」


 杉原さんは俯きました。


「私、昔……」


 言葉が止まる。


 私は待ちました。


「二十歳のころに、事件を起こしたことがあるんです」


 部屋が静かになりました。


「傷害です」


 杉原さんは膝の上で手を握りました。


「勤め先で揉めて。相手に怪我をさせてしまって」


「刑事処分は?」


「罰金でした」


「それ以降は?」


「何もありません」


「十二年前ですね」


「はい」


 杉原さんは笑おうとして、失敗しました。


「だから私が悪いんです。それは分かってます」


 誰も何も言いませんでした。


「でも」


 杉原さんは続けます。


「十二年前のことを、どうして今、町内中に知らせないといけないんでしょう」


 私は返事ができませんでした。


「母にも、もう昔のことだって言われて。ちゃんと働いて、お金を貯めて、やっと自分の店を持てると思って」


 その声が細くなります。


「知られたら、また同じになるんです」


「同じ?」


「前の町で」


 杉原さんは目を伏せました。


「誰かが昔のことを知って、噂になって。子どもの服を直していたら、『あの人に子どもを近づけるな』って」


 十二年前の傷害事件。


 罰金。


 刑は終わった。


 その後、事件は起こしていない。


 それでも。


 噂には時効がありません。


「だから引っ越してきたんです」


 杉原さんが言いました。


「今度こそ普通に働きたいと思って」


 私は手元の紙を見ました。


 賞罰・その他参考事項。


 たった八文字。


 でも。


 そこへ何かを書けば。


 その人の十二年前が、町内会の回覧板に乗って帰ってくる。


「書かなければ?」


 私は聞きました。


「役所の人に言われました」


 杉原さんは小さく息を吸いました。


「『隠して後で分かる方が、地元との関係を悪くしますよ』って」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「行くぞ」


「どこへです?」


「役所だ」


「早いですね」


「十分聞いた」


「でも、何を根拠に――」


「それを今から聞きに行くんだよ」


 片桐所長が紙を机に置きました。


「相馬」


「はい」


「怒鳴るな」


「まだ何もしてませんよ」


「先に言っておく」


「信用ねえな」


「こはる」


「はい」


「憲法を持っていけ」


「え?」


 思わず聞き返しました。


「憲法、ですか」


「そうだ」


「条例集じゃなくて?」


「両方だ」


 私は一瞬、固まりました。


 憲法。


 行政書士試験の憲法。


 基本的人権。


 統治。


 判例。


 受験生時代の私は、かなり失礼なことを考えていました。


 ――憲法って、実務でそんなに使う?


 民法なら契約。


 行政法なら許認可。


 会社法なら法人。


 でも憲法。


 役所の窓口で、


 憲法十三条!


 とか言い始めたら、ちょっと大げさなのでは。


 そう思っていたのです。


 片桐所長が私を見る。


「何だ」


「いえ」


「使わないと思ってたか」


「……少しだけ」


「三流は何でも憲法を振り回す」


「ですよね」


「だが」


 所長は杉原さんの連絡票を指で叩きました。


「下のルールで止まらないなら、一番上を使う」


 市役所二階。


 総務課。


「地域社会との円滑な関係のためです」


 沢渡課長は、今日も完璧に沢渡課長でした。


 灰色の背広。


 細い眼鏡。


 机の上には書類がきっちり揃っている。


 たぶんこの人、寝相まで直角です。


「新しく営業される方について、地元から問い合わせが多いんです」


「だから個人情報を配る?」


 相馬先輩が聞きます。


「必要な範囲で、です」


「家族構成も?」


「地域との連絡上必要な場合があります」


「前住所も?」


「本人確認の意味があります」


「賞罰は?」


 そこで。


 沢渡課長は一拍置きました。


「その欄については、事情によります」


「事情って何だ」


「地域の安全や秩序に関係する事情です」


 来ました。


 安全。


 秩序。


 役所が大好きな言葉です。


「杉原さんは十二年前の傷害事件について記載するよう求められています」


 片桐所長が言いました。


「それを町内会や商店街役員へ知らせるつもりか」


「個別案件ですので、ここで具体的な回答は控えます」


「一般論でいい」


 所長の声は静かです。


「過去の犯罪歴を、営業開始時の地域説明資料として第三者に提供することがあるのか」


 沢渡課長は眼鏡を押し上げました。


「地域から強い不安が示された場合には、必要性を検討することはあります」


「根拠は」


 相馬先輩が聞きます。


「地域との調整です」


「法律の根拠だ」


「行政指導の一環です」


「条例は」


「この連絡票自体を直接定めた条例はありません」


「法律は」


「ありません」


「じゃあ何だ」


「慣行です」


 その二文字が。


 妙に重く聞こえました。


 慣行。


 昔からそうしている。


 地元ではそういうものだ。


 新しく来る人は身元を明らかにする。


 町の和を乱さない。


 隠し事をしない。


 昭和六十三年。


 スマートフォンもありません。


 インターネットもありません。


 個人情報という言葉だって、現代ほど日常に浸透していない。


 町内会。


 商店街。


 隣近所。


 学校。


 勤務先。


 人間関係が今よりずっと濃い。


 だからこそ。


 そこへ一度情報が流れれば。


 逃げ場がない。


「本人が拒否した場合は?」


 私は聞きました。


「強制ではありません」


 沢渡課長が言います。


「では提出しなくても営業上不利益はない?」


「それは別問題です」


「別?」


「地元との協調が得られなければ、市として積極的に協力できない場合があります」


「それって」


 私は思わず言いました。


「出さないと不利益があるってことじゃないですか」


「行政として地域の意向を無視するわけにはいきません」


「でも――」


「朝比奈さん」


 沢渡課長が私を見ました。


「商売は一人でするものではありません」


 言葉に詰まりました。


「近隣住民がいる。客がいる。商店街がある。町内会がある。地域の秩序があります」


「……はい」


「権利や自由だけを主張して、周囲への配慮をしなくていいというものではないでしょう」


 それは。


 正論っぽく聞こえました。


 すごく。


 正論っぽく。


「公共の福祉という考え方もあります」


 沢渡課長が続けます。


「個人の自由が無制限に認められるわけではありません」


 公共の福祉。


 出た。


 憲法の教科書で何度も見た言葉。


 でも現場で言われると。


 怖い。


 地元の安心。


 町内の和。


 地域の秩序。


 公共の福祉。


 全部が積み重なると。


 一人の人間が、


 「知られたくありません」


 と言うことの方が、わがままに見えてくる。


 昭和の空気。


 重い。


 私は一瞬。


 本当に一瞬だけ。


 杉原さんが折れた方が早いのではないか。


 と思ってしまいました。


 十二年前のこと。


 正直に話す。


 地元に理解してもらう。


 それで丸く収まるなら。


 でも。


 その瞬間。


 頭の中に一つの条文が浮かびました。


 ――すべて国民は、個人として尊重される。


 私は顔を上げました。


「課長」


「何でしょう」


「今、何年でしたっけ」


 沢渡課長が怪訝な顔をしました。


「昭和六十三年ですが」


「ですよね」


「それが?」


 私は鞄から六法を出しました。


 憲法。


 十三条。


 読む。


 同じです。


 当たり前です。


 でも。


 なんだか笑いそうになりました。


「何がおかしい」


 相馬先輩が小声で聞きます。


「同じなんです」


「何が」


「条文」


「当たり前だろ」


 そう。


 当たり前。


 日本国憲法は、私がいた時代まで一字一句改正されていない。


 昭和六十三年でも。


 現代でも。


 十三条は同じです。


 社会の空気は違う。


 人権感覚も違う。


 プライバシーに対する意識も違う。


 でも。


 憲法は。


 ここにある。


「課長」


 私は六法を机に置きました。


「杉原さんは、地域の構成員である前に、一人の個人ですよね」


「当然です」


「憲法十三条は?」


 沢渡課長の目が細くなりました。


「個人の尊重、幸福追求権ですか」


「はい」


「朝比奈さん」


 少しだけ声が低くなります。


「行政実務の話をしているときに、いきなり憲法論を持ち込むのは感心しませんね」


「私もそう思ってました」


「……は?」


「昨日まで」


 相馬先輩が横で吹き出しかけました。


「でも」


 私は続けます。


「役所が一人の人間の私生活に踏み込むなら、話は別です」


 沢渡課長が黙りました。


「過去の犯罪歴って、誰にでも知らせていい情報ですか」


「誰にでもとは言っていません」


「町内会役員なら?」


「必要性があれば」


「商店街役員なら?」


「事情によります」


「その必要性は、誰が、何を基準に判断するんですか」


 返事が少し遅れました。


「行政です」


「基準は?」


「地域秩序への影響などを総合的に――」


「十二年前に一度罰金刑を受けた人が洋裁店を始めることと、地域秩序に、どんな具体的関係がありますか」


 沈黙。


「子ども服を直すから?」


「そうは言っていません」


「女性一人で新しく店を出すから?」


「それも違います」


「じゃあ、何です?」


 私は聞きました。


「何が危険なんですか」


 沢渡課長は答えませんでした。


 相馬先輩が低い声で言います。


「世間が嫌がるから、じゃねえだろうな」


「そのような言い方はしていません」


「じゃあ法律で言え」


 先輩は椅子に背を預けました。


「世間の常識? 俺たちが守ってんのは法律だ」


 沢渡課長の視線が鋭くなります。


「相馬さん。犯罪歴は軽い情報ではありません」


「だからだよ」


「何?」


「重い情報だから、役所が勝手にばら撒いていいのかって聞いてんだ」


 そのとき。


 片桐所長が一冊の判例集を開きました。


「沢渡課長」


「はい」


「昭和五十六年四月十四日」


 沢渡課長の表情が、ほんの少し変わりました。


「……前科照会事件ですか」


 知っている。


 やっぱり。


 この人は知らずにやっているわけではありません。


「京都市の区長が」


 所長が言います。


「弁護士会からの照会に対し、前科・犯罪経歴を回答した」


「ええ」


「最高裁は、前科や犯罪経歴について、みだりに公開されない法律上の保護に値する利益を認めている」


「承知しています」


「なら聞こう」


 所長の指が、連絡票の『賞罰』欄を押さえました。


「弁護士法に基づく照会への回答ですら、漫然と前科を報告することが違法になり得る」


 静かな声でした。


「ましてこれは何だ」


 沢渡課長は答えません。


「条例上の義務でもない」


「……はい」


「法律上の照会でもない」


「はい」


「営業許可の法定要件でもない」


「はい」


「昔からやっているというだけの連絡票だ」


 所長が顔を上げます。


「それで前科を集めて、町内会や商店街へ知らせるのか」


 部屋の空気が変わりました。


 さっきまで。


 杉原さんが地域へ説明すべきかどうか。


 そんな話だった。


 でも今は違う。


 行政が。


 何の法的根拠で。


 どんな目的のために。


 どこまで個人の私生活情報を集め。


 誰に渡そうとしているのか。


 問われているのは、そちらです。


「公共の福祉と言いましたね」


 私は言いました。


「ええ」


「だったら、その制限が本当に必要か、説明できますよね」


「……何を言いたいんです」


「目的が『地域の安心』だとして」


 私は一つずつ考えました。


「十二年前の前科を町内会へ知らせることが、その目的のために本当に必要なのか」


「場合によっては――」


「もっと人権を傷つけない方法はないのか」


「……」


「営業内容を説明する。連絡先を知らせる。営業時間を知らせる。騒音や駐車のルールを確認する。それじゃ駄目なんですか」


 沢渡課長は答えません。


「どうして前科まで必要なんです?」


 目的。


 手段。


 必要性。


 権利侵害の程度。


 受験勉強では。


 全部、線を引いて覚えました。


 でも。


 目の前に杉原さんがいると。


 急に意味が分かります。


 公共の福祉。


 その五文字を書けば、何でも許されるわけじゃない。


「それに」


 私は続けました。


「この情報は、一度伝えたら戻せません」


 沢渡課長が私を見ます。


「許可を撤回するのとは違います。紙を回収すれば終わりでもない」


 あの人、昔傷害事件を起こしたんだって。


 その一言。


 人から人へ。


 店から店へ。


 家から家へ。


 消せない。


「杉原さんが十二年間積み上げてきた生活を」


 私は言いました。


「行政が『地域の安心』という曖昧な言葉だけで壊していいんですか」


 沈黙。


 長かった。


 沢渡課長は机の上の連絡票を見ました。


 そして。


「杉原さん本人は、前科情報の提供に同意していない?」


「していません」


「明確に拒否している?」


「はい」


 所長が答えました。


「分かりました」


 沢渡課長は言いました。


「担当課に確認します」


 相馬先輩が鼻で笑います。


「確認じゃ足りねえな」


「何です?」


「意見書を出す」


「……憲法十三条ですか」


「それだけじゃねえ」


 相馬先輩が私を見る。


「こはる」


「はい」


「作れ」


「私が?」


「お前が一番腹立ってんだろ」


「感情で作ったら所長に全部削られます」


「じゃあ理屈で作れ」


 片桐所長が立ち上がりました。


「十三条」


「はい」


「前科照会事件」


「はい」


「情報収集の目的」


「はい」


「第三者提供の必要性」


「はい」


「代替手段」


「はい」


「本人の不利益」


「はい」


「最後に」


 所長が言いました。


「憲法九十八条」


 私は瞬きをしました。


 最高法規。


「下の慣行で、上を曲げるな」


 その夜。


 片桐行政書士事務所の明かりは、九時を過ぎても消えませんでした。


「長い」


 所長が言いました。


「えっ」


「三枚削れ」


「三枚!?」


「憲法論で酔うな」


「酔ってません!」


「十二ページも誰が読む」


「沢渡課長なら読みます」


「読ませるな。理解させろ」


 ぐう。


 正論。


 私は削りました。


 幸福追求権の学説。


 一般的行為自由説。


 人格的利益説。


 全部書きたい。


 でも。


「それ、今回要るか?」


 相馬先輩が聞きます。


「試験では要ります」


「ここ試験会場か」


「違います」


「じゃあ削れ」


 ぐうう。


 現場は容赦がありません。


 残したのは。


 憲法十三条。


 個人の尊重。


 私生活上の情報について法的保護が及び得ること。


 前科・犯罪経歴は、名誉・信用に直接関わる高度に慎重な取扱いを要する情報であること。


 昭和五十六年最高裁判決。


 市が前科情報の記載を事実上求める法的根拠が明確でないこと。


 営業開始にあたり第三者へ前科情報を提供する具体的必要性が示されていないこと。


 地域との連絡という目的は、営業内容や営業時間など、より侵害の小さい情報で達成可能であること。


 本人が明確に拒否していること。


 そして。


 そのような事情の下で前科情報の提出・提供を営業上の協力と事実上結びつける運用は、


 憲法十三条の趣旨に反し、


 個人の人格的利益を不当に侵害する疑いが強い。


 したがって。


 当該情報の記載・提供を求めないこと。


 その拒否を理由として営業上不利益な取扱いをしないこと。


 連絡票の運用そのものを再検討すること。


「……どうです」


 片桐所長が読みます。


 一分。


 二分。


 赤鉛筆が動きます。


 怖い。


「ここ」


「はい」


「『明白に違憲である』」


「はい」


「削れ」


「えっ」


「言い過ぎだ」


「でも――」


「裁判官になるな」


 所長は言いました。


「俺たちは行政書士だ」


 私は黙ります。


「裁判所で違憲判決を取りに行く仕事じゃない」


「……はい」


「役所に、越えれば危ない線を見せる」


 所長が赤鉛筆で直しました。


 ――憲法十三条の趣旨に照らし、重大な疑義がある。


「こっちの方が効く」


「弱くないですか」


「逆だ」


 相馬先輩が言いました。


「役人に逃げ道を残すんだよ」


「逃げ道?」


「『お前ら憲法違反だ、謝れ』って殴ったら、向こうも守りに入る」


「ああ」


「『このままやると違憲・違法の問題が出ますよ。今なら運用見直しで済みますよ』」


 にやり。


「役所が一番嫌なやつだ」


 なるほど。


 法廷ではない。


 勝訴判決もない。


 でも。


 行政に自分から合法な位置へ戻らせる。


 それが、ここでの戦い方。


「先輩」


「何だ」


「ちょっと行政書士っぽいですね」


「ずっと行政書士だ!」


 二日後。


 意見書を持って、再び市役所へ行きました。


 沢渡課長は最初から険しい顔でした。


「読みました」


「早いですね」


「朝比奈さん」


「はい」


「幸福追求権という言葉を役所の連絡票で見るとは思いませんでした」


「私も書くとは思いませんでした」


「でしょうね」


 机の上には。


 私たちの意見書。


 そして、別の書類が三冊。


「担当課と法務担当で検討しました」


 沢渡課長が言います。


「結論から言います」


 私は息を止めました。


「杉原さんについて、賞罰欄の記載は求めません」


「……!」


「拒否を理由とする不利益な取扱いもしません」


 相馬先輩が腕を組みます。


「第三者提供は」


「しません」


「町内会にも?」


「しません」


「商店街にも?」


「しません」


 私は思わず拳を握りました。


 でも。


 沢渡課長が続けます。


「勘違いしないでください」


「何をです?」


「市が憲法違反を認めたわけではありません」


 出た。


 役所の大事なところ。


「当該連絡票について、前科情報まで収集・提供する必要性と法的根拠が十分整理されていないと判断しただけです」


「十分です」


 片桐所長が言いました。


 沢渡課長が所長を見る。


「先生はそう言うと思いました」


「運用は」


「見直します」


 私は聞き返しました。


「杉原さんだけじゃなく?」


「ええ」


 沢渡課長は連絡票を持ち上げました。


「『賞罰・その他参考事項』の欄自体を削除する方向です」


「……本当に?」


「必要な情報は、目的ごとに整理する」


「家族構成は?」


「それも当然見直します」


「前住所は?」


「必要性を検討します」


「全部?」


「朝比奈さん」


 沢渡課長が少し疲れた顔をしました。


「あなた方が書いたんでしょう」


「そうでした」


「行政が個人情報を集めるなら、何のために必要なのか説明できなければならない、と」


 私は黙りました。


「昔から使っていた様式です」


 沢渡課長は言いました。


「だから誰も疑問を持たなかった」


「……はい」


「それだけです」


 その言葉が。


 妙に残りました。


 悪意のある人が作ったわけじゃない。


 杉原さんを狙ったわけでもない。


 ただ。


 昔から。


 みんなそうしていた。


 それが一番厄介なのかもしれません。


「課長」


 私は聞きました。


「公共の福祉は?」


「地域秩序は重要です」


「ですよね」


「ですが」


 沢渡課長は意見書を閉じました。


「便利な免罪符ではない、というあなた方の指摘は、その通りでしょう」


 おお。


 沢渡課長が。


 認めた。


「今、ちょっと感動しました」


「しないでください」


「課長が素直に」


「朝比奈さん」


「はい」


「結論を変える前に、あなたへの評価を変えますよ」


「何の評価ですか!?」


 相馬先輩が笑いました。


 杉原さんの店は。


 予定通り、翌月一日に開店しました。


 店の名前は、


 「みつば洋裁店」。


 緑色の小さな看板。


 窓際にミシンが一台。


 壁には糸巻きが色ごとに並んでいます。


「これ、開店祝いです」


 私は花束を渡しました。


「ありがとうございます」


「相馬先輩が選びました」


「言うな!」


「えっ」


 杉原さんが笑います。


「相馬さんが?」


「違う。花屋の婆さんに適当に見繕わせただけだ」


「赤いカーネーション指定してましたよね」


「こはる」


「はい」


「黙れ」


 怖い。


 でも杉原さんは、もっと笑いました。


「ありがとうございます」


 店の外。


 商店街のおばさんが一人、覗いています。


「裾上げ、今日でもいい?」


「はい!」


 杉原さんが答えました。


「明日の夕方にはできます」


「早いねえ」


「急ぎなら今日中でも」


「じゃあ頼もうかしら」


 普通の会話。


 それだけ。


 十二年前に何をした人なのか。


 どんな刑を受けたのか。


 誰も聞きません。


 聞く必要もない。


 洋裁店で必要なのは。


 裾を何センチ詰めるか。


 いつ仕上がるか。


 いくらなのか。


 それくらいです。


「朝比奈さん」


 帰り際。


 杉原さんに呼び止められました。


「はい」


「あの紙」


「連絡票?」


「はい」


「もう大丈夫です」


「そうじゃなくて」


 杉原さんは少し考えてから言いました。


「私、ずっと思ってたんです」


「何をです?」


「知られたくないって言うこと自体が、後ろめたいことなんだって」


 私は何も言いませんでした。


「昔のことを隠すなんて卑怯だって言われたら、そうなのかなって」


「……」


「でも違うんですね」


 杉原さんは店の中を見ました。


「話したくないことを、話さないで生きてもいいんですね」


 その言葉に。


 私はすぐ答えられませんでした。


 憲法十三条。


 幸福追求権。


 包括的基本権。


 人格的利益。


 プライバシー。


 教科書では、難しい言葉が並びます。


 でも。


 もしかすると。


 その中心にあるのは。


 とても単純な言葉なのかもしれません。


「はい」


 私は言いました。


「自分の人生ですから」


 杉原さんが笑いました。


 事務所へ戻る途中。


 私は六法を開きながら歩いていました。


「危ねえぞ」


 相馬先輩が言います。


「歩き六法です」


「新しい事故原因を作るな」


「でも、すごいですよ」


「何が」


「十三条」


「今さらか」


「今さらです」


 私は立ち止まりました。


「条文、今と一緒なんですよ」


「またそれか」


「一字一句」


「憲法なんだから当たり前だろ」


「でも社会は全然違う」


 昭和六十三年。


 町内会。


 商店街。


 世間体。


 家。


 前歴。


 近所の目。


 現代よりずっと重く感じるものがある。


「条文が同じでも」


 私は言いました。


「人が何を『守られるべき自分の領域』だと思うかは、時代で変わるんですね」


 相馬先輩が煙草をくわえます。


「だから憲法が細けえことを書いてねえんじゃねえのか」


「え?」


「知らんけど」


「知らないんですか」


「俺は学者じゃねえ」


 先輩は火をつけました。


「ただな」


「はい」


「昔からやってるって理由だけで、人の人生を役所が町内に配っていいわけねえだろ」


 煙を吐く。


「世間の常識? そんなもん十年で変わる」


「法律は?」


「憲法は変わってねえんだろ」


「はい」


「じゃあ上に聞け」


 先輩が私の六法を指しました。


「その常識、本当に人を踏んでいいほど偉いのかってな」


 夕方。


 事務所へ戻ると。


 片桐所長が一枚の紙を私の机へ置きました。


「何です?」


「市役所からだ」


 見る。


 新規営業者連絡票。


 改訂案。


 氏名。


 店舗所在地。


 営業内容。


 営業時間。


 緊急連絡先。


 それだけ。


 家族構成。


 前住所。


 賞罰。


 全部消えていました。


「……所長」


「何だ」


「憲法って」


「うん」


「強いですね」


 片桐所長が帳簿を開きながら言います。


「使い方を間違えるな」


「はい」


「何でも憲法違反だと言う奴は三流だ」


「はい」


「だが」


 ページをめくる。


「役所が一人の人間を、『個人』として見なくなったら」


 所長は言いました。


「そのときは抜け」


「伝家の宝刀?」


「錆びさせるな」


 私は六法を見ました。


 憲法十三条。


 受験生だったころ。


 私はこれを、


 新しい人権の根拠。


 と覚えていました。


 プライバシー権。


 肖像権。


 自己決定権。


 判例とセット。


 試験に出る。


 それくらい。


 でも。


 今日。


 一人の女性が。


 十二年前の過去を町中に知られずに済んだ。


 自分の店を開けた。


 普通に客を迎えた。


 それを守った出発点が、


 ――すべて国民は、個人として尊重される。


 たったそれだけの言葉だった。


「こはる」


「はい」


「今日の教訓は」


 所長に聞かれて。


 私は少し考えました。


 そして。


「『公共の福祉』は、人の秘密を開ける合鍵じゃない」


 所長が顔を上げました。


「……悪くない」


「やった」


 相馬先輩が横から言います。


「長え」


「じゃあ先輩は?」


「知られたくねえことくらい、誰にでもある」


「法律の教訓じゃないじゃないですか」


「そっちの方が大事だろ」


 言われて。


 少しだけ考えました。


 たぶん。


 そうなのかもしれません。


 幸福追求権。


 名前だけ見ると。


 国が人を幸せにしてくれる権利みたいです。


 でも、きっと違う。


 どんな人生を選ぶか。


 何を話すか。


 何を話さないか。


 どこまで他人を自分の人生に入れるか。


 そういうことを。


 できるだけ自分で決めながら生きていく。


 そのために。


 国家でさえ踏み込んではならない場所をつくる。


 それが。


 十三条という、とても抽象的な一文が守ろうとしているものなのかもしれません。


 窓の外。


 夕暮れの商店街に、ぽつぽつと明かりが灯ります。


 そのどこかで。


 緑色の小さな看板にも。


 きっと今ごろ、明かりがついています。


 みつば洋裁店。


 店主、杉原美津子。


 それだけ分かれば。


 今日、あの店で裾上げを頼むには十分です。


 十二年前の彼女まで。


 町が知る必要はありません。


 私は六法を閉じました。


 昭和六十三年。


 憲法の文字は、未来と一字一句変わらない。


 変わるのは。


 その文字を読んで、


 どこまで一人の人間を「個人」として守れるか。


 そちらなのだと思います。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
さくら司法書士補助者の法務帳 〜 昭和に転生して泥沼の争いを収めたら、実務と試験知識が完全にリンクしました 〜
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜
宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
動画生成AIが作成したイメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。