[行政手続法2条・定義]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所は、昼間より少しだけ法律が似合います。
電話が減る。
来客も途切れる。
西日が書棚の背表紙を赤く染める。
そして私は、机の上にノートを広げていました。
昨日、題名だけ書いて閉じたページです。
私は鉛筆を持ち、その一番上を見つめました。
――行政手続法二条 定義。
「……」
書いてから、少しだけ後ろめたくなります。
当然です。
今は昭和六十三年。
行政手続法なんて法律は、まだありません。
私の記憶では、この法律が制定されるのは平成に入ってから。
施行されるのは、さらにその後です。
つまり、この町の誰かに、
「行政手続法二条によればですね」
なんて言い出したら、
法律の説明以前に、
未来人としての説明責任が発生します。
困る。
非常に困る。
「さっきから何を固まってる」
向かいの机で、相馬先輩が新聞を畳みました。
「いえ。ちょっと未来と現在の整合性を」
「帰れ」
「職場からですか、時代からですか」
「意味の分からんこと言ってないで勉強しろ」
はい。
そうします。
昨日。
大橋里美さんが、市役所に店舗の開設届を出そうとして、
「市が認めるまで営業できません」
と言われました。
ところが確認してみると、その書類は許可を求める申請ではありませんでした。
一定の事項を市へ知らせるための届出。
さらに都市整備課から言われた、
「駅前再整備のため、開店を待ってください」
という話も、
少なくとも法的権限に基づいて営業を禁止するものではなく、協力を求める話でした。
同じ「役所とのやり取り」でも、
何をしているのかが違えば、
意味も、
効果も、
その後に考えるべき手続も違う。
私は昨日、それを身体で知りました。
そして私の頭の中には、その違いを整理するための、未来の法律があります。
行政手続法。
その第二条。
定義。
昨夜までなら、試験テキストで見ただけで眠くなる場所です。
でも今なら分かる。
あの条文は、単なる用語集ではありません。
昨日みたいな混線事故を起こさないための交通整理なのです。
「所長」
「何だ」
奥で帳簿を見ていた片桐所長が顔を上げました。
「昨日みたいな場合って、まず何から考えるんですか」
「何をされたのかを分ける」
「分ける?」
「役所が何か言ったからといって、全部同じじゃない」
所長は帳簿を閉じます。
「許可を求めているのか。ただ知らせているのか。法的に命じられたのか。協力を頼まれただけなのか。そこを混ぜるな」
私は思わず鉛筆を止めました。
未来の条文を知らないはずなのに。
言っていることは、まさにそこです。
たぶん法律というのは、ある日突然、何もないところから生まれるわけではない。
先に現場がある。
揉め事がある。
曖昧な運用がある。
困る人がいる。
それを何年も積み重ねたあとで、
ようやく法律が名前をつけ、線を引く。
私はノートの端に、小さく書きました。
――未来の行政手続法は、昨日みたいな現場を整理するためにできる。
「何を書いてる」
相馬先輩が覗き込もうとします。
「秘密です」
「仕事中に秘密を作るな」
「未来機密です」
「本気で帰れ」
危ない危ない。
では、ひとつずつ整理しましょう。
私だけが知っている、未来の定義に照らして。
まず。
法令。
行政手続法二条でいう「法令」には、
法律。
法律に基づく命令。
条例。
地方公共団体の執行機関の規則。
これらが含まれます。
私はノートに書きながら、昨日の市役所を思い出しました。
「所長。市の条例も、当然ちゃんと確認する対象ですよね」
「当たり前だ」
「国の法律だけ見ればいいわけじゃない」
「市の手続なら、条例や規則が根拠になることもある」
はい。
未来の試験なら、ここは引っかけどころです。
「法令」と聞くと、
法律。
政令。
省令。
そこまでしか浮かばない。
でも行政手続法でいう法令には、
地方公共団体の条例や執行機関の規則も入る。
だから昨日も、
市の条例は?
規則は?
どこに開店禁止の根拠がある?
と確認しなければならなかった。
未来の法律の定義と、
昭和六十三年の実務が、
ちゃんとつながっています。
なんだか少し不思議です。
次。
処分。
私は未来の条文を頭の中でなぞりました。
行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為。
「相馬先輩」
「何だ」
「役所の人が“やめてください”って言ったら、それだけで処分ですか」
「そんなわけあるか」
「ですよね」
「何の権限で、何を決めたかによる」
「法的に相手の立場を変えるようなものかどうか」
「難しく言うな」
「先輩がそういう話をしてるんです」
昨日、都市整備課の担当者は言いました。
開店を待ってほしい。
市として困る。
再整備に協力してほしい。
でも。
営業停止命令書はない。
法令に基づいて営業権を止める処分をしたわけでもない。
少なくとも、昨日あったのは、
「法的にあなたは営業できません」
と公権力で決定する行為ではありませんでした。
ここで大事なのは、
役所の人が強い口調で言ったかどうかではない。
肩書が偉そうだったかどうかでもない。
その行為に、どんな法的効果があるのか。
そこです。
「所長」
「何だ」
「役所の言葉って、口調より効果を見るんですね」
「そうだ」
短い。
でも、その通り。
未来の私は、それを「処分」という定義で覚えます。
でも昭和六十三年の片桐所長は、条文番号なんて知らなくても、もう現場で分けている。
ちょっと悔しい。
受験生が何時間もかけて覚えるものを、実務家は一言で済ませます。
そして処分について、一つ。
未来の試験で危険なのが、
審査請求や再調査請求など、不服申立てに対する裁決や決定です。
行政庁が何かを決める。
だから全部「処分」だろう。
そう思うと引っかかる。
行政手続法では、不服申立てに対する裁決・決定を、その法律が対象とする「処分」と同じ箱には入れません。
私は赤鉛筆で書きました。
――役所が決めたもの全部=行政手続法上の処分、ではない。
「何を一人で頷いてる」
相馬先輩が言います。
「未来の試験問題に勝ちました」
「今の仕事に勝て」
もっともです。
次。
申請。
ここは昨日、完全に現場で出ました。
未来の行政手続法でいう申請とは、
法令に基づいて、
行政庁に、
許可、認可、免許など、
自己に何らかの利益を与える処分を求める行為。
そして行政庁が、
認める。
認めない。
そのどちらかを答えることになっているものです。
「許可してくれ、って出すものですね」
私が言うと、相馬先輩が頷きました。
「まあ、そういうことだ」
「行政庁に“ください”って言う」
「子どもみたいに言うな」
「分かりやすいんですよ」
許可してください。
認可してください。
免許をください。
つまり、
利益を与える処分を求める。
そして役所側には、諾否を答える役目がある。
昨日の里美さんはどうだったか。
開設届に、
「店を開いてもいいでしょうか」
とは書いていませんでした。
市に一定事項を知らせるための書類だった。
だから、
「市が認めるまで営業できません」
という説明に違和感が出た。
許可を求める仕組みではないのに、
窓口が許可制度のように扱ってしまったからです。
「じゃあ届出」
相馬先輩が言いました。
「昨日の主役ですね」
未来の行政手続法でいう届出。
行政庁に一定事項を通知する行為。
申請に当たるものは除く。
そして法令によって、その通知が義務づけられているもの。
あるいは、一定の法律上の効果を生じさせるために通知すべきもの。
昨日の里美さんなら、
私はこの場所で、
こういう店を、
この日から開きます。
それを知らせる。
役所に、
私へ営業する権利を与えてください、
とお願いしているわけではない。
「つまり」
私は言いました。
「申請は、“認めてください”」
「うん」
「届出は、“知らせます”」
「乱暴だが、最初の整理としてはそれでいい」
所長が答えました。
ただし。
ここで未来の受験生こはるから、昭和の私に注意。
紙の表題だけで決めてはいけない。
「○○届」
と書いてあるから、必ず行政手続法上の届出。
とは限りません。
中身を見る。
行政庁に利益を与える判断を求め、その諾否を受ける構造なのか。
単に通知する構造なのか。
「名前を信じるな。中身を見ろ、ですね」
「役所の書類は特にな」
相馬先輩が言いました。
「昨日は名前が大事って言ってませんでした?」
「法律上の名前と紙の題名は別だ」
「ややこしい!」
そして未来の試験で有名なのが、
婚姻の届出。
「相馬先輩」
「何だ」
「婚姻届って、届出ですよね」
「そりゃ届だろ」
「ですよねえ」
私はニヤリとしました。
未来では罠です。
行政手続法の整理では、
婚姻の届出は「申請」に当たる。
私はノートに大きく書きました。
――名称より法的性質を見る。
「何を嬉しそうにしてる」
「先輩が未来の試験で引っかかりました」
「未来未来うるせえな」
「すみません」
危ない。
また口に出ました。
次。
不利益処分。
これは字面がすでに嫌です。
未来の行政手続法では、
行政庁が、
法令に基づいて、
特定の者を名あて人として、
直接に義務を課し、
または権利を制限する処分。
「昨日もし、市が里美さんに対して」
私は言いました。
「法令に基づいて、“あなたは営業してはならない”と正式に命じていたら」
「不利益を与える処分の問題になるな」
所長が言いました。
そう。
対象は特定の人。
その人に直接、
義務を課す。
権利を制限する。
未来の行政手続法では、そこを「不利益処分」として手続的に整理することになります。
大事なのは、
「不利益なこと全部」
ではないという点。
ここ、本当に重要です。
日常語なら、
申請を拒否される。
ものすごく不利益。
でも未来の行政手続法では、
申請に対する拒否処分を「不利益処分」の章には入れません。
申請に対する処分として、別のルールで扱う。
私は赤字で書きました。
――「本人に不利益」=「行政手続法上の不利益処分」ではない。
「何だその顔」
相馬先輩が言います。
「法律用語って、普通の日本語を信用すると危険だなって」
「今さらか」
はい。
今さらです。
さらに。
不特定多数を対象にした一般的な規制は、
特定の者を名あて人にした不利益処分とは違う。
本人の同意の下にする処分も違う。
立入検査のような事実上の行為も、そのままこの意味の不利益処分ではない。
許認可の基礎となった事実が消滅した旨の届出を理由に、その許認可の効力を失わせるような場合も除かれる。
未来の試験は、この辺りを嬉々として聞いてきます。
なぜ知っているのか。
知っているからです。
転生者特権。
ただし試験に再挑戦する機会があるかは不明です。
昭和で行政書士試験を受けたら、未来知識がかえって邪魔になりそうなのが怖いところです。
そして昨日、一番重要だったもの。
行政指導。
この言葉自体は、昭和六十三年の今でもあります。
行政実務でも行政法学でも使われています。
ただし未来では、その意味が行政手続法によって明文で整理されることになる。
私はノートに、その未来の定義を書きました。
行政機関が、
その任務または所掌事務の範囲内で、
一定の行政目的を実現するため、
特定の者に対して、
一定の作為または不作為を求める、
指導、勧告、助言その他の行為。
ただし、処分に該当しないもの。
「昨日の都市整備課そのものですね」
「どこが」
相馬先輩が聞きます。
「駅前再整備という行政目的がある」
「うん」
「里美さんという特定の人に」
「うん」
「開店しないでください、と求めた」
「不作為だな」
「しかも営業停止処分ではなかった」
「そうだ」
きれいに当てはまります。
昨日まで私は、
行政指導というと、
役所の人が、
「できればこうしてくださいね」
と穏やかに助言するものを想像していました。
でも違う。
不作為を求めることもある。
つまり、
してください、
だけではなく、
しないでください、
も行政指導になり得る。
「ただし」
所長が言いました。
「何でも指導していいわけじゃない」
「担当外のことまで口を出すな、と」
「任務の範囲を越えれば問題になる」
「ですよね」
未来の行政手続法も、そこを明文化します。
行政機関は、
自分たちの任務や所掌事務の範囲内で行政指導をする。
担当でもないことについて、
行政目的だからと好き勝手に指導できるわけではない。
そして最大のポイント。
処分に該当するものは、行政指導ではない。
この二つは分ける。
だから昨日、
「市が認めるまで営業できません」
という説明がまずかった。
本当に法的に営業を禁止する処分なら、
そういう権限と根拠が必要です。
一方、
開店を待ってほしいという協力要請なら、
それは法的義務を直接生じさせる処分ではない。
なのに説明だけが命令の顔をしていた。
そこが問題でした。
「所長」
「何だ」
「処分じゃないものを、処分みたいに言うのが一番怖いですね」
「そうだな」
「本人は違いなんて分かりませんし」
「だから説明する側が混ぜるな」
短い。
でも重い。
行政指導は、法的強制力がない。
そう教科書に書いてあれば簡単です。
でも現場では、
役所の窓口。
公務員。
再整備計画。
開店しないでください。
その条件が揃っただけで、人は十分に圧を感じます。
里美さんも言いました。
怖かったから。
役所に言われたら、従わないといけないと思った。
そこに、
制度上の強制力がないから問題ない、
では済まない。
むしろ、
強制力がないのに強制のように機能するから、
後の行政手続法は行政指導まで手続の対象として取り込むのだ。
そう考えると、
法律ができる理由が少し見える気がしました。
次。
行政機関。
未来の行政手続法は、この言葉もかなり広く定義します。
国の行政機関。
内閣関係の機関。
各省。
委員会。
庁。
会計検査院。
それらの職員。
そして地方公共団体の機関。
「市役所の職員も、未来の行政手続法でいう行政機関に含まれ得る」
私は呟きました。
「何の話だ」
相馬先輩が聞きます。
「未来の話です」
「もういい」
ただし。
地方公共団体の議会は除かれる。
未来の試験なら、ここも狙われます。
私は余白に丸をつけました。
――地方公共団体の機関。ただし議会を除く。
そして最後に。
命令等。
この言葉は未来の行政手続法特有の整理です。
今の片桐所長に、
「命令等って四種類ですよね」
なんて聞いてはいけません。
そんな分類、まだ法律として存在していません。
だから私は黙ってノートに書きます。
未来の行政手続法における「命令等」。
一つ。
法律に基づく命令または規則。
二つ。
審査基準。
三つ。
処分基準。
四つ。
行政指導指針。
「……四つ」
私は呟きました。
「何が四つだ」
「独り言です」
「不気味だぞ」
このうち、
法律に基づく命令や規則は、
外部に法的拘束力を持つ法規命令。
一方、
審査基準。
処分基準。
行政指導指針。
これらは行政規則の側です。
外部に対する法的拘束力を、そのまま持つものではない。
昨日までの行政立法の話と、ここでつながります。
行政法。
単元ごとに分かれているように見えて、
現場では全部つながっている。
「審査基準って何だと思う」
所長が突然聞きました。
「え?」
未来の言葉を考えていたので、一瞬固まりました。
「許可するかどうか決めるときの基準みたいなもの、ですか」
「そういう内部基準は昔からある」
所長が言います。
なるほど。
当然です。
行政手続法ができる前だって、
役所が何も基準なしに許認可をしていたわけではない。
制度や実務は先にある。
後で法律が、
それに名前をつけ、
公正さや透明性を求めて整理する。
私は少し嬉しくなりました。
「じゃあ、不利益な処分をするかどうかとか、程度を決める内部基準も」
「ある」
「同じ目的で何人もの人に同じような行政指導をするなら、その共通方針も」
「作ることはあるだろうな」
所長は何でもないように答えます。
でも私の頭の中では、
未来の用語が次々に立ち上がっていました。
審査基準。
処分基準。
行政指導指針。
今この時代にも、実務上の中身は存在する。
ただし未来では、
それらが行政手続法の中で明確に位置づけられる。
昨日の駅前再整備でも、
もし市が、
この地区の新規出店者には、原則として開店延期を求める、
という共通方針を作っていたなら。
未来の行政手続法なら、
行政指導指針という言葉で整理する場面が出てくるでしょう。
個別の里美さんに、
開店を待ってください、
と求めるのが行政指導。
複数の事業者に共通して、どんな行政指導をするか決めるのが行政指導指針。
こうすると、急に見やすい。
「こはる」
「はい」
「今度は何で笑ってる」
「法律って、未来で名前がつくと急に整理できるなって」
「お前はさっきから未来に何があるんだ」
「夢と希望です」
「帰れ」
危ない。
今日は何回目でしょう。
審査基準と処分基準。
未来の試験では、ここにも注意が必要です。
これらは行政規則。
だから、
内部基準に違反した。
それだけで直ちに処分が違法になる、
とは限らない。
逆に、
内部基準どおりに処分した。
だから必ず適法、
とも限らない。
結局、外部との関係では、
法律その他の法規に照らして考えなければならない。
昨日やった行政立法そのものです。
「所長」
「何だ」
「内部の基準どおりにやったから絶対正しい、ってわけでもないですよね」
「当たり前だ」
「内部基準に反したから、必ず違法になるとも限らない」
「法令に照らして見る」
「ですよね」
うん。
未来の試験対策として完璧です。
片桐所長、
平成の受験予備校で講師ができます。
本人に言ったら怒られそうなので黙っておきます。
私はノートに線を引きました。
ここまでを整理します。
未来の行政手続法が対象にする大きな領域は、
処分。
行政指導。
届出。
命令等。
その中で、
申請に対する処分。
不利益処分。
そうした区別がさらに積み重なる。
昨日の里美さんの事件を当てはめると、
店を開く旨の書類提出。
これは、私の未来知識で整理すれば届出。
市が、
再整備のため開店を待ってほしい、
と求めたこと。
これは行政指導。
もし市が法令上の権限に基づき、
里美さんを名あて人として営業停止を命じたなら、
処分。
その内容次第では、不利益処分の問題になる。
もし営業許可を求める制度で、
その許可申請を拒否されたなら、
本人には不利益でも、
未来の行政手続法上は「不利益処分」ではなく、
申請に対する処分として扱う。
同じ役所。
同じ人。
同じ店。
でも、
何をされたかが変わるだけで、
法律上の分類は全部変わる。
「これ、すごいな」
私は思わず呟きました。
「何がだ」
相馬先輩が聞きます。
「名前一つで、考える手続が全部変わるんです」
「だから最初に分けろって言っただろ」
「簡単に言わないでください。こっちは未来の法律一条分使って理解したんですよ」
「何だ未来の法律って」
「あ」
「お前、今日ずっと変だぞ」
「いつもです」
「認めるな」
私は咳払いしました。
危ない。
そろそろ本気で疑われます。
「結局」
所長が言いました。
「昨日の件で何を覚えた」
私は少し考えました。
未来の法律用語を全部並べることはできます。
でも所長が聞いているのは、たぶんそれじゃない。
「役所が何か言ったとき」
私は答えました。
「その言葉の強さじゃなくて、何をしているのかを見ること」
所長は黙っています。
続けます。
「許可を求める手続なのか。ただの通知なのか」
「うん」
「相手を法的に縛る決定なのか。協力を求めているだけなのか」
「うん」
「誰に、どんな効果が及ぶのか」
所長が頷きました。
「それでいい」
相馬先輩が新聞を置きます。
「難しい言葉より、そっちを先に覚えろ」
「でも難しい言葉、試験に出るんですよ」
「知らん」
「ひどい」
でも。
たぶん相馬先輩の言うことも正しい。
未来の行政手続法二条を、
一字一句暗記したとしても、
昨日の里美さんの前で、
「それって許可なんですか、届出なんですか」
と聞けなければ意味がない。
逆に。
現場で違和感をつかんでから条文を見ると、
定義が急に生きる。
処分。
申請。
不利益処分。
行政指導。
届出。
命令等。
全部、ただの暗記語だった。
でも今は違う。
一つ一つに、
昨日の誰かの顔があります。
私はノートの最後に、
――一行の覚え書き。
と書きました。
少し考えて。
まず一行。
役所の言葉に迷ったら、最初に「これは何ですか」と聞く。
その下。
未来の自分向けに、もう一行。
申請・届出・処分・不利益処分・行政指導は、日常語ではなく定義で切る。
さらに。
「不利益なこと」=「不利益処分」ではない。
「届と書いてある」=「法律上の届出」とは限らない。
「役所の人が言った」=「処分」でもない。
相馬先輩が横から覗き込みました。
「ずいぶん疑い深くなったな」
「行政法に向いてきたと言ってください」
「性格が悪くなった」
「受験勉強の成果です」
「何の受験だよ」
「秘密です」
これ以上は危険です。
窓の外では、駅前商店街の灯りが一つずつ点いていました。
三日後には、
里美さんの子ども服店「ひだまり」も、
その列に加わる予定です。
もちろん。
届出をしたから何でも自由、
ではありません。
別の許可が必要なら必要です。
消防。
建物。
看板。
再整備。
それぞれの問題は、それぞれ確認しなければならない。
でも。
それぞれを、
それぞれの名前で扱えばいい。
許可なら許可。
届出なら届出。
処分なら処分。
行政指導なら行政指導。
事情があるなら事情。
お願いならお願い。
そこを混ぜない。
未来の行政手続法は、
きっとそのための線を、今よりもっとはっきり引くことになります。
法律の条文は冷たい。
特に定義なんて、
人情も何もありません。
ただ、
「この言葉の意味はこれです」
と機械みたいに線を引くだけです。
でも。
その冷たい線があるから、
お願いを命令に化けさせない。
通知を許可申請に化けさせない。
本人に嫌なことが起きただけで、全部を同じ手続に放り込まない。
そして、
役所の曖昧な「駄目です」を、
一つずつ分解できる。
制度の冷たさは、
人を遠ざけることがあります。
でも、
曖昧な権力が膨らむのを止めるとき、
冷たい線ほど頼もしいものもありません。
私はノートを閉じました。
「終わったか」
相馬先輩が立ち上がります。
「終わりました」
「じゃあ」
先輩が、机の下から紙袋を取り出しました。
「昨日のパンの残りを食う」
「まだあったんですか!」
「隠しておいた」
「それ、事務所の共有物ですよね」
「違う。俺が確保した」
「その権利、誰が認めました?」
「俺」
「自己認可!」
「何だそれ」
袋の中には、あんパンが一個。
私は即座に手を伸ばしました。
相馬先輩も同時に伸ばします。
「待ってください」
「何だ」
「これは申請です」
「何を申請する」
「私に半分を付与してください」
「拒否する」
「不利益処分!」
「違うだろ」
「あ」
しまった。
自分でさっき書いたばかりです。
申請を拒否されたからといって、
行政手続法上の不利益処分になるわけではない。
というか、そもそも相馬先輩は行政庁ではありません。
私は額を押さえました。
「……二重に間違えた」
「やり直せ」
「嫌です!」
奥から所長の声がします。
「半分にしろ」
相馬先輩が止まりました。
「所長。それは命令ですか」
「ああ」
「根拠は」
「俺の事務所だ」
「強い」
私は笑いながら、あんパンを半分に割りました。
きれいに半分。
制度上の分類はともかく、
紛争解決としては極めて優秀です。
昭和六十三年。
この町には、まだ行政手続法はありません。
でも。
今日、市役所で起きたような問題は、もうあります。
役所のお願いが命令に見えること。
届出が許可のように扱われること。
内部の都合が、市民を縛る根拠みたいな顔をすること。
きっと、そういう一つ一つの積み重ねが、
何年か先の法律につながっていく。
私は未来を知っています。
でも今日は初めて、
法律ができる前にも、
法律が必要になる理由はちゃんと存在していたんだと知りました。
私は閉じたノートの表紙を指で叩きます。
今日の一行は、これで決まりです。
――定義を間違えると、手続も、相手の立場も、救済の入口もずれる。
そして、その下に小さく付け足しました。
――法律ができる前から、法律が整理しなければならない現場はある。
相馬先輩が、あんパンを頬張りながら言います。
「また何か書いてるな」
「未来へのメモです」
「お前、本当に大丈夫か」
「たぶん」
「その答えが一番駄目だろ」
夕暮れの事務所に、相馬先輩の笑い声が響きました。
行政手続法二条。
昭和六十三年のこの机には、まだ存在しない法律です。
でも私の中ではもう、
ただの暗記条文ではありません。
あの法律が未来で線を引く場所には、
今、この町で困っている人がいる。
そう分かってしまったから。
たぶんもう、
以前ほどは眠くならないと思います。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




