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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政手続法

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35/292

[行政手続法2条・定義]現場編 「届出なんだから、市が認めるまで営業できません」の罠。通知と許可を混ぜる窓口と、“お願い”を処分に化けさせない定義の線引き

挿絵(By みてみん)

 役所の言葉は、名前を間違えると急に強くなります。


 お願いが命令になったり。


 届出が許可になったり。


 窓口の一言が、処分みたいな顔をしたり。


 そして困るのは、たいてい名前をつけた側ではありません。


 名前を信じた側です。


 昭和六十三年。


 地方都市の片桐行政書士事務所で、私は朝から一枚の紙を睨んでいました。


「……届出書」


 声に出してみる。


 もう一度見る。


「届出書」


 やっぱりそう書いてあります。


「何回読んでも字は変わらんぞ」


 向かいの机で相馬先輩が言いました。


「分かってます」


「なら仕事しろ」


「仕事してるんです。今、ものすごく大事な確認をしてるんです」


「紙の題名を?」


「はい」


「暇なんだな」


「違います!」


 暇ではありません。


 むしろ逆です。


 事務所の応接には今、一人の女性が泣きそうな顔で座っています。


 大橋里美さん。三十二歳。


 駅前商店街の外れで、小さな子ども服店を開く予定の人です。


 店の名前は「ひだまり」。


 中古の棚を自分で塗り直して、姉から借りたミシンを置いて、近所の主婦が縫った子ども用エプロンや通園袋なんかも扱う。


 大儲けを狙った店ではありません。


 里美さん自身が、二年前に夫を亡くしている。


 幼い娘を育てながら、勤めを続けるのが難しくなった。


 それでも働きたい。


 自宅近くで店を持てれば、娘が熱を出したときにも動ける。


 そんな事情で、少しずつ準備してきた店でした。


 家賃ももう発生しています。


 仕入れも済んでいます。


 開店予定日は、三日後。


 ところが今朝、市役所へ必要書類を出しに行ったところ。


 窓口で、こう言われたそうです。


「市が受理して、営業していいと認めるまで、店は開けないでください」


 里美さんは、その場で固まりました。


「私……許可がいるなんて、聞いてなくて」


 震える声で言います。


「商店会からは、“開業届みたいなものを市に出しておけばいい”って言われたんです。だから今日出しに行ったら……」


「窓口で止められた」


 片桐所長が聞く。


「はい」


「書類は受け取ったんですか」


「いえ」


「返された?」


「はい。“まだ中身を確認してないから受け取れない”って」


 私は机の上の紙を見ました。


 市の商業施設等開設届出書。


 条文の写しもあります。


 一定規模以下の店舗について、開設日の前までに所在地、営業内容、営業時間などを市へ届け出ること。


 少なくとも文面上は、


 許可を受けなければ営業してはならない、


 とは書いてありません。


「他には何か言われました?」


「駅前は再整備が始まるから、新しく店を出す人にはなるべく待ってもらってるって……」


 来ました。


 私は心の中で鉛筆を置きました。


 なるべく。


 行政法で「なるべく」が出てきたら、だいたい後ろに何かいます。


「それで?」


「担当の方から、“今開けても立ち退きになるかもしれないし、市の計画に協力してください”って」


「書面は?」


「ありません」


「営業しちゃ駄目です、とは?」


「はっきりそう言われました」


 相馬先輩の眉が動きました。


「誰に?」


「都市整備課の人です。商業振興課の方が呼んできて……」


 私は顔を上げます。


「その人、何か処分通知とか、営業停止命令とか、そういう紙を出しました?」


「いえ。ただ、“開けたら困ります”って」


「困るのは誰なんでしょう」


「こはる」


 相馬先輩が低い声を出しました。


「今は茶化すな」


「すみません」


 茶化したつもりはなかったんですが。


 いや、三割くらいありました。


 でも大事なのです。


 市が困る。


 市民が困る。


 法律上できない。


 協力してほしい。


 これは全部、別の話です。


 ところが窓口に座っている人から言われると、なぜか全部同じ「できません」に見える。


 私は里美さんの届出書をもう一度見ました。


 昨夜までなら、


 申請。


 届出。


 行政指導。


 処分。


 不利益処分。


 この辺りが一ページに固まっているだけで、私のまぶたは国家権力でも止められなかったと思います。


 ところが今。


 人の店が三日後に開くかどうかがかかっていると、眠気なんて一ミリもありません。


 むしろ目が冴えます。


 行政法。


 実地訓練が過酷すぎる。


「所長」


「何だ」


「これ、最初に分けないと駄目だと思います」


「何をだ」


「届出と申請。それから、行政指導と処分です」


 相馬先輩が、また始まった、という顔をしました。


「論点でしゃべるな」


「じゃあ人の言葉で言います」


「最初からそうしろ」


 私は里美さんに向き直りました。


「里美さん。市役所に出したこの紙は、“営業していいですか”って許可をもらうための紙なのか。それとも、“こういう店を開きます”って知らせるための紙なのか。まずそこを確認しましょう」


「違うんですか?」


「たぶん、かなり違います」


 所長が短く補足しました。


「許可を求める手続なら、市が認めるか拒むか判断する。届出なら、性質が違う」


「でも役所の人は、“受理するまで営業できない”って……」


「そこが本当に法律上そうなのかを確認します」


 里美さんは、少しだけ息を吐きました。


 安心したわけではない。


 でも、


 “駄目と言われた”


 という一枚岩だった壁に、初めて継ぎ目が見えた。


 そんな顔でした。


「行くぞ」


 相馬先輩が立ち上がります。


「どこへです?」


「市役所」


「早い」


「開店三日前だろ。来週調べても意味ねえ」


 その通りでした。


 片桐所長も上着を取ります。


「こはる」


「はい」


「届出書を持て」


「はい」


「余計なことは言うな」


「信用がない」


「必要なことは言え」


「難易度高くないですか、その指示」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「自分で考えろ、新人」


 昭和のOJT、だいぶ野生です。


 市役所の商業振興課は、昼前だというのに混んでいました。


 駅前再整備。


 新規出店。


 仮店舗。


 道路工事。


 あちこちで話がつながっているらしく、窓口には図面や申請書を抱えた人が並んでいます。


 里美さんを止めたという担当職員に話を聞くと、最初はひどく曖昧でした。


「ですから、現在は駅前地区の新規開業について慎重にしていただいてまして」


 相馬先輩が即座に返します。


「何を慎重にするんです?」


「開店そのものを」


「法的に?」


「いや、法的にというか……」


「営業禁止なんですか?」


「そこまでは」


「許可制?」


「そういうわけではありません」


 私は隣で思いました。


 言葉が逃げる逃げる。


 追うこっちが息切れしそうです。


 所長が届出書をカウンターへ置きました。


「この書類は何ですか」


「開設届です」


「申請ですか」


「届出です」


「では、市の許可を得るための手続ですか」


「いえ、許可ではありません」


 担当者が答えました。


 私は思わず顔を上げます。


 ほら。


 そこです。


「では」


 所長の声は低い。


「なぜ、“市が認めるまで営業できない”と説明したんですか」


 担当者が止まりました。


「それは……現在、駅前再整備との関係で……」


 また戻った。


 再整備、便利すぎませんか。


 何でも包める風呂敷じゃないんですよ。


 そこで奥から、


「何かありましたか」


 と聞き覚えのある声がしました。


 倉田係長。


 以前、別件で相馬先輩とやり合っていた市役所側の係長です。


 私たちを見るなり、ほんの少し顔が曇りました。


「……また片桐さんですか」


「またとは何だ」


 相馬先輩が返す。


「市役所に来るときくらい普通に挨拶できませんか」


「仕事の話をしに来てる」


「そういうところですよ」


 この二人、だいぶ仲良くなってませんか。


 本人たちは絶対認めないでしょうけど。


 倉田係長が事情を聞きます。


 里美さんの開店予定。


 提出しようとした届出。


 窓口で受取りを止められたこと。


 都市整備課から開業を待つよう言われたこと。


 そして、


 「市が認めるまで営業できない」


 と説明されたこと。


 全部聞いたところで、倉田係長は深く息を吐きました。


「……担当、何て言った?」


「だから今説明したろ」


 相馬先輩が言う。


「あなたには聞いてません」


「俺が聞いたって同じだ」


「同じだから困るんです」


 倉田係長、今日は少し強い。


 担当職員が小さな声で言いました。


「新規開店は極力待ってもらうよう、都市整備から依頼が来てまして」


「依頼?」


「はい」


「法的に停止させる根拠は?」


「……ありません」


 出ました。


 私は頭の中で赤線を引きました。


 倉田係長がさらに聞きます。


「届出を受け取らない根拠は?」


「中身を確認してからと思って……」


「不備があったのか」


「まだそこまでは」


「じゃあ、なぜ返した」


「再整備との調整が済んでなかったので」


 倉田係長の顔が、見る見る疲れていきました。


 ちょっと気の毒になってきます。


 管理職って大変ですね。


 所長が口を開きました。


「係長。整理していいですか」


「お願いします」


「第一に、この手続は許可申請ではなく届出だ」


「はい」


「第二に、都市整備課の話は、少なくとも今の説明では営業禁止の処分ではない」


「……はい」


「第三に、“再整備に協力して開店を待ってほしい”という話なら、それは別の性質だ」


 倉田係長が頷きます。


「行政指導、ですね」


 私は少しだけ胸が跳ねました。


 出た。


 昨夜テキストで見た単語。


 行政指導。


 今日はちゃんと人間の口から出てきました。


 文字よりずっと怖い。


 なぜなら、その一言で一人の店が止まりかけていたから。


「でも」


 私は思わず口を挟みました。


「行政指導なら、“従わないと営業できない”みたいな言い方は変じゃないですか」


 担当者がこちらを見る。


 相馬先輩が肘で私をつつきました。


「余計なことは言うな、って言われてただろ」


「必要なことだと思います」


 片桐所長は止めません。


 なら、続けます。


「お願いなんですよね。少なくとも、今の説明では」


「まあ……お願いというか、協力要請です」


「じゃあ、法的に営業を禁止したわけではない」


「そうです」


「それなのに、“市が認めるまで開けないでください”って言ったら、里美さんは命令だと思います」


 担当者が黙りました。


 里美さんが私の隣で、小さく言います。


「思いました」


 その声が、一番効きました。


 責める声ではありません。


 ただ、事実を言っただけ。


「私は……役所の人にそう言われたら、逆らっちゃいけないと思って」


 倉田係長が目を伏せました。


 私はそこで、少し胸が苦しくなりました。


 行政指導。


 受験勉強では、


 処分ではない。


 任意の協力を求める。


 そんな言葉で覚えます。


 でも現場では。


 机越しに役所の人が、


 「開けないでください」


 と言う。


 こちらには生活がある。


 家賃がある。


 子どもがいる。


 しかも相手は市役所です。


 それを、


 “ただのお願いですから自由に断れますよね”


 と簡単に言える人が、どれだけいるでしょう。


「倉田さん」


 片桐所長が静かに言いました。


「行政指導をするなと言っているわけじゃない」


「分かっています」


「再整備のため、開店時期を調整してほしい事情があるなら、それは説明すればいい」


「はい」


「だが、処分ではないものを処分のように扱うな」


 空気が止まりました。


 所長の言葉はいつも短い。


 でも短い分、逃げ道がありません。


「それから」


 所長は届出書を指で押さえます。


「届出と申請も混ぜないでください」


「……はい」


「市が許可する話ではないなら、“認めるまで営業できない”という説明はまずい」


 担当職員が小さく頭を下げました。


「すみませんでした」


 そこで相馬先輩が言います。


「謝罪は後でいい。この届出は?」


 仕事が早い。


 倉田係長が書類を手に取りました。


 一枚ずつ確認する。


 所在地。


 営業内容。


 開設日。


 営業時間。


 必要な添付図面。


「記載漏れ、あります?」


 私は聞きました。


「いや……今のところ見当たりません」


「なら?」


「受け付けます」


 里美さんが息を呑みました。


「受け取ってもらえるんですか」


「はい」


「それで……三日後に店を開けても?」


 倉田係長は、そこで即答しませんでした。


 その慎重さは、むしろ信用できました。


「この届出そのものについて言えば、“市の許可が下りるまで開店できない”という手続ではありません」


「じゃあ」


「ただし」


 倉田係長が続けます。


「建物の用途や消防、その他に別の手続が必要なら、それは別に確認してください。都市整備との関係も、法的な禁止がないというだけで、再整備計画の説明自体は聞いていただきたいです」


「はい」


「その上で、開店延期をお願いするなら……」


 係長は担当職員を見る。


「お願いだと分かるように説明します」


 私は内心で頷きました。


 そう。


 そこなんです。


 全部白か黒かではない。


 市役所が完全に間違っていて、里美さんが完全に自由。


 そんな単純な話ではない。


 必要な届出は必要。


 別の法令上の手続があれば、それも必要。


 再整備について話を聞くことにも意味はある。


 でも。


 それぞれの名前を勝手に混ぜてはいけない。


 届出を許可にしない。


 お願いを命令にしない。


 相談を処分にしない。


 それだけで、人が立てる場所はずいぶん変わります。


 都市整備課にも移動しました。


 そこで出てきたのは、駅前再整備担当の男性でした。


 地図を広げながら言います。


「この一帯は来年度以降、歩道拡張の可能性がありまして。新しく店を始められると、後で移転の話が出たとき揉めるでしょう?」


「だから今は開店しないでくれ、と」


 相馬先輩が聞く。


「そうです」


「それは命令ですか」


「いや……そこまででは」


「断ったら?」


「困ります」


「誰が」


「市がです」


「本人じゃなく?」


「本人も後で困ると思います」


 私は少しだけ眉を寄せました。


 理屈は分かります。


 市としても、あとで揉めたくない。


 里美さんに損をさせたくないという面もあるのでしょう。


 でも。


 善意であっても、


 “あなたのためだから従え”


 が強くなりすぎると、結局同じです。


「計画はもう決定してるんですか」


 私は聞きました。


「まだです」


「道路拡張が決まった?」


「いえ、複数案の一つです」


「立ち退きが決まっている?」


「それもまだ」


「じゃあ、現時点では将来そうなる可能性があるから、開店を待ってほしい」


「そうです」


「それなら」


 私は言いました。


「里美さんに、そのまま伝えた方がいいと思います」


 担当者が眉をひそめます。


「そのまま?」


「“市が認めるまで駄目”じゃなくて。“計画はまだ決定していない。でも将来移転が必要になる可能性があるから、市としては開店時期を相談したい”って」


「……」


「それなら、里美さんも選べます」


 隣で里美さんが頷きました。


「はい」


 声は、さっきよりしっかりしていました。


「それなら私も考えられます。家賃を払いながら何か月も待つのは無理です。でも一年後に移転の可能性があるなら、そのつもりで内装にお金をかけないようにもできます」


 担当者が黙ります。


 やがて地図を見ながら、


「……確かに、その方が正確ですね」


 と言いました。


 相馬先輩がぼそっと言う。


「最初からそう言え」


「相馬さん」


 倉田係長が睨む。


「何だよ」


「あなたは言い方を学んでください」


「役所に言われたくねえ」


「お互い様です」


 なんでしょう。


 今日一番建設的な会話かもしれません。


 話し合いの結果。


 里美さんの届出は、その日のうちに受け付けられました。


 都市整備課からは、再整備計画について現在決まっている範囲の説明を改めて受けることになりました。


 市が開店延期を求める場合にも、


 法的義務なのか。


 協力要請なのか。


 そこを明確にして伝える。


 倉田係長がそう約束しました。


 もちろん、それで全部終わりではありません。


 消防の確認。


 建物用途。


 看板。


 商店会との調整。


 店を一つ開くというのは、思ったよりいろんな紙と人が絡みます。


 でも少なくとも。


 「市が認めるまで営業できません」


 という、巨大で正体不明の壁は消えました。


 事務所へ戻ったのは、午後三時過ぎでした。


 私は椅子に沈み込みました。


「疲れた……」


「何もしてないだろ」


 相馬先輩が言います。


「しましたよ!」


「何を」


「定義しました」


「地味だな」


「地味だけど大事なんです」


 本当に。


 今日やったことを振り返ると、派手なことは一つもしていません。


 法律を振りかざしたわけでもない。


 役所を怒鳴りつけたわけでもない。


 裁判を起こしたわけでもない。


 ただ、


 これは何ですか。


 と聞いただけです。


 申請ですか。


 届出ですか。


 処分ですか。


 行政指導ですか。


 それだけ。


 でも名前が分かると、急に景色が変わりました。


 届出なら、


 “許可が出るまで待つ”


 という話ではない。


 行政指導なら、


 “従わないと違法になる命令”


 とは違う。


 もちろん、実際にはもっと細かい条件があります。


 今日の私はまだ、その全部を言葉にできません。


 でも。


 教科書の最初の方にある「定義」という章。


 あれ、ただの用語集じゃなかったんですね。


 法律の世界で、


 何が起きているのかを見分けるための名札だったのです。


「ただいまー」


 夕方。


 事務所の扉が開きました。


 里美さんでした。


 手には紙袋。


「どうしたんですか」


「お礼です」


「まだ開店してないですよね」


「だから店の商品じゃありません」


 紙袋から出てきたのは、パンでした。


 丸いあんパン。


 クリームパン。


 ジャムパン。


「駅前の小松屋さんで買ってきました」


 相馬先輩が一瞬で立ち上がりました。


「ありがとうございます」


「早い!」


「相談者の気持ちを受け取るのも仕事だ」


「パンに対してだけ反応速度がおかしいんですよ」


 里美さんが笑いました。


 朝とは違う笑い方でした。


「三日後、開けるんですか」


 私が聞くと、里美さんは少し考えてから答えました。


「開けます」


「決めたんですね」


「はい。でも内装は最低限にします」


「再整備の話も聞いて?」


「聞きました。一年先も何も決まってないなら、それまで店を止めてる方が、私には怖いから」


 しっかりした声でした。


「もし移転になったら、そのとき考えます」


 そして少し笑います。


「今日までは、市役所で“駄目”って言われたら、もうそれで終わりだと思ってました」


「私も昨日までは、定義なんて暗記科目だと思ってました」


「定義?」


「あ、いえ」


 危ない。


 転生受験生の事情まで説明し始めるところでした。


「つまり」


 私は言い直しました。


「役所の言葉にも、種類があるってことです」


「種類」


「許可を求めるのか。知らせるだけなのか。命令なのか。お願いなのか」


 里美さんは、少し考えてから頷きました。


「じゃあ今日、私は“お願い”を“命令”だと思ってたんですね」


「たぶん」


「怖かったから」


 その一言に、私は返事が遅れました。


 そうなんです。


 法律的にどう分類されるか。


 それだけなら、試験問題です。


 でも現実では。


 相手が役所だから怖い。


 断ったら何かされそうだから怖い。


 面倒な人だと思われそうだから怖い。


 そういう気持ちがある。


 だからこそ。


 制度の側が曖昧にしゃべってはいけないのです。


 片桐所長がパンを一つ取りました。


「里美さん」


「はい」


「今日のことで、市役所を信用しなくなる必要はありません」


 里美さんが少し意外そうな顔をしました。


「役所にも事情はある。再整備も必要でしょう」


「はい」


「ただ、事情と権限は別です」


 短い。


 でも、今日の全部でした。


 事情がある。


 だから協力を頼む。


 それはあり得る。


 でも。


 事情がある。


 だから相手に法的義務が生まれる。


 ではない。


 私はその言葉を、頭の中でもう一度転がしました。


 里美さんが帰ったあと。


 相馬先輩がクリームパンを二つ確保していました。


「先輩」


「何だ」


「それ、二個取りましたよね」


「取った」


「一人一個じゃないんですか」


「誰が決めた」


「普通そうでしょう」


「普通は法令じゃない」


「今日覚えたことを悪用しないでください!」


 相馬先輩が笑います。


「じゃあこれは行政指導だ。一本よこせ」


「パンですよ」


「一個よこせ」


「嫌です」


「協力を要請する」


「拒否します」


「不利益を与えるぞ」


「それ言ったらもう任意じゃないでしょう!」


 奥から所長の声が飛んできました。


「相馬」


「はい」


「一個戻せ」


「処分ですか?」


「命令だ」


「根拠は?」


「俺が買った茶を毎日飲んでるだろ」


「経済制裁!」


 私は吹き出しました。


 結局、クリームパンは一人一個。


 残りは明日の朝。


 驚くほど平和的に決着しました。


 夕方。


 電話も鳴らなくなったころ。


 私は机の引き出しからノートを出しました。


 今日一日、頭の中を飛び回っていた言葉があります。


 申請。


 届出。


 処分。


 不利益処分。


 行政指導。


 行政機関。


 命令等。


 たくさんあります。


 多すぎます。


「多いな……」


「何が」


 相馬先輩が新聞をめくりながら聞きます。


「行政手続法の定義です」


「覚えろ」


「簡単に言いますね」


「試験なんだろ」


「そうなんですけど」


 私はノートを開きました。


 いつもなら、ここで定義を書き写す。


 何条。


 何項。


 何号。


 そして五分後には眠くなる。


 でも今日は。


 申請と聞けば、


 行政庁に、


 「私に利益を与える処分をしてください」


 と求める姿が浮かぶ。


 届出と聞けば、


 里美さんがカウンターに書類を差し出す姿が浮かぶ。


 行政指導と聞けば、


 都市整備課の人が、


 「開店を待ってください」


 と頼んだ場面が浮かぶ。


 処分と聞けば、


 もし本当に市が法的権限に基づいて営業を止めたなら、


 それは今朝の一言とは違う。


 そんな輪郭が見えてきます。


 でも。


 まだ、分かった気になってはいけません。


 不利益処分って、どこまでを言うのか。


 申請を拒否された場合はどうなるのか。


 行政指導は誰に対してするものなのか。


 届出と申請の境目は何なのか。


 命令等には、いったい何が含まれるのか。


 そして。


 今日の市役所の職員は「行政機関」なのか。


 市役所そのものは?


 議会は?


 考え始めると、急に穴だらけです。


 私はペンを持ったまま止まりました。


「書かないのか」


 相馬先輩が聞きました。


「今日のところは、題名だけにします」


「またか」


「だって、今は事件の中で分かっただけです」


「それじゃ駄目なのか」


「駄目じゃないです。でも、試験問題になった瞬間、たぶん引っかかります」


「自覚はあるんだな」


「あります」


 嫌になるほど。


 所長が帳簿を閉じました。


「何を書く」


「行政手続法二条。定義」


「地味だな」


 相馬先輩が笑う。


「先輩まで!」


「でも必要だ」


 所長が言いました。


 私は顔を上げました。


「定義を間違えると、その先を全部間違える」


 今日二度目。


 短いのに、全部入っています。


 私はノートの一番上に書きました。


 ――行政手続法二条 定義。


 その下。


 少し迷って。


 今日の覚え書きだけを、一行。


 名前を確かめれば、役所の「駄目」は分解できる。


 相馬先輩が横から覗き込みます。


「格好つけたな」


「いいでしょう別に」


「もっと試験向けに書け」


「明日やります」


「今日やれ」


「所長と同じこと言わないでください」


 私はノートを閉じました。


 今日は、これでいい。


 たぶん。


 行政法の定義は、人を縛るための言葉ではありません。


 むしろ逆です。


 これは申請なのか。


 届出なのか。


 処分なのか。


 行政指導なのか。


 名前が違えば、役所にできることも、相手が受ける効果も違う。


 その境界を曖昧にすると、


 お願いが命令になり、


 通知が許可になり、


 ただの窓口対応が絶対の決定に見えてしまう。


 条文は冷たい。


 定義なんて、特に冷たい。


 人情も物語もなく、


 「この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は……」


 なんて始まります。


 受験生を寝かしつける気満々です。


 でも。


 その冷たい線引きがあるから、


 人の生活を止めるなら、止めるだけの名前と根拠を出してください、


 と言える。


 それはたぶん、


 制度が人を守るときの、一番地味な形です。


 窓の外では、駅前商店街の灯りがつき始めていました。


 三日後。


 その片隅に、小さな子ども服店の灯りも加わる予定です。


 まだ何も決着していない。


 再整備の話もある。


 将来、店を移ることになるかもしれない。


 でも少なくとも。


 正体の分からない「市が駄目と言ったから」で、


 今日の段階から店を諦める必要はなくなった。


 それだけで、十分大きい。


「こはる」


「はい」


 相馬先輩が、最後のあんパンを持ち上げました。


「これは届出だ」


「何のですか」


「俺がこれを食うという通知」


「待ってください」


「許可は求めてない」


「その理屈、今日やったばっかりなのに腹立つ!」


「じゃあ止めてみろ」


「不利益処分しますよ」


「お前に権限あるのか?」


「……ない」


「じゃ、食う」


「待って! 所長!」


 奥から新聞をめくる音。


「所長、相馬先輩が最後のあんパンを!」


「こはる」


「はい!」


「先に取れ」


「救済が自力救済!」


 私は椅子を蹴って立ち上がりました。


 行政手続法二条。


 定義は大事。


 そしてどうやら、


 この事務所では権利の実現に多少の機動力も必要らしいです。

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