[地方自治法・関与(助言、勧告、是正要求、是正勧告、是正指示、代執行)]現場編 「県の通達だから、全部従うしかありません」の罠。昭和六十三年、“上からの指示”の射程を切り分けろ
上から言われた。
組織の中では、それだけで話が終わることがあります。
けれど。
法律の世界では、本当はその次を聞かなければなりません。
――誰が。
――誰に。
――何の権限で。
――どこまで言ったのか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「今年は、祭りをやるなってことなんでしょうか」
その日の相談者は、一枚の通知を握ったまま、途方に暮れていました。
宮下澄江さん。
五十八歳。
湖西駅前商店会の会計係。
駅前で乾物屋を営んでいます。
毎年十月。
商店会では駅前広場の一角を借りて、小さな夕市を開いていました。
焼き団子。
五平餅。
金魚すくい。
古本。
手作りの竹細工。
子ども向けの輪投げ。
町内会の婦人部が甘酒を出し、商店街の電器屋さんが延長コードを引く。
華やかな観光祭りではありません。
新聞の一面にも載りません。
でも。
「三十年近くやってるんです」
宮下さんは言いました。
「駅前に新しい店が増えても、古い店が減っても、これだけは毎年やってきたんです」
ところが今年。
市役所へ駅前広場の使用申請を出したところ、
返ってきたのが、この通知。
私は読み上げました。
「『県からの露店等に関する衛生管理徹底の通知を踏まえ、本年度の駅前夕市については開催を認めない』」
「はい」
「全部?」
「全部です」
「食べ物だけじゃなく?」
「古本も竹細工も金魚すくいも駄目だそうです」
「……大胆ですね」
私はもう一度通知を見ました。
県からの通知。
衛生管理。
露店。
開催を認めない。
この四つの言葉が、嫌な感じにつながっています。
「原因、何かあったんですか」
「隣の市のお祭りで、食中毒が出たそうです」
「なるほど」
「それで県から通知が来たって」
「宮下さんたちの夕市では?」
「食中毒なんて一度もありません」
「食品を出す店は何軒です?」
「今年は七軒くらいです」
「じゃあ、それ以外は」
「十五軒くらい」
私は鉛筆を止めました。
衛生上の問題。
それは分かります。
食品を扱うなら、当然です。
保健衛生に関する許可や届出が必要なら、そこも守らなければならない。
でも。
衛生上の通知が来た。
だから古本も竹細工も輪投げも含めて、
祭りそのものを中止する。
……本当にそこまで行くのでしょうか。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「何を考えてる」
「国とか県の関与です」
「関与?」
「はい」
私は少し胸を張りました。
これは知っている。
現代の地方自治法。
国と地方公共団体は、上下ではなく対等・協力。
国が地方へ関与する場合は、
法律または法律に基づく政令の根拠が必要。
法定主義。
しかも、
目的達成に必要な最小限度。
地方の自主性、自立性への配慮。
比例原則。
さらに。
技術的助言。
勧告。
是正の要求。
是正の指示。
場合によっては代執行。
関与に不服があるなら国地方係争処理委員会――
「じゃあ」
私は勢いよく言いました。
「県の通知が単なる助言や勧告なら、市はそれだけで全部中止にする必要はありません。もし法的拘束力のある関与なら、その根拠法を確認して――」
「待て」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今、何て言った」
「県の関与について」
「その前」
「助言、勧告、是正の要求、是正の指示――」
「その話、どこの法律だ」
嫌な予感がしました。
「地方自治法です」
「いつの」
来た。
私は固まりました。
相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけます。
「朝比奈」
「……はい」
「今は何年だ」
「昭和六十三年です」
「もう一回」
「昭和六十三年」
「国と地方は?」
私は口を開きます。
対等・協力。
と言いかけて。
閉じました。
「……違う」
「そうだ」
相馬先輩が椅子にもたれました。
「未来じゃどうか知らんがな」
低い声。
「今は、機関委任事務が生きてる時代だ」
頭の中で、
現代地方自治法のページが一斉に閉じました。
ばん。
ばん。
ばん。
はい。
またです。
未来知識、現場で死亡。
機関委任事務。
昭和の地方自治を勉強すると、必ず出てくる巨大な壁。
本来は国が行うべき事務を、
地方公共団体の長などに委任する。
そしてその場合。
知事や市町村長は、
地方公共団体の代表者というより、
国の行政機関として事務を処理する。
つまり。
「市長なのに、市の人じゃないみたいになる……」
「正確に言え」
「国の機関として扱われる」
「そういうことだ」
私は頭を抱えました。
「国地方係争処理委員会は」
「ない」
「是正要求は」
「お前が考えてる形じゃない」
「自治事務と法定受託事務は」
「その区分自体、まだねえ」
「指定管理者制度は」
「何で急にそれが出る」
「勢いです」
「ない」
全滅。
現代地方自治法、
昭和六十三年では未来予知にしか使えません。
「ひどい……」
「法律に文句言うな」
「だって現代なら、国の関与は法定主義で、必要最小限で、地方の自主性に配慮して――」
「だから未来の話をするな」
相馬先輩が机を指で叩きました。
「今のお前は、まだ生まれてもねえ制度を盾に市役所へ殴り込もうとしてたぞ」
「危なかった……」
「危ないどころか意味不明だ」
宮下さんが、おそるおそる手を上げました。
「あの」
「はい」
「つまり……県が言ったら、市は何でも従わなきゃいけないんですか」
私は答えられませんでした。
そこへ。
片桐所長が口を開きました。
「違います」
短い。
宮下さんが顔を上げます。
「でも、今のお話だと」
「機関委任事務なら、国や県の監督は強い」
所長は言いました。
「だからといって」
一拍。
「市役所の仕事が、全部機関委任事務になるわけではありません」
あ。
私は顔を上げました。
片桐所長が通知を指さします。
「切り分けろ」
「何をです?」
「県が何について通知した」
「露店の衛生管理です」
「市が何を拒否した」
「駅前夕市そのものの開催です」
「同じか」
私は通知を見ました。
違う。
食品衛生上の規制。
駅前広場の使用。
イベントそのものの開催。
それぞれ別の問題です。
「全部一枚にして考えるな」
所長が言いました。
「上から通知が来た。その一言で、何でも同じ法的効果になるわけじゃない」
相馬先輩がにやりとしました。
「そういうこった」
そして。
いつもの言葉。
「役所が偉いんじゃねえ」
相馬先輩が通知を指で弾きました。
「まして『県から来た紙』が偉いわけでもねえ」
「じゃあ?」
「根拠が偉いんだ」
私は鉛筆を握り直しました。
「まず確認ですね」
「ああ」
「県の通知の内容」
「うん」
「誰から誰宛てか」
「うん」
「法令上の根拠」
「うん」
「対象になっている事務」
「そうだ」
「そして、その通知が駅前広場の使用許可まで拘束する根拠があるのか」
相馬先輩が頷きました。
「やっと仕事になったな」
「最初から仕事してましたよ」
「未来の法律でな」
「傷口を広げないでください」
片桐所長が宮下さんを見る。
「市役所へ確認します」
「祭り、できますか」
「まだ分かりません」
いつもの答えです。
でも。
そのあと。
「ただ、市が『県に言われたから』というだけで全部を止めているなら、そこは確認する余地があります」
宮下さんは深く頭を下げました。
市役所二階。
総務課。
「今年はよく来ますね」
沢渡課長は、私たちを見るなり言いました。
「歓迎されてます?」
「来庁者としては」
「微妙な言い方ですね」
「実際、微妙です」
相変わらずです。
机の上に、
宮下さんの通知。
夕市の申請書。
過去三年分の使用許可書。
商店会が作った配置図。
そして市役所側から出してもらった県通知の写し。
沢渡課長が言いました。
「隣接市で集団食中毒が発生しました。県として露店営業の衛生管理を強化する方針です」
「そこは理解してます」
私が言いました。
「ならば――」
「でも」
私は県通知を指しました。
「ここに『駅前夕市そのものを中止せよ』とは書いてありません」
沢渡課長は目を細めました。
「食品を伴う催事について慎重な取扱いを求めています」
「はい」
「事故が起きてからでは遅い」
「それも分かります」
「では何が問題ですか」
強い。
やっぱり沢渡課長は雑に間違えません。
私たちが来ると分かっていたように、
必要な書類をもう揃えています。
相馬先輩が口を開きました。
「課長。県の通知は、何の事務について出された」
「食品衛生行政上の取扱いについてです」
「駅前広場の使用許可は」
「市の管理です」
「別だな」
「法的には別です」
即答。
やっぱり分かってる。
私は少し驚きました。
「じゃあ、どうして全部不許可にしたんです?」
「市として、事故防止の観点から一体的に判断したからです」
「県から命令されたわけではない?」
沢渡課長は、そこで初めて少し間を置きました。
「命令、という表現は正確ではありません」
来た。
「通知には強い指導的意味があります」
「でも」
私は言いました。
「少なくとも駅前広場の使用許可について、市が県の下請けとして処理しているわけじゃない」
「朝比奈さん」
「はい」
「『下請け』という言葉はやめてください」
「すみません」
「機関委任事務の説明として相馬先生あたりに吹き込まれましたね」
「なぜ分かるんです?」
「言葉遣いです」
相馬先輩が横で笑っています。
犯人、隠れる気がありません。
沢渡課長は県通知を指しました。
「いいですか。昭和六十三年の地方行政では、国や県の通達、指示、監督が現在より強く働く分野がある。それは事実です」
「はい」
「特に機関委任事務では、市長が国の機関として処理する場面もある」
「はい」
「ですが」
沢渡課長は私を見る。
「何でも『県の通達だから法的に絶対』と説明するのも雑です」
う。
敵から正論が飛んできた。
「私たちは今回、県通知に法的に直接拘束されたから駅前広場を不許可にした、と言っているわけではありません」
「じゃあ」
「県の衛生上の要請を踏まえ、市の管理判断として夕市全体を許可しなかった」
なるほど。
論点が変わりました。
県の命令か。
ではなく。
市自身の判断か。
そして、
その判断に合理性があるのか。
片桐所長が静かに聞きました。
「食品を扱わない十五店舗まで排除する理由は」
「催事として一体だからです」
「分離できないのか」
「運営上、難しいと判断しています」
「検討したか」
「担当課では」
「記録は」
一秒。
沢渡課長の視線が止まりました。
「確認します」
出ました。
片桐所長の嫌な質問。
――それ、考えた記録ありますか。
行政にとって、
考えた。
と、
考えたことが記録に残っている。
は別物です。
相馬先輩が商店会の配置図を広げました。
「見ろ」
赤鉛筆で区画が分けてあります。
食品。
物販。
遊戯。
休憩所。
「食品露店は七つ」
「ええ」
「非食品は十五」
「ええ」
「食い物の区域だけ分けられる」
「物理的には」
「手洗い場も別にできる」
「可能でしょう」
「衛生上の条件を付けることもできる」
「内容によります」
「なら」
相馬先輩の声が低くなります。
「何でゼロか百なんだ」
沢渡課長は答えません。
「県が衛生管理を強化しろって言った」
相馬先輩が続けます。
「分かった。だったら食品について厳しく確認しろ」
「……」
「必要な許可がなけりゃ出させるな」
「……」
「設備が足りなきゃ条件を付けろ」
「……」
「それでも危ねえなら、その店について止めろ」
そして、
配置図の非食品区域を指で叩きました。
「古本屋まで食中毒を起こすのか」
私は吹き出しそうになりました。
沢渡課長は真顔です。
「古本から食中毒が発生する可能性を理由にしているわけではありません」
「なら祭り全部を潰す話とは別だろ」
その瞬間。
私の中で、
現代地方自治法の教材にあった言葉が浮かびました。
必要最小限。
比例原則。
でも。
口には出しません。
それは平成十一年以降の関与制度を整理するための現代法の言葉です。
今は昭和六十三年。
そのまま条文上の武器として振り回したら、また相馬先輩に殴られます。
だから。
未来の言葉を、
今使える問いに翻訳する。
「課長」
「何でしょう」
「県が求めている目的は、食中毒防止ですよね」
「そうです」
「その目的を達成するために、本当に夕市全部を中止する必要がありますか」
沢渡課長が私を見る。
「食品を扱わない店まで止める必要がありますか」
「……」
「食品についても、衛生条件を厳しくして開催する方法を検討しましたか」
「……」
「その検討をしないまま全面不許可にしたなら」
一度息を吸う。
「それは県の通知に従った結果じゃなく、市が自分で選んだ判断ですよね」
部屋が静かになりました。
沢渡課長が眼鏡を上げます。
「そうですね」
認めた。
「ですから、その市の判断について説明していただきたいんです」
私は言いました。
「『県から通知が来たから』ではなく」
沢渡課長は、しばらく配置図を見ていました。
やがて。
「朝比奈さん」
「はい」
「少し良くなりましたね」
「何がです?」
「質問が」
「褒められた?」
「評価しただけです」
「それを世間では褒めたと言うんです」
「行政文書では言いません」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「課長」
「何でしょう」
「もう一つだ」
「どうぞ」
「この県通知。『衛生確保が困難な場合には開催方法の見直しを指導すること』とあるな」
「あります」
「『一律中止』じゃねえ」
「ええ」
「むしろ開催方法を見直せって書いてある」
「その読み方もできます」
「その読み方しかできねえだろ」
「文脈があります」
「じゃあ文脈ごと出せ」
ヒリヒリする。
でも。
面白い。
法律の勝負というより、
文章の射程を一行ずつ削っていく作業です。
上から来た通知。
県の方針。
安全のため。
行政判断。
そういう大きな言葉を、
誰が。
何について。
どこまで。
と切っていく。
すると、
最初は巨大に見えた「県の通達」が、
少しずつ実物大になっていきます。
片桐所長が言いました。
「課長」
「はい」
「こちらから書面を出す」
「内容は」
「開催方法の再検討要請」
「異議申立てですか」
「違う」
即答。
「駅前広場の使用判断について、全面禁止以外の方法を検討するよう求める」
「法的拘束力はありませんよ」
「承知している」
「提出されても、結論は変わらないかもしれません」
「それも承知している」
所長が配置図を畳みました。
「ただし市が自分で判断した以上」
一拍。
「市自身が、その判断を説明できなければならない」
沢渡課長は何も言いませんでした。
事務所へ戻るなり。
「書け」
相馬先輩が言いました。
「もうですか」
「熱いうちにやれ」
「鉄じゃないんですから」
「役所の記憶は冷えるのが早えぞ」
妙に説得力があります。
私はタイプライターの前に座りました。
題名。
――駅前夕市開催に係る再検討申入書。
片桐所長が横から言います。
「県を責めるな」
「はい」
「市も責めるな」
「はい」
「食中毒防止の必要性は認めろ」
「はい」
「その上で分けろ」
食品衛生行政上の要請。
駅前広場の管理判断。
食品を扱う出店。
食品を扱わない出店。
全面禁止。
条件付き開催。
代替措置。
そして。
県通知のどの文言を根拠に、
市がどこまで判断したのか。
書類は、
怒りを書くほど弱くなることがあります。
宮下さんの気持ちは、
「三十年続けてきた祭りを、紙一枚で潰さないでください」
です。
でも申入書には、
それだけを書かない。
過去の開催実績。
事故歴。
食品出店数。
非食品出店数。
配置図。
手洗い設備。
食品区画の分離案。
生ものを扱わない案。
加熱食品に限定する案。
責任者名簿。
衛生担当者の配置。
必要な許可・届出を受けること。
そして、
食品以外の出店まで一律に排除する必要性について再検討を求める。
「……これ」
私は途中で手を止めました。
「何だ」
「法律論というより、企画書みたいですね」
「そうだな」
「行政書士の仕事ですよね?」
「役所を動かす紙なら、何でも条文だらけにすりゃいいってもんじゃねえ」
相馬先輩が言いました。
「相手が『危ない』って言ってんなら」
「はい」
「危なくないやり方を紙にして持ってけ」
なるほど。
法律で壁を殴る。
だけではない。
壁が立っている理由を見つけ、
その理由を消す書類を作る。
これも行政書士の仕事です。
「ただ」
相馬先輩が続けました。
「最後に一本入れろ」
「何を?」
「県通知と市の判断を混ぜんな、ってところだ」
私は頷きました。
書きます。
県通知の趣旨を尊重し、
必要な衛生措置を講ずることに異議はない。
一方、
当該通知が駅前広場における非食品出店を含む催事全体の一律中止を求めるものかについては、その根拠及び必要性が明らかではない。
よって、
食品衛生上必要な措置と、
市の広場管理上の判断を区別し、
条件付き開催を含め再検討されたい。
「どうです」
相馬先輩が読みます。
「まあまあだ」
「褒めました?」
「まだだ」
「じゃあ何点?」
「六十二」
「微妙!」
「所長が削って七十五だ」
「伸び幅が悲しい」
片桐所長が赤鉛筆を持ってきました。
結果。
十二行消えました。
「削りすぎでは?」
「長い」
「私の努力が」
「読ませる努力をしろ」
「はい……」
三日後。
申入書と開催改善案を市役所へ提出しました。
食品区画を一か所へ集約。
加熱調理のみ。
生もの禁止。
手洗い設備を増設。
ゴミ容器を各店に配置。
食品取扱責任者一覧。
体調不良者は調理に従事させない。
非食品区画とは通路を挟んで分離。
必要な衛生指導には従う。
そして。
もし食品出店の一部について条件を満たせないなら、
その出店だけを外す。
祭り全部は止めない。
「ずいぶん作りましたね」
沢渡課長が言いました。
「宮下さんたちにも協力してもらいました」
「保健関係の確認は」
「必要な手続は別途確認します」
「分かりました」
沢渡課長は書類を閉じました。
「担当課と再協議します」
「県にも?」
「必要なら確認します」
「市として?」
「市としてです」
私は少し笑いました。
「何です」
「いえ」
「何か?」
「前は『県からの通知を踏まえて』で終わってたので」
「今も踏まえています」
「でも、その上で市が判断する」
「当然です」
「最初からそう言ってくださいよ」
「最初からそういう意味です」
「絶対伝わりませんでした」
「行政文書には限界があります」
「便利な逃げ方ですね」
「事実です」
この人。
本当に一枚上です。
一週間後。
宮下さんが事務所へ飛び込んできました。
「先生!」
相馬先輩が新聞から顔を上げます。
「どうした」
「出ました」
「何が」
「許可!」
私は椅子から立ち上がりました。
「夕市?」
「はい!」
「全部?」
「条件付きですけど!」
通知書を見る。
開催を認める。
ただし。
食品出店については衛生上の条件を満たすこと。
市及び関係機関の指導に従うこと。
条件を満たさない食品出店については出店を認めないことがある。
そして。
非食品出店については、
従前の配置を一部変更することで使用を認める。
「やった……」
思わず声が出ました。
「全面禁止、撤回です」
「ええ!」
宮下さんが笑います。
「団子屋のおばちゃん、泣いちゃって」
「まだ食品の条件ありますよ」
「いいんです」
「厳しくなるかもしれません」
「守ります」
即答でした。
「守ってやれるなら、それでいいんです」
その言葉に、
私は少し黙りました。
そうか。
この人たちは、
規制が嫌だったわけじゃない。
衛生管理が嫌だったわけでもない。
食中毒を防ぐのは当然だと思っていた。
ただ。
危険がある。
という一言で、
安全にできる部分まで全部消されるのが嫌だった。
「課長、何て言ってました?」
「担当課で検討したら」
宮下さんが通知を見ながら言います。
「県の通知は食品衛生上の注意強化が主で、市が夕市全部を中止しなきゃいけないものではないって」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「最初からそうだ」
「でも市も怖かったんでしょうね」
宮下さんが言いました。
「また食中毒が出たらって」
私は頷きました。
たぶん。
悪者はいません。
隣の市で食中毒が出た。
県が注意を出した。
市は事故を恐れた。
全部中止すれば、一番安全です。
役所だけを考えれば。
何も開催しなければ事故は起きない。
でも。
それを積み重ねたら、
町から何もなくなってしまう。
行政の安全。
住民の活動。
どちらか一方だけでは回らない。
だから。
必要なところを厳しくして、
必要のないところまで潰さない。
その線を、
法律と事実で引く。
その年の十月。
私たちは夕市を見に行きました。
「こはる」
「はい」
「食うなよ」
「何をです?」
「まだ仕事中だ」
「見回りですよね?」
「そうだ」
「衛生状態を確認するには実食が必要です」
「必要ねえ」
「行政調査です」
「お前は行政庁じゃねえ」
ひどい。
駅前広場には、
赤い提灯が並んでいました。
食品区画には真新しいポリタンク。
手洗い用の水。
石鹸。
蓋つきのゴミ容器。
団子屋のおばさんは頭巾までしています。
「朝比奈ちゃん!」
「こんばんは」
「これ食べてきな」
「ほら! 現場から要請が!」
「有料だぞ」
相馬先輩。
夢がありません。
少し離れたところでは、
古本屋。
竹細工。
金魚すくい。
輪投げ。
子どもたちの笑い声。
市役所の職員も来ています。
腕章をつけて巡回中。
その中に。
「沢渡課長」
「こんばんは」
「来るんですね」
「事故が起きたら困りますから」
「祭り好きとか」
「違います」
「団子、食べました?」
「業務上の確認です」
「食べたんですね」
「加熱状態の確認です」
「二本?」
「比較のためです」
それは絶対普通に食べています。
相馬先輩が横から言いました。
「課長」
「何でしょう」
「県から何か言われたか」
「報告はしました」
「で?」
「衛生対策を講じた上で開催するのであれば、特に異論はないとのことです」
「ほらな」
「結果論です」
「悔しいか」
「別に」
沢渡課長は広場を見渡しました。
「全面中止の方が、行政としては楽です」
突然、
本音みたいなことを言いました。
「でしょうね」
「条件を決める。確認する。巡回する。事故が起きれば説明する」
「面倒ですね」
「非常に」
「それでも開催した」
「市が広場を管理するというのは」
沢渡課長が言いました。
「何もさせないことではありませんから」
私は少し驚きました。
相馬先輩は、
当然みたいな顔をしています。
「ただし」
沢渡課長が続けます。
「事故が起きたら、来年はもっと厳しくします」
「そこはお願いします」
「朝比奈さん」
「はい」
「あなたはどちら側なんですか」
「住民側ですけど、安全側でもあります」
「欲張りですね」
「行政書士なので」
「意味が分かりません」
私も言ってから少し思いました。
帰り道。
駅前の提灯が少しずつ遠くなります。
私は相馬先輩に聞きました。
「先輩」
「何だ」
「今日の件」
「うん」
「現代だったら、考え方が全然違いますよね」
「あ?」
「今よりずっと、国と地方の関係が整理されてる」
「未来の話か」
「はい」
「今は聞かん」
「即答」
「今夜は祭りだ」
「珍しく情緒的ですね」
「団子食い損ねた」
「そこですか」
でも。
私は頭の中で整理していました。
未来の地方自治法では、
国と地方は対等・協力。
国や都道府県が地方公共団体へ関与するなら、
法律や政令に根拠が必要。
しかも必要最小限。
助言。
勧告。
是正要求。
是正指示。
代執行。
強さも、対象も、手続も細かく分かれている。
争うための係争処理制度まである。
でも。
昭和六十三年には、
その整った地図がまだありません。
機関委任事務。
強い指揮監督。
通達。
上下関係。
国と地方の境目は、
今よりずっと国側へ傾いている。
だからこそ。
この時代では、
もっと泥臭く確認しなければならない。
その仕事は本当に国から委任された事務なのか。
誰が誰を監督できるのか。
その通達は何について出されたのか。
市自身が決める部分はどこなのか。
上から来た紙の射程は、
どこまでなのか。
「今日の教訓」
私は呟きました。
「上から来た紙ほど、根拠と射程を確認する」
「何だそれ」
「覚え書きです」
「まだ法理編じゃねえぞ」
「法理編?」
「何でもねえ」
相馬先輩が前を歩いていきます。
私は振り返りました。
駅前では、
まだ提灯が揺れています。
食品区画には手洗い用の水。
古本屋の前には子ども。
団子屋からは醤油の焦げる匂い。
規制は消えませんでした。
県の通知も消えていません。
市役所が折れたわけでもありません。
ただ。
全部駄目。
だったものが、
危ないところは厳しく。
できるところは残す。
に変わった。
法律は、
いつも敵を倒してくれるわけではありません。
でも。
大きすぎる「駄目」を、
本当に駄目なところまで小さく切ることはできます。
それだけで。
残せるものがあります。
「こはる」
「はい?」
相馬先輩が振り返りました。
「何ぼーっとしてる」
「余韻です」
「置いてくぞ」
「待ってくださいよ」
「事務所戻ったら報告書な」
「今から?」
「今から」
「祭りの余韻が!」
「仕事だ」
「せめて団子一本!」
「自腹」
「そこは奢ってください!」
そのとき。
後ろから声がしました。
「朝比奈さーん!」
宮下さんです。
紙袋を持って走ってきます。
「これ!」
「何です?」
「売れ残り!」
受け取る。
温かい。
開ける。
団子。
三本。
相馬先輩の目が変わりました。
「宮下さん」
「はい?」
「行政の公平性って知ってます?」
「お前が言うな!」
一本。
私。
一本。
相馬先輩。
そして一本。
「所長の分ですね」
「……」
「先輩?」
「半分ずつにしないか」
「駄目です」
「助言だ」
「拒否します」
「勧告」
「拘束力なし」
「指示」
「根拠法は?」
「代執行するぞ」
「団子を!?」
私は紙袋を抱えて逃げました。
「待て、こはる!」
「嫌です!」
「一本だけだ!」
「必要最小限にしてください!」
「意味が違う!」
昭和六十三年。
現代の関与制度は、まだありません。
是正要求も。
是正指示も。
国地方係争処理委員会も。
今の形では、まだ存在しない。
その代わり。
機関委任事務という巨大な仕組みが、
国と地方を強い上下関係でつないでいる。
でも。
だからといって。
「上から言われました」
その一言で、
すべての判断まで上へ預けていいわけではありません。
誰の仕事か。
誰の権限か。
どこまで従うのか。
その境界を探すこと。
たぶん。
地方自治というのは、
その境界を諦めずに引き続けることです。
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