[地方自治法・契約(一般競争入札、指名競争入札、随意契約、せり売り)]現場編 「昔からの業者だから、随意契約でいい」の嘘。一般競争入札が原則になる理由と、“例外”を使う役所の説明責任
役所が物を買うとき。
いちばん怖い言葉は、
「いつものところで」
かもしれません。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「出来レースですよ、こんなの!」
朝一番。
事務所の引き戸を開けるなり、男の人はそう言いました。
四十代くらい。
作業着。
日に焼けた顔。
脇には、茶色い封筒。
そして手には、一枚の市広報。
「どうぞ、まず座ってください」
私――朝比奈こはるが椅子を勧めると、
「座ってられません!」
「では立ったままでも」
「いや、座ります」
座るんですね。
男の人は勢いよく椅子に腰を下ろしました。
「山根義男です。駅南で古物商やってます」
「古物商」
「中古の機械とか、事務用品とか、市場に流す仕事です」
山根さんは市広報を机に叩きつけます。
「市が古い備品をまとめて処分するんです」
「備品?」
「市役所と旧公民館のです。机、椅子、棚、タイプライター、ストーブ、それから軽トラック二台」
「結構ありますね」
「あるなんてもんじゃない。倉庫一棟分ですよ」
駅前再整備に伴って、
旧公民館と市役所の倉庫整理が行われるらしい。
使わなくなった備品をまとめて売却する。
そこまでは普通です。
「それで、何が問題なんですか」
「売り先がもう決まってるんです」
山根さんは言いました。
「東浜商会」
聞いたことのある名前でした。
市内ではそこそこ大きな古物業者です。
「入札は?」
「ありません」
「見積合わせは?」
「俺には来てません」
「公告は?」
「ない」
「じゃあ、どうやって?」
「随意契約だそうです」
私は瞬きをしました。
「随意契約……」
「市役所に聞いたら、『長年取引していて信用があるから』って」
その瞬間。
相馬先輩の鉛筆が止まりました。
向かいの机。
朝から煙草を吸いながら伝票を整理していた相馬誠司先輩が、ゆっくり顔を上げます。
「何だと」
「長年取引していて、信用があるから」
「それだけか」
「あと、『品物の種類が多いから、一括して引き取れる業者じゃないと困る』って」
「金額は」
「予定では百八十万円くらいだって聞きました」
昭和六十三年の百八十万円。
少なくありません。
私は頭の中で地方自治法のページをめくります。
地方公共団体の契約。
売買。
賃貸。
請負。
その他。
契約方法。
一般競争入札。
指名競争入札。
随意契約。
せり売り。
「でも」
私は言いました。
「随意契約そのものは認められてますよね」
相馬先輩がこちらを見ました。
「誰も禁止とは言ってねえ」
「ですよね」
「問題は?」
「……使える場合が限られてる」
「そういうことだ」
一般競争入札が原則。
それ以外は例外。
指名競争入札も。
随意契約も。
好きな業者を適当に選んでいい制度ではありません。
法律が、
あるいは法律を受けた政令が、
例外として認めている場合に使う。
「山根さん」
私は尋ねました。
「東浜商会じゃないと扱えない特殊な品物なんですか」
「机ですよ」
「はい」
「椅子ですよ」
「はい」
「ストーブですよ」
「はい」
「軽トラックですよ」
「はい」
「どこが特殊なんです」
「……確かに」
「うちだって全部買えますよ」
山根さんは身を乗り出しました。
「値段だって、俺なら二百二十万出す」
「え?」
「東浜は百八十万だって聞いた」
「四十万円違うんですか」
「だから腹が立ってるんです」
なるほど。
ここで話が変わってきます。
市が物を売る。
つまり、市にとって高く売れるほうが通常は有利です。
もし本当に、
競争できる物なのに、
特定業者とだけ話をして、
より低い価格で売ろうとしているなら。
「納税者から見たら」
私は言いました。
「四十万円、市に入るはずのお金が入らない可能性がある」
「そうでしょう!」
山根さんが机を叩きました。
「それを俺は言ってるんです!」
「机を叩くのは一回までにしてください」
「すみません」
素直です。
「じゃあ監査に入ってもらえばいいんじゃないですか」
山根さんが帰ったあと。
私は勢いよく言いました。
「契約の適正性を第三者にチェックしてもらうんです。外部監査――」
「ねえよ」
相馬先輩。
即答。
「はい?」
「外部監査制度なんざ、今はねえ」
「……あ」
やりました。
またです。
未来知識。
現代なら。
自治体の監査制度には、外部の専門家を活用する仕組みがあります。
でも。
昭和六十三年。
まだありません。
「外部監査制度ができるのって……」
「未来の話は知らん」
「ですよね」
私は机に額をつけました。
「便利な制度、だいたいまだない……」
「昭和を何だと思ってんだ」
「法制度のベータ版」
「怒られるぞ」
片桐所長が奥から出てきました。
手には地方自治法の六法。
「こはる」
「はい」
「外部監査がないから仕事が終わるのか」
「終わりません」
「では何を見る」
私は顔を上げました。
「契約方法」
「そうだ」
所長が六法を開きます。
「役所の契約は、役所の自由契約ではない」
地方公共団体も契約をします。
紙を買う。
道路工事を頼む。
建物を借りる。
土地を売る。
備品を処分する。
でも。
民間会社が、
「社長の知り合いだからここに頼もう」
と決めるのとは訳が違います。
使っているのは、
公金。
売るのは、
公有財産。
だから契約方法にもルールがある。
「一般競争入札が原則だ」
相馬先輩が言いました。
「資格のある奴を広く集めて競争させる」
「はい」
「売るなら?」
「高い値段を付けた人が有利」
「買う側の契約なら?」
「逆に、条件を満たした中で価格などを競わせる」
「そうだ」
つまり、
競争させる内容は契約によって違います。
市が物を売るなら、
より高く買う人。
市が工事を発注するなら、
適切な条件のもとで価格を競う。
でも根っこは同じ。
競争。
「じゃあ指名競争入札は?」
所長が聞きました。
「市が一定の条件で業者を何社か指名して、その業者同士で競争させる」
「随意契約」
「競争をせず、特定の相手を選んで契約する」
「せり売り」
「口頭とか挙手で値段を競わせる……」
私は一瞬止まりました。
「これは動産の売払いですよね」
「そうだ」
所長が頷きます。
せり売り。
いわゆる競り。
「百円!」
「百二十円!」
「百五十円!」
みたいに声を上げたり、
札や挙手で競争する。
ただし何でも競りにできるわけではない。
地方公共団体の契約方法として使えるのは、
動産の売払い。
今回の机や椅子、ストーブなどは動産です。
「じゃあ、せり売りにすればいいのでは?」
私が言うと、
相馬先輩が首を振りました。
「勝手に方法を決めるな」
「はい」
「問題は、役所がどの契約方法を選べるかだ」
そこです。
一般競争入札。
指名競争入札。
随意契約。
せり売り。
四つ並んでいるから、
一見すると四択に見える。
好きなのを選べるように見える。
でも違う。
原則。
一般競争入札。
例外。
それ以外。
「随意契約を使った理由を確認する」
片桐所長が言いました。
「そこからだ」
午後。
市役所二階。
総務課。
「またですか」
沢渡課長は、私たちを見るなり言いました。
「まだ何も言ってません」
「三人で来た時点で、何かあるでしょう」
鋭い。
今日も灰色の背広。
今日も細い眼鏡。
今日もこちらを歓迎する気は一ミリもなさそうです。
相馬先輩が椅子に座ります。
「旧公民館の備品売却」
「東浜商会の件ですか」
「知ってるんじゃねえか」
「総務課案件ですから」
沢渡課長は書類を一冊取り出しました。
「随意契約を予定しています」
予定。
まだ契約前。
そこは大きい。
「理由は?」
相馬先輩が聞きます。
「一括処分です」
「それだけか」
「搬出時期が限られています。駅前整備に伴う倉庫移転があり、今月中に撤去する必要があります」
「東浜商会じゃなきゃ間に合わない?」
「これまでにも市の不用物品処分を請け負っており、履行実績があります」
「ほかの業者には聞いたのか」
「今回は聞いていません」
「なぜ」
「事務負担と日程を考慮したためです」
完璧に役所っぽい答えです。
悪い意味で。
私は口を開きました。
「課長」
「何でしょう」
「随意契約って、市が便利だから使えるんでしたっけ」
沢渡課長の目が、少しだけ細くなりました。
「便利、という言い方はしていません」
「でも、今の説明だと」
私は指を折りました。
「慣れている」
一つ。
「一括で引き取れる」
二つ。
「事務が楽」
三つ。
「日程が詰まっている」
四つ。
「これだけです」
「朝比奈さん」
「はい」
「随意契約が違法だと言いたいんですか」
「まだ言ってません」
沢渡課長が黙ります。
「だから確認したいんです」
「何を」
「この案件が、随意契約を使っていい例外に本当に入るのか」
地方自治法は、
一般競争入札を原則としています。
そして。
指名競争入札。
随意契約。
せり売り。
これらは、
政令で定める場合に限って使える。
つまり。
「東浜商会が信用できる」
それは重要でしょう。
「昔から付き合いがある」
それも役所として安心材料でしょう。
でも。
信用できる業者だから、
競争を飛ばしていい。
とは限らない。
「相手方を特定しなければ契約の目的を達成できない事情がありますか」
私が聞くと、
沢渡課長は答えました。
「一括搬出能力があります」
「東浜商会だけに?」
「現時点で、市が実績を把握している業者です」
「把握してないだけじゃなくて?」
一瞬。
空気が変わりました。
相馬先輩が横目で私を見ます。
でも止めません。
私は続けます。
「山根商店も、全部引き取れると言っています」
「山根さんが?」
「はい」
「いつまでに」
「市が指定する期間内で可能だと」
「価格は」
「二百二十万円」
沢渡課長の手が止まりました。
「……二百二十?」
「東浜商会は百八十万円ですよね」
沈黙。
「どこでその数字を」
「それは答えられません」
山根さんの情報です。
勝手に情報源を晒すわけにはいきません。
「四十万円差があります」
私は言いました。
「もし条件を満たす業者が複数いるなら、市が競争の機会を閉じることで、もっと高く売れる可能性を捨てることになります」
「価格だけで契約は決まりません」
沢渡課長。
さすがです。
すぐ返してきます。
「搬出能力、信用、期間、現場対応。価格以外の事情もあります」
「はい」
「安易に最高価格だけで決めればいいという話でもない」
「そのとおりです」
私は頷きました。
沢渡課長が少し意外そうな顔をします。
「でも」
私は続けました。
「だったら、なおさら比較した記録が必要じゃないですか」
「……」
「東浜商会しかできない、と判断したのなら、その根拠」
「……」
「山根商店では駄目だと判断するなら、その理由」
「……」
「随意契約という例外を使うなら、例外に当たる事実を残しておかないと」
私は机の書類を見ました。
「『昔から使っている業者だから』で終わったら、一般競争入札を原則にした意味がなくなります」
沢渡課長は黙りました。
相馬先輩が煙草を取り出しかけ、
庁舎内なのを思い出して戻しました。
「課長」
低い声。
「役所が偉いんじゃねえ」
「……」
「条例が偉いんだ。法律が偉いんだ」
出ました。
相馬先輩の自治法モード。
「随契は役所の近道じゃねえぞ」
「承知しています」
沢渡課長の声が少し硬くなります。
「なら、もう一度聞く」
相馬先輩が言いました。
「この契約、随契じゃなきゃ駄目なのか」
長い沈黙。
沢渡課長は書類を閉じました。
「確認します」
「何を」
「契約方法の選定理由です」
「最初から確認してなかったのか」
「担当側から上がってきた資料は確認しています」
沢渡課長は淡々と言いました。
「ただし、新たに競争可能な業者が存在するのであれば、前提事実が変わります」
私は少し驚きました。
この人は、
自分たちが間違っていた、
とは言いません。
でも。
前提事実が変わった。
そういう言葉で、
判断を動かせる人です。
「山根さんから」
沢渡課長が言いました。
「正式な引取り条件と価格を書面で提出してもらえますか」
「何のために?」
「比較資料です」
「随意契約を取りやめるんですか」
「まだ何も決めていません」
相変わらず固い。
でも。
扉が少し開きました。
「見積書だけじゃ足りねえ」
事務所へ戻ると、
相馬先輩はすぐに言いました。
「はい」
「相手に『二百二十万出します』って言わせるだけなら誰でもできる」
「じゃあ何を付けます?」
「履行能力」
山根商店が、
本当に期日までに全量を搬出できるのか。
車両。
人員。
保管場所。
古物商許可。
再販売経路。
軽トラックの名義変更対応。
廃棄対象が混ざった場合の取扱い。
全部。
「細かい……」
「随契ひっくり返そうってんだ。細かくて当たり前だ」
片桐所長も言いました。
「市に逃げ道を与えるな」
「逃げ道?」
「山根商店は価格だけ高い。履行できるか分からない。そう言われたら終わる」
「ああ」
「だから先に潰す」
実務。
怖い。
でも面白い。
私は山根さんに電話しました。
「人員は?」
『六人出せます』
「トラックは?」
『二トン車三台』
「今月中?」
『一週間あれば』
「保管場所」
『駅南倉庫に入る』
「軽トラック二台は?」
『買い取る。名義もすぐやる』
「全部書面にしてください」
『全部?』
「全部です」
『値段だけじゃ駄目なんですか』
「駄目です」
『面倒ですね』
「役所の契約に割り込もうとしてるんですよ」
『割り込むって言い方』
「競争に参加するんです」
『最初からそう言ってくださいよ』
「すみません」
三時間後。
山根さんが書類を持ってきました。
速い。
ものすごく速い。
「本気ですね」
「四十万ですから」
「そこですか」
「商売人ですから」
潔い。
私たちは、
価格。
搬出日程。
車両。
人員。
保管場所。
許可関係。
過去の取引実績。
全部を整理しました。
そしてもう一枚。
市宛ての申入書。
内容は単純です。
今回の不用物品売却について、
特定業者との随意契約を予定していると聞いている。
しかし、同一条件で履行可能な事業者がほかにも存在する。
一般競争入札を原則とする地方自治法の趣旨から、
随意契約の要件該当性を再検討されたい。
必要なら、
一般競争入札。
あるいは、
法令上許される適切な競争方法への変更を求める。
「せり売りって書かないんですか?」
私が聞くと、
片桐所長は首を振りました。
「こちらが契約方法まで決めるな」
「でも動産の売払いなら、せり売りも」
「可能性はある」
「じゃあ」
「市が決めることだ」
なるほど。
行政書士が、
「この方法で契約しろ」
と発注者の立場に入り込むわけではない。
こちらが言えるのは、
随意契約の要件を満たしているのか。
競争を排除する合理的な理由があるのか。
そこを問い直すこと。
「行政書士は契約の監督官じゃない」
所長が言いました。
「書類で問いを置く」
問いを置く。
いい言葉です。
「役所が答えに困るくらい正確な問いをな」
相馬先輩が付け足しました。
急に物騒。
二日後。
沢渡課長から電話がありました。
『朝比奈さん』
「はい」
『山根商店の資料、確認しました』
「どうでした?」
『履行能力については問題なさそうです』
「じゃあ」
『結論を急がないでください』
「はい」
『契約担当と再協議しました』
私は受話器を強く握りました。
『今回の随意契約は見送ります』
「……本当ですか?」
『一般競争入札に切り替える方向です』
「一般競争入札」
『公告期間との関係で搬出日程も再調整します』
「でも、今月中に倉庫を空けないと駄目なんじゃ」
『一週間延期します』
「できるんですか」
『施設管理側と調整しました』
私は黙りました。
つまり。
絶対に間に合わない。
だから競争できない。
そう思っていた期限も、
調整すれば動いた。
『朝比奈さん』
「はい」
『一つ勘違いしないでください』
「何でしょう」
『随意契約は悪ではありません』
「分かっています」
『必要な場面はあります』
「はい」
『競争に適さない契約もある。少額な契約や緊急の場合など、法令が認める場面もある』
「はい」
『今回問題だったのは』
少し間。
『随意契約そのものではなく、競争を省く理由が十分に整理されていなかったことです』
私は思わず笑いました。
「課長」
『何ですか』
「それ、ノートに書きたい台詞です」
『何の話ですか』
「こっちの話です」
『……では』
電話が切れました。
今日も合理的。
今日も冷たい。
でも。
間違いを守るために意地を張る人ではありません。
一週間後。
市役所前の掲示板に、
不用物品売却の公告が貼られました。
一般競争入札。
対象。
旧公民館・市役所不用備品一式。
机。
椅子。
書棚。
タイプライター。
暖房器具。
車両二台。
参加資格。
搬出条件。
日時。
場所。
山根さんは、
掲示板の前で腕を組んでいました。
「出ますよ」
「もちろん」
私が言うと、
「勝てると思います?」
「知りません」
「そこは『頑張りましょう』とか言うところじゃないんですか」
「入札なので」
「冷たいなあ」
「競争に参加できるところまでが今回の仕事です」
「なるほど」
山根さんは笑いました。
「勝たせる仕事じゃない」
「はい」
それが大事です。
行政書士が、
山根さんを落札させるために市を動かしたわけではない。
東浜商会を追い出すためでもない。
特定の誰かを勝たせるんじゃない。
競争すべきなら、
競争させる。
ただそれだけ。
入札当日。
私は事務所で電話番をしていました。
「気になります」
「仕事しろ」
相馬先輩。
「山根さん、いくら入れると思います?」
「知らん」
「東浜商会は?」
「知らん」
「参加業者何社ですかね」
「知らん」
「先輩、今日ぜんぶ知らないですね」
「入札前の他人の値段を知ってたら、そっちのほうが問題だ」
「確かに」
ぐうの音も出ない。
昼前。
電話。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『山根です』
「どうでした!?」
『負けました』
「えっ」
私は立ち上がりました。
相馬先輩がこっちを見る。
『東浜商会、二百三十八万』
「山根さんは?」
『二百三十万』
「八万円差……」
『いやあ、やられました』
声は、
思ったより明るい。
「悔しくないんですか」
『悔しいですよ』
「ですよね」
『でもね』
山根さんが笑いました。
『百八十万だったはずの物が、二百三十八万で売れたんでしょう?』
「……はい」
『市は五十八万得した』
「そうなりますね」
『じゃあ、俺が文句言った意味はあった』
私は言葉を失いました。
『それに』
「はい」
『次は勝ちますよ』
商売人。
強い。
『朝比奈さん』
「はい」
『ありがとうございました』
「でも負けましたよ」
『参加できたでしょう』
「……はい」
『最初は、勝負にすら入れてもらえなかった』
その一言。
胸に残りました。
電話を切る。
「負けたか」
相馬先輩が聞きます。
「はい」
「いくら」
「山根さん二百三十。東浜商会二百三十八」
「へえ」
「市は、当初の百八十より五十八万円高く売れました」
相馬先輩が煙草をくわえます。
「それが競争だ」
「山根さん、負けても納得してました」
「そりゃそうだ」
「そうですか?」
「勝つ権利を寄越せって話じゃねえ」
先輩が火をつけます。
「競う機会を閉じるなって話だ」
ああ。
それです。
私はノートの端に書きました。
――一般競争入札の原則。
昔の私は、
役所が契約するときの手続の名前。
それくらいに思っていました。
でも違う。
これは、
役所の契約を、
「いつものところで」
「知っている業者だから」
「面倒だから」
だけで決めないための仕組み。
公金。
公有財産。
住民みんなのもの。
だからこそ。
役所の都合だけで相手を選ばない。
競争できるなら、
競争させる。
例外を使うなら、
例外である理由が要る。
夕方。
山根さんが事務所へ来ました。
手には缶ジュースの箱。
「差し入れです」
「食い物じゃねえのか」
相馬先輩が言いました。
「先輩!」
「何だよ」
「飲み物でも十分でしょう!」
「せんべいくらい欲しい」
山根さんが笑いました。
「次は持ってきますよ」
「次?」
「市がまた何か売るとき」
「毎回争う気ですか」
「公平にやるなら、毎回正々堂々負けますよ」
「勝ってくださいよ」
「そこは商売ですからね」
片桐所長が一本、缶ジュースを取りました。
「山根さん」
「はい」
「今回、あなたが正しかったわけじゃない」
山根さんの笑顔が止まります。
「え?」
「あなたに売るべきだったわけでもない」
「はい」
「東浜商会との契約が悪だったわけでもない」
「……はい」
「随意契約という方法も、法律上認められている」
「はい」
所長は缶を机に置きました。
「ただし」
静かに続けます。
「原則を外すなら、理由が要る」
山根さんがゆっくり頷きました。
「今回、市にはその確認が足りなかった」
「はい」
「だから競争に戻した」
「はい」
「結果、東浜商会が勝った」
「はい」
「それでいい」
山根さんはしばらく黙ってから、
笑いました。
「負けた俺に言います?」
「負けたから言う」
「厳しいなあ」
「所長ですから」
私が言うと、
相馬先輩が鼻で笑いました。
その日の帰り。
市役所前を通ると、
古い掲示板から入札公告が外されていました。
役目を終えた紙。
ほんの一週間貼られただけ。
でも。
その紙があったから、
山根商店も。
東浜商会も。
ほかの業者も。
同じ入口から勝負できた。
結果。
一番高い価格を提示した東浜商会が落札した。
最初から東浜商会に売るのと。
競争した結果、東浜商会が勝つのは。
見た目は同じ。
でも。
意味はまったく違います。
「こはる」
相馬先輩が前を歩きながら言いました。
「今日の教訓は」
「急ですね」
「どうせ考えてただろ」
「まあ」
私は少し考えました。
「随意契約は、ずるい契約じゃない」
「うん」
「でも、便利だから使える契約でもない」
「うん」
「一般競争入札が原則。例外を使うなら、例外である理由が必要」
「長い」
「じゃあ短くします」
私は言いました。
「――役所の『いつものところで』には、法律上の理由が要る」
相馬先輩が少し笑いました。
「それでいい」
夕暮れの市役所。
裏手の倉庫では、
もう古い机の搬出が始まっていました。
落札した東浜商会のトラック。
作業員たちが机を積み込んでいます。
そこへ。
「あ」
山根さんがいました。
「何してるんですか!?」
「手伝い」
「敵でしょう!?」
「東浜の社長とは昔から知り合いですよ」
「ええ……」
向こうから東浜商会の社長らしい男性が手を振りました。
「山根ぇ! 次は負けねえぞ!」
「今回は俺が負けたんだよ!」
「じゃあ次も負けろ!」
「誰が負けるか!」
二人とも笑っています。
私は固まりました。
「……何だったんですか、この一週間」
相馬先輩が笑いました。
「商売と喧嘩は別だ」
「行政法より難しいです」
「世の中のほうが法律より複雑なんだよ」
なるほど。
一般競争入札。
指名競争入札。
随意契約。
せり売り。
テキストでは四つの用語。
現場では、
誰にチャンスを与えるのか。
どうしてその相手を選ぶのか。
住民の財産を、どう扱うのか。
全部、
人の顔がついた問題になる。
「こはる!」
山根さんが呼びました。
「これ運ぶの手伝って!」
「嫌ですよ!」
「若いんだから!」
「私は行政書士見習いです!」
「机も行政財産だったんだから!」
「もう売却済みです!」
相馬先輩が吹き出しました。
「ほら行け」
「何でですか!」
「見習いだろ」
「行政書士業務じゃありません!」
「随意契約で頼む」
「契約しません!」
「じゃあ一般競争入札するか」
「机一個運ぶのに!?」
夕方の倉庫前で、
山根さんと東浜商会の人たちが笑っています。
結局。
私は机を一個だけ運びました。
無報酬。
競争なし。
相手方の選定理由は、
たまたまそこにいたから。
――これが市役所の契約だったら。
たぶん相馬先輩に、
「随契の理由を書け」
と言われるところです。
幸い。
片桐行政書士事務所の雑用には、
地方自治法は適用されないようでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




