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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 地方自治法

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351/701

[地方自治法・会計と予算、収入と支出、決算]現場編 「予備費がありますから、議会で否決されても出せます」の嘘。長の執行権でも越えられない、予算と議会の一線

挿絵(By みてみん)

 財布に金があることと。


 その金を使っていいことは。


 同じではありません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


「市長が出すと言ったんです」


 その日の相談者は、怒っていました。


 かなり怒っていました。


「議会で駄目だと言われたのに、市長が出すって。そんなの、ありなんですか」


 机の向こうに座っているのは、


 森下喜一さん。


 五十八歳。


 駅前商店街で履物屋を営みながら、町内会の会計もしている人でした。


 机の上には新聞の切り抜き。


 見出しには、


 ――駅西口歓迎塔整備費、議会が削除。


 とあります。


「歓迎塔?」


 私は読み上げました。


「何ですか、これ」


「駅前にでっかい門を作るんですよ」


「門?」


「観光客を迎えるって。上に『ようこそ湖西へ』って電飾つけて」


「……昭和っぽい」


「何がです?」


「いえ、何でも」


 危ない。


 また未来人が漏れました。


 森下さんが新聞記事を指で叩きます。


「来年、観光キャンペーンをやるんです。それに合わせて市が駅前を整備する。その一つとして歓迎塔を作るって話だった」


「予算はいくらです?」


「一千二百万円」


「結構しますね」


「でしょう?」


 商店街としても意見は割れたらしい。


 観光客が増えるなら賛成。


 そんな門に一千二百万使うなら歩道を直せ。


 いや、街灯を増やせ。


 いやいや駐車場だ。


 町というものは、一千二百万を置くとだいたい三つ以上に割れます。


「それで議会では?」


「削られました」


「全額?」


「歓迎塔の分は全額」


 なるほど。


 市長が提出した当初予算案には、


 駅西口歓迎塔整備費一千二百万円。


 これが計上されていた。


 しかし議会審議で、


 費用対効果が不明。


 設計内容も固まっていない。


 観光振興に本当に必要なのか。


 そんな反対が出て、


 修正議決。


 歓迎塔分は削除された。


「じゃあ、作れないんじゃないですか」


 私が言うと、


 森下さんは身を乗り出しました。


「普通そう思うでしょう」


「はい」


「ところが昨日、市役所の説明会で言ったんですよ」


「何を?」


「『観光キャンペーンは予定どおり実施する。必要な駅前整備については予備費も含めて対応を検討する』って」


 私は止まりました。


「予備費」


「そうです」


 聞き覚えがあります。


 ものすごくあります。


 行政書士試験で見るやつです。


 一般会計には必ず計上される。


 予算外の支出。


 予算超過の支出。


 そういう不測の事態に備えるお金。


 そして。


 長の権限で充用できる。


 つまり――


「あれ?」


「どうしました?」


「いや……」


 私は頭の中で問題文を再生しました。


 普通地方公共団体の一般会計には予備費を設け――


 予算外の支出又は予算超過の支出に充てることができ――


 議会の議決を経ずに――


「だったら、市長の権限で出せるんじゃ」


 言いかけた瞬間。


 相馬先輩の煙草が灰皿に落ちました。


「朝比奈」


「はい」


「最後まで思い出せ」


「え?」


「予備費の話だ」


「最後まで……」


 私は記憶を掘ります。


 予備費。


 一般会計。


 必置。


 長。


 予算外。


 超過。


 そして。


「あ」


 出てきた。


「議会が否決した費途には……」


「使えねえ」


 相馬先輩が言いました。


 森下さんが目を見開きます。


「じゃあ、やっぱり駄目なんですか」


「歓迎塔そのものに使うならな」


 相馬先輩が新聞を取りました。


「ただし」


 嫌な言葉です。


 法律で「ただし」が出ると、たいてい話が面倒になります。


「役所も馬鹿じゃねえ」


「どういうことです?」


「『歓迎塔に予備費を使います』なんて堂々と言うかって話だ」


 私はもう一度、新聞記事を読みます。


 市の説明。


 必要な駅前整備については予備費も含めて対応を検討する。


 歓迎塔とは書いていない。


「……別の名目にする?」


「可能性はある」


「駅前景観整備とか」


「観光案内設備とか」


「仮設施設とか?」


「そういう名前をつけるだけなら、いくらでもできる」


 森下さんの顔が険しくなりました。


「そんなの屁理屈でしょう」


「名前だけならな」


 相馬先輩は冷静でした。


「だが、本当に別事業なら話も別だ」


 そうなんです。


 ここが法律の嫌らしくて面白いところ。


 議会が、


 歓迎塔一千二百万円。


 を否決した。


 だからといって、


 駅前について一円も使えないわけではない。


 例えば。


 壊れた照明が急に危険になった。


 事故防止のため緊急に撤去する。


 予想外の修繕が必要になった。


 そういう予算外支出なら、


 予備費という仕組みが必要になる。


 でも。


 議会が明確に否決した歓迎塔を、


 名前だけ変えて予備費から出す。


 それは話が違う。


「所長」


 私は奥を見ました。


 片桐所長は、最初から新聞より別の紙を見ていました。


「何見てるんです?」


「予算書」


「もうあるんですか」


「森下さんが持ってきた」


「仕事が早い」


 所長は該当ページを開きました。


「一般会計予算。予備費、三千万円」


「結構ありますね」


「市全体なら珍しくない」


「この三千万円から、一千二百万?」


「数字だけなら可能だ」


 森下さんが苛立ったように言いました。


「じゃあ止められないんですか」


 片桐所長はすぐには答えませんでした。


「森下さん」


「はい」


「市長が歓迎塔を建てると決めたという文書はありますか」


「文書?」


「予備費から一千二百万出す、と書かれたものです」


「ありません。説明会で聞いただけです」


「工事の契約は」


「まだだと思います」


「業者は」


「分かりません」


「設計図は」


「市が前に出した案ならあります」


「新しいものは」


「分かりません」


 所長は頷きました。


「なら、今あるのは疑いだけです」


 森下さんが少し不満そうになります。


「でも、やろうとしてるんですよ」


「それを確かめます」


 所長の声は静かでした。


「行政書士は、疑いを怒鳴る仕事ではありません」


 机の上の新聞を指で叩く。


「事実を紙にする仕事です」


 午後。


 私は相馬先輩と市役所へ向かいました。


 駅前を通る。


 歓迎塔が建つ予定だった場所には、


 古い時計塔と、


 錆びた案内板。


 その向こうで、再整備工事用の杭が打たれています。


「先輩」


「何だ」


「一千二百万って、こういうの建てるには高いんですかね」


「知らん」


「え」


「俺は建築屋じゃねえ」


「そうでした」


「分からんことを分かった顔で喋るな」


「はい」


 実務は容赦がありません。


 行政法で勝手に建設単価まで分かるようにはならない。


 市役所二階。


 総務課。


 沢渡課長は、私たちを見るなり眼鏡を上げました。


「今日は何でしょう」


「歓迎塔」


 相馬先輩が言いました。


「正式には駅西口観光歓迎施設整備事業です」


「その一千二百万。議会で落ちたな」


「減額修正されました」


 お。


 言い方が正確です。


 沢渡課長は「否決」と雑には言わない。


 市長提出の予算案全体が否決されたわけではなく、


 議会が歓迎塔部分を削除する修正をして予算を議決した。


 やっぱりこの人、細かい。


 そして、


 その細かさが敵に回すと怖い。


「その後」


 相馬先輩が続けます。


「市長が予備費で駅前整備を進めるって話が出てる」


「正確には、『予備費も含め必要な対応を検討する』です」


「歓迎塔に使うのか」


「現時点で、そのような支出決定はありません」


 即答。


 森下さんの話と矛盾はしていません。


「じゃあ作らない?」


 私が聞きました。


「朝比奈さん」


「はい」


「行政は、作る、作らないの二択だけで仕事をしているわけではありません」


「ぐっ」


 初手で刺されました。


「議会審議を受けて、観光キャンペーンに必要な設備全体を再検討しています」


「その中に歓迎塔は?」


「従前案と同一の施設を予備費で整備することは考えていません」


 私は相馬先輩を見ます。


 先輩も黙っています。


 沢渡課長は続けました。


「議会が削除した経費を、そのまま予備費で復活させれば問題になることは承知しています」


 そう。


 この人はそこを間違えない。


 役所側の壁役だからといって、


 法律を知らないわけではない。


 むしろ知っているから厄介なのです。


「ただし」


 沢渡課長が言いました。


 来た。


 役所側の「ただし」。


「観光キャンペーンそのものは議会でも否定されていません」


「はい」


「駅前の安全対策、案内機能の改善、仮設設備まで一切禁止されたわけでもありません」


「それは……そうですね」


「ですから必要な支出が生じれば、その法的根拠と予算上の処理を個別に検討します」


 隙がない。


 少なくとも、


 議会で歓迎塔が削られたのに、


 市長が腹を立てて予備費で勝手に建てる。


 そんな単純な構図ではありませんでした。


 でも。


「課長」


 相馬先輩が言います。


「じゃあ確認させろ」


「どうぞ」


「旧案の歓迎塔と、新しく検討してる設備。何が違う」


 沢渡課長が一瞬黙りました。


「現時点では検討中です」


「設置場所は」


「駅西口周辺」


「目的は」


「観光案内と駅前環境の改善」


「規模は」


「未定です」


「旧案の設計業者は関わってるのか」


「……一部、意見は聞いています」


「おい」


 相馬先輩の声が一段低くなりました。


「何でしょう」


「議会で落とされた歓迎塔と、どこまで別物なんだ」


「別物かどうかを判断する段階ではありません」


「だったら予備費の話を先に出すなよ」


「予備費を充用すると決定したとは申し上げていません」


「言葉はな」


 空気が張りました。


 私は思わず息を止めます。


 沢渡課長は、


 議会の議決を無視しているわけではない。


 でも。


 旧案に近いものを、


 別の形で実現できないか。


 行政内部で検討している可能性はある。


 問題は、


 どこからが「別の必要な支出」で、


 どこからが「否決された費途の復活」なのか。


 そこです。


「朝比奈さん」


 沢渡課長がこちらを見ました。


「何か言いたそうですね」


「顔に出ます?」


「かなり」


 私は少し考えてから言いました。


「予備費って」


「はい」


「緊急事態専用じゃないんですよね」


 相馬先輩が横目で見ます。


「そうです」


 沢渡課長が答えました。


「予算外の支出又は予算超過の支出に充てるものです。必ずしも災害や事故だけに限られません」


「でも、何でもありでもない」


「当然です」


「議会が削った歓迎塔を、そのまま出すのは駄目」


「その認識です」


「じゃあ」


 私は机の上の資料を指しました。


「名前じゃなくて、中身を見ないと判断できませんね」


 沢渡課長の目が少し細くなりました。


「どういう意味ですか」


「『観光案内設備』って名前に変えたから別の支出になるわけじゃない」


「当然でしょう」


「場所、目的、構造、金額、設計、発注先。そういう実態を見ないと」


「ええ」


「逆に、それが本当に別の安全対策や仮設設備なら、議会が歓迎塔を削ったことだけで全部駄目とも言えない」


「その通りです」


 またです。


 敵なのに、


 答え合わせしてくる。


「だから」


 私は言いました。


「今必要なのは、『予備費を使うな』って怒ることじゃない」


「では?」


「何に使おうとしているか、記録を残させることです」


 沢渡課長が黙りました。


 相馬先輩が、ほんの少し口元を上げます。


「そういうこった」


 そして一枚の紙を机へ置きました。


「質問書」


 私が昨夜――ではなく、


 さっき事務所で所長と作ったものです。


 項目は短い。


 でも、逃げ道は少なくしてあります。


 一。


 議会修正により削除された駅西口観光歓迎施設整備事業について、現在の執行予定の有無。


 二。


 駅西口周辺について予備費充用を検討している事業の名称、目的、内容、予定額。


 三。


 旧歓迎塔案との設置目的、構造、規模、設置場所その他の相違。


 四。


 予備費充用を決定する場合、その理由及び判断資料。


 五。


 議会による減額修正との整合性についての市の見解。


 最後に。


 回答は書面で求める。


「ずいぶん細かいですね」


 沢渡課長が言いました。


「細かいの好きでしょう、課長」


「嫌いではありません」


「でしょうね」


 相馬先輩が言います。


「で、出せる範囲で出してくれ」


「情報公開条例の話ですか」


 私は反射的に口を開きかけました。


 情報公開――


 待て。


 昭和六十三年。


 自治体によっては情報公開制度を独自に整備し始めている時期ではある。


 でも現代みたいに、


 全国一律の感覚で当然に請求できると思ったら危ない。


「こはる」


 片桐所長はいません。


 なのに頭の中で声がしました。


 時代を見ろ。


 私は口を閉じました。


 相馬先輩が代わりに言います。


「まず行政照会だ。出せねえなら、その理由を書け」


「分かりました」


 沢渡課長が紙を受け取ります。


「ただし、検討途中の資料すべてを開示できるとは限りません」


「構わねえ」


「回答できない項目もあります」


「それも書け」


「しつこいですね」


「仕事だからな」


 沢渡課長は質問書に目を落としました。


 そして。


「片桐先生は、これで何を狙っているんです」


 相馬先輩が笑いました。


「名前の付け替えをできなくする」


 一瞬。


 課の空気が止まりました。


 沢渡課長の目が、質問書から相馬先輩へ上がります。


「随分な言い方ですね」


「じゃあ違うなら、違うって紙に残せばいい」


「……なるほど」


 怒りません。


 沢渡課長は合理的です。


 この質問書そのものが、


 市に、


 これからやる支出が本当に議会で削られたものとは別なのか。


 説明できる形で整理しろ。


 と迫っている。


 予備費を止める権限が行政書士にあるわけではありません。


 予算執行を差し止める権限もない。


 でも。


 役所が一番嫌がるもの。


 後から見て、


 説明できない紙。


 逆に言えば。


 説明を求める紙は、


 ときどき人を止めます。


 帰り道。


 私は歩きながら言いました。


「先輩」


「何だ」


「これ、住民監査請求まで行きます?」


「まだ早え」


「ですよね」


「支出も契約も固まってねえ。まず事実だ」


「はい」


「何でもすぐ監査請求って言うな」


「現代知識が便利すぎて」


「未来の便利道具に頼るな」


「監査請求は昭和にもありますよ」


「そういう意味じゃねえ」


 分かっています。


 制度があることと、


 その制度を使う段階であることは別。


「でも私」


 少し考えました。


「最初、予備費って聞いたとき、市長が自由に使えるお金みたいに思いました」


「そういう覚え方してる奴は危ねえな」


「長の権限で使えるって習うじゃないですか」


「議会の議決なしで一円も動かせねえと、急な支出に対応できねえからだろ」


「はい」


「だから予備費がある」


「でも」


「議会がわざわざ『それには使わせない』って落としたものまで復活できたら」


「議会の予算議決が意味なくなる」


「そういうこった」


 なるほど。


 予備費は、


 議会を飛び越える抜け道じゃない。


 予算制度を現実に動かすための、


 小さな柔軟性。


 そこを取り違えると、


 長の執行権と議会の議決権の関係そのものが崩れる。


「役所が偉いんじゃねえ」


 相馬先輩が前を向いたまま言いました。


「予算が偉いんですか?」


「惜しい」


「え?」


「議決された予算だ」


 ちょっと格好いい。


「今の、メモしていいです?」


「するな」


「なんでですか」


「あとで俺が言ったみたいに使うだろ」


「言ったじゃないですか」


 三日後。


 市から回答が来ました。


 沢渡課長の名前で、


 きっちりした文書です。


 旧歓迎塔計画については、


 議会修正を受け、


 当該年度の事業として実施しない。


 予備費については、


 駅前の安全確保及び観光案内上、当初予算編成時に予測できなかった必要が生じた場合、


 地方自治法及び予算執行手続に従い個別に判断する。


 現時点で、


 旧歓迎塔と同一又は実質的に同一の施設について、


 予備費を充用して整備する決定はしていない。


「……逃げました?」


 私は文書を見ながら言いました。


 片桐所長が首を振ります。


「逆だ」


「え?」


「縛った」


「これで?」


「市自身が書いた」


 所長が一行を指します。


 ――旧歓迎塔と同一又は実質的に同一の施設について、予備費を充用して整備する決定はしていない。


「このあと同じ物を作るなら」


「この回答と矛盾する」


 私は声を上げました。


「そうか」


 口頭なら、


 言った。


 言わない。


 検討だった。


 決定ではなかった。


 いくらでも逃げられる。


 でも。


 書面にした瞬間、


 行政自身の説明になる。


「行政書士って」


 私は呟きました。


「こういう戦い方もするんですね」


 相馬先輩が新聞を読みながら答えます。


「殴れねえから紙で縛るんだよ」


「言い方が物騒」


「実際そうだ」


 そこへ、


 森下さんが入ってきました。


「先生!」


 手には別の新聞。


「見ました?」


「何を」


「市が歓迎塔の計画を取りやめるって」


 記事には、


 駅西口観光歓迎施設について、


 議会審議を踏まえ、


 当該年度の整備を見送る。


 観光案内については、


 既存案内板の改修を中心に再検討。


 そう書いてありました。


「既存案内板?」


 私は駅前の錆びた板を思い出します。


 確かに、


 あれなら直した方がいい。


「勝ったんですか」


 森下さんが聞きました。


 片桐所長は首を振ります。


「勝ち負けではありません」


「でも、塔は作らない」


「少なくとも今年度は」


「一千二百万も使わない?」


「歓迎塔には」


 森下さんはしばらく黙っていました。


 そして。


「じゃあ、その金は余るんですか」


 私は危うく笑いそうになりました。


 市民の感覚は強い。


 一千二百万使わないなら、


 一千二百万余る。


 たしかに家計ならそう思います。


 でも自治体会計は、


 そう単純ではない。


「そのお金がそのまま現金で箱に入ってるわけじゃないです」


「違うんですか」


「予算って、使うことを予定して議決した枠ですから」


「じゃあ余ったら?」


「年度末まで使わなければ、決算で執行の結果として出てきます」


「来年にそのまま持っていける?」


「そこも原則は別です」


 私は言いかけて、


 止まりました。


 会計年度独立の原則。


 四月一日から翌年三月三十一日。


 その年度の歳出は、その年度の歳入をもって充てる。


 でも例外。


 継続費。


 繰越明許費。


 事故繰越し。


 さらに話を広げると、


 今度は別の沼です。


「その話は長くなります」


 相馬先輩が助け舟を出しました。


「今日はやめとけ」


「はい」


 珍しく止めてくれてありがたい。


「じゃあ」


 森下さんが言います。


「議会で決めた予算って、結構重いものなんですね」


「重いです」


 私は答えました。


「市長が予算案を作って出す。でも、最後に議決するのは議会です」


「議会は変えられる?」


「変えられます。減額もできますし、一定の範囲で増額修正もできます」


「じゃあ議会の方が偉い?」


「そこも違います」


「違うんですか」


 法律って面倒ですね、


 という顔をされています。


 分かります。


「市長には予算を調製して提出する権限がある。議会はそれを審議して議決する」


「はい」


「議会が好き勝手に予算を作り替えて、市長の予算提出権そのものを侵すことまではできません」


「なるほど……」


 森下さんは頭をかきました。


「役所の財布って、面倒くさいんですね」


 片桐所長が言いました。


「面倒でなければ困ります」


「え?」


「人の金だからです」


 その一言で、


 部屋が少し静かになりました。


 そう。


 税金。


 使用料。


 手数料。


 地方債。


 いろいろな名前で集まるけれど。


 自治体のお金は、


 市長のポケットマネーではない。


 役所の自由になる金でもない。


 だから。


 予算に載せる。


 議会が議決する。


 長が執行する。


 支出命令を出す。


 昭和六十三年のこの市なら、


 実際の支払いにあたって収入役が関わり、


 適法な手続を通して公金が出ていく。


 そして年度が終われば、


 決算になる。


 いくら入ったか。


 いくら使ったか。


 予算どおりだったか。


 会計の結果を数字にして残す。


「所長」


 私は言いました。


「予算って、未来の約束みたいですね」


「少し違う」


「違います?」


「使っていい限度と目的を、先に決めるものだ」


「……なるほど」


 未来の予定。


 でも、


 ただの予定ではない。


 公金を使うための枠。


 だからこそ、


 議会が削ったものを、


 別の入口からこっそり戻すことは許されない。


 一週間後。


 駅前を通ると、


 例の錆びた案内板の前に作業員がいました。


「あ」


 古い板を外しています。


 横には新しい案内図。


 浜名湖。


 市役所。


 商店街。


 寺。


 駅前市場。


 そして小さく、


 観光案内所。


「歓迎塔じゃないですね」


 隣を歩く相馬先輩が言いました。


「見りゃ分かる」


「電飾もない」


「昼だぞ」


「そういう意味じゃなくて」


 費用は、


 歓迎塔の一千二百万よりずっと小さいらしい。


 駅前整備の既存予算の範囲内で対応したと聞きました。


 あの派手な門は消えた。


 でも、


 観光客向けの案内そのものまで消えたわけではない。


 議会が止めたもの。


 行政がやりたかったこと。


 住民が必要としていたもの。


 全部をゼロか百かにせず、


 別の形へ落ち着いた。


「これで良かったんですかね」


 私が聞くと、


 相馬先輩は新しい案内板を見ました。


「何が」


「歓迎塔を楽しみにしてた人もいたかもしれない」


「いるだろうな」


「市長だって、観光のためにやろうとしたんでしょうし」


「だから何だ」


「悪人がいないなって」


 相馬先輩が笑いました。


「今さら気づいたのか」


「はい?」


「予算でもめるとき、だいたいそうだ」


 道路を直したい。


 学校も直したい。


 祭りも残したい。


 福祉も必要。


 観光も必要。


 消防車も古い。


 橋も傷む。


 全部必要。


 でも。


 財布は一つ。


「だから議会がある」


「……あ」


「だから予算がある」


 誰かが正しくて、


 誰かが悪い。


 そんな単純な話ではない。


 限られた金を、


 誰が、


 何に、


 どれだけ使うか。


 その決め方をルールにしておかなければ、


 最後は声の大きい人が勝つ。


 市長でも。


 議員でも。


 役人でも。


 住民でも。


 それでは駄目だから、


 法律が間に入る。


 その日の夕方。


 事務所へ戻ると、


 森下さんが紙袋を持ってきました。


「皆さんに」


「何です?」


「草履」


 相馬先輩が露骨に微妙な顔をしました。


「食えねえな」


「先輩」


「冗談だ」


「顔が本気でした」


 森下さんが笑います。


「うちの店の商品ですよ。売れ残りだけど」


「そんなのいただけませんよ」


「じゃあ宣伝してください」


「それなら……」


 私は一足取り出しました。


 赤い鼻緒。


「かわいい」


「朝比奈さん、それで市役所行けば?」


「嫌ですよ」


「沢渡課長が驚くぞ」


「それはちょっと見たいですけど」


 そこへ電話が鳴りました。


 私が取ります。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『総務課の沢渡です』


 また来た。


「はい」


『先日の質問書の件で、一点』


「何でしょう」


『今後、議会修正後に新規支出を検討する場合の庁内確認手順を整理することになりました』


「確認手順?」


『議会で削除された事業と実質的に同一ではないか、財政担当でも確認する形です』


 私は少し驚きました。


「今回がきっかけですか」


『一因です』


「課長」


『何でしょう』


「面倒でした?」


 少し間がありました。


『非常に』


「ですよね」


『ですが』


 来る。


 この人の「ですが」。


『予備費というのは、便利だからこそ、使い方を誤ると議会との関係を壊します』


「はい」


『使えるかどうかだけでなく、使ってよいかを確認する必要がある』


 私は笑いました。


「それ、私のノートに書いていいですか」


『何のノートですか』


「秘密です」


『では』


 電話が切れました。


 受話器を置く。


「何だって?」


 相馬先輩が聞きます。


「市役所、予備費の確認手順を見直すそうです」


「へえ」


「歓迎塔一個で」


「一個だからだろ」


「え?」


「でかい話だけが行政を変えると思うな」


 所長が草履を片手に持ちながら言いました。


「履くんですか、それ」


「悪いか」


「いえ」


 似合わない。


 でも言わない。


 私は自分の机へ戻りました。


 ノートを開く。


 今日はまだ法理を整理しません。


 それは夜の仕事。


 今は一行だけ。


 忘れないうちに書きました。


 ――予備費は、議会を飛び越える財布じゃない。


 その下に、


 もう一つ。


 ――公金は「金があるか」ではなく、「使ってよい根拠があるか」。


「こはる」


 相馬先輩が覗き込みます。


「二行じゃねえか」


「今日はまだ現場編なので」


「何の話だ」


「こっちの話です」


 私はノートを閉じました。


 窓の外。


 夕方の駅前には、


 結局、巨大な歓迎塔はありません。


 代わりに、


 新しい案内板が立っています。


 派手ではない。


 新聞の一面にもならない。


 市長が勝ったとも、


 議会が勝ったとも言いにくい。


 でも。


 たぶんそれでいい。


 予算は、


 誰かが好き勝手に夢を実現するための財布ではない。


 市民から集めた金を、


 何に使うのか。


 その答えを、


 先に公開して、


 議会で決めて、


 決めた範囲で使う。


 そして最後に、


 本当にどう使ったのかを決算で残す。


 地味です。


 ひどく地味です。


 でも。


 公金というものは、


 派手に使うことより、


 地味に縛ることの方が大事なのかもしれません。


「朝比奈」


「はい」


「その草履、履いてみろ」


「今ですか?」


「サイズ合うか見ろよ」


「事務所で?」


「いいだろ」


 仕方なく履いてみる。


「あ」


 ぴったり。


 森下さんが嬉しそうに笑いました。


「ほら、ちょうどいい」


「本当ですね」


 相馬先輩が言います。


「じゃあ経費で落とせ」


「何の経費ですか!」


「見習い職員履物費」


「そんな予算科目ありません!」


「予備費」


「今日の話を全部無視しないでください!」


 片桐所長が一言。


「却下だ」


「ほら!」


「理由は?」


 相馬先輩が聞く。


 所長は草履を見て、


 淡々と言いました。


「議会以前に、俺が認めん」


「所長が議会なんですか!」


 森下さんが吹き出しました。


 窓の外では、


 新しい駅前案内板が、


 夕日を受けて静かに光っていました。


 財布に金がある。


 予算にも金がある。


 予備費にも金がある。


 だから使える。


 ――ではない。


 誰の金なのか。


 何のために使うと決めたのか。


 誰がそれを認めたのか。


 その順番を守る。


 今日の教訓は、


 案外簡単でした。


 役所の財布にだって。


 勝手に開けてはいけない蓋があるのです。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
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