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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 地方自治法

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[地方自治法・住民の選挙権と被選挙権]現場編 「この町に住んでいないから、市長にはなれません」の嘘。住民・有権者・候補者を分ける“三つの資格”

挿絵(By みてみん)

 「住んでいる人」と、「選べる人」は、同じではありません。


 まして。


 「選べる人」と、「選ばれる人」まで同じだと思ったら。


 選挙は、かなりややこしいことになります。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の相談者は、座る前から怒っていました。


「じゃあ、どこに住んでるかで、市長になれるかなれないかが決まるっていうんですか!」


「まず座ってください」


「だっておかしいでしょう!」


「お茶、出しますから」


「お茶で収まる話じゃないですよ!」


「ですよね」


 私は湯呑みを引っ込めました。


 相談者は森川修一さん。


 二十八歳。


 湖西市生まれ。


 高校を出てから家業の金物店を手伝い、青年団や商店街の活動にも顔を出してきた人です。


 ところが半年前。


 結婚を機に、隣町の浜松市へ引っ越した。


 仕事は今も湖西市。


 実家も湖西市。


 商店街の活動も湖西市。


 ただし、住所だけは浜松市。


 そして今回。


 森川さんは、市長選挙に立候補しようとしていました。


「市役所で聞いたんです」


 森川さんが机を叩きます。


「そうしたら、『市外に住んでいるなら、立候補は難しいんじゃないですか』って」


「誰に言われたんです?」


 相馬先輩が聞きました。


「窓口の人です」


「選挙管理委員会か?」


「いや、総務の窓口だったと思います」


 相馬先輩が鼻から息を吐きました。


「じゃあ決定じゃねえ」


「でも、市役所の人ですよ?」


「市役所の人間が全員、選挙法の専門家だったら俺たちは楽なんだよ」


 身も蓋もありません。


 森川さんは茶封筒から紙を出しました。


 後援会の資料。


 立候補予定者の略歴。


 生年月日。


 住所。


 私はそれを見ながら、頭の中で条件を並べます。


 地方選挙。


 市町村。


 選挙権。


 住所。


 三か月。


「……やっぱり難しいんじゃ」


 言いかけました。


 相馬先輩の目がこちらを向きます。


「何がだ」


「だって、地方選挙って、その市町村に三か月以上――」


「こはる」


 片桐所長が低い声で止めました。


「それは何の要件だ」


「え?」


「今お前が言ったのは、何の要件だ」


 私は止まりました。


 三か月以上。


 住所。


 地方選挙。


 頭の中に受験テキストの表が浮かびます。


 あ。


「選挙権……」


「そうだ」


 しまった。


 選挙権と被選挙権。


 似た単語。


 でも別物。


「市長の被選挙権に、住所要件って……」


「ねえよ」


 相馬先輩が言いました。


「日本国民で、年齢を満たしてりゃいい」


「二十五歳……」


「市町村長はな」


 私は森川さんの生年月日を見ます。


 二十八歳。


 日本国民。


 年齢要件は満たす。


 そして、市長の被選挙権には、その市に三か月住んでいなければならないという要件はない。


「……立候補できます」


「え?」


 森川さんが目を見開きました。


「少なくとも、『浜松市に住んでいるから』という理由だけで、市長選に立候補できなくなるわけではありません」


「本当に?」


「はい」


 私は答えながら、自分でもまだ驚いていました。


 極端に言えば。


 北海道の住民が沖縄の市町村長選挙に立候補することだって、住所だけを理由に排除されるわけではない。


「ちょっと待ってください」


 森川さんが身を乗り出しました。


「じゃあ、湖西市に住んでない人が、湖西市長になれるんですか?」


「被選挙権の住所要件だけ見れば、そうです」


「でも、市民じゃないですよね?」


「そこなんです」


 私は言いました。


「『住民であること』と、『市長に立候補できること』は同じ条件じゃないんです」


 森川さんの顔が、完全に混乱しています。


 分かります。


 私も今、同じ顔をしていると思います。


 そこへ。


「お兄ちゃん、本当に出るの?」


 事務所の扉が開きました。


 入ってきたのは若い女性でした。


「美咲」


「お母さんから聞いた」


「今その話してるんだ」


「じゃあ私、絶対投票する」


 森川さんの妹。


 美咲さん。


 十九歳。


「十九?」


 私は聞きました。


「はい」


「なら投票できますよ」


 言った。


 言ってから。


 相馬先輩の煙草が止まりました。


 片桐所長が顔を上げました。


 二人とも。


 同じ顔です。


 ――またやったな。


「……え?」


 嫌な予感。


 相馬先輩が聞きました。


「こはる」


「はい」


「何歳からだ」


「選挙権ですか?」


「そうだ」


「十八――」


 そこで。


 私の脳内に赤い警報が鳴りました。


 昭和六十三年。


 昭和六十三年。


 昭和六十三年!


「……じゃない!」


「何一人で事故ってんだ」


「二十歳です!」


 私は机に両手をつきました。


「この時代は二十歳!」


 美咲さんが目を丸くします。


「この時代?」


「何でもありません!」


 危ない。


 現代の私は知っています。


 選挙権年齢は十八歳。


 だから十九歳と聞けば反射的に、


 投票できます。


 と答えてしまう。


 でも。


 今は昭和六十三年です。


 この時代、選挙権年齢は満二十歳。


 未来人。


 選挙制度でも地雷を踏む。


「じゃあ私、投票できないんですか」


 美咲さんが肩を落としました。


「十九歳なら……まだ」


「お兄ちゃんに入れようと思ったのに」


「まだ出るって決まったわけじゃない」


「出なよ」


「簡単に言うな」


「だって市役所に住民の話をちゃんと聞いてもらうんでしょ?」


 森川さんが黙りました。


 どうやら今回の立候補。


 勢いだけではないらしい。


 駅前再整備。


 商店街の立ち退き。


 公民館の統廃合。


 市の進め方に疑問を持ち、地元の若手商店主たちから推された。


 でも結婚して市外へ転居した。


 だから、


 もう候補者になれない。


 そう思っていた。


「おかしな話ですね」


 私は呟きました。


「何がだ」


 相馬先輩が聞きます。


「十九歳でずっとこの町に住んでる美咲さんは投票できない」


「ああ」


「森川さんは町の外に住んでるのに市長選に立候補できる」


「そういう制度だ」


「なんというか……直感に反します」


「法律が全部お前の直感どおりなら、六法いらねえだろ」


 それはそうです。


 私はノートを開きました。


「一回、整理しましょう」


 相馬先輩が嫌そうな顔をします。


「ここで講義始めんなよ」


「違います。事件整理です」


「ならいい」


 まず。


 住民。


 地方自治法上、市町村の区域内に住所を有する者は、その市町村の住民です。


「つまり森川さんは今、湖西市の住民じゃない」


「はい」


「浜松市の住民」


「そうです」


「でも湖西市長には立候補できる」


「はい」


「やっぱ変な感じですね」


 森川さんが言いました。


「そこは被選挙権の要件が別だからです」


 私は続けます。


「ただ、市議会議員になる場合は違います」


「どう違うんです?」


「市議会議員の被選挙権には、その市の選挙権を持っていることが関係してきます」


「というと?」


「日本国民で、年齢要件を満たすだけじゃなく、その市町村で選挙権を持つ必要がある」


 三か月以上の住所。


 それがここで効いてくる。


「つまり俺が市議会議員に出るなら?」


「今の住所関係だと難しいです」


「市長なら?」


「住所要件なし」


 森川さんが頭を抱えました。


「逆だと思ってました」


「私も一瞬そう思いました」


「お前まで言うな」


 相馬先輩に怒られました。


 でも。


 ここが今日の罠です。


 市長は市全体のトップだから、むしろ住民でないと立候補できなさそうに感じる。


 市議会議員は議員だから、どこからでも出られそうな気もする。


 実際は違う。


 市議会議員。


 満二十五歳以上。


 さらに、その市町村で選挙権を持っていることが必要。


 一方。


 市町村長。


 日本国民。


 満二十五歳以上。


 住所要件なし。


 そして都道府県知事なら。


 満三十歳以上。


 こちらも住所要件はない。


 法律。


 直感に罠を仕掛けすぎです。


「それで」


 片桐所長が森川さんに聞きました。


「市役所では誰に、何と言われた」


「総務課の沢渡さんです」


 全員。


 少し黙りました。


「……あの人か」


 私が言いました。


「知ってるんですか?」


「知りたくなくても知るくらいには」


 相馬先輩が立ち上がります。


「行くぞ」


「市役所?」


「選管に確認する前に、沢渡に何を言ったか聞く」


「本人に?」


「本人に」


 嫌な予感しかしません。


 市役所二階。


 総務課。


 沢渡課長は私たちを見ると、


「今日は選挙ですか」


 と言いました。


「なんで分かるんです?」


「森川さんが来たあとですから」


「なら話が早い」


 相馬先輩が椅子へ座りました。


「市外に住んでるから市長選に出られないって言ったのか」


「言っていません」


 即答。


「え?」


「私は『市外居住なら確認が必要ですね』と言いました」


「ほとんど同じじゃねえか」


「違います」


「住民には聞こえねえよ」


「確認せず断定するよりいいでしょう」


 沢渡課長は眼鏡を上げました。


「立候補資格についての最終的な確認は選挙管理委員会でしてください、とも申し上げました」


 なるほど。


 完全な誤案内というわけではない。


 でも。


 森川さんには、


 市外居住だから駄目。


 と受け取られてしまった。


「じゃあ課長自身は分かってたんですか」


 私は聞きました。


「何をです?」


「市長の被選挙権に住所要件がないこと」


「もちろん」


 腹立つ。


「だったら言ってくださいよ!」


「聞かれませんでした」


「役所の悪いところ出た!」


「朝比奈さん」


「はい」


「窓口は試験問題の解説室ではありません」


「でも誤解して帰ってますよ!」


 相馬先輩が手を上げました。


「そこはいい」


「よくないです」


「今日は資格の確認だ」


 仕事ができる人は論点整理が早い。


 腹は立ちますが。


「森川修一。二十八歳。日本国民。住所は浜松市」


「はい」


「湖西市長選への被選挙権」


 沢渡課長が答えます。


「住所が湖西市外であることだけでは、被選挙権を失いません」


 森川さんが息を吐きました。


 肩から力が抜けます。


「じゃあ、本当に出られる」


「ほかの欠格事由等がなければ、住所だけで拒まれるものではありません。具体的な届出は選挙管理委員会で確認してください」


「……ありがとうございます」


 森川さんが頭を下げました。


 その横で。


 私は総務課の掲示板を見ました。


 選挙人名簿。


 転入。


 三か月。


 そんな文字が並んでいます。


「課長」


「何でしょう」


「一個聞いていいですか」


「どうぞ」


「地方自治法上の『住民』って、選挙権を持つ人のことじゃないですよね」


「当然です」


「外国人でも?」


「住所があれば、地方自治法上の住民という概念には含まれ得ます」


「法人も?」


「住所を有する法人も含まれます」


 森川さんが振り返りました。


「会社も住民なんですか?」


「地方自治法上の住民という概念では、そういう整理になります」


「じゃあ会社も市長選で投票を――」


「できません」


 沢渡課長。


 即答でした。


「外国人は?」


「地方選挙の選挙権はありません」


「住民なのに?」


「住民だから当然に選挙権がある、という制度ではありません」


 私はそこに引っかかりました。


 住民。


 選挙権者。


 被選挙権者。


 三つ。


 重なるけれど。


 同じ円ではない。


「なんだか」


 私は言いました。


「住民って、もっと政治参加する人だけを指す言葉だと思ってました」


「地方自治法はそんな狭い言葉の使い方をしていません」


 沢渡課長が言います。


「その地域に住所を持ち、地域社会を構成する者。それと選挙権を持つ者とは別問題です」


 なるほど。


 これ。


 試験だったら。


 『外国人は住民に含まれない』


 なんて選択肢を見て、


 なんとなく正しそう。


 と選びかねません。


 でも違う。


 外国人でも住民。


 法人も住民。


 ただし。


 住民だからといって、すべての住民の権利が同じように認められるわけではない。


「役所が偉いんじゃねえ」


 相馬先輩がぼそっと言いました。


「え?」


「住民かどうかも、選挙に出られるかどうかも、窓口の感覚で決めるんじゃねえ」


 机を指で叩く。


「法律が決めてんだ」


 沢渡課長が眼鏡越しに見ます。


「珍しく意見が合いますね」


「珍しくは余計だ」


「では、選挙管理委員会へ行かれては?」


「そうする」


 立ち上がりかけて。


 私は、ふと思いました。


「課長」


「まだ何か?」


「市が条例で変えることはできないんですか」


「何をです?」


「例えば十九歳から投票できるようにするとか」


 沢渡課長が私を見ました。


 相馬先輩も見ました。


 片桐所長まで見ました。


 しまった。


 また未来人が余計なことを。


「できません」


 沢渡課長が言いました。


「選挙権の年齢要件を、市が勝手に下げられると?」


「……無理ですよね」


「地方自治だからといって、何でも条例で決められるわけではありません」


「はい」


「国の法律で定められた選挙制度を、市の都合で書き換えることはできません」


 ぐう。


 完全に正論。


「地方自治って」


 私は小声で言いました。


「何でも自分たちで決めるって意味じゃないんですね」


「当たり前だ」


 相馬先輩が言いました。


「特に今はな」


「今?」


「昭和だぞ」


 その言葉に。


 私は少し黙りました。


 昭和六十三年。


 地方自治とはいっても。


 未来の私が知る地方分権改革より前。


 国と地方が今よりずっと上下関係を意識していた時代。


 機関委任事務。


 通達。


 国の指揮監督。


 市町村が、


 うちはうちです。


 と何でも自由に決められる世界ではない。


「地方自治って言葉だけで、自由だと思うな」


 相馬先輩が言います。


「役所が偉いんじゃねえ、条例が偉い。だがな」


 一拍。


「条例だって法律を飛び越えられるわけじゃねえ」


 私は頷きました。


 自治には、自治の範囲がある。


 選挙制度には、選挙制度の線がある。


 その線を知らずに、


 住民なんだから。


 税金を払ってるんだから。


 若いんだから。


 長く住んでるんだから。


 そんな感覚だけで答えを出すと。


 たぶん誰かの権利を間違える。


 選挙管理委員会で確認した結果。


 森川さんの市長選への立候補について、


 湖西市内に住所がないこと自体は障害にならない。


 必要書類と日程も確認できました。


 帰り道。


 森川さんは市役所の玄関前で立ち止まりました。


「変ですね」


「何がです?」


「俺、今はこの町の住民じゃないんですよね」


「地方自治法上は、そうですね」


「なのに市長には立候補できる」


「はい」


「美咲はこの町の住民なのに投票できない」


「十九歳なので」


「会社だって住民になる」


「はい」


「でも投票はできない」


「はい」


 森川さんが頭をかきました。


「法律って、言葉の意味が普段と違いますね」


「私も毎日それで苦しんでます」


「お前が言うな」


 相馬先輩に後ろから叩かれました。


「痛っ」


「相談者を不安にすんな」


「でも事実です!」


 森川さんが笑いました。


 朝、事務所へ来たときの怒った顔ではありません。


「出ます」


 彼は言いました。


「市長選」


「決めたんですか」


「はい」


「勝てるかは分かりませんよ」


 片桐所長が静かに言いました。


「分かってます」


「立候補できることと、当選できることは別だ」


「それも分かってます」


 森川さんは市役所を見上げました。


「でも、最初から資格がないと思って諦めるのは嫌です」


 その言葉は。


 妙に胸に残りました。


 選挙権。


 被選挙権。


 教科書では、


 権利の名称です。


 試験では、


 年齢と住所要件を覚える表です。


 でも。


 立候補しようとした人にとっては。


 その表の丸一個が、


 人生の道を一本残すことがあります。


 事務所へ戻ると。


 美咲さんが椅子に座っていました。


「お兄ちゃん、どうだった?」


「出られる」


「やった!」


「ただ、お前は投票できない」


「分かってるよ!」


 頬を膨らませます。


「あと一年かあ」


 正確には選挙時点で満二十歳に達しているか、という問題ですが。


 今は黙っておきます。


「でも手伝う」


 美咲さんが言いました。


「何を?」


「ビラ折ったり、お茶出したり」


「選挙運動にはルールがあるから、何でも勝手にやるなよ」


 相馬先輩がすかさず止めます。


「細かい」


「選挙は細かいんだよ」


「じゃあ先生に聞きながらやる」


「俺は選挙参謀じゃねえ」


「じゃあ、こはるさん」


「私もまだ見習いです!」


 しかも未来の選挙年齢で一回事故りました。


 危険です。


 そのとき。


 事務所の電話が鳴りました。


 私が取ります。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『総務課、沢渡です』


 またですか。


「どうしました?」


『森川さんの件ですが』


「はい」


『窓口案内を改めます』


「え?」


『市長選と市議会議員選挙では、被選挙権の住所要件が異なることを、職員向けの資料に明記します』


 私は目を瞬きました。


「そこまで?」


『また同じ誤解をされても面倒ですから』


「合理的ですね」


『私はいつも合理的です』


「自分で言うんですね」


『それと』


「はい」


『十九歳の方に投票できると言わないように』


 私は固まりました。


「……聞いてたんですか」


『総務課で大声を出せば聞こえます』


「忘れてください」


『記録には残しません』


「それ絶対覚えてる言い方!」


 電話が切れました。


「沢渡か?」


 相馬先輩が聞きます。


「窓口案内、直すそうです」


「へえ」


「市長と市議で住所要件が違うことを職員向けに書くって」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「なら無駄足ではなかったな」


「はい」


 たった一人の立候補相談。


 でも。


 ひとつ勘違いが見つかれば、


 次の人は迷わずに済む。


 ああ。


 最近この仕事をしていると。


 法律って、


 誰か一人を助けるだけじゃなく、


 次に同じ場所を通る人の道標にもなるんだなと思います。


 夕方。


 森川さんと美咲さんが帰ったあと。


 私はノートの端に今日のことを書きました。


 住民。


 選挙権。


 被選挙権。


 三つの言葉。


 似ている。


 でも重ならない。


「先輩」


「何だ」


「今日の教訓、できました」


「聞いてねえ」


「聞いてください」


「嫌だ」


「いきます」


「勝手にしろ」


 私はペンを持ちました。


 ――住民だから投票できる、投票できるから立候補できる、ではない。権利ごとに要件を見ろ。


「長い」


「内容が大事です」


「短くしろ」


「じゃあ」


 考えます。


 そして書き直しました。


 ――住所を見る前に、「選ぶ側」か「選ばれる側」かを見ろ。


 相馬先輩が煙草を止めました。


「まあ、それなら覚えやすい」


「褒めました?」


「気のせいだ」


 またそれです。


「でも不思議ですよね」


「何が」


「森川さん、市外に住んでるのに市長に立候補できるんですよ」


「まだ言ってんのか」


「だって市長ですよ?」


「法律がそうなってんだ」


「それで十九歳の美咲さんは投票できない」


「昭和だからな」


「未来では十八歳からなんです」


「また未来の話か」


「本当ですよ」


「じゃあ未来へ帰って投票しろ」


「帰り方が分からないんです!」


 奥から片桐所長の声が飛びました。


「こはる」


「はい」


「お前は何歳だ」


「十八です」


 沈黙。


 相馬先輩が。


 ゆっくりこちらを見ました。


「……お前」


「はい?」


「選挙権ねえじゃねえか」


 私は固まりました。


「あ」


 そうでした。


 現代では。


 十八歳の私は、有権者です。


 でも。


 昭和六十三年では。


 私はまだ、


 選ぶ側ですらない。


「……なんか急に悔しいです」


「知らねえよ」


「地方自治についてこんなに勉強してるのに!」


「二十歳になれ」


「二年もあります!」


「法律に文句言え」


「不服申立てできます?」


「できねえ」


「条例で何とか」


「できねえ」


「住民監査請求で」


「できねえ!」


 相馬先輩がとうとう吹き出しました。


 片桐所長まで肩を揺らしています。


「笑わないでください!」


「こはる」


 所長が言いました。


「今日、何を学んだ」


「権利ごとに要件を見ろ、です」


「なら自分にも適用しろ」


「はい……」


 私はノートに、もう一行だけ付け足しました。


 ――昭和六十三年、十八歳の私は住民にはなれても、有権者にはなれない。


 悔しい。


 ものすごく悔しい。


 でも。


 だからこそ分かりました。


 地方自治法でいう「住民」は、


 選挙権者の別名ではありません。


 町に住むこと。


 町の政治を選ぶこと。


 町の政治を担う側へ立つこと。


 それぞれに、


 別の扉がある。


 そして法律は、


 その扉ごとに違う鍵を要求する。


 年齢。


 国籍。


 住所。


 三か月。


 そして、ときには住所すら要らない。


 行政書士の仕事は。


 扉の前で、


 なんとなく開かないと思って帰ることではありません。


 鍵穴を確認すること。


 必要な鍵を一つずつ確認すること。


 そして。


 本当は開く扉なら、


 開きますよ、と本人に伝えること。


 それだけで。


 一人の人間が、


 選ばれる側へ踏み出すことだってあるのです。


「先輩」


「今度は何だ」


「二十歳になったら絶対投票します」


「好きにしろ」


「誰に入れるか、ちゃんと考えます」


「そうしろ」


「森川さんがまだ出てたら――」


「二年後まで市長選やってると思ってんのか」


「あ」


「未来人のくせに時間感覚どうなってんだ」


 また笑われました。


 どうやら私は。


 昭和の選挙制度を覚える前に、


 まず暦から勉強し直した方がよさそうです。

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