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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 地方自治法

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337/701

[地方自治法・監査委員と外部監査]現場編 「外の専門家に監査してもらえばいい」の罠。昭和にはまだ存在しない外部監査と、二人の監査委員を動かす住民の一枚

挿絵(By みてみん)

 帳簿は、黙っています。


 誰が怒っても。


 誰が言い訳しても。


 数字だけは、黙ってそこに残ります。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


「三百八十万円です」


 朝一番。


 相談机の向こうに座った男性は、新聞の切り抜きを叩きました。


「たった三日ですよ?」


「三日で三百八十万?」


 私は思わず聞き返しました。


「観光振興の視察です」


 男性は五十代くらい。


 駅前商店街で文房具店を営む、


 宮崎昭夫さん。


 眼鏡。


 作業着。


 怒鳴るというより、怒りを長期間煮込んできた顔をしています。


「市の観光振興課の職員と、観光協会の役員と、市議会の先生方が東京と横浜へ視察に行ったそうです」


「何人で?」


「十二人」


「十二人……」


「それで三百八十万円」


 私は新聞記事を見ました。


 ――湖西市、観光拠点整備に向け先進地視察。


 市では駅前再整備と観光振興を一体的に進めるため、首都圏の観光施設等を視察した。


 短い記事です。


 写真にはスーツ姿の一行。


 背景には立派なホテル。


「何が問題なんです?」


 私は尋ねました。


「市役所に聞いたんです」


「はい」


「旅費の内訳を」


「はい」


「そしたら『適正に執行しています』で終わりですよ」


「領収書は?」


「見せない」


「宿泊先は?」


「答えない」


「何を視察したかは?」


「大まかな日程しか出さない」


 宮崎さんは鞄から紙を取り出しました。


 鉛筆で手書きされた日程表。


 一日目。


 東京駅着。


 観光施設視察。


 意見交換会。


 二日目。


 都市型観光施設視察。


 関係団体との懇談。


 三日目。


 横浜市内視察。


 帰庁。


「……ざっくりしてますね」


「でしょう?」


「『観光施設』しか書いてない」


「それで三百八十万です」


「十二人なら、一人三十万円ちょっと……」


 昭和の物価を考えても。


 かなり気になる。


「何に使ったのか知りたいだけなんですよ」


 宮崎さんは言いました。


「視察が必要なら行けばいい。仕事なら文句はない」


「はい」


「でも、市民の金でしょう」


 その言葉で。


 私の頭の中に、一つの制度が浮かびました。


 監査。


 そうです。


 地方自治法。


 監査委員。


 財務監査。


 住民による監査請求。


 そして――。


「だったら、外部監査を――」


「ないぞ」


 相馬先輩が言いました。


「まだ最後まで言ってません」


「顔に書いてある」


「またですか」


「お前は未来の制度を思いつくと目が輝く」


「嫌な特殊能力ですね」


 私は咳払いしました。


「いや、その……市役所内部の監査だけだと市民として納得しづらいなら、公認会計士とか弁護士とか、外の専門家に――」


「だから」


 相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけます。


「ない」


「……え」


「昭和六十三年だぞ」


「……」


「外部監査制度は、まだねえ」


 私は固まりました。


 いや。


 待って。


 地方自治法。


 監査委員。


 包括外部監査。


 個別外部監査。


 行政書士試験。


 何度も見た。


 都道府県や政令指定都市、中核市。


 包括外部監査。


 条例があれば個別外部監査。


 公認会計士。


 弁護士。


 税理士。


 専門家。


 そこまで頭の中で並んでから。


「……何年です?」


「何が」


「外部監査制度」


「未来人なら自分で思い出せ」


 脳内年表をひっくり返す。


 平成九年。


 地方自治法改正。


 外部監査制度創設。


「一九九七年……」


「今は?」


「一九八八年……」


「九年早い」


「九年!」


 私は机に突っ伏しました。


「また未実装!」


「役所の制度を電化製品みたいに言うな」


「だって便利そうな制度、ことごとくまだないじゃないですか!」


 指定管理者。


 ない。


 国地方係争処理委員会。


 ない。


 外部監査。


 ない。


 昭和六十三年。


 現代人が地方自治法を使おうとすると、とにかく武器庫の半分に、


 ――近日実装予定。


 と札がかかっています。


「じゃあ」


 私は顔を上げました。


「監査委員に行政監査をしてもらえば」


 今度は。


 片桐所長が帳簿から顔を上げました。


「こはる」


「はい」


「それもない」


「…………はい?」


「一般行政事務を対象とする行政監査の権限が整備されるのは、もう少し先だ」


 私は完全に止まりました。


「ちょっと待ってください」


「待っても制度は早くできん」


「そんな!」


 未来の私は知っています。


 監査委員は、


 財務監査だけではなく、


 一般行政事務についても行政監査を行える。


 でも。


 昭和六十三年の今。


 そこまでまだ制度が広がっていない。


「……つまり」


 私は言いました。


「現代の監査委員制度をそのまま持ち込むと」


「事故る」


 相馬先輩。


「かなり派手に」


「事故る」


「二回連続で?」


「外部監査と行政監査。二台まとめて事故ったな」


「笑わないでください!」


 宮崎さんがぽかんと私たちを見ています。


「あの」


「すみません」


 私は姿勢を正しました。


「要するにですね」


「はい」


「外の専門家に監査してもらう制度は、今はまだありません」


「そうなんですか」


「はい……」


 言っていて、自分が一番つらい。


「じゃあ、市役所の中で、市役所が自分を見るしかないってことですか」


 その問いに。


 片桐所長が答えました。


「違います」


「え?」


「監査委員は、市長の部下ではありません」


 宮崎さんの顔が上がりました。


 所長は静かに続けます。


「長から独立した執行機関です」


 私はそこで背筋を伸ばしました。


 そうだ。


 外部監査はない。


 現代型の行政監査もまだない。


 でも。


 監査委員はいる。


 普通地方公共団体には、


 監査委員を置かなければならない。


「湖西市にも?」


「います」


 所長が答えます。


「二人」


「二人だけですか」


「この規模の市ならな」


 ここで受験知識が戻ってきます。


 監査委員の定数。


 都道府県や一定の大きな市。


 四人。


 その他の市や町村。


 二人。


 細かい数字。


 昔の私は、


 四人。


 二人。


 四人。


 二人。


 と呪文のように覚えていました。


 でも。


 市民の三百八十万円が目の前に置かれると、


 その二人が急に実在の人間になります。


「誰が選ぶんです?」


 宮崎さんが聞きました。


「市長です」


「じゃあ市長の身内じゃないですか!」


「待ってください」


 私は言いました。


「市長が一人で勝手に決めるわけではありません」


「じゃあ?」


「議会の同意が必要です」


 長が、


 議会の同意を得て、


 監査委員を選任する。


 そして。


 選ばれたあとは、


 監査委員自身が独立して職務を行う。


「市長が選んだなら、市長の言うことを聞け、とはならないんです」


「でもクビにできるでしょう」


「好き勝手にはできません」


 片桐所長が答えます。


「監査委員の独立を壊すような罷免は許されない」


「へえ……」


 宮崎さんが少しだけ身を乗り出しました。


「じゃあ、その人たちに調べてもらえるんですか」


「問題は」


 相馬先輩が言いました。


「何を調べさせるかだ」


 来ました。


 実務。


 制度の名前を知っているだけでは足りない。


 監査の対象に乗せなければならない。


「今回」


 私は新聞を見ます。


 観光政策そのものが良かったか。


 駅前再整備の方針が正しかったか。


 視察先の選択が有意義だったか。


 そういう政策判断一般を、


 今の私は簡単に『行政監査してください』とは言えない。


 でも。


 旅費。


 宿泊費。


 交通費。


 委託料。


 会議費。


 公金の支出。


 こっちは違う。


「財務です」


 私は言いました。


「何?」


「観光振興政策全体を監査してくれ、じゃなくて」


 日程表を指します。


「この視察に使った三百八十万円の支出が、適正だったか」


 所長がこちらを見ました。


「続けろ」


「支出命令はどうなっているか」


「うん」


「誰の旅費を、市がどの費目で負担したのか」


「うん」


「宿泊費はいくらか」


「うん」


「懇談会費用に公金が入っているなら、その根拠は何か」


「そうだ」


 見えてきた。


 昭和だから、


 現代の便利な監査制度は使えない。


 でも。


 財務監査という芯はある。


「つまり」


 私は言いました。


「『旅行が気に入らない』じゃなくて、『公金の支出として正しかったか』に落とし込む」


「やっと仕事になったな」


 相馬先輩が言いました。


「さっきまで何だったんです?」


「未来観光」


「視察より無駄じゃないですか!」


 宮崎さんが、初めて少し笑いました。


 そこへ。


 片桐所長が一枚の紙を出しました。


「もう一つ方法がある」


「何です?」


「住民から監査を求める」


 宮崎さんの目が動きます。


「私が?」


「一人でできるものと、一定数の署名を集めて行うものは区別しなければならない」


 私はペンを持ちました。


 ここ。


 危険地帯です。


 地方自治法の住民による監査制度には、


 似たような名前が並んでいる。


 事務監査請求。


 住民監査請求。


 ここを雑に混ぜると死にます。


「今回、宮崎さんが疑っているのは公金支出です」


 私は言いました。


「まず支出の事実をもっと固めましょう」


「署名を集めるんじゃないんですか」


「それも制度としてはあります」


 住民による事務監査請求。


 有権者総数の五十分の一以上の連署。


 監査委員に請求する。


 試験では、


 五十分の一。


 監査委員。


 これを覚える。


 でも。


 実務でいきなり何百人分もの署名を集めさせる前に、


 何が問題なのかを絞らなければならない。


 しかも今回の中心は、


 公金の支出。


「数字から行きましょう」


 片桐所長が言いました。


「数字?」


「三百八十万円。その中身だ」


 午後。


 私たちは市役所へ向かいました。


 二階。


 総務課。


 そして。


「また皆さんですか」


 沢渡課長。


 今日も灰色の背広。


 今日も細い眼鏡。


 今日もこちらのやる気を三割削る声。


「よく会いますね」


 私が言うと、


「朝比奈さん方がよく来るんです」


「そうとも言います」


 相馬先輩が新聞記事を机に置きました。


「観光振興視察」


「ああ」


「三百八十万」


「何か問題が?」


「それを調べに来た」


 沢渡課長の顔は変わりません。


「適正に執行されています」


「その言葉、便利ですね」


 私が言う。


「適正だから適正です、で全部終わる」


「事実ですから」


「なら」


 私は用意した紙を出しました。


「内訳を確認させてください」


「どういう立場で?」


「宮崎昭夫さんから依頼を受けています」


「宮崎さん……文房具店の」


「ご存じで」


「市役所も利用しています」


「じゃあ今後も買ってください」


「それとこれは別です」


 強い。


 雑談を一瞬で切られました。


 相馬先輩が鼻で笑います。


「宿泊費」


 私は読み上げました。


「交通費」


「はい」


「日当」


「はい」


「観光協会関係者の費用負担」


「はい」


「議員分の支出区分」


「はい」


「懇談会費」


 そのとき。


 沢渡課長の指が止まりました。


 ほんの少し。


「何です?」


「別に」


「懇談会費ですね」


「朝比奈さん」


「はい」


「人の顔を見るより書類を見てください」


「今の顔は書類より情報量がありました」


「ありません」


 やっぱりここだ。


「懇談会って」


 相馬先輩が言いました。


「酒、出たのか」


「交流会です」


「聞いてねえ。酒が出たか」


「飲食を伴う意見交換です」


「誰の金だ」


「必要な範囲で公費を――」


「必要な範囲?」


 相馬先輩の声が一段低くなりました。


「観光行政のためなら、どこまで飲んでも公務になるんだ」


「そういう表現は適切ではありません」


「適切かどうかは帳簿見りゃ分かる」


 沢渡課長の目が細くなりました。


「監査でも求めるおつもりですか」


 来た。


 私は一歩前へ出ます。


「必要なら」


「何の監査を?」


 試されている。


 私は口を開きました。


「行政監――」


 寸前。


 脳内に相馬先輩の、


 ないぞ。


 が響きました。


「……財務監査の対象になる問題です」


 セーフ!


 未来人、事故回避。


 沢渡課長が一瞬だけこちらを見ました。


「何です?」


「いえ」


「今、絶対何か思いましたよね」


「別に」


 この人まで気のせいを使い始めた。


「市の観光政策全体を監査しろと言っているわけじゃありません」


 私は続けます。


「今回の視察に関する財務事務です」


「具体的には?」


「旅費の支出」


「はい」


「公費負担の対象者」


「はい」


「飲食費の支出根拠」


「はい」


「支出命令と予算科目」


「はい」


「観光協会が負担すべき費用を、市が負担していないか」


 沢渡課長は黙りました。


「そこまで整理されるなら」


「監査対象になりますよね」


「財務に関する事務としての問題であれば」


「ですよね」


「ただし」


 沢渡課長が言いました。


「監査委員は、市民が不満を言えば何でも調査する苦情処理機関ではありません」


「分かっています」


「視察が無駄だった、という政治的評価と」


「公金支出の適否は分ける」


「そうです」


 くっ。


 敵なのに正しい。


 今日もこの人は、法律論ではちゃんとしているから扱いづらい。


「じゃあ」


 私は言いました。


「監査委員は市長の指揮命令を受けるんですか」


「受けません」


「市長が選んだ委員でも?」


「選任と職務上の独立は別問題です」


「議会の同意も要りますよね」


「ええ」


「市長が気に入らない結果を出したからって、自由にクビには?」


「できません」


「ですよね」


「朝比奈さん」


「はい」


「今日は質問形式で殴ってきますね」


「法律の確認です」


 相馬先輩が横から言いました。


「要するにだ」


「はい」


「市長の金の使い方を、市長が自由に首を切れる人間に監査させる制度じゃ意味がねえ」


「言葉は悪いですが」


「悪いだけで内容は合ってるだろ」


「概ね」


 概ね。


 沢渡課長式の最大級の肯定です。


 私は監査委員室の所在を確認しました。


 市役所三階。


 総務課とは別。


 小さな部屋。


 監査委員事務局。


「直接、資料を出します」


 私は言いました。


「どうぞ」


「止めないんですね」


「止める権限がありません」


 沢渡課長は即答しました。


「監査委員は独立した執行機関ですから」


 その言葉に。


 少しだけ鳥肌が立ちました。


 外部監査はない。


 行政監査もまだない。


 便利な現代制度はことごとく封じられた。


 それでも。


 市長とは別のところに、


 帳簿を見る人がいる。


 昭和にも。


 ちゃんといる。


 その日の夕方。


 事務所。


 私たちは机を資料で埋め尽くしました。


「まず人数」


 十二人。


「市職員」


 六人。


「議員」


 三人。


「観光協会」


 三人。


「支出総額」


 三百八十二万四千円。


「新聞は丸めて三百八十万ですね」


「細かく出せ」


 相馬先輩が言います。


「監査に『だいたい』は要らねえ」


「はい」


 次。


 交通費。


 宿泊費。


 日当。


 会場費。


 現地案内費。


 懇談会費。


「これ」


 私は指を止めました。


「何だ」


「二日目の宿泊費」


「うん」


「一人あたり……高くないですか」


「場所は」


「横浜」


「ホテル名は」


「記載なし」


「領収書」


「未確認」


 さらに。


「観光協会の三人」


「うん」


「市の職員じゃないですよね」


「当たり前だ」


「この人たちの旅費、市が全額出してる」


 相馬先輩が資料を引き寄せました。


「根拠は」


「観光事業協力者謝金及び費用弁償……?」


「規程持ってこい」


 私は書棚へ走ります。


 こういうとき。


 法律事務所でもなく。


 裁判所でもなく。


 行政書士事務所らしい戦いになります。


 条例集。


 規則集。


 予算書。


 決算書。


 旅費規程。


 補助金交付要綱。


 派手ではありません。


 でも。


 紙と紙を重ねると、


 役所の説明に穴が開く。


「先輩」


「何だ」


「観光協会の役員全員について、費用弁償できる根拠が見当たりません」


「所長」


 片桐所長が資料を受け取ります。


 数分。


 無言。


「一人は市の非常勤委員を兼ねている」


「じゃあ一人は説明できる?」


「可能性はある」


「残り二人は」


「別の根拠が必要だ」


 さらに。


 懇談会費。


 高額な宿泊費。


 現地での移動費。


 一つ一つ、


 違法だ。


 と断言できる段階ではありません。


 でも。


 説明がつかない。


「この状態で」


 私は聞きました。


「監査を求められますか」


「断定は要らん」


 所長が言いました。


「疑問を、監査できる形にしろ」


 なるほど。


 宮崎さんの最初の言葉は、


 ――三日で三百八十万なんておかしい。


 でした。


 それだけでは感情です。


 でも今は。


 観光協会役員二名分の旅費負担の法的根拠。


 宿泊費の額と旅費規程との整合。


 懇談会費の公費支出の可否。


 支出命令及び予算科目。


 数字になった。


「行政書士って」


 私は呟きました。


「監査する人じゃないんですね」


「当たり前だ」


「でも」


 資料を並べます。


「監査してもらえる形にはできる」


 相馬先輩が煙草に火をつけました。


「それが仕事だ」


 三日後。


 宮崎さんが再び来ました。


 机の上には、


 私たちが作った資料一覧。


「これを出すんですか」


「はい」


「これだけで?」


「これだけじゃありません」


 私は説明しました。


「まず、何を問題にするのかを絞っています」


「旅行そのものじゃない?」


「はい」


「観光政策も?」


「今回は中心にしません」


「なぜです」


「今、確実に監査の土俵へ乗せやすいのは公金の流れだからです」


 宮崎さんは黙って紙を見ました。


「じゃあ」


「はい」


「東京なんか行く必要なかった、っていう私の怒りは?」


「書かなくていいです」


「書かない?」


「少なくとも中心にはしません」


「どうして」


「怒りより数字のほうが強いからです」


 自分で言って。


 少し驚きました。


 昔の私なら、


 住民の気持ちをもっと書いたほうが伝わる。


 と思ったかもしれない。


 でも。


 監査委員に必要なのは、


 市民がどれだけ腹を立てたかではない。


 財務処理が適正だったのか。


 その判断材料です。


「監査委員って」


 宮崎さんが言いました。


「市長の敵なんですか」


「違います」


「味方?」


「それも違います」


「じゃあ何なんです」


 私は少し考えました。


「帳簿の味方です」


 相馬先輩が吹きました。


「何ですか」


「いや」


「おかしいです?」


「妙に合ってる」


 片桐所長が言いました。


「誰の味方かで考えるな」


「はい」


「適正かどうかを見る」


 それだけ。


 たぶん。


 監査という制度にとって、


 その距離感が一番大切です。


 一週間後。


 市役所三階。


 監査委員事務局。


 総務課とは雰囲気が違いました。


 静か。


 棚。


 帳簿。


 ファイル。


 そして壁には、


 監査委員二名の名前。


「二人……」


 宮崎さんが小さく言いました。


「はい」


「市全体を見るのに?」


「はい」


「大変ですね」


「今それ言います?」


 提出した資料を受け取った職員は、


 一枚ずつ確認しました。


「視察旅費ですね」


「はい」


「観光協会関係者への支出」


「はい」


「宿泊費」


「はい」


「懇談会費」


「はい」


「分かりました」


 淡々。


 でも。


 総務課の、


 適正に執行しています。


 とは違います。


 こちらは、


 見る。


 ために受け取っている。


「監査を必ずしてもらえますか」


 宮崎さんが聞きました。


 職員は慎重に答えました。


「提出いただいた資料を確認し、監査委員に報告します」


「絶対ではない」


「はい」


「分かりました」


 宮崎さんは意外にも素直に頷きました。


 帰りの階段。


「もっと怒るかと思いました」


 私が言うと、


「最初はね」


 宮崎さんが笑いました。


「役所に乗り込んで、全部見せろって怒鳴るつもりだったんですよ」


「それは止めて正解です」


「でも」


 三階を見上げます。


「見る人が別にいるって分かったから」


 それだけでいい。


 今は。


 それから十二日後。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『沢渡です』


「課長」


『例の視察ですが』


「はい」


『監査委員から資料提出を求められました』


 私は背筋を伸ばしました。


「全部?」


『宿泊費、旅費、費用弁償、懇談会費関係です』


「そうですか」


『嬉しそうですね』


「嬉しくはないです」


『声が弾んでいます』


「気のせいです」


 ついに私まで使ってしまった。


「それで?」


『観光協会役員二名分の旅費負担について、根拠整理が不十分でした』


「……やっぱり」


『まだ結論は出ていません』


「はい」


『それと、懇談会費の一部について、公費支出として適切だったか再確認しています』


「返還になります?」


『まだ分かりません』


「監査結果待ち?」


『そういうことです』


 電話の向こうで。


 沢渡課長が一度息を吐きました。


『朝比奈さん』


「はい」


『一つ言っておきます』


「何でしょう」


『外部の人間に監査させれば、それだけで公正になるというものでもありません』


 心臓が跳ねました。


「……何でその話を」


『相馬さんから聞きました』


「先輩!」


 向こうの机で相馬先輩が新聞を持ったまま笑っています。


 裏切り者。


『制度がない時代に、ない制度を欲しがっても仕方がありません』


「それは痛いほど分かりました」


『今ある監査委員制度が機能するよう、材料を出す。それも一つのやり方です』


「課長が監査される側なのに言うんですね」


『監査されることと、監査制度を否定することは別です』


 やっぱりこの人。


 敵役なのに。


 たまに教科書みたいなことを言う。


『では』


「課長」


『何です?』


「監査委員って、市長にとって邪魔じゃないんですか」


 少し間がありました。


『邪魔でしょうね』


「認めるんだ」


『だから必要なんです』


 電話が切れました。


 私は受話器を見ました。


 そして。


 少し笑いました。


 さらに半月後。


 結果が出ました。


 視察そのものが全面的に否定されたわけではありません。


 宿泊も。


 交通費も。


 職員の出張も。


 大半は必要な公務として整理された。


 でも。


 観光協会役員二名分の費用について、


 支出根拠が明確ではない。


 懇談会費の一部について、


 公費負担の範囲が不適切。


 今後、


 支出基準を明確化し、


 関係者負担との区分を徹底すること。


 そして。


 一部については返還処理を検討する。


「三百八十万円全部じゃないんですね」


 宮崎さんが言いました。


「はい」


「戻るのは?」


「十数万円程度になりそうです」


「それだけ?」


 一瞬。


 残念そうな顔。


 でも。


 すぐに紙を見直しました。


「……いや」


「はい」


「いいです」


「いいんですか」


「最初から、全部無駄だったって証明したかったわけじゃない」


 宮崎さんは言いました。


「使うなら、ちゃんと使ってほしかった」


 その言葉に。


 私は胸の奥が少し温かくなりました。


 監査というと。


 悪事を暴く。


 不正を摘発する。


 そんな強い絵を想像します。


 でも。


 実際には。


 十数万円。


 一つの基準。


 一つの記録。


 次から同じ間違いをしない仕組み。


 そういう小さな修正の積み重ねなのかもしれません。


「朝比奈さん」


「はい」


「ありがとうございました」


「私は書類を整理しただけです」


「それが一番助かった」


 宮崎さんは鞄を閉じました。


「最初は、市役所全部がグルだと思ってました」


「すごい始まり方ですね」


「でも違った」


「はい」


「市役所の中にも、見る役目の人がいるんですね」


「います」


「市長から独立して」


「はい」


「二人だけ」


「そこ強調します?」


「少ないなあと思って」


「私も思います」


 事務所を出る前。


 宮崎さんは振り返りました。


「九年後には、本当に外の人が監査する制度ができるんですか」


 私は固まりました。


「え」


「さっき相馬さんから聞きました」


「先輩!」


「口が滑った」


「滑りすぎです!」


 未来情報管理が崩壊しています。


 宮崎さんは笑って出ていきました。


 夕方。


 机の上には、


 今回の資料が積まれていました。


 旅費規程。


 支出資料。


 観光協会の名簿。


 監査委員への提出書面。


 私はそれを一枚ずつ綴じます。


「先輩」


「何だ」


「今日の教訓、分かりました」


「聞いてねえ」


「監査って」


 私は綴じ紐を結びました。


「役所を疑うための制度じゃないんですね」


「じゃあ何だ」


「役所の中に、役所を見直す目を置く制度」


 相馬先輩は煙草をくわえたまま、


「まあな」


 と言いました。


「それと」


「まだあるのか」


「未来の便利な制度を知ってても、今存在しなければ一円の役にも立たない」


「そっちが今日一番の教訓だろ」


「悔しい」


 片桐所長が書類を棚へ戻しました。


「外部監査がなくても、監査はできる」


「はい」


「行政監査の制度が今の形でなくても、財務は見られる」


「はい」


「使える制度を使え」


「はい」


 短い。


 でも。


 たぶん、それが全部です。


 現代なら。


 外部監査。


 行政監査。


 専門家によるチェック。


 制度はもっと増えていく。


 それはきっと、


 この時代の監査だけでは足りない。


 もっと独立性がほしい。


 もっと専門性がほしい。


 一般行政まで見てほしい。


 そんな積み重ねの先に生まれた仕組みです。


 だから。


 未来の制度を知っている私は、


 昭和を見て遅れていると笑うべきじゃない。


 むしろ。


 なぜ未来で制度が増えたのか。


 その理由が、


 今日の机の上にある。


「こはる」


「はい」


「これ」


 相馬先輩が一枚の紙を差し出しました。


「何です?」


「今月の事務所経費」


「はい」


「茶菓子代が高い」


「……」


「監査するか?」


「所長」


 私は即座に振り向きました。


「相馬先輩が私的に食べた煎餅が混ざってる可能性があります」


「おい!」


「財務監査です」


「事務所に地方自治法を持ち込むな!」


「公金じゃありませんから対象外ですね」


「じゃあ言うな!」


 片桐所長が帳簿を見ました。


「相馬」


「はい」


「先月より二千円多い」


「……」


「説明しろ」


「所長!?」


 私は笑いました。


「監査委員、ちゃんと機能してますね」


「誰が監査委員だ!」


「独任制ですよ、先輩」


「意味分かって言ってんのか!」


「一人一人が独立して権限を行使する!」


「今そこだけ正確に言うな!」


 窓の外。


 市役所の三階には、もう灯りがついていました。


 きっと。


 監査委員室の机にも、


 今日また別の帳簿が置かれているのでしょう。


 帳簿は黙っています。


 でも。


 黙っているからこそ、


 見る人間が必要です。


 市長でもない。


 担当課でもない。


 怒っている住民でもない。


 適正だったか。


 ただ、それを見る人。


 昭和六十三年。


 外部監査制度は、まだありません。


 一般行政事務を広く対象にする現代型の行政監査も、まだ先です。


 それでも。


 監査委員は、


 もうここにいる。


 私は今日、それを初めて、


 試験問題ではなく、


 市役所の三階にいる二人の人間として覚えました。

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