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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 地方自治法

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335/612

[地方自治法・執行機関法定主義]現場編 「市長が一番偉いんだから、市長に頼めば何とかなる」の嘘。農地売買で知る、“偉い人”ではなく“決める機関”を探す地方自治のルール

挿絵(By みてみん)

 役所という建物には、入口がひとつしかありません。


 だから私は、ずっと勘違いしていました。


 中にいる「決める人」も、ひとりなのだと。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の午後、私は市役所の組織図を眺めていました。


 市長。


 助役。


 収入役。


 総務課。


 税務課。


 農政課。


 教育委員会。


 選挙管理委員会。


 農業委員会。


 固定資産評価審査委員会。


「……多くないですか」


「何がだ」


 向かいの机で相馬先輩が煙草に火をつけました。


「委員会です」


「役所だからな」


「市長が一人いるんだから、市長の下に全部ぶら下げればよくないですか」


「お前、今すげえこと言ったぞ」


「そんな顔しないでください」


「地方自治を市長のワンマン経営にする気か」


「会社なら社長が――」


「役所を会社にすんな」


 ぴしゃり。


 もっともです。


 私は組織図を見直しました。


 現代の行政書士試験でも、地方自治法の執行機関は出てきます。


 普通地方公共団体には、長がいる。


 そして。


 法律の定めによって、


 委員会。


 または委員。


 という執行機関も置かれる。


 執行機関法定主義。


 そういう単語も覚えていました。


 けれど受験生時代の私は、


 教育委員会。


 選挙管理委員会。


 人事委員会。


 監査委員。


 農業委員会。


 固定資産評価審査委員会。


 と、ひたすら単語帳へ並べていました。


 正直。


 ポケモンの名前を覚えるより楽しくない。


「朝比奈」


「はい」


「その顔は何だ」


「暗記科目への憎しみです」


「仕事中に受験生の怨念出すな」


 そのとき。


 事務所の引き戸が勢いよく開きました。


「先生!」


 六十前くらいの男性が立っていました。


 日に焼けた顔。


 作業着。


 泥のついた長靴。


 帽子を握りしめています。


「市長に会わせてもらえませんか」


 第一声がそれでした。


 相馬先輩が煙草を灰皿へ置きます。


「何があった」


 男性は、


 大沢武雄さん。


 市の北側で田畑を持つ農家でした。


 三代続く農家。


 けれど息子さんは工場勤め。


 娘さんは嫁いで市外。


 農業を継ぐ予定はない。


 大沢さん自身も腰を痛めて、広い田んぼを管理するのがきつくなってきたそうです。


「それで、一枚だけ売ろうと思ったんです」


 大沢さんは鞄から書類を出しました。


 田。


 約八百平方メートル。


 買いたいという人もいる。


 隣村で農業をしている親戚。


 そこで農地の売買について役所へ相談した。


「そしたらですよ」


 大沢さんの声が強くなりました。


「農業委員会で難しいって言われたんです」


「許可が下りなかった?」


 片桐所長が聞きます。


「まだ正式な申請の前です。窓口で、これじゃ通らない可能性が高いって」


「理由は」


「買う人が、この市には住んでないからとか、農地が少ないとか、いろいろ」


「農業経験は」


「あります。ずっと畑やってます」


「耕作する意思は」


「ありますよ」


「通える距離か」


「車で二十分です」


 私は書類を見ました。


 何となく嫌な感じ。


 門前払いに近い。


「それで市長に?」


「はい」


 大沢さんが力強く頷きました。


「市長なら話が分かるはずです」


「ああ……」


 私は思わず声を漏らしました。


「何です?」


「いえ」


 分かります。


 ものすごく分かります。


 一般の感覚なら。


 市役所の一番偉い人。


 市長。


 なら、市役所の判断を変えられる。


 そう思います。


 私だって転生してきた当初なら、そう考えました。


 でも。


 今、机の上には組織図があります。


 市長。


 農業委員会。


 二つは別々に書かれている。


「市長に頼んでも」


 私は言いかけました。


 相馬先輩がこちらを見る。


 片桐所長も見る。


「……駄目なんですよね」


「何がだ」


 相馬先輩が意地悪そうに聞きました。


「農業委員会は、市長の部下として許可してるわけじゃない」


 大沢さんが眉を寄せました。


「どういうことです?」


 私は言葉を探しました。


「市役所の中にあるんですけど、市長が何でも決める組織じゃないんです」


「でも、市の仕事でしょう」


「はい」


「市長が一番偉いでしょう」


 ここが難しい。


 会社なら、


 社長。


 部長。


 課長。


 という縦の線で考えやすい。


 でも地方公共団体は違う。


 長。


 議会。


 そして法律によって設けられた各種の執行機関。


 全部を市長一人に集中させない仕組みがある。


 私は組織図を大沢さんの前へ滑らせました。


「農業委員会は、市長の単なる一部署じゃないんです」


「じゃあ何なんです」


「独立した執行機関です」


「独立?」


「法律が置け、と決めている機関です」


 大沢さんは組織図をじっと見ました。


「……じゃあ、市長でも命令できない?」


 私は相馬先輩を見ました。


 こういうとき、勝手に断言すると怒られます。


 案の定。


「聞くな」


「はい」


「自分で答えろ」


 厳しい。


「少なくとも、市長が『この農地売買を許可しろ』と、自分の部下に命令するみたいにはいきません」


 大沢さんの顔が曇りました。


「じゃあ駄目じゃないですか」


 その声は、


 さっきよりずっと小さくなりました。


「市長にも頼めない。農業委員会は駄目だと言う。それじゃ、どうすりゃいいんです」


 私は言葉に詰まりました。


 制度を説明したら、


 希望まで消してしまった。


 受験生なら、


 農業委員会は市町村に置く。


 ○。


 で終わります。


 でも現場では。


 その一問の向こうに、


 土地をどうするか困っている人がいます。


 腰を痛めた農家がいます。


 耕してくれる親戚がいます。


 そして、


 「市長に頼めば何とかなる」


 という最後の希望を持ってきた人がいる。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「落ち込むのは後だ」


「はい」


「何を確認する」


 私は書類を見ます。


 農地の所在地。


 地目。


 面積。


 買受予定者。


 耕作状況。


 所有農地。


 通作距離。


 農機具。


 労働力。


「農業委員会がなぜ難しいと言っているのか、具体的な理由です」


「ほかには」


「まだ正式な申請前だから、窓口での説明と、実際の審査基準が同じか確認する」


「ほか」


「買主側が許可要件を満たせる余地があるか」


「それでいい」


 相馬先輩が煙草をもみ消しました。


「行くぞ」


「どこへです」


「農業委員会」


「市長室じゃなくて?」


「決める奴んとこへ行くに決まってんだろ」


 市役所。


 農業委員会事務局。


 私は部屋へ入って、最初に少し驚きました。


 普通です。


 当たり前ですが。


 机。


 書棚。


 帳簿。


 電話。


 農地図。


 そこだけ神殿のようになっているわけではありません。


 独立した執行機関と言われると、


 もっとこう、


 法律オーラが漂っている気がしていました。


 現実は、


 湯呑みと灰皿があります。


「大沢さんの件ですね」


 事務局の職員が書類を見ました。


「はい」


 片桐所長が答えます。


「窓口で難しいと言われたそうだ」


「そうですね」


「何が難しい」


「買受予定者の経営状況です」


「住所か」


「住所だけではありません」


 そこです。


 大沢さんから聞いた話と少し違う。


 職員は資料を開きました。


「現在耕作している農地が少ない。それに今回取得する農地も含めて、農業経営として継続性があるのか。通作の状況や機械の保有状況も確認が必要です」


「市外に住んでるから駄目、ではない?」


 私が聞きました。


「それだけで駄目とは言っていません」


「でも、大沢さんはそう受け取っています」


「窓口では可能性の話をしただけです」


 ああ。


 役所あるある。


 説明した。


 でも伝わっていない。


 そして本人の頭の中では、


 「市外だから駄目」


 という一本線になっている。


「正式申請をした場合」


 相馬先輩が聞きました。


「誰が判断する」


「農業委員会です」


「市長じゃない」


「当然です」


 職員はさらっと言いました。


 当然。


 役所の人には当然。


 でも住民には当然じゃない。


 私はそこを忘れたくありません。


「委員会で審議するんですね」


「ええ」


「一人の担当者が決めるんじゃなくて」


「はい」


 合議制。


 ここで単語が生きました。


 複数の委員によって構成される。


 一人の胸先三寸で決めない。


 農地という、


 生活にも、


 地域にも、


 食料にも関わる土地の扱いを、


 合議で判断する。


 受験テキストだと一行です。


 現場だと、


 なるほど、と思う。


「じゃあ」


 私は言いました。


「委員会へ出す前に、足りない資料を揃えればいいんですね」


 職員が私を見ました。


「要件を満たすかどうかは審査します」


「はい」


「資料を出せば必ず許可するわけではありません」


「もちろんです」


「ただ」


 職員が申請予定地の図面を指しました。


「買受予定者が実際に耕作する意思と能力があるなら、そこは具体的に出してもらわないと判断できません」


 相馬先輩が口元を上げました。


「最初からそう言え」


「言っています」


「本人に伝わってねえ」


「それは……」


「伝わらなきゃ言ってねえのと同じだろ」


 職員が嫌そうな顔をします。


 その瞬間。


「相馬さん」


 背後から声がしました。


 嫌な予感。


 振り向く。


 灰色の背広。


 細い眼鏡。


 沢渡課長。


「また揉めていますか」


「揉めてねえ」


「私には揉めているように見えます」


「気のせいだ」


「便利な言葉ですね」


 沢渡課長は書類を一瞥しました。


「農地法の件ですか」


「大沢さんの売買です」


 私が言います。


「市長に頼めば何とかなると思って来たんです」


「なりません」


 即答。


「もう少し夢のある言い方ありません?」


「制度に夢を混ぜると事故が起きます」


 この人は今日も通常運転です。


「農業委員会は、市長の一課ではありません」


「そこは分かりました」


「地方公共団体の執行機関は、長だけではない」


「はい」


「法律により、委員会や委員が置かれる」


「執行機関法定主義」


 私が言うと、


 沢渡課長が一瞬こちらを見ました。


「勉強しているようですね」


「その言い方、学校の先生みたいです」


「なら一つ質問しましょうか」


「嫌です」


「市町村に置かなければならない委員会は?」


「今それやります?」


「朝比奈」


 相馬先輩が言いました。


「逃げんな」


「味方がいない」


 私は指を折りました。


「教育委員会」


「はい」


「選挙管理委員会」


「はい」


「人事委員会……ただし、置かない普通地方公共団体では公平委員会」


「はい」


「監査委員」


「それから」


「農業委員会」


「それから」


 出た。


 あと一個。


 頭の中で単語帳が高速回転します。


「……固定資産評価審査委員会」


「正解です」


 私は息を吐きました。


「市役所で抜き打ち試験やめてもらえません?」


「実務です」


「今のどこが」


「誰が決定権を持つか分からなければ、書類の出し先を間違えるでしょう」


 悔しい。


 正しい。


 ものすごく正しい。


「たとえば固定資産の評価に不服がある人が」


 沢渡課長が続けます。


「市長に『税金が高いから何とかしてくれ』と頼みに来ても、それだけでは制度上の救済にならない」


「固定資産評価審査委員会があるから」


「そうです」


「教育のことなら教育委員会」


「何でも市長が直接決める仕組みではない」


 なるほど。


 執行機関が分かれているというのは、


 単に役所の部署が多いという話ではない。


 権力の置き場所が違う。


 それぞれの専門性。


 政治的中立性。


 公正さ。


 そういうものを守るために、


 長からある程度独立した執行機関を法律で置く。


「でも」


 私はふと思いました。


「これって、昭和でも同じですよね」


「何がです?」


「委員会を法律で置くという基本構造」


「当然です」


 そこは、


 現代との制度ギャップで踏み抜くところではないらしい。


 私は少し安心しました。


 ところが。


「じゃあ将来は、地方分権が進んで、こういう委員会も自治体が自由に――」


「朝比奈」


 相馬先輩の声。


「はい」


「未来の話をするな」


「途中でした」


「お前はすぐ未来で役所を便利にしようとする」


「だって地方分権ですよ」


「法律で置けって決まってる機関まで、勝手に消せると思ってんのか」


「……思ってません」


「今ちょっと思った顔してたぞ」


 危ない。


 地方分権。


 地方公共団体の自主性。


 だから自治体が全部自由に組織を作れる。


 そう短絡すると駄目。


 一定の執行機関は、


 今も法律に基づいて置かなければならない。


 地方自治とは、


 好き勝手ではありません。


 ここ、受験生の脳みそが雑だと事故ります。


 沢渡課長が言いました。


「それに昭和六十三年なら、今よりなおさら国との関係は強い」


「来ましたね」


「何がです」


「昭和の壁」


「意味が分かりません」


 分かるのは私だけです。


 機関委任事務。


 国の強い監督。


 通達。


 現代の地方分権改革前。


 地方自治体は今よりずっと、


 国の指揮監督の影響を強く受ける。


 でも今回。


 それとは別に重要なのが、


 自治体内部でも、


 市長に権限が全部集まっているわけではないこと。


 縦だけじゃない。


 横にも分かれている。


「大沢さんの件」


 片桐所長が話を戻しました。


「正式申請前に、買受予定者の耕作能力を整理した資料を出したい」


「構いません」


 農業委員会事務局の職員が言いました。


「営農計画」


「はい」


「現在の耕作地」


「出します」


「農機具」


「一覧にします」


「通作経路」


「地図を添えます」


「家族労働力」


「確認します」


 相馬先輩が私を見ました。


「書けるな」


「はい」


「『かわいそうだから許可してください』は?」


「書きません」


「『市長も応援しています』」


「意味ありません」


「『三代続く農家です』」


「事情としては書けても、許可要件の代わりにはならない」


「よし」


 腹が立ちますが、確認としては有効です。


 行政書士の仕事。


 偉い人へ頼み込むことではない。


 決める機関を見つける。


 要件を見つける。


 事実を集める。


 そして。


 その機関が判断できる形にして紙へ落とす。


「一週間ください」


 私は職員に言いました。


「買主さんの資料、整理します」


「提出前に一度見せてください」


「見てくれるんですか」


「形式的な不足くらいなら」


「ありがとうございます」


 相馬先輩が小声で言いました。


「礼言うの早えぞ」


「いいじゃないですか」


「許可は別だ」


「分かってます」


 今日はみんな私の浮かれ防止装置です。


 一週間後。


 片桐行政書士事務所。


 机の上には書類が山になっていました。


 買受予定者。


 山岸徹さん。


 四十三歳。


 隣村在住。


 自宅から対象農地まで車で十八分。


 所有農地。


 借入農地。


 年間の作付。


 農機具。


 耕運機。


 軽トラック。


 噴霧器。


 家族の農業従事状況。


 大沢さんの田では、


 水稲を続ける予定。


 私は地図に通作経路まで赤鉛筆で引きました。


「……行政書士って」


「何だ」


「地図描く仕事、多くないですか」


「役所は場所が好きだからな」


「すごい偏見」


「間違ってるか?」


「否定しにくい」


 片桐所長が資料を一枚ずつ確認していきます。


 余計な文章を削る。


 感情を削る。


 推測を削る。


 残すのは事実。


「ここ」


 所長が指しました。


 山岸さんは農業経験が十分あり、農地を取得するにふさわしい人物である。


「主観だ」


「はい」


「消せ」


 赤線。


 代わりに、


 農業従事年数。


 耕作面積。


 農機具。


 作付実績。


 そういう事実を書く。


「『ふさわしい』と決めるのは誰だ」


「農業委員会」


「そうだ」


 私は文章を直しました。


 この作業。


 地味です。


 でも嫌いじゃありません。


 こちらが結論を叫ぶのではなく。


 向こうが結論を出さざるを得ない材料を並べる。


 それが行政書士の戦い方なのかもしれない。


 正式申請の日。


 大沢さんと山岸さんも一緒でした。


 山岸さんは緊張した顔で帽子を握っています。


「先生」


「はい」


「これで通りますかね」


 大沢さんが聞きました。


 私は少し迷って。


「分かりません」


 と答えました。


 以前の私なら、


 大丈夫です。


 と言って安心させたかったかもしれない。


 でも。


 片桐所長はいつもそうしません。


「ただ」


 私は続けます。


「少なくとも、前みたいに『市外だから難しいらしい』で終わる状態じゃありません」


「……はい」


「山岸さんが、どういう農業をしていて、どうやってこの田んぼを耕すのか。そこは書類で全部出しました」


 山岸さんが頷きました。


「あとは農業委員会に判断してもらいます」


 決める人に。


 決めるための材料を渡す。


 簡単なようで、


 それが一番大事なのかもしれません。


 二週間ほど後。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『農業委員会事務局です』


 私は背筋を伸ばしました。


「はい」


『大沢武雄さんの件ですが』


 心臓が一回、大きく鳴ります。


『委員会で審議し、許可することになりました』


「……本当ですか」


『はい』


「ありがとうございます!」


『朝比奈さん』


「はい」


『こちらに礼を言う話ではありません』


「すみません」


『要件を確認した結果です』


「はい」


 電話が切れました。


 私は受話器を持ったまま、


「通りました」


 と言いました。


 相馬先輩が新聞から顔を上げます。


「何が」


「大沢さんの農地」


「そうか」


「もっと喜びましょうよ」


「俺の土地じゃねえ」


「冷たい!」


 でも口元が少し笑っています。


 見逃しません。


 その日の夕方。


 大沢さんが事務所へ来ました。


「本当に、市長に頼まなくても通るんですね」


 第一声がそれでした。


「そりゃそうです」


 私は笑いました。


「最初から、市長の仕事じゃありませんから」


「変なもんですねえ」


「何がです?」


「同じ市役所なのに」


 大沢さんは頭をかきました。


「偉い人が一人いて、全部決めてるわけじゃないんですね」


「はい」


 私は机の組織図を見ました。


 市長。


 教育委員会。


 選挙管理委員会。


 公平委員会。


 監査委員。


 農業委員会。


 固定資産評価審査委員会。


 みんな役所の中にいる。


 でも。


 役割が違う。


 権限が違う。


 決めるものが違う。


「面倒ですね」


 大沢さんが言いました。


「はい」


 私は即答しました。


 相馬先輩が吹き出します。


「お前、そこは否定しろよ」


「だって面倒じゃないですか」


「法律の仕組みを相談者に愚痴るな」


「でも」


 私は続けました。


「面倒だからいいんですよね」


 大沢さんが首をかしげます。


「全部を市長一人が決められたら」


 教育も。


 選挙も。


 職員の人事も。


 監査も。


 農地も。


 税の評価に対する不服も。


 全部が一人へ集まってしまう。


 それは便利かもしれない。


 でも怖い。


「だから法律が」


 私は言いました。


「この仕事は、この委員会にやらせるって分けてるんです」


 片桐所長が奥から言いました。


「権限を分けるのは、不便にするためじゃない」


「はい」


「勝手をさせないためだ」


 短い。


 でも。


 たぶん今日の全部が入っています。


 大沢さんはしばらく黙って、


「なるほど」


 と頷きました。


「じゃあ、農業委員さんにも礼に――」


「行かなくていい」


 所長が即答しました。


「え」


「許可されたのは、要件を満たしたからだ」


「でも」


「礼を言うなら」


 所長は私たちを見ました。


「こいつらに茶菓子でも持ってこい」


「所長!」


 相馬先輩が即座に反応しました。


「羊羹でいいです」


「先輩まで!」


 大沢さんが大笑いしました。


 数日後。


 本当に羊羹が届きました。


 相馬先輩が包丁で妙に厚く切ろうとするので、


「大きすぎます」


「働いた量だ」


「同じ仕事しましたよね」


「俺の方が多い」


「根拠を示してください」


「俺が先輩だ」


「それは権限じゃなくて地位です」


「細けえな」


 私は羊羹を取り返しながら、


 ふと組織図を見ました。


 受験生の頃。


 私はこれを暗記表だと思っていました。


 都道府県と市町村。


 共通するもの。


 都道府県だけにあるもの。


 市町村にあるもの。


 公安委員会。


 労働委員会。


 収用委員会。


 農業委員会。


 固定資産評価審査委員会。


 どこに何を置く。


 ○か×か。


 でも。


 今日やっと分かった気がします。


 これは、


 「どこに何があるか」


 だけを覚える表じゃない。


 誰が決めるのか。


 誰がチェックするのか。


 誰に書類を出すのか。


 誰には決められないのか。


 それを示す地図なのです。


「先輩」


「何だ」


「今日の教訓、分かりました」


「聞いてねえ」


「言います」


「聞いてねえって」


 私は羊羹を一切れ確保して言いました。


「役所では、『一番偉い人』を探すんじゃなくて、『そのことを決める機関』を探す」


 相馬先輩の手が止まりました。


「……まあ、そうだな」


「お」


「何だ」


「褒めました?」


「褒めてねえ」


「気のせいですか」


「気のせいだ」


 そこへ電話が鳴ります。


 私が取ります。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『総務課の沢渡です』


 また来た。


「はい」


『大沢さんの農地の件、許可されたそうですね』


「情報早いですね」


『同じ市役所ですから』


「でも別の執行機関でしょう?」


 一瞬。


 電話の向こうが黙りました。


『朝比奈さん』


「はい」


『少し勉強したからといって、いちいちそこを強調しなくて結構です』


「使ってみたかったんです」


『そうですか』


「はい」


『では問題です』


「え?」


『都道府県にあって、市町村には置かれない委員会を三つ』


「ちょっと待ってください!」


『公安委員会』


「答え言わないでください!」


『労働委員会』


「だから!」


『収用委員会』


「全部言った!」


『では』


 切れました。


 私は受話器を見つめました。


「何だった」


 相馬先輩が聞きます。


「抜き打ち試験」


「役所も暇だな」


「絶対私で遊んでますよ、あの人」


 片桐所長が新聞から目も上げずに言いました。


「覚えたか」


「何をです?」


「今の三つ」


「……公安委員会、労働委員会、収用委員会」


「ならいい」


 ひどい。


 全員、私を教材にしています。


 でも。


 私はノートを開いて、


 今の三つを書き足しました。


 そしてその下に。


 今日の一行。


 ――役所は一枚岩じゃない。法律が権限を分け、決める者を決めている。


 そう書きました。


 窓の外では、


 夕方の市役所が見えています。


 一つの建物。


 一つの看板。


 でも中には、


 市長だけではない。


 委員会。


 委員。


 それぞれ別の権限を持つ執行機関がいる。


 外から見ると、


 ただの大きな役所です。


 でも法律で見ると。


 そこには、


 いくつもの「決める人」がいる。


 そして。


 行政書士の仕事は、


 その迷路の中で、


 誰に何を出せば法律が動くのかを見つけることなのかもしれません。


「こはる」


「はい」


「羊羹」


 相馬先輩が言いました。


「最後の一切れ、俺のだ」


「違います」


「俺が先輩だ」


「だから、それは決定権の根拠になりません」


「事務所内慣行だ」


「条例あります?」


「ねえよ」


「じゃあ却下です」


「お前が決めるな」


 私は羊羹を確保しました。


「こういう重要案件は、合議制にしましょう」


「誰と誰で合議するんだよ」


「私と所長」


「俺が入ってねえ!」


「多数決なら勝てます」


「構成から不公正だろ!」


 片桐所長が、最後の羊羹を無言で取って口に入れました。


 私と相馬先輩が止まります。


「……所長」


「何だ」


「それ、係争中でした」


「知らん」


「独任制が強すぎる!」


 どうやら。


 片桐行政書士事務所に、


 羊羹管理委員会を置くには。


 まず法律の制定から始めなければならないようです。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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