[地方自治法・長の専決処分]現場編 「市長が決めたんだから、議会はもう関係ありません」の嘘。非常時にだけ開く“議決なき処分”と、消えない議会の目
非常口というのは、普段から使うための扉ではありません。
火事。
地震。
どうしても正面玄関から出られないとき。
そんなときだけ開くから、非常口です。
――たぶん、政治にも同じような扉があります。
昭和六十三年。
六月。
梅雨前線が湖西の町に居座って、三日目の朝でした。
雨。
雨。
また雨。
窓ガラスを細い筋になって流れ落ちる水を見ながら、私は湯呑みを両手で包んでいました。
「……洗濯物、死にましたね」
「お前の洗濯物なんざ知らん」
向かいの机で、相馬先輩が新聞を広げています。
「昨日干したんですよ」
「雨の日に?」
「朝は曇りだったんです」
「馬鹿だな」
「気象庁への信頼が裏切られました」
「自分の判断だろ」
冷たい。
行政法より冷たい。
そのときです。
事務所の扉が、勢いよく開きました。
「片桐先生!」
入ってきたのは、五十代くらいの男性でした。
雨合羽。
長靴。
肩から下げた布鞄まで濡れています。
「助けてください!」
相談者は、
東栄町内会長。
柴崎源一さん。
湖西市の北側。
山裾を流れる細い川の近くにある地区の町内会長でした。
「堤防が崩れかけてるんです」
私は湯呑みを置きました。
「堤防?」
「昨日の夜から川が増水してましてね」
柴崎さんは濡れた帽子を握ります。
「市の土木課には何度も連絡しました。今朝、ようやく職員が見に来たんですが」
「危ない状態なんですか」
「はい」
柴崎さんは大きく頷きました。
「あと雨が一晩続いたら、下の家まで水が行くかもしれないって」
冗談の余地が消えました。
「市は何と?」
片桐所長が聞きます。
「応急工事をするって言ってくれました」
「なら、動くんじゃないのか」
相馬先輩が新聞を畳みました。
柴崎さんは首を振ります。
「ところがですよ」
来ました。
役所トラブルの「ところが」。
だいたいここから話がややこしくなります。
「工事費が足りないんだそうです」
「予算?」
「はい。土のうだの重機だのを緊急で入れるには、今ある予算じゃ足りない。それで補正予算が必要だとか」
「議会は?」
相馬先輩が聞きます。
「閉会中だそうで」
なるほど。
私は頭の中でぼんやり絵を描きました。
予算。
地方議会。
議決。
市長。
行政法の世界で予算は、首長が好き勝手に財布を開けられるものではありません。
議会で決める。
そして長が執行する。
つまり。
「臨時会を開けばいいんじゃないですか」
私は言いました。
柴崎さんが私を見る。
「臨時会?」
「議会を招集して、補正予算を議決してもらうんです」
「間に合いますか」
「え」
「今晩も大雨の予報です」
私は止まりました。
そう。
そこです。
制度は正しくても、
時間がない。
「じゃあ……」
頭の中で別の言葉が浮かびました。
専決処分。
地方自治法。
長の専決処分。
議会の議決を経ずに、
長が処理できる場合がある。
「所長」
「何だ」
「専決処分って使えませんか」
片桐所長はすぐには答えませんでした。
「どの専決だ」
「どの?」
私は一瞬固まります。
「専決処分って、一個じゃ……」
「朝比奈」
相馬先輩が煙草を一本取り出しました。
「受験生の顔になってるぞ」
「なってません」
「なってる。『単語は覚えてます』って顔だ」
嫌な見抜き方をします。
「法定の専決処分と、議会から委任された専決処分」
相馬先輩が言いました。
「あ」
「同じ専決処分でも、別物だ」
そうでした。
地方自治法には、
長が法律上の事情によって議会の議決を経ず処理できる専決処分と、
議会があらかじめ軽易な事項を長に任せておく専決処分。
二種類ある。
「今回のは」
私は柴崎さんの話を思い返しました。
堤防。
大雨。
今晩も降る。
補正予算。
議会は閉会中。
臨時会を招集している余裕が――
「あ」
「気づいたか」
相馬先輩が言います。
「緊急」
私は呟きました。
「特に緊急を要するため、議会を招集する時間的余裕がないとき」
片桐所長が頷きました。
「調べろ」
「はい」
「まだ決めつけるな」
ですよね。
法律用語で、
「緊急です」
という言葉ほど気をつけるべきものもありません。
本人が慌てている。
行政が急いでいる。
政治的に早く決めたい。
それだけで、
法律上の「特に緊急を要する」に化けるわけではない。
私は柴崎さんに聞きました。
「川の状態が分かるもの、ありますか」
「写真なら」
鞄から出てきたのは、濡れないよう透明な袋へ入れた写真でした。
茶色く濁った川。
護岸の一部。
削られた土。
斜面。
近くに住宅。
「これ、いつです?」
「今朝六時です」
「市の職員は現地を確認した?」
「八時ごろ」
「危険性について何か書面は?」
「土木課の人がメモを置いていきました」
見る。
降雨継続の場合、
護岸洗掘拡大のおそれ。
応急補強を要する。
私は息を吐きました。
なるほど。
少なくとも、
「町内会長が不安だから何とかしてくれ」
という段階ではない。
市自身が応急対応の必要性を認めている。
「問題は」
片桐所長が言いました。
「市がなぜ動いていないかだ」
午前十一時。
私たちは市役所にいました。
総務課。
窓際の机。
そしていつもの人。
「またですか」
沢渡課長。
「その言い方、そろそろ傷つきますよ」
「朝比奈さんが傷つく程度なら、市役所は平和ですね」
「今日、わりと本当に危ない話です」
「承知しています」
沢渡課長の机にも、東栄地区の地図が広がっていました。
赤鉛筆で川沿いに印があります。
すでに庁内で話は動いているらしい。
相馬先輩が椅子へ座るなり聞きました。
「応急工事を止めてる理由は何だ」
「止めているわけではありません」
「じゃあ今日やるのか」
「手続を検討しています」
「その手続を聞いてる」
沢渡課長は眼鏡を上げました。
「補正予算が必要です」
「議会は閉会中」
「ええ」
「臨時会は」
「議長側とも連絡しています」
「いつ開ける」
「最短でも数日はかかるでしょう」
「雨は今晩も降る」
「承知しています」
乾いた会話です。
外は湿気百パーセントなのに、この部屋だけ乾燥しています。
「じゃあ」
私は言いました。
「専決処分の検討はしてますか」
沢渡課長がこちらを見ます。
「しています」
「できるんですか」
「そこを今、判断しているところです」
私は少し身を乗り出しました。
「特に緊急を要するため、議会を招集する時間的余裕がない場合なら――」
「朝比奈」
相馬先輩が止めました。
「はい」
「役所の条文読み上げ係になるな」
「だって大事なところです」
「課長は知ってる」
「もちろん知っています」
沢渡課長が平然と言いました。
ちょっと恥ずかしい。
「問題は」
沢渡課長が続けます。
「本当に、議会を招集する時間的余裕がないと言えるかです」
「そこ、そんなに慎重になるんですか」
「当然でしょう」
「人命に関わるかもしれないのに」
「だからこそです」
意外な答えでした。
沢渡課長は地図の上に指を置きます。
「専決処分は、長が議会の議決を経ずに行う処理です」
「はい」
「便利だから使う制度ではありません」
私は黙りました。
「議会制民主主義の例外です」
言葉が重い。
確かに。
普通なら議会が決めるものを、
市長だけで決める。
非常時だから。
急ぐから。
それ自体は必要。
でも。
便利だから。
議会が面倒だから。
反対されそうだから。
そんな理由で使い始めたら、
議会はいらなくなる。
「じゃあ、市長は動けないんですか」
「そうは言っていません」
沢渡課長が言いました。
「緊急性について事実を固めています」
机の上に資料が並びます。
降雨予測。
河川水位。
土木課の現地確認。
周辺住宅の位置。
応急工事に必要な費用。
重機業者の確保状況。
「今日午後三時までに判断します」
「午後三時?」
「その時点で臨時会招集では間に合わないと判断されれば、市長に専決処分を上申します」
私は少し息を吐きました。
「じゃあ、間に合う」
「まだ決定ではありません」
「でも検討はしてる」
「しています」
そこへ。
相馬先輩が低い声で聞きました。
「専決したあと、どうする」
「次の議会に報告します」
「それだけか」
沢渡課長が一瞬黙りました。
「承認を求めます」
「そうだな」
私はそこで、はっとしました。
そうでした。
法定の専決処分。
やったら終わりではない。
長は次の会議で報告し、
議会の承認を求める。
事後とはいえ。
議会が完全に消えるわけではない。
「じゃあ」
私は言いました。
「議会が承認しなかったら、応急工事は無効になるんですか」
「ならねえ」
相馬先輩が即答しました。
「え」
「そこが大事だ」
私は瞬きしました。
「承認を求めるのに?」
「不承認でも、専決処分そのものの効力は消えねえ」
「……ええ?」
頭の中の「承認」という言葉と噛み合いません。
承認しない。
なら効力がなくなりそう。
普通そう思います。
「たとえば」
相馬先輩が言いました。
「今夜、堤防を直す」
「はい」
「来月、議会が開く」
「はい」
「議会が『あの専決は承認しません』と言う」
「はい」
「だからって、直した堤防を壊して元に戻すのか」
「……しないですね」
「だろ」
極端ですが、分かりやすい。
緊急に行った処理。
事後的に議会の政治的な評価は受ける。
でも。
後から不承認になったからといって、
当然に過去の処分の効力までひっくり返るわけではない。
「ただし」
片桐所長が言いました。
「不承認に意味がないわけではない」
私は所長を見ます。
「議会が認めないということは」
「政治的には重い」
沢渡課長が答えました。
「市長の判断が妥当だったのか。そもそも本当に専決処分の要件があったのか。議会から厳しく追及されることになります」
「効力が残るから、好き放題できるわけじゃない」
「当然です」
なるほど。
非常口を使った。
それで避難は成立する。
あとから、
本当に非常口を使う必要があったのか。
正面玄関を使えなかったのか。
警報は適切だったのか。
そういう検証は残る。
専決処分。
議会を無視できる魔法ではない。
緊急時に、一時的に議会の議決を待たずに動くための例外。
そして。
あとから議会の目が戻ってくる。
「課長」
片桐所長が言いました。
「今日、うちが来た理由は専決処分の講義を受けるためじゃない」
「承知しています」
「住民側から、何を出せば判断材料になる」
沢渡課長が少し黙りました。
「避難対象になる世帯数」
「うん」
「過去に越水した地点」
「うん」
「現在の護岸の損傷状況」
「他には」
「高齢者世帯、寝たきりの方など、避難に時間がかかる住民がいるなら、その情報」
私はメモしました。
「それを集めればいいんですね」
「住民個人の事情です。扱いには注意してください」
「分かりました」
「それと」
沢渡課長は柴崎さんへ視線を向けました。
「町内会として『予算を出せ』とだけ書くより、現状を時系列で整理してください」
「時系列?」
「いつ水位が上がったか。いつ市に連絡したか。いつ現地確認があったか。どの家に危険が及ぶ可能性があるか」
「分かりました」
「緊急性の判断には、感情より事実のほうが強い」
その言葉。
敵から言われると悔しいのですが。
完全に正しい。
事務所に戻るなり、私たちは書類を作りました。
件名。
東栄地区河川護岸応急措置に関する緊急要望書。
「要望書でいいんですか」
私が聞くと、相馬先輩が頷きます。
「俺たちが市長に専決処分を命令できるわけじゃねえ」
「それはそうですね」
「専決の要件に当たるか判断するのは長側だ」
「じゃあ私たちは」
「判断材料を突きつける」
なるほど。
これが行政書士の戦い方です。
私たちは議員ではない。
市長でもない。
裁判官でもない。
専決処分を決定する権限なんてない。
でも。
市が、
「まだ緊急と言えるか分かりません」
と言っているなら。
緊急だと判断するための事実を、
逃げ道がなくなるくらい整理して出すことはできる。
町内会の連絡記録。
午前四時四十分。
河川の増水確認。
午前五時十分。
護岸の土砂流出を確認。
午前五時二十分。
土木課へ第一報。
午前六時。
写真撮影。
午前八時五分。
市職員が現地確認。
午前八時二十分。
応急補強が必要との口頭説明。
午前九時。
町内会が周辺十七世帯へ注意喚起。
うち六世帯に高齢者。
二世帯に歩行困難者。
下流側の道路は、夜間冠水すると避難車両が通りにくい。
「これ」
私は書きながら言いました。
「かなり具体的ですね」
「具体的だから意味がある」
相馬先輩が写真を並べます。
「『命が危ない』だけじゃ役所は動きにくい」
「冷たいなあ」
「逆だ」
「え?」
「危ないからこそ、後から説明できる形で動かすんだ」
私は手を止めました。
「専決処分は例外だ」
先輩が言います。
「例外を使うなら、例外を使った理由を紙に残す」
「議会に報告するときのためにも」
「そういうことだ」
なるほど。
緊急時に書類なんか作っている暇があるか。
そう思っていました。
でも。
緊急だからこそ。
なぜ議会を待たなかったのか。
なぜいくら使ったのか。
なぜその工事だったのか。
後で説明できなければならない。
急ぐことと、
雑に決めることは、
同じではない。
「できた」
私は最後の一文を読み上げました。
「『以上の事情に照らし、通常の議会手続を待つことにより住民の生命、身体または財産に重大な危険が及ぶおそれがあるため、法令上可能な緊急措置を速やかに検討されたい』」
「専決しろ、と断定してないな」
「はい」
「それでいい」
所長が言いました。
「行政側が要件を判断する余地を残せ」
私は頷きました。
法律を知ったばかりの受験生は、
武器を覚えるとすぐ振り回したくなります。
専決処分!
できます!
市長やってください!
でも現場では。
条文は必殺技の名前ではありません。
要件がある。
事実がある。
そして、
その二つをつなぐ作業がある。
午後二時四十分。
市役所。
私たちは要望書を提出しました。
沢渡課長が一枚ずつ確認します。
「避難困難者まで確認しましたか」
「町内会長さんの協力で」
「個人名は別紙にしましたね」
「はい。必要部署以外へ回さないようお願いしています」
「分かりました」
沢渡課長は写真を見ます。
次に時系列。
そして時計。
午後二時五十二分。
雨音は、朝より強くなっていました。
内線電話が鳴ります。
「沢渡です。……はい。……土木課から?」
沢渡課長の表情が変わります。
「水位は。……分かりました。市長室へ上げてください」
電話を置く。
「どうしました」
柴崎さんが立ち上がります。
「上流で雨量が増えています」
「じゃあ」
「庁内会議に入ります」
沢渡課長は資料をまとめました。
「この要望書も付けます」
「課長」
私は呼び止めました。
「はい」
「議会、本当に待たなくていいんですか」
自分でも変な質問でした。
さっきまで、
早く専決してください、
と思っていたのに。
今は逆に。
本当に市長だけで決めていいのか。
それが怖くなっている。
沢渡課長は私を見ました。
「朝比奈さん」
「はい」
「待てるなら待ちます」
「……はい」
「待てない場合だけ、待たない」
それだけ言って、
沢渡課長は部屋を出ました。
私はしばらく黙っていました。
「分かりやすいですね」
相馬先輩が言います。
「何が」
「専決処分」
待てるなら待つ。
待てないなら、
例外的に長が決める。
そして後で議会へ戻す。
当たり前みたいです。
でも。
その当たり前を制度にするのが法律なんでしょう。
午後四時十五分。
市役所から電話がありました。
片桐所長が受話器を取ります。
「はい。……そうですか。……分かりました」
短い。
電話を切る。
「所長?」
「市長が専決した」
私は立ち上がりました。
「補正予算?」
「応急復旧費」
「じゃあ工事は」
「今夜から入る」
柴崎さんが、
その場で深く頭を下げました。
「ありがとうございます」
「うちに礼を言う話じゃない」
片桐所長が言います。
「市が判断した」
「でも、書類を――」
「必要な事実を整理しただけです」
柴崎さんはそれでも何度も頭を下げました。
「これで、みんなに言えます」
「まだ安心は早いですよ」
相馬先輩が言いました。
「今夜は避難の準備もしてください」
「はい」
「工事したから絶対安全、なんて話じゃない」
「分かりました」
ここも大事です。
法律が動いた。
予算が出た。
重機が入る。
だから災害が消えるわけではない。
法律は雨を止めてくれません。
ただ。
雨の中で、
人が動けるようにする。
二日後。
雨は上がりました。
護岸には大型の土のうが積まれ、
崩れた部分には応急補強が入りました。
東栄地区に大きな被害は出ませんでした。
柴崎さんは、
「助かりました」
と電話をくれました。
それで一件落着。
――ではありません。
一週間後。
市議会。
傍聴席。
「え?」
私は議場を見下ろしていました。
「何で怒ってるんですか」
議員の一人が声を張っています。
「市長! なぜ議会へ事前説明がなかったんですか!」
私は横の相馬先輩を見る。
「緊急だったからじゃないんですか」
「だから説明してんだろ」
「え」
「今日」
「あ」
そうか。
次の会議。
専決処分をした市長は、
議会へ報告し、
承認を求めなければならない。
今。
まさにそれをやっている。
市長が答弁します。
東栄地区の護岸損傷。
降雨予測。
河川水位。
周辺住民の状況。
臨時会招集に必要な時間。
応急工事の必要性。
そのため、
議会を招集する時間的余裕がないと判断した。
地方自治法上の専決処分を行った。
「全部説明するんですね」
「当たり前だ」
「専決したから終わりじゃない」
「何度言わせる」
議員がさらに質問します。
「工事費の見積りは適正だったのか」
「なぜこの業者だったのか」
「他の危険箇所との優先順位は」
「本当に議会を招集する余裕がなかったのか」
厳しい。
かなり厳しい。
でも。
それを聞いて、
私は少し安心しました。
専決処分。
言葉だけ聞くと、
市長が一人で決めて終わり。
そんな強権的な響きがあります。
でも違う。
緊急時には動ける。
ただし。
後から説明する。
議会が検証する。
承認を求める。
議会の議決を一時的に飛ばすことはできても、
議会そのものを消すことはできない。
「採決に入ります」
議場が静かになります。
結果。
承認。
私は思わず息を吐きました。
「よかった」
相馬先輩が横目で見ました。
「不承認でも工事の効力は消えねえぞ」
「分かってます」
「じゃあ何で安心した」
「ちゃんと議会も納得したってことでしょう」
「まあな」
今回の専決処分が、
本当に緊急時の例外として妥当だった。
議会もそれを認めた。
その意味は小さくない。
帰り道。
私はまだ考えていました。
「先輩」
「何だ」
「専決処分って、思ってたより怖い制度ですね」
「今さらか」
「だって、市長が議会を飛ばせるんですよ」
「要件がある」
「はい」
「後で報告もする」
「はい」
「承認も求める」
「はい」
「なら何が怖い」
「便利すぎるからです」
相馬先輩が少しだけこちらを見ました。
「便利な例外って」
私は続けました。
「使う側が慣れたら、例外じゃなくなるでしょう」
相馬先輩は、珍しくすぐ答えませんでした。
「まあな」
「緊急だから」
「うん」
「時間がないから」
「うん」
「議会が決めないから」
「うん」
「そう言えば市長が一人で決められるなら、議会の意味が薄くなる」
「だから要件を絞ってる」
「なるほど」
法律というのは、
誰かに力を与えるとき、
同時にその力を囲う柵も作るらしい。
ところが。
その三日後。
また専決処分の相談が来ました。
「ええと」
私は紙を見ました。
「市営住宅の修繕?」
「そうだ」
相馬先輩が言います。
「市議会で、一定額以下の軽微な損害賠償や契約関係について、市長が専決できるよう指定してる」
「また緊急ですか」
「違う」
「議会が開けない?」
「違う」
「じゃあ何で専決できるんです?」
相馬先輩がため息をつきました。
「朝比奈」
「はい」
「この前、言ったろ」
「何を」
「専決処分は一個じゃねえ」
「あ」
来ました。
もう一つ。
議会委任の専決処分。
議会の権限に属する軽易な事項で、
議会が議決によって特に指定したもの。
それなら、
長が専決処分できる。
「これも議会に後で承認を――」
「要らねえ」
「え」
「報告は要る」
「承認は?」
「要らねえ」
「何でです?」
「議会が先に『これなら市長がやっていい』って決めてるからだ」
あ。
なるほど。
前回の専決処分。
緊急だから、
本来議会で決めることを例外的に市長が先に処理した。
だから、
後で議会に報告して、
承認を求める。
今回。
議会自身が、
この程度の軽易な事項なら、
毎回いちいち議決しなくていい。
市長に任せます。
と事前に指定している。
だったら。
「あとで『承認してください』って言うのは変ですね」
「そういうことだ」
「だって最初から任せてる」
「そういうことだ」
「でも報告はする」
「そういうことだ」
「先輩今日それしか言ってませんよ」
「理解が遅えからだ」
ひどい。
私は紙の端に書きました。
法定の専決処分。
緊急など、法律上の事情。
議会の議決なしで処理。
次の会議で報告。
承認必要。
不承認でも処分の効力には影響しない。
議会委任の専決処分。
軽易な事項。
議会があらかじめ議決で指定。
長が処理。
報告必要。
承認不要。
「似てるのに」
私は言いました。
「最後が違う」
「入り口も違う」
片桐所長が言いました。
「入り口?」
「なぜ長が議会を待たずに処理できるのか」
「あ」
「法定専決は、法律が例外を認める事情があるから」
「はい」
「議会委任専決は、議会自身が先に任せたから」
「なるほど」
入り口が違うから、
出口も違う。
法定専決は、
議会の事前議決がない。
だから事後承認まで求める。
議会委任専決は、
議会が事前に委任している。
だから事後報告だけ。
「覚えやすい……」
「試験勉強みたいな顔するな」
「試験に出るんですよ、これ」
私はノートを取り出しました。
その瞬間。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『総務課の沢渡です』
「あ、課長」
『東栄地区の件で一点』
「何でしょう」
『町内会から、市長へ礼状を出したいと相談がありました』
「いいんじゃないですか」
『内容を確認していただけますか』
「もちろんです」
『ただし』
「はい」
『「市長の英断で、議会を通さず迅速に決断していただいた」と書いてあります』
「……ああ」
私は額を押さえました。
気持ちは分かります。
ものすごく分かります。
でも。
「それ、ちょっと違いますね」
『でしょう』
「議会を通さなかったこと自体を褒めちゃ駄目ですよね」
『ええ』
沢渡課長の声がほんの少し柔らかくなりました。
『制度上許された緊急の例外を使っただけです』
「じゃあ書き換えます」
『お願いします』
「課長」
『何でしょう』
「専決処分って」
『はい』
「市長が強い制度に見えて、実は議会の存在をすごく意識した制度なんですね」
一瞬。
電話の向こうが静かになりました。
『そう理解できたなら』
「はい」
『今回は朝比奈さんにしては上出来でしょう』
「余計な一言!」
切れました。
腹立つ。
でも。
反論しづらい。
その日の夕方。
柴崎さんが事務所へ来ました。
「先生方、本当にありがとうございました」
「被害がなくて何よりです」
片桐所長が言います。
「市長さんにも、お礼を言おうと思って」
「聞きました」
私は礼状の下書きを机へ置きました。
「少しだけ直していいですか」
「もちろんです」
「『議会を通さず決断してくれた』じゃなくて」
私はペンを持ちます。
「『緊急の状況の中、必要な法的手続に基づき、迅速に応急措置を講じていただいた』くらいにしましょう」
「何か違うんですか」
「結構違います」
「そうですか」
「議会を飛ばしたことが偉いんじゃありません」
私は言いました。
「本当に待てない状況だったから、例外を使ったんです」
柴崎さんは少し考えました。
「じゃあ」
「はい」
「普段は、ちゃんと議会で決めてもらわないといけない」
「そういうことです」
「面倒でも?」
「面倒でも」
柴崎さんは笑いました。
「民主主義って面倒ですねえ」
思わず私も笑いました。
「たぶん」
「はい」
「面倒だから、意味があるんだと思います」
誰か一人が、
全部さっさと決めれば早い。
反対意見もない。
議論もいらない。
多数決もいらない。
でも。
早いことと、
正しいことは違います。
だから普段は議会がいる。
ただ。
川があふれそうなときまで、
議論が終わるのを待っていたら、
守れるものまで失う。
だから非常口がある。
専決処分。
それは、
議会を邪魔者扱いする制度ではありません。
むしろ。
議会が必要だという原則を知っているからこそ、
例外を細く作ってある。
私は今日の教訓を、
心の中で短くまとめました。
――専決処分は「市長なら決められる」ではない。
――議会を待てない理由があるときだけ、長が先に動ける。
そして。
先に動いても、
議会の目は後ろからちゃんと追いかけてくる。
「朝比奈さん」
柴崎さんが言いました。
「今度、町内会で防災訓練するんです」
「いいですね」
「参加してくれませんか」
「私ですか?」
「法律の話も少ししてもらって」
「法律?」
「非常時に役所がどう動くかとか」
「いや、私はまだ見習いですし」
「避難袋くらい持てるだろ」
相馬先輩が言いました。
「そこですか」
「土のう積みもあるぞ」
「法律要素どこ行ったんです?」
「現場だ」
「行政書士見習いの職務範囲、広すぎません?」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「行ってこい」
「所長まで!」
「住民の話を聞くのも仕事だ」
「土のう積みは?」
「運動になる」
「法的根拠が急に弱い!」
柴崎さんが大声で笑いました。
窓の外。
三日ぶりの夕日が、
濡れた道路を橙色に光らせています。
あの雨の夜。
市長は議会を待たずに決めました。
でも。
好き勝手に決めたわけではありません。
待てなかった。
だから先に動いた。
そして後で、
なぜ待てなかったのかを議会へ説明した。
それが、
長の専決処分。
非常口は、
正面玄関が嫌いだから使うものではない。
本当に正面玄関から出ている時間がないとき。
そのときだけ開く。
私はそんなことを考えながら、
防災訓練の日付を手帳に書きました。
「先輩」
「何だ」
「土のうって何キロくらいあるんですか」
「知らん」
「重いですか」
「重いだろ」
「専決処分で免除できません?」
「できるわけねえだろ」
「議会に委任してもらえば」
「議会の権限じゃねえ」
「じゃあ法定の――」
「緊急性もねえ」
完璧に潰されました。
どうやら。
法律の非常口はあっても、
土のう積みから逃げる非常口はないようです。
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