[地方自治法・長に対する不信任議決と議会解散]現場編 「市長を辞めさせれば終わりです」の罠。三分の二、四分の三、十日間――議会と首長が互いに民意を問い返す最後の切り札
政治家同士の喧嘩なら、勝手にやってくれ。
たぶん、町の人の多くはそう思います。
でも。
その喧嘩で議会そのものが消えるとなれば、
さすがに「勝手にどうぞ」では済みません。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
朝から私は新聞を机いっぱいに広げていました。
一面ではありません。
地方版。
それも、かなり大きな見出しです。
――湖西市議会、市長不信任案提出へ。
その横。
――駅前再整備事業をめぐり対立激化。
さらにその下。
――臨時会、今週末にも。
「……戦争ですね」
「物騒な言い方すんな」
相馬先輩が煙草に火をつけました。
「でも戦争じゃないですか」
「市長と議会の喧嘩だ」
「喧嘩で済みます?」
「済まねえから新聞になってんだろ」
確かに。
事の発端は、うちの事務所でも何度か名前が出ている駅前再整備事業でした。
市長側は、
駅前を大きく作り替えたい。
商業施設。
バスターミナル。
観光案内所。
駐車場。
古い露店や仮設施設は整理する。
一方、議会側の一部は、
事業費が膨らみすぎている。
住民への説明が足りない。
用地取得の進め方にも問題がある。
計画を一度止めろ。
そう主張していた。
そこへ。
市長が議会の修正案を事実上無視する形で、関連予算を再提出。
議会はさらに反発。
ついに。
市長不信任。
という単語が新聞に踊ったわけです。
「不信任って」
私は新聞を畳みました。
「要するに、市長辞めろ、ですよね」
「雑だな」
「でも方向としては」
「まあな」
「議会で可決されたら、市長は失職」
相馬先輩がこちらを見ました。
「すぐには失職しねえぞ」
「え?」
「お前、また未来の知識以前のところで事故ってるぞ」
「そこまで馬鹿じゃないです!」
「じゃあ言ってみろ」
私は口を開きました。
閉じました。
脳内の行政書士試験テキストが高速でめくられます。
長の不信任。
議会の解散。
数字。
三分の二。
四分の三。
十日。
再議決。
過半数。
「あ」
「出てきたか」
「出ました」
地方自治法。
議会が長に不信任を突きつける。
でも、可決された瞬間に即失職ではない。
長には切り返す手段がある。
議会を解散する。
つまり。
市長に対して、
お前はもう信任できない。
と議会が言う。
すると市長は、
なら、その議会こそ住民に選び直してもらおう。
と言い返せる。
かなり激しい制度です。
「……民主主義、殴り合いが本気ですね」
「だから言い方」
そこで。
事務所の引き戸が勢いよく開きました。
「片桐先生!」
入ってきたのは、四十代くらいの男性でした。
背広。
汗。
そして、かなり焦った顔。
「先生はいらっしゃいますか」
奥から片桐所長が出てきます。
「何でしょう」
「市議会事務局の紹介で……いや、正式な紹介というわけじゃないんですが」
その言い方だけで、役所の中の人だと分かりました。
「名前は」
「高瀬です。市役所の企画課におります」
企画課。
駅前再整備の中心部署です。
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。
「市の人間が、何でうちに?」
高瀬さんは一度ためらってから言いました。
「個人として相談したいんです」
その言葉で、空気が変わりました。
「不信任案が通ったら」
高瀬さんは両手を膝の上で握っていました。
「駅前再整備は、どうなるんでしょうか」
私は少し拍子抜けしました。
市長を助けたい。
議会を止めたい。
そういう相談かと思ったのです。
「事業の行方ですか」
「はい」
「高瀬さんは市長側なんですか」
「違います」
即答でした。
「議会側?」
「それも違います」
「では」
「職員です」
高瀬さんは苦く笑いました。
「選挙で選ばれたわけでもない。ただ、市長が変わっても、議員が変わっても、残った仕事をやる側です」
その一言。
重い。
政治の表舞台では、
信任。
不信任。
解散。
選挙。
派手な単語が飛び交う。
でもその裏では、
契約。
工事。
補助金。
住民説明。
用地交渉。
山ほどの書類が残ります。
「一番困っているのは?」
片桐所長が聞きました。
「市役所の中で、もう噂が走っています」
「何の」
「不信任が可決されたら、市長はその日に辞めるとか」
「間違いだな」
相馬先輩が言いました。
「逆に、市長は必ず議会を解散するとか」
「それも決まってねえ」
「議会を解散したら、不信任はなかったことになるとか」
「それも違う」
相馬先輩の返答が三連発。
高瀬さんが額を押さえます。
「ですよね……」
「誰がそんな適当な話を流してるんです?」
私が聞くと、高瀬さんは困ったように笑いました。
「役所です」
なるほど。
役所の噂話。
法令集より早く広まり、
法令集より信用され、
法令集よりだいたい雑。
「それで」
高瀬さんは鞄から紙を出しました。
「企画課長から、今後の事業継続について整理しろと言われました」
「法的整理を?」
「はい。市長が失職する場合、議会が解散する場合、どこで何が止まるのか」
片桐所長が紙を受け取ります。
「行政書士に市役所内部の法律意見書を頼む気か」
「いえ」
高瀬さんは慌てました。
「これは個人的な相談です。正式には法務担当が整理します。ただ……」
「ただ?」
「総務課の沢渡課長に聞いたら」
嫌な予感。
「『まず地方自治法を読め』と」
私は思わず吹き出しそうになりました。
沢渡課長。
相変わらずです。
「それで、読んだんですが」
「分からなかった?」
「数字ばかりで」
分かる。
非常によく分かる。
地方自治法のこの辺り。
読んでいると急に数字の森になります。
「不信任って、普通の議決と違うんですよね」
「違います」
私が答えました。
「かなり重い要件です」
「どれくらい」
私は指を折ろうとしました。
その瞬間。
相馬先輩が言いました。
「待て」
「何です?」
「お前が説明する前に、そいつから聞け」
「試験みたいですね」
「現場だ」
高瀬さんへ向き直ります。
「議員は何人だ」
「二十四人です」
「不信任案に賛成しそうなのは」
「報道では十八人」
私は反射的に計算しました。
二十四人。
三分の二以上出席。
つまり最低十六人。
そして。
出席議員の四分の三以上の同意。
「十八人賛成なら通りますよね」
高瀬さんが言いました。
「全員出席なら」
私は答えました。
「十八人でちょうど四分の三です」
「じゃあ可決ですね」
「まだです」
片桐所長が言いました。
高瀬さんが振り向きます。
「まだ?」
「本当に二十四人全員が出るか」
「……分かりません」
「不信任議決は、ただ賛成者を数えればいい話じゃない」
所長が静かに続けました。
「まず出席要件がある」
議員数の三分の二以上。
そのうえで。
出席議員の四分の三以上の同意。
普通の多数決とは違う。
なぜか。
長を辞めさせる可能性がある。
しかも議会自身の解散にもつながり得る。
町の二つの代表機関が正面衝突する制度だからです。
「つまり」
私は言いました。
「市長が気に入らない議員が半分ちょっと集まった程度じゃ、不信任にはできない」
「そうだ」
相馬先輩が頷きます。
「重いんですね」
高瀬さんが呟きました。
「相当重いです」
私は答えました。
ここで。
現代の私は、つい思いました。
首長と議会がここまで揉めたなら、
第三者機関。
調整機関。
何か制度的に間に入るものは――
と。
「所長」
「何だ」
「こういう長と議会の対立って、国との紛争みたいに係争処理の――」
片桐所長の視線が止まりました。
あ。
やった。
「こはる」
「はい」
「今は昭和六十三年だ」
「ですよね」
「国地方係争処理委員会なんてものはない」
「ですよね……」
相馬先輩が笑いました。
「また未来から便利な役所持ってきたのか」
「未来にはあるんです」
「今日はねえ」
「はい」
未来人。
本日一個目の地雷。
地方自治法は、時代を間違えると制度ごと存在しません。
私は気を取り直しました。
「じゃあ、当時は」
「当時も何も」
相馬先輩が言います。
「長と議会がここまで衝突したら、最後は住民に返すんだよ」
「住民に?」
「選挙だ」
なるほど。
議会が長を不信任。
長は議会を解散できる。
解散すれば議員選挙。
新しい議会ができる。
その新しい議会がもう一度、
やっぱり市長を信任しない。
そう判断したなら。
今度は長が失職する。
「……かなり潔い制度ですね」
「血を見る前に票を数える制度だ」
「相馬先輩、表現が怖いです」
午後。
今度は逆方向から相談が飛び込んできました。
「不信任案を通したら、市長はすぐ辞めるんですよね?」
来たのは、市内の商店会長。
宮坂善一さん。
駅前で時計店を営む六十二歳。
再整備計画に反対する住民グループの世話役でもあります。
「誰から聞きました?」
相馬先輩が聞きます。
「議員さん」
「どの議員だ」
「それは……」
「言えねえならいい」
相馬先輩は煙草をくわえました。
「ただし、その議員に伝えとけ。地方自治法読めって」
今日二回目。
法律相談というより読書推進運動です。
「違うんですか?」
宮坂さんが身を乗り出しました。
「不信任が可決されたら、市長は終わりなんでしょう?」
「終わる場合はあります」
私が答えます。
「ただし、すぐ失職とは限りません」
「じゃあ何をするんです」
「市長には、議会を解散する権利があります」
「……議会を?」
「はい」
「そんなことできるんですか」
「不信任議決を受けた場合です」
宮坂さんの顔から血の気が引きました。
「じゃあ、こっちが市長を辞めさせようとしたら」
「市長が議員を全員、選挙に戻すことができる」
「全員?」
「議会そのものを解散しますから」
宮坂さんは椅子にもたれました。
「それじゃ議員さんたち、自分の首も賭けてるってことですか」
「そういうことです」
不信任議決。
単なる批判決議ではない。
市長に辞めろと言うなら、
市長から、
ならお前たちも住民に選び直してもらえ。
と返される可能性がある。
だから重い。
「でも」
宮坂さんが言います。
「市長が議会を解散したら、不信任は消えるんでしょう?」
「消えません」
「え?」
「一回目の不信任を受けて解散したあと、新しい議会が選ばれます」
「はい」
「その議会で、もう一度不信任議決が成立したら」
私は言葉を切りました。
「市長は失職します」
「また解散すれば?」
「できません」
「え?」
「同じ仕組みで延々と解散し続けることはできないんです」
ここ。
制度の一番すごいところかもしれません。
一度目。
議会が長に不信任。
長は、
その議会の判断が本当に民意なのか。
と問い返す。
議会を解散。
選挙。
そして新しい議会。
そこで再び不信任が成立する。
なら。
住民が議会を選び直したあとでも、
なお長を信任しないという結論になった。
今度こそ、長は去る。
「なるほど……」
宮坂さんが低く呟きました。
「一回だけ、聞き返せるんですね」
私はその表現に思わず顔を上げました。
「聞き返す?」
「議会が市長に『辞めろ』と言う」
「はい」
「市長が『それ、本当に町の人の意思か』って、選挙で一回だけ聞き返す」
うまい。
すごくうまい。
受験テキストより分かりやすい。
「それです」
私は思わず言いました。
「たぶん、それが一番近いです」
相馬先輩が横で笑います。
「お前、客に教わってんじゃねえか」
「法律は伝わればいいんです!」
宮坂さんも少し笑いました。
でも、すぐ真顔になります。
「先生」
片桐所長に向き直ります。
「うちの商店会としては、不信任に賛成する議員を応援しようと思ってました」
「それは政治活動の話だ」
「分かっています。ただ」
宮坂さんは拳を握りました。
「市長を辞めさせれば計画が止まると思ってた」
そこです。
片桐所長の顔が少し険しくなりました。
「それは別の話だ」
「え?」
「市長が失職しても、事業が自動的に消えるわけじゃない」
「でも市長が進めた計画ですよ」
「市長個人の私物じゃない」
所長の声は静かでした。
「議会で成立した予算。締結済みの契約。市として行った手続。それぞれ別に見る必要がある」
宮坂さんが黙ります。
人を辞めさせれば、
政策も全部消える。
そんな単純な話ではない。
行政は個人より大きい。
選挙で人が入れ替わっても、
昨日まで市がしたことが全部蒸発するわけじゃない。
「じゃあ」
宮坂さんが言います。
「不信任って、計画を止める道具じゃないんですか」
「違う」
相馬先輩が即答しました。
「長を信任できるかどうかを決める制度だ」
「でも原因は駅前計画です」
「原因が何であろうと、不信任制度そのものは政策一個を潰すボタンじゃねえ」
まったくそのとおりです。
地方自治法を、
政治的な必殺技だと思うと危ない。
制度には制度の目的がある。
翌日。
私たちは市役所へ行きました。
総務課。
沢渡課長は、机の上に分厚い地方自治法の本を開いていました。
「また来ましたか」
「そっちが町中を騒がせてるんでしょう」
私が言うと、
沢渡課長は眼鏡の奥からこちらを見ました。
「私が不信任案を出したわけではありません」
「でも総務課、大変ですよね」
「大変かどうかは職務と関係ありません」
この人。
台風の日でも、
雨が降っていますね。
くらいの顔をしていそうです。
「課長」
片桐所長が言いました。
「不信任案、提出されるのか」
「議会のことです」
「総務には情報が来てるだろ」
「正式な議案になるまでは申し上げられません」
鉄壁。
相馬先輩が椅子に座ります。
「じゃあ一般論だ」
「どうぞ」
「不信任議決が成立したら、議長はどうする」
「直ちに市長へ通知します」
「市長は」
「通知を受けた日から十日以内に議会を解散できます」
「解散しなかったら」
「十日が経過した日に失職します」
淡々。
行政法の朗読機です。
私は手帳に大きく、
十日。
と書きました。
「十日間って」
私は聞きました。
「考える時間なんですか」
沢渡課長がこちらを見ます。
「法律上は、解散するか否かを長が判断できる期間です」
「かなり長いですよね」
「十日が?」
「政治的には」
不信任を突きつけられた市長が、
十日間。
辞めるか。
議会を解散するか。
考える。
市役所の中は地獄でしょう。
「課長」
「何でしょう」
「その十日間、市長はまだ市長ですよね」
「当然です」
「失職はしていない」
「はい」
「つまり、役所としては普通に行政を続ける」
「法的にはそうです」
高瀬さんの相談が頭に浮かびました。
不信任可決。
その瞬間、行政が全部止まる。
ではない。
十日間の間も、市長は在職する。
そして解散すれば、市長はその時点で失職するわけではない。
議員選挙が行われる。
「じゃあ」
私は続けました。
「解散後の選挙で、新しい議会ができる」
「はい」
「その最初の議会で、再び不信任」
「成立要件が変わります」
「ですよね」
ここ重要。
一回目。
議員数の三分の二以上が出席。
その出席議員の四分の三以上の同意。
かなり高い壁。
でも。
解散後、新たに選ばれた議会で再び不信任を議決する場合。
出席要件は同じ。
議員数の三分の二以上。
ただし。
同意は。
「過半数」
私は言いました。
「そうです」
沢渡課長が答えました。
「四分の三じゃない」
「はい」
「二回目は、過半数でいい」
「新たな議会が選挙を経て成立していますから」
なるほど。
数字だけ暗記すると、
何で二回目だけ軽くなるの。
と混乱します。
でも流れで見ると分かる。
一度目は、
本当に長を追い出すほど議会の意思が強いのか。
高いハードルを課す。
そこで長が解散。
住民が議会を選び直す。
それでも新しい議会が不信任を突きつける。
そこまで民意を一度挟んだなら、
再び四分の三まで要求しない。
「うまくできてますね」
私が呟くと、
相馬先輩が鼻で笑いました。
「試験問題としてか?」
「制度としてです!」
沢渡課長がページを閉じました。
「朝比奈さん」
「はい」
「誤解しないほうがいい」
「何をです?」
「これは議会と長が互いを脅すための制度ではありません」
「分かってます」
「本当に?」
「……たぶん」
「不信任も解散も、最後には住民の意思へ戻る仕組みです」
敵側から今日一番のきれいな説明が来ました。
私は少し悔しい。
「課長、それノートに書きたいです」
「何ですか、それは」
「気にしないでください」
そのとき。
廊下の向こうが騒がしくなりました。
議会事務局の職員が二人、足早に歩いてきます。
紙束。
封筒。
朱肉。
空気が明らかに違う。
沢渡課長が立ち上がりました。
「何かありました?」
私は聞きます。
「議案が正式に出たようですね」
「不信任?」
「おそらく」
相馬先輩が窓の外を見ました。
市役所前には記者が集まり始めています。
「来たな」
来た。
教科書の文章ではありません。
本当に。
市長不信任案。
町のトップと議会が、制度の上で正面からぶつかる。
「課長」
片桐所長が言いました。
「採決はいつだ」
「明日の臨時会です」
明日。
急です。
いや。
政治は、動くときはこういうものなのかもしれません。
翌日。
市議会傍聴席。
私は隅の席に座っていました。
隣に相馬先輩。
「何で私まで」
「勉強だ」
「現場研修の範囲が広いんですよ」
「地方自治法を現場で見たいんだろ」
「見たいですけど」
議場。
二十四の議席。
市長席。
議長席。
新聞記者。
傍聴人。
商店会の宮坂さんも来ています。
企画課の高瀬さんは、議場の後ろで職員として控えていました。
議事が進みます。
やがて。
不信任議案。
提案理由。
駅前再整備事業の進め方。
議会への説明不足。
予算執行への不信。
議会軽視。
反対討論。
市政の停滞。
政治的混乱。
選挙目的の政争。
賛成討論。
議会の責任。
住民への説明責任。
言葉が次々飛びます。
私は正直、
半分くらいしか頭に入りませんでした。
なぜなら。
別のことを数えていたからです。
一。
二。
三。
出席議員。
「二十三」
私は小声で言いました。
「数えるな、見れば分かる」
相馬先輩が囁きます。
「大事なんです」
二十四人中、二十三人出席。
三分の二以上。
出席要件は満たす。
問題は。
四分の三。
二十三人の四分の三以上。
端数。
私は頭の中で計算します。
十七・二五。
つまり十八人必要。
報道どおりなら賛成十八。
ぎりぎりです。
投票。
静か。
紙の擦れる音。
集計。
議長が結果を読み上げました。
賛成。
十八。
反対。
五。
一瞬。
議場が止まりました。
そして。
ざわめき。
「成立した」
私は呟きました。
「ああ」
相馬先輩が答えます。
ぴったり十八。
四分の三を一票でも割れば届かなかった。
長を不信任とする意思が、
数字になった瞬間でした。
私は市長席を見ました。
市長は動きません。
机の上の紙を見ている。
議長が閉会を告げたあと。
議長は市長に対し、不信任議決の旨を通知する手続へ移ります。
ここから。
十日。
時計が動き始める。
市役所を出ると、
宮坂さんが駆け寄ってきました。
「通りましたね!」
「はい」
「これで市長は――」
「まだです」
私が言いました。
宮坂さんが止まります。
「まだ?」
「今日、不信任議決は成立しました」
「ええ」
「でも市長には選択があります」
十日以内。
議会を解散するか。
解散しないか。
「解散しなければ」
宮坂さんが言います。
「十日たったら失職」
「はい」
「解散したら」
「議員選挙です」
宮坂さんは議会棟を振り返りました。
さっきまでそこにいた議員たち。
市長に辞めろと言った。
今度は。
自分たちが全員、住民に審判を受けるかもしれない。
「怖い制度ですね」
「そうですね」
「誰にとって?」
私は少し考えました。
「たぶん、全員に」
議会にも。
市長にも。
そして住民にも。
選び直せ。
と言われれば、
最後に答えを出すのは住民だからです。
三日後。
片桐行政書士事務所。
朝から電話が鳴り続けていました。
「はい、片桐行政書士事務所――え? 議会解散したら陳情はどうなるか? 議会事務局に確認してください」
切る。
また鳴る。
「はい――市長の任期? それは……ちょっと待ってください!」
「お前、何で市役所の案内係になってんだ」
相馬先輩が笑います。
「町中が混乱してるんですよ!」
また電話。
今度は高瀬さんでした。
『朝比奈さん、市長が会見します』
「今日?」
『正午です』
「解散?」
『分かりません』
電話を切る。
時計。
十一時四十分。
「行くぞ」
相馬先輩が立ち上がりました。
「どこへ」
「市役所」
「またですか」
「嫌なら留守番してろ」
「行きます!」
市役所一階。
記者会見。
人垣の向こう。
市長が原稿を置きました。
「先般の不信任議決について、市議会の判断は厳粛に受け止めています」
静かです。
「しかし」
来た。
「今回の議決が、市民全体の意思を反映したものであるかについては、改めて市民の判断を仰ぐ必要があると考えます」
ざわめき。
「本日付で」
私は息を止めました。
「市議会を解散します」
フラッシュ。
声。
記者の質問。
市役所の廊下までざわつきます。
「本当にやった」
私は言いました。
「ああ」
相馬先輩が短く答えました。
不信任。
解散。
教科書では矢印一本。
でも現実では。
二十四人の議員全員が議席を失う。
選挙になる。
選挙費用もかかる。
後援会が動く。
町中の掲示板が候補者の顔で埋まる。
そして。
市長は残る。
少なくとも今は。
「十日待たなかったんですね」
「十日以内だからな」
「即解散」
「判断したんだろ」
その後ろ。
沢渡課長が廊下を歩いてきました。
「課長!」
「大声を出さないでください」
「本当に解散しましたね」
「今、市長が言ったでしょう」
「役所、大混乱ですよね」
「通常業務を続けます」
「強い」
沢渡課長は足を止めました。
「朝比奈さん」
「はい」
「さっきの会見を見て、市長が勝ったと思いましたか」
「え?」
「議会を解散した。だから市長の勝ちだと」
私は少し考えます。
たぶん。
三日前までの私なら、
そう思ったかもしれない。
不信任されても。
解散で反撃。
議会は全員失職。
市長は残る。
派手です。
どう見ても切り返し。
でも。
「まだですよね」
「何が」
「終わってない」
沢渡課長が黙ります。
「次は議会選挙」
「はい」
「住民が議員を選び直す」
「はい」
「その新しい議会で、また不信任が出る可能性がある」
「あります」
「今度は」
私は言いました。
「三分の二以上が出席して、その過半数が賛成すれば成立する」
「そうです」
「そして、その場合」
沢渡課長が続けました。
「市長は、議長から通知を受けた日に失職します」
逃げ道はない。
二回目。
選挙を挟んだあとの不信任。
そこまで来たら、
もう解散で返せない。
「だから」
私は呟きました。
「解散って、勝ちじゃないんだ」
沢渡課長が眼鏡を直しました。
「問い直しです」
「問い直し?」
「本当に議会の判断が住民の意思なのか。選挙で問い直す」
またこの人。
法理編向きのことを言います。
「課長」
「何です」
「その説明、すごく分かりやすいです」
「ありがとうございます」
「珍しく素直」
「朝比奈さん」
「はい」
「仕事の邪魔です」
「すみません」
それから町は選挙になりました。
駅前。
商店街。
住宅地。
候補者の車が走る。
市長派。
反市長派。
計画推進。
計画見直し。
でも。
私は少し違う目で見るようになっていました。
これは単に、
市長派対反市長派。
ではない。
一度、不信任をした議会が解散され。
住民が、
もう一度議員を選ぶ。
その新しい議会が、
市長を信任するのか。
しないのか。
そのための選挙でもある。
「地方自治って」
私はポスター掲示板を見ながら言いました。
「住民が最後に呼び出されるんですね」
「最初から主役だ」
相馬先輩が言います。
「でも普段は出てこない」
「毎日選挙してたら仕事にならねえからな」
「それもそうです」
選挙結果。
二十四議席。
旧議員の多くが再選。
ただし。
不信任に反対した五人のうち三人が落選。
新しく当選した候補の大半が、
駅前再整備の再検討を公約に掲げていました。
「……これ」
私は朝刊を見ました。
「また来ますね」
「ああ」
相馬先輩が新聞を畳みます。
「不信任」
「たぶんな」
そして。
解散後、初めて招集された議会。
私はまた傍聴席にいました。
「完全に趣味になってるぞ」
「勉強です!」
議席には新しい顔。
前と同じ顔。
でも。
空気は違います。
不信任議案。
再び提出。
出席議員。
二十四人。
三分の二以上。
当然満たす。
そして。
今度必要なのは。
四分の三ではない。
過半数。
「十三あれば通る」
私は小声で言いました。
「二十四ならな」
採決。
賛成。
十五。
反対。
九。
成立。
前回なら。
十五では足りなかった。
四分の三。
十八必要だった。
でも今回は違う。
選挙を挟んだ。
新しい議会が選ばれた。
その議会での再度の不信任。
過半数。
成立です。
議長が市長へ通知します。
その日。
市長は失職しました。
静かでした。
前回みたいな爆発するようなざわめきはなかった。
みんな。
分かっていたからかもしれません。
ここまで来たら。
もう一度解散するという選択はない。
住民が議会を選び直し。
その議会がなお、
この市長を信任しない。
そう判断した。
制度としては、
そこで答えが出た。
夕方。
片桐行政書士事務所。
宮坂さんがやってきました。
でも。
前みたいに喜んではいませんでした。
「市長、辞めましたね」
「はい」
「これで駅前計画、止まりますか」
私はすぐには答えませんでした。
前なら。
たぶん、
止まるんじゃないですか。
と言いそうでした。
でも今は違います。
「市長が辞めたことと」
私は言いました。
「駅前計画がどうなるかは、別です」
「そうでしたね」
宮坂さんが笑いました。
「前にも言われました」
「次の市長がどう判断するか。議会が予算をどうするか。既に進んだ契約や手続がどうなっているか。一つずつ見ないと」
「面倒だなあ」
「地方自治ですから」
「答えになってないよ」
「私も今そう思いました」
相馬先輩が鼻で笑います。
宮坂さんは少し黙りました。
「でも」
「はい」
「不信任って、もっと乱暴なものだと思ってました」
「市長を追い出す制度?」
「そう」
「私もです」
宮坂さんは窓の外を見ました。
「一回目は、議会が市長に辞めろと言う」
「はい」
「市長は、じゃあお前らこそ選び直してもらえって返す」
「はい」
「町の人が議員を選び直す」
「はい」
「それでも新しい議会が、やっぱり市長は駄目だと言ったら」
「市長が失職する」
「ずいぶん回りくどいですね」
「回りくどいです」
「でも」
宮坂さんは笑いました。
「大事なことを決めるなら、そのくらい回りくどいほうがいいのかもしれないな」
私は少しだけ黙りました。
確かに。
市長も選挙で選ばれた。
議員も選挙で選ばれた。
どちらも住民の代表。
だから。
片方がもう片方を簡単に消せてはいけない。
議会が長を辞めさせるには、
最初は極めて重い多数が必要。
長は議会を解散して民意を問い直せる。
そして。
選び直された議会がなお不信任を突きつけたら、
今度は長が去る。
政治家同士の喧嘩。
そう見えて。
制度の真ん中にいるのは、
ずっと住民でした。
その夜。
高瀬さんが事務所へ顔を出しました。
「お世話になりました」
「何もしてませんよ、私たち」
「いや」
高瀬さんは笑いました。
「不信任が通ったら役所が止まると思ってました」
「止まりませんでしたね」
「議会が解散しても止まらなかった」
「はい」
「市長が失職した今日も、明日のゴミ収集はあります」
その言葉に、
私は妙に胸を打たれました。
政治が大揺れしても。
ゴミは出る。
水道は出る。
保育園は開く。
戸籍の届出は来る。
道路の穴は直さなければならない。
地方自治って。
巨大な理念の話である前に。
毎日の生活を止めない仕組みでもあるんだ。
「駅前再整備は」
片桐所長が聞きました。
「一旦、執行状況を整理するそうです」
「全面停止か」
「いえ。契約済み部分と未着手部分を分けます。次の市長が決まるまで、必要最小限の手続だけ進めると」
「そうか」
高瀬さんが立ち上がります。
「市長が一人いなくなっても、市はなくならないんですね」
相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。
「当たり前だ」
「分かってたつもりなんですが」
「役所にいると、長の名前が全部の文書に出てくるからな」
「そうなんです」
高瀬さんは笑いました。
「でも、今日ようやく分かりました」
「何がです?」
「市長も議会も、市そのものじゃない」
その言葉。
私は覚えておこうと思いました。
高瀬さんが帰ったあと。
私は新聞を畳みました。
一面には、
――市長失職。
という大きな文字。
その横に、
――次期市長選へ。
もう次です。
政治は止まりません。
「所長」
「何だ」
「不信任制度って」
「うん」
「議会が市長を倒す制度じゃないんですね」
「何だと思った」
「最初は、議会の必殺技みたいなものかと」
「漫画の見すぎだ」
「でも解散権もあるし」
「それも必殺技じゃない」
「はい」
私は指で机を二回叩きました。
「お互いが、お互いを簡単には消せない」
「そうだ」
「最後は住民に問い直す」
「そうだ」
「一回目は重い多数で不信任」
「うん」
「長は十日以内に議会解散」
「うん」
「解散しなければ、十日経過で失職」
「うん」
「解散したら選挙」
「うん」
「その新議会で再度不信任。今度は三分の二以上出席、過半数賛成」
「うん」
「成立すれば、通知の日に長が失職」
片桐所長が頷きました。
「覚えたな」
「はい」
受験生時代。
三分の二。
四分の三。
十日。
三分の二。
過半数。
私はこれを数字の列として覚えていました。
意味不明。
似ている。
間違える。
嫌い。
でも今は。
数字の向こうに議場が見えます。
二十四人。
二十三人出席。
十八票。
不信任。
十日間。
解散。
選挙。
新議会。
十五票。
失職。
数字は、
住民の代表同士が互いを簡単に排除しないための鍵だった。
「今日の教訓」
相馬先輩が言いました。
「急ですね」
「どうせノートに書くんだろ」
「明日まで取っておきたいんですけど」
「今言え」
私は少し考えました。
「不信任は、市長を追い出すボタンじゃない」
「うん」
「解散も、議会を黙らせるボタンじゃない」
「うん」
「どっちも」
窓の外。
選挙ポスターを剥がす作業員が見えます。
「最後に住民へ聞き返すための仕組み」
相馬先輩が少しだけ笑いました。
「まあ、悪くねえ」
「褒めました?」
「気のせいだ」
またそれです。
私は椅子から立ち上がりました。
「じゃあ帰ります」
「待て」
片桐所長が言います。
「はい?」
「新聞、片づけろ」
「明日使います」
「片づけろ」
「不信任です」
「誰に対する」
「所長に」
「成立要件は」
しまった。
私は事務所を見回しました。
所長。
相馬先輩。
私。
三人。
「ええと」
議員数。
三人だとして。
三分の二以上出席。
三人全員いる。
その四分の三以上。
二・二五。
つまり三人必要。
私は相馬先輩を見ました。
「先輩。所長不信任に賛成してください」
「嫌だ」
「あと一票なんです!」
「俺を巻き込むな」
「じゃあ成立しない!」
片桐所長が静かに新聞を指しました。
「片づけろ」
「強い……」
相馬先輩が笑います。
「民主主義は数だな」
「うちの事務所、少数派に厳しすぎません?」
「嫌なら解散するか?」
「事務所を!?」
「お前だけ帰れ」
「それは解散じゃなくて退勤です!」
結局。
私の不信任案は、
四分の三の壁を越えられませんでした。
地方自治法が、
長を簡単に辞めさせない理由。
その日の私は。
新聞紙の山を片づけながら、
妙に深く理解することになったのでした。
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